もうちっとだけハッピーにするんじゃ   作:加賀美ポチ

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当たらなければどうということはない

 四年前のあの夜、酒寄彩葉は拍手の音を少し嫌いになった。

 何も知らない観客たちは、月人が空から降りてきた時も、ブラックオニキスが戦場へ躍り出た時も、それらすべてを卒業ライブの演出だと信じて歓声を上げていた。

 かぐやが白い羽衣に包まれ、月へ向かう光の中へ連れ去られていく瞬間にさえ、会場を満たしていたのは喝采だった。

 

 もちろん、観客に罪はない。

 あの場にいた誰もが、舞台の上で起きていることを物語だと思っていた。

 誰かが用意した悲しい演出であり、最後には笑って終われるものだと信じていたのだ。

 けれど彩葉にとって、拍手は一度、かぐやを奪い去った音になった。

 

 だから今、巨大なライブ会場の壁を震わせる歓声を聞きながら、彩葉の手のひらには、薄く汗が滲んでいた。

 現実側の会場は、四年前の卒業ライブを遥かに上回る規模だった。

 天井近くまで組み上げられた照明装置が銀色の骨組みを走り、客席を埋めた無数のペンライトは、開演前から夜の海のように揺れている。

 それと重なるように、ツクヨミ側にも同規模の特設会場が構築されていた。

 

 現実の観客。

 ツクヨミへ接続した観客。

 世界各地の配信窓から見守る視聴者。

 現実と仮想、二つの会場を合わせた同時接続数は、ヤチヨが途中で読み上げることを諦めたほどの速度で増え続けていた。

 その熱狂から厚い壁一枚を隔てた舞台裏では、金髪の少女が鏡の前で両腕を広げていた。

 

「どう? かわいい? かわいいよね? いや、分かってる。超かわいい!」

 

 白を基調とした衣装の裾が、彼女の動きに合わせて円を描いた。

 月の光を薄い布へ織り込んだような生地には、淡い金色の刺繍が走り、腰から広がる半透明の飾り布が、尾を引く彗星のように揺れている。

 四年前の卒業ライブ衣装を意識した意匠ではあるものの、あの夜の別れを思わせる寂しさはない。

 袖口にも、髪飾りにも、今度は地上へ向かって開く花の模様が使われていた。

 

「動かないで。首元がまだずれてる」

 

 彩葉は少女の背後へ回り、細い留め具の位置を直した。

 指先で触れた首筋には、確かな体温がある。皮膚の下では脈が規則正しく打ち、少女が笑うたび、喉の奥で生まれた声が空気を震わせている。

 それは人工骨格の振動を人間らしく見せているのではない。

 模倣した体温でもなければ、ツクヨミ上の疑似感覚でもない。

 四年をかけて再現した、もと光る竹の身体生成機構。

 その複製装置から生まれた、世界に一つしかないかぐやの身体だった。

 

「もう大丈夫だってば。朝から三回チェックしたじゃん」

 

 かぐやは鏡越しに彩葉を見て、唇を尖らせた。

 その口元も、頬の柔らかな丸みも、四年前に一時的な身体で地上へ現れた時と変わらない。

 けれど今の身体は、時間が来れば光へ戻ってしまうものではなかった。

 食事をすれば栄養として取り込み、眠れば疲れが抜け、転べば擦り傷ができる。

 人間にとって当たり前の不便さまで含めて、かぐやはこの世界へ存在していた。

 

「三回見たから、四回目を見なくていい理由にはならないでしょ。今日は身体を作ってから一番長い連続稼働になるんだから」

 

 彩葉は留め具を直し終えても、すぐには手を離さなかった。

 首筋から伝わる温度を、指先でもう一度確かめる。

 理論上の数値は正常だった。

 体温、脈拍、神経同期率、代謝制御、すべて基準値の範囲内にある。

 それでも触れて確認しなければ、安心できない時がある。

 

「彩葉、過保護レベルが上昇しています。どぅるるるる! 現在の数値は九十二。危険域まで残り八ポイントです!」

 

 隣の鏡の前では、銀白色の髪を持つ女性が、自分の頬へ薄く紅を載せていた。

 海色の瞳、長い睫毛、成熟した柔らかさを宿す笑み。

 月見ヤチヨの姿をそのまま現実へ連れ出したようなその身体も、かぐやと同じ機構によって生成されている。

 ただし、表情も、声の調子も、同じ起源を持つかぐやとは明確に異なっていた。

 

「ヤッチョ判定では、ライブ開始までに百を突破する確率は九十七パーセントです。彩葉、警告を無視しますか? はい。分かりました。強制執行へ移行します」

 

 ヤチヨは化粧用のブラシを置くと、かぐやを彩葉から引き剝がすように抱き寄せた。

 衣装の装飾を乱さないよう細心の注意を払いながらも、動作だけは誘拐犯さながらの素早だった。

 

「わっ、ヤチヨ、衣装!」

「保護対象を保護者から保護しました」

「誰が保護対象よ」

 

 彩葉が眉を寄せると、ヤチヨはかぐやの肩越しに舌を覗かせた。

 その仕草はトップライバー月見ヤチヨとして完成された愛嬌を持ちながら、同時に、四年間を同じ家で過ごした家族へ向ける気安さを含んでいる。

 彩葉は一言返そうとして、舞台監視用のモニターへ映った光景に気づき、唇を閉じた。

 

 画面の中には、四年前の戦場があった。

 三本のレーンが走る城郭。

 夜の空を染める白い満月。

 天守へ向かって伸びる石畳と、そのさらに奥、空中へ階段状に連なる光の足場。

 最上段には、白い羽衣をまとわされようとしているかぐやのアバターが座らされている。

 演出用の複製アバターだと理解している。

 月人もすべて、当時の戦闘記録とヤチヨの記憶を基に再現したシミュレーションにすぎない。

 それでも彩葉の指先は冷えた。

 

 耳の奥で、四年前の音が蘇る。

 金属がぶつかる音。

 月人の身体が折れる不快な感触。

 ブラックオニキスの攻撃音。

 歌い続けるかぐやの声。

 そして、いくら走っても縮まらなかった距離。

 

「……相変わらず、見るだけで腹が立つ」

 

 彩葉は低く呟いた。

 月人の姿がまだ現れていないにもかかわらず、画面の向こうにある舞台構造だけで、胸の奥へ澱のような苛立ちが沈んでいく。

 

「彩葉、完全に私怨入ってない?」

 

 かぐやはヤチヨの腕から抜け出し、彩葉の隣へ並んだ。

 モニターへ映る自分の囚われ姿を見て、嫌がるどころか、金色の瞳をきらきらと輝かせている。

 

「ちょっと待って。かぐや、めちゃくちゃお姫様じゃん。羽衣もかわいー! あれライブ終わったら着ていい?」

「駄目。縁起が悪い」

「演出用だよ?」

「演出でも駄目。駄目ダメ駄目ダメ、バッドエンドノーサンキューです」

 

 彩葉は即答した。

 羽衣という単語へ反応しただけで、肩へ力が入る。自分でも過剰だとは分かっているが、理屈でどうにかできる反応ではなかった。

 四年前の喪失は、もう取り返している。

 かぐやはここにいる。

 ヤチヨもいる。

 それでも、過去が消えたわけではない。

 

「月人を再現した企画を採用したの、彩葉だけどね」

 

 部屋の奥から、巡の声がした。

 彼は壁際の接続装置に腰を預け、スマコンの最終調整を行っていた。

 舞台衣装ではない。現実の身体に着ているのは、ごく普通の黒いシャツとスラックスであり、胸元へ生体情報を送る薄型センサーが貼りつけられている。

 しかし、一度ツクヨミへ入れば、その姿は四年前と同じライバーへ変わる。

、梟の意匠を持つ、ヨミへ。

 

「企画書には、月人を精密に再現するなんて書いてなかった」

 

 彩葉は巡を振り返った。

 不満を隠そうともしない目つきだったが、巡へ本気で怒っているわけではない。

 むしろ、月人の姿を見たことで浮かび上がった不安を、彼へ向けて言葉にすることで薄めようとしている。

 

「『過去の戦闘を再構築し、四年前に達成できなかった救出を成功させる』としか書いてなかったでしょ」

「その下に、再現度九十九・八パーセントと書いたよ」

「文字が小さかった」

「企画書と同じ大きさだったと思うけど」

「巡」

 

 彩葉の声音が一段低くなる。

 その横で、かぐやとヤチヨが顔を見合わせ、同時に口元を緩めた。

 四年も共同生活を送っていれば、二人には、それが本当に怒っている時の声ではないと分かる。

 

「でも、最後まで読んで承認したのは彩葉だよ」

「……巡が月人を全部倒すって書いてあったから」

 

 彩葉は視線を逸らした。

 自分でも、採用理由が私情に満ちていることは理解しているらしい。モニターへ映る光の足場を睨みながら、腕を組む。

 

「あれをもう一回見るのは嫌。でも、巡があれを叩き潰して、今度こそかぐやを奪い返すところは見たい。それだけ」

「うわ、彩葉、思ったよりやさぐれてる」

「誰のせいだと思ってるの?」

「月人のせいです」

 

 かぐやは素直に答えた。

 そこだけは茶化さなかったため、彩葉の肩から僅かに力が抜ける。

 次の瞬間には、かぐやは再び瞳を輝かせ、巡へ身体を向けた。

 

「ねえ巡。本当に一人でやるの?」

 

 声には心配より期待が勝っていた。

 かぐや自身がさらわれる役でありながら、まるで推している選手の特別試合を最前列で観戦する子供のように、身体を小さく弾ませている。

 

「月人、すっごいいっぱいいるんでしょ? 帝たちでも勝てなかったんでしょ? 巡、あれ全部相手にするの?」

「うん」

 

 巡はスマコンを装着しながら頷いた。

 普段と変わらない穏やかな返事だった。

 

「ただし、全部を倒すことが勝利条件ではないよ。倒しても補充されるように設定してあるから、殲滅しようとすれば必ず時間切れになる」

「えっ、鬼畜」

「当時に近づけるなら、それくらいでないと意味がないからね」

「作った本人が言うと怖いなあ」

 

 ヤチヨは頬へ片手を当て、巡の隣にある管理画面を覗き込んだ。

 画面には、不正監視プログラム、操作入力、アバターステータス、管理者権限の利用履歴が並んでいる。

 すべて正常を示す青い表示だった。

 

「巡、今日の本気度は何パーセント?」

 

 かぐやが尋ねた。

 巡はすぐに答えず、スマコン越しに彼女を見た。

 

「競技では使わないようにしていた部分まで使うよ」

 

 巡の言葉が意味を持って部屋へ広がるまで、僅かな間があった。

 最初に表情を変えたのは彩葉であり、先ほどまで月人へ向けられていた警戒が、今度は巡の横顔へ集中する。

 

「待って」

 

 眉間へ皺を寄せ、巡の言葉を脳内で組み直している。

 巡が能力を隠していたことに驚いたのではなく、自分の知る「自動回答反映モード」より、さらに先の使い方があると察したためだった。

 

「競技で使わないようにしていた部分って、何?」

「自動回答反映モード」

「それは知ってる。昔、練習の時にブラックオニキスのメンバーの動きを再現したやつでしょ」

「うん。あの時は、特定の人ならどう動くかという答えを反映した。今日は、攻略そのものの答えを連続で身体へ通す」

 

 巡は安全装置の確認を終えると、手元の画面を閉じた。

 機械の青白い光が消え、その顔には、ライブ前の演者というより、長い計算を始める前の研究者に近い静けさが残った。

 

「現役の頃も、アンサートーカーで相手の選択や勝ち筋は見ていた。でも、それを身体へ自動反映し続けることはしなかった。対人戦でそれを使うと、相手が何を選ぶか考える前に、こちらの勝利が確定するから」

「それの何が駄目なの? 勝負なら勝った方がよくない?」

 

 かぐやは素朴に首を傾げた。

 その問いに、巡はわずかに目元を和らげた。

 説教をするのではなく、かつて自分が何を大切にしていたのかを、丁寧に手渡すように言葉を選ぶ。

 

「私は、勝つことだけを目的にゲームをしていたわけじゃないんだ。相手が考えて、こちらがそれを受けて、また相手が選ぶ。そのやり取りが好きだった。

 全部の答えを先に出してしまったら、相手は対戦相手ではなく、攻略される問題になってしまう」

 

 巡の声は静かだった。

 

「だから、現役の時は自分で制限を決めていた。予測は、自分の技術で再現できる範囲まで。相手の選択肢は、少なくとも一つは残す。

 こちらが圧倒するのではなく、相手が次の手を考えられる強さで戦う。そうするとね、真剣にKASSENに打ち込んできた人ほどプレイングスキルが伸びる、驚くくらい、ね。

 私はそれを見ることが好きだった。だから届かない壁になるのではなく、もう少しで届く場所に立つようにしていた」

 

 彩葉は無言で巡を見ていた。

 四年前の決勝戦。

 自分が削り圏内から十五連続のジャストガードを成功させ、最後にはヨミへ勝利した試合が蘇る。

 巡は手を抜いていたのではない。

 あの時、勝つためには戦っていた。

 ただし彼が選んでいたのは、自分が最も簡単に勝つ答えではなく、彩葉が最も遠くまで走れる対戦だった。

 

「……つまり、今までのヨミは全力じゃなかったってこと?」

 

 かぐやの声が、隠しようもなく弾んだ。

 途方もない秘密を聞かされたというより、応援していた競走馬が、実は一度も最高速度で走っていなかったと知った観客のような目で巡を見つめている。

 

「全力ではあったよ」

 

 巡は質問の意図を理解しつつも、少し困ったように笑った。

 自分では言葉どおりのつもりなのだろうが、聞いている側からすれば、その前提となる制限自体が反則じみている。

 

「決めた制限の中では」

「それ、全力じゃない人がよく言うやつ!」

「今日は人間が相手ではないから、制限する理由がないんだ」

 

 巡はモニターの中の月人へ目を向けた。

 表情は穏やかなままなのに、その言葉の底には、わずかな冷たさが混じった。

 

「それに、かぐやを迎えに行くための演出だからね。失敗する答えを残しておく必要もない。必ず助けるよ──かぐや姫」

 

 その呼び方が耳へ届いた途端、かぐやの頬へ鮮やかな赤みが広がった。

 先ほどまで自分から「さらわれたお姫様」を楽しんでいたにもかかわらず、巡から正面切ってそう呼ばれることまでは想定していなかったらしい。

 両手を胸元へ寄せ、嬉しさを隠そうともせず、巡の顔を見上げる。

 

「それ、もう一回言って」

「時間だから、行ってくるよ」

 

 巡は要求を聞かなかったことにするように、スマコンのログイン画面へ視線を戻した。

 逃げ方が露骨だったため、かぐやの頬がさらに膨らむ。

 

「もう一回!」

 

 巡は答えず、仮想空間ツクヨミへと意識を集中させた。

 かぐやの抗議を聞き流しながら瞼を閉じる、その口元には、ほんの僅かな笑みが残っていた。

 

 

 巡の意識が、光のない場所へ沈んでいく。

 

 現実の身体は舞台袖のソファに預けられ、後頭部を支える柔らかな素材の感触も、耳の奥を震わせていた会場の歓声も、深い水の向こうへ置き去りにされていった。

 代わって視界へ満ちてきたのは、ツクヨミへの接続時に現れる幾重もの星と、暗い宇宙を横切る赤い鳥居、その足元で鏡のように空を映す浅い水面だった。

 

 けれど今夜、月見ヤチヨの案内はなかった。

 代わりに巡の前へ、アンサートーカーによる膨大な戦闘記録が開かれる。

 

 四年前の卒業ライブ。三本のレーンを埋め尽くした月人。ブラックオニキス、芦花、真実、彩葉が残した移動経路と攻撃履歴。

 誰が、どの瞬間に、どの敵を狙い、どこまで姫へ近づき、何に進路を阻まれたのか。

 それらは成功と失敗の二つに単純化されず、幾千もの選択肢を枝として伸ばし、巡の意識を囲む巨大な樹形図を作っていた。

 

 答えを求める問いは、短い方が精度を上げやすい。

 ただ勝利したいだけなら、必要な問いは一つで足りる。

 

 ――このモードを攻略するには。

 

 しかし今夜、巡が求めるものは、単なる攻略ではなかった。

 四年前に戦った者たちの選択を無意味にせず、不正な権限も外部補助も用いず、かぐやの帰還を待ち続けた観客を最も熱狂させ、

 彩葉の中に残った敗北の記憶へ別の結末を重ね、復活ライブの開演時刻に一秒の遅れも生じさせず、月へ連れ去られようとしているかぐやを救出する。

 

 すべてを満たす回答。

 最短経路ではない。

 最少手数でもない。

 見守る者の感情まで含めて、この夜を完成させるための最適解。

 巡は、幾重にも重なった条件を一つの問いへ結び直し、意識の底へ静かに落とした。

 

 ――カチリ。

 

 頭の奥で、極小の歯車が噛み合う。

 枝分かれしていた無数の未来が、一本の光へ収束した。

 巡が答えを理解したのではない。

 理解してから身体へ命令を送る、その僅かな往復さえ、今夜は必要なかった。

 導き出された正しい視線、正しい呼吸、正しい歩幅、正しい武器の角度が、神経と筋肉へ直接流れ込む。

 思考と実行の境界が消え、巡という存在そのものが、問いへ対する回答へ変わっていく。

 

 自動回答反映モード。

 連続実行。

 今夜だけは、相手へ考える時間を残す必要がない。

 月人は対話を交わす競技者ではなく、四年前の結末を再現するために用意された障害なのだから。

 

 

 ライブ開始予定時刻、十五分前。

 現実会場を埋め尽くしていた照明が、一斉に消えた。

 それまで波のように揺れていたペンライトも、客席の輪郭を縁取る誘導灯も、巨大スクリーンを彩っていた広告映像も暗闇へ沈み、数万人分のざわめきだけが、天井の見えない空間をゆっくりと巡った。

 熱気を含んだ空気が皮膚へまとわりつき、期待を抑えきれない観客の呼吸が、巨大な生き物の寝息のように会場を震わせている。

 

 ツクヨミ側でも同時に、仮想会場の夜が深くなった。

 空中へ設置された観覧席の眼下には、四年前の城郭が広がっている。

 砕けた瓦、月明かりに白く浮かぶ石畳、三方向へ伸びる戦場、その奥から天へ向かって連なる光の足場。

 最上段には、白い羽衣を肩へ掛けられたかぐやが、月へ捧げられる供物のように座らされていた。

 

 複製アバターには、控室にいるかぐや本人の視覚と聴覚、それに最低限の触覚が接続されている。

 現実の身体は専用椅子へ座ったままだが、本人の意識は今、四年前と同じ場所で、月へ連れ去られる姫として戦場を見下ろしていた。

 

「うわあ……高っ」

 

 目を閉じたかぐやが、控室で小さく息を呑む。

 眼下には、月光に照らされた三本の石畳と、数え切れない観客席が広がっている。

 肩へ掛けられた羽衣からは、現実には存在しないはずの冷たさまで伝わってきた。

 

「彩葉、見てる? かぐや今、超さらわれてる!」

「見てる。楽しそうに報告しないで」

 

 彩葉はモニターを睨んだまま答えた。

 腕を組んだ指が、二の腕の布を強く掴んでいる。

 声は平静に整えられていたが、身体だけは四年前の続きを警戒していた。

 ヤチヨはその手の甲へ、自分の温かい手を重ねた。

 

 暗い空へ、白い文字が一文字ずつ刻まれていく。

 

【KAGUYA RETURN LIVE】

【OPENING MISSION】

【月人襲来――かぐや奪還戦】

 

 最後の文字が完成した瞬間、腹の底まで響く重低音とともに、巨大な制限時間が空中へ表示された。

 

【08:00】

 

『何ということでしょう! 帰ってきたお姫様を、ライブが始まる前からもう一度さらわせるという、運営の倫理観が月面へ置き去りになった特別企画!』

 

 静寂を破り、忠犬オタ公の声が現実とツクヨミの双方へ轟いた。

 かぐや推しを公言する公式実況者は、四年前と変わらぬ熱量でマイクへ声を叩き込んでいたものの、その語尾にはすでに泣きそうな響きが混ざっている。

 

『みんなのために、わんわんお! 実況はもちろん忠犬オタ公です! そして今夜の特別解説には、四年前の被害者兼生存者兼、月人へ恨みを持つ会代表、ブラックオニキスの皆さんにお越しいただきましたぁぁぁ!』

『誰が被害者の会だ』

 

 黒鬼姿の帝アキラが、実況席で片眉を上げた。

 口では不満を漏らしながらも、金棒型の武器を肩へ載せた姿には、戦場へ降りられないことへの僅かな物足りなさが滲んでいる。

 その隣では雷が腕を組み、再構築された城郭の各所へ視線を走らせ、乃依は頬杖をつきながら、さらわれたかぐやを面白そうに眺めていた。

 

『ルールは至って簡単! 月人の軍勢を突破し、羽衣の装着が完了する前に、光の足場最上段へ到達してください!

 なお敵は倒しても随時補充されるため、殲滅による攻略は事実上不可能! 力任せに突っ込んだ時点で、月へ向かってさようならです!』

 

 空中へ、羽衣の装着率を示す数値が追加された。

 

【羽衣装着率:00%】

 

 かぐやの肩へ掛かった布が淡く輝き、光の粒が裾からゆっくりと上昇していく。

 その美しさがかえって不吉で、彩葉はモニターを睨む目をさらに細めた。

 

『挑戦者は、たった一名! 外部マクロなし! 管理者権限なし! ステータス補正なし!

 ブラックオニキスの皆様から、「どうせ運営が盛ってんだろ」と大変品のあるご指摘をいただきましたので、月見ヤチヨによる全入力監査も公開しております!』

 

 ツクヨミの空へ、巨大なヤチヨの立体映像が浮かんだ。

 現実の楽屋にいる本人と寸分違わぬ姿が、片目を閉じて人差し指を立てる。

 映像の横には操作ログとステータス、権限履歴が表示され、すべての項目が青い正常値を示していた。

 

『不正な操作や外部支援は一切ございません。これより発生する不可解な現象は、すべてプレイヤー本人の仕様です。運営へのお問い合わせは受け付けますが、回答は「知らんがな」となりまーす☆』

『仕事をしろ、管理者!』

 

 忠犬オタ公の絶叫へ、会場から大きな笑いが返る。

 しかし、その笑いは長く続かなかった。

 挑戦者名を示す欄には、まだ横線だけが並んでいる。

 

【SPECIAL CHALLENGER:――――】

 

 観客席の上空を流れるコメントが、予想で埋め尽くされていく。

 

『帝アキラ再戦だろ』

『いや、いろPのリベンジ』

『ブラックオニキス三人で一名という判定にしよう』

『それ一休さんのとんちだろ』

『この人数を一人とか無理ゲー』

『勝ったな、風呂入ってくる』

『始まる前に敗北フラグを立てるな』

『まだ慌てるような時間じゃない』

 

 帝アキラは自分の名が増えていく画面を見て、鼻を鳴らした。

 

『俺じゃねえ。俺なら挑戦する前に、ボスのボサツ型まで届く射出装置を運営へ作らせる』

 

 帝は自分が挑戦者ではないことを明かしながらも、目の前の戦場へ殴り込む方法だけは即座に考えていた。

 腕を組んだままの姿勢にもかかわらず、実況席へ座っているより、今すぐ金棒を担いで飛び降りたそうな気配が隠しきれていない。

 

『交渉という名の脅迫だな』

 

 雷が冷静に指摘すると、乃依は猫のように目を細め、候補者名の流れを指先で追った。

 

『でも、本当に誰だろうね。四年前にいた上位勢なら、大体こっちの実況席か楽屋にいるんじゃない?』

 

 乃依の声が落ちた直後、戦場へ一枚の黒い羽根が舞い降りた。

 一枚。

 二枚。

 夜空を滑るように落ちてきた羽根が、石畳へ触れる寸前、紫色の光へほどける。

 光の粒が集まり、人の輪郭を形作った。

 

 最初に現れたのは、厚底の編み上げ靴だった。

 踵の高い黒い靴が石畳へ触れ、その上へ、足首を絞った黒袴が輪郭を得る。

 袴は腰回りで大きく膨らみ、太い帯と背面の結びによって、和装の静けさと戦闘衣装の機能性を両立させていた。

 

 上半身には黒い立襟の内衣。

 その上へ、白い前掛けを思わせる胸当てと、ゆったりとした広袖の上衣が重なる。

 白と黒だけで構成された簡潔な配色は、舞台の月光を受けるたび、喪服にも巫女装束にも見え、見る角度によって印象を変えた。

 

 両手には黒い手袋。

 短く切り揃えられた濃紫色の髪は、毛先だけが夜明け前の空のように淡く染まり、片側には金属製の翼飾りと、細い鎖飾りが揺れている。

 

 最後に、黒紫色の短い髪が輪郭を得た。

 頬へ沿う髪は毛先だけが淡い紫へ染まり、片側には、金と紫の金属細工で作られた梟の羽飾りが垂れている。

 長い睫毛の下で開かれた瞳もまた、夜を薄めたような紫色だった。

 その手には、中央へ赤い宝玉を抱き、三方向へ湾曲した刃を伸ばす異形の武器――トライエッジ。

 かつてのライバー衣装を知る者にとっても、それは見間違えようのない姿だった。

 挑戦者欄へ名前が刻まれる。

 

【SPECIAL CHALLENGER:YOMI】

 

 一瞬、会場全体から音が消えた。

 誰もが表示された名を読み、それが見間違いではないと理解するために、ほんの一拍だけ必要としたのだ。

 次の瞬間、爆発した。

 歓声という言葉では足りない。

 悲鳴、泣き声、名前を呼ぶ声、椅子を蹴って立ち上がる音が一つの圧力となり、現実会場の床を震わせ、ツクヨミの空間にまで波紋を広げていく。

 

『ヨミ!?』

『本物だああああ!』

『無期限休止とは何だったのか』

『四年ぶりのログインが月人討伐!?』

『かぐや復活でヨミも復活するの、情緒を殺しに来てる』

『こんなのってないよ、あんまりだよ』

『こいつ……動くぞ!』

『まだ立ってるだけだぞ』

『立ってるだけで泣けるんだよ!』

 

 反響は様々だったが、特にKASSENプレイヤーからの反応が絶大だった。

 ヨミは熱狂へ呑まれることなく、トライエッジの石突きを脇へ置くと、観客席へ丁寧に頭を下げた。

 幅広い白袖が左右へ垂れ、黒い衣装の上へ梟の翼のような輪郭を作る。

 その姿は四年前から少しも変わっていないのに、活動休止という空白を知る者には、ひどく遠い場所から帰ってきたように見えた。

 

「今夜だけ、少しツクヨミの夜に戻ります──」

 

 低く、柔らかな声が広がった。

 派手な復帰宣言でも、待たせたことへの謝罪でもなかった。

 それでもヨミの声を覚えていた者たちには、その短い一言だけで充分だった。

 会場のあちこちから嗚咽が上がり、コメント欄は彼の名で埋め尽くされる。

 ヨミは顔を上げると、最上段の光の足場へ目を向けた。

 そこには、白い羽衣をまとわされたかぐやがいる。

 

「──主役を迎えに来たので」

 

 歓声が、さらに一段階大きくなった。

 

「うわあぁぁぁ……!」

 

 楽屋のかぐやが、両手で顔を覆った。

 金色の髪の間から覗く耳まで真っ赤になり、椅子へ座った現実の身体は、感情を逃がすように爪先を床へ何度も打ちつけている。

 

「何それ、聞いてない! ずるい! かっこよすぎる! 彩葉、今の保存した!?」

「全世界で配信されてるし、公式が最低でも五つの角度から保存してる」

 

 彩葉は呆れたように答えながらも、口元へ浮かんだ笑みを隠そうとはしなかった。

 四年前、何度走っても届かなかった戦場へ、今度は巡が一人で立っている。

 その事実が、恐怖と結びついていた風景へ、頼もしさという新しい色を重ねていく。

 

「個人用に欲しいの!」

「あとで編集するから、今は大人しくさらわれてて」

「さらわれる側への注文としておかしくない?」

「自分から企画したんでしょ」

 

 彩葉の声には、先ほどまでの硬さが少しずつ消えていた。

 かぐやもそれに気づいたのか、それ以上は騒がず、アバターの視線を戦場中央へ向け直した。

 羽衣の中から見下ろすヨミの姿は小さかったが、どれほど月人が増えても、見失う気はしなかった。

 忠犬オタ公は何度も咳払いをし、泣きかけた声を無理やり実況用へ戻した。

 

『さあ、四年ぶりの限定復帰! 伝説を置き土産に消えた夜の梟、ヨミが、鬼畜難度の月人襲来へ単独で挑みます!』

 

 

 忠犬オタ公の叫びと同時に、開始音が鳴った。

 

【MISSION START】

 

 月が開いた。

 白い満月の中央へ縦の亀裂が走り、その奥から無数の光が降り注ぐ。

 最初に現れたのは、リョウサン型だった。

 白く細い人型の身体。その首から上には、朱塗りの楼閣か灯籠を思わせる箱状の頭部が載り、軒先から吊られた色とりどりの飾り玉が、歩調に合わせて不吉なほど軽やかに揺れている。

 手にしているのは、赤い紐を複雑な結び目へ組み上げたような飾りを先端に掲げる、細長い杖だった。

 数百体のリョウサン型は杖の石突きを一斉に石畳へ打ちつけ、寸分違わぬ歩幅と姿勢で、三本の進軍路を白い濁流のように埋め尽くしていく。

 

 杖が振るわれる。

 足を払う横薙ぎ、胴を突き飛ばす刺突、頭上から叩き伏せる打撃。

 個々の技に複雑さはないものの、同じ攻撃を数十体が僅かな時間差で重ねることで、赤い結び飾りの軌跡は上下左右を塞ぐ格子へ変わり、ヨミの周囲を狭めていった。

 

 ヨミは動かなかった。

 トライエッジを下げたまま、正面から迫るリョウサン型を見ている。

 

『ヨミ選手、動かない! リョウサン型の杖が上下左右から迫っています! まともに受ければ、開幕一秒で袋叩きですよ!?』

 

 最初の杖が胸元へ届く。

 あと一メートル。

 五十センチ。

 ヨミは左足を、靴半分だけ後方へ引いた。

 真正面から突き出された杖が、白い上衣の袖を掠める。

 

 ヨミの左手が、杖の柄へ触れた。

 握らない。

 押し返さない。

 添えた指先で軌道を僅かに横へずらす。

 逸れた杖の先端が、隣のリョウサン型の頭部へ衝突した。打たれた個体が傾き、後列から踏み込んでいた二体と接触し、整然としていた隊列へ小さな歪みが生じる。

 

 ヨミは、その歪みへ片足を置いた。

 横薙ぎに振られた二本目の杖を踏み台にし、杖を持ち上げようとする月人の力へ身体を預ける。

 白い広袖が大きく翻った。

 ヨミの身体が、リョウサン型の頭上へ跳ね上がる。

 

『敵の武器に乗った!?』

『見える、私にも杖が見える』

『普通は見えても乗れないんよ』

『俺でなきゃ見逃しちゃうね』

『いや俺は見逃した』

 

 空中で身体を捻る。

 トライエッジの湾曲刃が、三本の長杖を同時に受け止めた。

 刃で杖を断つのではない。

 杖同士を噛み合わせ、持ち主が引こうとする力を互いへ流す。

 リョウサン型の腕が交差し、隊列の中央へ固い結び目が生まれた。

 

 後続は止まれない。

 白い身体が次々と衝突し、巨大な人垣が自ら折り重なっていく。

 ヨミは崩れた月人の肩へ着地すると、歩調すら変えず、その中央を抜けた。

 

『一体も倒してません! 敵の隊列を敵のまま障害物にした!』

 

 忠犬オタ公の説明へ、観客のざわめきが重なった。

 

『月人がドミノみたいになってる』

『俺の知っているKASSENと違うんだが?』

『月人の使い方が上手すぎる』

『ハナから月人を倒す気が無いのか、無限沸きなら確かにそうなるよな』

 

 第二陣が空から降りてきた。

 月人テンニョ型。

 長い薄布を風へ泳がせ、紫紺の装甲をまとった細身の個体が、地上のリョウサン型を覆うように高度を分けて並ぶ。

 高所へ浮かぶ者は、琵琶の胴と棹を長大な砲へ作り変えたような武器を肩に担いでいた。

 輪状の装飾に囲まれた太い砲口へ紫色の光が収束し、細い照準線が石畳を滑りながら、ヨミの進路を斜めに切り分けていく。

 その下では、鮮やかな色の管を幾本も束ねた、笙にも似る射撃具が一斉に掲げられていた。

 長さの異なる管の一本一本へ光が満ち、単一の標的を撃ち抜くのではなく、広範囲を弾幕で塗り潰そうとしている。

 

 上空からは、逃げ道を断つ長砲身の一撃。

 低空からは、僅かな隙間まで埋める多重射撃。

 さらに背後では、立て直したリョウサン型が長い腕と細杖を重ね、ヨミの退路を閉ざしていく。前進も停止も許さない包囲網が、僅か数秒で完成した。

 ヨミは、最も攻撃の密度が高い中央へ走った。

 

『そっちは駄目!』

 

 彩葉の声が控室へ響く。

 四年前、長砲身から放たれる光条を避けた先へ、多色の弾幕を浴びせられ、何度も進路を潰された。

 突破口を作っても次の隊列が空から降り、かぐやとの距離は見えているのに、一歩進むための時間だけが際限なく奪われていった。

 その焦燥を、彩葉の身体は今も覚えている。

 

『テンニョ型、上下二層の射撃陣を展開! 高所からの砲撃が進路を断ち、低空の多重射撃が回避先を埋めます! 前へ出れば集中砲火、止まれば背後のリョウサン型に包囲される!』

 

 高所の砲口が閃いた。

 一本の光条が夜空を切り裂き、ヨミの進路へ斜めに突き刺さる。

 石畳が白く爆ぜ、砕けた破片が足元から舞い上がった。

 ヨミは照準が固定された瞬間に、左足を半歩だけ外へ置いた。

 大きく避ければ、低空の弾幕へ飛び込むことになる。

 必要な分だけ身体をずらし、光条が背中のすぐ後ろを通過するのと入れ替わるように、焼け焦げた射線の内側へ滑り込んだ。

 

 直後、低空に並ぶ射撃具から、色彩の異なる光弾が扇状に放たれる。

 一発目へ首を傾ける。

 二発目は肩を沈める。

 三発目へトライエッジの刃ではなく、中央の厚い金属部を斜めに触れさせ、ほんの僅かに角度を変える。

 弾いたのではない。

 撃ち返したのでもない。

 勢いを殺さず、隣を飛ぶ一発へ接触する方向へ、進路を僅かにずらしただけだった。

 

 二つの光弾が触れ、互いに外側へ弾かれる。

 逸れた二発は、さらに別の光弾へ衝突した。

 その四発が周囲の八発へ干渉し、衝突するたび、整然と並んでいた射線が少しずつ乱れていく。

 弾幕は一度に消えたのではない。

 中心の二発から四発へ、四発から八発へ、崩れが波紋のように外側へ広がった。

 固く編まれていた網の結び目が順番に外れるように、ヨミの正面へ、人一人が通れる細い隙間が生まれていく。

 

 ヨミはその隙間へ身体を滑り込ませた。

 制御を失った光弾の一部は高所へ跳ね上がり、長砲身を構えていたテンニョ型へ直撃する。

 一体の砲口が横へ傾き、発射された光条が味方の陣形を薙いだ。

 射撃陣の片側が崩れ、別の個体が長い薄布を絡ませながら高度を失う。

 ヨミは、落下してきた月人の長砲身へ片足を掛けた。

 月人の身体と武器が沈み込む動きに膝を合わせ、反動が戻る瞬間に踏み切る。

 白い広袖が大きく膨らみ、その身体は崩れた射撃陣の上を越えて、次の石畳へ軽やかに着地した。

 

『一発で弾幕全部崩した!?』

『何が起きているのか分からねーと思うが、俺も分からん』

『弾を一発だけ逸らして、弾幕の中へ連鎖を起こした!』

『光弾でビリヤードすなー!』

『月人「解せぬ」』

 

 コメントの流れへ、一つの文が混じった。

 

『これ、現役時代に本気出してなかった説、やっぱ本当では?』

 

 ヨミが現役時代、本当の意味では一度も全力を出していなかったのではないか。

 そんな説は、本人が活動を無期限休止したあと、古参のKASSEN視聴者たちの間で囁かれるようになった。

 根拠として繰り返し挙げられるのは、朝から深夜まで続いたオンライン総当たり企画である。

 出場者はそれぞれ自宅や配信環境から参加していたが、後半になるにつれ、息切れをマイクに拾われる者、手の疲れから入力を誤る者、試合後の通話へ返事をする余裕さえ失う者が続出した。

 

 その中で、ヨミだけは最後まで変わらなかった。

 初戦と最終戦で、踏み込みの幅も、回避後の切り返しも、コントローラーへ入力する間隔もほとんど同じだった。

 十二時間近い日程を完走したあとにも息は乱れず、疲労困憊した対戦相手を相手に、普段どおりの落ち着いた声で感想戦を始めている。

 そればかりか、公式配信を終えた数時間後には、予定していた視聴者参加型の対人配信を平然と開始し、深夜まで精度を落とさず戦い続けた。

 

 似た出来事は一度ではない。

 長時間の連勝企画を終えた直後に、新人へ一時間近く指導を行ったこともあれば、共演者たちが配信終了とともに休息へ入る中、「まだ時間があるから」と別の対戦企画へ参加したこともあった。

 活動休止後、視聴者が過去の入力記録を比較したことで、一つの仮説が生まれた。

 ヨミは疲れなかったのではない。

 企画の最後まで維持できる出力を最初から見極め、その線を一度も越えずに戦っていたのではないか。

 そして恐ろしいのは、その巡航速度のまま、帝アキラをはじめとする最上位勢と渡り合い、伝説と呼ばれる位置まで上り詰めていたことである。

 

 帝アキラは流れるコメントを目で追い、わずかに鼻を鳴らした。

 自分たちとの試合が手抜きだったと単純に片づけられることは、対戦者としても、ヨミの戦いを知る者としても看過できなかった。

 

『勘違いすんなよ』

 

 低い声が実況席のマイクへ拾われると、それまで好き勝手に流れていたコメントの速度が僅かに落ちた。

 帝が冗談ではなく、かつてヨミと刃を交えた競技者として語ろうとしていることが伝わったためだった。

 

『あいつは、俺たちを舐めてたわけじゃねえ』

 

 帝はヨミの一挙一動を追いながら、言葉へ確信を込めた。

 自分が知らなかった底を目の当たりにしても、過去に交わした勝負の価値まで疑うつもりはなかった。

 

『じゃあ、何なの?』

 

 乃依は頬杖をついたまま、視線だけを帝へ向けた。その口元にはいつもの笑みがあったが、問いかけ自体は、視聴者が抱く疑問を代弁するように真剣だった。

 画面の中では、ヨミが被弾して高度を失ったテンニョ型の長砲身へ片足を掛けていた。

 月人の身体と武器が落下する動きへ膝を合わせ、沈み込みが反動へ変わる一瞬を踏み切りに利用すると、次の石畳まで軽々と飛び越えていく。

 帝は、その一連の動きから一度も目を離さなかった。

 

『対戦を成立させるため、自分を人間の時間まで降ろしてたんだ』

 

 帝の言葉に、忠犬オタ公が口を挟むことを忘れ、一瞬だけ静まり返った。

 上空を流れるコメントにも、先ほどまでの軽口に代わり、説明の続きを待つ短い言葉が増えていく。

 

『全部分かって、分かった通りに一切の誤差なく動ける奴と、まともな対戦ができるかよ。あいつは相手が考える余地を残してた。

 俺たちの手が届く場所に立ってた。勝負にするために、相手の全力を引き出すために、自身に枷を嵌めてやがった』

『それを手加減って呼ぶんじゃない?』

 

 乃依は意地悪く揚げ足を取ったのではなく、帝の表現と一般的な認識の違いを確かめるように尋ねた。

 見上げる画面の中では、制限を捨てたヨミが、過去のどの試合とも異なる速度で月人の間を駆け抜けている。

 

『違う』

 

 帝は一拍も置かずに断言し、組んでいた腕を解いた。

 その横顔には、知らなかったヨミの力への苛立ちと、それでも自分たちとの戦いを否定させまいとする、競技者としての矜持が浮かんでいる。

 

『手加減は、上から相手を見て力を抜くことだ。あいつは、相手と同じ場所へ立つために、自分で使う力を選んでた。制限の中では、本気で勝ちに来てた』

 

 帝の口元へ、言葉とは裏腹な笑みが浮かんだ。

 自分たちが見たことのないヨミの底を前にしても、恐ろしさより先に闘争心が刺激されているらしい。

 

『だから腹が立つ。こっちは死ぬ気で戦ってたってのに、あいつの底だけは誰も見てなかった』

 

 画面の中で、ヨミの速度がさらに上がった。

 テンニョ型が射線を揃えるより先にその内側へ入り込み、月人の武器を次の跳躍へ利用しながら、光の足場との距離を縮めていく。

 

『で、今日は対戦相手がいねえ。月人は人じゃない。ただの障害物だ』

 

 帝は牙を覗かせ、ようやく目の前の光景を心から楽しむように笑った。

 過去の試合で自分たちへ残されていた余白が、今夜の月人には一片も与えられていないことを、誰より明確に理解していた。

 

『なら、あいつが俺たちの場所まで降りてくる理由もねえ』

『帝、ヨミが現役の時はSETSUNAでボコられてたもんねー、今更だけど慰めてあげようか?』

『やかましいわ』

 

 帝の怒声と同時に、実況席へ笑いが戻った。

 しかし画面の中では、ヨミの前へ新たな月人が降り立ち、戦場は一段階激しさを増そうとしていた。

 

 

 ヨミの前へ、二体のコンゴウ型が降り立った。

 一体は、両手に巨大な金属円盤を掲げていた。

 黄金の表面へ幾重もの円環が刻まれたそれは、盾というより一対のシンバルに近く、腕を開くたび、縁に連なる房飾りが硬質な音を立てる。

 

 もう一体が担ぐのは、太い棍棒の先へ巨大な木魚を据えた異形の武器だった。

 磨き上げられた暗褐色の表面には、泣いているとも笑っているともつかない顔が彫り込まれ、その虚ろな口から、腹の底を震わせる低音が漏れている。

 

『コンゴウ型、二体同時! 左右をシンバルで挟み、正面から木魚棍棒で叩き潰すつもりです! 逃げ道がありません!』

 

 円盤を持つコンゴウ型が両腕を広げ、ヨミの左右へ回り込んだ。

 同時に、木魚棍棒が頭上へ持ち上げられる。

 左右からは、閉じる金色の壁。

 正面からは、夜空ごと押し潰す巨大な槌。

 三方から迫る質量が空気を圧縮し、石畳の亀裂から砂塵を噴き上げた。

 二体の攻撃が交差すれば、金属の轟音と木魚の重低音が、戦場を丸ごと呑み込むはずだった。

 

 ヨミは、その中心へ歩いた。

 速くはない。

 駆けてもいない。

 二体の巨体が作る僅かな隙間へ、風に揺れた花弁が枝の間を抜けるように、するりと身体を滑り込ませる。

 

 金色の円盤が閉じた。

 木魚棍棒が振り下ろされた。

 だが、何の音も鳴らなかった。

 

 ヨミはすでに、二体の向こう側へ抜けていた。

 白い広袖が遅れて翻り、その両手には、抜き放たれた二振りのトライエッジが月光を宿している。

 最初に落ちたのは武器だった。

 シンバル型の両手から金属円盤が滑り落ち、石畳へ重く突き立つ。その隣では、木魚棍棒が握り手を離れ、切断された柄を回転させながら地面へ転がった。

 

 遅れて、二体の手首と足首へ細い紫光が走る。

 指を閉じる腱。

 武器を支える腱。

 巨体を立たせ、地面を踏み締める腱。

 必要な箇所だけが、寸分の狂いもなく断たれていた。

 二体のコンゴウ型は、何が起きたのか理解する間もなく膝を折った。

 巨体が同時に沈み、両手を失った腕が力なく垂れる。金色の楼閣を戴く頭部は前へ傾き、まるでヨミの通過を阻んだ無礼を詫びるように、二体揃って深く頭を垂れた。

 

『跪かせた……! 攻撃を避けただけじゃありません! 通り抜けざまに、二体の武器と四肢の腱だけを斬っています!』

『いつ斬った!?』

『見えなかった』

『月人が勝手に礼したみたいになってる』

『処刑前の作法なんよ』

 

 ヨミは足を止めた。

 振り返りもせず、左右の手に握ったトライエッジを僅かに開く。

 膝をついた二体の首は、ちょうど同じ高さへ並んでいた。

 まるで、最初からその一閃を受けるために用意されたように。

 ヨミが両腕を交差させる。

 黒紫色の斬光が、夜の中へ一文字を描いた。

 二体の首が、同時に胴を離れる。

 血は流れなかった。

 

 切断面から溢れた淡い光が、無数の花弁へ姿を変える。

 白と薄紫の花びらが月夜へ舞い上がり、斬り落とされた楼閣状の頭部も、跪いたままの巨体も、その中へ輪郭を溶かしていった。

 花吹雪の向こうで、ヨミは双剣を払う。

 二体が降り立ってから、まだ数秒しか経っていない。

 挟撃は届かず、武器は振るわれず、強靱な巨体は自ら頭を垂れたように沈み、その首さえ一度の交差斬りで失われた。

 鎧袖一触。

 コンゴウ型二体は、ヨミの歩みを一歩たりとも遅らせることなく、舞い散る花弁だけを戦場へ残して消滅した。

 

『圧倒的! 二体のコンゴウ型を、まるで道端の花を摘むように斬り伏せました! ヨミ、止まりません!』

 

 

 花弁は、まだ落ちきっていなかった。

 淡い紫と白の光片が夜気の中をゆるやかに旋回し、石畳へ細い影を落としている。

 その中心を、ヨミは駆けだしていた。

 背後では、つい数秒前まで道を塞いでいた二体のコンゴウ型が、跪いた姿勢の名残すら残さず消えていく。

 

 歓声は止まらない。

 現実と仮想、二つの会場を震わせる熱狂は、壁ではなく空気そのものに質量が生まれたようにヨミの周囲へ押し寄せていたが、本人の歩調は少しも変わらなかった。

 花弁が肩へ触れるより先に光へほどけ、白い広袖の後ろへ流れていく。

 その時、石畳が沈んだ。

 

 一度。

 間を置いて、もう一度。

 遠くから響く足音ではない。戦場そのものが、何か途方もなく重いものを受け止めて軋んでいる。

 花吹雪の向こうで、丸みを帯びた巨大な影が立ち上がった。

 月人ホテイ型。

 その巨体は武器は持っていなかった。

 白く肥大した胴体から伸びる腕は、膝へ届きそうなほど太く、拳を握るだけで指の関節が岩を擦り合わせるような音を立てる。

 肩も、胸も、腹も、鎧というより一つの巨大な塊として繋がっており、刃を受けることなど最初から意に介していないようだった。

 

『コンゴウ型を突破した先に、ホテイ型! 武器はありません! ありませんが、だから安心という話ではまったくございません! 

 あの巨体全部が武器! 殴る、掴む、押し潰す! 極めつけは、質量にものを言わせた体当たりです!』

 

 ホテイ型は腰を深く落とし、両の拳を石畳へ突き立てた。

 

 白く肥大した背中が大きく盛り上がり、全身を巡る光の筋が、腹部から肩、肩から四肢へと脈打つように走っていく。

 踏み締められた地面は、まだ巨体が動き出してもいないうちから耐えきれずに陥没し、石畳の隙間へ溜まっていた砂塵が、圧力に押し出されて白い煙のように噴き上がった。

 

 ヨミとの距離は三十メートルほど。

 ホテイ型が、一歩を踏み出す。

 次の瞬間には、その距離の大半が消えていた。

 

 駆けるというより、山の斜面そのものが崩れ落ちてくるような突進だった。

 肩を前へ突き出した巨体が夜気を押し潰し、その前面に圧縮された空気が半透明の壁となって石畳を削っていく。

 まともに受ければ、身体を弾き飛ばされるだけでは済まない。回避が遅れれば、触れる前に風圧へ足を攫われ、そのまま白い肉塊の下へ呑み込まれる。

 

『ホテイ型、正面から突っ込んだぁぁぁ! あの質量で、あの速度! 避けても巻き込まれる、受ければ押し潰される! これが月人式の交通事故です!』

 

 ヨミは正面へ立ったまま、双剣を下げていた。

 ホテイ型の肩が目前まで迫り、押し寄せる風が広袖を背後へ引き絞る。

 それでもヨミが動いたのは、衝突まで残り一歩となってからだった。

 

 右のトライエッジを肩の曲面へ添え、左の刃を突き出された腕の内側へ滑り込ませる。

 受け止めるのではない。

 押し返すのでもない。

 ヨミは腰を沈めると、ホテイ型が自ら持ち込んできた膨大な推進力へ、ほんの僅かな横向きの傾きを与えた。

 巨体の進行方向が、ずれた。

 最初は指一本分ほどの変化にすぎなかったが、止まることのできない重量と速度は、その小さな誤差を一歩ごとに増幅させていく。

 正面へ向いていた肩が斜めへ流れ、石畳を踏み砕く足が身体の軸から外れ、ホテイ型はヨミの脇を擦り抜けるように通過した。

 

 その進路上を、一体の月人が泳いでいた。

 丸々と膨らんだ白い金魚の胴体へ、灰色の背鰭と大きな尾鰭が生え、その前端には、狛犬を思わせる頭部と二本の前脚が据えられている。

 額から突き出した一本角、濃紺の顔面を彩る赤や金の紋様、牙を覗かせた口元は勇ましいものの、空中で尾を揺らす姿には、どこか縁日の飾り物めいた愛嬌さえあった。

 

 月人ズイジュウ型。

 水のない夜空を泳ぎながら、戦場を横切ろうとしていたズイジュウ型の丸い腹へ、進路を逸らされたホテイ型の肩が突き刺さる。

 衝突音が、城郭を揺らした。

 柔らかなもの同士がぶつかる音ではない。

 巨大な岩塊を空中から叩きつけたような、鈍く、腹の底まで震わせる轟音が響き、ズイジュウ型の身体は大きくひしゃげた。灰色の尾鰭が千切れそうなほど激しく翻り、狛犬の前脚が虚しく空を掻く。

 二体の月人は絡み合ったまま石畳へ墜落し、幾度も地面を跳ねながら、砕けた瓦と砂塵の中へ転がり込んだ。

 

『ぶつけたぁぁぁ! ホテイ型の突進を、そのままズイジュウ型へ配送! 受取拒否も置き配指定もできません!』

 

『月人同士で交通事故起きてる』

『金魚がトラックに轢かれた』

『トラック扱いされるホテイ型』

『ヨミだけ無傷なの理不尽すぎる』

 

 ホテイ型は腹を揺らしながら横転し、瓦礫を押し退けて起き上がろうとする。

 その傍らで、ズイジュウ型の丸い身体が大きく脈打った。

 一度。

 二度。

 白い胴体の内側から、何かが外皮を押し広げている。

 狛犬の顔面に浮かぶ色彩が激しく明滅し、円らだった瞳が、怒りを煮詰めたような赤へ染まる。

 額の一本角が鋭く伸び、金魚のように膨らんでいた胴体へ、縦横に亀裂が走った。

 

 ズイジュウ型が吠える。

 愛嬌を残していた鳴き声ではない。大気を震わせ、石畳の破片を跳ね上げる、龍の咆哮だった。

 亀裂から噴き出した白い光が、金魚の輪郭を内側から引き裂いていく。

 丸い胴体が縦へ伸び、鱗に覆われた長大な胴へ変わる。

 大きな尾鰭は束ねられるように細まり、しなやかな龍尾として地面を薙いだ。腹部の下からは四本の獣脚が突き出し、太い腿と鋭い爪を石畳へ食い込ませる。

 

 狛犬だった頭部も形を変えていた。

 顔を覆っていた白い毛が後方へ流れ、角を戴く半人半龍の面貌が現れる。

 口元からは上下に鋭い牙が伸び、赤く燃える両眼が、ホテイ型ではなく、その突進を自分へ向けたヨミを探して戦場を睨み回した。

 

 上半身には、人に似た胸郭と二本の腕が形作られる。

 さらにその背後、肩甲部の左右から、人型の腕を優に上回る巨大な副腕が伸び上がった。

 長く太い指が二本の槍を握り、人型の腕には一振りずつ、左右一対の剣が収まる。

 二本の槍。

 二振りの剣。

 四本の腕と四本の獣脚を備えた、半人半龍の戦闘形態。

 

 先ほどまで空を漂っていた金魚の面影は、灰色の背鰭と長い尾の一部へ僅かに残るだけだった。

 ズイジュウ型は四脚で石畳を踏み砕き、巨大な副腕の槍を振り上げる。

 人型の腕が握る双剣も左右へ開かれ、八つの刃先が異なる角度から、ヨミの身体を貫く軌道へ並んだ。

 

『ズイジュウ型、戦闘形態へ移行! 槍二本、双剣二振り! 四腕四足の半人半龍へ豹変しました! 温厚そうな金魚はどこへ行ったのでしょうか!』

 

 だが、ズイジュウ型が憎悪を向けた先には、誰もいなかった。

 月人が怒りに任せて身体を組み替えている、その僅かな時間に、ヨミはすでに視界から消えていた。

 風の中へ、軽い鍵盤音が鳴る。

 高く澄んだ一音だった。

 ズイジュウ型が振り向いた時、ヨミは崩れた城壁の上へ立っていた。

 両手に握られていたトライエッジは消えている。

 

 代わって月光を受けていたのは、深い紺色の外装と、黄銅色の縁取りを持つ二振りの湾曲刃だった。

 内側には白と黒の小さな鍵盤が並び、二本の刃を左右へ開けば、その輪郭は楽器のようにも、風を受けて螺旋を描きながら舞い落ちる紅葉の種子のようにも見えた。

 酒寄彩葉が使う、鍵盤型ブレード。

 その双剣形態だった。

 

「えっ」

 

 楽屋で、彩葉の声が漏れた。

 ヨミが自分の武器を選んだことへ気づいた途端、胸の奥へ熱いものが込み上げる。

 四年前、自分が握って走り、それでもかぐやのもとへ届かなかった武器が、今度は巡の両手で同じ戦場へ戻っている。

 

 感激は確かにあった。

 あったのだが、ヨミが刃先をズイジュウ型へ向けた次の瞬間、その感情は別の驚きに押し流された。

 二振りのブレードの先端が開き、内部から細いクナイが射出された。

 金属の尾を引く二本のクナイは、背後から伸びるワイヤーを夜空へ描きながら飛翔し、一方はズイジュウ型の右側の副腕へ、もう一方は左脇腹の鱗へ深く突き刺さった。

 ヨミが柄へ並ぶ鍵盤を指先で弾く。

 短い旋律とともに、ワイヤーが巻き取られた。

 城壁の上にいたヨミの身体が、地面を蹴るより早く空中へ射出される。

 

「ちょっと待って」

 

 彩葉の瞳が見開かれた。

 

「私の武器で、何してるの?」

 

 ヨミは張り詰めた二本のワイヤーの間を振り子のように横切り、ズイジュウ型の頭上へ躍り出た。

 白い広袖が風を孕み、紺と金の双剣が夜空へ二つの弧を描く。

 巨大な副腕がヨミを叩き落とそうと持ち上がる。

 ヨミは右手側の巻き取りを一瞬だけ解除し、左のワイヤーを強く引いた。

 身体の進行方向が空中で鋭く折れ、副腕の掌が触れる寸前に、その外側へ回り込む。

 

 すれ違いざま、鍵盤型ブレードが副腕の付け根を深く薙いだ。

 白い光が噴き出す。

 腕そのものを切断したのではない。

 肩の内側を通り、指先へ力を伝えていた筋と腱だけが、精密に断ち切られていた。

 巨大な右腕が、力を失って垂れ下がる。

 

 ズイジュウ型が残る副腕を振り回した時には、ヨミはすでに逆側のワイヤーを巻き取っていた。

 投げ出されるのではなく、自ら張った軌道へ身体を引き込み、巨体の背後から腹側へ、螺旋を描くように回り込む。

 

 左の副腕の肘裏へ一閃。

 続いて肩口へ、逆方向から二閃目。

 巨大な指が空を掴んだまま動きを止め、二本目の副腕もまた石畳へ沈んだ。

 

『何ですか、この動きは!? 地面を走っていません! ズイジュウ型へ打ち込んだワイヤーを巻き取り、自分の身体を空中で引っ張っている!』

『一人だけやってるゲーム違わない?』

『KASSENに立体機動アクション実装された?』

『されてない』

『いろPの武器にそんな機能あったの!?』

『ワイヤーはあった。使い方は知らない』

 

「し、知らないからね! 私もこんな使い方なんて!」

 

 彩葉は思わずコメントへ返事をするように叫んだ。

 

「あれは投げた武器を回収したり、相手へ絡めたりするための補助機構! 使ってる本人を高速で巻き取って、巨人の周りを飛び回るための装置じゃないから! 

 私、自分の武器でそんな戦い方ができるなんて知らなかったんだけど!?」

 

 抗議しているはずなのに、声の端には隠しきれない高揚が滲んでいた。

 自分では辿り着けなかった使い方を見せつけられた悔しさと、四年前の雪辱を、自分の武器まで連れて果たしてくれる喜び。

 その二つが胸の中でぶつかり合い、彩葉の表情を、泣きそうな笑顔とも、笑いを堪えるしかめ面ともつかないものにしていた。

 

 ズイジュウ型は巨大な副腕を失いながらも、人型の二本の腕を伸ばした。

 右手がワイヤーを掴もうとする。

 左手が空中のヨミへ爪を立てる。

 ヨミは二本のクナイを同時に引き抜いた。

 支点を失った身体が一瞬だけ落下する。

 しかし、落ちたのは僅かだった。

 空中で身を翻しながらクナイを再射出し、一方をズイジュウ型の鎖骨へ、もう一方を背後の城壁へ打ち込む。

 二本のワイヤーが斜めに張り、巻き取りの強弱が切り替わった瞬間、ヨミの身体は横殴りの風に乗った鳥のように加速した。

 人型の右腕、その手首の内側を斬る。

 

 指が開く。

 返す刃で肘関節の光脈を断つ。

 腕が垂れる。

 さらに背面へ回り込み、左肩から伸びる筋を縦へ切り裂くと、最後までヨミを追っていたもう一方の腕も、力なく胸元へ落ちた。

 四本の腕が、すべて沈黙する。

 ズイジュウ型は獣脚だけで地面を蹴り、ヨミを振り落とそうと激しく跳躍した。

 巨体が城壁より高く持ち上がる。

 石畳が遠ざかり、観客席の光が眼下へ広がった。

 

 ヨミはワイヤーを緩めなかった。

 ズイジュウ型が上昇する力さえ軌道へ組み込み、その背を追うように高空まで運ばれていく。

 月を背にした巨体の周囲を、二本の細い線が幾重にも巡り、ヨミの軌跡だけが白い残光となって夜空へ残った。

 

 頂点へ達した瞬間、ヨミは左のワイヤーを切り離した。

 身体が獣脚の外側へ大きく振られる。

 鍵盤型ブレードが、後脚の膝裏を通過した。

 一本目の腱が切れる。

 続いて右の巻き取りを解除し、落下へ転じた巨体の反対側へ回り込む。

 二本目。

 三本目。

 四本目。

 獣脚を支えていた腱が、順番に弾けるような光を放った。

 ズイジュウ型が着地する。

 

 否、着地しようとした。

 力を失った四脚は巨体の重量を受け止められず、足首から崩れ、胸部を石畳へ激しく叩きつけた。

 地面が波打ち、瓦礫が浮き上がる。

 ヨミはその衝撃が届く前にワイヤーを巻き取り、倒れ込むズイジュウ型の頭上へ舞い上がった。

 赤く燃える両眼が、空中のヨミを追う。

 

 鍵盤が、二音鳴った。

 二本のワイヤーが交差し、ヨミの身体を真正面から顔面へ引き寄せる。

 紺色の双剣が左右へ開かれた。

 すれ違う一瞬、二枚の刃がズイジュウ型の両眼を同時に横切る。

 赤い光が消えた。

 視界を奪われたズイジュウ型は、機能しない腕を振ることも、立つことのできない脚で逃れることもできず、ただ喉の奥から濁った咆哮を絞り出した。

 

 だが、その声を聞いている場所に、ヨミはもういない。

 最後のクナイが、ズイジュウ型の首の後ろへ突き刺さる。

 もう一本は、その先に倒れていたホテイ型の肩を貫き、さらに奥の石畳へ食い込んだ。

 

 二本のワイヤーが一直線に張る。

 ヨミは空中で双剣を逆手へ持ち替え、すべての巻き取り機構を同時に作動させた。

 甲高い駆動音が重なり、身体が弾丸のように加速する。

 

 最初の一閃は、ズイジュウ型の首を横から深く切り裂いた。

 すぐさまワイヤーの支点が切り替わり、ヨミの軌道が首筋から背中へ折れる。

 

 二閃目は、うなじから脊柱に沿って真下へ走った。

 紫と白の光が、背骨の奥で一直線に連なる。

 ズイジュウ型の全身が硬直した。

 巨大な副腕も、人型の腕も、獣脚も、もはや動かない。

 その首がゆっくりと傾き、身体の中心を走った斬線が、遅れて眩い光を噴き上げた。

 

 その一方で、ワイヤーの反対側にいたホテイ型もまた、ヨミの軌道から逃れることはできなかった。

 起き上がろうと持ち上げた腕を双剣が交差して斬り落とし、続く旋回が腹部へ幾筋もの斬線を刻む。

 さらにズイジュウ型の脊柱へ向かう最後の加速に巻き込まれ、白い巨体は縦横へ細かく切り分けられた。

 

 ホテイ型は、誰にも狙われていなかった。

 ただ、ズイジュウ型を仕留めるために選ばれた最適な軌道の途中へ、その巨体が存在していただけだった。

 

 二体の月人が、同時に崩れる。

 ズイジュウ型は首から脊柱へ走った光を中心として左右へ割れ、ホテイ型は無数の薄片となって輪郭を失った。

 血の代わりに溢れ出した月光が夜空へ巻き上がり、細く張られていたワイヤーへ絡みつきながら、白銀の螺旋を描いていく。

 

 ヨミはワイヤーを巻き戻し、舞い散る光の中を降下した。

 地面へ触れる直前に身体を一度ひねり、片膝を僅かに曲げるだけで衝撃を逃がす。

 紺と金の双剣を左右へ払うと、刃へ残っていた光が音符のように弾け、鍵盤から短い終止音が鳴った。

 

『撃破ぁぁぁぁ! 形態変化したズイジュウ型を、巨大副腕、人型腕、獣脚、視覚の順に完全無力化! 最後は首と脊柱を断って決着! そしてホテイ型は――巻き添えです! 主目標ですらありませんでした!』

『一人だけやってるゲームが違う』

『KASSENで立体機動するな』

『ボスを部位破壊してるんだけど』

『ホテイ型、ついでに消されたの悲しすぎる』

『いろPの武器、持ち主より自由に使われてない?』

 

「そこは言わなくていい!」

 

 彩葉は即座に言い返したものの、モニターから目を離すことはできなかった。

 四年前、同じ武器を握って走り続けた。

 何度敵を斬っても、どれほど足を前へ出しても、かぐやまでの距離は縮まらなかった。

 あの夜に積み重なった悔しさは、時間が経っても形を変えただけで、胸の奥から消えてはいない。

 けれど今、自分の刃はヨミの手の中で月人を切り裂き、かぐやへ続く道を確かに開いていた。

 

「……ありがとう、巡」

 

 彩葉の声は、歓声へ埋もれそうなほど小さかった。

 すぐに眉を寄せ、照れ隠しのように付け加える。

 

「でもライブが終わったら説明して。どうして私より私の武器の使い方が上手いのかとか、あと、その戦い方は絶対なにかの漫画の影響受けたでしょ」

 

 画面の中で、ヨミは返事をしなかった。

 聞こえていないはずなのに、その横顔が僅かに笑ったように彩葉には見えた。

 双剣が再び一つの光へほどけ、ヨミは月へ続く道へ顔を向ける。

 砕けた二体の月人が残した白銀の光は、背後でまだ渦を巻いていたが、その足取りには戦闘を終えた余韻さえない。

 前方には、空へ向かって連なる光の足場。

 そして、その遥か後方には、戦場の最後尾からすべてを見下ろす巨大な影があった。

 

 

 ズイジュウ型とホテイ型が崩れた場所には、二体の輪郭からほどけた白銀の光が、まだ濃い霧となって渦巻いていた。

 ヨミは地面へ触れる寸前にワイヤーの巻き取りを緩め、身体を半回転させながら石畳へ降り立った。

 着地の衝撃は深く曲げた片膝へ吸収され、白い広袖だけが遅れて背後から肩を追い越し、夜気の中で大きく翻る。

 

 左右の鍵盤型ブレードを払うと、刃に残っていた月光が音符のような粒となって弾けた。

 紺と黄銅色の双剣は、澄んだ終止音を一つだけ響かせ、風に運ばれる紅葉の種子のように回りながら光へほどけていく。

 代わってヨミの両手へ戻ったのは、三方向へ湾曲した刃を伸ばす二振りのトライエッジだった。

 

 その背後で、白い円環が灯った。

 コンゴウ型が首を落とされた場所。

 ホテイ型が細かな光片へ切り分けられた場所。

 形態変化したズイジュウ型の首と脊柱が断たれた場所。

 KASSENでは、戦闘個体は撃破されても三回まで戦線へ復帰できる。

 月人襲来モードもその原則に従っており、倒された大型月人たちは、一定の待機時間を経れば完全な状態で再構成されるはずだった。

 

 円環の中心へ光が集まる。

 一対の金属円盤が、まだ輪郭だけの姿で浮かび上がった。

 隣では、木魚を据えた棍棒が半透明の像として形を取り始めている。

 別の円環にはホテイ型の丸い腹部と肥大した腕が現れ、最後の一つでは、金魚の胴体に狛犬の頭部と前脚を備えたズイジュウ型の通常形態が、淡い光の設計図として再構築されつつあった。

 

 どの個体にも残機はある。

 復活を妨げる特殊効果を、ヨミが使ったわけでもない。

 ただし、まだ手足は実体を持たず、武器を握る指も、地面を踏む脚も完成していなかった。

 

『リスポーン処理が始まりました!』

 

 忠犬オタ公が背後に浮かぶ光の円環へ気づき、慌ただしく実況を重ねた。

 

『コンゴウ型二体、ホテイ型、ズイジュウ型、いずれも残機あり! KASSENの標準ルールどおり、待機時間を終えれば再び戦場へ――って、待ってください! ヨミがもういません!』

 

 驚愕に裏返ったオタ公の声が、ツクヨミの空へ大きく反響する。

 ヨミはリスポーン地点を振り返っていなかった。

 大型月人の撃破がシステムへ認識され、再構成の待機時間が始まる。

 その僅かな猶予のうちに、彼はすでに崩れた城壁を越え、戦場の最後方へ向けて駆け出していた。

 

 復活できないのではない。

 復活する前に、置き去りにされたのだ。

 視聴者コメントが、遅れて状況を理解した者から順番に戦場の上空へ流れ始める。

 

『残機はあるのに出番がない』

『リスポーン待ちを攻略速度で踏み倒した?』

『ゲーム側の復帰処理が追いついてない』

『月人、ただいまロード中』

『ボス前で全員集合するはずが、主人公が早すぎて集合できませんでした』

 

 忠犬オタ公も、半透明の大型月人と、すでに遠ざかっていくヨミを交互に映す中継画面を見比べ、ようやく言葉を絞り出した。

 

『復帰を封じたわけではありません! 月人が復活するまでの待機時間内に、次の防衛線へ到達している!

 ヨミ、残機ではなく、リスポーン時間そのものを置き去りにしました!』

 

 戦場の最奥で、二枚の銀白色の膜が開いた。

 閉じた蓮弁にも、夜空へ浮かぶ巨大な葉にも見えた膜が左右へゆっくりと退き、その中央から乳白色の長衣をまとった細長い身体が現れる。

 黒く塗り潰された顔。

 その中央に浮かぶ、感情のない白い面。

 黄金の宝冠を戴き、袖口から石畳へ届きそうなほど長い黒指を垂らした姿には、仏像めいた静謐さがありながら、慈悲や安らぎを思わせるものは一片もなかった。

 月人ボサツ型。

 三本の進軍路が収束する戦場の最後方へ鎮座し、月へ続く光の足場を背負うようにして、地上のすべてを見下ろしている。

 

【BOSS:BOSATSU TYPE】

 

 残り時間、二分三十秒。

 

【羽衣装着率:64%】

 

 ボサツ型が両腕を持ち上げた。

 上へ向けられた二つの掌へ乳白色の光が溜まり、その内側で無数の細い影が折り重なる。

 最初は骨格にも満たなかった線へ白い肉がまとわり、長い腕と脚が伸び、朱塗りの楼閣状の頭部が一つ、また一つと据えられていく。

 最後に、赤い結び飾りを掲げた細杖が、それぞれの手へ握らされた。

 一体ではない。

 片方の掌だけでも数十体。

 

 生まれたばかりのリョウサン型が肩を重ね、隙間なく立ち並んでいた。

 どの個体も、形成された瞬間から戦闘姿勢を完成させ、ヨミへ向けて長杖を掲げている。

 ボサツ型は両手を口元へ寄せた。

 白い面の下から、長い吐息が吹きかけられる。

 掌を満たしていたリョウサン型が、一斉に空へ解き放たれた。

 

 風に攫われたのではない。

 その吐息を前進の手段として生み出されたように、細長い身体を同じ角度へ揃え、杖を先端にした白い濁流となって戦場へ降り注いでいく。

 地上を進む既存の隊列。

 上空へ残っていたテンニョ型。

 その双方の隙間を埋めるように、ボサツ型の掌から新たなリョウサン型が絶え間なく送り込まれる。

 

『ボサツ型、戦場最後方からリョウサン型を大量生成!』

 

 忠犬オタ公は、ボサツ型の両手と、そこから吐息に乗せられて飛来する軍勢を順に説明した。

 

『掌で生み出し、息を吹きかけるように前線へ投入しています! 大型月人のリスポーンは間に合っていませんが、

 それを補って余りある追加戦力! 倒しても倒しても、発生源が後ろから次を送り込んできます!』

 

 ヨミは、押し寄せる軍勢へ正面から入った。

 最初に置いた足は、四年前、彩葉が月人の群れへ飛び込んだ場所と重なっていた。

 突き出された杖を肩の動きだけでかわし、柄へ左手を添える。

 握り込まず、ほんの僅かに横へずらすと、杖の先端は隣のリョウサン型の楼閣状の頭部へぶつかった。

 

 二体の動きが絡む。

 生じた隙間へヨミは身体を滑り込ませ、上空から降ってきた新たな個体の肩へ足を掛けた。

 一歩。

 跳ね上げられた杖の上へ移る。

 二歩。

 次に降下してくるリョウサン型の背へ着地する。

 

 ボサツ型から送り出される軍勢は、ヨミを押し戻す濁流ではなくなっていた。

 前線へ向かって飛来する無数の身体が、その流れを逆向きに辿る彼のために、戦場の最後方まで続く階段を作っている。

 ヨミは月人の背を走り、杖を踏み、互いに重なった楼閣状の頭部を足場にしながら、白い流れを遡っていった。

 

 着地した先は、四年前に雷が防壁を展開した地点だった。

 次に身体を翻した空は、乃依が射線を切り開いた場所。

 さらに進んだ中央レーンは、帝アキラが大型月人を押し返し続けた道であり、その先の砕けた石畳には、芦花と真実が互いを庇いながら立ち続けた痕跡が残っていた。

 最後に踏んだのは、彩葉が何度倒されても立ち上がり、かぐやへ向かって走った場所だった。

 

 攻略だけを目的にするなら、必要のない遠回りだった。

 別の最短経路が存在する。

 より少ない手数でボサツ型へ近づく答えも、巡にはすでに見えている。

 それでも彼が選んだのは、四年前に誰かが残した一歩を、順番に踏み直す道だった。

 雷が守った時間も、乃依が撃ち抜いた空も、帝が押し返した距離も、芦花と真実が立ち続けた場所も、彩葉が最後まで走った道も、あの夜には救出へ届かなかった。

 だが、届かなかったという結果だけで、そこまで積み重ねた選択の価値が失われるわけではない。

 過去の敗北は、今夜の答えを作る途中式として残っている。

 

 ヨミはそれらを拾い上げ、一本の道へ結び直していた。

 視聴者コメントの流れにも、その意図へ気づいた者たちの言葉が混ざっていく。

 

『これ、四年前にみんなが通った場所だ』

『ブラックオニキスの防衛地点も踏んでる』

『いろPが最後まで走った中央レーン……』

『最短ルートじゃない』

『四年前の続きを、全員分つないでるんだ』

 

 楽屋で、彩葉はかぐやの手を握ったまま画面を見つめていた。

 自分が転んだ場所を覚えている。

 脚が鉛のように重くなり、肺が焼け、声を出す余裕さえ失っても、光の足場だけを見て走り続けた石畳を覚えている。

 あの夜に途切れた自分の足跡の先を、今は巡が走っている。

 

「……そんなところまで、覚えてなくてよかったのに」

 

 彩葉の声は、呆れたように掠れた。

 

「負けた場所なんて、忘れてくれてよかったのに」

「巡は、負けた場所だと思ってないんじゃない?」

 

 かぐやは眼下のヨミから目を離さずに答えた。

 

「届かなかったからって、そこまで走ったことまで失敗にはならないよ。

 みんなが途中まで作った道を、巡が最後まで繋ごうとしてる。そういうのを忘れない人だから、巡は」

 

 彩葉は答えなかった。

 ただ、繋いでいた指へ少しだけ力を込める。

 ボサツ型の黒い指が動いた。

 地上のリョウサン型が一斉に右へ配置を変え、上空のテンニョ型が高度を下げる。

 ヨミの前へ白い壁を作り、その左右を射線で閉じるための指令だった。

 だが、月人たちが新たな位置へ到達するより早く、ヨミはその中央を通り抜けていた。

 

 ボサツ型が指を曲げる。

 次の命令が発せられる。

 前列が開き、後列が押し出される。

 ヨミは前列の当たり判定が消えた瞬間に身体を沈め、後列の杖が届く前に隙間を抜けた。

 ボサツ型の指令が各個体へ伝達され、実際の行動へ変わるまで、〇・一六秒。

 古い配置から新しい配置へ移る、その切り替わりにだけ現れる、瞬きよりも短い空白。

 ヨミは、その〇・一六秒を一歩ずつ踏んでいた。

 

 右へ動く命令が下れば、右側の隊列が完成する前にその脇を抜ける。

 包囲へ切り替われば、後列が距離を詰めるより先に、前列の肩を踏んで上へ逃れる。

 テンニョ型が射線を組み替える瞬間には、消えた照準線と、次に現れる照準線の間を跳んだ。

 精密に統率されているからこそ、すべての動きは指令へ忠実だった。

 

 そして忠実であるからこそ、命令が切り替わる瞬間の遅延まで、規則正しく繰り返される。

 ヨミは軍勢を倒しているのではない。

 ボサツ型へ月人を動かさせ、その配置変更そのものを、自分のための可変足場へ変えていた。

 

『指揮命令の遅延を逆用しています!』

 

 忠犬オタ公は、ヨミが白い隊列の切れ目を通過するたび、遅れて開く空間を中継画面上で追いながら叫んだ。

 

『ボサツ型の命令が月人へ届くまでの〇・一六秒! その僅かな切り替わりへ身体を滑り込ませ、

 軍勢全体を巨大な移動ギミックとして利用している! 閉じ込めようとするたび、ボサツ型自身がヨミの前へ道を作っています!』

 

 実況の直後、視聴者コメントが勢いよく流れた。

 

『ボスが自分で通路を開けてる』

『敵の指揮系統まで足場にするな』

『一人だけ敵側からリアルタイムストラテジー操作してる』

『ボサツ型、もう指動かさない方がいいのでは?』

 

 白い面が、明確にヨミへ向けられた。

 背後の二枚の銀白色の膜が大きく広がり、光の足場を左右から包み込む。

 やがて中央で重なった膜は、空から地上までを完全に分断する巨大な障壁となり、ヨミとかぐやの間へ白い壁を築いた。

 

【残り時間:00:30】

【羽衣装着率:92%】

 

 かぐやの頬へ、羽衣の光が迫る。

 楽屋にいる現実の身体が、小さく震えた。

 彩葉はその変化に気づき、繋いだ手の甲を親指でゆっくりと撫でた。

 

「見てて」

 

 彩葉は前だけを向いたまま言った。

 

「四年前は、私たちの手が届かないところまで連れていかれた。でも今は違う。

 あんたが月へ向かってるんじゃない。巡が下から迎えに来てる。だから今度は、二人でこっちへ戻ってくるの」

 

 かぐやは唇を結び、小さく頷いた。

 ボサツ型が長い両腕を開く。

 その指先へ呼応し、地上のリョウサン型が一斉に杖を掲げた。

 楼閣状の頭部へ白い光が溜まり、赤い結び飾りが熱を帯びたように明滅する。

 上空ではテンニョ型が長砲身を並べ、低空の個体が管を束ねた射撃具へ多色の光弾を充填していく。

 残っている月人すべての照準が、ヨミただ一人へ集まった。

 

『全軍一斉攻撃です!』

 

 忠犬オタ公が声を張り上げた。

 

『避ければ障壁を破壊する時間がない! 立ち止まれば地上と空から集中砲火! リョウサン型とテンニョ型、その全火力が一点へ収束します!』

 

「巡!」

 

 かぐやの声が、現実とツクヨミの双方へ響いた。

 ヨミは逃げなかった。

 白い障壁を背負うボサツ型と、自分との間に真っ直ぐ一本の線が通る位置へ立ち、二振りのトライエッジを静かに下げた。

 すべての攻撃が自分を狙うなら、その延長線上に何があるのか。

 ボサツ型自身だけが、その答えを理解していなかった。

 高所の長砲身が閃く。

 最初の光条が、ヨミの左肩へ向かって放たれた。

 ヨミは大きく弾かなかった。

 右のトライエッジ、その鋭い刃ではなく、赤い宝玉を抱く厚い中央部へ光を斜めに触れさせる。

 

 変えた角度は、ごく僅かだった。

 光条はヨミの肩を掠め、その右側を飛ぶ多色の光弾へ接触した。

 二つの攻撃が干渉する。

 細い光弾は斜め下へ弾かれ、地上で杖を掲げていたリョウサン型の楼閣状の頭部へ命中した。

 内部へ蓄積されていた光が暴発する。

 

 一体目の爆発が隣の個体の長杖を弾き、その杖が別のリョウサン型を打ち据え、二つ目の暴発を誘発した。

 白い閃光が、地上を走る。

 だが、その連鎖は無秩序には広がらなかった。

 

 ヨミが最初の光条へ与えた僅かな角度によって、爆発は緩やかな弧を描きながら、ボサツ型の正面へ近づいていく。

 低空のテンニョ型が、次の弾幕を放った。

 ヨミは一発目へ首を傾け、二発目へ肩を沈める。

 三発目だけへ左のトライエッジを触れさせ、隣の一発へ接触する軌道を与えた。

 二発が四発へ。

 四発が八発へ。

 弾幕の中へ生じた乱れが波紋のように広がり、整然と並んでいた光弾は、互いを押し合いながら上方へ跳ね上がる。

 

 跳ねた光弾は、高所のテンニョ型が構える長砲身へ次々と命中した。

 砲口が傾く。

 蓄えられていた光は、すでに発射命令を受けていた。

 照準を失った長砲身から白い奔流が放たれ、銀白色の障壁中央へ突き刺さる。

 一条。

 二条。

 さらに、地上で連鎖していたリョウサン型の暴発光が、その周囲へ重なった。

 

 巨大な膜が深く窪む。

 中央へ細い亀裂が生まれた。

 けれど、まだ足りない。

 亀裂は障壁の表面を僅かに走っただけで止まり、銀白色の膜は押し寄せる光を耐え続けている。

 月人の攻撃だけでは、破壊へ届かない。

 その不足まで、巡の答えには含まれていた。

 ヨミは走った。

 飛び交う光条と、乱れた弾幕の間へ生まれた細い空隙を抜ける。

 

 暴発によって傾いたリョウサン型の肩へ足を置き、その身体が倒れる力を踏み切りへ変えた。

 上昇する。

 空中で二振りのトライエッジを重ねる。

 三方向へ伸びる一方の刃と、反対側の三枚刃が噛み合い、六つの刃先が一つの螺旋を形作った。

 目の前には、月人の全攻撃が集中して生まれた亀裂。

 その奥には、感情のない白い面。

 

「返すよ」

 

 穏やかな声だった。

 怒鳴る必要などなかった。

 四年前、月人が持ち込み、彩葉たちを押し潰し、かぐやを月へ連れ去った力。

 それを元の持ち主へ返すだけなのだから。

 ヨミは、重ねたトライエッジを亀裂へ突き込んだ。

 

 月人の全攻撃へ、自らの斬撃を最後の一手として加える。

 刃が銀白色の膜へ食い込んだ瞬間、それまで別々に障壁を圧していた光が、六枚の刃を導線として一つへ束ねられた。

 テンニョ型の光条。

 多色の弾幕。

 リョウサン型の暴発。

 そして、ヨミの斬撃。

 

 四つの力が同じ一点を貫く。

 障壁が内側へ大きく撓んだ。

 細かった亀裂が上下へ伸び、そこから枝分かれした無数の線が、銀白色の膜全体へ走っていく。

 一瞬、戦場から音が消えた。

 次の瞬間、白い世界が砕けた。

 

 障壁は無数の羽根となって四方へ吹き飛び、その背後に鎮座していたボサツ型の身体が、初めて完全に露わになる。

 だが、収束した攻撃は障壁を割っただけでは止まらなかった。

 ヨミのトライエッジを先端として束ねられた光が、そのままボサツ型へ雪崩れ込む。

 テンニョ型の光条が乳白色の長衣を貫き、リョウサン型の暴発光が黒い腕を内側から照らす。

 多色の弾幕が黄金の宝冠と白い面の周囲へ次々と突き刺さり、その中央へヨミの刃が到達した。

 

 三本の斬線が白い面へ走る。

 その上へ、反対のトライエッジが描いた三本が重なり、六枚の花弁にも似た亀裂を刻んだ。

 面の奥で、赤い光が点る。

 黄金の宝冠が割れた。

 長い黒指が力を失い、乳白色の長衣が足元から白い粒へ変わっていく。

 ボサツ型の面は、月人の全火力とヨミの一撃を受け止めたまま、中央からゆっくりと砕け始めた。

 

【BOSS DEFEATED】

 

 その表示が浮かんだ瞬間、彩葉の胸の奥で、四年間も固まり続けていた何かが、乾いた音を立てて割れた。

 あの夜、自分たちを見下ろしていた白い面。

 どれほど走っても縮まらなかった距離。

 拍手の中で、月へ連れ去られていったかぐや。

 それらを象徴していた月人の首領が、今は自らの軍勢の力を浴び、光となって消えていく。

 彩葉の口元が、普段なら決して見せないほど意地悪く吊り上がった。

 

「ハッ、ええ気味やわ」

 

 腹の底から漏れた、低い京都訛りだった。

 一拍遅れて、楽屋の空気が止まる。

 かぐやは目を丸くし、ヤチヨは海色の瞳を輝かせながら、彩葉の横顔へゆっくりと視線を向けた。

 

「おお……冷静沈着、論理と理性で完全武装している彩葉が、月人の首領を粉砕された途端、悪役令嬢のような笑みで『ええ気味やわ』。ヤッチョ、たいへん貴重なものを拝見いたしました」

「忘れて」

 

 自分の口から出た言葉を理解した彩葉の顔へ、一気に血が上った。

 

「今のは忘れて。記録もしないで」

「ヤッチョの記憶領域へ、八千年保存版として格納しました」

「消して!」

 

 かぐやの笑い声が、楽屋へ明るく弾けた。

 四年前の戦場を前にして、三人でこんなふうに笑える日が来るとは、誰も想像していなかった。

 けれど、まだ終わっていない。

 

【残り時間:00:01】

 

 ヨミは砕けた白い面の一片を踏み、最後の光の足場へ跳んだ。

 

【00:00:00】

 

 白い羽衣が、かぐやの顔を覆う直前。

 黒い手袋に包まれた手が、その腕を掴んだ。

 時間が停止する。

 舞い散る銀白色の羽根も、崩れ落ちる月人も、空中に残る光弾も、すべてがその一瞬へ縫い留められた。

 

【MISSION COMPLETE】

【PRINCESS RESCUED】

 

 ヨミはかぐやを覆っていた羽衣をトライエッジで切り払い、武器を光へ還した。

 そして改めて、右手を差し出す。

 四年前には、誰の手も届かなかった場所。

 そこへ今、一人分の手が確かに伸びている。

 

「迎えに来たよ、かぐや姫」

 

 演出上は、その手へ指先を重ね、救い出された姫として優雅に立ち上がる予定だった。

 リハーサルでも確認している。

 かぐや自身も、最高にかわいいお姫様として振る舞うつもりでいた。

 けれど、八千年と四年を越えて届いた手が目の前にあり、探し続けた人が自分を呼んでいる。

 用意していた台本など、どうでもよくなった。

 

「遅ーい!」

 

 かぐやはヨミの胸へ飛び込んだ。

 両腕を首へ回し、全身で抱きつく。

 ヨミは片足を僅かに引いてその勢いを受け止めると、かぐやの背へ両腕を回した。

 

「かぐや、八千年と四年待ったんだけど!」

「うん。待たせたね」

「でも、超かっこよかったから、全部許す!」

 

 会場が爆発した。

 歓声と拍手が巨大な月を震わせ、現実とツクヨミ、二つの世界へ重なっていく。

 ヨミはかぐやを抱き留めたまま、観客席へ振り返った。

 

「救出完了です」

 

 足元から黒紫色の羽根が舞い上がる。

 城壁も、三本の進軍路も、再構成を終えられないまま遠くへ残されていた大型月人も、巨大な月も、羽根に触れた場所から金色の光へ変わっていった。

 ヨミは腕の中のかぐやへ目を向け、僅かに笑う。

 

「主役は、ここからだね」

 

 かぐやの演出用アバターが、眩い金色の粒子へほどけた。

 ヨミの腕の中から溢れた光が戦場を満たし、現実会場の巨大スクリーンを越えて、客席へ降り注いでいく。

 四年前の城郭が消える。

 月人の軍勢が消える。

 かぐやを連れ去った白い月が、夜明けのような光へ溶けていく。

 過去の敗北が消えるわけではない。

 それでも、同じ場所へ違う結末を重ねることはできる。

 四年前、拍手の中で奪われたかぐやは、今度こそ歓声の中で取り戻された。

 

 

 楽屋で、かぐやが目を開いた。

 頬へ涙が流れている。

 けれど口元は、泣いていることが不思議なほど大きく笑っていた。

 

「行ってくる!」

 

 椅子から立ち上がったかぐやが、そのまま舞台へ向かって駆け出そうとする。

 彩葉は即座に腕を掴んだ。

 

「走らない。今の身体で長時間のライブをするの、今日が初めてなんだから」

「大丈夫! 巡に助けてもらったから無敵!」

「論理的な接続が一つもない」

「ヤッチョ解析では、恋する乙女へ論理的整合性を求める方に問題があります」

 

 ヤチヨが銀白色の髪を翻し、二人の横を軽やかに通り過ぎた。

 

「復活ライブ開始シークエンスへ移行しまーす。かぐやはセンター、彩葉は右、ヤッチョは左。巡への愛情表現は公演後に延長戦を実施してください☆」

「延長戦って何?」

「ヤチヨ、余計なこと言わない!」

 

 彩葉の頬が赤くなる。

 かぐやは笑い、ヤチヨは口元へ指を当ててとぼけながら、三人は舞台袖へ続く通路を進んでいった。

 接続装置の上では、巡がゆっくりと目を開いた。

 

 ツクヨミの音が遠ざかり、代わって現実会場の歓声が、防音壁を越えた低い振動として身体へ戻ってくる。

 指先には薄い痺れが残り、呼吸は普段より深い。動作に無駄がなかったからといって、負荷そのものが消えるわけではない。答えを実行したのは、巡自身の神経と筋肉である。

 立ち上がろうとして、彩葉から言われたことを思い出した。

 巡は大人しく片手を上げ、近くにいた医療スタッフへ声を掛ける。

 

「すみません。少し肩を貸してもらえますか」

 

 申告を受けたスタッフは、ほんの一瞬だけ目を見開いた。

 巡が自分から疲労を認め、助けを求めること自体が、それほど珍しかった。

 舞台が暗転する。

 巨大スクリーンへ、手書き風の文字が浮かび上がった。

 

【月面出張完了!!!】

【ただいまー!!!】

 

 すべての照明が点灯した。

 舞台中央に、かぐやが立っていた。

 現実の足で床を踏み、現実の肺へ息を吸い込み、金色の髪を光の中へ広げている。

 その右には彩葉。

 左にはヤチヨ。

 三人の姿はツクヨミ側へも同時に投影され、現実会場ではペンライトの海を、仮想会場では無数の灯籠と星空を前に、同じ場所へ並んでいた。

 

 かぐやがマイクを握る。

 胸いっぱいに、現実の空気を吸い込んだ。

 

「ただいまーっ!」

 

 世界中から、返事が届いた。

 

「おかえりーっ!」

 

 四年前、拍手の中で閉じた物語が、今度は歓声によって開かれていく。

 彩葉はその声を聞きながら、かつて嫌いになった拍手の音を思い出した。

 けれど今、客席から降り注ぐ音は、誰かを奪い去るためのものではない。

 帰ってきた人を迎える音だった。

 かぐやが両腕を広げる。

 

「久々すぎー! みんな、かぐやのこと忘れてないよね!?」

 

 会場が否定の歓声で揺れた。

 彩葉は泣きそうになる口元を笑みへ整え、かぐやへ肩を寄せる。

 

「四年ぶりでしょ。本人が一番大げさなんだから」

「八千年分も足してよ!」

「それはヤチヨの分」

「ヤッチョは楽屋から三分ぶりでーす☆」

 

 ヤチヨが片目を閉じ、客席へ投げキスを送る。

 笑い声と泣き声が、区別できないまま一つになって返ってきた。

 舞台袖へ辿り着いた巡は、スタッフへ肩を借りながら、モニターの中の三人を見つめていた。

 かぐやが一度だけ振り返る。

 照明も、壁も、大勢のスタッフもいる。

 それでも迷うことなく、巡の立つ方向を見つけた。

 金色の瞳が細まり、唇だけが動く。

 

 ――ありがと。

 

 巡も小さく手を上げた。

 イントロが始まる。

 最初は、夜明け前の空へ雫が落ちるような、一音の鍵盤だった。

 その後ろへ弦が重なり、鼓動を思わせる低音が加わる。四年前に途切れた時間を、音楽が一つずつ拾い上げ、未来へ向けて動かしていく。

 

 かぐやは前を向いた。

 現実の身体で、最初の歌声を放つ。

 今度の歌は、別れのためではない。

 長い旅を終え、待っていた人たちのもとへ帰ってきたことを、世界へ知らせるための歌だった。




・ブラックオニキス
 過去のチート使用をネタにする許可を笑って出してくれるくっそ聖人集団

・主人公のズイジュウ戦
 いったい何アッカーマンなんだ……

・舞台裏のヤッチョ
 当然かぐやと同期してお姫様気分を味わっていた

・復活ライブ後の夜はEX-Otogibanashiが捗ったそうな、思い出の曲ですもんね
 なんか月人戦より消耗してたクソボケが居た模様、(›´ω`‹ ) ゲッソリ

・ネタが切れましたので、連続更新はストップです。
 つ、疲れた……
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