もうちっとだけハッピーにするんじゃ   作:加賀美ポチ

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人生エンジョイ勢(n回目)

 酒寄さんの生活環境を改善してから、しばらくが経った。

 SETSUNA対人大会の件を経て、少なくとも表面上は綺麗に収束している。

 ヤチヨグッズの傾倒に目を瞑ればの話だが。

 酒寄さんは以前よりずっとまともな生活を送れるようになり、学校でも前ほど疲れた顔を見せなくなった。

 肌艶も良くなり、目元の化粧も心なしか薄くなっているようだった。

 

 私は裏で多少なり動いたが、それは酒寄さん本人が知る必要もないし、知った所で困るだけだろう。

 だから私はいつも通り貝のように口を閉じるだけ。

 誰かに強要するつもりはないが、自分の人助けとはそうあるべし、と考えている。

 相手に恩を着せる必要もなければ、感謝される必要もない。

 むしろ知られない方が美しい。誰かが勝手に困り、勝手に助かっただけ。

 結果として私の視界から困り顔が減るなら、それは気分の良いことだった。

 

 七月上旬。

 

 梅雨が明けきったばかりの空は容赦なく青く、放課後の校舎には夏特有の熱気がまとわりついていた。

 教室を出る頃には窓際の空気ですら生温く、廊下へ出ても大差ない。

 生徒たちは制服の襟元を引っ張りながら帰路につき、運動部の掛け声がグラウンドの向こうから響いてくる。

 

 実に平和だ。

 誰かが爆発しそうな未来もなければ、世界を揺るがす陰謀もない。

 一介の高校生である私も皆と同じく後は帰路に着くのみである。

 帰宅後は配信を見たり、動画を消化したり、適当に過ごすだけだ。

 

 そんなことを考えながら校門へ向かっていた時だった。

 ふと視界の端に違和感を見つける。

 正門脇の植え込み。

 日陰と呼ぶには少々無理のある場所だった。

 

 そこに一人の少女が立っている。

 いや、立っているというより、辛うじて立っていると言った方が正しいかもしれない。

 茶髪の長い髪。

 雪みたいに白い肌。

 制服ではない見慣れない服装。

 そして何より、その顔色がよろしくない。

 遠目に見ても分かるほど暑さにやられていた。

 

 肩は僅かに落ち、額には汗が浮かび、時折ふらりと身体が揺れる。

 本人は気付いていないのかもしれないが、あと十分も放置すれば本格的に危ない気がする。

 

 私は足を止めた。

 知り合いではない。

 もちろん話したこともない。

 それどころか、この辺りの生徒ですらなさそうだ。

 なら放っておけばいい。

 

 目の前で倒れそうな人間を見て見ぬふりをするほど、私も薄情ではない。

 だから自然と問いかける。

 

 ――今、この少女を助けるには?

 

 瞬間。

 答えが返ってきた。

 私の能力はいつもそうだ。聞けば答える。

 理由も理屈も飛び越えて、ただ最適解だけを差し出してくる。

 だから今回も同じだった。

 頭の奥へ落ちてきた答えは、ひどく簡潔だった。

 

【日傘の譲渡】

 

 私は思わず眉をひそめた。

 飲み物ではないらしい。

 身体を休めるための保健室の移動でも、緊急性を要する救急車でもない。

 日傘。それだけだった。

 

 確かに私は日傘男子であり、この時期になるとスクールバッグの中に折り畳み式の物を準備している。

 そして続けて尋ねた。

 

 ――なぜ、日傘なのか?

 

 するとアンサートーカーから今度は言葉ではなく光景が流れ込んでくる。

 真夏の日差し。蝉しぐれの八月上旬。

 見覚えのある少女。

 酒寄彩葉。

 街中の歩道に居る酒寄さんの顔色は悪く、明らかに体調を崩していた。

 へたり込む酒寄さんのその隣に立つ金髪の少女。

 髪色は違うが、それは今現在に居る少女の顔立ちと同一人物だった。

 

 金髪の少女は涙を浮かべながらも懸命に日傘を差し掛けている。

 その日傘の色やロゴマークに見覚えがあった。

 それは私の鞄の中に入っているものと同じだった。

 

 なるほど、と腑に落ちた言葉を胸中で漏らす。

 

 ──どうにもこの鞄の日傘は二人の人間のお助けアイテムとなるみたいだ。

 

 

 少女は校門の門柱の陰へしゃがみ込んでいた。

 本人にとっては至極真面目に隠れているつもりだった。

 しかし客観的に見ると、腰まで伸ばした茶髪の少女が門柱の横からひょこりと顔を出して昇降口を凝視しているだけなので、正直かなり目立っていた。

 

 七月上旬。

 夏はまだ始まったばかりだというのに、太陽はすでに本気だった。

 アスファルトは熱を溜め込み、校門前には陽炎が揺れている。

 蝉はまだ本格的には鳴いていないが、気温・湿度がタッグで肌に纏わりつく。

 じわじわと体力を削る種類の暑さだった。

 

 茶髪の少女──後にかぐやと名付けられる宇宙人はぐったりしていた。

 月の技術で作られた義体は便利だが、万能ではない。

 地球環境への適応もしているが、それでも真夏の直射日光を喜ぶような設計にはなっていなかった。

 地球は暑かった。

 殊更に日本が暑かった。

 

「うぇぇぇ……」

 

 魂が抜けそうな声が漏れる。

 それでも昇降口から視線は外さない。

 何故なら待っているからだ。

 酒寄彩葉を。

 

 かぐやにとって酒寄彩葉とは、ただの同居人ではなかった。

 

 数日前までの自分は赤ん坊だったのである。

 比喩ではない。

 本当に赤ん坊だった。

 とある事情から地球へやって来た彼女は、ゲーミング電柱の中から赤ちゃんこんにちわという珍妙極まりない出会い方を酒寄彩葉に齎し、その庇護を受けながら急速に成長した。

 

 もっとも、その成長速度は普通ではない。

 昨日まで幼児だったと思えば一日後には小学生ほどになり、さらに翌日には中学生程度の外見へ成長している。

 月の民の技術と事情が絡んだ結果なのだが、地球人から見れば十分にホラーである。

 

 しかし当の本人はあまり気にしていない。

 何故なら彩葉が受け入れてくれたからだ。

 突然現れた正体不明の少女を。

 厄介事の塊みたいな存在を。

 文句を言いながらも見捨てずに面倒を見てくれた。

 

 だからかぐやは懐いた。

 ものすごく懐いた。

 

 犬が最初の飼い主を親だと思うように。

 ひよこが最初に見た相手を親だと思うように。

 かぐやもまた酒寄彩葉を特別な存在だと思っている。

 

 本人は否定するだろうが、ほとんど刷り込みである。

 そして三連休が終わった今朝。

 そんな彩葉から留守番を言い渡された。

 学校へ行くから大人しくしていろ。

 

 それは相談ではなく、提案でもなく、決定事項の通達だった。

 かぐやが駄々を捏ねても彩葉に取り合ってもらえず、くそまじぃ「粉と水のパンケーキ」だけを残して部屋から出ていってしまった。

 にべもなくだ。

 酷い。あまりにも酷い。

 宇宙人にも心はある。

 数日前まで赤ちゃんだったとはいえ、かぐやにも感情はあった。というか人十倍は感情の起伏があった。

 彩葉はその感情をあまりにも雑に扱っている気がする。

 

 午前中はなんとか彩葉の言いつけを守ろうと午前中までは粘った。

 しかし、宇宙人の我慢の限界点はそこまでであった。

 退屈がピークに達したが素早く身支度を整えると玄関に向かって自由の翼を羽ばたかせたのだった──

 

 

 なお、その結果として炎天下の中で蒸し焼きになりかけているのだが、そこまで考えて行動していなかったのは言うまでも無い。

 

「うぇぇぇ……まだかなぁ……」

 

 再び魂が抜けそうな声が漏れる。

 暑い。帰りたい。でも帰らない。

 何故なら酒寄彩葉がまだ出てきていないからだ。

 それに、ここで帰ったら三十分近く耐えた努力が無駄になる。

 それはそれで悔しい。

 そんな妙な意地だけで生き延びていた、その時だった。

 

「誰か待ってるの?」

 

 不意に声がした。かぐやは顔を上げる。

 年の頃は彩葉と同じくらいか。夏の西日を背負った青年が立っていた。

 しゃがんだかぐやからは、ちょうど逆光になっていて輪郭が光に溶けている。

 かぐやは初対面の人間にも物怖じせずに素直に答えた。

 

「彩葉を待ってるの?」

「彩葉? ああ、酒寄さんのこと」

「そう! 彩葉のこと知ってるの? 今どこいるの? もう出てくる?」

 

 青年がちらり、と横目で昇降口を見やる。

 その後にかぐやへ向き直ると少しばかり困った感じで口を開いた。

 

「酒寄さんならさっき先生に呼ばれてたよ」

「え」

 

 かぐやはぱちりと瞬きをした。

 理解に一拍遅れる。

 彩葉は学校にいる。

 それは知っている。

 待っているのだから当然だ。

 

 しかし今の話はそうではない。

 彩葉はまだ出てこないらしい。つまりかぐやはまだこのままお日様に仲良ししなければならない。

 

「たぶんもう少しかかるんじゃないかな」

 

 夏の風が頬を執拗に撫でてきた。熱を含んだ風だった。

 かぐやは固まる。

 数秒。本当に数秒。

 そして。

 

「ヴぇぇぇぇ……」

 

 心の底から嫌そうな声が漏れた。

 今までの待機時間が脳裏をよぎる。

 暑かった。とても暑かった。

 その中でも夏の日本という国は別格だった。

 校門の陰に隠れているつもりだったものの、実際には日差しを少し避けられている程度でしかなく、それでも彩葉の学校生活を見るためだと頑張って耐えてきたのである。

 なのに。

 まだ待つらしい。

 理不尽だった。

 銀河規模で理不尽だった。

 

「まだ頑張れそう?」

 

 青年が気楽に言う。

 

「がんばるぅ……」

 

 まったく頑張れそうにない声だった。

 むしろ今にも溶けそうだった。

 青年は少しだけ笑ったような気がした。

 逆光で顔はよく見えない。

 西日に照らされた輪郭だけがぼんやりと光の中へ溶けている。

 けれど、その場を離れずに話を合わせてくれる辺り、悪い人ではないのだろう。

 かぐやがそんなことを考えていた時だった。

 

「にゃー」

 

 不意に近くで鳴き声がした。

 かぐやの耳がぴくりと動く。

 振り向く。

 そして見つけた。

 

「あっ」

 

 黒白のはちわれの猫だった。

 校門脇の植え込みの陰。

 わずかな日陰へ身体を投げ出し、気持ちよさそうに寝転がっている。

 かぐやの目が輝いた。

 推しの待機列は一瞬で後回しになった。

 猫が出現したからである。

 

「ねこ」

 

 ふらふらと吸い寄せられる。

 しゃがんでそっと手を伸ばす。

 逃げられるかと思ったが、猫は慣れているらしかった。

 軽くこちらを見るだけで、そのまま撫でられてくれる。

 

「わぁ……やわらかい」

 

 思わず感嘆の声が漏れる。

 指先へ伝わる毛並みは驚くほど柔らかく、ほんのりとした体温を宿していて、撫でるたびにさらさらと流れるような感触が返ってくる。

 なるほど、これが猫という生命体か。

 かぐやは妙なところで感心した。

 月には猫がいない。

 少なくとも自分の知る範囲には存在しない。

 だから地球猫という存在は、それだけで貴重な未知との遭遇だった。

 

「ぬぉ~、いいなぁ、こういうの欲しいなぁ」

 

 もふ。

 もふ。

 もふ。

 逃げられるかと思ったのに、猫は嫌がる様子もなく大人しく撫でられている。

 むしろ時折気持ち良さそうに目を細めていて、その反応がかぐやには少し嬉しかった。

 地球へ来てから数日。

 知らないことばかりで、彩葉にも呆れられてばかりだったけれど、この猫は何も気にせず受け入れてくれている気がした。

 だからだろうか。

 かぐやはすっかり上機嫌になっていた。

 

 彩葉も大事だが、猫撫でも大事だった。

 そんなわけで完全に夢中になる。

 だから気付かなかった。

 青年が静かに立ち上がったことも。

 近くのベンチへ何かを置いて、そのまま何も言わず立ち去ったことも。

 猫を撫で続けていたかぐやが異変に気付いたのは、それから数分後だった。

 

「あれ?」

 

 首を傾げる。

 ベンチの上。

 そこに見覚えのない折り畳み日傘が置かれていた。

 その隣には小さな紙切れ。

 かぐやは猫から離れると、とことこと近付いてそれを拾い上げる。

 紙には短く。

 

『よかったら使ってください』

 

 それだけ書かれていた。

 思わず周囲を見回す。

 校門からは生徒が出てくる。

 車が通る。

 風が吹く。

 蝉が鳴き始める。

 けれど。

 さっきまでそこにいたはずの青年の姿だけは、どこにも見当たらなかった。

 

「……うーん、忍者?」

 

 ぽつりと呟く。

 そして手元の日傘を見る。

 空を見上げれば、容赦のない夏空が広がっていた。

 午後の日差しは相変わらず凶悪で、アスファルトの照り返しまで含めれば、立っているだけで体力が削られていくような暑さである。

 

「……使う」

 

 決断は一秒だった。

 かぐやは折り畳み日傘を開く。

 ぱさり、と布が広がった。

 その瞬間。

 

「あっ」

 

 思わず声が漏れた。

 世界が変わった。

 頭上から降り注いでいた直射日光が遮られ、じりじりと焼かれていた肌がようやく解放される。

 日傘ひとつで体感温度は三度から七度ほど下がると言われているが、今のかぐやにはそんな数字などどうでもよかった。

 体感では二十度くらい下がった気がする。

 

 むしろ天国だった。

 さっきまで頭の中で鳴り続けていた「帰りたい」という警報がぴたりと止まり、蒸し器の中へ放り込まれていたような息苦しさも嘘のように消えていく。

 たった布一枚。

 本当にそれだけなのに。

 その恩恵はあまりにも絶大だった。

 

「生き返るぅ……日傘よき~」

 

 かぐやは心の底から感動した。

 だから知らない。

 この日傘が一か月後、自分ではなく彩葉を守ることになることを。

 そして、顔も名前も知らないあの青年と、自分たちがもっとずっと遠い未来と過去で深く関わっていくことを。

 今の彼女はまだ、何も知らなかった。

 

 

 放課後の職員室は、昼間より幾分静かだった。

 窓の外ではグラウンドから運動部の掛け声が聞こえ、夏の西日が職員室の床を長く照らしている。立花先生は最後に数冊の大学パンフレットを机の上へ重ねると、それらを彩葉へ差し出した。

 

「このままのペースを維持できるなら、まったく夢じゃないよ」

「はい、そうしようと思っています」

「無理はしないように。身体もそうだけど、心も壊しちゃ意味がない」

 

 彩葉は素直に頷いた。

 進路希望調査票。

 オープンキャンパス。

 模試の日程。

 東大法学部。

 どれもここ最近、何度も目にしている単語だった。

 

 母は幼い弟妹を養いつつ京大法学部を卒業するという偉業を成した人だった。

 母はそのことを誇示する人ではなかった。

 しかし、自分が出来たことしか人には言わない性質(たち)の人間であり、だからこそそのハードルが常人に比べて些か高すぎるものでもあったのだ。

 

 認めてほしい。

 ただそれだけの願いだった。

 母が見てくれる場所まで行きたい。

 母が振り返るほどの結果を出したい。

 その果てに辿り着いた目標が、東大法学部だった。

 

 職員室を出た彩葉は、パンフレットを抱えながら小さく息を吐く。

 外はまだ明るい。

 七月の太陽はしぶとく空に居座り続けていた。

 

「あ、彩葉来た」

 

 校門へ向かう途中、聞き慣れた声が飛んでくる。

 目を向けるとその箇所だけ雰囲気が華やいでいた。

 芦花と真実の二人が彩葉の進路相談が終わるのを待ってくれていたのだった。

 二人ともすでに帰る準備を終えており、待ち合わせでもしていたように彩葉を見つけて手を振っている。

 

「おつかれー」

 

 芦花は相変わらず人懐っこい笑顔を浮かべ、真実も穏やかに微笑んでいる。

 その何気ない光景に、彩葉は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。

 

「連休どーでした?」

「忙しかった〜?」

 

 問い掛けられて、彩葉は思わず曖昧な笑みを浮かべる。

 忙しかった。

 それは間違いない。

 ただし、その内容を説明できるかと言われると話は別だった。

 宇宙人が家に転がり込み、赤ん坊が数日で中学生ほどに成長し、その宇宙人に振り回され続けた三日間。

 そんな話をしたところで信じてもらえるわけがない。

 むしろ病院を勧められる。

 なので。

 

「ごめん! もー、とにかく嵐に揉まれてて……」

 

 彩葉は苦笑しながら誤魔化した。

 すると二人は顔を見合わせる。

 追及されるかと思った。

 しかし。

 

「ま、とにかく帰ろ!」

「かーえろー」

 

 あっさり流された。

 何かあったと察しているのに、いつも通りに振舞ってくれる二人。

 その優しさに少しだけ胸が温かくなる。

 三人で歩き出す。

 校門を抜け、夕日に染まり始めた街へ足を向ける。

 夏の熱気はまだ残っているが、昼間ほどの凶暴さはなく、風が吹けばわずかに過ごしやすさを感じられた。

 

「彩葉って進路どうするの?」

「音楽系でしょー?」

「それかeスポーツとかー?」

 

 二人が左右から覗き込んでくる。

 彩葉は苦笑した。

 

「そんな才能ないよ〜。それに最低限東大には行かないと親が認めてくれなそうなんだよね」

 

 音楽は好きだ。

 けれど仕事にできるほどの才能があるとは思えない。

 eスポーツも同じだった。確かに大会では結果を出した。

 しかし上には上がいる。

 画面の向こうには、自分より遥かに上手い人たちが無数に存在していることを知っている。

 だから彩葉にとって、それは進路ではなく趣味の延長線だった。

 だが。

 

「いやいやいやいや」

 

 芦花が即座に否定した。

 

「それは絶対違う」

「うん」

 

 真実まで頷く。

 

「音楽は置いておくとして、eスポーツはあるでしょ」

「あるある」

「だって彩葉、この前の対人大会優勝したじゃん」

「全国から人集まる大会でしょ?」

「普通の高校生の実績じゃないからね?」

 

 二人の勢いが妙に強い。

 彩葉は少しだけたじろいだ。

 

「いや、でも上手い人なんていくらでもいるし」

 

 彩葉が苦笑混じりに返すと、真実は間髪入れず首を横へ振った。

 

「いるだろうけど、優勝した人はそんなにいないよ」

「それな~」

 

 芦花も大きく頷く。

 

「彩葉、自分のことになると評価厳しすぎるんだって」

「そうそう。全国規模の大会で優勝しておいて『才能ない』はちょっと嫌味に聞こえるレベル」

「やめてよ……」

 

 思わず苦笑が漏れる。

 けれど二人は冗談で言っているわけではなかった。本気で彩葉の実力を認めていて、本気で将来の選択肢の一つとして考えているらしい。

 それは素直に嬉しかった。

 自分が積み上げてきた努力を、誰かがちゃんと見てくれているという事実は、それだけで少し救われる。

 

 だが同時に、胸のどこかがむず痒くもあった。

 脳裏へ浮かぶのは、いつだって母の背中だからだ。

 幼い弟妹を養いながら京大法学部を卒業した人。

 誰かに自慢することもなく、ただ当たり前のように結果を積み上げてきた人。

 その背中は今もなお高く、彩葉から見れば遠く霞む山脈のような存在だった。

 

 だからこそ、自分程度の結果で胸を張る気にはなれない。

 対人大会で優勝したことも誇らしくないわけではないが、それだけで人生を決められるほどの実績だとも思えなかった。

 彩葉は小さく肩を竦めながら答える。

 

「それでも、なるとしても最低限東大に行かないと親が認めてくれなそうなんだよね」

 

 すると二人は揃って絶句した。

 

「最低ラインがそこ?」

 

 芦花が本気で目を丸くする。

 

「厳しー……」

「私なんかでろでろに甘やかされて育ったなー」

 

 真実も苦笑しながら肩を竦めた。

 その反応が妙におかしくて、彩葉もつられて笑う。

 いつも通りの会話。いつも通りの雰囲気。

 けれど、その笑い声の向こうで、二人が何やら意味ありげに視線を交わしていることに彩葉は気付いていた。

 長い付き合いだから分かる。

 あれは何か企んでいる時の顔だ。

 

「こっちだよねー?」

 

 芦花が当然のように方向を変える。

 

「うん、そこの階段上ったとこ。彩葉おいでー」

 

 真実まで彩葉の腕を引いた。

 

「あれ?」

 

 彩葉は思わず足を止めた。

 見慣れた帰り道から外れ、二人が当然のように別方向へ進み始めたからだ。

 

「待って。二人とも。今日何かあったっけ?」

 

 問い掛けながら頭の中で予定を確認する。

 バイト。

 勉強。

 夕飯の準備。

 そして家には宇宙人。

 最後の一つだけ異物感が凄まじいが、事実だから仕方ない。

 

 できれば今日は早く帰りたかった。

 というより、帰らないと少し不安だった。

 今朝だって散々言い聞かせたのだ。

 留守番していろ、と。

 大人しく待っていろ、と。

 だが相手は意味の分からない宇宙人である。

 あの宇宙人が素直に言いつけを守る確率は、正直なところ梅雨明け直後に雪が降るくらい怪しかった。

 だから本来なら真っ直ぐ帰るべきなのだろう。

 そう頭では分かっている。

 しかし。

 

「新しいカフェ行くって約束したじゃん」

「忘れたの?」

 

 二人が揃ってにっこり笑う。

 彩葉は固まった。

 数秒ほど記憶を掘り返し。

 

「あ……」

 

 ようやく思い出す。

 確かに約束した。

 進路相談がお互い終わったら三人で行こうと。

 新しく出来たパンケーキの店に。

 

「思い出した?」

「思い出した……」

「じゃあ決定ー」

「レッツパンケーキー!」

 

 両腕を掴まれ、そのまま連行される。真実の瞳にはグルメの焔がめらめらと燃えていた。

 彩葉は抵抗しかけて、途中で力を抜いた。

 家には宇宙人の少女がいる。

 不安はある。

 かなりある。

 

 だが、それと同じくらい、こうして待っていてくれた二人の気持ちも無視したくなかった。

 進路相談が終わるまで帰らずにいてくれたこと。

 何があったのか無理に聞こうとしなかったこと。

 いつも通りの距離感で接してくれること。

 そういう優しさに甘えてもいい日くらい、あってもいいのかもしれない。

 彩葉は観念したように息を吐いた。

 

「……お供します」

 

 その言葉を聞いた瞬間、二人の顔がぱっと明るくなる。

 

「よっしゃ!」

「確保ー!」

 

 その反応に苦笑しながら、彩葉は夕暮れの街へ足を踏み出した。

 たぶん大丈夫。

 たぶん。

 きっと。

 めいびー。

 そう自分に言い聞かせながら、彼女は二人に連れられて夕暮れの街を歩き出した。

 留守番を命じられたはずの宇宙人が、知らない誰かから譲り受けた日傘を差しながら、得意げな顔で彩葉を待ち構えているの事実を知らずに──

 

 

 連れて行かれた先は、駅前の再開発エリアに出来た新しい複合施設だった。

 ガラス張りの吹き抜けからは自然光が惜しみなく降り注ぎ、観葉植物と木目調の内装が、いかにも「空と大地と人がつながる」などという意識高めのコンセプトを形にしたように並んでいる。

 彩葉はその時点で少しだけ怯んだ。以前の自分なら、入口の前を通るだけでも財布の紐を固く握り締めていた類の場所である。

 

 もっとも、今は少し違う。配信収益が入り、生活は以前よりずっと安定した。

 少なくとも、こういう店へ一度入っただけで翌週の食費が消滅するような状況ではない。

 それでも身体に染み付いた貧乏性は簡単には抜けず、メニューの価格帯を見るたびに胃がきゅっと縮む。

 

「彩葉ノートで赤点回避記念〜」

「お礼の品でーす。ご査収くださーい」

 

 芦花と真実が満面の笑みでそう言い、彩葉の前へ運ばれてきたのは、映えの象徴みたいな三段重ねのパンケーキだった。

 ふわふわの生地に、雲のようなクリームと果物が惜しみなく盛られている。皿の上だけ別世界の祭りだった。

 

「あ、ありがとう……!」

 

 この流れは、奢りだ。

 経験で分かる。二人がこういう顔をしている時、形式的な遠慮をしても優しく跳ね返されるだけだ。

 ならばここはありがたく受け取るべきだろう。彩葉は手を合わせ、フォークを取った。

 

「いただきま――」

「――シャッ!」

 

 銀色のフォークが、無慈悲にも横からパンケーキへ突き刺さった。

 彩葉の手が止まる。

 クリームの山がわずかに崩れ、三段重ねだったはずの塔の一角が、あっという間に消えた。

 犯人は当然のような顔で口いっぱいに頬張り、夏の日差しにも負けない笑顔をきらきらと輝かせている。

 

「いただきまーす! あむ、もぐもぐ……うんんまあああ!」

「…………」

 

 彩葉は固まった。

 自宅にいる筈の宇宙人の少女だった。

 なぜここにいる。

 どうしてここにいる。

 今朝、部屋で留守番していろと念を押したはずの宇宙人が、なぜか彩葉の服を着て、彩葉のパンケーキを食べ、さらに何の悪びれもなくウインクまで飛ばしていた。

 

「よっ、彩葉!」

 

 完璧なウインクである。

 状況さえ状況でなければ可愛いと言えたかもしれない。

 けれど今の彩葉には、火災報知器が頭の中で鳴り響いているようにしか感じられなかった。

 

「えー、可愛い。誰この子」

「彩葉の服着てる。彩葉の友達?」

「あああああああ、そう! そうなの! いや、友達っていうか、その……!」

 

 説明が追いつかない。

 何をどう言えばいいのか分からない。

 正体不明の宇宙人です、とは言えない。数日前まで赤ちゃんでした、とも言えない。

 しかも本当に彩葉の服を勝手に着ている。今すぐ何かの罪で現行犯逮捕してほしいくらいだった。

 

「パンケーキ好き? はい、これもどーぞ」

「芦花、甘やかさないで……!」

 

 彩葉の制止も虚しく、芦花はにこにこと自分の皿を差し出す。

 推定宇宙人は当然のようにそれを受け取り、また一口で減築させた。

 

「パンケーキ? これが? 彩葉のと全然違う!」

「うっさい……!」

 

 彩葉は額を押さえる。怒りたいのに、怒る前に処理すべき情報が多すぎる。

 服、外出、店内乱入、パンケーキ強奪、そして二人への説明。

 問題が列を成して押し寄せていた。

 

「紹介してよ、彩葉。こんな可愛い友達独り占めはズルいって」

「いや、友達っていうか……えーっと、あの、そのー」

 

 彩葉は時間を稼ぎながら、月のお姫様のように顔だけは可愛い少女へ視線を飛ばす。

 早く帰れ。

 今すぐ帰れ。

 頼むから何も喋るな。

 そんな念を全力で送った。

 しかし、宇宙人は胸を張った。

 

「月から来たの!」

「…………え?」

「ツキ……?」

 

 終わった。

 彩葉は一瞬、本気で魂が抜けかけた。何を言っているのか、この宇宙人は。

 いや、事実ではある。事実ではあるが、世の中には言っていい事実と駄目な事実がある。

 

「ジ! 築地だよね! 築地から来たの、私のイトコ!」

 

 苦しい。

 あまりにも苦しい。

 けれど真実は目を輝かせた。

 

「わー、美味しいお鮨屋さん教えて〜?」

 

 通った。

 立川一のグルメガール、食への解釈が広い。

 

「可愛いね、お名前は?」

 

 芦花も完全に見た目の可愛さへ意識を持っていかれている。立川一の美容ガールもまた、強かった。

 

「名前? 名前は、えーっと……」

 

 宇宙人の少女が言い淀む。

 その瞬間、彩葉の脳裏に昨日見たおとぎ話がよぎった。

 月から来た姫。不可思議で、勝手で、綺麗で、どうしようもなく目を離せない存在。

 

「かぐや!」

 

 彩葉は半ば反射的に言った。

 かぐや姫を想起させるこのお転婆娘の名前は。そのまんまかぐやだ。

 

「かぐや〜、かわよー!」

「えー、ぴったりだね」

 

 芦花と真実が盛り上がる中、かぐやは不思議そうにその名前を反芻していた。

 

「かぐや……かぐや……そっかぁ。かぐやかあ〜!」

 

 存外、嬉しそうだった。

 

 その顔を見た瞬間、彩葉は少しだけ言葉を失った。

 名前は人生最初のプレゼント、どこかで見た言葉が頭をよぎる。

 けれど感傷に浸っている余裕はなかった。

 

「ごめん、帰る! ありがとね、ごちそうさま! 後で埋め合わせするから!」

 

 彩葉は残されたパンケーキを二口で詰め込み、まだ照れくさそうにしているかぐやの手首を掴むと、風のようにカフェから脱出した。

 

 

「いやー、さっきの建物の中涼しかったねー。あれ彩葉の家で出来ないの?」

 

 カフェを出てからも、かぐやはご機嫌だった。

 彩葉はその宇宙人を人気のない一角まで連れて行き、ようやく足を止める。

 周囲に人影がないことを確認してから、振り返った。

 

「正気!? 何でここにいるの!? 何で家から出てくるの!? 部屋にいてって言ったでしょ! 月から来たって何!? 正体バレたらどうするの!? 何で私の服着てるの!? 何で私の場所が分かったの!?」

 

 言いたいことは山ほどあった。むしろ山どころか山脈だった。

 それを一息に吐き出すと、かぐやは少しだけ唇を尖らせる。

 

「だって、つまんないんだもん」

 

 あまりにも単純な返答だった。

 五歳児がおもちゃを取り上げられて拗ねているような言い方で、しかも本人は本気でそう思っているらしい。

 彩葉は一瞬黙った。怒りより先に、呆れが深い湖みたいに広がっていく。

 

「あのね、そんな風に生きてると自滅するよ。時には我慢ってもんも必要で――」

 

 そこまで言って、言葉が止まった。

 今の言葉は、どこかで聞いたことがあった。母に言われた言葉だ。

 自分が嫌だった言葉を、そのまま誰かに投げようとしていることに気づいて、胸の奥がわずかに詰まる。

 その隙を逃さず、かぐやは別の物を突き出した。

 

「ねー、これ、どうやって使うの?」

 

 小さな透明ケース。

 彩葉はそれを見た瞬間、眉をひそめる。

 

「スマコンじゃん。私のやつ持って来たの?」

「ううん、彩葉のノートPCで買えた」

「……………………は?」

「イエイ♪」

 

 イエイではない。

 イエイなわけがない。

 彩葉は即座にスマホを取り出し、半ば祈るような気持ちでウォレットアプリを開いた。

 

『ウォレット残高 ¥1,452,000』

『前日比 ¥マイナス124,400』

 

「…………」

 

 見間違いかと思った。

 もう一度見る。

 同じ数字だった。

 三度見る。

 やっぱり同じだった。

 前日比マイナス十二万四千四百円。

 

 現実だった。

 配信収益があるから、以前のように明日からの生活が完全に詰むわけではない。けれど、それとこれとは話が違う。

 彩葉はお金の大切さをしっている。骨身に沁みるほど知っているのだ。

 その数字が、知らないうちに削れている。

 胸の奥を冷たい手で掴まれたような感覚に、彩葉は思わず頭を抱えた。

 

「あ、大丈夫! なんか銀行? のデータ書き換えればウォレットの数字増やせるっぽかったよ! かぐやならお茶の子さいさいだけど、やるっ?」

「ダメに決まってるでしょ! 絶〜〜対っ! しないでよ!」

 

 反射で叫んだ。

 倫理観がない。

 あまりにもない。

 

 彩葉は深く息を吐いた。

 怒鳴り続けても仕方がない。かぐやは悪意でやったわけではないのだろう。

 問題は、その善意や好奇心が時々とんでもない方向へ暴走することだった。

 だからこそ、今ここでちゃんと言っておかなければならない。

 彩葉はかぐやの前へ立つと、人差し指を立てた。

 

「かぐや」

「なーに?」

 

 とん。

 額を軽く突く。

 

「人のお金で勝手に買い物しない」

 

 かぐやがぱちぱちと瞬きをする。

 彩葉はもう一度だけ額を突いた。

 

「欲しい物があるなら相談」

 

 とん。

 

「勝手に決済しない」

 

 とん。

 

「銀行のデータも書き換えない」

 

 とん。

 

「絶対」

 

 最後に軽く額を押すようにして念を押した。

 

「分かった?」

 

 かぐやは額を押さえながら、少しだけしゅんと肩を落とす。

 

「……うん」

 

 その返事は、いつもの元気いっぱいなものではなかった。

 たぶん全部を理解したわけではない。

 けれど、自分が彩葉を困らせたことだけは伝わったのだろう。

 それで十分だった。

 彩葉は胸の奥に残る怒りをゆっくり吐き出すように息をつく。嵐みたいだった感情も、ようやく夏の夕立が過ぎた後の空のように落ち着き始めていた。

 その時だった。

 

「……ん?」

 

 ふと視線がかぐやの手元で止まる。

 スマコンのケースとは別に、見覚えのない折り畳み日傘を持っていた。

 少なくとも自分の持ち物ではない。

 彩葉は眉をひそめた。

 

「それ、どうしたの?」

「これ?」

 

 さっきまで叱られていたのが嘘みたいに、かぐやの顔がぱっと明るくなる。

 まるで褒められそうな宝物でも見せるみたいに、日傘を掲げた。

 

「知らない人にもらった! 彩葉! これすげーの! 広げるだけでめちゃ涼しくなるの!」

「知らない人?」

 

 彩葉の眉間の皺がさらに深くなる。

 どうやら今日の頭痛の種は、まだ終わっていないらしかった。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 ここならぬいづこの物語なり。

 月日(つきひ)は流れ、人は変わり、世は移ろへども、変わらぬものもまたありけり。

 これは戦国の世も終わりへ向かひつつある頃の話。

 

 

 

 戦国の世も終わりへ近付き、人々がようやく平穏を願い始めた頃の話である。

 もっとも、その平穏はまだ遠かった。

 街道を行き交う旅人たちは笑いながらも、どこか落ち着かない顔をしていた。

 茶屋で交わされる世間話にも、大坂だの徳川だのという言葉が時折混じる。

 戦の火種は遠くで燻っているだけに見えて、その実、乾いた薪へ落ちる火の粉のように少しずつ広がり始めていた。

 

 そんな世情とは裏腹に、街道沿いの茶屋は賑やかだった。

 炭火の上では団子が焼かれ、醤油だれの焦げる香ばしい匂いが風へ溶けていく。

 旅人は茶を啜り、商人は荷を脇へ置いて一息つき、子供たちは団子を巡って兄弟喧嘩を始めては親に叱られている。

 戦の影がどれほど近付いていようと、人は腹が減るし、美味いものを食べれば笑う。

 

 そんな当たり前がそこにはあった。

 そして、その光景を若者の膝の上から熱心に眺めている存在が一匹。

 白い身体へ黒い斑模様を散らした小さなウミウシ――かぐやである。

 団子が焼かれるたびに触角がぴこんと立ち、人々が頬を緩めるたびに身体ごとそちらを向く。その様子は餌を期待する小動物そのもので、本人は真剣なのだろうが傍から見ると妙に愛らしかった。

 

 しかし彼女は団子を食べられない。

 香りも分からない。

 温かさも感じられない。

 だからただ、人々の表情だけを見て、それがきっと素晴らしいものなのだろうと想像するしかなかった。

 

「いいなぁ」

 

 ぽつりと零れた言葉は、春先の風へ乗る綿毛みたいに軽かった。

 若者は湯呑を口元へ運びながら首を傾げる。

 

「何が?」

「お団子」

 

 かぐやは即答した。

 

「みんな美味しそうに食べるじゃん」

 

 視線の先では旅人の子供が頬いっぱいに団子を詰め込みながら笑っている。

 隣の母親は呆れたように眉を下げていたが、その目元は優しく緩んでいた。

 若者はその光景を眺め、それから膝の上のウミウシへ視線を落とす。

 

「なら覚えておけばいいよ」

「なにを?」

「今の景色」

 

 若者は何でもないことのように言った。

 

「お団子を食べて嬉しそうな顔とか、美味しそうな匂いがするって話とか、そういうの」

「覚えてどうするの?」

 

 かぐやは触角を傾げる。

 その仕草は首を傾げているつもりなのだろう。

 若者は少しだけ空を見上げた。

 雲一つない青空だった。

 その向こうにある、まだ誰も知らない未来を見ているみたいに。

 

「ずっと未来にね」

 

 静かな声だった。

 

「今は無理でも、いつか食べられるようになるかもしれない」

「そうかなぁ? 無理なんじゃないかなぁ」

「無理とは言い切れないよ」

 

 若者は頷く。

 

「今だって、からくり細工やエレキテルみたいなものが作られてるよね」

「うん」

「それがもっと発展して、もっと賢くなって、もっと便利になって」

 

 そこで少しだけ笑った。

 

「月の技術に届くくらいになるかもしれない」

「地球の人が?」

「案外馬鹿に出来ないよ、人間は。かぐやだってそれをずっと見てきたでしょ」

 

 若者はそう言って茶を飲む。

 かぐやは少しだけ考える。

 未来。

 何十年も先。

 何百年も先。

 自分はその頃も生きている。

 きっと。

 

「そしたらお団子食べられる?」

「食べられるかもしれない」

「パンも?」

「食べられるかもしれない」

「お饅頭も?」

「食べられるかもしれない」

「全部?」

「全部」

 

 かぐやの触角がぴんと立った。

 それは人間で言うなら目を輝かせた状態に近い。

 若者は思わず笑う。

 

 炭火の煙が空へ昇る。

 旅人たちの笑い声が聞こえる。

 遠くで戦の噂が囁かれていても、この場所だけはまだ穏やかだった。

 

「だから今は食べられなくても、その時になったら楽しみが増えるよね」

 

 かぐやはしばらく黙り込んだ。

 そして。

 

「そっか」

 

 嬉しそうに言った。

 

「じゃあいっぱい覚えとく!」

「うん」

「みたらしがたっぷり絡まったお団子も!」

「うん」

「あんこの粒が大っきいふっくらのお饅頭も!」

「うん」

「大根おろしが山盛りの焼き魚も!」

「うん」

 

 かぐやはさらに触角を揺らしながら続ける。

 

「でもやっぱり一番は彩葉のパンケーキ!」

 

 若者が吹き出しかけた。

 もちろん彩葉という名前など、この時代には存在しない。酒寄彩葉という少女が生まれいづるのはまだ先の未来だ。

 どれだけ時間が記憶を風化させようと、このウミウシの中に宿る少女の一番がいつも煌めいて変わらない。

 けれど、その事実が妙に可笑しかった。

 

「それは随分先の話だね」

「でも覚えとくの!」

 

 そう言って身体をぴこぴこと揺らすかぐやを見ながら、若者は静かに視線を落とした。

 膝の上の小さなウミウシは、まだ見ぬ未来の団子や饅頭やパンケーキに胸を躍らせている。

 その姿は、春を待つ子供のようだった。

 

 一方で若者の口の中にある団子は、相変わらず何の味もしない。

 甘さも。

 香ばしさも。

 焼き立て特有の温かさも。

 何一つ。

 

 昔、アンサートーカーへ問い掛けたことがある。

 どうすれば味覚を失えるのか。

 どうすれば温かさを感じなくなるのか。

 そんな愚かな問いにさえ、あの力は答えを返した。

 

 そして彼は、それを実行した。

 彼女が感じられないものを、自分だけが味わうわけにはいかない。

 理屈としては馬鹿げている。

 自己満足以外の何物でもない。

 それでも、その決意だけは長い年月の中で風化することがなかった。

 だから今も、味のしない団子を平然と噛み続ける。

 

 その事実を膝の上の少女へ知らせるつもりは微塵もない。

 知れば彼女は悲しむ。きっと申し訳なさそうな顔をする。

 だから未来永劫、この事実は胸に秘しておく。

 何度人生を繰り返そうとも。

 何度死を迎えようとも。

 幾多の墓場まで持っていく。

 

 その代わりに語るのは未来の話だ。

 いつか団子を食べられる日が来るかもしれないと。

 いつか温かいものを温かいと感じられる身体を手に入れられるかもしれないと。

 そうして未来を語っている間だけは、大切な少女の憂いがわずかでも薄らぐことを祈って。

 

 だが街道を吹き抜ける風の中には、確かに火薬の匂いが混じり始めている。

 戦は近い。

 若者だけは、それを知っていた。

 そして、その戦火の向こうで運命に翻弄される一人の姫君のことも。

 淀の方。

 かぐやの友人であり、近いうちに炎の中へ消えるはずの女性のことを。

 若者は黙って茶を啜る。

 膝の上では、何も知らないウミウシが未来のパンケーキについて楽しそうに語り続けていた。




・金銭面で余裕がある彩葉
 ママ味が強くなってる気がする、しない?

・主人公からかぐやへの矢印
 割とおっきくて重い。でもそれで相手の重荷になるようなムーブはしない。

・主人公のクソボケ行動(味覚・温感麻痺)
 でもやりたいことやってるだけなので人生エンジョイ勢(n回目)
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