もうちっとだけハッピーにするんじゃ   作:加賀美ポチ

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ご注文はハッピーエンドですか?

 朝は、バターの匂いから始まった。

 タワーマンションの高層階にあるリビングには、まだ夜の名残が薄く残っている。

 窓の外では、眠りから覚めきらない街が淡い光を浴びて、硝子細工のように青白く霞んでいた。

 道路を走る車の列も、遠くのビル群も、ここから見ると音を失った模型のようで、現実感よりも先に静けさが来る。

 

 しかし、キッチンだけは違った。

 フライパンの上でバターが溶け、細かい泡を立てながら卵液を受け止めている。

 焼き色のつき始めたパンケーキからは、小麦とミルクと砂糖の甘い香りが立ち上り、オーブンの中ではチーズを散らしたベイクドトマトが、ゆっくりと表面を艶やかにしていた。

 刻んだパセリ、黒胡椒、温めたクリーム、焦げかける直前のベーコン。

 朝食の匂いが、まだ整いきっていないリビングへ少しずつ広がっていく。

 

 その中心に、金髪の美少女がいた。

 腰まで届きそうな金の髪を、今日は後ろでひとつにまとめている。

 朝日に透ける髪の端は、蜂蜜を薄く流したように柔らかく光り、白いエプロンの肩紐が、その髪の下で少しだけ隠れていた。

 彼女は鼻歌を歌いながら、フライパンの上のパンケーキへ視線を落としている。

 歌詞のない旋律だった。どこかで聞いたことのある歌のようでもあり、今ここで焼けていくパンケーキの匂いから即興で生まれた歌のようでもあった。

 

「んー、ここ。このタイミングで返したら絶対かわいい焼き色になるっしょ」

 

 金髪の少女は、まるでフライパンの中の生地と会話するように呟いた。

 その隣で、巡が静かに卵を混ぜていた。

 彼の手元には、彩りの違ういくつもの食材が並んでいる。

 卵、牛乳、クリーム、細かく刻んだマッシュルーム、ほうれん草、ベーコン、それから小さなボウルに入ったハーブ。

 巡はそれらをひとつずつ、決まった順番で扱っていた。

 動きに派手さはない。けれど無駄がなかった。

 卵液を泡立てすぎないように混ぜ、火加減を確認し、フライパンの余熱を見てから、ベーコンを焼いた後の脂を少しだけ残す。

 かぐやが甘い朝の匂いを作っているなら、巡は塩気と香ばしさの輪郭を整えているようだった。

 

「巡、そっち何作ってるの?」

 

 金髪の少女が、パンケーキを返しながら訊いた。

 生地は崩れることなく半回転し、淡いきつね色の面を上にして、柔らかな音とともにフライパンへ着地した。

 端に埋め込まれたブルーベリーからは紫色の果汁がわずかに滲み、表面の小さな気泡を朝焼けのように染めている。

 

「マッシュルームとほうれん草のミニオムレツ。それから、ベビーリーフとアボカドのサラダ。ヤチヨが昨日食べたいと言っていたから、小さなフレンチトーストも一枚だけ」

「うえっ、フレンチトーストまで作ってたの?」

「うん。パンケーキがあるから、甘さは少し控えめにしてあるよ」

「ずるくなーい」

「ずるい?」

「巡、ヤチヨに甘すぎないかって話っ」

 

 かぐやは頬を膨らませた。

 もっとも、口を尖らせても手元の動きは止まらない。

 焼き上がったパンケーキを皿へ移し、空いたフライパンへ次の生地を流し込む。

 今度は彩葉の分らしく、一回り小さな円を描いた。

 その中央へブルーベリーを三粒置き、竹串の先で位置を整える姿は、食卓に乗せる小さな星座を組み立てているようだった。

 

 巡はその横で、一口大に切って焼いたパンをフライパンから取り上げる。

 表面には淡い焦げ色がつき、卵液を含んだ内側は、まだ柔らかく膨らんでいた。

 

「かぐやにも十分甘いつもりだけど。はい、味見」

「きゃっほーい。さすが巡、かぐや印の花丸あげちゃうよ!」

 

 落とさないよう下へ手を添えて差し出されたフレンチトーストへ、かぐやは迷いなく食いついた。

 小さな一切れを迎える口元には、つい先ほどまで浮かべていた不満など跡形もなく、期待だけが無邪気に滲んでいる。

 

「んぐんぐ……んまーい!」

 

 表面の砂糖には、ごく薄い焦げの香ばしさがあり、その下から卵と牛乳を含んだ柔らかな甘みがほどけていく。

 かぐやは何度も頷き、瞳を輝かせ、肩まで弾ませながら喜びを全身で表現した。

 つまみ食いは料理人の特権だ。

 そう言わんばかりの顔だった。

 

「これ、ヤチヨも絶対好きだよ」

「なら良かった」

「でも寝起きヤチヨ用なら、もうちょっと甘くしてもよくない? ヤチヨ、朝は糖分から起動するところあるし」

「甘さなら、かぐやのパンケーキもあるからね。両方食べて、ちょうどいいくらいにしたよ」

「おお。ちゃんとかぐやのパンケーキまで計算に入ってる」

「それはもちろん」

 

 巡の返事は穏やかだった。

 四年が過ぎても、彼の手つきは相変わらず静かだった。

 料理一つ取っても急ぐ様子はないのに、手順のどこにも停滞がない。混ぜる、注ぐ、火を見る、待つ。

 その一つ一つが必要な場所へ必要な分だけ置かれ、流れの中で自然に完結していく。

 

 けれど、昔のように自分を景色の外へ追いやってはいなかった。

 かぐやと同じ台所に立ち、パンケーキが焦げそうになれば声をかけ、味見を求められれば笑って差し出す。

 巡は今、誰かの生活を傍らから支えるだけではなく、その生活の中に自分の居場所を持っていた。

 かぐやはそれが嬉しくて、胸の内側を羽根で撫でられるようなくすぐったさを覚えた。

 

 四年前には、この光景はまだ願いだった。

 フライパンを握る指も、バターの香りへ鼻を動かす仕草も、焼き上がったものを口へ運び、美味しいと笑うことも、すべてツクヨミの中か、記憶の中か、研究計画書の果てにしか存在していなかった。

 けれど今は、熱を感じる手があり、匂いを吸い込む肺があり、甘さに頬を緩める身体がある。

 金髪の少女は、朝日の差す現実の台所で、当たり前の顔をしてパンケーキを焼いていた。

 

「かぐや、彩葉の分はそれで最後?」

「あと小さいのを一枚。昨日は帰りが普段より遅かったから、今朝はちょっと眠そうだと思うんだよね」

「オムレツも小さめにしておくよ。食欲があれば、あとから追加すればいいから」

「クリームも横に少しだけ。彩葉、ちゃんと残せるようにはなったけど、最初から食べやすい量の方が気持ちいいでしょ」

「そうだね」

 

 四年前なら、彩葉の朝食について交わされる会話は、もっと切迫したものになっていただろう。

 眠れているのか。

 倒れないか。

 食べる余裕があるのか。

 今日も身体を限界まで使い潰そうとしていないか。

 だが、今の彩葉は違う。

 起床と就寝の時間を決め、食事を抜かず、研究所へ行く前には必ず朝食を摂る。

 休日には仕事用の端末を閉じ、かぐややヤチヨと出かけ、巡と一緒に料理をしたり、何もせずソファで映画を観たりする。

 

 もちろん、研究が面白くなれば時間を忘れかけることはある。

 かつて自分の身体を後回しにしていた癖が、完全に消滅したわけでもない。

 しかし、その兆候が見えた瞬間、巡が時計を指差し、かぐやが端末を取り上げ、ヤチヨが彩葉の椅子ごと研究室の外へ運ぼうとする。

 三人を突破して不摂生へ辿り着くのは、いまや彩葉本人にとっても相当困難な仕事だった。

 

「昨日の彩葉、寝たのはいつもより一時間くらい遅かったんだっけ?」

「うん。大学院の面談資料を直していたから。でも、日付が変わる前には寝ていたよ」

「なら、今日は眠気がちょっと残ってるくらいか」

「そうだと思う。無理をしていたわけじゃないよ」

 

 巡は言葉を選ぶように、柔らかく付け加えた。

 彩葉の体調を過剰に心配しているのではなく、日々の変化をきちんと見ているのだと伝えるような、落ち着いた声音だった。

 

「もし無理を始めていたら、かぐやたちが止めていたでしょう?」

「当然。かぐやたちの包囲網を甘く見てもらっちゃ困るよ」

 

 かぐやは胸を張った。

 白いエプロンの胸元まで得意げに膨らませ、三人がかりの生活管理体制に一点の隙もないと主張するように、顎をわずかに上げる。

 

「彩葉が『あと十分だけ』って言ったら、端末没収。『ここだけ終わらせる』って言ったら椅子ごと回収。コーヒーで押し切ろうとしたら、ヤチヨがカフェイン管理システムを発動します」

「最後のは、少し過剰だと思うけどね」

「でも効果はあるよ」

「彩葉が相変わらず推しのヤチヨに弱いんだね」

「ヤチヨが猫なで声でお願いすれば、すーぐチョロ葉になって言いくるめられちゃうからね。ちょっと納得いかないけど完璧なシステムだよ」

 

 巡は小さく笑った。

 かぐやは焼けたパンケーキを皿へ移し、その横へヨーグルトを少量添える。

 サラダのボウルには、ベビーリーフ、アボカド、薄く切ったトマトが彩りよく重なっていた。

 ドレッシングは、オリーブオイルとレモン、塩を控えめにしたもの。朝の舌に尖りすぎない、穏やかな酸味だった。

 

「巡、今日の予定は研究所?」

「午前中は研究所。午後は大学側との面談に同席するよ。彩葉が一人だと、教授たちの話を全部真面目に受け止めて疲れてしまいそうだから」

「えー、また大学院?」

「まただね」

「教授たち、諦め悪いなあ」

「彩葉は、諦めてもらうには成果を出しすぎたからね」

 

 巡の声音には、諦めに似た苦笑が滲んでいた。

 かぐやはサラダを軽く混ぜながら、肩をすくめる。

 

「でも彩葉、もう一番大きな目的は叶えたじゃん。かぐやもヤチヨも、こうして現実にいるし」

「だから今度は、その先を期待されているんだろうね」

「世界、欲張りだなあ」

「一度、できないと思っていたことが実現すると、次もできると思ってしまうものだから」

「でも彩葉は、大学院より研究所と家にいたそう」

「うん。かぐやたちとの時間を大切にしたい気持ちも大きいんだと思うよ。四年前は、そこへ辿り着くために、ずっと未来ばかり見ていたから」

「やっと着いたんだから、ちゃんと景色を見たいってこと?」

「たぶんね」

 

 巡は断定しなかった。

 彩葉の心を、本人より先に決めることはしない。

 ただ、四年間をすぐ隣で見てきた者として、もっとも近いと思える言葉を、そっと会話の中へ置いた。

 かぐやは少し考え、それから大きく頷いた。

 

「なら、かぐやは大学院より朝ごはん派。大学は彩葉を研究室に囲い込みたがるけど、朝ごはんはちゃんと彩葉を家に居させてくれるもん」

「制度と食事を同じ秤に載せるのは、少し乱暴じゃないかな」

「でも、人生って制度より先に生活でできてるよ。偉い先生たちに将来を期待される一時間より、四人で同じテーブルを囲む三十分の方が、今の彩葉には必要かもしれないでしょ」

「……そう言われると、かなり筋が通って聞こえるね」

「でしょ? 学位を取る機会はあとにもあるけど、今日の朝は今日しかないんだから」

「……そういわれると、なんだか素敵な考え方だ」

 

 巡が微笑んだ。

 その時、階段の方から、布の擦れる音が届いた。

 

 

 とん、と一段。

 少し間を置いて、また、とん。

 急ぐ気配はなく、完全に目が覚めている様子もない。

 朝食の匂いに身体だけを引っ張られ、意識の半分をまだ枕の上へ置いたまま降りてくるような足取りだった。

 かぐやが、ぱっと顔を上げる。

 

「来た」

 

 巡もフライパンの火を弱めた。

 階段の途中に、銀色の髪が現れた。

 長い銀髪は寝癖のせいで片側だけふわりと膨らみ、いくつかの毛先が頬へ張りついている。

 ゆったりした寝巻きの袖は手の甲まで垂れ、片手は手すりを頼るというより、そこに触れて辛うじて進行方向を確認しているようだった。

 まだ半分ほどしか開いていない瞳よりも先に、鼻がキッチンの方を向く。

 月見ヤチヨ。

 かつてツクヨミの夜空に浮かび、数え切れない視聴者を魅了した白銀の歌姫は、いまでは寝巻きのまま、朝食の匂いに釣られて階段を降りてくる一人の少女だった。

 

「……おはよぉ」

 

 声は湯気のように柔らかく、眠気に輪郭を溶かされている。

 階段を降り切った身体だけが現実へ到着し、意識の半分はまだ枕の窪みに取り残されているようだった。

 

「おはよう、ヤチヨ」

 

 巡が穏やかに返す。

 火加減を見守る手は止めなかったが、ヤチヨが最後の一段を踏み外さないか確かめるように、視線だけは一度そちらへ向けられた。

 

「おはよ、ヤチヨ。顔は洗った?」

「まだ……鼻だけ先に起きました」

「身体の起動順序どうなってるの」

「嗅覚、食欲、発声機能の順です。視覚は現在アップデート中」

「目を開けてから階段を降りてきなよ」

 

 かぐやが呆れて言うと、ヤチヨは「はぁい」と気の抜けた返事をしながら、キッチンの手前まで歩いてきた。

 寝巻きの裾を揺らす足取りはまだ頼りなく、それでも鼻先だけは焼けたバターの匂いを追って、迷いなく朝食へ近づいていく。

 

「今日はなんだいなんだい?」

 

 その問いは、ごくありふれたものだった。

 だからこそ、胸へ届く。

 今日の朝食を尋ねる。自分の席に皿が置かれ、自分の口で味わえることを疑いもしない。

 四年前の彼女が願ったパンケーキも、ツクヨミの中でしか再現できなかった温度も、いまは現実の台所で湯気を立てている。

 かぐやは、待ってましたと言わんばかりに胸を張った。

 

「かぐやが焼いたブルーベリーパンケーキ。ヨーグルトとベリーも添えるよ。それから、アボカドとベビーリーフのサラダ」

「おお……朝からかぐやが彩り豊か」

「料理を褒めてるのか、かぐやを褒めてるのか、どっち?」

「両方」

「よし」

 

 寝起きであっても、ヤチヨはかぐやの扱い方を心得ていた。

 今度は巡へ顔を向ける。

 

「巡は?」

「マッシュルームとほうれん草のミニオムレツ。それと、ヤチヨには小さなフレンチトーストもあるよ」

 

 ヤチヨの瞳が、一瞬で開いた。

 眠気の膜に覆われていた銀色の瞳へ光が戻り、肩から垂れていた力まで、甘い単語ひとつで急速に引き上げられていく。

 

「フレンチトースト!」

 

 先ほどまで夢の底に片足を残していた顔が、そこだけ急速に朝へ追いつく。

 頬には期待が浮かび、視線は巡の手元にある皿へ吸い寄せられ、寝癖さえ喜びに合わせて跳ねたように見えた。

 

「やった、巡。昨日のお願い、覚えててくれたんだね」

「うん。大きくはないけど、パンケーキとサラダもあるから、朝食にはちょうどいいと思うよ」

「かぐやのパンケーキはー?」

 

 かぐやが即座に頬を膨らませる。

 ヤチヨは慌てて金髪の少女へ向き直った。

 

「もちろん嬉しいよ。かぐやのパンケーキは、見た瞬間に朝がちゃんと始まる感じ」

「フレンチトーストは?」

「昨日のお願いが届いてた感じ」

「……褒め方が違いすぎて比較できない」

「どっちも特別ということです」

 

 ヤチヨは両手を広げ、寝巻きの袖をふわりと揺らした。

 いかにも公平な判定を下したと訴える仕草だったが、口元には両方を食べられる者の余裕が、隠しきれずに浮かんでいる。

 

「ヤッチョは今、かぐやのパンケーキと巡のフレンチトーストと、朝からちゃんと野菜を食べる自分の健康的な未来に、三方向から幸福を供給されています。超ハッピーです」

「まだ一口も食べてないでしょ」

「匂いと予定だけでも、先行ハッピーは可能です」

「ヤチヨはいっつもてきとーだなぁ」

 

 かぐやはそう言いながらも、もう機嫌を直していた。

 巡がフレンチトーストを皿へ移す。

 表面には淡い焼き色がつき、中央にはまだ温かさを含んだ柔らかな膨らみが残っている。

 余計な飾りはせず、ベリーを二粒だけ添える。その控えめな一皿を、ヤチヨは宝石でも眺めるような目で見つめた。

 そして、迷いなく手を伸ばす。

 その袖を、かぐやが掴んだ。

 

「顔洗ってから」

「よよよ……」

「寝巻きはいいけど、顔は洗ってきて」

「かぐやが朝からお母さんみたいなのです」

「かぐやは朝食を作った人だから。キッチンにおけるヒエラルキーは頂点に決まってるっしょ」

「パンケーキ権力だ」

「ほら早く行く」

「りょー」

 

 背中を押され、ヤチヨは名残惜しそうに洗面所へ向かい始めた。

 途中で振り返り、巡を見る。

 

「巡、冷めないように守っててね」

「少しだけ冷ました方が、寝起きには食べやすいよ」

「では、最高の温度で」

「うん、任せて」

 

 その返事を受け取ると、ヤチヨはようやく安心したらしい。

 洗面所へ向かいかけてから、それでも未練を断ち切れず、もう一度だけ振り返った。

 

「ヤッチョの分のパンケーキも、最高の状態で保存をお願いします」

「かぐやのパンケーキは、かぐやが責任を持って守ります」

「頼もしきパンケーキ守護者」

「いいから、はよ顔洗ってきなよ」

「よよよ。朝から扱いが雑でヤッチョいと悲し」

 

 口では嘆きながらも、ヤチヨの足取りはどこか楽しげだった。

 寝巻きの裾を引きずらないよう片手で摘まみ、銀髪をふわふわ揺らしながら廊下の奥へ消えていく。

 やがて洗面所の扉が閉まり、ほどなくして蛇口を捻る音がした。

 勢いよく流れ出した水が陶器の洗面台を叩き、両手ですくわれたあと、寝起きの頬へ触れたらしい。

 

「ひゃっ、つめたっ」

 

 間の抜けた声が、扉越しにリビングまで届いた。

 かぐやは肩を揺らして笑いながら、最後の小さなパンケーキへフライ返しを差し込んだ。

 淡い焼き色を確かめ、皿へ重ねる。中央にはブルーベリーを数粒、傍らにはヨーグルトと控えめなクリーム。

 見た目は華やかだが、寝起きの身体に押しつけがましくない分量へ収まっていた。

 

「彩葉のは、これでよし」

「オムレツも焼けたよ」

 

 巡が差し出した皿には、手のひらほどのミニオムレツが載っていた。

 表面は淡い黄色のまま滑らかに整えられ、中にはマッシュルームとほうれん草が包まれている。

 サラダはベビーリーフをひとつかみ、アボカドを数切れ、彩りにトマトを添えただけで、朝食の皿を窮屈にしない量だった。

 かぐやは二つの皿を並べて見比べると、満足そうに頷いた。

 

「よし。見た目かわいい、量もちょうどいい、栄養もある。完璧じゃん」

「少し足りないと言われるかもしれないけどね」

「その時は追加で焼けばいいっしょ。彩葉の胃に、起き抜けから完食の使命を背負わせる必要ないもん」

「うん。それがいいと思うよ」

 

 巡は残った生地のボウルへラップをかけ、冷蔵庫へ入れた。

 食べられるなら追加する。食欲がなければ、無理をさせない。

 たったそれだけのことを、二人はわざわざ相談し、皿の上へ反映していた。

 

 彩葉はもう、放っておけば倒れる寸前まで働き続ける少女ではない。

 食事の時間を守り、日付が変わる前には端末を閉じ、睡眠時間が不足しそうなら翌日の予定を組み替える。

 かつて自分の身体を消耗品のように扱っていた癖は、四年のあいだに少しずつ解かれていた。

 

 ただし、それは彩葉一人の努力だけで成し遂げたものでもなかった。

 巡が時計を見る。

 かぐやが食事を用意する。

 ヤチヨが「ヤッチョの権限により本日の研究は終了です」と勝手に端末を閉じる。

 三人の監視をすべて潜り抜けて不摂生へ至ろうとするなら、それ自体が新しい研究課題になりかねないほどの困難が伴った。

 

「ドレッシング、もう少しレモン入れる?」

 

 かぐやが小さなボウルを覗き込む。

 レモンの香りを確かめるように鼻先を近づけ、彩葉の寝起きの舌へどの程度の酸味なら心地よいか、真剣な顔で思案していた。

 

「今朝はこのくらいでいいと思う。酸味が強いと、起きてすぐには食べにくいかもしれないから」

「ん、じゃあこれで完成」

 

 かぐやはサラダへドレッシングを細く回しかけた。

 オリーブオイルをまとった葉が、窓から差し込む朝の光を受け、朝露に濡れたような艶を帯びる。

 そこへ、洗面所から鼻歌が聞こえてきた。

 先ほどまでかぐやが歌っていたものと、よく似た旋律だった。

 まったく同じではない。音の上がり方も、拍子の取り方も少し違う。

 けれど、同じ根から伸びた二本の枝が、別々の風に揺られているような近さがあった。

 

 かぐやは一瞬だけ手を止め、それから何も言わず、鼻歌の続きを小さく重ねた。

 扉の向こうで、ヤチヨもそれに気づいたのだろう。旋律が一度途切れ、次の瞬間には少しだけ大きくなって返ってきた。

 

「朝から歌合戦を始めるの?」

 

 巡が笑う。

 洗面所とキッチンを行き来する旋律は、同じ歌を奪い合っているというより、朝の部屋に二つの声が遊び場を見つけたように聞こえた。

 

「かぐやは普通に歌ってただけだよ。ヤチヨが乗ってきたの」

「ヤッチョ側の見解としては、かぐやがコラボを要求してきました」

 

 洗面所から抗議の声が飛んでくる。

 扉越しでも分かるほど調子の戻った声音で、水音の合間を縫いながら、ヤチヨは自分に都合のよい解釈を堂々と主張した。

 

「してないし」

「音楽による招待状を受領しました」

「都合のいい解釈すんなー」

 

 言い返しながらも、かぐやの口元は緩んでいた。

 同じ記憶を持ち、同じ存在から分かれ、それでも今は別々の身体で、別々の朝を迎えている。

 二人が同時に同じ旋律を口ずさむことは、今でも珍しくなかった。

 だが、それを同期不良や意識分割の副作用として扱う者は、もうこの家にはいない。

 

 ただ、歌の趣味が似ている二人が、朝から鼻歌を重ねている。それで十分だった。

 やがて水音が止まり、洗面所の扉が開いた。

 

「ヤッチョ、再起動完了~」

 

 戻ってきたヤチヨは、顔こそさっぱりしていたが、銀髪の寝癖までは直していなかった。

 片側だけふわりと膨らんだ髪を揺らし、先ほどより幾分か開いた瞳で、まっすぐフレンチトーストの皿を見つめている。

 

「視覚機能、正常」

「フレンチトーストしか見えてないじゃん」

「かぐやも見えてるよ」

「彩葉は?」

「まだ階上」

「巡は?」

「フレンチトーストの後ろ」

「視野が朝食中心すぎる」

 

 かぐやが呆れていると、ヤチヨはキッチンへ寄り、彼女の肩越しにパンケーキの皿を覗いた。

 甘い匂いを確かめるように鼻を動かし、焼き色へ向ける眼差しだけは、寝起きとは思えないほど注意深い。

 

「いい焼き色。かぐや、上達したねえ」

「ふっふーん。かぐやを誰だと思ってるの」

「初めてのパンケーキを三段重ねから一枚奪っていった宇宙人」

「その話、まだ覚えてんの?」

「かぐやの歴史的第一声に近いので」

「もっといい思い出あるっしょ!」

「あるよ。いっぱい」

 

 ヤチヨは何気なく答えた。

 その声音には八千年の影も、過去を惜しむ寂しさもなかった。

 いっぱいある、と現在形のように言って笑う。そのことが、かぐやには嬉しかった。

 返事をする代わりに、寝癖で頬へかかっていた銀髪を指先ですくい、耳へかけてやる。

 

「髪も直してきなよ」

「かぐやが直して」

「しょうがないなあ」

 

 かぐやが髪へ手を伸ばした、その時だった。

 階上から、新しい足音が聞こえてきた。

 ヤチヨのものより一定で、足元もしっかりしている。

 とはいえ、普段よりわずかに速度が遅く、まだ眠気を振り切れてはいないらしい。階段の一段ごとに、衣服の布が柔らかく擦れる。

 

「彩葉だ」

 

 かぐやの顔が、ぱっと明るくなる。

 巡は答える代わりに、彩葉の席へコーヒーカップを置いた。

 淹れたてでは熱すぎるため、先に注いで少し冷ましておく。その傍らには、常温の水も忘れずに添える。

 

 階段の上から、彩葉が姿を現した。

 ゆったりした部屋着の上へ薄手のカーディガンを羽織り、髪は手早くまとめただけらしく、耳元に短い毛が数本残っている。

 瞼にはまだ朝の鈍さがあったものの、学生時代のように頬から血色が失われているわけでも、目の下へ疲労の影が居座っているわけでもない。

 昨夜は普段より一時間遅く眠った。

 その分だけ眠そうな、ごく普通の朝の顔だった。

 

「おはよ……朝から、ずいぶんいい匂いするね」

「おはよう、彩葉!」

「おはよう。よく眠れた?」

 

 巡が尋ねると、彩葉は階段の最後の一段を降りながら、小さく欠伸を噛み殺した。

 片手で口元を隠したものの、目尻にはまだ眠気が残り、普段より遅かった昨夜の名残が、動作の端へわずかに滲んでいる。

 

「七時間と二十分くらい。あと三十分寝たかったけど、匂いに負けた」

「自己申告、睡眠ログとほぼ一致です」

 

 ヤチヨが得意げに告げる。

 自分の管理能力を誇示するように胸を張り、さっぱりしたばかりの顔には、監視という言葉を健康への愛情と同義に扱う無邪気さがあった。

 

「起きて一分でプライバシーを侵害しないで」

「健康管理です」

「ヤチヨの健康管理、監視社会に片足突っ込んでるんだよね」

「彩葉が無茶しなければ、監視社会はいつでも優しいよ」

「怖いこと言ってる自覚ある?」

「ないです☆」

 

 飛び切りの笑顔で答えるヤチヨを見て、彩葉は反論を諦めたらしい。

 かぐやのところまで来ると、フライパンの中を覗き込んだ。

 

「パンケーキ?」

「そだよー。彩葉のは小さめ二枚、ブルーベリー多め。巡のミニオムレツとサラダもあるよ」

「……朝から至れり尽くせりだ」

「昨日はちょっと遅かったからね。最初は食べやすい量にしてあるけど、足りなかったら追加するよ」

「普通に食べられると思うけど」

「食べてから判断」

「はい」

 

 かぐやに言われると、彩葉は素直に頷いた。

 四年前なら、「大丈夫」「食べられる」「問題ない」と三段構えで押し切っていただろう。

 けれど今は、自分を案じる言葉に抵抗するより、それを受け取った方が皆が安心すると知っている。

 誰かに世話を焼かれることを、申し訳なさではなく、生活の一部として受け入れられるようになっていた。

 ヤチヨが彩葉の隣へ寄り、ふと首を傾げた。

 

「彩葉ぁ、首のところ赤いよ?」

「え?」

 

 彩葉の手が、首筋へ伸びる。

 襟元から少しだけ覗く場所に、指先ほどの赤みがあった。

 ひどく腫れているわけでも、痛そうでもない。ただ、白い肌の上にあるため、朝の光では少し目についた。

 

「ああ、これ。虫に刺されたみたい」

「この高さまで来る虫、ガッツあるねえ」

 

 ヤチヨが窓の外を見た。

 遥か下方では、車が小さな粒となって道路を流れている。

 虫が自力で飛んでくるには、いささか根性を要求されそうな高さだった。

 

「都会の虫はエレベーター使うんじゃない?」

 

 かぐやが言う。

 冗談めかして首を傾げながら、遥か下に広がる街と彩葉の首筋を交互に見比べ、虫の移動経路へもっともらしい説明を与えようとしていた。

 

「オートロック突破して?」

「誰かについて入ってきたとか」

「高度な社会性を獲得してる」

 

 ヤチヨは感心したように頷いた。

 架空の侵入手順を本気で検討しているような顔つきで、高層階へ到達した虫に、妙な敬意すら抱き始めている。

 

「そのうちインターホン鳴らすよ。『虫です。昨日の続きに来ました』って」

「来なくていい」

 

 彩葉が即座に拒否する。

 巡は三人の会話を聞きながら、コーヒーの隣へ小さな軟膏を置いた。

 

「食べ終わったら塗っておいた方がいいよ。少し赤くなっているから」

「うん。あとで塗る」

 

 彩葉は自然に答え、巡もそれ以上は追及しなかった。

 ただ、ヤチヨが巡と彩葉を交互に見てから、「ふうん」と声を落とし、かぐやも一瞬だけ目を細めたが、朝食の湯気の前では、それ以上の詮索は無粋だと判断したらしい。

 

「はい、虫会議終了。食べるよー」

 

 かぐやが両手を打ち鳴らした。

 料理がテーブルへ運ばれていく。

 中央には、かぐやが焼いたブルーベリーパンケーキ。

 巡のミニオムレツと、ベビーリーフ、アボカド、トマトを合わせたサラダ。

 ヤチヨの前には、小さなフレンチトースト。皿の数は多すぎず、それでも四人の朝を彩るには十分だった。

 全員が席につくと、ヤチヨはフレンチトーストとパンケーキを交互に見比べた。

 

「……これは悩ましい」

「さっきからずっと悩んでるじゃん」

「食事の一口目は、朝の方向性を決定する重要な選択だよ」

「そんな分岐ないよ」

「あります。フレンチトーストなら『昨日のお願いが叶った朝』、パンケーキなら『かぐやの愛情から始まる朝』」

「かぐやの方からでよくない?」

「誘導尋問だ」

「選択肢の提示です」

「圧のある選択肢だねえ」

 

 ヤチヨはしばらく悩んだ末、フレンチトーストを小さく切った。

 そして、それを口へ運ぶ直前、かぐやをちらりと見る。

 

「次、パンケーキ食べるからね」

「そこまで気を遣われると、かぐやが面倒な人みたいじゃん」

「違うの?」

「違いますー」

 

 ヤチヨがフレンチトーストを口に入れる。

 表面へ歯が触れた瞬間、薄く焼けた部分が香ばしくほどけ、その内側から温かな卵液の甘みが広がった。

 眠気の残っていた目がゆっくり開き、寝巻きの袖に隠れていた指先まで、喜びを伝えるように動く。

 

「んん……巡、これ好き」

「良かった。甘さは足りる?」

「ちょうどいい。甘すぎなくて、でも口の中に朝のご褒美がいる」

「朝のご褒美って何」

 

 彩葉が笑う。

 ヤチヨの自由な比喩に呆れながらも、寝起きの部屋へこうした会話が流れていること自体を楽しむように、目元は柔らかく細められていた。

 

「朝しか会えない甘さのこと」

「ヤチヨ、寝起きでも言葉が自由だね」

「寝起きだから、言葉の検閲がまだ起動してないの」

「普段は起動してるんだ」

「してるつもり」

 

 かぐやは疑わしそうな顔をしながら、自分のパンケーキを切り分けた。

 その一片をヤチヨの皿へ載せる。

 

「ほら。かぐやの朝も食べなよ」

「いただきます」

 

 ヤチヨは今度は迷わず口に入れた。

 柔らかな生地の中でブルーベリーが弾け、甘さのあとから爽やかな酸味が追いつく。

 ヤチヨはしばらく噛みしめ、それから満足そうに目を細めた。

 

「こっちは、ちゃんと家に帰ってきた味がする」

 

 かぐやが、瞬きをした。

 思いがけず真っ直ぐな感想を受け取り、からかうために用意していた言葉が、胸の内側で行き場を失ったようだった。

 

「……なにそれ」

「かぐやが作ったパンケーキを、彩葉と巡と一緒に、現実の朝に食べてる味」

 

 ヤチヨは、フォークを持ったまま笑った。

 皿の上の一切れだけでなく、その周囲にある食卓も、朝日も、三人の顔もまとめて味わうような、穏やかな笑みだった。

 

「だから、かぐやのパンケーキは朝そのもの。巡のフレンチトーストは、昨日の願いが今日まで届いた味。比べられません。どっちもヤッチョの勝ちです」

「最後おかしくない?」

「両方食べられるヤッチョが一番得してるので」

「それは確かに」

 

 巡が穏やかに同意する。

 勝敗をつける必要のない話を、ヤチヨらしい理屈で丸く収めたことが可笑しいのか、口元にはかすかな笑みが残っていた。

 

「巡、そこはかぐや側に立ってよ」

「かぐやも食べられるでしょう?」

「……食べられる」

「なら、全員の勝ちだね」

 

 柔らかな結論に、かぐやは数秒考えたあと、満足そうに頷いた。

 自分だけが特別でなくなる代わりに全員が幸福になるなら、それはそれで悪くないと、すぐに機嫌を直したらしい。

 

「それならよし」

 

 彩葉は三人のやり取りを眺めながら、自分の皿へ目を落とした。

 小さなパンケーキが二枚。ミニオムレツと、朝の光を含んだサラダ。

 量は控えめだが、手抜きには見えない。自分が食べやすいように考えられたことが、皿の端々から伝わってくる。

 

「……私だけ、お子様プレートみたいじゃない?」

「違うよ。彩葉用・朝の起動確認プレート」

 

 かぐやが答える。

 皿の量を減らしたことへの後ろめたさはなく、むしろ彩葉の今朝に合わせて整えた成果を紹介するように、誇らしげな声だった。

 

「起動確認される側なんだ、私」

「食べられたら、パンケーキ追加。オムレツも残ってるよ」

 

 巡が続ける。

 彩葉へ無理をさせないことも、食欲を決めつけないことも同じように大切だと、穏やかな眼差しで皿の余白を示した。

 

「最初から多く出して、食べなきゃと思わせるよりいいでしょう?」

「三人とも、私を何だと思ってるの」

「放っておくと、自分の身体より研究データを優先する人」

 

 真っ先に答えたのは、かぐやだった。

 フォークの先を彩葉へ向け、過去の実績を忘れてはいないと告げるように、容赦なく言い切る。

 

「お願いすると大抵聞いてくれる、チョロ葉」

 

 続いて、ヤチヨが口を開いた。

 悪びれもせず微笑みながら、彩葉の弱点を誰より知る推し本人として、軽やかに追撃を重ねた。

 

「今はきちんと生活できているけど、面白い課題を見つけると時間を忘れやすい人」

 

 巡。

 

 三方向から淀みなく返され、彩葉はフォークを持ったまま黙った。

 

「……否定材料が足りない」

「では、起動確認を開始してください」

 

 ヤチヨが厳かに宣言する。

 寝巻き姿のまま背筋だけを正し、まるで重要な起動試験の開始を告げる責任者のように、片手を彩葉の皿へ差し向けた。

 

「はいはい」

 

 彩葉はパンケーキを一口切り、口へ運んだ。

 ブルーベリーの酸味と、生地の柔らかな甘さ。

 クリームは少なく、代わりにヨーグルトの清涼感が加わる。

 寝起きの口にも食べやすく、胃の奥へ温かさがゆっくり落ちていった。

 

「おいしい」

「やった」

 

 かぐやの顔が、花が開くようにほころんだ。

 味の評価以上に、彩葉が無理なく朝食を受け入れたことが嬉しいらしく、金色の瞳まで明るく弾んでいる。

 

「量も大丈夫そう。普通に追加いけると思う」

「まずサラダとオムレツ食べてから」

「管理が厳しい」

「愛情です」

「かぐやが言うと、反論しにくいんだよね」

 

 彩葉は苦笑しながら、今度はサラダへフォークを伸ばした。

 食卓の上には、フォークが皿へ触れる小さな音と、コーヒーの香りと、時折混じる笑い声があった。

 窓の外では街がすっかり朝へ移り、ビルの窓が一枚ずつ陽光を返し始めている。

 

「そういえば、彩葉」

 

 かぐやがパンケーキを切りながら尋ねた。

 何気ない話題を装ってはいたものの、大学へ彩葉を取られるような気分が残っているのか、フォークの動きには少しだけ不満が混じっていた。

 

「今日、午後からまた大学なんだよね?」

「うん。大学院へ来い来い面談、第三回」

「三回目なの?」

 

 ヤチヨが目を丸くする。

 寝起きの鈍さはすっかり消え、三度目まで続く教授陣の執念に、配信の大型企画を聞かされたような興味を示した。

 

「一回目は教授、二回目は学科長、今日は複数研究科の合同説得会」

「ボスラッシュになってる」

「しかも全員、善意なんだよ。『君の将来のために』『研究環境を用意したい』『博士号を取るべきだ』って、全部もっともなことを言ってくるから断りづらい」

 

 彩葉はコーヒーカップへ手を伸ばし、香りを吸い込んでから一口だけ飲んだ。

 苦みと熱で言葉を整えるように、少し間を置き、研究者としての義理と自分の望む生活のあいだを慎重に見比べている。

 

「でも、私としては研究所に専念したいんだよね。義体作成も、もと光る竹コピーも一段落したし、かぐやとヤチヨの身体が現実に定着したとはいっても、長期運用のデータはこれからだし、ナノスキンの調整も残ってる。それに――」

 

 そこで言葉を切り、食卓を見渡す。

 かぐやがいる。

 ヤチヨがいる

 巡がいる。

 四年前、まだ研究計画の向こう側にしか存在しなかった朝が、目の前にある。

 

「──今は、ちゃんとこの時間を過ごしたい」

 

 彩葉は、少し照れたように言った。

 口にすればあまりに素朴な願いだったが、四年前の彼女にとっては、どんな研究成果よりも遠くにあった生活だった。

 

「ずっと、ここへ辿り着くために先のことばかり見てたから。大学院へ行くことが嫌なわけじゃないし、学ぶことがなくなったとも思わない。でも、肩書きを増やすために、ようやく手に入れた生活を削るのは違う気がする」

「ほら!」

 

 かぐやが、我が意を得たりとばかりに巡を指差した。

 先ほど台所で展開した持論が本人の口から裏づけられたことで、得意げな笑みが一気に頬へ広がっていく。

 

「かぐやの朝ごはん理論、彩葉本人から証明されました!」

「朝ごはん理論?」

 

 彩葉が首を傾げる。

 ヤチヨがすかさず説明する。

 

「大学院は彩葉を研究室に囲い込みたがるけど、朝ごはんは彩葉を家に置いておいてくれる。人生は制度より先に生活でできていて、

 偉い先生に期待される一時間より、四人で食卓を囲む三十分の方が、今の彩葉には必要かもしれない。今日の朝は今日しかない。以上、かぐや学派の主張です」

「ヤチヨ、全部聞こえてたの?」

「かぐやと同期してヤッチョも巡との朝食づくりを堪能していました☆」

「それわたしのー!」

「ヤッチョとかぐやは表裏一体。切っても切り離せない関係なのです~☆」

 

 彩葉は呆れながらも、少しだけ考えるように目を伏せた。

 かぐやの言葉を冗談として笑い流すには、目の前の朝があまりにも自分の本心へ近く、カップの縁を指先で静かになぞる。

 

「でも、今日の朝は今日しかない、か」

「そだよ」

 

 かぐやは迷いなく頷いた。

 研究の価値を軽んじているのではなく、ようやく得た生活も同じだけ守るべきだと、金色の瞳で真っ直ぐ彩葉を見つめている。

 

「研究は明日もできるし、大学院だって来年でも再来年でも行ける。でも、今日の彩葉が眠そうな顔で、かぐやのパンケーキ食べてる朝は今日しかないっしょ。だったら、かぐやはそっちを大事にしたい」

 

 その言葉に、彩葉の表情が緩んだ。

 期待に応えることばかり考えていた胸の奥へ、ここに留まることを肯定する温かな許しが、ゆっくり染み込んでいく。

 

「……うん。私も大事にしたい」

「では、大学院陣営に一敗」

 

 ヤチヨが宣言する。

 すかさず勝敗へ落とし込む声音は配信者そのもので、しんみりし過ぎそうな空気を、慣れた手つきで明るい方へ引き戻した。

 

「まだ断るって決めてないから」

「では判定保留」

「ヤチヨ、勝敗つけたがりすぎ」

「元トップライバーにしてツクヨミ管理人なので、結果発表は職業病です」

「今もトップライバーでしょ」

「現実身体を得たことで、寝起き配信という新境地も開拓可能です」

「やめなよ。その髪で配信したら切り抜かれるよ」

 

 かぐやが寝癖を指差す。

 片側だけ膨らんだ銀髪は、たしかに現実の重力と寝具に揉まれた証拠で、本人の神秘性より生活感を雄弁に語っていた。

 

「『月見ヤチヨ、現実世界で重力に敗北』」

「伸びそう」

「やる気にならないで」

 

 四人の笑い声が、朝日の満ちたリビングへ広がった。

 世界の技術体系を塗り替える研究も、教授陣との面談も、研究所の運営も、今日はまだ食卓の外にある。

 今ここにあるのは、焼きたてのパンケーキと、小さなオムレツと、瑞々しいサラダ。それから、昨日の願いを覚えて作られた一枚のフレンチトースト。

 ハッピーエンドの向こう側にあったのは、物語を締めくくる壮麗な景色ではなかった。

 眠そうな顔で階段を降り、誰かの作った朝食を食べ、今日の予定について笑い合う。

 そんな、取りこぼしてしまいそうなほど何気ない朝だった。

 

 

 四年前、彩葉が最初に作ろうとしていたものは、もっと輪郭の分かりやすい機械だった。

 人工骨格を組み、関節へ駆動機構を収め、その外側を人工筋肉とナノスキンで覆う。

 ツクヨミから送り出される運動指令を現実側の身体へ変換し、視覚、聴覚、触覚、温度感覚、味覚、嗅覚を、遅延なく双方向へ往復させる。

 

 それだけでも、当時の科学にとっては冗談のような計画だった。

 人間に似た機械を作ることと、人間として違和感なく生きられる身体を作ることの間には、海よりも深い隔たりがある。

 指を曲げられるだけでは足りない。

 卵の殻を割らずに持つ力加減を知らなければならず、熱したフライパンへ近づいた時には、痛みになる前の熱を危険として察知しなければならない。

 

 パンケーキを美味しいと感じるためには、舌の上で甘味や酸味を拾うだけでは足りなかった。

 焼きたての香りを鼻で受け取り、口内の温度と食感を同時に処理し、過去の記憶と照らし合わせ、それを「美味しい」という一つの感情へまとめなければならない。

 食事とは、栄養を取り込む行為ではなく、身体のほとんどすべてを使って世界を受け入れる行為だった。

 

 彩葉は、それを一つずつ解決しようとしていた。

 神経科学の論文を読み、ロボティクスの制御理論を組み替え、人工皮膚の触覚センサーを試作し、ツクヨミの感覚再現機構を現実の信号形式へ翻訳する。

 試作品が転倒すれば姿勢制御を修正し、卵を握り潰せば触圧覚の分解能を上げ、食感がすべて「柔らかい」で統一されれば、咀嚼圧と振動の情報を再設計した。

 

 十年かかる。

 最初の試算では、そう出ていた。

 十年で済めば早い、とさえ言われた。

 ところが、そこへ巡が加わった。

 

 正確には、巡の持つアンサートーカーと、その内側へ蓄積された八千年分の経験が、彩葉という人類の外れ値と同じ問題へ向けられた。

 それが、いけなかった。

 混ぜるな危険。

 少なくとも、既存科学の側から見れば、完全に組み合わせてはいけない二人だった。

 彩葉は、分野と分野の間に引かれた境界線を、境界として認識しなかった。

 材料工学で生じた問題を神経科学のモデルから解き、認知科学の仮説をロボティクスの制御系へ放り込み、解剖学の常識を仮想空間で得られた感覚データによって裏返す。

 

 巡は、その跳躍が成立するために必要な足場を見つけた。

 ただ答えを取り出すのではない。

 どの問いを立てれば、現代の材料と設備で到達可能な道筋が現れるのか。

 どこまでなら安全に再現でき、どの部分から先は月の技術体系がなければ成立しないのか。

 八千年のあいだに見た病、死、身体の変化、技術の発展と衰退を、アンサートーカーへ与える観測資料として整理し、神話や記憶の形をしていたものを、検証可能な仮説へ変えていく。

 

 彩葉が壁の存在を忘れて跳び、巡が着地点へ床を敷く。

 着地した彩葉が、そこからまた次の崖へ跳ぶ。

 それを繰り返した。

 結果、科学は歩くことをやめた。

 科学は跳躍する。

 一段ずつ積み上げられるはずだった階段が、途中から何段も抜け落ち、研究所の中だけ時間の流れが違うかのように、理論と実証が先へ先へと進んでいった。

 

 人工皮膚を作る過程で、細胞修復機能を備えたナノスキンが生まれた。

 全身へ安定した電力を供給するために、高密度蓄電機構を研究していたはずが、いつの間にか超小型核融合炉の基礎設計が完成していた。

 マジでなにやってんだ、このマッドサイエンティストども。

 ツクヨミとの感覚同期に必要だった遅延補正は、遠隔医療用の神経接続技術へ転用され、人工筋肉の出力制御から派生した機構は、半身不随患者の運動補助装置へ組み込まれた。

 

 一つの問題を解くたびに、隣接分野が二つか三つ巻き込まれ、連鎖的に前提を書き換えられていく。

 突破口という言葉では、もはや穏当すぎた。

 既存科学の基盤そのものが、二人の通過した場所だけ数十年先へワープする。

 業界では『サカヨリインパクト』などと呼称され関係各所を震え上がられていた。

 

 研究所では、彩葉がホワイトボードの前で「あっ」と声を上げるたび、近くにいる研究員が手を止めるようになった。

 巡が「その条件なら、別の考え方ができるかもしれない」と口にすれば、誰かが倫理審査部門と知財部門へ連絡を入れた。

 二人が同時に黙り込み、同じ試作機を見つめ始めた時には、安全管理責任者が会議室の扉を開け、何を思いついたのか先に申告するよう求めた。

 

 だが、当人たちに世界を置き去りにしているという自覚は薄かった。

 かぐやが、熱いものへ手を伸ばした時に危険を察知できるようにしたかった。

 ヤチヨがパンケーキを食べた時、甘いだけではなく、柔らかい、温かい、香ばしいと感じられるようにしたかった。

 ただ、それだけだった。

 

 

「……最初は、本当に義体で終わる予定だったんだけどね」

 

 彩葉が、朝食の皿へフォークを置きながら言った。

 

 パンケーキを一枚食べ終え、ミニオムレツにも半分ほど手をつけている。

 寝起きの鈍さはいつの間にか薄れ、瞳には普段の澄んだ光が戻り始めていた。

 

「人工骨格と人工筋肉を組み合わせて、外側から身体を作る。感覚はツクヨミの技術を使って補助する。それで十分だと思ってたし、実際、その方向でも生活できるものは作れたと思う」

「途中で彩葉が、もっと近道を見つけちゃったんだよね」

 

 ヤチヨがフレンチトーストの最後の一口を惜しむように、小さく切り分けながら言う。

 甘い余韻を舌の上へ長く残したいのか、フォークの先で何度も向きを変えながら、彩葉の発想を面白がる笑みを浮かべていた。

 

「近道というか……」

 

 彩葉は少し言い淀んだ。

 自分にとっては筋道の通った着想だったが、三人の顔を見るうちに、世間一般の尺度では十分に飛躍していることを思い出したらしい。

 

「崖を登ってる途中で、そもそも山を作った装置を複製した方が早いんじゃないかって気づいただけで……」

「それを世間では近道じゃなくて地形改変って言うんじゃない?」

 

 かぐやが呆れたように口を挟んだ。

 パンケーキを切る手まで止め、日常会話の途中で大陸規模の発想転換を持ち出す彩葉へ、もっともな苦情を差し向ける。

 

「義体が難しいから、身体を一から生成する月の装置をコピーしよう、には普通ならないっしょ」

「私も、提案を聞いた時は止めたよ」

 

 巡がコーヒーを一口飲み、穏やかな調子で続けた。

 当時の危険性を思い返しているはずなのに声音は静かで、反対した事実よりも、何を懸念したのかを正確に伝えることを優先していた。

 

「正確には、止める理由を整理した。エネルギー量、物質変換の精度、人格定着の安全性、身体生成後の維持機構。月で使われていた装置を、地球の環境と材料でそのまま再現するのは不可能だったから」

「そこで諦めなかったんだよねえ」

 

 ヤチヨが楽しそうに笑う。

 巡の慎重さが、結果として彩葉へ攻略対象の一覧を渡しただけになったことを、当時から知っていた者らしい可笑しさが滲んでいる。

 

「巡は止めたんじゃなくて、できない理由を全部並べてくれたんだよ。彩葉に」

「できない理由が分かれば、潰せるから。それに行き詰まっても巡が居てくれる」

 

 彩葉が当然のように答える。

 そこに虚勢も冗談もなく、問題点が具体化された瞬間から解決可能な課題へ変わるという、彼女固有の思考がそのまま表れていた。

 

「ほら、これ」

 

 かぐやがフォークを持ったまま巡を見る。

 責めるというより、彩葉という人間の扱い方を誤った共同責任者へ、今後の再発防止を求めるような視線だった。

 

「巡が彩葉に与えちゃいけない種類の情報あたえちゃったんだよ」

「今では反省しているよ」

「本当に?」

「伝え方については」

「計画そのものは?」

「必要だったと思っている──だって、かぐやが此処に居てくれるようになったから」

 

 巡の答えに迷いはなかった。

 かぐやは数秒ほど見つめたあと、仕方なさそうに肩をすくめた。

 

「そういう言い方反則っ、照れるっしょ。まあ、かぐやも今ここにいるから、強くは言えないけどさ」

 

 もと光る竹。

 かつて、月の民が異なる星の環境へ適応するために使っていた、身体生成機能を備える舟。

 地球の空気、重力、温度、食物に耐えられる肉体を、搭乗者の情報から形成するための装置。

 

 だが、かぐやを運んだそれは壊れていた。

 身体を生み出す機能は完全には作動せず、彼女は長い年月を、白いウミウシに似た不完全な形で過ごすことになった。

 巡の中には、その装置を間近で見た記憶とアンサートーカーがあった。

 ヤチヨの中には、壊れた装置へ接続され、身体を得ようとして失敗し続けた感覚が残っていた。

 かぐやの中には、生成される側から見た身体の手触りがあった。

 そして彩葉には、そのすべてを現代科学の言葉へ置き換え、別の原理で再構成する頭脳があった。

 

 四人は、月の装置をそのまま復元したわけではない。

 そんなことはできなかった。

 代わりに、壊れた舟が何をしようとしていたのかを解析し、地球の技術で同じ結果へ到達する仕組みを作った。

 物質を無から生むのではなく、培養した基礎細胞と人工骨格素材を、入力された身体情報に沿って再構築する。

 魂を機械へ閉じ込めるのではなく、ツクヨミで形成された人格構造を、生成中の神経系と段階的に同期させる。

 完成した身体へ意識を流し込むのではなく、身体の形成と並行して、そこを自分の身体だと認識する感覚を育てる。

 月の技術を再現したというより、月の技術が起こした奇跡を、地球の科学が理解できる手順へ書き直したのだ。

 コピーと呼ばれてはいるが、本物と同じ部品は一つもない。

 それでも、結果だけは同じ場所へ届いた。

 

 最初に生まれたのは、金髪の少女だった。

 生成槽の透明な液体の中で瞼が震え、肺が初めて空気を吸い込み、細い指がゆっくりと動いた。

 彩葉が隔壁の向こうで息を止め、巡が全計測値を追い、ヤチヨがツクヨミ側から意識同期を保つ中で、その少女は目を開いた。

 地上の光を初めて直接受けた瞳は、眩しさに細められた。

 それから彼女は、唇を動かした。

 最初に呼んだのは、彩葉の名前だった。

 

 その瞬間、研究所の誰もが、自分たちが作ったものを義体とは呼べなくなった。

 装置の中にいたのは、機械へ人格を載せた模造品ではなかった。

 熱に驚き、空気の匂いに戸惑い、足裏へ伝わる床の固さを恐れ、そして彩葉の手へ触れた途端に笑った、一人のかぐやだった。

 

「最初に立った時、かぐや、三歩で転んだんだよね」

 

 ヤチヨが思い出したように言った。

 銀色の瞳には当時の記録が鮮明に蘇っているらしく、かぐやの記念すべき転倒を、少し楽しそうに掘り起こす。

 

「三歩じゃなくて四歩」

 

 かぐやが即座に訂正する。

 この一点だけは本人の尊厳に関わるらしく、パンケーキを切る手を止め、姿勢まで正して異議を申し立てた。

 

「最後の一歩、倒れながら出てたよ」

「あれは一歩だよっ」

「転倒距離を歩数に含めるのは、かなり強引じゃないかな」

 

 巡が言うと、かぐやは不服そうに唇を尖らせた。

 味方だと思っていた相手からも冷静な判定を下され、金色の瞳には小さな裏切りを訴える色が浮かんでいる。

 

「巡までヤチヨ側につくの?」

「記録映像では、三歩目のあとに重心を失っているよ」

「映像判定まで持ち出された」

「チャレンジ失敗です」

 

 ヤチヨが両手で四角を作り、判定用の画面を示すような仕草をする。

 実際の映像が目の前にあるかのように指先で枠を切り、審判役を楽しむ笑みを隠そうともしなかった。

 

「よよよ。かぐやの歴史的第一歩が、今ここで三歩へ減らされていく」

「最初から三歩だったよ」

 

 彩葉が笑いを堪えながら言う。

 口元を押さえてはいるものの、四年前の緊張に満ちた場面が、今では家族の失敗談として語れることが嬉しいのだろう。

 

「でも、転んだあと、すぐ私の手を掴んだ」

 

 その一言で、かぐやの反論が止まった。

 転んだ歩数の勝敗より、その後に自分が何を求めたかを突きつけられ、頬へわずかな照れが差していく。

 

「……そだっけ」

「そだよ」

 

 彩葉の声には、四年前の光景へ触れる柔らかさがあった。

 生成槽を出たばかりのかぐやの指が、どれほど必死に自分の手を求めたか、その感触まで今も掌に残っているようだった。

 

「掴んで、しばらく離さなかった」

「だって、身体が全部知らない感覚だったから。床は硬いし、空気は鼻の奥に入ってくるし、光は眩しいし、心臓は勝手にばくばくするし。彩葉に触ったところだけ、知ってるって分かったんだもん」

 

 かぐやはそう言ってから、少し照れたようにパンケーキを切った。

 その身体の完成だけでも、計画は成功と呼べた。

 しかし、ヤチヨはツクヨミに残っていた。

 

 かぐやとヤチヨは、同じ存在だった。

 遠い過去から連なる記憶を持ち、同じ魂の上に形作られた、時間の異なる二つの人格。

 どちらかを現実へ定着させれば、もう一方はツクヨミ側へ残る。それが当初の想定だった。

 

 だが、ヤチヨには長年、ツクヨミの管理者として複数の分身を同時に動かしてきた経験があった。

 一つの意識で複数の視点を処理し、異なる場所にいる身体へ別々の動作を割り振る。

 それは人間には到底できない芸当だったが、彼女にとっては、配信中に歌いながらコメントを読み、別の空間の障害を処理することと、大きな違いがなかった。

 

 彩葉は、そこへ目をつけた。

 意識を片方の身体へ移すのではなく、人格構造を二つの身体へ定着させた上で、必要な記憶だけを相互に同期する。

 かぐやは、彩葉と暮らした頃の自分を基礎に。

 ヤチヨは、八千年を越え、ツクヨミを見守ってきた自分を基礎に。

 同じ過去を持ちながら、別々の現在を積み重ねられるようにする。

 言葉にすれば、それだけだった。

 実際に行われたことは、人格や魂という言葉の定義を、いくつもの学会が一斉に書き直すよう迫られるほどの暴挙だった。

 それでも、ヤチヨ本人にとっては、それほど難しいことではなかったらしい。

 

「だってヤッチョ、もともと配信で五人くらいに増えてたし」

 

 当時の説明会で、彼女はそう言った。

 研究者たちが人格連続性、自己同一性、記憶競合、意識分岐後の権利主体について議論している最中に、本人は「分身が一人増えるくらい」と言って笑った。

 流石、理解の範疇を超えし宇宙人である。

 もちろん、最初から何の問題もなかったわけではない。

 

 かぐやが苺を食べると、別室にいたヤチヨの口へ酸味の記憶が流れ込んだ。

 ヤチヨが眠気を覚えると、元気に配信していたかぐやが突然欠伸をした。

 二人が別々の歌を歌おうとすると、途中で旋律が混ざり、同時に同じ間違いをして笑い出すこともあった。

 

 だが、同期の範囲を調整し、互いに渡す記憶と、自分だけに留める経験を選べるようになるにつれて、二人の生活はゆっくりと分かれていった。

 今では、かぐやがパンケーキを焼く間に、ヤチヨは寝坊できる。

 ヤチヨが配信へ出ている間に、かぐやは彩葉と買い物へ行ける。

 同じ存在でありながら、同じ瞬間に同じものを見なくてもいい。

 二人は、同一人物の複製ではなかった。

 昨日まで同じ本を読んでいた二人が、今日からそれぞれ別の頁へ書き込み始めたようなものだった。

 

「でもさ」

 

 ヤチヨが、サラダのアボカドをフォークで刺しながら言った。

 何気ない口調を装っているが、かぐやの否定を最初から信じていないらしく、銀色の瞳には追及を楽しむ光が浮かんでいる。

 

「かぐや、昨日ヤッチョが食べたプリンの味、同期してたでしょ」

「してないよ」

「夜中に冷蔵庫の前で『カラメル強めだった』って言ってた」

「あれは見た目からの推理」

「容器、もう捨ててあったよ」

「……ヤチヨの顔を見て推理しました」

「顔にカラメルの味は出ません」

「出てた」

「どの辺に?」

「この辺」

 

 かぐやがヤチヨの頬を指で押す。

 柔らかな皮膚が指先の形にへこみ、ヤチヨは抗議するでもなく、証拠の提示を待つように片眉を上げた。

 

「ほっぺたにカラメル情報が?」

「ありました」

「新しい感覚器官だ」

 

 彩葉が笑う。

 頬から味を読み取るという無茶な主張を、冗談として流すより先に、研究対象として捉えかけた自分を誤魔化すような笑いでもあった。

 

「次の研究テーマにする?」

「しないよ」

 

 巡が即座に止めた。

 彩葉の瞳に好奇心の火が点くより早く釘を刺し、朝食の席から新規研究案件が発生する未来を先回りして封じる。

 

「朝食中に新しい感覚器官を提案すると、彩葉が本気で検討を始めるから」

「もう少し信用してよ」

 

 彩葉が抗議する。

 

 三人が、同時に彩葉を見た。

 

「……何、その目」

「先月、『かぐやの髪が湿気で広がる』から始まって、自己調湿機能付き毛髪を試作した人」

 

 最初に名乗りを上げたのは、かぐやだった。

 自分の髪を発端に研究が一つ増えた事実を、呆れと少しの誇らしさを混ぜながら突きつける。

 

「ヤッチョが靴擦れした次の日に、圧力分散型ナノスキンを完成させた人」

 

 次に続いたのは、ヤチヨだった。

 靴擦れひとつが技術革新へ化けた顛末を思い出し、口元へ配信中の暴露話めいた楽しげな笑みを浮かべている。

 

「真実さんが子育てで腰を痛めたと聞いて、補助外骨格の設計を始めた人」

 

 巡が最後に付け足す。

 彩葉は口を閉じた。

 

「……身近な困り事を解決するのは、研究者として自然なことでしょ」

「規模が自然じゃないんだよねえ」

 

 ヤチヨが楽しそうに言った。

 笑いが食卓を一巡した。

 その声は、朝の光と一緒にリビングへ広がり、吹き抜けの高い天井へ柔らかく昇っていく。

 遠くで冷蔵庫の駆動音が響き、食器が触れ合う小さな音が、その隙間を埋めていた。

 かぐやはパンケーキを食べ終えると、皿の上に残ったブルーベリーを一粒、フォークの先で転がした。

 先ほどまで騒がしく笑っていた表情が、少しだけ静かになる。

 

「ねえ、彩葉。巡」

「なに?」

 

 彩葉が顔を上げる。

 巡もカップを置いた。

 かぐやは隣に座るヤチヨを見た。ヤチヨも彼女を見返した。

 同じ記憶から生まれた二つの瞳が、短い沈黙の中で何かを確かめ合う。

 それは、意識同期と呼ぶほど大仰なものではなかった。

 長く一緒にいる者同士が、言葉を口にする前に相手の意図を察する、ただそれだけの視線だった。

 

「今ね」

 

 かぐやが言った。

 いつもの弾んだ調子より、少しだけゆっくりと。

 

「かぐや、超ハッピーだよ」

 

 彩葉が瞬きをする。

 ヤチヨも、柔らかく笑った。

 

「ヤッチョも。超ハッピー」

「急にどうしたの」

 

 彩葉の口元には笑みがあったが、声には小さな戸惑いが混ざっていた。

 唐突な告白を嬉しく思う一方で、その言葉の奥に何があるのかを測りかね、二人の顔を静かに見比べる。

 

「どうもしないよ。ただ、言いたくなったの」

 

 かぐやはフォークを置き、テーブルの上へ両手を重ねた。

 普段なら身振りと一緒に飛び出す言葉を、今日は逃がさず胸の奥から取り出そうとするように、一度ゆっくり息を吸う。

 

「朝起きて、巡と一緒にご飯作って、彩葉の分は小さめにしようとか、クリームは少なめにしようとか話して。

 ヤチヨが寝ぼけた顔で降りてきて、フレンチトーストに喜んで、かぐやのパンケーキも食べて。それで彩葉が起きてきて、美味しいって言ってくれた」

 

 彼女は一度、部屋を見渡した。

 朝日に照らされたテーブル。

 食べかけの皿。

 少し乱れたヤチヨの銀髪。

 彩葉のカップから上がる細い湯気。

 巡の手元に置かれた、使い込まれたフォーク。

 

「こういうの、全部欲しかったんだと思う」

 

 かぐやの声から、いつもの軽口が少しずつ剥がれていく。

 それでも湿っぽくはならず、嬉しいものを嬉しいまま伝えたいという素直さが、言葉の芯に残っていた。

 

「大きな身体が欲しいとか、地球に戻りたいとか、彩葉と一緒にいたいとか、ずっと色んなこと言ってたけど、たぶん本当に欲しかったのは、こういう朝だったんだよ。

 何かすごいことが起きる日じゃなくて、何も起きなくてもいい日。明日の予定を話して、食べる順番で揉めて、髪が跳ねてるって笑われて、それでも同じ家にいる日」

 

 彩葉は、言葉を挟まなかった。

 かぐやの金色の瞳が、朝の光を受けて揺れている。

 

「彩葉が、かぐやをここまで連れてきてくれた。巡も、八千年ずっとかぐやを見つけて、最後は彩葉と一緒に、この身体を作ってくれた。だから、ありがとう」

 

 声音は明るかった。

 けれど、その明るさは涙を隠すためのものではなかった。

 嬉しいから笑っている。

 ただそれだけの、真っ直ぐな笑顔だった。

 ヤチヨが、その言葉を受け取るように続けた。

 

「私もね、八千年のあいだ、ずっと先のことばかり考えてた」

 

 いつもの「ヤッチョ」ではなく、「私」と言った。

 その変化だけで、食卓の空気が少し静まった。

 

「次はどこへ行けばいいのか。どうすれば地球へ戻れるのか。どうすれば彩葉に会えるのか。どうすれば巡を見つけられるのか。白い身体で動けなくなってからも、ツクヨミを作ってからも、ずっと先に何かがあると思ってた」

 

 銀髪の少女は、自分の手を見下ろした。

 フォークを持てる指。

 温かな皿へ触れられる掌。

 現実の身体として、朝日の中へ伸びる影。

 

「でも、先にあったのはゴールじゃなかった。今日だった」

 

 ヤチヨは顔を上げる。

 自分の手元だけを見つめていた銀色の瞳が、彩葉と巡とかぐやを順番に映し、そのすべてを今ここにある現実として確かめていく。

 

「彩葉が研究を休んで、巡が朝ごはんを作って、かぐやがパンケーキを焼いて、私が寝坊する。そんな今日が、明日も別の形で続いていく。それが、私が八千年かけて辿り着きたかった場所だったんだと思う」

 

 彩葉の指先が、カップの取っ手を握ったまま止まっている。

 胸の奥へ届いた言葉をこぼさないようにするかのように、呼吸までわずかに浅くなり、視線はヤチヨから離れなかった。

 

「ハッピーエンドって、ずっと最後にあるものだと思ってた。全部の問題を解決して、寂しいことも苦しいこともなくなって、物語が綺麗に閉じた時に来るものだって」

 

 ヤチヨは小さく笑った。

 過去の自分が信じていた結末を責めるのではなく、ようやく知った答えを、朝の光の中でそっと受け入れるような笑みだった。

 

「違ったね」

 

 窓の外では、街が完全に朝を迎えていた。

 遠くの道路を走る車が光を反射し、ビルの窓が空の色を映している。ここから見える世界は広大で、四人の知らない場所では、今日も数え切れない問題が生まれている。

 研究も終わっていない。

 かぐやとヤチヨの身体には、まだ調整すべき箇所がある。

 彩葉は進路を決めきれておらず、巡が持つ技術には、世間へ出せないものがいくつもある。

 完全な終わりには、ほど遠い。

 

「ハッピーエンドは、終わりじゃなかった」

 

 ヤチヨは、言葉を一つずつ確かめるように告げた。

 八千年の果てに見つけた答えを飾り立てず、この食卓に似合う素朴な形のまま、三人へ差し出していく。

 

「その向こう側に、朝ごはんがあった」

 

 彩葉の喉が、小さく動いた。

 泣きそうになったのだと、三人とも気づいた。

 しかし誰も指摘しなかった。

 彩葉は目を伏せ、息を整えてから、ゆっくり顔を上げた。

 

「……ずるいなあ」

「何が?」

 

 かぐやが首を傾げる。

 彩葉の目元に浮かんだものへ気づいてはいたが、あえて触れず、いつもの調子で言葉の続きを待った。

 

「朝食の途中で、そういうこと言うの。泣いたらパンケーキの味が分からなくなるでしょ」

「泣いても甘いものは甘いよ」

「経験者の発言だ」

 

 巡が穏やかに言う。

 自分にも似た経験があると仄めかしながら、泣くことを恥じなくていいのだと、遠回しに彩葉へ伝える声音だった。

 

「巡までそっち側?」

「私は事実を言っただけだよ」

 

 彩葉は笑い、目元へ指を添えた。

 涙は落ちなかった。

 代わりに、胸の奥へ温かいものが満ちていく。

 四年前、まみまみ邸で進路を変えると宣言した時に灯った熱とは違う。

 あの時の熱が、未来へ走り出すための火だったなら、今あるものは、辿り着いた場所へ腰を下ろし、ここにいていいのだと教える灯りだった。

 

「私の方こそ、ありがとう」

 

 彩葉は、胸に満ちたものを整えるように一度息を吸ってから言った。

 感謝を受け取るだけでは足りず、自分もまた三人に救われてきたのだと、きちんと返さずにはいられなかった。

 

「かぐやが来てくれなかったら、私はたぶん、母を追いかけたまま、自分が何を欲しいのか分からなかった。

 ヤチヨが八千年を見せてくれなかったら、願いを叶えるって決めても、ここまで本気にはなれなかった。巡がいなかったら、四年じゃ絶対に届かなかった」

「私は、道を整理しただけだよ」

 

 巡が言う。

 彩葉は、すぐに首を横へ振った。

 

「そうやって自分の分を小さくしないで。資金も、理論も、月の技術の翻訳も、私が研究で視野を狭くした時に止める役も、全部巡がやった。私一人が天才だったから完成したんじゃない」

 

 彩葉は、三人を順番に見た。

 誰か一人でも欠けていればこの朝には届かなかったと、その顔を一つずつ確かめるように、視線をゆっくり巡らせる。

 

「かぐやとヤチヨが、何を感じたいのかを教えてくれた。巡が、そこへ辿り着く道を現実の形にしてくれた。私は、それを作れるように組み立てただけ。これは四人で作った朝だよ」

「彩葉も自分の分、小さくしてない?」

 

 かぐやが訊く。

 彩葉まで自分の功績を小さく見積もろうとしていないか確かめるように、少しだけ眉を寄せて顔を覗き込んだ。

 

「してない。かなり頑張った自覚はある」

「よし」

「そこは即答するんだね」

 

 巡が笑った。

 謙遜する場面と胸を張る場面をきちんと選ぶ彩葉らしさが可笑しく、肩の力を抜いた笑みが自然にこぼれる。

 

「だって、彩葉はすごいもん」

 

 かぐやは迷いなく言った。

 評価でも慰めでもなく、自分が見てきた事実をそのまま口にするように、真っ直ぐな声が食卓へ落ちる。

 

「巡もすごい。ヤチヨもすごい。かぐやもすごい。全員すごい。だから全員で勝ち取った超ハッピーです」

「先ほどの朝食勝負と同じ結論だね」

「全員の勝ち」

「うん」

 

 巡の返事は、静かで、けれど確かだった。

 ヤチヨは一度だけ目を閉じ、それから、いつもの配信者らしい明るさを取り戻すように両手を広げた。

 

「ということで、彩葉、巡」

「なに?」

「改めまして」

 

 ヤチヨとかぐやが顔を見合わせた。

 二人の声が、ほとんど同時に重なる。

 

「ハッピーエンドの向こう側まで、連れてきてくれてありがとう」

 

 金色と銀色の髪が、朝の光の中で並んでいた。

 同じ魂から分かれた二人。

 一人は、かつて彩葉の部屋へ押しかけ、料理を作り、歌い、好き勝手に日常へ入り込んできた少女。

 もう一人は、八千年を越え、孤独を笑い話へ変え、ツクヨミの夜を照らし続けた少女。

 二人とも、今ここにいる。

 現実の椅子に座り、現実の食事を味わい、現実の朝の中で笑っている。

 巡はしばらく二人を見つめ、それから目元をわずかに和らげた。

 

「どういたしまして、と言っていいのかな」

 

 ヤチヨが、巡の迷いを受け止めるように言う。

 感謝を受け取ることに慣れていない彼が逃げ道を探さないよう、銀色の瞳でまっすぐ見つめた。

 

「もちろん言っていいよ、ヤッチョが保証しちゃう☆」

 

 かぐやも大きく頷いた。

 金色の髪を揺らしながら、ここでは遠慮も自己卑下も不要だと、全身で賛同を示している。

 

「むしろ胸を張ってどーんと言わなきゃ」

 

 巡は小さく息を吐いた。

 八千年分の責任を一言で受け取ることへの戸惑いを手放し、今この朝に似合う返事を選ぶように、二人へ視線を向ける。

 

「それなら、どういたしまして」

 

 その言葉は、八千年という時間に比べれば、驚くほど短かった。

 だが、短いからこそ、いまの朝にちょうどよかった。

 彩葉はテーブルの下で、そっと巡の手へ触れた。

 指先が重なり、巡も自然に握り返す。

 かぐやはそれを見つけ、にやりとする。

 ヤチヨも気づき、彩葉の首筋へ一瞬だけ視線を送った。

 

「虫さん、今朝も元気そうですねえ」

「蒸し返さないで」

「虫だけに?」

「ヤチヨ」

「よよよ、ハッピーエンド直後の扱いが雑」

「向こう側では、こういう扱いなんだよ」

 

 かぐやが笑う。

 感動の余韻を大切にしながらも、そこへ遠慮なく冗談を差し込めることこそ、彼女たちが手に入れた日常なのだと知っていた。

 

「なるほど。ハッピーエンドの向こう側、容赦がない」

「でも超ハッピーなんでしょ?」

「超ハッピーです」

 

 ヤチヨは胸を張った。

 四人の笑い声が、もう一度リビングへ広がる。

 パンケーキは少し冷め始め、コーヒーの湯気は細くなっていた。

 皿には食べかけのサラダが残り、ヤチヨの寝癖はまだ完全には直っていない。午後には大学との面談があり、研究所へ行けば新しい問題が待っている。

 それでも、この朝は欠けていなかった。

 完全だからではない。

 未完成のものを抱えたまま、同じ食卓へ帰ってこられるからだ。

 八千年の孤独も、四年間の研究も、数え切れない失敗も、世界を置き去りにした発明も、すべてはこの場所へ続いていた。

 ハッピーエンドの向こう側にあったものは、永遠に変わらない幸福ではなかった。

 明日もまた選び直し、守り直し、作り直していく日常だった。

 そして、それこそが四人の欲しかった未来だった──




・本編完結
 あとあと後日談とか追加で書きたいエピソードがあった場合はまた投稿しますが、ひとまず完結です。お付き合いありがとうございました。

・彩葉の虫刺され
 はえー、タワマンにも虫は出るんやね(すっとぼけ
 この夜には多分、金の虫と銀の虫が出没する模様

・複数回のブレイクスルーに晒される各業界関係者
 おいやめろバカ
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