素人質問で恐縮ですが
酒寄研究所が、新しい研究成果の発表を予告した。
ただそれだけの情報が公開されたのは、平日の午前九時だった。
研究所の公式アカウントへ投稿された文章は、わずか三行。
『本日十三時より、複合感覚インターフェース技術の応用研究に関する報告を行います。
既存技術の改良が中心であり、大規模な発表ではありません。
詳細は配信ページをご確認ください』
大規模な発表ではありません。
その一文が、もっとも人々を不安にさせた。
投稿から一分も経たないうちに、通知を受け取った研究者たちが端末へ手を伸ばし、大学の研究室では朝のミーティングが中断され、企業の開発部門では担当者が予定表を組み直した。
官庁では関係しそうな分野を特定するための連絡網が動き、証券会社のアナリストは、発表文に含まれる「感覚」「応用」「既存技術」という三つの単語から、どの業界の株価が動くかを推測し始めた。
そして、世界中から似たような書き込みが集まった。
『どの分野だ』
『今回はどの教科書が古くなるんだ』
『大規模ではありません、を信じるな』
『研究所のドアを施錠しろ』
『酒寄博士がまた何か言ったぞ』
正式には、当時の彩葉は博士号を取得していなかった。
にもかかわらず、海外の報道機関も、企業の技術者も、いつの間にか彼女をドクター・サカヨリと呼ぶようになっていた。
称号というより、もはや固有名詞に近い。
学位の有無を指摘した記者に対して、ある研究者は疲れ切った顔で、「あの人に関しては学位の側が追いついていない」と答えたという。
発表会場となった国際先端応用科学会議の大ホールには、開場時刻より前から長い列ができていた。
千人を収容できる客席は埋まり、別室に用意された中継会場も満席。配信の待機人数は開始一時間前の時点で百万人を越えている。
研究発表としては異常な数字だったが、そこにいる誰一人として驚いてはいなかった。
むしろ、驚く余裕を失っていた。
壇上を見下ろす二階席では、白髪の研究者が膝の上へ資料を広げたまま、深い溜息をついた。
「複合感覚インターフェース、か」
隣に座っていた若い准教授が、落ち着かない手つきで端末を確認する。
「専門は神経科学ですかね。それとも医療機器か、VRか」
「酒寄研究所に分野を訊くこと自体が間違いだ。前回は皮膚感覚の再現から始まって、発表が終わった時には再生医療と建築素材の話になっていた」
「今回は既存技術の改良だそうですが」
「君はまだ若いな」
老研究者は、慈しむように後輩を見た。
「あの研究所の『改良』は、一般社会の『新発明』に相当する。『副産物』は新産業で、『少し効率が上がった』は既存市場の再編だ」
若い准教授は口を閉じた。
反論材料がなかった。
酒寄彩葉が最初に世界の前提を壊したのは、ツクヨミ上の感覚情報を現実側へ双方向で接続する技術だった。
視覚と聴覚だけではない。
触覚、痛覚、温度、味覚、嗅覚。それらを個別の信号として扱うのではなく、記憶や感情による補正まで含め、一つの身体経験として再構築する。
当初は、現実の身体を持たないかぐやとヤチヨのために生み出された技術だった。
ところが、彩葉は発表の最後に、申し訳なさそうな顔でこう付け足した。
『研究途中で、損傷した神経から運動意図を推定する方法も見つかったので、そちらはリハビリテーション分野へ提供できると思います』
その一言から半年後、従来は制御が難しかった義手や歩行補助装置が、使用者の意思を滑らかに反映できるようになった。
さらに一年後には、脊髄損傷や末梢神経障害の患者を対象とした臨床試験が始まった。
医療機器メーカーは歓喜し、既存製品の開発部門は頭を抱え、神経科学の研究者たちは、発表資料を読み終える前に次の論文が公開される速度に泣いた。
次に彩葉が取り組んだのは、人工骨格と人工筋肉の接続だった。
身体生成の研究に必要な、しなやかで、衝撃に耐え、生体組織と拒絶反応を起こしにくい骨格素材。それを作るため、材料工学、細胞工学、構造力学の研究者が集められた。
結果として生まれた素材は、医療用の人工骨に使えるだけではなかった。
軽量で、破損しにくく、微細な亀裂を自律的に補修する。
建設会社が橋梁への応用を検討し、航空機メーカーが機体素材としての共同研究を申し込み、災害対策部門が瓦礫の下でも機能する救助機材への転用を始めた。
その発表の翌日、彩葉は配信でこう語った。
『KG型(かぐや)の身体を転ばせても大丈夫にしたかっただけなんだけど、色々使えるみたいでよかったです』
材料工学界隈から、無言の悲鳴が上がった。
酒寄彩葉にとって、分野とは学問を整理するための棚でしかなかった。
必要なものが違う棚にあれば、躊躇なく取り出す。棚と棚の間に隙間があれば、その隙間へ手を突っ込み、誰も知らなかった構造を引きずり出す。
彼女の研究成果は、医療、情報、エネルギー、材料、建築へ波及し、そのたびに複数の学会が、自分たちの領域へ酒寄研究所の名前が現れたことを知った。
最初は歓迎された。
次は驚かれた。
三度目には警戒された。
五度目を越えた頃には、彩葉がSNSへ「あっ、そうだ」と投稿しただけで、各業界が何を思いついたのか確認するようになった。
本人には、世界を弄んでいるつもりなどなかった。
作曲中に思いついた構造をメモし、映画に登場した架空技術を見て「現行設備ならどこまで近づけるだろう」と考え、身近な誰かの小さな不便を見つければ、それを解決する方法を研究する。
思考の規模だけが、日常の大きさに収まらなかった。
かぐやの髪が湿気で広がる。
自己調湿機能を備えた人工毛髪が試作された。
ヤチヨが新しい靴で踵を擦る。
圧力の集中を自動で逃がすナノスキンが完成した。
真実が育児で腰を痛めたと聞く。
装着者の動きを妨げず、抱き上げ動作だけを補助する軽量外骨格の設計が始まった。
世間は、その一連の研究活動を「サカヨリインパクト」と呼び始めた。
ブレイクスルーという表現では、一回ごとの衝撃しか表せない。
酒寄彩葉の場合、衝撃が次の衝撃を呼び、前の発明が社会へ定着する前に、その発明を前提とした次の技術が出てくる。
月刊ブレイクスルーである。
たまに週刊でブレイクスルーが起こることもあった。
けれど、酒寄研究所には、彩葉とは異なる方向から世界を困惑させる人間がもう一人いた。
「酒寄所長がお見えになりました」
会場脇の扉が開き、スタッフの声が響いた。
客席のざわめきが、一段低くなる。
黒いスーツに身を包んだ彩葉が、壇上へ続く通路へ現れた。
その後ろを、同じく落ち着いた色のスーツを着た巡が歩いている。
彩葉は会場の人数に少し驚いたらしく、足を止めかけた。
「……今日、改良報告だよね?」
近くにいた巡へ、小声で確認する。
「そのはずだよ」
「なんでこんなにいるの」
「彩葉の言う改良を、皆が信用しなくなったからじゃないかな」
「私、嘘ついたことないけど」
「発表の規模について、彩葉と世間の間に認識の差があるんだと思う」
巡は責めるでもなく、淡い笑みを浮かべた。
彼が最初に学会へ姿を現した頃、世間ではまだ、酒寄博士の共同研究者、あるいは同居している内縁の夫として紹介されることが多かった。
高卒。
大学への所属歴なし。
研究者としての正規教育を受けた記録もない。
にもかかわらず、酒寄研究所の共同設立者であり、莫大な研究資金を提供し、理論部門の中核を担う人物。
その経歴を初めて目にした研究者たちは、履歴書の記載漏れを疑った。
次に、学位を意図的に省略しているのだと思った。
本人へ確認し、本当に最終学歴が高校卒業だと知ると、しばらく黙った。
やがて、誰かが言い出した。
学歴詐称ではなく、学歴逆詐称だ、と。
しかし、その呼び方も長くは続かなかった。
巡が最初の単独論文を発表したからだ。
生体と機械の境界面へ使用する、自己修復性の多層人工皮膚。
ナノスキン。
微細な損傷を検知し、内部に保持した補修材料を再配置する。
温度、湿度、外圧に応じて性質を変え、使用者へ必要な触覚だけを伝える。
義体用の外皮として設計されたものだったが、火傷患者の皮膚保護、宇宙服、深海作業服、災害救助用装備へ応用できることが判明した。
彩葉が異分野を横断して発明する人間なら、巡は、現実には存在しない概念を、現実側へ降ろす人間だった。
仮想空間でしか成立しない感覚。
思念体と呼ばれていた情報生命。
月の民が用いていた、物質と意識を区別しない技術体系。
それらを、神秘だからと切り捨てず、かといって神秘のまま受け入れることもせず、現在の科学が検証できる大きさまで分解する。
学会では、SFを現代科学へ落とし込んだ狂人。
オカルトを技術体系へ変換した変態。
野生のマッドサイエンティスト。
散々な異名で呼ばれていたが、そこには侮蔑よりも、どう理解すればよいのか分からない者への畏怖が含まれていた。
ナノスキンの次に巡が発表したのは、小型核融合炉だった。
身体生成装置へ安定したエネルギーを供給するため、大規模な発電施設へ依存しない電源が必要になった。
その必要を満たすために、巡は八千年分の記憶に残る月のエネルギー制御と、現代の核融合研究を照合し、地球上で製造可能な構成へ書き直したのだ。
とある研究者はその発表を受けて「加減しろ莫迦!」と叫んだ。
もちろん、月の装置をそのまま再現したものではない。
出力にも、稼働時間にも、使用できる燃料にも制限がある。
それでも、従来設備と比較すれば桁違いに小さく、研究施設や病院の電力を独立して賄えるだけの能力があった。
発表当日、エネルギー関連企業の株価は乱高下した。
原油市場は一時的に過剰反応し、各国政府は装置の輸出管理について協議を始め、研究所の電話は、企業、大学、官庁、軍事関係機関からの問い合わせで一日中鳴り止まなかった。
巡は、その騒動を前にしても、いつも通り穏やかだった。
『発電方式を一つ増やしただけで、既存のエネルギー産業がすぐ不要になるわけではありません。
設備の量産性、保守、送電網、資源循環は別の問題です。現在の社会構造を無視して、新しい装置だけを置いても生活は成立しません』
市場をなだめるために開かれた会見で、彼はそう説明した。
その発言によって株価は一度落ち着き、翌日、公開された技術資料を読んだ研究者たちが「この性能を発電方式を一つ増やしただけと表現するな」と再び騒ぎ始めた。
酒寄博士の内縁の夫。
その呼び名は、最初こそ巡を説明するための近道だった。
いまでは、どちらかといえば、同じ家に住む二人をまとめて警戒するための注意書きに近かった。
◆
彩葉と巡が並んで壇上へ上がる。
スクリーンに、発表題目が表示された。
『複合感覚インターフェースにおける感覚間補完処理の最適化』
会場に、安堵とも警戒ともつかない息が流れた。
少なくとも、題目だけなら既存技術の改良に見える。
彩葉が演台へ立ち、マイクの高さを調整した。
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。今回は、KG型(かぐや)とYC型(ヤチヨ)の身体で使用している感覚統合処理の改良について報告します」
落ち着いた声が、広いホールへ響く。
「人間は、舌だけで味を判断しているわけではありません。香り、温度、食感、見た目、それから過去の経験が重なって、食べ物を美味しいと感じています。
現行システムでは、それぞれの信号を統合する際、使用者ごとの記憶補正にわずかな遅れが生じることがありました」
壇上のスクリーンへ、神経信号の流れを示す図が現れる。
「今回、その遅延を平均で八十七パーセント削減しました」
客席が静まった。
誰かが端末へ数字を打ち込む音が聞こえる。
「また、感覚入力の一部が失われた場合、残る感覚から欠損情報を補う仕組みも追加しています。例えば嗅覚が低下している場合、温度や食感、過去の味覚記憶から、食事体験を一定範囲で再構築します」
一階席の医療関係者たちが、同時に顔を上げた。
壇上の彩葉は、その反応に気づいていない。
「KG型(かぐや)が風邪を引いた際、パンケーキの味がほとんど分からないと言っていたので、そこを改善しようとしたものです」
会場の空気が止まった。
改良の発端が、金髪の少女の風邪だった。
「……酒寄所長」
司会者が、慎重に声を挟む。
「この補完処理は、嗅覚や味覚に障害を持つ患者へ応用可能なのでしょうか」
「理論上は可能です」
酒寄彩葉の口から出る「理論上は可能」とはすぐにでも出来るが、手が回らないのでそちらで応用・実用化してくださいの意である。
「認知症や脳損傷による感覚認識障害についても?」
彩葉は少し考えた。
「病態によります。ただ、失われていない感覚や記憶を利用して、生活上の不便を緩和できる可能性はあります。医療用途については、今後、大学病院と共同で――」
まだ言葉の途中だった。
客席の端で、複数の端末が振動する。
医療機器会社の株価が動き始めたのだ。
配信画面のコメント欄には、すでに文字が洪水のように流れていた。
『風邪のパンケーキから医療革命を起こすな』
『大規模な発表ではありませんとは』
『ウェーイw 医療界隈、生きてるぅ? ……俺は死んでるよ(白目)』
『サカヨリインパクト発生、ヨシ! いやヨシではないが? 何度目だよ』
『かぐやのパンケーキが世界を変えた』
彩葉は、壇上からそのコメントを見て、困ったように眉尻を下げた。
「まだ臨床検証前なので、あまり大きく扱わないでください」
どだい無理な相談だった。
発表が終わり、質疑応答へ移る。
いくつかの質問に彩葉が答えたあと、司会者は巡へ視線を向けた。
「続いて、感覚補完アルゴリズムの理論設計を担当した宵宮巡氏にも、ご登壇いただきます」
巡が立ち上がる。
演台へ向かう途中、客席のあちこちで姿勢を正す気配があった。
酒寄彩葉の発表は、どこへ話が飛ぶか分からない。
宵宮巡の質疑応答は、質問がどこまで掘られるか分からない。
どちらも別の意味で気が抜けなかった。
巡は彩葉と場所を入れ替わり、マイクの前へ立った。
「宵宮です。よろしくお願いします」
声は柔らかく、威圧する響きはない。
だからこそ、質問する側には逃げ場がなかった。
前方の席で手が挙がった。
立ち上がったのは、神経工学分野で長く研究を続けてきた教授だった。
神経工学の世界で四十年近く研究を続けてきた大御所であり、その白髪は年齢だけでなく、数え切れない査読と学会討論を潜り抜けてきた年月の証でもあった。
髪は一筋の乱れもなく後ろへ撫でつけられ、膝の上には、発表資料の余白がほとんど残らないほど書き込みを加えられた紙束が置かれている。
そして何より、その教授は質疑応答で有名だった。
理論の詰めが甘い。
比較対象が不適切。
実験条件が不足している。
結論がデータより先走っている。
そうした発表へ遭遇すると、教授は穏やかな顔で立ち上がり、決まって同じ前置きを口にする。
「素人質問で恐縮ですが」
その言葉が発せられた瞬間、若い研究者たちの肩が一斉に固まった。
誰かが小さく息を呑み、別の誰かが、ほとんど追悼のような声音で「出た」と呟く。
この教授の口から出る「素人質問で恐縮ですが」は、言葉どおりの意味ではない。
学会界隈においては、ほぼ「それでは今から、あなたの研究を前提条件から順番に血祭りへ上げます」と同義であった。
実際、教授本人は質問者として極めて誠実である。人格を攻撃することも、若手をいたずらに萎縮させることもない。
ただし、研究の穴だけは見逃さない。
発表者が曖昧な言葉で逃げようとすれば定義を求め、数字で煙に巻こうとすれば母集団を問い、引用で権威を借りれば、その引用元の条件まで遡る。
結果として、発表者の主張は一枚ずつ装甲を剥がされ、最後には再現性のない仮説だけが壇上へ残る。
人はそれを、丁寧な処刑と呼んだ。
ところが。
本日の発表者は、宵宮巡である。
しかも彼の内側には、問われた内容に対して高精度の道筋を返すアンサートーカーが存在する。
もちろん、何でも無条件に答えられる万能の知識ではない。問いの立て方が間違っていれば役に立たず、材料も時間も実験結果も、何もない場所から生み出してくれるわけではない。
だが、こと質問への応答に限れば、話は別だった。
疑問が明確な形で差し出された瞬間、それはアンサートーカーにとって、答えへ至る入口になる。
質問者が精密であればあるほど、巡の側には精密な問いが与えられる。
逃げ道を塞ぐために条件を絞れば絞るほど、何を示せば反証になるのかまで明確になる。
つまりこの教授の最大の武器である、穴を許さない精緻な質問そのものが、巡にとっては最高品質の入力になってしまうのである。
質問に対して、アンサートーカーは無法だった。
「今回の補完処理は、複数の感覚情報から欠損信号を推定するとのことですが、使用者本人の記憶に誤りが含まれている場合、誤った感覚を強化する危険があるのではないでしょうか。
特に、過去の経験へ依存するモデルでは、認知の偏りが固定化されるように思えます」
妥当な質問だった。
意地の悪い指摘ではない。
巡は、教授へ向かって小さく頭を下げた。
「ありがとうございます。ご懸念の通り、記憶情報を正解として扱えば、その危険があります」
最初に、相手の指摘を認めた。
教授が、わずかに眉を動かす。
「ただ、今回の方式では、記憶を感覚信号の代替として直接出力しているわけではありません。
本人の記憶は、候補を絞るための事前分布としてのみ使用し、現在の生理反応と外部センサーの情報を優先しています」
スクリーンへ、新しい図が表示された。
巡が手元の端末を操作したわけではない。質問を予測していた彩葉が、控えていた資料を切り替えたのだ。
「例えば、使用者が過去に苺を非常に甘いものとして記憶していても、現在の糖度、酸度、温度、咀嚼時の反応が一致しなければ、その記憶は補完結果へ大きく反映されません。
また、同じ補完が繰り返され、外部情報との誤差が蓄積した場合は、自動的に記憶依存率を下げます」
「しかし、その誤差判定自体が、既存の感覚機能へ依存しているのでは?」
「はい。そこが現行方式の限界です」
巡は、ためらわず認めた。
「すべての感覚入力が失われている場合、この方式は機能しません。また、自己認識と生理反応の両方に大きな障害がある場合、補完によってかえって混乱を招く可能性があります。
ですので、治療ではなく、残存機能を利用した生活補助として扱うべきだと考えています」
教授は資料へ目を落とした。
「三ページ目の誤差抑制項ですが、これは時系列方向へ非対称なのでしょうか」
「はい。急激な変化に対しては外部信号を優先し、長期的な変化については本人の適応を待つ形です。先生が三年前に発表された、義手使用者の身体所有感に関する研究を参考にしました」
教授の指が止まった。
「私の?」
「はい。特に、使用開始直後に触覚精度を上げすぎると、かえって所有感が低下するという結果です。あの知見がなければ、補完精度を上げるほど良いという誤った設計になっていたと思います」
会場の視線が、一斉に教授へ集まる。
返り討ち。
外から見れば、そう見えただろう。
自らの疑問を完全に解かれ、そのうえ質問者本人の過去の論文まで、設計の根拠として示された。
だが、巡の言葉には勝ち誇る気配が一切なかった。
質問を敵とは見なしていない。
欠落した問題を見つけ、答えをより正確にするための協力として受け取っている。
「……分かりました」
教授は、ゆっくり頷いた。
「大変よく理解できました。ありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとうございます」
巡は頭を下げた。
教授が着席したあと、会場には数秒の沈黙が残った。
若い准教授が、隣の老研究者へ囁く。
「今の、質問した先生の方が評価を上げましたよね」
「宵宮氏の質疑は、負けるのではない。質問した内容まで研究成果へ組み込まれるんだ」
「怖いですね」
「本人が一切怖がらせようとしていないのが、一番怖い」
質疑は続いた。
倫理上の問題。
処理に必要な計算資源。
個人情報としての感覚記憶の扱い。
既存医療機器との互換性。
巡はすべてに答えた。
答えが確定していないものについては、確定していないと明言し、必要な実験条件を示した。
質問の前提に誤りがあれば、それを傷つけない言い方で修正し、相手の専門が自分たちの研究にどう貢献したかを返す。
論破ではない。
それより徹底していた。
質問が生まれる余地を、答えと次の課題へ変えていく。
終了時刻を十五分超過した頃、司会者が恐る恐る質疑を打ち切った。
「それでは、最後に一つだけ」
後方の席から、若い学生が立ち上がった。
手にしたマイクが、緊張でわずかに震えている。
「あの、研究内容とは直接関係がないのですが、宵宮先生は、どちらの大学院で研究をされていたのでしょうか。経歴欄に記載が見つからなくて」
会場の一部がざわめいた。
巡は、少し困ったように微笑んだ。
「大学院には行っていません」
「では、大学は?」
「大学にも進学していません。高校を卒業してから、酒寄氏と研究所を作りました」
学生の口が、わずかに開く。
初めてその事実を知ったらしい。
「……独学、ですか」
「独学と言うと、私一人で学んだように聞こえてしまいますが、実際の所違います」
巡は、隣に立つ彩葉や、客席の研究者たちへ目を向けた。
「論文を書いた方、実験を続けた方、失敗を記録した方。私は、そういう方々が積み重ねたものを読ませてもらっています。酒寄氏や研究所の皆にも教わっています。だから、一人で学んだとは思っていません」
その返答は、翌日の記事で広く引用された。
しかし、記事の見出しは別だった。
『ナノスキン、小型核融合炉の開発者、最終学歴は高校卒業』
『酒寄研究所のもう一人の怪物』
『高卒のバグキャラ』
『学歴逆詐称の天才・宵宮巡とは何者か』
酒寄博士の内縁の夫、という呼び名も残った。
けれど、それはもう、彼を説明する主要な肩書きではなくなっていた。
ナノスキンの宵宮。
小型炉の宵宮。
学会質問者を穏やかに沈黙させる男。
SFを工学へ、オカルトを数式へ変える男。
どの呼び方を用いても、結局、一つの人物を十分には言い表せなかった。
発表会が終わる。
照明が戻り、客席の研究者たちが一斉に立ち上がった。
名刺交換を求める者、共同研究を申し込もうとする者、公開された資料をその場で読み始める者。
報道陣は出口へ殺到し、企業の担当者は本社へ連絡を入れる。
その混乱の中心で、彩葉は壇上の端へ立ち、配信画面のコメントを見ていた。
『酒寄博士は世界で遊ぶのをやめろ』
『我々の常識を壊すな』
『ブレイクスルーって一回しか起こしちゃいけないんですか』
『今回は医療界隈でした。次の界隈は戸締まりをしてください』
『酒寄博士の勝ち、なんで負けたか明日までに考えてきてください』
彩葉は、納得できないように首を傾げた。
「私、世界で遊んでるつもりないんだけど」
「皆、彩葉が何かを思いつく速度に慣れていないんだと思うよ」
巡が隣へ立つ。
「今回だって、かぐやの風邪がきっかけだし」
「その結果、感覚障害の治療研究が十年くらい進んだように見えているからね」
「十年も?」
「控えめに見て」
彩葉は会場を見渡した。
研究者たちの熱気。
報道陣の声。
ひっきりなしに振動する端末。
自分の発表によって動き始めた、いくつもの業界と、人と、金。
少し前まで、彼女は自分の研究が誰かの人生へ届くことを、どこか遠い出来事のように感じていた。
だが今は違う。
作ったものが世界へ出れば、救われる人がいる。
同時に、職を失う人がいるかもしれない。
悪用しようとする者も現れる。
技術が正しければ、社会も正しく動くわけではない。
「巡」
「うん?」
「私たち、やっぱり少し慎重にならないと駄目だね」
彩葉の声は、先ほどまでより低かった。
「できるから作る、だけじゃ足りない。誰が使うか、何がなくなるか、法整備が追いつくか。
かぐやとヤチヨをここへ連れてくる時は、あの二人のことだけ考えれば走れた。でも、外に出した技術は、知らない人の生活まで変える」
巡は、すぐには答えなかった。
会場の向こう側では、共同研究を求める人々が列を作っている。
「そうだね」
やがて、穏やかに頷く。
「私たちが正しい使い方を決めるべきではないと思う。ただ、危険を知っているのに渡すことと、知らずに渡すことは違う。急いだ方が救える人もいるから、止まればいいわけでもない」
「難しいなあ」
「難しいね」
「アンサートーカーでも、全部一度には答えられない?」
「何を幸福とするかは、問いを立てる人によって変わるから」
巡は、会場を見ながら言った。
「技術の作り方には答えがあっても、社会がどう受け取るべきかには、一つの答えはないよ。だから、いろいろな人に訊き続けるしかないんだと思う」
彩葉は、その言葉をしばらく噛みしめた。
「じゃあ、学会には来続けないと駄目か」
「質問してもらえるからね」
「大学院への勧誘に有利なこと言わないでよ」
「それとこれとは別の話だよ」
巡が笑った。
彩葉も、つられて笑う。
その時だった。
壇上のスクリーンへ残されていた感覚統合モデルを見た彩葉が、不意に口を閉じた。
視線が図の一点へ止まる。
眉が寄る。
そのまま数秒、動かない。
近くにいたスタッフが、先に気づいた。
続いて巡が気づく。
前方の研究者たちも、一人、また一人と、彩葉の顔を見た。
「あっ」
小さな声が、マイクへ拾われた。
会場全体が凍りついた。
名刺を差し出しかけていた手が止まり、出口へ向かっていた研究者が振り返る。報道陣は反射的にカメラを構え、配信のコメント欄が一瞬で加速した。
『言った』
『酒寄博士が「あっ」って言ったぞ! もうだめだぁ……おしまいだぁ……』
『どの業界だ』
『逃げろ』
『研究所のドアを閉めろ』
彩葉は、周囲の異変に気づいて顔を上げた。
「え?」
「彩葉」
巡が、慎重に尋ねる。
「何を思いついたの?」
「いや、感覚補完を味覚や嗅覚だけじゃなく、平衡感覚にも使えば、乗り物酔いを軽減できるかもしれないなって」
会場の後方で、航空工学の研究者が椅子へ座り直した。
自動車会社の担当者が、無言で上司へ電話をかけ始める。
宇宙開発機関の職員が、資料の空白へ大きく丸を描いた。
彩葉は、その反応を見て瞬きをした。
「……まだ思いついただけだよ?」
誰も安心しなかった。
酒寄彩葉の「思いついただけ」は、数か月後には論文になり、翌年には試作機となり、その次には社会の常識へ組み込まれる。
そして、その隣には、思いつきを実現可能な道筋へ変える宵宮巡がいる。
二人を同じ問題へ向けてはならない。
二人を同じ会議室で黙らせてはならない。
まして、二人が同時に「あれならできるかもしれない」と言い始めた時は、倫理審査部門と法務部門と安全管理部門を呼ばなければならない。
それは冗談として生まれ、いつしか酒寄研究所内の非公式な行動規範となっていた。
世界にとって、酒寄彩葉と宵宮巡は、技術革新をもたらす希望だった。
同時に、既存の秩序を何の悪意もなく飛び越えてしまう、予測不能な外れ値だった。
けれど当人たちが研究へ手を伸ばす理由は、いつも拍子抜けするほど身近にあった。
かぐやが風邪を引いても、パンケーキを美味しく食べられるように。
ヤチヨが新しい靴で、足を痛めずに踊れるように。
彩葉が研究を終えて、ちゃんと家へ帰れるように。
巡が温かいものを、温かいと感じ続けられるように。
世界を数十年先へ押し進めた二人は、その日も、誰かと同じ朝食を囲むための技術を作っていた。
・蛇足~!編
蛇足なのでいつもより短めに文章になるかもです
・素人質問で恐縮ですが
クソボケ「玄人回答で最強ですが」
・クソボケが進学せずに高卒な理由
研究所を作るために出資したり、超担当さんの生活面を全面サポートするため
それはそうとクソボケ側でもブレイクスルーは起こす
・タワマンの間取りについて
感想では触れている人が誰もいなかったので此処で触れておきます
原作でのタワマンの間取りは3LDK、つまり部屋は3部屋あります
そして住居人は超担当、クソボケ、かぐや、ヤチヨの4人
つまり……