もうちっとだけハッピーにするんじゃ   作:加賀美ポチ

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パターン青、タレ目です

 三者面談とは本来、担任と保護者と生徒が机を囲み、成績表や志望校の資料を眺めながら、今後の進路について穏当に話し合うための場である。

 少なくとも、教室の正面へホワイトボードを二枚並べ、プロジェクターを持ち込み、参考文献の束と十年単位の研究計画を提示する催しではない。

 放課後の進路指導室へ足を踏み入れた担任は、正面に据えられた二枚のボードを見た瞬間、脇に抱えていた進路調査票を静かに持ち直した。

 

 左側の上部には、大きく囲まれた文字で『実現したいこと』。

 その隣には『卒業後の計画』と書かれ、これまで希望していた文科一類から法学部へ続く進路には、赤い二重線が引かれている。

 代わって、理科一類、進学選択、工学部、ロボティクス、神経インターフェース、人工筋肉といった単語が、太い矢印によって接続されていた。

 

 ボードの下には、履修変更が必要な科目、受験までに補うべき単元、利用を希望する大学設備、研究分野ごとの参考論文が整然と並べられている。

 計画の実現可能性を示す欄には、希望的な丸印ではなく、現状では困難、要検証、既存技術あり、という無愛想な評価が振られていた。

 

 準備がよい。

 良すぎて、もはや進路相談というより、新規事業へ出資を求める説明会である。

 

「酒寄さん」

 

 担任は眼鏡を押し上げ、ボードの前に立つ彩葉を見た。

 制服姿の彩葉は、普段よりも隙なく髪をまとめ、片手に細い指示棒を握っている。

 姿勢は真っ直ぐだったが、その指には白くなるほど力が入り、足元に置かれた鞄の中には、同じ資料の予備が三部も収められていた。

 

「今日は三者面談だったよね?」

「はい。進路変更について、誤解なく説明するために必要な資料をまとめました」

「先生の考えていた『必要』とは、だいぶ規模が違うなあ」

 

 担任が乾いた笑いを漏らしたところで、廊下から規則正しい靴音が近づいてきた。

 彩葉の肩が、目に見えない糸で引かれたように僅かに上がる。

 扉が二度、等しい間隔で叩かれた。

 

「失礼します」

 

 入ってきた女性は、学校という場所へ求められる礼節を、過不足なく身にまとっていた。

 深い紫を含んだ髪は項の辺りで品よくまとめられ、耳元では小ぶりな金色の飾りが揺れている。

 淡い色のコートの下には濃紺のジャケットを着込み、細身の身体には、長時間の仕事を終えた後だという疲れを感じさせない緊張が通っていた。

 青緑色の瞳は、室内へ入った瞬間から、担任、娘、二枚のボード、机上の資料を順番に捉えている。

 酒寄紅葉。

 法廷では証言の隙間から矛盾を拾い、交渉では相手に退路が残されているように見せながら、いつの間にか結論を一つへ絞り込む敏腕弁護士である。

 

「お忙しいところ、ありがとうございます」

 

 担任が立ち上がって頭を下げると、紅葉も丁寧に礼を返した。

 

「こちらこそ、いつも彩葉がお世話になっております」

 

 保護者としての応対には、非の打ち所がなかった。

 ところが、顔を上げて教室の正面を見た途端、その眉が僅かに寄る。

 見慣れない機材。

 文字と矢印で埋め尽くされた計画表。

 その前に立ち、指示棒まで握っている実の娘。

 

「……三者面談でプレゼン始める高校生は、あんたくらいやろな」

 

 教員へ向けていた標準語から一転し、声へ京都の響きが混じった。

 

「普通に話したら、最後まで聞いてくれへんと思うたから」

 

 彩葉も、母へ向けた言葉だけを自然に切り替えた。

 紅葉の目が僅かに細くなる。

 彩葉が、会話の冒頭から反論した。

 その事実は、紅葉が長く待っていたものへ、ようやく指先が触れた瞬間だったのかもしれない。

 もっとも、酒寄紅葉という人間は、その程度で嬉しそうな顔を見せるほど素直ではなかった。

 

「ほな、聞かせてもらおか」

 

 紅葉はコートを椅子の背へ掛け、担任に勧められた席へ腰を下ろした。

 脚を揃え、膝の上へ手を重ね、まるで証言台へ立った者の第一声を待つような静けさで、彩葉を見上げる。

 

「先生のお時間、無駄にせんようにな」

「分かってる」

 

 彩葉は一度、深く息を吸った。

 肺へ入る空気は乾いており、喉の内側へ薄い冷たさを残した。

 母へ何かを説明する時、彩葉はいつも、正解だけを言わなければならないような感覚に襲われる。

 

 準備が足りなければ、考えが甘いと見抜かれる。

 言葉を選び損ねれば、感情に任せていると切り捨てられる。

 だから、想像できる限りの穴は塞いできた。

 それでも最後に必要なのは、整えた資料ではない。

 自分の口で、自分が望む道を言い切ることだった。

 

「これまで、東京大学の文科一類を受験し、進学選択では法学部へ進むことを希望していました」

 

 担任へ向けた声は、授業中の発表と変わらない標準語だった。

 

「ですが、志望を変更します。理科一類を受験し、工学部への進学を目指します」

 

 担任が資料へ目を落とす。

 紅葉は瞬きさえせず、娘を見ていた。

 

「理由は?」

 

 紅葉の問いに、彩葉は手元のリモコンを押した。

 スクリーンへ映し出されたのは、人間の身体を単純化した輪郭と、その外側から神経信号、視覚、触覚、運動指令が流れ込む模式図だった。

 

「現実世界で身体を自由に使えない人が、現実側で生活するための外部身体を作りたいからです」

 

 担任の表情に、僅かな理解と、それ以上の困惑が浮かんだ。

 医療でも介護でもなく、工学部を選ぶ理由は見え始めた。

 ただし、目標の規模が一般的な高校生の進路希望から、少々遠く離れすぎている。

 

「具体的に、対象となる人がいるのかな」

「います。かぐやという、ツクヨミで知り合った人です」

 

 担任と紅葉の顔には、当然ながら心当たりが浮かばなかった。

 ツクヨミのライバー文化へ詳しい者であれば、その名前を聞いて、彗星のように現れた金髪の新人を思い出したかもしれない。

 ヤチヨカップを制し、短期間で多数の視聴者を集め、盛大な引退ライブとともに姿を消した、あの「かぐや」である。

 しかし、担任は生徒の間で流行しているゲームや配信者を細かく追う人間ではなく、紅葉に至っては、ツクヨミを娯楽として眺める時間そのものがほとんどなかった。

 

「かぐや?」

 

 担任が聞き返し、資料の余白へその名を書き留めた。

 固有名詞としてはあまりに物語めいており、目の前の進路相談とどう結びつくのか測りかねている様子が、わずかに傾いた首筋へ表れていた。

 

「ツクヨミ上で使っていた名前です。短期間ですが、ライバーとして活動していました」

「有名な子なん?」

 

 紅葉の問いには、娘が話題の人物に巻き込まれている可能性を警戒する響きがあった。

 

「ツクヨミをよく見る人なら、知っているかもしれへん。でも、有名かどうかは計画には関係ない」

 

 紅葉へ返す言葉だけが京都弁になる。

 彩葉はスクリーンへ、かぐやの引退配信から切り出した一枚の画像を映した。

 金髪のアバターが、光の降るステージで笑っている。

 ただし、私的な会話や月に関わる情報は一切ない。誰でも閲覧できる公開記録だけだった。

 

「本人の現実での名前や家族関係については、プライバシーに関わるので話せません。私が把握している事情も、本人の許可なく全部を開示するつもりはありません」

「その子は、病気なん?」

 

 紅葉が尋ねる。

 声には同情も嫌悪もなく、計画の前提となる事実を分類しようとする冷静さがあった。

 病気であれば医療、事故であれば補償やリハビリと、必要な制度や協力者が変わることまで考えているのだろう。

 

「既存の病名へ当てはめられる状態やない」

「事故?」

「それも違う」

「ほな、何なん」

「現実側で、自分の身体を安定して維持できひん事情がある」

 

 嘘ではなかった。

 説明していない部分が、月と時間と八千年へ届くほど大きいだけである。

 かぐやはすでに月へ帰り、現在とは異なる時間の流れへ乗っている。

 数十年後に再び現代宇宙へ現れ、その後さらに巡とともに八千年前へ遡ることが確定している。

 それを三者面談で話せば、進路指導は工学部どころか、医療機関か警察か宇宙開発機関の管轄へ移りかねない。

 

「現実で会うたことは?」

「ある」

 

 紅葉の瞳が鋭くなり、机上へ置かれていた指先がぴたりと止まった。

 存在を確かめられる相手なのか、娘だけが一方的に信じ込んでいるのか、その境界を見極めようとする視線が彩葉へ向けられた。

 

「身体、あるやん」

「あの時の身体は、一時的なものやった。長時間は維持できへんし、本人の意思で何度も再現できるものでもなかった。今はツクヨミにも接続できず、連絡も取れへん」

「それで、戻ってくる保証は?」

 

 彩葉の指が、リモコンの上で僅かに固まった。

 手のひらへ薄く滲んだ汗が、硬い樹脂の表面とのあいだに張りつく。

 真実を語れないもどかしさと、語れば話そのものが成立しなくなる恐れが、胸の奥でせめぎ合った。

 

「戻ってくると考えられる根拠はある」

「その根拠は見せられへんの?」

「見せられへん」

「ほな、信用せえいう方が無理やろ」

「全部を信用してもらおうとは思うてへん」

 

 彩葉は、母の視線を受け止めた。

 

「かぐやの事情を全部話すことと、うちの進路が現実的かどうかは別の問題や。うちが信用してもらうために、本人の秘密を勝手に差し出すんは違うと思う」

 

 紅葉は返事をしなかった。

 弁護士としては、確認できない情報を前提にした計画を簡単に承認するわけにはいかない。

 しかし同時に、娘が他人の尊厳を説得材料として切り売りしない姿勢を、無責任と断じることもできなかった。

 

「その子は、身体を欲しい言うたん?」

「言うた」

 

 彩葉は迷わなかった。

 かぐやが何気ない願いとして口にした一つ一つは、どの技術資料より鮮明に記憶へ残っており、その言葉を疑われることだけは耐え難かった。

 

「現実で歩きたい。物に触りたい。温かいご飯を食べてみたいって、本人から聞いた。感覚情報や運動記録の一部を、研究へ使う許可ももらってる」

「証拠は?」

「個人情報を消した同意記録なら用意してる。でも、全部をここで見せるつもりはない」

 

 彩葉は机上の封筒へ手を置いた。

 

「本人確認に必要な情報は、大学の倫理審査や正式な研究機関へ提出する。進路を認めてもらうためだけに、先生やお母さんへ私的な会話まで渡す気はない」

 

 担任が、彩葉と封筒を交互に見た。

 高校生の進路説明としては、あまりにも特殊だった。

 だが、少なくとも彩葉は、存在するかも分からない空想上の人物を救うと言っているのではない。

 公開活動の記録があり、現実での複数の目撃者が存在し、本人の意思を示す資料まで用意している。

 説明できない部分は多い。

 しかし、説明できないことと、何も考えていないことは同じではなかった。

 

「では、研究の目的を説明します」

 

 彩葉は担任へ向き直り、標準語へ戻した。

 母娘の間へ張り詰めていた私的な感情をいったん胸の奥へ収め、今度は進路計画として理解してもらうため、指示棒を持つ手の震えを小さく息で整えた。

 

「目標は、人間と同じ外見の人形を作ることではありません。使用者が自分の身体として認識し、意思どおりに動かし、触覚や温度、痛覚を受け取れる外部身体を実現することです」

 

 指示棒の先が、開発工程の最初の欄へ移る。

 黒い文字を追うように細い棒がゆっくり滑り、抽象的だった夢が、一段ずつ検証可能な課題へ降りていく。

 

「第一段階では、使用者の運動意図を読み取り、外部装置へ伝えます。次に、人工骨格と人工筋肉によって、日常生活に必要な動作を再現する。

 さらに外部の圧力、温度、損傷情報を感覚として本人へ返し、最終的には、その身体を自分自身のものだと認識できる状態を目指します」

「言葉にしたら簡単そうやな」

 

 紅葉の言葉へ、彩葉は母を見た。

 挑発だと受け取って反射的に言い返すのではなく、自分でも何度も突き当たった困難を、あえて短い言葉へ押し込めた問いだと分かっていた。

 

「簡単やないよ」

 

 即座に返した声には、飾らない京都の響きがあった。

 

「せやから大学へ行くんや。今のうちには、知識も技術も設備も足りひん。何が分からへんのかさえ、全部は分かってへん。

 でも、足りひんものを一つずつ学んだら、どこまで届くかは確かめられる」

「一人で、何分野やるつもりなん」

「一人で全部やるつもりはない」

「ほな、誰がやるん?」

「大学で、それぞれの分野の先生や研究者へ協力を求める。必要なら別の研究室や企業とも共同研究をする。それと、今の段階から協力してくれている共同開発者がいる」

 

 紅葉の指が、資料の端で止まった。

 紙を押さえていた爪先がごく僅かに白くなり、計画の背後へ初めて具体的な第三者の姿が立ち上がったことを、警戒とともに受け止めていた。

 

「共同開発者?」

「宵宮巡。同じ学校の生徒」

 

 彩葉の口から男子生徒の名前が出たことで、紅葉の眼差しへ別種の警戒が加わった。

 娘が突然、法学部ではなく工学部へ進みたいと言い、身元を明かせない友人の身体を作ると宣言し、その計画には同年代の男子高校生が関わっている。

 母親としても、弁護士としても、見過ごせる情報ではない。

 

「その子は、何を担当してんの」

「理論の整理と安全設計。それから、必要な資料や資金を揃える方法も一緒に考えてくれてる。

 私が何か思いついた時に、それが今の技術でどこまで可能なのか、何が危険なのか、何を先に検証するべきなのかを整理してくれる」

「高校生二人で、人間の身体を作るん?」

「今すぐ作るんやない」

 

 彩葉は工程表の上部を示した。

 そこには日付と段階が細かく区切られ、全身の完成という遠い目標の前に、いくつもの小さな検証項目が置かれている。

 指示棒の先も、一足飛びに終点へ向かわず、最初の枠から順番に移動した。

 

「まず受験までに、数学と物理の不足を埋める。入学後は機械、材料、情報、生命科学の基礎を学ぶ。

 最初に作るんは、全身やなくて手の一部や。指を一本動かす。物に触れた圧力を返す。熱いもんを危険やと判断する。そこから始める」

 

 紅葉は資料を一枚取り上げた。

 計画の体裁に惑わされず、記載の抜け、前提の曖昧さ、責任の所在を拾い上げていく。

 紙をめくる音は小さいのに、その指先が一行進むごとに、彩葉の計画が反対尋問へ掛けられているようだった。

 

「資金は?」

「初期段階は、巡が用意できる範囲で試算してる。大学設備が必要な実験は、正式な研究計画として認められてから行う。個人で危険な装置を作るつもりはない」

「宵宮くんの金を当てにすんの?」

「当てにして終わりにはせえへん。共同開発者として役割と権利を決める。研究費は奨学金、研究助成、大学や企業との共同研究も含めて考える」

「契約は?」

「草案を作ってる」

「誰が見るん」

 

 彩葉は、ほんの一瞬だけ視線を泳がせた。

 ここまでの問いには用意した資料を示せたが、この答えだけは目の前にいる本人へ頼むほかない。

 強張った指先が、無意識に指示棒の柄を撫でた。

 

「……法律の専門家」

「具体的に言い」

「お母さんに見てもらえたら、助かる」

 

 紅葉の眉が動いた。

 娘が自分へ助けを求めることは珍しく、その頼み方が情ではなく専門性を指名するものだったため、拒絶の言葉をすぐには選べなかった。

 

「最初から、私を計画に入れてんの?」

「頼むかどうかは、今日の返事を聞いてから決めるつもりやった」

「随分、都合ええな」

「都合がええのは認める」

 

 普段の彩葉であれば、母から向けられた批判を受け入れ、そのまま黙り込んでいたかもしれない。だが、今日は違った。

 否定された事実へ萎縮するのではなく、それでも必要だと思う理由を、もう一度自分の言葉へ組み直す。

 

「でも、お母さんが法律と契約に詳しいんは事実やし、うちが一番信用できる専門家も、お母さんや」

 

 紅葉は何も答えず、次の頁へ進んだ。

 紙の擦れる音だけが短く響いたものの、先ほどまでより頁を送る速度がわずかに落ちたことへ、彩葉は気づいていた。

 

「その外部身体に、意識を移すん?」

「意識を移すというより、運動と感覚を接続する。ただ、意識や人格をどう扱うかは仮説の段階」

「失敗したら?」

「どの段階で失敗したかによる」

「身体が動かへんかったら」

「制御系を分けて、原因を調べる」

「感覚が返らへんかったら」

「運動補助だけでも義手や義足に使える。反対に運動が難しくても、触覚再現だけなら遠隔医療やリハビリへ応用できる」

「本人が、その身体を自分やと思えへんかったら?」

 

 彩葉の手が止まった。

 そこは、技術だけでは解決できない問題だった。

 精巧な器を用意できたとしても、そこへ生きる本人が馴染めなければ、それは救いではなく新しい拘束になりかねない。

 

「無理に使わせへん」

 

 数秒置いて、彩葉は答えた。

 迷いを隠すためではなく、自分の願いとかぐやの意思を混同していないかを確かめるように、一度だけ唇を湿らせてから声を出した。

 

「身体を作りたいんは、うちの願いや。でも、使うかどうかは本人が決める。どんな姿がええかも、どこまで感覚を持たせるかも、本人が嫌や言うたら止める」

「危険が出た時、中止を決めるんは誰?」

「私以外にも中止権限を持ってもらう。巡、大学側の責任者、医療と倫理の専門家。私一人の判断では続けられない形にする」

「自分で止まれる自信がないん?」

 

 紅葉の問いが、室内の温度を僅かに下げた。

 空調は変わらず低い音を立てているのに、彩葉の首筋には冷たい感覚が走り、握っていた指示棒の細さだけが不自然なほど鮮明になった。

 

「あんた、やると決めたら寝えへんようになるやろ」

「……それは」

「寝不足で判断力落とした人間が、他人の神経や身体を扱うん?」

 

 夢そのものを笑われるより、ずっと痛かった。

 紅葉は計画の弱点ではなく、計画を実行する彩葉自身の欠陥を、正確に突いていた。

 彩葉は一度、指示棒を握る手を下ろした。爪先へ視線が落ちかける。

 しかし、そこで黙れば、今日ここへ立った意味がなくなる。

 

「せやから、健康管理も計画へ入れた」

 

 彩葉は右端に設けた表を示した。

 睡眠時間、食事、定期検査、連続作業時間、強制停止の条件。

 それぞれに確認者と対応方法が記載されている。

 

「巡にも、私が無茶を始めたら止めてもらう。一定の条件を下回ったら、研究用の端末や設備へ触れられないようにする」

「同級生に、あんたを止められるん?」

「一人では難しいかもしれへん」

「そこは止められる言うとこやないの」

「できひん約束で安心させるより、無理な時に誰へ助けを求めるか決めとく方がええと思う」

 

 紅葉は、資料の行間へ共同開発者の影を見た。

 できることと、できないことを分ける。

 自分たちだけで完結させようとせず、必要なら専門家を頼る。

 少なくとも、その少年は、彩葉の熱意へ無条件に同調しているだけではないらしい。

 

「十年やっても、二十年やっても、その子の身体を作れへんかったら?」

 

 紅葉は最後の資料を机へ置いた。

 紙束が天板へ触れる鈍い音とともに、細部の検証を終えた視線が、今度は計画そのものではなく、その先へ人生を差し出そうとしている娘へ向けられた。

 

「あんた、人生を無駄にしたと思わへんの?」

 

 彩葉は、スクリーンに映る金髪の少女を見た。

 あの子は、パンケーキを食べたいと言った。

 自分の手で誰かへ触れ、寒さや温かさを知り、現実の空気を肺へ入れてみたいと願った。

 

「思わへん」

 

 彩葉は言った。

 声に勢いをつけて恐れを押し流すのではなく、失敗を含めた年月まで自分の選択として引き受けるように、短く、しかし明瞭に言い切った。

 

「かぐやの身体まで届かへんかったとしても、途中で作った技術は残る。指を動かす技術は義手へ使える。

 神経から運動意図を読み取る方法はリハビリへ使える。人工皮膚や感覚制御は、火傷や介護にも応用できる」

「それでも、かぐやいう子は救えへんかもしれん」

「うん」

 

 彩葉は、その痛みから逃げずに頷いた。

 胸の奥には、戻ってきたかぐやへ何も渡せない未来が鋭く浮かんだが、恐ろしいからと成功を断言する方が、彼女の願いを軽く扱うことになると思った。

 

「絶対にできるとは言わへん。絶対にできるって証明するために大学へ行くんやない。

 何ができて、何ができひんのかを知って、それでも届く方法を探すために行く」

 

 紅葉は娘を見つめた。

 根拠もなく夢を信じ、成功した未来だけを語っている顔ではない。

 失敗する可能性も、自分に不足しているものも理解したうえで、それでも進みたいと願う者の顔だった。

 もっとも、計画が練られていることと、その計画を最後まで自分の意志として引き受けられることは、同じではない。

 だから紅葉は、資料から手を離すと、最後の問いを投げた。

 

「動機は、電話で聞いた」

 

 それまでよりも低く、静かな声だった。

 追及の刃を鈍らせたのではなく、すでに一度交わした母娘の本音を、安易な感動の再演にしないための声音だった。

 

「あんたがお母さんと同じ道やのうて、自分で見つけた道へ行きたいいう話は、もう聞いてる。せやから、同じことをもう一回言わせる気はない」

 

 彩葉の胸の奥で、以前の電話越しに交わした言葉が蘇った。

 手の中で熱を持つ端末と、耳へ届く母の声。法学部を目指してきた理由も、工学へ進みたい理由も、あの時すでに言葉へ変えている。

 口にするだけでも息が詰まりそうだった本音を、今さら初めて明かすように繰り返す必要はなかった。

 紅葉が今、確かめようとしているのは、その先だった。

 

「私が認めへん言うても、あんたは工学部へ行くん?」

 

 室内に、空調の低い駆動音が浮かび上がった。

 担任は口を挟まず、膝の上の資料へ片手を添えたまま、母娘の間に張られた糸を見守っている。

 彩葉は指示棒を握り直しかけ、もう説明に使う必要がないことへ気づくと、静かに机の上へ置いた。

 

「行く」

 

 答えは、考えるより先に出た。

 紅葉の瞳は揺れず、その即答が勢いか覚悟かを見極めるように彩葉を見据えていた。

 

「家へ戻れ言うても?」

「戻らへん」

「理転が無謀や、法学部へ戻れ言うても?」

「戻らへん。足りひん科目があるなら追いつくし、今年間に合わへんのなら、計画を組み直す。せやけど、行き先までお母さんに決めてもらうつもりはない」

「ほな、今日ここへ何しに来たん」

 

 紅葉の声が、わずかに鋭さを増した。

 資料を揃えた努力へ水を差すためではなく、許可が要らないと言いながら説得を試みる娘の矛盾へ、逃げずに答えさせるための問いだった。

 

「私の許可がいらんのやったら、三者面談でこれだけ大がかりなもん用意して、何を説得しようとしてんの?」

 

 意地の悪い問いではなかった。

 母親の承認がなくても進むというのなら、なぜ母を呼び、なぜ資料を整え、なぜここまで言葉を尽くすのか。

 その矛盾を曖昧にしたままでは、彩葉の決意もまた、感情の勢いに過ぎないものになってしまう。

 彩葉は息を吸った。

 喉の奥には、まだ緊張が薄い膜となって張りついている。それでも、先ほどまでのように母の望む正解を探す必要はなかった。

 

「先生には、進路変更に必要な手続きと、理系科目へ追いつくための協力をお願いしに来た」

 

 彩葉はまず、担任へ顔を向けて標準語で答えた。

 それから紅葉へ向き直ると、自然に京都の響きが戻った。

 言葉の切り替わりとともに、学校の生徒ではなく、母へ自分の意志を伝える娘の顔へ戻る。

 

「お母さんには、計画の穴を見てもらうために来た」

「反対されるかもしれへんのに?」

「反対しててもええよ」

 

 紅葉の眉が、かすかに動いた。

 反対を許容するという娘の言葉は、無視するという意味ではなく、自分とは異なる意見として正面から受け止めるという宣言だった。

 

「でも、お母さんが反対する理由には、うちが見落としてる危険があるかもしれへん。契約や権利のことも、安全管理のことも、うちと巡だけでは気づけへんことがある。せやから意見は聞きたい」

「意見を聞いたら、従うん?」

「納得したら従う。納得できひんかったら、別の方法を探す」

 

 彩葉は、母の目を見たまま続けた。

 以前なら正解を探して泳いでいた視線は定まり、声の底には、尊敬と服従を初めて切り分けた者の緊張が残っていた。

 

「お母さんの意見を大事にすることと、お母さんの言うとおりに生きることは、同じやないから」

 

 進路指導室の空気が、一瞬だけ止まった。

 紅葉の表情から、問いを重ねようとしていた気配が消える。

 娘の口から出た言葉を、意味ごと確かめるように、青緑色の瞳が静かに細められた。

 それは、反抗だった。

 母を拒むための反抗ではない。

 母の知識も、経験も、厳しさも必要だと認めながら、最後に選ぶのは自分だと言い切る反抗だった。

 以前の彩葉なら、紅葉から認められなければ、自分の望みの方を疑っただろう。反対されれば、その反対を覆す正解を探し、見つけられなければ自分が間違っているのだと飲み込んだ。

 けれど今は違った。

 母の言葉を聞く。

 必要なら計画を直す。

 それでも、人生の進路そのものを明け渡しはしない。

 

「……そう」

 

 紅葉は短く答え、机の上の資料へ視線を落とした。

 感情を言葉へ変える代わりに、頁の端を揃える指先だけがゆっくり動き、娘の決意を自分の中へ収めるための時間を作っていた。

 

「許可をもらいに来たんやないんやな」

「うん」

「ほな、私がここで反対して帰っても、あんたは進路変更を出すんやね」

「出す」

 

 彩葉の声に迷いはなかった。

 短い返答は進路指導室の壁へ吸い込まれたが、その余韻だけは母娘の間へ残り、もう以前の関係へ簡単には戻れないことを告げていた。

 紅葉はしばらく資料の一頁を見つめたのち、やがて担任へ顔を向けた。

 

「履修変更の締め切りは、いつです?」

 

 彩葉が目を瞬かせる。

 反対を取り下げるとも、応援するとも、紅葉は言わなかった。

 ただ、娘が本当にその道へ進むものとして、必要な手続きの確認を始めた。

 

「正式な届け出は来月末です。ただ、理科科目の補習には、できるだけ早く入った方がよいでしょう」

「模試の受験科目は、次回から変えられます?」

「はい。本人の希望が固まっているのであれば、対応できます」

「学校側の補講は、どこまでお願いできますか」

 

 質問は具体的で、一つひとつが現実へ接続していた。

 彩葉が描いた設計図を、紙の上の夢から予定表へ移し替える質問だった。

 いつから何を始め、どの時点で進捗を確認するのか、紅葉の頭の中ではすでに次の工程が組み立てられているらしい。

 

「お母さん」

「何」

「それって――」

「勘違いせんといて」

 

 紅葉は資料をめくりながら、彩葉の言葉を遮った。

 承認を与えた途端に気を緩ませることを許さないよう、声音には厳しさを残していたが、頁を押さえる指には、先ほどまでの拒絶の硬さはなかった。

 

「計画はまだ甘い。必要な分野も多すぎるし、期間の見積もりも楽観的や。あんたの健康管理なんか、紙に書いたくらいで信用できるもんやない」

「……うん」

「せやけど、自分で決めたいうなら、途中で泣きついても、私が法学部へ戻る道まで用意すると思わんことや」

「戻らへん」

「言うたな」

「うん」

 

 紅葉の口元が、ごくわずかに緩んだ。

 勝手にしろと突き放す顔ではなかった。自分で選んだのなら、その選択に見合う覚悟を見せろと促す、紅葉なりの承認だった。

 

「ほな、好きにしい」

 

 酒寄紅葉から与えられる許可として、それはほとんど満点に近かった。

 

 

 面談を終えて校舎を出ると、空から細かな雪が落ち始めていた。

 降るというほど密ではなく、風に運ばれた白い粒が、制服の肩や植え込みへ触れては消えていく。

 灰色の空は日暮れを早め、校門の外では街灯がすでに淡い光を灯していた。

 

 彩葉は資料の入った鞄を抱え、紅葉の半歩後ろを歩いていた。

 面談中は勢いに任せて言葉を繋げられたものの、母と二人きりになった途端、喉の奥から声が消えていた。

 許されたと喜んでよいのか、まだ叱られている途中なのかさえ、はっきりしない。

 

「……よう、あれだけ喋ったな」

 

 紅葉が前を向いたまま言った。

 

「途中で止められると思うてたから、先に全部言うただけや」

「誰が止める言うたん」

「お母さん、いつも最後まで聞く前に、甘い言うやん」

「甘いもんを甘い言うて何が悪いん」

「今日のは?」

 

 彩葉がおそるおそる尋ねると、紅葉は数歩進んだところで足を止めた。

 靴底が薄く積もった雪を踏み、乾いた音を立てたあと、答えを量るような短い沈黙が落ちた。

 

「まだ甘い」

「そっか」

「せやけど、前よりは形になってた」

 

 紅葉は手を伸ばし、彩葉の頭へ触れた。

 撫でるというより、まとめた髪の乱れを直すための短い接触だった。

 それでも、掌から伝わった熱は、落ちてくる雪より鮮明に頭皮へ残った。

 彩葉が驚いて見上げると、紅葉はすぐに手を離した。

 

「褒めたんと違うで。計画書として、最低限読める言うただけや」

「分かってる」

 

 彩葉は答えたが、口元が緩むのを止められなかった。

 

「笑わんといて」

「笑ってへん」

「笑ってる」

「お母さんが珍しいことするからやん」

「髪、乱れてたから直しただけや」

 

 母娘の言い訳は、質こそ違えど不器用さの点ではよく似ていた。

 校門が近づいたところで、彩葉は街灯の下に立つ人影へ気づいた。

 黒いコートの腕に紙袋を抱え、もう片方の手には閉じた傘を持っている。

 肩へ薄く積もった雪を時折払いながら、校舎の方を静かに見つめていた。

 

 巡だった。

 理系科目の参考書と、計画書へ追加する資料を持って、面談が終わる時刻に合わせて待っていたのである。

 巡も母娘へ気づき、表情を柔らかくした。

 

「彩葉。面談、お疲れさま」

「巡」

 

 自然に名前を呼び合った二人を見て、紅葉の歩調がわずかに遅くなる。

 自分の娘を、名字ではなく名前で呼ぶ男子高校生。

 彩葉も同じ調子で相手を名前で呼んでいる。

 共同開発者という説明だけでは見えなかった距離が、二つの呼称によって急に輪郭を持った。

 

「こちらが、お母さん?」

 

 巡は彩葉へ確認してから、紅葉へ向き直った。

 彩葉が小さく頷くのを待って姿勢を正し、雪の付いた肩を払うことも忘れたまま、誠実に頭を下げた。

 

「宵宮巡です。初めまして」

 

 丁寧に下げられた頭には、相手へよく見られようとする過剰な愛想も、臆した様子もなかった。

 紅葉は挨拶を返すより先に、巡を一度、頭から足元まで見た。

 

「あんたが、共同開発者?」

「はい」

「彩葉から、あんたと一緒に人の身体を作る計画やて聞いたけど」

「そのために、何が足りないのかを調べている段階です」

 

 巡は言葉を選びながらも、落ち着いていた。

 紅葉の鋭い視線を正面から受けながら、過大な約束も曖昧な逃げ道も作らず、現在地だけを一つずつ言葉へ置いていった。

 

「中心にいるのは彩葉です。私は、彩葉が目指しているものを実現可能な問題へ分けることと、安全に進めるための方法を考えることを手伝っています」

「随分、大きい話やな」

「そうですね」

「高校生二人で、人一人の人生を背負えると思うてんの?」

「背負うべきではないと思っています」

 

 紅葉の眉が寄り、青緑色の瞳に再び法務家の鋭さが戻った。

 聞こえのよい謙遜で責任を避けているのか、それとも本当に役割の限界を理解しているのか、次の返答を待つ表情だった。。

 

「ほな、無責任やないの」

「一人で背負おうとする方が、無責任だと思います」

 

 巡は声を荒らげることなく返した。

 反論というより、紅葉が投げた懸念を一度受け取り、その中で自分が間違っていると思う一点だけを静かに戻すような話し方だった。

 

「かぐや本人の意思、彩葉の技術、私が整理できる理論、それから大学、医療、安全管理の専門家。

 それぞれが判断できる部分を持ち寄る必要があります。誰か一人の正しさだけで、他人の身体を決めるべきではありません」

 

 紅葉は巡の顔を見た。

 娘の夢へ無条件に同調している少年ではない。

 彩葉を中心へ置きながらも、彼女一人へ責任を押しつけず、自分が功績を奪うような語り方もしない。

 

「あの子、無茶するで」

「知っています」

「決めたら寝えへん。食べへん。自分が倒れるまで、まだ大丈夫言い続ける」

「それも知っています」

「止められんの?」

 

 巡はすぐに、できますとは答えなかった。

 一度だけ隣の彩葉へ視線を送り、少し考えてから紅葉へ戻す。

 

「私一人では、難しいと思います」

「そこは止めます言うとこやないの?」

「できない約束をして、彩葉を任せてもらう方が無責任だと思うので」

 

 巡は申し訳なさそうに目を伏せた。

 もともと穏やかな目尻が、視線を下げたことで、わずかに垂れる。

 その瞬間、酒寄紅葉の内側に存在する、極めて私的かつ遺伝的な防衛機構が、予期せぬ角度から攻撃を受けた。

 タレ目である。

 ごく僅かではあるものの、疑いようもなくタレ目だった。

 法廷で証人の虚偽を暴き、交渉相手の逃げ道を塞ぎ、家族を支え続けてきた敏腕弁護士。

 その強固な理性が、少年の柔らかく下がった目尻を前に、ほんの少し軋んだ。

 

 酒寄家は、なぜかタレ目に弱い。

 好みという一語で片づけるには再現性が高すぎる、家系単位の脆弱性だった。

 彩葉にとってのかぐや。

 朝日にとっての乃依。

 紅葉にとっての、亡き夫。

 巡本人だけが、その攻撃判定が発生していることをまだ知らなかった。

 

「彩葉が止まらない時は、私からも止めます。ただ、それでも難しい時には、お母さまにも協力していただけると助かります」

 

 頼り切るのでも、責任を押しつけるのでもない。

 必要な時には力を貸してほしいという、慎ましく誠実な頼み方だった。

 紅葉は答えようとして、一度言葉を失った。

 小さく咳払いを挟み、目元へ集まりかけた柔らかさを、眉間へ力を入れることでどうにか押し戻す。

 

「……そない素直な顔で、母親を計画に巻き込まんといて」

「申し訳ありません」

「謝らんでええ」

 

 返答が早かった。

 自分でもその即答に気づいたのか、紅葉はわずかに唇を結び直したが、いったんほどけた声音までは隠しきれない。

 彩葉が、母の横顔を訝しそうに覗き込んだ。

 

「お母さん?」

「何」

「さっきまでと態度、違わへん?」

「違わへん」

「声、ちょっと優しなったで」

「なってへん」

 

 紅葉は断言したが、その声は面談室で娘を問い詰めていた時より、明らかに角が取れていた。

 巡は二人のやり取りを不思議そうに眺め、少し首を傾げる。

 それに合わせ、目尻がまた柔らかく下がった。

 追撃である。

 紅葉はわずかに視線を逸らした。

 

「……ほんま、調子狂う顔しよるな」

「顔、ですか?」

「こっちの話や」

 

 紅葉は素早く会話を打ち切った。

 それから彩葉へ向き直り、いつもの厳しい母親へ戻ろうとするように眉を寄せたものの、一度緩んだ声音までは完全に戻せなかった。

 

「まあ……その」

 

 珍しく歯切れの悪い言葉が漏れる。

 普段なら一息で断定する紅葉が、視線を巡の顔から外したまま言葉を探す様子に、彩葉の疑念は確信へ近づいていった。

 

「あんまり宵宮くんに迷惑かけたらアカンよ」

「なんで私が怒られるの?」

 

 彩葉は思わず声を上げた。

 面談を乗り切った直後の安堵も手伝い、母へ向ける抗議には、普段より年相応な娘らしさが露わになっていた。

 巡へ向ける口調だけは、いつもの標準語へ戻っている。

 

「今の話、私が無茶をしたら巡が止めるって話だったよね? どうして共同開発者へ迷惑をかける前提になってるの」

「あんたは昔から、何か決めたら周り見えへんようになるやろ」

「そこまででは――」

「なる」

 

 紅葉は即座に断じた。

 長年の観察に裏打ちされた確信があり、反証を受け付ける余地など最初からないと言わんばかりに、わずかに顎を上げた。

 

「自分は平気や言うて、手伝ってる人の休む時間まで使わせる。宵宮くんが大丈夫言うても、その顔に甘えて何でも背負わせたらアカン」

「その顔って言った」

「言うてへん」

「さっきも調子狂う顔って言ってたよね」

「そこを掘り返さんでええ」

 

 彩葉は紅葉と巡の顔を交互に見た。

 伏せれば穏やかに下がる目尻。

 亡き父の写真に残っていた、柔らかな笑顔。

 酒寄家の者が共通して抱える、否定しがたい嗜好。

 

「……ああ」

 

 複数の情報が、彩葉の中で一本の線に繋がった。

 巡の穏やかな目元と、父の写真に残る柔らかな表情が重なり、先ほどまで不可解だった母の挙動へ、あまりにも身内らしい答えがついた。

 

「何」

「いや、別に」

「言いたいことあるなら言い」

「お母さん、巡の顔が好きなんだと思っただけ」

「違う」

 

 否定が早かった。

 言葉が彩葉の推測へ届くより先に飛び出したため、それ自体が何より分かりやすい自白になっている。

 あまりにも早く、紅葉自身も一拍遅れて失策を悟ったように目を細めた。

 

「まだ何も説明してないけど」

「説明せんでええ」

 

 紅葉の頬へ、ごく薄く赤みが差した。

 雪の降る夕方である。寒さのせいだと言い張れないほどではない。

 もっとも、娘へ通用する程度の偽装ではなかった。

 巡だけが話の行方を理解できず、わずかに眉を下げている。

 

「私の顔に、何か問題がある?」

「問題しかないよ」

 

 彩葉が答えると、巡はますます分からないというように眉尻を下げた。

 その無自覚な仕草まで効果を上乗せしていることに気づき、彩葉は笑いを堪えるため唇を噛んだ。

 

「酒寄家に対してだけ、攻撃力が高すぎる」

「どういう意味?」

「遺伝性の弱点だから、巡が気にすることじゃない」

「直した方がいい?」

「顔を?」

「弱点の方を」

「多分無理。お母さんを見てれば分かる」

「彩葉」

 

 紅葉の声が低くなる。

 法廷なら証言を撤回させるに足る声音だったが、頬の赤みが残っているせいで、いまひとつ威厳を取り戻しきれていない。

 

「母親を観察対象みたいに扱わんといて」

「今日ずっと私の計画を反対尋問していた人が言う?」

 

 彩葉が笑うと、紅葉は呆れたように息を吐いた。

 しかし、その表情には、面談前にあった鋭い緊張はもう残っていなかった。

 

「計画書、直したら送って」

 

 紅葉は彩葉へ言った。

 視線は巡の顔から資料の入った鞄へ逃がされており、話題を計画へ戻すことで、自分の動揺そのものをなかったことにしようとしていた。

 

「見てくれるん?」

「法律と契約の穴だけや。工学のこと訊かれても、私には分からへん」

「でも、送っていいんだ」

「見るだけやで。甘いところがあったら、遠慮なく全部指摘する」

「うん」

「健康管理の項目も、もっと具体的にし。誰が確認して、どの時点で中止させるんか書くこと」

「分かった」

「宵宮くんの負担と権利も明記する。口約束だけで共同開発なんて始めたら、後で絶対揉める」

「はいはい」

「返事は一回」

「はい」

 

 紅葉はようやく、小さく頷いた。

 問いへの答えを受け取ったというより、これで最低限の準備は整うと、自分の中で新しい役割を引き受けた者の頷きだった。

 それから巡へ向き直る。

 

「宵宮くん」

「はい」

「あんたもやで。彩葉を助ける言うて、自分が倒れたら意味あらへん。できひんことは、できひんと言い。抱えきれへん時は、早めに周りへ言うこと」

「分かりました」

「彩葉が何言うても、無茶なもんは無茶やと止めて」

「はい。ただ、止めるだけでは、彩葉は納得しないと思います」

 

 彩葉が眉を上げ、先ほどまで自分の味方として立っていたはずの巡へ、疑わしそうな視線を向けた。

 口元には不満が浮かんでいたが、図星を突かれる予感もあるのか、反論は一拍遅れた。

 

「どういう意味?」

「彩葉は、理由が分からなければ別の方法で続けようとするからね。止める時には、何が危険で、どうすれば再開できるかまで一緒に考えるよ」

「……よう分かってるやん」

 

 紅葉の口元が、また僅かに緩んだ。

 娘の扱いを心得ていることへの評価と、思った以上に落ち着いた少年だという安堵が混じり、鋭かった目元にも柔らかさが戻っていた。

 

「でしょ?」

 

 なぜか彩葉が得意げに胸を張る。

 自分の性質を見抜かれている話であるにもかかわらず、巡の理解の深さを褒められたことの方が嬉しいらしく、口元には小さな誇らしさが浮かんでいる。

 

「何であんたが自慢すんの」

「私の共同開発者だから」

 

 その言葉を聞いた巡が、静かに微笑んだ。

 紅葉は、その笑顔をまともに見てしまい、また視線を横へ逃がした。

 コートの襟へ触れた指が、必要もないのに布地を二度整える。

 

「ほな、私は帰る」

「駅まで送ろうか?」

「いらん。あんたら、これから計画の修正するんやろ」

「今日は休みます」

 

 巡が答えた。

 紙袋を抱え直しながら彩葉の目元へ視線をやり、面談を終えた緊張が、本人の自覚以上に疲労として残っていることを見て取っていた。

 

「彩葉は面談の準備で、昨夜も普段より遅くまで起きていたから」

「巡」

「十一時前には寝ていたけれど、今日はずっと緊張していたと思う。続きは明日でいいよ」

 

 紅葉が、ゆっくり彩葉を見る。

 その動作だけで、寝不足を誤魔化す言い訳まで先回りして見透かされたような気がして、彩葉は反射的に背筋を伸ばした。

 

「……ちゃんと寝てます」

 

 彩葉は先回りして標準語で答えた。

 問われてもいない弁明が口から出た時点で、多少の後ろめたさがあると白状したようなものだと気づき、わずかに視線を泳がせた。

 

「聞いてへん」

「顔に書いてあったから」

「書いてへん」

 

 紅葉は数歩歩き、校門の外へ出かけたところで足を止めた。

 そして振り返る。

 薄く雪の積もった歩道を挟み、街灯の光の下で、娘とその共同開発者をもう一度見比べる。

 

「宵宮くん」

「はい」

「彩葉のこと、よろしゅう」

 

 彩葉の胸が、わずかに詰まった。

 計画を全面的に認めたわけでも、巡を完全に信用したという宣言でもない。

 それでも紅葉が、娘の隣に立つ者として巡を見たうえで、差し出した言葉だった。

 

「はい。ただ、私が彩葉を支えるだけの形にはしたくありません。彩葉が一人で無理をしなくても進める形を、一緒に作ります」

 

 紅葉は少し目を細めた。

 大仰な理想を口にしているようでありながら、その声音には自分一人ですべてを成し遂げられるという驕りがない。

 彩葉を守るとも、任せてほしいとも言わず、本人が無理をしなくても済む仕組みを一緒に作ると言った。

 

「……ほんまに、大きい口きく子やな」

「申し訳ありません」

「せやから、いちいち謝らんでええって」

 

 紅葉は呆れたように息を吐いた。

 叱ったつもりなのに、巡は言葉の尖った部分だけを避け、注意された事実を素直に受け取っている。

 反発も、必要以上のへりくだりもなく、目元を柔らかく緩めてこちらを見ていた。

 困る。

 何がとは明言したくないが、ひどく困る顔だった。

 紅葉は一度歩道の先へ視線を逃がし、それから、いかにも今思いついた事務的な提案であるかのように口を開いた。

 

「……まあ、たまになら遊びにおいで」

「え?」

「計画の相談がある時だけやのうても、茶くらいは出したる」

 

 巡はわずかに目を見開いた。

 初対面の相手へ向けられる社交辞令としては、妙に具体的だった。

 しかも「彩葉と一緒に」と限定していないあたり、共同開発者の素性を確認するという保護者の建前から、半歩ほど踏み出している。

 

「ありがとうございます」

 

 巡が微笑む。

 目尻が、また穏やかに下がった。

 紅葉は自分で招いた追撃をまともに受け、ほんの一瞬だけ言葉に詰まったものの、どうにか表情を崩さず彩葉へ向き直った。

 

「お母さん、巡のこと気に入りすぎやない?」

「何言うてんの」

「計画の相談がなくても遊びに来ていいって、なんか悪いものでも食べたん?」

「あんたは自分の実家へ遊びに行くのに、いちいち招待が必要なん?」

「そういう話?」

「そういう話や」

 

 紅葉は言い切った。

 もっとも、彩葉へ向けた反論の声には、先ほどまで巡を問いただしていた時の鋭さがすっかり失われている。

 語尾だけを強くしても、巡へ向けた親しみまで回収することはできていなかった。

 

「それに」

 

 紅葉は照れを押し隠すようにコートの襟を整え、巡を横目で見た。

 視線が合いそうになるとすぐに逸らし、あくまで保護者として必要な確認なのだと、自分自身へ言い聞かせるように続ける。

 

「どういう子が彩葉の隣で研究するんか、親として知っとかなあかんやろ。茶の一杯も出さんと、話も聞けへんし」

「面談みたいに反対尋問しないでよ」

「それは宵宮くんの受け答え次第やな」

「お手柔らかにお願いします」

 

 巡が素直に頭を下げると、紅葉の口元が今度こそわずかに緩んだ。

 形式的な礼ではなく、本当に訪れるつもりで受け取ったことが伝わり、紅葉の胸の内にあった警戒も、いつしか来客を迎えるための段取りへ形を変え始めていた。

 

「……まあ、あんたなら大丈夫そうやけど」

 

 小さな声だった。

 雪と人の気配に紛れ、聞き逃しても不思議ではない程度の呟きだったが、彩葉の耳にはしっかり届いていた。

 

「今、大丈夫って言った?」

「言うてへん」

「言ったよね、巡」

「私は聞こえたけれど」

「二人して聞き耳立てんといて」

 

 紅葉は足早に歩き出した。

 その背中には、娘の共同開発者を認めたと素直に告げられない母親の照れが、隠しきれずに滲んでいた。

 やがて姿が見えなくなると、面談前から胸の中へ張りつめていたものが、一度にほどけていく。

 

「……終わった」

「お疲れさま」

 

 巡が紙袋を持ち直しながら言った。

 雪を受けた睫毛の下で目元を緩め、結果を尋ねるより先に、彩葉が自分の言葉を最後まで伝えられたことを労うような声音だった。

 

「よく伝えられていたと思うよ」

「途中、心臓が止まるかと思った」

「止まってはいなかったよ」

「比喩です」

 

 彩葉は両肩を落とした。

 身体の芯に入っていた力が抜け、鞄の重みが急に腕へ戻ってくる。

 寒ささえ面談前より柔らかく感じられ、張りつめていた感覚がほどけたことを、遅れて全身が理解し始めていた。

 それから、隣にいる巡の顔を改めて見上げる。

 

「それで巡、お母さんに何したの?」

「挨拶をしただけだよ」

「嘘。絶対なんかしたやろ――」

 

 口から滑り落ちた京都弁に、彩葉は一拍遅れて眉を寄せた。

 胸を締めつけていた緊張がほどけた反動で、母と話していた時の響きがそのまま残ってしまっていた。

 

「……したでしょ。途中から、声が明らかに優しくなってた」

「今、言い直したね。彩葉の京都弁、私は好きだよ」

「……聞かなかったことにして」

「うん」

 

 巡は素直に頷いたが、目元にはかすかな笑いが残っていた。

 からかうつもりはないのだろうが、普段とは違う彩葉の言葉を聞けたことが、少し嬉しいらしい。

 

「でも、本当に挨拶をしただけだよ」

「そうだったかな、って顔してみて」

「どうして?」

「いいから」

 

 巡が不思議そうに首を傾げる。

 その動きに合わせ、目尻が柔らかく下がった。

 彩葉はすべてを理解し、片手で額を押さえた。

 

「……タレ目だ」

「何?」

「酒寄家のセキュリティに、重大な脆弱性を発見しただけ」

「直した方がいい?」

「遺伝性だから、多分無理」

 

 彩葉はそう答え、母が消えた道の先をもう一度見た。

 自分の進路を、自分で決めた。

 母へ反抗した。

 それでも、見放されなかった。

 かぐやへ続く道の入口には、まだ何も完成していない。

 あるのは線と文字で埋められた計画書と、足りない知識と、数え切れない課題だけだった。

 

 けれど隣には、共同開発者がいる。

 背後には、甘いと指摘しながらも計画書を読んでくれる母がいる。

 彩葉は降りてきた雪を掌で受け止めた。白い粒は皮膚の熱へ触れると、形を失い、透明な雫へ変わった。

 

「巡」

「うん?」

「作ろうね。かぐやの身体」

 

 巡は雪の向こうで、静かに頷いた。

 大きな誓いを飾る言葉は口にせず、これまで何度も彩葉の思いつきを課題へ分けてきた時と同じ、穏やかで揺るがない眼差しを返した。

 

「うん。一つずつ作ろう、彩葉」

 

 その返事とともに、二人は校門を離れた。

 未来はまだ、設計図の中にしかなかった。

 けれど設計図とは、何もない場所へ最初の線を引くためにある。




・担当教諭の立花先生
 これから三日間胃潰瘍で病休をとる模様、お労しや

・チョロ葉のママン
 遊びに行ったらくっそ高い茶菓子も出してくれそう

・彩葉の同級生の平均年収
 平均年収数千万円の化け物クラス、中央値の大切さが分かるね

・三者面談後の彩葉さん
 あの母親のチョロい所など見とうなかった......
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