もうちっとだけハッピーにするんじゃ   作:加賀美ポチ

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覚悟はいいか? 私はできてる

 芦花は、彩葉の顔を整えるのが好きだった。

 好き、という言葉をそのまま使えば、あまりにも多くの意味がこぼれてしまうので、これまで一度も口にはしなかった。

 美容を仕事にしているから。彩葉が化粧に疎いから。昔から世話を焼いてきたから。

 理由なら、いくらでも用意できた。

 

 けれど本当は、鏡の前で無防備に目を閉じ、自分へ顔を預けている彩葉を見る時間が好きだった。

 頬へ指を添えても拒まれない。

 睫毛へブラシを近づけても、怖がらずに任せてくれる。

 美容液を馴染ませるため、額から鼻筋へ指先を滑らせれば、彩葉はくすぐったそうに眉を寄せ、それでも逃げずにじっとしている。

 

 それは恋人だけに許された距離ではなかった。

 だから芦花は、何年ものあいだ、その距離へ親友という名前を貼りつけてきた。

 

「芦花、まだ?」

「動かない。今、眉尻そろえてるから」

「さっきも揃えてなかった?」

「さっきは左。今は右」

「眉って二本あるんだね」

「今さら人体の基本構造に気づかないで、酒寄博士」

 

 芦花は呆れた声を返しながら、細いブラシの先で彩葉の眉尻へわずかに色を足した。

 タワーマンションの一室、その奥に設けられた小さな化粧部屋には、午後の陽射しが薄いレースカーテンを通して差し込んでいる。

 鏡の周囲には白い照明が並び、その均一な光が、彩葉の肌から影をほとんど消していた。

 

 今日は研究所の広報誌に載せる写真の撮影があるらしい。

 撮影スタッフを研究所へ呼ぶだけなのだから、普段どおりで構わないと彩葉は主張した。

 しかし「普段どおり」が、薄い日焼け止めと寝起きのままの眉で済ませようとする意味だと判明し、芦花が招集された。

 

 以前なら、隈を隠すところから始めなければならなかった。

 眠れていない肌は血色が悪く、目元には青紫の影が沈み、乾燥した頬へファンデーションを乗せれば、粉が薄く浮いた。

 どうにか外見を整えても、それは疲労の上へ色を重ねただけで、皮膚の奥にある消耗までは隠せなかった。

 

 けれど、今の彩葉は違う。

 目の下に深い影はなく、頬には自然な血色があり、唇も荒れていない。

 昨夜は七時間以上眠ったと聞いているし、朝食も食べている。

 触れた肌には水分が保たれ、スポンジを押し当てれば、柔らかな弾力が指へ返ってきた。

 

 芦花が何度言っても変えられなかった生活を、あの家の三人は変えた。

 正確には、彩葉自身が変わろうと決め、その決意を三人が支えたのだろう。

 良いことだった。

 間違いなく、喜ぶべきことだった。

 

「肌、ほんとに綺麗になったね」

 

 芦花が呟くと、彩葉は目を閉じたまま、少し誇らしそうに顎を上げた。

 白い照明の下で頬の血色がわずかに明るみ、その仕草には、ようやく生活を立て直せた者の小さな自負が滲んでいた。

 

「ちゃんと寝てますから」

「四年前の彩葉に聞かせたい」

「今の私が聞いてるから、それでいいでしょ」

「当時の私が報われないの。あれだけ睡眠の大切さを説いたのに、全然聞かなかったじゃん」

「聞いてはいたよ」

「実行してなかったら、聞いてないのと一緒」

 

 芦花が淡々と告げると、彩葉は反論する言葉を探すように口を開き、やがて何も思いつかなかったのか、諦めて閉じた。

 その表情が可笑しくて、芦花はわずかに笑う。

 こうして話していれば、昔と何も変わらないように思えた。

 高校時代、昼休みに机を寄せ合った時も、配信前に彩葉の顔を整えた時も、疲れ切った彼女を真実と二人で問い詰めた時も、芦花はいつもこの近さにいた。

 けれど、変わっていないのは、自分の立っている場所だけだった。

 

 芦花自身も、あの頃のままではなかった。

 大学へ進学してからの四年間で、高校時代にはまだ輪郭の端に残っていた少女らしいあどけなさは、少しずつ洗練された華やかさへ変わっていた。

 赤みを含んだ柔らかな髪は胸元へ届くほど長くなり、目元で揃えられた前髪の下には、青緑色の瞳が涼やかに光っている。

 もともと整っていた顔立ちは、化粧や服飾を更に学び、自分に似合う色や形を知ったことで、以前よりもいっそう人目を引くようになった。

 

 笑えば親しみやすく、黙っていればどこか大人びて見える。

 華奢な身体つきや柔らかな物腰には、高校時代の可憐さが残っている一方で、姿勢や指先の運びには、自分の見せ方を心得た者の落ち着きが備わっていた。

 当然、周囲が彼女を放っておくはずもなかった。

 大学へ入ってから告白された回数は、とうに片手の指では足りない。

 講義のあとに呼び止められたこともあれば、友人を介して好意を伝えられたこともあり、美容関係の催しへ参加すれば、連絡先を尋ねられることも珍しくなかった。

 

 その中には、単に顔立ちが整っているだけではなく、

 背が高く、物腰も穏やかで、学業にも人付き合いにもそつがない、

 周囲の女子学生たちが密かに視線を送るような男性もいた。

 

 以前、大学の催しを終えた夕暮れ、校舎脇の並木道で告白してきた上級生も、そういう人だった。

 彼は芦花が忙しい時には無理に話しかけず、重い荷物を持っていても、勝手に奪うのではなく手伝いが必要かを先に尋ねるような人物だった。

 よく整えられた黒髪に、清潔感のある服装、会話の端々から伝わる知性と気遣い。

 彼が誰かに好意を寄せているらしいという噂が流れた時には、相手が誰なのかと女子学生たちがざわついたほどである。

 

 夕陽を受けた銀杏の葉が、舗道の上へ細長い影を落としていた。

 その下で彼は、緊張を押し隠しながらも、曖昧に逃げることなく芦花を好きだと伝えた。

 付き合ってほしいと言い、すぐに答えを出せないなら待つとも告げた。

 

 誠実な人だと思った。

 外見も、人柄も、申し分なかった。

 彼と並んで歩けば、周囲から羨望の目を向けられることもあっただろう。

 恋人として大切にしてくれるはずだということも、短い付き合いの中で十分に想像できた。

 

 それでも、芦花の心は動かなかった。

 返事を待つ彼の顔を見ながら、脳裏に浮かんだのは、目の前の男性と過ごす未来ではなく、徹夜明けの顔で「今日はちゃんと寝るから」と信用ならない約束をする彩葉だった。

 どうして、いま彩葉を思い出すのだろう。

 自分でも呆れたが、理由を考えるまでもなかった。

 

 ──ごめんなさい。嬉しいけど、付き合えない。

 

 芦花がそう答えると、彼は理由を問い詰めることも、感情をぶつけることもなかった。

 ただ少し寂しそうに笑い、「分かった」と受け入れてくれた。

 その態度まで、最後まで立派だった。

 だからこそ芦花は、自分の心が、条件や魅力を比較した末に彩葉を選んでいるのではないことを思い知った。

 

 恋は、優れたものへ順番に札をつけていく品評会ではない。

 どれほど魅力的な人が現れても、どれほど幸福にしてもらえそうな未来を差し出されても、すでに一人のために場所を空け続けている心へ、理屈だけで別の誰かを座らせることはできなかった。

 

 芦花は大学生になり、高校時代より綺麗になった。

 好意を向けられることも増えたし、その中には、彩葉を諦めて選び直すには十分すぎるほど魅力的な相手もいた。

 それでも、芦花が綺麗になった姿を、本当の意味で見つけてほしいと願った相手は、一人しかいなかった。

 

「彩葉、首をちょっと右に向けて」

「こっち?」

「そう。もう少しだけ」

 

 芦花は彩葉の顎へ指を添え、角度を直した。

 その時、化粧部屋の扉が二度、控えめに叩かれた。

 

「芦花さん、入っても大丈夫かな」

 

 扉の向こうから聞こえた声に、芦花の指先がほんの一瞬止まった。

 ブラシの穂先が彩葉の肌からわずかに浮き、胸の内側だけが、名前を呼ばれてもいないのに身構えるように硬くなる。

 

「大丈夫だよ」

 

 答えたのは彩葉だった。

 扉が開き、巡が白いカップを載せたトレイを手に入ってきた。

 彼は鏡の前に広げられた化粧道具を見て、邪魔にならない位置を選び、彩葉の手が届く場所へカップを置いた。

 

「撮影前だから、コーヒーではなく白湯にしたよ。喉が乾いているでしょう?」

「ありがとう。あとで飲む」

「口紅の前に飲ませるから、今」

 

 芦花が言うと、巡はすぐにカップを彩葉へ手渡した。

 彩葉も当然のように受け取り、熱さを確かめながら一口飲む。

 その連携には、相談がなかった。

 彩葉が撮影前に喉を乾かしやすいことを、巡は知っている。

 口紅を塗ったあとでは飲みにくくなることを、芦花は知っている。

 そして彩葉は、二人から世話を焼かれることへ、もう遠慮を見せなかった。

 

「熱くない?」

「ちょうどいい」

「なら良かった。撮影が長引きそうなら、研究所へ軽食も持っていくよ」

「今日は二時間くらいで終わる予定だけど」

「彩葉の二時間予定は、質問されると四時間になるからね」

「……否定しづらい」

 

 巡が穏やかに笑い、空になったトレイを持って部屋を出ていく。

 扉が閉まる直前、廊下の向こうから、かぐやの弾んだ声が聞こえた。

 

「巡ー、彩葉の撮影用の髪飾り、金と銀どっちがいいと思う?」

「今日の服なら銀かな」

「えー、かぐやは金がいい」

「尋ねる前から決めていたんじゃない?」

「相談した事実が大事なの!」

 

 続いて、ヤチヨの笑い声が重なった。

 鈴を転がすようなその声は廊下を軽やかに渡り、閉じかけた扉の隙間から、三人の親密な空気まで連れてきた。

 

「ではヤッチョが銀を装着し、彩葉には金、かぐやはそのまま金髪で、全員ぴかぴか計画にしましょう」

「ヤチヨは撮影されないよ」

「通りすがりに映り込みます」

「通り過ぎて」

 

 遠ざかっていく三人の声を聞きながら、彩葉は小さく笑った。

 その笑い方も、芦花の知らないものだった。

 昔の彩葉は、面白いことがあれば笑った。

 気を遣わせまいとして笑うこともあった。

 けれど今の笑みには、自分が愛される場所を疑っていない者だけが持つ、柔らかな弛緩があった。

 肩から余計な力が抜け、唇が自然にほどけ、目尻まで温かく緩む。

 幸せになったのだ。

 芦花が何度も願ったとおりに。

 だから、胸が痛むことを誰にも知られてはいけないと思った。

 

「目、閉じて」

「さっきから閉じてるけど」

「口も閉じて」

「横暴だ」

 

 彩葉が素直に口を閉ざす。

 芦花はアイシャドウのパレットへ視線を落とし、細いブラシへ淡い色を取った。

 鏡の周囲を囲む照明は変わらず白く、室内には化粧品のほのかな甘い香りと、先ほど運ばれてきた白湯の温かな湿気が残っている。

 ブラシを彩葉の瞼へ近づけた時、手がわずかに震えた。

 ごく小さな揺れだった。

 仕事の撮影なら問題にもならない。

 けれど何年も芦花に顔を預けてきた彩葉は、目を閉じていても、その違いに気づいた。

 

「芦花?」

「何」

「今日、疲れてる?」

「別に」

「手、震えたよ」

「彩葉が動いたから」

「動いてない」

「動いたの。自覚がないだけ」

 

 芦花は言い切り、瞼へ色を重ねた。

 彩葉はそれ以上追及しなかった。

 そのことへ安堵すると同時に、少しだけ傷つく自分がいた。

 気づかれたくないのに、気づいてほしい。

 問い詰められたくないのに、簡単に引き下がられると寂しい。

 あまりにも勝手な感情だった。

 それを彩葉へ押しつけなかったことだけが、芦花が長いあいだ守り続けてきた、ささやかな誇りだった。

 

 

 撮影は、予定より一時間二十分長引いた。

 巡の予想よりは短く、彩葉の予想よりは長い。

 つまり、この家における予定時間とは、だいたいその程度の信頼性で運用されている。

 研究所から戻った頃には、窓の外で夕陽がビルの隙間へ沈みかけていた。

 リビングの床には長い橙色の光が伸び、ソファの背やテーブルの脚を細長い影に変えている。

 撮影中に何度も表情を作らされた彩葉は少し疲れたらしく、ジャケットを脱ぐと、ソファの背へ身体を預けた。

 

「疲れた」

「だから、途中で休憩を入れた方がいいって言ったじゃん」

 

 芦花は化粧道具の入ったケースをテーブルへ置き、彩葉の前へ立った。

 留め具が小さく鳴り、仕事の続きへ戻るように袖を捲ったものの、胸の奥には朝から居座る鈍い痛みが残っていた。

 

「顔落とすから、上向いて」

「もう?」

「このまま寝たら肌が荒れる」

「寝ないよ」

「疲れたって言ってソファに沈んだ人の申告は信用しません」

 

 芦花がクレンジングを取り出していると、キッチンからかぐやが顔を出した。

 エプロン姿のまま片手に味見用の小皿を持ち、二人の様子を見比べている。

 

「芦花も晩ごはん食べてくでしょ?」

「今日は帰る。明日の朝、早いから」

「えー、もう作ってるのに」

「私の分も?」

「もちろん。芦花、前にこの味好きって言ってたじゃん」

 

 小皿からは、トマトと香草を煮込んだ温かな匂いが漂っていた。

 覚えていたのだ。

 かぐやは、芦花が以前何気なく口にした好みを覚え、その分まで夕食を作っている。

 ヤチヨもダイニングテーブルの向こうから身を乗り出し、銀髪を揺らした。

 

「泊まっていけばいいのに。客室空いてるよ」

 

 ヤチヨの言う客室は、もともとの3LDKに無理やり捻り出したものではない。

 四人で暮らし始めて1年が経つ頃、巡たちは同じ階にあった住戸をすべて買い取り、構造上取り除けない柱や耐力壁を残して、複数の部屋をひとつの住居として繋ぎ直していた。

 かつてはそれぞれ別の玄関と廊下を持っていた空間も、いまでは壁を大きく抜かれ、幅のある通路や吹き抜けに近い共有部を介して、ひと続きの生活圏になっている。

 

 最初に彩葉が暮らしていた3LDKの面影は、リビングの窓際やキッチンの配置にわずかに残っているものの、

 その先には四人それぞれの寝室だけでなく、ヤチヨの防音配信室、かぐやが気に入って使っている衣装部屋、

 彩葉の作業室、それから芦花が先ほどまで使っていた化粧部屋まで増設されていた。

 来客が泊まれる部屋も複数あり、芦花が一晩過ごしたところで、誰かがソファへ追いやられるようなことはない。

 少なくとも、部屋数だけを理由に遠慮する必要はなかった。

 

「明日の服も持ってきてないから」

「ヤッチョのを貸すよ~☆」

「サイズは合っても、趣味が合わない」

「よよよ。銀河歌姫ファッションを全否定された」

「全否定はしてない。私が着ると軽い事故になるって言ってるだけで」

「それは見たいかも」

 

 彩葉がソファから口を挟むと、ヤチヨが勢いよく振り返った。

 銀髪が肩の上で大きく弧を描き、獲物を見つけた猫のように瞳がきらりと輝く。

 

「彩葉の許可が出ました!」

「出してない」

 

 笑い声が、夕食の匂いと一緒にリビングへ広がる。

 芦花も笑った。

 きちんと、いつもどおりに。

 かぐやもヤチヨも、芦花を歓迎している。

 巡も彼女の分の飲み物を用意し、夕食の席を空けている。誰一人、外から来た人間として扱ってはいない。

 

 だから、なおさら苦しかった。

 冷たくされたなら、嫌いになる努力ができた。

 自分だけを遠ざけられたなら、この場所へ来ない理由を作れた。

 けれど、皆が優しい。

 親しい友人として、大切にしてくれる。

 彩葉のそばへ近づくことも、頬へ触れることも、この家の食卓へ加わることも許されている。

 ただし、それはすべて、芦花が望んだ名前とは違う形で。

 

「やっぱり帰るね」

 

 ケースの留め具を閉じる音が、思っていたより大きく響いた。

 かぐやが残念そうに眉を下げたものの、それ以上は引き止めなかった。

 

「じゃあ、今度は最初から晩ごはん予定に入れてよ」

「うん」

「絶対ね」

「分かったって」

 

 芦花は笑い、鞄を肩へ掛けた。

 玄関まで行けば、今日も何も言わずに帰れる。

 いつもと同じように手を振り、またねと言い、扉が閉まったあとで一人になればいい。

 そのはずだった。

 

「芦花」

 

 彩葉の声が、背中へ届いた。

 振り返ると、彼女はソファから立ち上がっていた。

 化粧はまだ落としておらず、芦花が整えた顔のまま、まっすぐこちらを見ている。

 

「送るよ」

「下までなら一人で行けるけど」

「知ってる。でも送る」

 

 彩葉の声には、普段の穏やかさとは違う、譲らない響きがあった。

 巡が、テーブルの上の食器を集めながら二人を見る。

 何かを察したのかもしれないが、問いかけることも、芦花へ意味ありげな視線を向けることもなかった。

 

「外、雨が降り始めたみたいだよ。傘を持っていくといい」

 

 そう言って、玄関に立て掛けられていた傘を彩葉へ渡す。

 ただそれだけだった。

 答えを知っているような顔もしなければ、話すよう促すこともしない。

 芦花は、その静かな配慮に少しだけ救われ、同じ分だけ苦しくなった。

 

 

 玄関の扉が閉じると、室内の笑い声が薄い壁の向こうへ遠ざかった。

 共用廊下にはホテルのような静けさがあり、足元の絨毯が二人の靴音を吸い込んでいる。

 窓はなく、等間隔に並ぶ照明だけが、どこまでも同じ明るさで通路を照らしていた。

 彩葉はエレベーターへ向かわなかった。

 代わりに、廊下の途中にある共用ラウンジの扉へ手を掛ける。

 

「少し、話せる?」

 

 芦花の胃の奥が、きゅっと縮んだ。

 喉までせり上がった緊張に呼吸が浅くなり、膝の上へ置いた指先から、じわじわと温度が失われていく。

 

「何を?」

「今日の芦花のこと」

「私、普通だったでしょ」

「普通にしようとしてた」

 

 扉を開けると、誰もいないラウンジが現れた。

 大きな窓の向こうでは、細かな雨粒が夜へ移りかけた空を斜めに横切っている。

 遠い街の灯りが濡れた硝子へ滲み、赤や白の点となって揺れていた。

 二人は窓際のソファへ向かい合って座った。

 空調の低い音が聞こえる。室内は暖かいはずなのに、芦花の指先だけが冷えていた。

 

「何かあった?」

 

 彩葉が尋ねる。

 真っ直ぐな問いだった。

 

「何もないよ」

「じゃあ、私が何かした?」

「してない」

「巡や、かぐややヤチヨに何か言われた?」

「何も言われてない。みんな優しかった」

「なら、どうしてそんな顔してるの」

 

 芦花は唇を結んだ。

 彩葉は、昔からこういうところだけは鋭かった。

 自分の身体の不調には鈍いくせに、身近な人間が本当に苦しんでいる時には、表面だけの言葉で納得しない。

 答えを急かしはしないが、誤魔化されたまま背を向けることもしない。

 

「彩葉には──知られたくない」

 

 ようやく出た言葉は、思っていたより拗ねていた。

 隠してきた歳月に比べてあまりに幼い響きで、それがかえって、彩葉の前でだけ戻ってしまう昔の自分を露わにした。

 

「でも私は知りたいよ──芦花の全部を訊かせてほしい」

「訊かないでよ」

「訊かない方がいい?」

「……そういう言い方、ずるい」

 

 声が掠れた。

 芦花は膝の上で手を握る。

 爪が掌へ食い込み、鈍い痛みが、胸の中で暴れそうになるものを辛うじて留めていた。

 

「私、ずっと、彩葉が幸せになればいいと思ってた」

 

 言葉が出た瞬間、もう戻れないことが分かった。

 閉じていた扉が内側から押し開かれ、喉の奥に積もっていた年月が、冷たい空気へ一斉に触れたようだった。

 

「ちゃんと寝て、ちゃんと食べて、自分を大事にして、好きな人と一緒にいられればいいって。

 かぐやちゃんの身体を作るって聞いた時も、無茶だとは思ったけど、彩葉がそれで前へ進めるなら応援したかった。

 巡くんのことを聞いた時も、八千年なんて正直、今でも全部は理解できないけど、彩葉にとって必要な人なんだって分かったから、受け入れようと思った」

 

 雨が硝子を叩く音は聞こえなかった。

 高層階の分厚い窓は、外の天候を映像のように遠ざけ、室内へ届くのは空調音と、自分の浅い呼吸だけだった。

 

「かぐやちゃんとヤチヨのことだって、嫌いじゃない。むしろ好きだよ。二人が今ここにいて、彩葉と一緒に笑ってることも、本当に良かったと思ってる。

 今日だって、皆が彩葉のことを大事にしてるのが分かった。巡くんは彩葉の喉が乾いてることに気づくし、かぐやちゃんは彩葉が好きなものを作るし、ヤチヨは彩葉が疲れたら笑わせる。

 彩葉も、あの三人の前では、私が知らないくらい安心した顔で笑う」

 

 喉の奥が痛んだ。

 これまで何度も飲み込んできたものが、出口を得た途端、形を保てなくなって溢れていく。

 

「それを見てたら、嬉しかった。嬉しかったはずなのに……私もそこにいたかったって思っちゃった」

 

 彩葉の瞳が、わずかに揺れた。

 濡れた窓の灯りを映した瞳孔が細く震え、芦花の言葉を一つも取りこぼすまいとするように、まっすぐこちらを見つめている。

 

「友達として夕食に呼ばれるんじゃなくて、彩葉が帰ってきてほしいと思う相手になりたかった。

 撮影の日だけじゃなくて、朝の顔も、寝る前の顔も、疲れた時に最初に見せる顔も知りたかった。

 私だって、彩葉に一回くらい、そういう意味で選ばれたかった」

 

 芦花は俯いた。

 目頭が熱い。

 泣くつもりなどなかった。

 感情を伝えるにしても、もっと落ち着いて、相手を困らせない言い方をするつもりだった。

 けれど、相手を困らせないように整え続けた結果が、何年もの沈黙だった。

 

「私、彩葉のことが好き」

 

 その一言は、思いのほか静かに出た。

 声を張ることも、泣き崩れることもなかったのに、口にした途端、二人の間にあった親友という境界だけが確かに軋んだ。

 

「友達としてじゃないよ。ずっと好きだった。彩葉が誰かを好きになるたび、その人になれたらって思ってた。でも言ったら困らせるし、友達でいられなくなるのが怖かった。

 今さら、巡くんやかぐやちゃんやヤチヨを退かせたいわけじゃない。皆が作ったものへ、私の席を空けてって言うつもりもない」

 

 握り締めていた手を、少しだけ緩める。

 掌には爪の跡が残っていた。

 

「答えは、いらない」

 

 最後まで、そう言い切ろうとした。

 けれど舌は乾き、語尾は喉の奥で細くほどけ、長年と同じ逃げ道へ自分から戻ろうとしていることを芦花自身が悟っていた。

 

「言いたかっただけ。だから、この話はここで――」

「それは駄目」

 

 彩葉の声が、芦花の逃げ道を塞いだ。

 強くはなかった。

 けれど、曖昧に聞き流せる声でもなかった。

 

「どうして」

「芦花だけ全部言って、私には何も考えさせないで終わらせようとしてるから」

「考えさせたら、困るでしょ」

「困ってるよ」

 

 彩葉は正直に答えた。

 その言葉へ、芦花の胸が冷たくなる。

 分かっていたはずなのに、直接聞けば痛い。

 しかし彩葉は、すぐに続けた。

 

「でも、芦花に好きって言われたことが嫌で困ってるんじゃない」

 

 彩葉は膝の上へ置いていた手を見つめ、言葉を探すように指を組み直した。

 指の節が白くなるほど力が入り、嬉しいと認めた先に何が待つのかを恐れる気配が、その小さな動きへ滲んでいた。

 

「嬉しかったから困ってる」

「……同情なら」

「同情で嬉しいとは言わないよ」

 

 彩葉が顔を上げる。

 鏡の前では何度も見つめてきた顔なのに、今は化粧の色も、整えた眉の形も目に入らなかった。

 

「私は、芦花のことが大事。これは昔から変わらない。芦花に顔を触られても嫌じゃないし、勝手に生活を管理されても、本気で嫌だと思ったことはない。

 芦花が来ると安心するし、何かあった時に話したいと思う。今日、帰るって言われた時も、もう少しいればいいのにって思った」

 

 彩葉は一度、そこで息を止めた。

 伏せた睫毛が細かく震え、次に口にする言葉が芦花を傷つけるかもしれないと知りながら、それでも嘘へ逃げまいとしていた。

 

「でも、それが恋愛なのかは、今の私には分からない」

 

 甘い嘘をつかない言葉だった。

 芦花は、胸の奥を小さな刃で切られたような痛みを覚えた。

 それでも、拒絶された時に訪れるはずの底のない落下は起きなかった。

 

 彩葉の言葉には、まだ続きがあった。

 

「芦花を抱き締めたいと思うのが、親友だからなのか、恋愛として好きだからなのか。

 芦花が別の人と付き合ったら寂しいと思うのが、友達を取られたくないだけなのか、それ以上なのか。今すぐ名前をつけろって言われたら、私はたぶん間違えるから」

 

 窓の外で、雨をまとった航空灯が赤く瞬いた。

 彩葉は、その光を一度だけ見てから、再び芦花へ視線を戻した。

 

「だから、分からないまま友達の席へ戻したくない」

 

 芦花が、息を呑んだ。

 期待してはいけないと押さえ込んだ胸の奥で、それでも小さな灯が点り、痛みと希望が同じ場所へ重なった。

 

「私が答えを出せないから、今までと同じにしようって言ったら、たぶん芦花は笑って頷くと思う。でも、そのあともずっと、今日みたいに苦しい顔を隠すでしょう。それは嫌だ」

「じゃあ、どうするの」

「確かめたい」

 

 彩葉は迷いながら、それでも一つずつ言葉を選んだ。

 急げば優しい嘘へ転び、慎重になりすぎれば拒絶に聞こえる、その細い道を確かめるように口を開く。

 

「今すぐ芦花を恋人って呼べるかは分からない。巡や、かぐやや、ヤチヨに向けているものと、同じ形の気持ちだとも言えない。

 でも、芦花に好きだと言われることは嬉しい。芦花と二人で出かけることも、触れられることも嫌じゃない。むしろ、今までと違う意味で芦花を見ることを、やってみたいと思ってる」

 

 彩葉の指が、ゆっくりと芦花の手へ伸びた。

 握り締めたせいで赤くなった掌を見つけると、痛ましそうに眉を寄せ、その指先へそっと触れる。

 

「だから、答えが分かるまで、一緒にいてほしい」

「それ……」

 

 芦花の声が震えた。

 重ねられた指先まで微かな震えが伝わり、期待を抱いてしまった自分を咎めるように、唇がきつく結ばれる。

 

「保留なのに、期待させる一番ずるいやつじゃん」

「うん。私もそう思う」

「否定してよ」

「できない。芦花に待ってほしいって言ってるから」

 

 彩葉は手を引かなかった。

 言葉だけで引き留めるのではなく、ここにいるという意思を伝えるように、触れた指へ静かな力を残していた。

 

「嫌なら断って。私が勝手に悩んで、芦花の時間を使わせる権利はないから」

「断れるわけないでしょ」

 

 芦花の目から、とうとう涙が落ちた。

 頬を伝い、丁寧に仕上げた自分の化粧を細く濡らす。

 

「ずっと好きだったんだよ。やっと可能性があるって言われて、断れるほど潔くない」

「そっか」

「そこで安心した顔しないで。まだ彩葉の返事、かなり不誠実だからね」

「分かってる」

「私、簡単に諦めないから」

「うん」

「途中でやっぱり友達でしたって言われたら、たぶん泣くし、怒る」

「それも分かってる」

「分かってないよ。彩葉、人の恋愛感情なめてるところあるから」

「これから勉強する」

 

 あまりにも彩葉らしい返答に、芦花は泣きながら笑ってしまった。

 彩葉も、ようやく少し笑う。

 その笑顔は、先ほど家の中で見た安堵に満ちたものとは違っていた。

 戸惑いと緊張が混じり、自分の選択が誰かを傷つけるかもしれない怖さを抱えながら、それでも逃げまいとしている顔だった。

 

「次の土曜日、空いてる?」

 

 彩葉が尋ねた。

 その声音には誘うことへの照れと、曖昧なままでも一歩を進めると決めた者の緊張が、ほとんど同じ割合で混じっていた。

 

「午後なら」

「二人で出かけよう」

「……どこに?」

「まだ決めてない」

「計画性ないなあ」

「芦花が好きなところを考える。研究所には行かないし、巡たちも連れていかない。二人だけで」

 

 彩葉は、そこで少しだけ言葉を切った。

 軽い約束として受け取られないよう呼吸を整え、芦花の瞳を見直してから、続きを口にする。

 

「恋人になれるかを審査するための時間にはしたくない。今まで親友って名前で分かったつもりになっていた芦花を、違う見方で知り直したい」

 

 芦花は返事をせず、重ねられた手を見た。

 まだ恋人ではない。

 けれど、告白する前と同じ親友へ戻ったわけでもない。

 長く座り続けた席から立ち上がり、名前のない場所へ二人で足を踏み出したばかりだった。

 

「……分かった」

 

 芦花は指を動かし、彩葉の手を握り返した。

 その温度を受け入れた瞬間、長く行き場を失っていた想いに、まだ名はなくとも進む方向だけが与えられた。

 

「最初のデート、私が服選んであげる」

「私の?」

「両方。彩葉に任せたら、研究所へ行く時と同じ服で来そうだから」

「さすがにそんな常識はずれなことはしないよ。でもあの服はあれで機能性抜群なんだよ?」

「そういうところから教え直すの」

「先が長そうだね」

「今さらでしょ」

 

 八千年には及ばない。

 四年間の研究にも、世界を変えた発明にも及ばない。

 けれど二人の間に横たわっていた、告げられないまま積み重なった歳月を越えるには、その一歩で十分だった。

 窓の外では、雨が少しずつ細くなり、濡れた街の光が輪郭を取り戻し始めている。

 芦花は涙で崩れた目元を指先で拭い、彩葉の顔を見た。

 

「ところで、彩葉」

「何?」

「私が泣いてるのに、自分だけ完璧なメイクのままなの、ちょっと腹立つ」

「芦花がしたんでしょ」

「そうだけど」

 

 芦花はポーチから綿棒を取り出し、自分の目元を直そうとした。

 彩葉が、その手を止める。

 

「貸して」

「できるの?」

「いつも芦花がやってるのを見てたから、少しくらいなら」

「目に刺さないでよ」

「そんなに信用ない?」

「美容に関してはない」

 

 彩葉は緊張した手つきで綿棒を持ち、芦花の目尻へ触れた。

 ぎこちなく、時間がかかり、力加減も少し危うい。それでも芦花は目を閉じ、初めて自分の顔を彩葉へ預けた。

 親友の続きを、これから何と呼ぶのかは、まだ分からない。

 分からないままでも、二人はもう、同じ答えを待つことができた。

 

 

 芦花をエントランスまで送り届け、雨の夜へその背中が消えていくのを見届けてからも、彩葉はしばらく自動扉の前に立っていた。

 ガラスの向こうでは、街灯に照らされた雨粒が細い銀糸となって落ち、歩道を行き交う傘が、濡れた路面へ色とりどりの影を滑らせている。

 芦花は一度も振り返らなかった。

 もっとも、振り返ったところで、彩葉がまだ見送っていることなど、とっくに見抜かれていたのかもしれない。

 

 右手の指先には、芦花の手を握った感触が残っていた。

 強く握られたわけではない。

 むしろ、少し力を加えれば簡単にほどけてしまいそうな触れ方だった。

 それなのに、掌の奥には熱が居座り、エレベーターへ戻るあいだも、彩葉は何度も自分の指を握ったり開いたりしていた。

 

 好きだと告げられた。

 その場で断ることはできなかった。

 嫌ではなかった。それどころか、嬉しかった。

 その事実を認めるたび、胸の中へ温かなものと冷たいものが同時に流れ込んでくる。

 芦花の言葉を拒絶しなかったことへの安堵と、拒絶できなかった自分への嫌悪が、互いの輪郭を削りながら混ざり合っていた。

 

 エレベーターの鏡に映る自分の顔には、芦花が丁寧に施した化粧がまだ残っている。

 眉の形も、目元の淡い色も、崩れていなかった。

 ただ、その顔を整えてくれた本人だけが泣き、彩葉はほとんど泣かなかった。

 泣けなかったというより、答えを出す責任の方が先に立ち、感情が追いつく暇を失っていた。

 

 階数表示が静かに上がっていく。

 一階、十階、二十階。

 数字が切り替わるたび、家へ近づいているはずなのに、彩葉の胃の奥には重いものが沈んでいった。

 帰れば、巡がいる。

 かぐやがいる。

 ヤチヨがいる。

 愛している三人が待っている家へ、別の人から告白された事実と、その告白を嬉しいと感じた自分を持ち帰る。

 何をどう話しても、自分の欲深さを告白するようにしか思えなかった。

 かぐやの可愛らしい欲深を今は笑う事は出来ない。

 欲深怪獣いろはである。

 

 到着を知らせる音が鳴り、扉が左右へ開く。

 共用廊下へ足を踏み出した瞬間、彩葉はほんの少しだけ、別の階へ逃げたいと思った。

 もちろん、逃げなかった。

 

 

 玄関の扉を開けると、煮込み料理の温かな香りが迎えた。

 トマトの酸味と、火を通した玉葱の甘さ、それに香草の清涼感が重なり、外の雨で冷えた鼻腔へ柔らかく入り込んでくる。

 リビングからはテレビの音が小さく聞こえたが、誰も内容を見てはいないらしく、人の話し声はなかった。

 

「ただいま」

 

 いつもより少し掠れた声になった。

 広い玄関に落ちた「ただいま」は頼りなく、温かな家へ帰ってきたはずの彩葉自身だけが、まだ雨の中へ片足を残しているようだった。

 

「おかえり、彩葉」

 

 最初に返ってきたのは、巡の声だった。

 彼はダイニングテーブルの上で資料を読んでいたらしく、端末を伏せると、彩葉の顔をまっすぐ見た。

 視線は穏やかで、問い詰める色はない。

 それでも、目元の赤みや、帰宅までにかかった時間から、何かがあったことくらいは察したのだろう。

 ソファでは、かぐやがクッションを抱え、ヤチヨがその隣で銀髪を梳かしていた。

 

「芦花、ちゃんと帰った?」

 

 かぐやが尋ねた。

 抱えていたクッションへ顎を載せたまま、金色の瞳だけを彩葉へ向け、返事の奥にあるものまで待つように瞬きをする。

 

「うん。タクシーに乗るところまで見送った」

「そっか」

 

 かぐやはそれだけ答えた。

 いつもなら、芦花と何を話していたのか、なぜあんなに長くかかったのかと無邪気に訊いてきそうなところだった。

 だが今夜は、彩葉の表情から、すぐに言葉を重ねてはいけないと感じたらしい。

 ヤチヨもブラシを膝へ置き、黙って彩葉を見ている。

 三人の沈黙は優しかった。

 だからこそ、誤魔化して部屋へ戻ることはできなかった。

 

「話がある」

 

 彩葉が言うと、巡は立ち上がり、キッチンへ向かった。

 理由を急かすことも、慰めを先回りして差し出すこともなく、まず話せる場所を整えるように、静かに湯を沸かし始める。

 

「温かいものを淹れるよ。紅茶でいい?」

「……うん」

「彩葉、こっち座りなよ」

 

 かぐやが自分の隣を軽く叩く。

 彩葉はジャケットを脱ぎ、ソファまで歩いた。普段と同じ距離のはずなのに、足元の絨毯がひどく長く感じられた。

 かぐやとヤチヨの間へ座る勇気はなく、少し離れた一人掛けの椅子を選ぶ。

 その選択を見て、ヤチヨの目がわずかに細くなった。

 

「今から怒られる人みたいな座り方してるねえ」

「……怒られるかもしれないから」

「誰に?」

「三人に」

 

 かぐやとヤチヨが顔を見合わせた。

 やがて巡が、湯気の立つカップを四つ運んできた。

 彩葉の前へ一つを置き、自分は向かいの椅子へ腰を下ろす。

 紅茶の香りが立ち昇った。

 けれど彩葉は手を伸ばせず、膝の上で指を組んだ。

 少し前まで芦花と触れ合っていた手を、三人の目から隠そうとしていることに気づき、余計に後ろめたくなった。

 

「芦花に、告白された」

 

 最初の一言を口にすると、室内の空気がほんの少し変わった。

 かぐやは驚いて目を開き、ヤチヨは一度だけ瞬きをした。巡は表情を大きく変えなかったが、膝の上で重ねていた指がわずかに動いた。

 

「ずっと私のことが好きだったって。友達としてじゃなくて、そういう意味で」

 

 彩葉は三人の反応を見ることができず、カップから上がる湯気へ視線を落とした。

 揺らぐ白い筋が表情を曖昧に隠してくれることへ縋るように、膝の上で指を強く絡める。

 

「それで、私は……断れなかった」

「断りたくなかったの?」

 

 ヤチヨの問いは静かだった。

 責める口調ではない。

 それでも、答えの曖昧さを許さない声音だった。

 

「分からない」

「嫌だった?」

「嫌じゃなかった」

「嬉しかった?」

 

 彩葉の喉が詰まる。

 否定すれば、芦花へ嘘をつく。

 肯定すれば、目の前の三人を裏切るような気がした。

 だが、ここでまた感情を隠せば、相談するために戻ってきた意味がなくなる。

 

「……嬉しかった」

 

 口にした途端、胸の奥が冷えた。

 否定される前から身体が罰を待つように縮こまり、肩の内側へ力が入り、呼吸さえ一段浅くなる。

 

「ごめん」

「どうして謝るの?」

 

 かぐやが首を傾げた。

 金髪が肩からさらりと滑り、責める理由を本気で見つけられないという戸惑いが、丸く見開かれた瞳に浮かぶ。

 

「だって、私はもう三人のことが好きなのに」

 

 声が震えた。

 彩葉は組んでいた指へ力を込めた。

 

「巡が好き。かぐやが好き。ヤチヨも好き。それぞれ全然違う意味で大事で、誰も失いたくない。

 それなのに、芦花から好きだって言われて、ちゃんと断れなかった。嬉しいと思って、芦花を違う意味で知りたいなんて言った」

 

 自分の口から並べるほど、節操のない人間に思えてきた。

 一つ一つは嘘ではないのに、声にして重ねるたび、胸の中へ自分を裁くための証拠だけが積み上がっていく。

 

「私、気が多いんだと思う」

「彩葉」

「たぶん、駄目な人間なんだよ」

 

 巡が何か言おうとしたが、彩葉は止まれなかった。

 ここで遮られれば優しい言葉へ逃げてしまうと恐れるように、息を継ぐ間も惜しんで、抱えていた自己嫌悪を吐き出していく。

 

「三人も好きな人がいるのに、まだ他の人から好かれて嬉しいなんて思ってる。今の生活に満足してないわけじゃない。むしろ、こんなに幸せでいいのかって思うくらいなのに。

 それでも芦花の手を離したくなかった。これ以上欲しがったら、いつか誰かを傷つけるって分かってるのに」

 

 視界が滲んだ。

 芦花の前では泣けなかった涙が、いまになって目の奥へ集まってくる。

 

「芦花への対応が、間違ってたとも思えない。あそこで好きでもないって嘘をつくことも、考えさせてって言わずに突き放すことも、違うと思った。

 でも、正しかったと思う自分がいることまで含めて、すごく自分勝手に思える」

 

 そこまで吐き出したところで、彩葉は両手で顔を覆い、背中を深く丸めた。

 芦花が整えた化粧を崩さないようにという配慮すら忘れ、掌へ額を押しつけたまま、行き場を失った羞恥と自己嫌悪を喉の奥から絞り出す。

 

「うあ゛あ゛あああぁぁぁ……」

 

 世界の技術体系を何度も塗り替えた酒寄研究所所長とは思えない、ひどく情けなく湿った呻きだった。

 けれど、そのみっともなさを三人の前へ晒せたこと自体が、彩葉が本当に助けを求めている証でもあった。

 

 しばらく、誰も口を開かなかった。

 窓の外では雨が続いている。

 高層階まで雨音は届かないが、硝子を伝う水滴が、遠い街の灯りを細長く歪めていた。

 やがて、かぐやがクッションを脇へ退けた。

 

「彩葉、こっち来て」

「今は――」

「いいから」

 

 いつもの弾んだ調子ではなかった。

 彩葉が立ち上がる前に、かぐやの方から近づいてきた。

 椅子の前へしゃがみ込み、膝の上で固く握られていた彩葉の手を取る。

 

「かぐや、彩葉が芦花を好きかもしれないって聞いて、ちょっと嫌だったよ」

 

 彩葉の指が震えた。

 その揺れは手を包むかぐやの掌にも伝わったが、金髪の少女は指を解かず、むしろ確かめるように握り直した。

 

「……うん」

「かぐやの彩葉なのに、って思った。巡とヤチヨはもう一緒にいるけど、そこへ新しく誰かが来るって聞くと、彩葉がその分だけ遠くなるのかなって、ちょっと怖い」

 

 かぐやは、慰めるための嘘をつかなかった。

 金色の瞳には不安があった。

 しかし、その手は彩葉を離さない。

 

「でも、彩葉が芦花を嘘で追い払えばよかったとは思わない。芦花が泣いてるのに、彩葉が自分たちに怒られないためだけに、好きじゃないって言ったら、かぐやはそっちの方が嫌だよ」

「でも、私が本当に芦花を好きになったら」

「その時は、かぐやもいっぱい考える。寂しいって言うかもしれないし、彩葉にもっとかぐやを見てって言うかもしれない」

 

 かぐやは少し唇を尖らせた。

 幼い不満を隠さないその表情は、それでも彩葉を責めるためではなく、自分の寂しさも同じ食卓へ置くためのものだった。

 

「でも、それと彩葉が駄目な人かどうかは別だよ。好きな人が増えたから悪い人って決まるなら、かぐやたち、最初から全員だいぶ駄目じゃん」

 

 思いがけない結論に、彩葉は涙を溜めたまま瞬きをした。

 ヤチヨが隣で噴き出す。

 

「かぐや、結論の置き方が豪快」

「でも間違ってないっしょ?」

「間違ってはないねえ」

 

 ヤチヨは微笑みながら立ち上がり、かぐやの隣へ腰を下ろした。

 膝に置いていたブラシを静かにテーブルへ移し、今度は冗談ではなく八千年を生きた一人として、彩葉へ身体を向ける。

 

「ヤッチョは八千年のあいだに、一人が複数の相手を愛する家も、その逆も、たくさん見てきたよ。仲良く暮らしていた家族もいれば、誰か一人が我慢し続けて壊れた家もあった」

 

 声から冗談の気配が消えた。

 銀色の瞳には過ぎ去った時代の家々が一瞬だけ影を落とし、見てきた幸福も破綻も、軽く扱わない重みへ変わる。

 

「だから、昔にもあったから大丈夫、とは言わない。形が古いとか新しいとか、人数が多いとか少ないとか、それだけで幸せは決まらない。

 誰かが本音を隠して、選ばれない不安を飲み込み続けるなら、どれだけ立派な名前をつけても駄目な関係だよ」

 

 ヤチヨは彩葉へ手を伸ばし、かぐやとは反対側の手を包んだ。

 左右から異なる温度に挟まれ、彩葉の握り締めていた指が、ようやくわずかにほどける。

 

「でもね、好きだと言われて嬉しかったことと、相手を利用することは同じじゃない。すぐ答えられないと正直に言って、期待させる危険も自覚して、それでも確かめたいと伝えたんでしょう?」

「うん」

「なら、無責任ではあるかもしれないね」

 

 彩葉の肩が小さく揺れた。

 胸へ刺さった言葉に顔色が曇り、やはり自分は間違えたのだという結論へ、すぐに転がり落ちそうになる。

 

「ちょっと、ヤチヨ」

 

 かぐやが眉を寄せた。

 彩葉の傷ついた表情を見て、握った手へ力を込めながら、ヤチヨの次の言葉を促すように視線を向ける。

 

「最後まで聞いて」

 

 ヤチヨは彩葉から目を逸らさなかった。

 都合のよい慰めで傷口を塞がず、責任も希望も同じ場所へ置くために、落ち着いた声で続きを紡ぐ。

 

「芦花の時間と感情を預かることになるから、責任がないとは言えない。でも、責任があることと、間違っていることは別だよ。

 責任が生まれたなら、これから誠実に持てばいい。答えが出るまで放置しない。自分に都合のいい時だけ芦花を呼ばない。私たちにも芦花にも、気持ちが変わった時は隠さないで」

 

「……私にできるかな」

「一人でやろうとしなければね」

 

 ヤチヨは少し笑った。

 それは免罪符を与える笑みではなく、一人で罰を背負おうとする彩葉へ、こちらにも持たせろと告げるような柔らかさだった。

 

「こうして相談しに来た時点で、少なくとも一人でこっそり始める気はなかったんでしょう?」

 

 彩葉は小さく頷いた。

 巡はそれまで口を挟まず、三人のやり取りを見守っていた。

 やがてカップへ手を伸ばし、すっかり湯気の薄くなった紅茶を一口飲んでから、静かに口を開く。

 

「彩葉が、芦花さんを好きになるかもしれないことへ、私も何も感じないわけではないよ」

 

 その一言に、彩葉は顔を上げた。

 涙で濡れた睫毛が照明を細く反射し、巡の口から拒絶が出ることを恐れながらも、聞かずにはいられない目で見つめる。

 

「巡も、嫌?」

「少し怖いとは思う」

 

 巡は正直に答えた。

 安心させるためだけの笑みは浮かべず、自分の中にもある嫉妬と不安を、彩葉と同じ卓上へ置くように言葉を続ける。

 

「彩葉が芦花さんと新しい関係を作れば、今まで私たちに使っていた時間や気持ちの一部は、そちらへ向かうかもしれない。

 頭では、愛情は物のように分割されるものではないと分かっていても、寂しいと感じる瞬間はあると思う」

 

 八千年を生きたから、嫉妬を知らないわけではない。

 あらゆる感情を超越し、何でも許せるようになったわけでもない。

 長い時間を生きたからこそ、人間の心が理屈だけで整わないことを、巡はよく知っていた。

 

「でも、嫉妬する可能性があることを理由に、彩葉の感情が生まれる前から否定したくはない。

 誰を好きになるかは、完全には選べないからね。選べるのは、その気持ちをどう扱うかだと思う」

 

 巡は椅子を離れ、彩葉の前まで来た。

 絨毯を踏む足音はほとんど響かず、それでも近づいた気配だけが、塞ぎ込んだ彩葉の視界へ確かな輪郭を持って入ってくる。

 

「彩葉が気の多い人間なのかは、私には分からない。でも、好きな人の人数だけで、人の誠実さは決まらないよ。

 一人だけを愛していても、その人を傷つける者はいる。複数の人を愛していても、一人ずつの気持ちを軽く扱わない者もいる」

「でも、私は三人に十分返せてるかも分からないのに」

「私たちが足りないと感じた時は、私たちが言うよ」

 

 巡の返答は穏やかだったが、明確だった。

 彩葉の自己評価へ同意する余地を残さず、それでいて感情を押しつけることもなく、一語ずつ静かに届いていく。

 

「彩葉が先回りして、私たちの代わりに不幸を決めなくていい。かぐやが寂しいなら、かぐやが寂しいと言うし。ヤチヨが不安なら、ヤチヨが伝える。私も同じだよ」

 

 巡は、彩葉の頬へ触れた。

 芦花が整えた化粧の上を、崩さないよう指先でそっとなぞる。

 

「ただし、私たちが理解を示したからといって、芦花さんを曖昧なまま待たせ続けていいわけではない。

 彩葉は、まだ分からないという答えを選んだ。その答えには期限を決めなくてもいいけれど、進もうとする意思は必要だと思う」

「進む意思?」

「芦花さんと向き合う時間を作る。今まで友人だから訊かなかったことを訊く。自分が何を嬉しいと感じ、どこで戸惑うのかを隠さない。そして、芦花さんにも途中で降りる自由があることを忘れない」

 

 正解を言い渡しているのではなかった。

 アンサートーカーから恋愛の解を引き出しているわけでもない。

 人の心には、問いを正しく立てても、一つの答えへ収束しないものがある。

 だから巡は、解決策ではなく、誠実でいるための道筋だけを彩葉の前へ置いた。

 

「私たちに相談したことも、芦花さんには伝えた方がいいと思う。ただ、許可をもらったとは言わない方がいい」

 

 彩葉が首を傾げた。

 濡れた目元に純粋な疑問が浮かび、許可と共有の違いを、まだ自分の中でうまく切り分けられていない様子だった。

 

「どうして?」

「芦花さんは、私たちから彩葉を分けてもらうわけではないから」

 

 その言葉へ、かぐやが強く頷いた。

 金の髪が肩の上で弾み、芦花を誰かの許可で加わる存在にはしないという意志が、子供らしく真っ直ぐな動きに表れた。

 

「そだよ。芦花は四人目の枠に入るんじゃなくて、芦花でしょ」

「私たちは、彩葉と芦花の間にできるものを許可する人ではないからね。ただ、その関係によって自分たちがどう感じるかを、正直に伝える人であろうとは思う」

「では家族会議の結論としては」

 

 ヤチヨが急に配信者めいた調子を戻し、指を一本立てた。

 張り詰めた空気を少しだけ緩めるように背筋を伸ばし、即席の家族会議を仕切る司会者の顔を作る。

 

「彩葉は気が多い駄目人間、ではありません」

 

 二本目の指が立った。

 内容は恋愛相談のはずなのに、ヤチヨの表情だけは研究所の運用規則を読み上げる担当者のように厳粛だった。

 

「ただし、すでに三人の想い人がいる状態で、新規恋愛候補を発生させたため、連絡・相談・心のケアが通常より増えます」

 

 三本目の指が、最後の条項を示すように加わった。

 銀髪の歌姫はわざとらしく咳払いし、全員の視線が集まったことを確認してから続ける。

 

「そして全員、我慢を美徳にしないこと。寂しい時は寂しい、嫌な時は嫌、嬉しい時は嬉しいと申告すること」

「業務連絡みたい」

 

 彩葉が涙声で笑った。

 喉の奥に引っ掛かっていた嗚咽が、少し不格好な笑いへ形を変え、張り詰めていた肩からわずかに力が抜ける。

 

「恋愛関係が増えると、情報共有が大事なので」

「ヤチヨ、昔そういう家族にいたことあるの?」

「ヤッチョ自身は色々ありすぎて、どこからを家族と数えるかで歴史学会が割れます」

「聞いた私が悪かった」

 

 かぐやが、彩葉の手を引いた。

 自分から離れた場所へ座り続けることを許さないように、けれど痛ませない加減で、温かなソファの中央へ誘う。

 

「ねえ、こっち座ろ」

 

 今度は彩葉も逆らわなかった。

 一人掛けの椅子から立ち、ソファの中央へ腰を下ろす。かぐやが左側から肩へ寄り、ヤチヨが右側から腕を絡めた。

 巡も床へ片膝をつき、三人に囲まれた彩葉を見上げる。

 

「……本当に、怒ってないの?」

 

 彩葉が尋ねた。

 三人の表情を順番に確かめる視線には、信じたい気持ちと、まだ罰を待っている臆病さが同居していた。

 

「怒ってない」

 

 かぐやが答えた。

 迷いのない一言とともに頷き、彩葉の肩へ触れたまま、自分の場所から退く気はないと身体ごと伝える。

 

「不安がないわけではありません」

 

 ヤチヨが続けた。

 明るく取り繕わず、銀の瞳に残る不安もそのまま見せることで、理解と無関心は違うのだと示していた。

 

「私も同じだよ」

 

 巡が言う。

 三人とも、同じ言葉で誤魔化しはしなかった。

 無条件の祝福でも、聖人じみた自己犠牲でもない。

 不安はある。嫉妬もあるかもしれない。生活が変わることへの恐れもある。

 それでも、彩葉の心を罪として裁くことはしない。

 

「彩葉」

 

 かぐやが肩へ頬を寄せた。

 髪が彩葉の頬へくすぐったく触れ、その温度が、頭の中で膨らみ続けていた罪悪感を現実の側へ引き戻す。

 

「好きな人が増えるかもしれないなら、その分、いっぱい話そうよ。話して、ちゃんと喧嘩もして」

 

 ヤチヨが反対側から続けた。

 絡めた腕を少し揺らし、逃げずに話し合うなら自分も隣にいると、いつもの柔らかな声音で告げる。

 

「それでも一緒にいたいかを、そのたびに選べばいい」

 

 巡の手が、彩葉の膝の上へ重ねられた。

 左右から寄り添う二人とは違う静かな重みが加わり、ばらばらに暴れていた思考へ、ひとつの支点が置かれる。

 

「関係は、最初に正しい形を決めれば終わりではないからね。私たちはもう何度も、一緒にいる方法を選び直してきた。芦花さんとのことも、急いで結論へ閉じ込める必要はないと思うよ」

 

 彩葉は、三人の顔を順番に見た。

 こんなにも愛されている。

 それなのに別の人へ心が揺れた自分は、やはり欲深いのかもしれない。

 けれど、欲深いことと、誰かを粗末にすることは同じではない。

 芦花を好きになる可能性を受け入れるなら、その気持ちへ責任を持つ。いま目の前にいる三人の不安からも逃げず、誰かが我慢を始めた時には、見えないふりをしない。

 それは簡単な道ではなかった。

 だからこそ、曖昧な優しさだけで歩いてはいけない。

 

「……私、芦花と出かけてみたい」

 

 彩葉は、改めて口にした。

 今度の声には先ほどまでの自己嫌悪だけではなく、自分の選択を引き受けようとする、まだ細いながらも確かな意志があった。

 

「二人だけで。今まで親友として見ていた芦花を、違う意味で知りたい」

 

 かぐやの腕が、一瞬だけ強くなった。

 寂しさを感じたのだろう。それでも離れず、代わりに胸の内へ生まれた小さな棘を、彩葉が背負い込む罪へ変わる前に、自分の言葉で取り出そうとした。

 

「うん。じゃあ彩葉、かぐやにも埋め合わせして」

 

 彩葉の表情が、すぐに曇りかける。

 その変化を見たかぐやは、深刻な謝罪を求めているのではないと伝えるように、絡めた腕を軽く揺らした。

 

「そんな顔しないの。かぐや、ちょっと寂しいから、その分を彩葉からちゃんともらいたいだけ。

 新しいデュエット曲を一曲作って、二人で練習して、このリビングでミニライブしよう。お客さんは巡とヤチヨで、かぐやが満足するまでアンコールあり」

 

 かぐやは、彩葉の罪悪感をただ否定して消そうとはしなかった。

 返し先のない後悔は彩葉の中で際限なく膨らむからこそ、自分の寂しさへ具体的な形を与え、彩葉が喜んで返せる約束として受け取ろうとしている。

 

 彩葉にも、その意図は伝わったらしい。

 目元に残っていた痛みが少しほどけると、かぐやの手を取り、芝居がかった恭しさで指先へ額を寄せた。

 

「お任せあれ、お姫さま」

「えへへ。よきにはからえー」

 

 かぐやが満足そうに胸を張った、その隣で、ヤチヨが待っていましたとばかりに人差し指を上げた。

 銀色の瞳には悪戯っぽい光が戻っており、彩葉の負担を増やさず、しかし自分の寂しさも可愛らしく回収する案を、すでに用意していたらしい。

 

「ではヤッチョには、その新曲の世界最速先行試聴会を要求します。会場は彩葉の膝の上、頭なでなでオプション付き、眠くなった場合は寝落ち保証もお願いします」

「それ、埋め合わせというより、ただ甘やかされたいだけじゃない?」

「心のケアです」

 

 ヤチヨは一点の曇りもない顔で言い切り、彩葉の腕へ頬を寄せた。

 かぐやが「ずるい、かぐやも膝枕する」とすぐに競り合いへ加わり、先ほどまで彩葉の胸に沈んでいた罪悪感は、いつの間にか二人分の予約をどう捌くかという、温かく現実的な問題へ姿を変えていた。

 

「……分かった。銀のお姫さまのご要望も承りました」

「ヤオヨロ~。良き埋め合わせです」

「でも帰ってきたら、かぐやにも今日何食べたか教えて」

「そこ?」

「大事だよ。彩葉が芦花と美味しいもの食べるなら、かぐやも次に連れてってもらうから」

「それはデートの監査なの?」

「情報共有です」

 

 ヤチヨが真顔で補足した。

 口元には笑いを堪える気配があるものの、情報共有という建前だけは最後まで崩さない。

 

「ヤッチョには、芦花のデート服の写真を提出してください」

「それは芦花に訊かないと」

「では本人へ正式申請を」

 

 彩葉は、ようやく声を上げて笑った。

 泣いたせいで目元が熱く、喉の奥もまだ痛んでいる。それでも、胸を押し潰していたものは、少しずつ形を変え始めていた。

 自分を責めるための鉛ではなく、これから守らなければならない約束の重さへ。

 

「紅茶、冷めちゃったね」

 

 巡がテーブルを見た。

 四つのカップからはもう湯気が消え、話し始めてから流れた時間だけが、淡い香りとして卓上に残っている。

 

「淹れ直すよ」

 

「ううん。これ飲む」

 

 彩葉は冷めかけたカップを手に取った。

 温度は失われていたが、香りはまだ残っている。口へ含めば、わずかな渋みと、柔らかな甘さが舌へ広がった。

 完璧な温度ではない。

 それでも捨てるほどではなかった。

 形の決まっていない関係も、いまはきっと、それでよかった。




・イロハ・ブチャラティ
 「三人も愛する」「芦花とも向き合う」
 「両方」やらなくっちゃあならないってのが酒寄博士のつらいところだな。

・タワマンのワンフロア(階層)購入
 多分一番喜んでいるのはクソボケ

・気が多いお盛ん寄エロ葉さん
 のちに芦花の誕生日で花丸返しとかいうメロいことをする悪女
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