『伝説の八秒』から一ヶ月後。
酒寄彩葉は、順調にバズっていた。
配信を始めれば同接は数万人。ツクヨミの総人口からすればまだまだ若輩の域を出ないが。
しかし、切り抜きは伸びる。
大会動画は未だに再生され続ける。
SNSでは何かあるたびに名前が出る。
それなのに当人は、
「い、いろっぴー……みなさん、今日も来てくれてありがとうございます……」
みたいな感じで相変わらず恐縮していた
そして──なぜか。
配信の度にヤチヨグッズが増えていた。
最初に気付いたのは視聴者だった。
いつものように『SETSUNA』配信を眺めていた時の事である。
画面右後方。
今まで何も無かった棚の上へ、小さなアクリルスタンドが置かれていた。
銀色がかった長い髪。
二つに結い上げられた特徴的な髪型。
紺と翡翠色を基調とした和装。
胸元にはいつも抱えているピンク色のメンダコマスコット。
巨大仮想空間『ツクヨミ』の管理人にして、トップライバー。
月見ヤチヨだった。
『おーヤチヨのアクスタだ』
『可愛いよね』
『限定品じゃん』
『分かるマン』
ここまでは普通だった。
ツクヨミ利用者でヤチヨを知らない人間など居ない。
八千年を生きる管理人AI。
歌って踊れて分身も出来るトップライバー。
悩み相談からアバター制作補助までこなし、時には『KASSEN』のお助けキャラとして戦場へ現れる。
ツクヨミそのものの顔と言ってもいい存在だった。
ヤチヨのグッズを持っている利用者など珍しくも何ともない。
ツクヨミ利用者の半数くらいは何かしら持っている。
問題はその置き方だった。
『待て』
『なんで神棚なん?』
『ん?』
『言われてみれば』
コメント欄がざわつく。
棚の上。
アクリルスタンドの後ろには小さな和風の衝立。
左右にはLEDキャンドル。
その中央へヤチヨが鎮座していた。
どう見ても祭壇だった。
「え?」
彩葉は心底何を言われているのか分からないといった様子だった。
「いや普通じゃないですか?」
『普通ではない』
『普通ではない』
『普通ではない』
全会一致だった。
彩葉は狐面で首を傾げる。
「だってヤチヨですよ?」
『知ってる』
『それは知ってる』
『だからなんで祭壇なんだよ』
すると彩葉は少しだけ視線を逸らした。
普段の対人戦では見せない、明らかに居心地の悪そうな反応だった。
「その……限定版だったので……」
『うん』
「抽選三回落ちて……」
「四回目でようやく当たって……」
「届いた時ちょっと泣いたので……」
『うん? 待て』
『泣いた?』
『アクスタで? ペロ、こいつ……ガチ勢だ』
コメント欄が止まる。
彩葉自身も言ってから恥ずかしくなったらしい。
狐耳がぺたんと寝る。
「ち、違うんです。感動しただけで」
『感動の規模がおかしい』
『推し活ガチ勢だ』
『重い』
『でも分かる』
この時点ではまだ笑い話だった。
「ヤチヨの配信、昔から好きだったので結構古参のファンなんですよ私」
むん、と胸元で誇らしげに握りこぶしを作る狐面少女。
視聴者も、「まあ熱心なヤチヨファンなんだな」くらいにしか思っていなかった。
だが。
問題はここからだった。
最初のアクリルスタンド騒動から一週間後。
彩葉はいつも通り配信を始めた。
「い、いろっぴーです……今日はSETSUNAやります……」
相も変わらず照れと共にぎこちないダブルピースで始まる配信。
コメント欄は挨拶もそこそこに異変へ気付く。
『増えてね?』
『増えてる』
『増殖してる』
『右後ろ』
そこには先週まで一体だったヤチヨが神棚に三体鎮座していた。
しかも三種類全て衣装違いだった。
ライブ衣装版。管理人服版。水着版。
三人のヤチヨが綺麗に等間隔で並んでいる。
しかも位置が妙に整っていた。
『なんでそんな綺麗に配置されてるの』
『展示会かな?』
『美術館の展示方法なんよ』
彩葉は対戦待機画面を開きながら首を傾げた。
「いや、だって見やすいですし、毎日一礼するヤチヨが雑然としていたら嫌じゃないですか」
『アクスタに一礼?』
『おい……』
『いや待て、まだ熱心なヤチヨファンなだけかもしれん……』
『俺たちの投げ銭が、ヤチヨグッズに使われて、ヤチヨの懐が温まり、ツクヨミ運営が滞りなく行われる、無限機関が完成しちまったなぁ!』
あまりにも自然な返答だった。
コメント欄が一瞬止まる。
一礼? アクリルスタンドに向かって?
しかし本人は何もおかしいと思っていないらしい。
そのままランクマッチへ潜り、いつものように相手をボコボコにし始めた。
そして視聴者は気付く。
イロという女ライバー。
ヤチヨの話をしている時だけ若干IQが下がる。
それから更に一週間後。
今度は棚へメンダコぬいぐるみが追加された。
ヤチヨ本人が胸元へ抱えているマスコットと同じデザインだ。
しかも一匹ではない。五匹いた。
『増殖してる』
『なんで五匹いるの』
『家族?』
すると彩葉が少しだけ誇らしげになる。
よくよく見ると五匹のメンダコの表情が全て異なっている。
「ライブ毎の限定版です。私はいまだヤチヨのライブに当選したことが無いんですけど、オークションに出品されていたのでお迎えしました」
『全部買ったの?』
「全部ですっ」
『全部かぁ、そっかぁ。まあツクヨミ内ならデータなだけだから現実より割安だもんね』
あくまで自然体の普通の答えだった。
だから誰も深く考えなかった。
その時までは。
問題になったのは一ヶ月後だった。
その日の配信は珍しく三人揃っていた。
『イロ』、『ROKA』、『まみまみ』、三人の皆目麗しい美少女が画面を彩っていた。
ツクヨミ内でも知名度の高い三人が並ぶ光景は、それだけで一つのイベントだった。
配信開始直後からコメント欄は凄まじい勢いで流れていく。
『顔面偏差値が高すぎるっぴ』
『うおっ画面が眩しい、なんか映像越しにいい匂いしてきそう』
『か、顔がっ! 顔がいいっ!』
『この配信無料で見ていいの?』
ROKAの美容系フォロワー。
まみまみのグルメ系フォロワー。
そして彩葉のKASSEN勢。
本来なら交わらない層が一つの配信へ集まり、コメント欄は開始数分で祭りのような熱気に包まれていた。
そんな中だった。
ふと、ROKAの視線が彩葉の背後へ向く。
何かを発見した猫みたいな顔になった。そして頭が痛むのか眉間にその細い指を当てる。
「……待ってイロ」
「?」
「なんかめちゃくちゃ増えてない?」
彩葉が振り返る。
狐面の視界に広がるヤチヨだらけの風景。
そして。
「一ヤチヨファンとしては普通の範疇じゃないかなぁ?」
澄んだ声色で言った。
我が心と行動に一点の曇りなし。全てが『正義』だ、と言わんばかりに真っ白な回答。
増えているのだ。
間違いなく。
『い、いったあぁっ!』
『さすが『ROKA』! おれたちに言えない事を平然と言ってのけるッ! そこにシビれる! あこがれるゥ!』
『というかおい誰か突っ込めよ、て空気感はあった、怖くて誰も言い出せなかっただけで』
コメント欄も一斉に背景へ言及し始める。
そこに広がっていたのは、もはや棚という規模ではなかった。
大型タペストリー。
ライブBD全巻。
イベント限定ポスター。
複製サイン。
記念プレート。
アクリルスタンド群。
メンダコぬいぐるみ群。
そして中央には、柔らかな光を放つ『ヤチヨの立体ホログラムパネル』。
以前まで小さな祭壇だった場所は、いつの間にか展示スペースへ進化していた。
いや、進化というより侵食だろう。
部屋の一角が静かにヤチヨ領域へ書き換えられている。
『増築されてる』
『月見記念館』
『管理人神社』
『神域拡張工事完了』
『もう資料館なんよ』
コメント欄が爆笑する。
しかし当の本人だけは心底不思議そうだった。
ヤチヨとはそれすなわち神なのだ。少なくとも彩葉の認識はそれだった。
「えっ、でもこれくらい普通じゃ……? ヤチヨだよ?」
「普通じゃない」
「普通じゃないねー」
二人があきれ顔で即答する。
あまりにも即答だった。
あまりの二の句の告げなさに彩葉は押し黙る。狐耳が少しだけしおれる。
その反応が妙に可愛くてコメント欄が更に加速する。
『照れてる』
『効いてる効いてる』
『自覚あるんだ』
『あるなら止めろ』
ここまではコメント欄は囃し立てながらも和やかに流れていった。
しかし、とあるコメントで配信の雰囲気が変わる。
『というかさ、こんなに買い込んで──イロは生活大丈夫なん?』
そのコメントを見た瞬間だった。芦花の表情がぴたりと止まる。
先程まで笑っていた顔から、ほんの少しだけ色が抜けた。
それは友人としての顔だった。
美容系インフルエンサー『ROKA』ではなく、酒寄彩葉を昔から知っている綾紬芦花としての顔。
「イロ、まさかグッズ集めのために生活切り詰めてないよね?」
コメント欄も少し静かになる。
それは多分、皆がどこかで気になっていた事だった。
ヤチヨ神殿が増築される度に。皆なんとなく思っていた。
これ大丈夫なやつなんだろうか、と。
「ち、違うよ!?」
彩葉が慌てた。本当に慌てた。
狐耳と獣尻尾が感情に合わせてぶわっと立ち上がる。
「違うからね!? 本当に違うからね!?」
『必死で草』
『容疑者の反応』
『怪しい』
『落ち着いてください』
「怪しくないの!」
芦花と共に追撃を仕掛けてくる視聴者に、彩葉は慌てて両手を振った。
そして早口気味に弁明を口にする。
「ちゃんと寝てるし!」
『寝てるし』
『そこから来るのか』
『睡眠報告助かる』
「最近は六時間以上寝てるし!」
逃げようとした彩葉だったが遅い。ばん、と彩葉の狐面を両側から両手で挟み込み顔を寄せる。逃がさん、と言わんばかりに。
至近距離。
鼻先が触れそうな距離だった。
普段の芦花は柔らかい雰囲気の美少女だ。
しかし今は違う。
美容系インフルエンサーとして多くの人間を見てきた観察眼と、長年の友人として培った勘が完全に作動していた。
可愛いというより綺麗。綺麗というより怖い。
据わった目をした美人は迫力がある。彩葉はそれを嫌というほど知っていた。
「毎日?」
「毎日!」
「配信終わった後も?」
「終わった後も!」
「本当に?」
「『ほんまやって!』」
思わず飛び出した京都弁。
その瞬間、彩葉自身が「あっ」と口を押さえる。
しまった。
そんな感情が狐耳の動きだけで伝わってくる。
だがもう遅かった。
コメント欄は獲物を見つけた肉食魚の群れみたいな勢いで食いついていた。
『京都弁!?』
『方言助かる、ラスカル』
『いろっぴー京都勢だったんか』
コメントの流れが一気に加速する。
彩葉は耳まで赤くなったみたいに狐耳をぺたんと伏せた。
対人大会で世界ランカー相手に平然と立ち回る少女とは思えないくらい弱っている。
その様子を見ている視聴者達は面白くて仕方がないらしい。
しかし当人からすればたまったものではなかった。
「ち、違っ……今のは……」
しどろもどろになりながら言い訳を探す。
だが長年付き合いのある友人達は容赦が無い。
「焦ると出るやつ」
芦花が即答する。
「出たねー」
真実も楽しそうに頷く。
完全に包囲網が完成していた。
逃げ道は無い。
「だから『違うんやって!』」
再び京都弁。
今度は完全に無意識だった。
コメント欄が歓声にも似た勢いで流れていく。
『焦るほど関西弁になる女』
『レアボイス助かる』
『対人大会より追い込まれてる』
実際その通りだった。
十五連続ジャストガードを決めた時より、今の方が明らかに追い込まれている。
彩葉自身もそれを否定出来なかった。
「じゃあ聞くけど」
「うん……」
「本当に大丈夫なんだよね?」
「ちゃんとやりくりしてますから! 以前より余裕がちゃんとありますから」
「……」
「……」
数秒、探るような芦花の視線に晒されて狐面の奥の瞳は揺れに揺れた。
そして、芦花が彩葉から視線を外し、真実にアイコンタクト。
人気インフルエンサー二人は視線のみで友人のヤチヨファン振りに処置無しと結論を下した。
「じゃあ重症だね」
「重症だね~」
「『なんでや!?』」
完全に京都弁だった。
彩葉はとうとうソファへ沈み込んだ。
狐耳はぺたりと寝ているし、尻尾も力なく床へ垂れている。
対人大会で優勝候補を下した時には見せなかった敗北者の姿だった。
もっとも、その敗北の原因が世界大会級の強敵ではなく、友人とコメント欄による推し活監査である事を除けば、だが。
元より酒寄彩葉は完璧超人。
以前は身体を追い込みながらの生活でもなんとか維持できていた実績を持っている。
金銭面での余裕が出来た今であれば、よほどの事が無い限り心配することにはならないだろう。
ヤチヨグッズに傾倒するのは予想外だったが。
「まあまあ、『ROKA』。今日の所はそこらへんで今日の目的のKASSENのランクマに行こ~」
空気を入れ替えるように真実が声を上げ、その手に両端がスプーンとフォークになった槍型武器をくるりと回した。
「それもそうね、ほらイロ行くよ」
芦花もようやく追及を打ち切る。
芦花も掴んでいた狐面を放し、ピューラーを模した籠手の周囲を浮遊するネイル型の武器を展開。
「『ROKA』が詰め寄ってきたんじゃん」
彩葉はまだ少し不服そうだったが、それでも素直に立ち上がった。
鍵盤付きブレードが展開される。
ネイル型の浮遊武器が舞う。
フォークとスプーンの槍が光を反射する。
そして次の瞬間には、三人とも先程までの雑談が嘘だったみたいに戦闘モードへ切り替わっていた。
その後。
三人はめちゃくちゃ『KASSEN』をした。
『SETSUNA』で暴れ。
『SENGOKU』で暴れ。
見目麗しい三人の美少女が画面狭しと駆け回り、時に連携し、時に叫び、時に笑う。
その様子へ魅了された視聴者達によって、三人のチャンネル登録者数はまたしても増加した。
なお。
翌週の配信で、ヤチヨ神殿に新しい限定グッズが追加されていた事を最後に記しておく。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ここならぬいづこの物語なり。
むかし、とある少女ありけり。
名をば、かぐやとなむいひける。
月より来たりし姫君にて。
されど今は月へも帰れず。
未来へも辿り着けず。
ただ遥かなる過去の世に取り残されてありけり。
◆
人は死ぬ。
そんなことは、かぐやだって知っていた。
八千年を生きる月の民であろうと永遠ではない。まして地上の人間なら尚更だった。
生まれた者はいずれ老い、老いた者はいずれ死ぬ。その当たり前の理を、彼女は人よりずっと長い時間を生きてきた分だけ、嫌というほど見てきた。
だから最初の少年がいなくなった時も、頭では理解していた。
彼がどこかへ旅立ったのではないことを。
また会える場所へ行ったのではないことを。
ただ、人として生まれた者に必ず訪れる終わりが来ただけなのだということを。
理解していた。
理解していたのに。
それでも、どうしようもなく悲しかった。
砂浜で出会ったあの日から、二人は長い時間を共に過ごした。
朝日が昇るのを見た。
夕焼けが海を赤く染めるのを見た。
嵐が来て、また晴れるのを見た。
人々が生まれ、家族を作り、老いて、土へ還っていくのを見た。
世界は少しずつ姿を変え続けていたのに、少年だけは根拠もなくずっと傍に居てくれていると思ってしまった。
だから胸の奥へ空いた穴は大きかった。
まるで潮が引いた後の浜辺みたいだった。
賑やかだったはずなのに静かで。
満たされていたはずなのに空っぽで。
そこに確かに何かがあったことだけが、はっきりと分かる。
かぐやは何度も海を見た。
少年と並んで座った岩場へウミウシの不自由な身体で行った。
いつも歩いた砂浜を眺めた。
けれど彼は戻ってこない。
世界のどこを探しても居ない。
その事実だけが、波のように何度も胸へ打ち寄せてきた。
それでも時間は止まらない。
春が来て。夏が来て。秋が来て。冬が来る。
そしてまた春が来る。
かぐやだけを置き去りにして、季節は律儀に巡り続けた。
◆
少年の亡き後。
ウミウシのかぐやへ再び寄り添ってくれた少女もまた死んだ。
やっぱり少女も最期はしわくちゃの手でウミウシの頭を撫で。
そして、重くなった足を引きずりながらかぐやの元を去って、それから二度と会うことはなかった。
最初の海辺の少年を想起させるように笑い、宝物を扱うように持ち上げてくれる少女。
所作の節々に最初の少年を影が過った。
そんな少女も同じ人間なのだ。
人だからだ。生き物だからだ。
産声を上げて、花火のようにキラキラして、最期は老いて死ぬ。
出会いがあれば別れがある。
それは変わらない。
変わらないはずだった。
なのに。
数十年後。
また似た誰かと出会う。
さらに数十年後。
また。
さらにその後も。
また。
顔は違う。名前も違う。身分も違う。
男の時もあれば女の時もある。
けれど不思議なことに、どの人生にも同じ面影があった。
いつもかぐやを見つけてくれて、このちっぽけなウミウシの身体を宝物みたいに持ち上げてくれる。
会えなかった時間に起きたことを矢継ぎ早に話すと、静かに、でも嬉しそうに相槌を打って耳を傾けてくれる。
隣で寄り添ってくれる。
そして、移動が不自由なかぐやのために、肩へ、掌へ、ウミウシを乗せて遠い世界へ連れ出してくれる。
まるで。
何かの約束でもあるみたいに。
だから、かぐやは少しずつ気付き始める。
──もしかして。
──同じ人?
そう思うようになるまで、そう長い時間は掛からなかった。
だって何度人生が変わっても。
何度名前が変わっても。
その人だけは必ず自分を見つけるのだから。
◆
やがて。
気が付けば平安の世だった。
何人見送ったのか。
何度春を数えたのか。
もう覚えていない。
桜が咲き。散り。また咲く。
その繰り返しの中で、都には雅な文化が花開き、人々は歌を詠み、恋をし、笑い、泣き、そして死んでいった。
そんな春の日。
かぐやは再び出会う。
今度は都に住む若い貴族だった。
濃い藍色の狩衣を纏い、烏帽子の下から黒髪を覗かせた若者は、桜吹雪の中に立っていた。
やっぱり顔は違う。声も違う。背丈だって違う。
けれど。
笑う時の表情(かお)が同じだった。
かぐやを見てくれる瞳の表情(いろ)が同じだった。
まるで昔の少年が、別の顔を被って帰ってきたみたいに。
だから、かぐやは自然と笑ってしまった。
何度失っても。
何度別れても。
季節が巡れば──また会える。
そんな根拠の無い確信が、胸の奥に芽吹いていた。
◆
牛車は春の野をゆっくりと進んでいた。
軋む車輪の音はどこか眠たげで、牛の歩みに合わせるように車体が小さく揺れる。
御簾の向こうでは桜が散っていた。
都を離れた野辺には薄紅色の花びらが風へ乗り、まるで空そのものが花を降らせているようだった。
若者は牛車の中で膝を立て、手元の料紙を眺めている。
筆先はまだ白紙の上に置かれたままだ。
歌が浮かばないのである。
「うーん……」
小さく唸る。
すると懐の中から声がした。
もぞもぞ、と着物の境目から白い生き物が姿を現す。
今の彼女は月の姫でもなければ宇宙船を操る月のエンジニアでもない。
『もと光る竹』の擬態機能が壊れた結果、ようやく作り出せた小さな義体。
白い身体へ黒い斑点が散った、ゴマフビロードウミウシの姿だった。
人間の掌へ乗る程度の小さな身体。
けれど今のかぐやにとっては、それだけで十分だった。
「まだ出来ないの?」
「出来ないねぇ、中々上手い言い回しが思いつかなくて」
「さっきから三刻くらい唸ってるよ」
「そんなに経ってないよ」
「経ってるよ~」
断言された。
若者は苦笑する。
懐の中では小さな白いウミウシが得意げに胸を張っていた。
もちろん胸など無い。
無いのだが、長年付き合っているとかぐやが今どんな顔をしているのか何となく分かるようになる。
「歌人って大変だねぇ」
「まあね」
「古語って難しいじゃん、私なら書けない」
「君は何年も生きてるんだから、むしろ題材には困らないと思うけど? あと君にとっては古語かもしれないけど、これ現代語だからね」
「いっぱい生きてるから逆に困るの! どの桜の話をすればいいか分かんなくなるもん」
「贅沢な悩みだなあ」
そう言いながら若者は御簾を少しだけ上げた。
風が入る。
春の匂いがした。
遠くの山は霞み、川面は陽光を反射して白く光っている。
この時代の人々は、その景色へ幾つもの歌を残した。
散る花を惜しみ。
去る春を惜しみ。
届かぬ恋を惜しみ。
そうやって言葉へ心を閉じ込めた。
若者もまた、その一人だった。
「ねえ」
ふと、かぐやが呼んだ。
それは何気ない調子の呼び掛けだった。
車輪が軋む音は穏やかで、御簾の向こうでは桜が絶え間なく散り続けていた。
風が吹くたびに花びらが舞い込み、淡い薄紅色が二人の間を漂う。
その景色を眺めながら、かぐやはずっと考えていた。
何十年も。
何百年も。
出会っては別れ、出会っては別れを繰り返しながら。
最初は偶然だと思っていた。
次は気のせいだと思った。
その次は、自分が寂しさのあまり面影を重ねているだけなのだと思った。
「うん?」
「名前」
若者が料紙から顔を上げる。
春の日差しを受けた横顔は穏やかだった。
かぐやはその顔を見つめる。
違う顔だ。
昔の少年とも。
次に出会った少女とも。
誰とも違う。
けれど、その瞳だけは変わらない。
「名前?」
「教えて」
風が吹いた。
桜が舞った。
花びらが御簾の隙間から入り込み、二人の間をふわりと流れていく。
若者は小さく笑った。
そうして何でもない事のように今世の名を告げる。
かぐやは一度頷き。
だが、その直後には不満そうに触角を揺らす。
「ちがーうっの!」
「違う?」
「それ、今だけの名前でしょ」
その瞬間だった。若者の目がほんの僅かに見開かれる。
本当に一瞬。
瞬き一つにも満たないほどの時間。
けれど、かぐやは見逃さなかった。
長い長い時間を共に過ごしてきたのだ。
その程度の変化なら分かる。
そして、その沈黙だけで十分だった。
胸の奥へ落ちた小さな石が、水面へ波紋を広げるみたいに確信が広がっていく。
やっぱり。やっぱりそうだった。
何百年も前、砂浜で出会ったあの少年も。
その後に出会った少女も。
その次の男も女も。
全部。全部この人だったのだ。
「次会う時は違うじゃん」
頬を膨らませながら言う。
何だか悔しかった。
自分だけが置いていかれる気がした。
自分はずっと『かぐや』なのに。
この人だけは会うたびに違う顔で、違う名前で現れる。
「ちゃんと同じ名前で呼びたいの」
若者は御簾の外へ視線を向けた。
舞い散る桜の向こう。
何百年も前の砂浜。
何十年も前の少女。
幾つもの人生が脳裏を過ぎる。
「難しいなぁ」
「どうして?」
「秘密だから」
「ずるい」
「そういうものだよ」
「ずるい! ずるい! ずるーい! 君だけかぐやをずっと同じ名前で呼んでんじゃん!」
かぐやは袂の中で暴れた。
ぴょん、ぴょん、と飛び跳ねるウミウシの姿を見て、本当のウサギみたいだと若者は笑う。
その笑い方を見て、かぐやはまた胸の奥が少しだけ温かくなる。
顔も違う。声も違う。名前も違う。
それなのに、この人がふと見せる笑い方だけは昔から変わらなかった。
まるで春になれば咲く花みたいに。
何度失っても。
何度別れても。
気付けばまたそこにある。
「ありがとう、ね」
ぽつり、とかぐやが言った。
牛車の揺れが少しだけ緩やかになる。
若者は瞬きをした。
「何が?」
「何回も来てくれた。何回も持ち上げてくれた。何回もかぐやのお話を聞いてくれた」
沈黙が落ちた。
遠くで鶯が鳴く。
風が桜を揺らす。
「ずっと」
かぐやは知っていた。
証拠はない。でも分かる。
何度顔が変わっても。何度名前が変わっても。
この人だけは、いつも自分を見つける。
孤独な自分の隣へ座り。
世界を見せてくれる。
だから。
「ありがとう」
もう一度だけ言った。
すると若者は困ったように笑った。
どこか懐かしそうに。どこか寂しそうに。
「それはもう貰ったよ」
「?」
「ずっと前にね。君から、面と向かって感謝されると嬉しいんだって、心が暖かくなるんだって教えてもらったから」
桜が舞う。
花びらが二人の間を流れていく。
「だからもう貰いすぎ」
その意味を。
今のかぐやはまだ知らない。
けれど不思議と、その言葉は春の日差しみたいに胸へ染み込んだ。
だから彼女は何も言わず、若者の袂へ身体を預ける。
そこから聞こえる鼓動へ耳を澄ませながら。
失うことを知っていてもなお。
再び誰かと歩ける喜びを、静かに噛み締めていた。
やがて若者は料紙へ筆を走らせる。
さらさら、と墨が紙を渡る音だけが静かに響いた。
「出来た?」
袂の中からかぐやが覗き込む。
若者は料紙へ最後の一筆を加え、小さく笑った。
「うん」
そう言って筆を置く。
若者は料紙へ視線を落としたまま、静かに歌を読み上げた。
散る花の
あとを尋ねて
春ごとに
同じ月見む
人を待ちなむ
かぐやは首を傾げる。
もちろん本当に首がある訳ではない。
小さな触角がぴこんと揺れただけだ。
「……どういう意味?」
「秘密。和歌の内容を一から十まで説明しちゃうと無粋だからね」
「またそれ!? やーだー! 教えて!」
ぷりぷり怒る声が聞こえる。
かぐやはむっとして袂の中でもぞもぞ動いた。
若者は笑った。
その笑い方はどこか優しく、かぐやの胸がほのかに暖かくなる。
「春が来るたびに、散った花の行方を探している人の歌だよ」
「ふーん?」
「そして、また同じ月を見たい相手を待っている」
「恋の歌?」
「さぁてね。そこはかぐやが感じたままに咀嚼してほしいかな」
若者は答えない。代わりに料紙を折り畳む。
桜が舞い、風が吹く。遠くで鶯が鳴く。
かぐやは知らない。
この歌の『花』が自分であることを。
『春ごとに』が、幾度もの人生を意味していることを。
そして『同じ月見む人』が、人生を繰り返しながら探し続けているたった一人の宇宙人であることを。
その全てを知らないまま、かぐやは若者の袂へ潜り込み、満足そうに身体を丸めた。
若者はそんな小さな姿を見下ろしながら、静かに瞼を閉じる。
瞼の裏に金糸の髪の少女の姿が浮かび上がる。
それはこの時代より遥か先の日本での姿だった。
天真爛漫で天衣無縫で悪童で。
その少女の一言で若者は救われたのだ。
だから決めたのだ。
残りの人生を全て懸けても、否、人生を幾度も繰り返してでも。
少女の苦難の道を少しでもなだらかなものにするために。
「……だから、もう感謝は貰いすぎなんだよ」
その言葉だけは春風に溶けて、誰の耳にも届かなかった。
・ヤチヨアクスタ神棚
ネットで調べると3,000~20,000円位。
作中の苦学生彩葉さん的には相当な出費なのでは?
・『ROKA』と『まみまみ』の登録者数
原作より盛るペコ。
・帝の鬼ぃちゃん
妹が苦学生を脱しそうでホッとしている。なお祖父母の仕送りに手を出していないことは知らない。