もうちっとだけハッピーにするんじゃ   作:加賀美ポチ

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可能性の獣

 配信開始を告げる電子音が静かに鳴り響く。

 暗転していた視界がゆっくりと開けると、そこにはツクヨミの夜景が広がっていた。

 頭上では巨大なミラーボールがゆるやかに回転し、その表面から零れ落ちる光が水面へ砕け散る月光のように街全体へ降り注いでいる。

 

 そんな幻想的な景色を背景にして。

 画面の中央へ、ひとつの影が勢いよく飛び込んできた。

 

「かぐやっほー! かぐやだよー!」

 

 満面の笑み。

 両手を大きく振りながらの元気いっぱいな挨拶だった。

 まるで遠足当日の小学生である。

 いや、実際のところ本人の気分もそんなものなのだろう。

 今日は自分の配信ではない。それなのに数時間前から落ち着きがなく、彩葉から見ても分かるほどそわそわしていた。

 

 そして、その隣。

 

 少し遅れて画面へ姿を現したのは、青を基調とした和服パーカー姿の狐面少女だった。

 深い藍色から水色へと淡く色が移り変わる和風ストリート調の衣装

 顔こそ面で隠れているものの、その立ち姿だけで視聴者の多くが誰なのか理解する。

 ライバー、イロ。

 あるいは彩葉。

 彼女は軽く片手を上げると、どこか気恥ずかし気な調子で口を開いた。

 

「い、いろっぴー……いろPことイロでーす……」

 

 小さい。

 とにかく声が小さい。

 普段の配信を知る視聴者なら「いつものこと」で済ませる程度には普通なのだが、その直後。

 

「もっと元気に言わないと聞こえないよ!」

 

 かぐやが即座に食いついた。

 びしっ、と指を突き付ける。

 まるで何か重大な欠陥を発見したかのような勢いだった。

 彩葉は狐面の奥から半眼になる。

 

「聞こえてはいるだろ」

「聞こえてないかもしれないじゃん!」

「聞こえてるって」

「聞こえてないかもしれないじゃん!」

 

 即座に返ってくる。

 開始からまだ一分も経っていない。

 それなのに、もういつもの空気だった。

 コメント欄が一気に流れ始める。

 

『始まった』

『安心する温度差』

『いつもの二人』

『イロ逃げて』

『逃げるな! 配信挨拶の責任から逃げるな!』

『もっと元気に!』

『聞こえてるだろ草』

 

 画面横を流れる文字列を見て、かぐやは満足そうに頷いた。

 どうやら視聴者たちを完全に味方へ引き込んだと思ったらしい。

 その証拠に、金色の長い髪を揺らしながら得意げに胸を張る姿は、作戦が成功した子供そのものだった。

 そして案の定というべきか、次の瞬間には身を乗り出していた。

 

「お客さんさぁ!」

 

 画面の向こうへ向かって大きく両手を広げる。

 朱色と若草色の衣装の袖がふわりと広がり、背中の大きな水引飾りが羽根のように揺れた。

 まるでステージの中央へ飛び出したアイドルである。

 発光する魚群が背後を横切り、提灯の灯りがその横顔を照らしていた。

 

「もっと元気ないろPの声聞きたいってぇ!」

 

 その瞬間、彩葉は嫌な予感を覚える。

 これまで何度も何度も宇宙人に振り回されてきた経験則が、警鐘を鳴らしていた。

 今から面倒なことになる、と。

 そして予想通り。

 かぐやは画面へ向かって指を突き付けた。

 

「聞きたいよな!」

 

 一瞬だけ静寂。

 次の瞬間にはコメント欄が爆発する。

 

『聞きたい』

『聞きたい』

『聞きたい』

『聞きたい』

『聞きたい』

 

 まるで事前に打ち合わせでもしていたかのように同じ文字列だけが画面を埋め尽くしていく。

 誰一人として止める気はない。

 明らかに面白がっている。

 視聴者たちは完全に共犯だった。

 かぐやはその結果に満足したのか、ぱっと振り返る。

 

「ほら!」

「お前ら絶対面白がってるだろ」

「ほら!」

「ほらじゃない」

 

 彩葉の深いため息がマイク越しに響く。

 狐面があるおかげで表情は見えないが、狐耳がぴくりと揺れ、長い狐尾も力なく左右へ揺れた。

 けれど長い付き合いのかぐやには分かる。

 今の彩葉は呆れている。

 かなり呆れている。

 しかし、それすら気にした様子もなく、かぐやは満足そうに何度も頷いた。

 そして。

 まるで今日一番言いたかったことをようやく言える子供のように。

 ぱっと顔を輝かせる。

 

「よし!」

 

 声と同時にうさぎ耳がぴんと立つ。

 夜空を泳ぐ魚たちさえ祝福しているような勢いだった。

 

「今日は彩葉のかっこいいところをみんなで見る配信でーす!」

 

 完全なる企画発表だった。

 しかも当人への事前説明は一切ない。

 一拍、二拍、三拍。

 配信空間に妙な沈黙が流れる。

 コメント欄だけが面白そうにざわついていた。

 そして。

 

「初耳なんだけど」

 

 彩葉のぼやきが静かに響く。

 その声には諦めと呆れと、ほんの少しだけ照れ臭さが混じっていた。

 

『草』

『本人初耳』

『企画会議しろwww』

『勝手に決まった』

『かぐやPによる番組編成』

『タイトル回収』

『本人だけ知らないの笑う』

 

 コメント欄が再び盛り上がる中、かぐやはまったく悪びれる様子もなく頷いた。

 

「うん、いま初めて言ったから彩葉が正しいよ?」

「うん、ではないが?」

「だっていつもは彩葉が裏でプロデューサーしてくれてるから、今回の配信はかぐやが彩葉をプロデュースするの。

 そんで今日の企画の主旨は、彩葉のかっこいいところをいっぱいかぐやに見せる配信なの!」

「いや意味が分からん」

 

 彩葉が本気で困惑した声を漏らすと、かぐやは心外だと言わんばかりに目を丸くした。

 頭上では発光魚の群れが青白い軌跡を引きながら夜空を横切り、提灯の灯りが石畳へ柔らかな光を落としている。その幻想的な景色の中で、かぐやだけが妙に熱っぽい顔をしていた。

 

「分かるよ!」

 

 勢いよく身を乗り出す。

 

「だって彩葉、めちゃくちゃかっこよかったじゃん!」

「何が」

「伝説の八秒!」

 

 その単語が飛び出した瞬間、コメント欄の流れが目に見えて速くなる。

 

『出た』

『伝説の八秒』

『またその話かw』

『脳焼かれてるじゃん』

 

 視聴者たちも察したらしい。

 かぐやがその話を始める時は、大抵しばらく止まらない。

 そして実際、その予想は正しかった。

 

「かぐやね、あの動画見た時びっくりしたの! だって相手すごく強い人なんでしょ? なのに彩葉、ぜんぶ分かってるみたいに動いて、気付いたら勝ってたんだもん!」

「だいぶ端折ったな」

「でも本当にそう見えたんだって!」

 

 その仕草には誇張もお世辞もなかった。

 純粋に感動した人間の反応だった。

 

「普段の彩葉から全然想像できなかったし!」

「おい」

「だからもっと見たいの!」

 

 真っ直ぐだったで純粋なおねだりだった。

 子供が憧れのヒーローを語る時みたいに、金色の瞳がきらきらと輝いている。

 

「彩葉がゲームしてる時、すごくかっこいいんだもん。だから今日は、それをかぐやが一番近くで見る配信なの! おねがーい!」

「かぐやが見たいだけじゃないの」

「うん!」

 

 即答だった。

 彩葉は狐面の上から額を押さえる。

 それは呆れ半分、そしてもう半分は純粋な憧憬を寄せてくるかぐやへの照れで占められていた。

 コメント欄はすでに笑いと歓声で埋め尽くされていた。

 

『ただのファンじゃねーか』

『ヒーローショーが見たいだけの子供で草』

『即答で草』

『企画の主旨が理解できた』

『かぐやちゃん視点だとそうなるよな』

 

 コメント欄を埋め尽くす文字列は、しばらく勢いを失わなかった。

 かぐやの語る「伝説の八秒」に共感する者、面白がる者、そして当の本人である彩葉をからかう者まで入り混じり、配信画面の横では絶え間なく文字列が流れ続けている。

 夜空を泳ぐ発光魚の群れが青白い軌跡を描きながら通り過ぎるたび、その光がコメント欄の輝きと混ざり合い、賑やかな空気をより一層際立たせていた。

 そんな様子を眺めながら、彩葉は狐面の奥で小さく息を吐く。

 今日は自分の配信だったはずだ。

 それなのに気付けば話題の中心は伝説の八秒であり、自分は半ば公開鑑賞会の対象にされている。

 もっとも、かぐやと一緒にいる以上、こうなることはある程度予想していた。本人に悪気はない。

 むしろ百パーセント善意で、それどころか本気で褒めてくれているからこそ、余計に居心地が悪いのである。

 

「……それで?」

 

 彩葉は肩を竦める。

 

「そろそろゲーム始めてもいいかな?」

「あっ」

 

 かぐやが固まった。

 本当に今思い出したらしい。金色の瞳がぱちぱちと瞬き、耳までぴたりと止まる。

 

『草』

『本来の目的を思い出した』

『そういやゲーム配信だった』

『雑談だけで一時間いけそう』

『かぐやちゃん満足して帰るな』

 

 コメント欄にも笑いが広がる。

 かぐやは慌てて何度も頷いた。

 

「やるやる! もちろんやる!」

 

 そう言いながらその場でぴょんと跳ねる。

 長い金髪がふわりと舞い、背中の大きな水引飾りが羽のように揺れた。

 その様子は、憧れの舞台が始まるのを待ちきれない観客そのものだった。

 

 彩葉はそんな相棒を横目で見ながら、ゆっくりとメニュー画面を開く。

 空中へ展開された半透明のウィンドウには、見慣れた対戦モードの一覧が並んでいた。

 KASSEN。

 SENGOKU。

 そして――SETSUNA。

 一対一で行われる決闘形式のモードであり、余計な要素は一切存在しない。

 味方もいなければ援護もない。ただ純粋に、自分の判断力と技量だけが勝敗へ直結する戦場だった。

 

「今日はSETSUNA?」

 

 かぐやが身を乗り出す。

 

 その声には隠しきれない期待が滲んでいた。

 伝説の八秒。

 彼女が憧れた戦いに、最も近い場所だからだろう。

 

「うん、そのつもり。ま、かぐやの期待に答えられるかどうか分からないけど、応援よろしくね?」

「うんっ! まっかせて!」

 

 彩葉はそう答えながら、慣れた手付きでエントリーボタンへ触れた。

 ぴこん、と軽い電子音が鳴る。

 その瞬間、配信の空気がほんの少しだけ変わった。

 つい先ほどまで雑談配信のような穏やかさだったコメント欄にも、期待と高揚が混ざり始める。

 

『きた』

『本番』

『イロのSETSUNAだ』

『かぐやちゃんの反応楽しみ』

『ヒーロー鑑賞会開幕』

 

 頭上では巨大なミラーボールが静かに回り続けている。

 幻想的なツクヨミの夜景は何も変わらない。

 けれど、その中心にいる二人だけは少し違っていた。

 一人は憧れのヒーローの戦いを誰より近くで見ようとしている少女。

 そしてもう一人は、その期待を少し気恥ずかしく思いながらも、いつもの戦場へ足を踏み入れようとしている当人。

 そんな正反対の二人を乗せたまま、見慣れた一対一の戦場――SETSUNAのマッチングが静かに始まった。

 

 

 最初の対戦相手が表示される。

 ユーザー名――金作皇子。

 巨大な拳型の武器を両腕へ装着した近接特化のプレイヤーだった。赤銅色の装甲に覆われた拳は小盾のような重厚感を放ち、一撃ごとの破壊力を想像させる。

 

「おおー!」

 

 かぐやが目を輝かせた。

 

「なんか強そうな人が来た! ねーねーみんな知ってる人?」

 

『実際強い』

『拳使いで有名な人』

『初戦にしてはカロリー高めな相手』

 

 コメント欄が流れる中、試合開始の電子音が鳴る。

 次の瞬間だった。

 彩葉が予備動作を感じさせないほど滑らかに動く。

 いや、正確にはほとんど動いていないように見えた。

 半歩。

 ほんのわずか前へ出たと思った瞬間、鍵盤付きの双刃が月光を反射して閃く。

 澄んだ音が響いた。

 まるで鍵盤の上を指が滑るように、刃と刃が連続して軌跡を描いていく。

 

「え? え?」

 

 かぐやが思わず声を漏らす。

 まだ試合は始まったばかりだった。

 なのに金作皇子の体力ゲージが削れ、気付けば彩葉の連撃へ捕まっている。

 双刃が舞う。

 音色が重なる。

 

 相手が回避しようとする。

 だが逃げられない。

 彩葉は一歩先ではなく、そのさらに先を読んでいるようだった。

 回避先へ刃が置かれ、反撃の起点が潰され、拳が振り抜かれる前に次の斬撃が入る。

 以前の彩葉なら出来なかったであろう先読み。

 

『いろPは儂が育てた(後方ライバル面)』

『前より強くなってる』

『大会の時より仕上がってない?』

 

 コメントが流れる。

 その間にもHit数は伸び続ける。

 23。

 41。

 57。

 そして――今夜の1戦目は68Hitにて幕引き。

 

 最後の一撃。

 交差した双刃が澄んだ和音を響かせると同時に、金作皇子の体力ゲージが消し飛んだ。

 所要試合時間は十数秒。

 一度も攻撃を受けないままの完封だった。

 そのあまりの蹂躙劇にコメント欄は一気に盛り上がりを見せていた。

 

『えぐ』

『68Hit!?』

『完封で草』

『いや草じゃねぇ』

『結構有名なランカーなのに何もさせてない』

 

 コメント欄が滝の勢いを見せる中。

 その中で一番騒いでいたのは、間違いなくかぐやだった。

 

「すごーーーい!」

 

 椅子から立ち上がり、両手を振り上げる。

 金色の瞳は夜空の星みたいに輝いていた。

 

「見た!? 今のみんな見た!? 彩葉すごい! 相手になんもさせなくて完封だぁ! かっけーー!!」

 

 まるでヒーローの必殺技を目の前で見た子供だった。

 ぴょんぴょん、とアバターのモチーフとなった兎の如く飛び跳ねながら全身で興奮を露わにするかぐや。

 だが彩葉本人はというと。

 

「まだ一試合目だよ? はしゃぎすぎ」

「だって彩葉とんでもないんだもん! こうシュバババーって切り刻んでっ、相手に何もさせないでズバーン、て決めてかっこよかった!」

 

 興奮するかぐやを余所に彩葉は肩を竦めながら、何事もなかったように次のマッチングボタンへ手を伸ばしていた。

 だが、意味もなく鍵盤付きブレードを可変している上、ずれていない狐面を位置を手直しして多少の気恥ずかしさを誤魔化している。

 

『かぐやちゃんの方が興奮してる』

『ああ~無垢な子の元気いっぱいな反応がかわええんじゃぁ』

『脳を焼かれている』

『分かるマン』

 

 そんなコメントが流れる中、一つの発言がかぐやの目へ留まる。

 

『かぐやちゃん』

『イロは「がんばれ♡ がんばれ♡」って応援されるとすごく喜ぶぞ』

 

 その文字列を見た瞬間。

 かぐやのウサギ耳がぴん、と直立して瞳がぱっと輝く。

 コメント欄の海へ顔を近付けるようにして何度も頷き、そのまま嬉しそうに振り返った。

 

「彩葉ー!」

 

 元気いっぱいな声が配信空間へ響く。

 なぜだか知らないがその瞬間、彩葉の脳内に警鐘が鳴り響く。

 かぐやが良く考えないでとんでもない事をやらかす予兆みたいなものを彩葉は感じ取っていた。

 

「待っ――」

 

 彩葉が制止しようとした時には、もう遅い。

 かぐやはその桜色に色づいた爪を折りたたんで両手の握りこぶしを作り、それを胸の前に置いて言い放った。

 

「がんばれ♡ がんばれ♡」

 

 瞬間──彩葉のネットミームに汚染された脳内に再生される映像(ビジョン)。

 チアリーダー衣装に身を包んだかぐやがポンポンを両手にして同じ台詞を彩葉に投げかける。

 紅潮した頬、着崩れたチアリーダー衣装、そしてそのやり取りがなされているのはなぜかベッドの上だった。

 

 刹那の情景から帰還した彩葉の前には純粋無垢なかぐや。

 悪童めいていて、それでいて根は素直なかぐやが無邪気に応援だと思っている。

 本当にそれだけだった。

 だからこそ破壊力が凄まじかった。

 彩葉も配信の時間を止めてしまうほどに。

 かぐやだけが、どうしてみんな固まっているのか理解できずに首を傾げていた。

 

「……」

「……」

「……彩葉? かぐやなんか変だった?」

 

 彩葉の身体が反応する。

 それは思考より先だった。

 目の前で巨大な攻撃予兆を見た上級プレイヤーが回避入力を叩き込むような、ほとんど条件反射に近い動きだった。

 

「――」

 

 言葉は出ない。

 出ないまま視線だけが走る。

 狐面の奥で瞳が見開かれ、かぐやからコメント欄へ、コメント欄から画面端のユーザー名へと一瞬で移動する。

 カーソルが跳ねる。

 まるでSETSUNAの試合中、相手の回避先へ双刃を置く時のような迷いのない軌道だった。

 配信画面の端、コメント管理欄、設定ボタン。

 そこへ吸い寄せられるように白い矢印が走る。

 

「彩葉?」

 

 不思議そうな声。

 うさぎ耳が小さく揺れる。

 金色の瞳には困惑の色がじわり、と滲んでいた。

 

 説明しようにも説明できるものではない。

 結果として彩葉の指はさらに加速した。

 設定画面が開く、ユーザー管理、コメント履歴、該当ユーザー。

 その一連の操作がほとんど残像になっていた。

 まるで先ほど金作皇子を六十八連撃へ閉じ込めた時と同じだった。

 

 カーソルが目標へ到達する。

 クリック。

 タイムアウト。

 確認。

 クリック。

 確定。

 クリック。

 その一連の動作はあまりにも速く、画面を見ていた視聴者の多くが途中経過を認識できなかったほどだった。

 そして。

 数秒遅れて全員の脳が状況へ追い付く。

 配信画面の下部へ無機質なシステムメッセージが表示される。

 

【金作皇子さんのメッセージはタイムアウトされました】

 

 その文字列が現れた瞬間。

 沈黙していたコメント欄が爆発した。

 

『お前かーーーーーー!!』

『犯人お前じゃねぇか!!』

『さっき負けた相手www』

『報復教育やめろ』

『上位ランカーは上位ランカーでも変態上位ランカーじゃねぇか!』

『いろP、戦闘中より操作が速くておハーブ生えますわ』

『二度目の敗北で草』

『金作皇子、討死』

 

 文字列が雪崩のように流れ続ける。

 彩葉は狐面の上から額を押さえた。

 狐面で隠された顔は後から効いてきたかぐやのセンシティブな仕草で真っ赤だった。

 

「かぐやに変なこと教えないで、この子は赤ちゃんのように丁寧に扱うこと、分かった?」

 

 静かな声にはしかし狐面を般若に見せるほど有無を言わせぬ圧があった。

 かぐやを育てて芽生えた庇護欲が転じた威嚇である。

 コメント欄を流れていた文字列が一瞬だけ勢いを失う。

 まるで野生動物たちが、一斉に天敵の気配を察知した時のようだった。

 

『はい』

『サーイエッサー!』

『ちょっと男子ー、いろP怒っちゃったじゃない』

『お母さんモード』

『怒られた(´;ω;`)』

 

 そんな文字列が流れる中、かぐやだけがきょとんとしていた。

 長い金髪を揺らしながら小さく首を傾げ、ぴこりと動く兎耳が困惑をそのまま表している。

 

 だが。

 分からないなりに、分かることもあった。

 先ほどまで楽しそうに騒いでいた視聴者たちが急に妙な盛り上がり方をしたこと。

 そして彩葉が、あれほどまでに慌てて反応したこと。

 何より――自分が口にした言葉そのものではなく、それを教えた相手が即座に処分されたこと。

 そこまで考えたところで、かぐやの耳がぴくりと揺れた。

 金色の瞳が細くなる。

 何か面白いものを見つけた時の顔だった。

 

「……ねえ、彩葉」

 

 声の調子が少しだけ変わる。

 先ほどまでの無邪気な歓声ではない。

 純粋な好奇心の色を帯びた声だった。

 

「かぐや、意味は分かってないんだけどさ。たぶん今のって、教えちゃ駄目なやつだったんだよね?」

 

 彩葉の肩がぴくりと揺れる。

 それだけだった。

 だが、その反応だけで十分だった。

 かぐやの表情がぱっと明るくなる。

 まるで難しい問題の解き方を見つけた子供のように。

 

「やっぱりそうなんだ!」

「……違うよ?」

「今の間で分かるよ?」

「分からなくていいから」

 

 即答だった。

 しかし、その即答が逆効果だった。

 かぐやは椅子の上で身体を乗り出し、机へ肘をつくような姿勢になる。

 うさぎ耳が楽しそうに揺れている。

 

 駄目だ。

 彩葉は理解した。

 完全に火が付いている。

 この顔は知っている。

 新しい玩具を見つけた時の顔だ。

 知らなくていいと言われた瞬間に、余計知りたくなる類の人種の顔だ。

 

「ねえねえ、教えてよ。だって彩葉、さっきから教えられないしか言わないじゃん。それってつまり説明できない理由があるってことだよね?」

「そういうことじゃない」

「そういうことでしょ?」

 

 かぐやはにこにこしている。

 悪意はない。

 ただ彩葉の色んな表情(かお)が見たいだけなのだ。

 それを引き出しているのは自分なのだという優越感も加わっている。

 コメント欄も察したらしく、文字列が一気に流れ始める。

 

『悪ガキモード入った』

『いろP逃げて』

『もうだめだぁ……おしまいだぁ……』

 

 それらを見たかぐやはさらに確信を深めたらしい。

 視聴者も彩葉も止めようとしている。

 つまり、やることは一つ。

 いけいけGOGOである。

 

「彩葉がそんな反応するの珍しいもん。怒ってるなら分かるんだけど、なんか違うじゃん。慌ててたし、すっごく恥ずかしそうだったし」

「気のせい」

「ねえ彩葉、おねがーい、かぐやに教えて欲し―なぁ」

 

 重ねた両手を頬に当てての猫なで声。

 彩葉は狐面の奥で目を閉じる。

 今まさに目の前で、好奇心旺盛な悪童が手の届かない棚へよじ登ろうとしている。

 そして、その棚の上にあるものが何なのかを彩葉だけは知っていた。

 

 ──……悪童め。

 

 心の中でそう悪態をつく。

 

「はいはい、この話はやめ、おしまい」

「えーなにそれー、ずっるーい!」

「兎に角、次行くよ。SETSUNA配信なんだから、ちゃんと試合しないとでしょ?」

「むぅ……」

 

 彩葉はマッチング画面を呼び出す。

 ぴこん、と軽い電子音が響き、半透明のウィンドウが空中へ展開された。

 視界の端で、かぐやがまだ何か言いたそうな顔をしている。

 

 彩葉の意志が固いことを察したのか、頬を膨らませながらもかぐやは追及の手を止めた。

 つい先ほどまで奇妙な方向へ暴走しかけていた配信は、どうにか本来のレールへ戻ってくる。

 そして彩葉は、まだ少しだけ熱の残る頬を誤魔化すように狐面へ手を添えながら、小さく呟いた。

 

「……よし。それじゃあ改めて、SETSUNAの続きやっていこうか」

 

 

 そこから先は、もはや快進撃と呼ぶしかなかった。

 次々とマッチングする対戦相手を前にしても、彩葉の勢いは少しも衰えない。

 むしろ試合を重ねるごとに動きは研ぎ澄まされていき、かつて大会で見せていた鋭さへ、さらに何段階も磨きをかけたような戦いぶりを見せていた。

 

 竹林ステージで現れたのは、片手剣使いの『車いっぱい持ちおじさん』。

 

 月光に照らされた竹林の中、互いの剣が幾度も交差し、乾いた金属音が静かな夜へ響き渡る。

 相手も決して弱くない。鋭い踏み込みと正確な斬撃で主導権を奪おうとするが、彩葉はそれを正面から受け流しながら機会を待っていた。

 そして。

 相手の振りぬいた逆袈裟を流れに逆らわず上に弾いた、その一瞬。

 ほんの針の先ほどの隙へ、彩葉が神速の踏み込みを叩き込む。

 視界から消えたように見えるほど鋭いダッシュ。

 銀色の軌跡が竹林を横切った瞬間には勝敗が決していた。

 

「うわぁぁぁぁ!! 今の見た!? 見た!? 彩葉ずっと我慢して我慢して、ここだって瞬間にズバーンって行ったんだよ!? 

 かぐやね、今の絶対達人同士の戦いだったと思う! 最後なんて全然見えなかったもん! かっこいい!!」

 

『語彙力が蒸発した』

『完全にヒーローショー見てる子供』

 

 そして次。

 月夜の千本鳥居。

 朱色の鳥居が果てしなく続く幻想的な戦場へ現れたのは、鎖鎌使いの『大きなお伴だち』だった。

 

 鎖が唸る。

 月光を反射しながら鎌が大きく弧を描き、近付くことさえ許さない危険な領域を作り出していく。

 だが彩葉は引かない。

 迫る鎖を前に、身体を横回転させながら跳躍する。

 空中での華麗なバレルロール。

 

 鎖の軌道を紙一重で避け、その勢いのまま相手の懐へ滑り込む。

 鎖鎌の結界。

 本来なら誰も踏み込めない場所。

 そこへ入り込み。

 鍵盤付きブレードを一閃。

 そして決着。

 

「彩葉めちゃかっけぇぇぇ!! 映画の戦闘機じゃん! 鎖鎌を落ちながら空中でぐるんぐるん回りながら回避とかめちゃCOOLじゃなかった!?

 その後も鎖の中に入ってシュッて終わったし! なんかもう達人とかそういうレベルじゃなくて主人公だった!」

 

『主人公だったは草』

『かぐやちゃんの実況好き』

 

 勝利。

 勝利。

 また勝利。

 試合を重ねるたびにコメント欄は盛り上がり、かぐやは誰より大きな歓声を上げる。

 そして彩葉はというと、そんな騒ぎを背中で聞き流しながら、次のマッチングボタンへ淡々と手を伸ばしていた。

 だが、狐面の奥でほんの少しだけ口元が緩んでいたことには、誰も気付いていなかった。

 

 

 勝利。

 また勝利。

 彩葉は竹林を駆け、千本鳥居を抜け、上位プレイヤーたちを次々と退けながら、さらに高いレート帯へ踏み込んでいった。

 その頃になると、コメント欄の空気も少しずつ変わり始めていた。

 もう単純に勝った負けたで騒ぐ段階ではない。

 次は誰と当たるのか。

 その一点へ視線が集まり始めていた。

 

 上位帯。

 つまり、ランキング上位常連たちの名前が現れても不思議ではない領域だ。

 彩葉もそれは理解していた。

 だから次のマッチング音が鳴った時、無意識のうちに狐面の奥で視線を細める。

 ぴこん、と軽い電子音が響き、半透明の対戦カードがゆっくり展開される。

 そして表示された名前を見た瞬間。

 流れ続けていたコメント欄の速度が、目に見えて落ちた。

 誰もが一度その文字列を読み返す。

 本当に見間違いではないのか確認するように。

 

『……え?』

『おお! まじかまじか!?』

『ヨミ?』

『本物じゃん』

 

 ざわり、と空気が揺れる。

 それは祭りのような騒ぎではなく、思いがけず伝説の名前を目の前へ突き付けられた時の静かな動揺だった。

 

『マジで来たのか』

『このレート帯まで上がると当たるんだな……』

『大会以来じゃね?』

『ここで再戦は熱すぎる』

『ちょっと待って、今から風呂入ろうとしてたんだけどパンツもう脱いでるんだけど』

『いやいやいや、このタイミングでマッチングするの出来すぎだろ』

『今日一番の試合始まるぞ』

 

 コメント欄は騒いでいる。

 けれど、その騒ぎ方は今までとは違っていた。

 誰もが椅子へ座り直し、画面との距離を少しだけ縮めたくなるような、そんな期待と緊張が混ざったざわめきだった。

 

 表示されている名前は、たった二文字。

 『ヨミ』。

 それだけだった。

 けれど、その名前の重みを知らない者はこの場にはほとんどいない。

 

 伝説の八秒。

 ライバー『ヨミ』。

 かぐやの身体がぴたりと止まる。

 ついさっきまで飛び跳ねていた少女は、まるで時間が止まったみたいに画面を見つめていた。

 

「……え、ヨミだ!」

 

 金色の瞳が大きく見開かれ、その名前を何度も読み返している。

 ごくり、と喉が鳴る。

 KASSENを始めたばかりの頃、右も左も分からないまま飛び込んだSENGOKUで最初に出会った相手。

 本来なら一瞬で倒されてもおかしくなかったはずなのに、あの時のヨミは初心者だったかぐやへ付き合うように戦い、ゲームの楽しさを教えてくれた。

 だからこそ、その名前には少しだけ特別な響きがあった

 

 一方で彩葉は静かに自然体に佇む。

 対人大会以来。

 あの日以来、本気で刃を交える機会はなかった。

 そして誰よりも理解している。

 あの勝利は圧勝などではない。

 読みが噛み合い、判断が通り、一瞬だけ運命の針がこちらへ傾いた結果だった。

 切れかけた糸の上を渡る綱渡り。

 一歩踏み外せば終わっていた。

 

 だから驕りはない。

 むしろ、あの日よりヨミは強くなっているだろうという確信があった。

 そして同じように、自分もまた積み重ねてきた。

 彩葉は小さく息を吐く。

 胸の奥で緊張が静かな熱へ変わっていく。

 

 怖さはある。

 けれど、それ以上に確かめたい。

 今の自分がどこまで届くのか。

 その答えが、もう目の前にある。

 

 夜空では発光魚たちが青白い軌跡を描き、ミラーボールの光が石畳へ降り注いでいる。

 その幻想的な景色の中で、かぐやだけが落ち着きなく耳を揺らしていた。

 

「彩葉! 頑張って! かぐや今すっごく緊張してきたんだけど! 前に勝ったんだよね!? でも相手ヨミだよ!? うわぁぁどうしよう!」

 

 コメント欄が笑いと興奮に包まれる。

 そして試合開始までのカウントダウンが始まる。

 ついに。

 大会以来となる、イロとヨミの再戦が始まろうとしていた。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 ここならぬいづこの物語なり。

 

 人の世には涙を隠して笑ふ者もありけり。

 

 辛くとも笑ひ、傷つけられても笑ひ、負けるものかと笑ひ続ける者もありけり。

 

 これはそんな一人の花魁の物語。

 

 時は江戸、都の花街――吉原にて。

 

 

 夜だった。

 春先の柔らかな風が吹き抜け、格子窓の向こうでは三味線の音が静かに流れている。

 赤い提灯が軒を連ね、その灯りが石畳へ滲むように広がっていた。

 吉原。

 華やかさと苦しさが同じ器へ注ぎ込まれたような場所だった。

 その一角。

 見世の裏庭に面した縁側で、かぐやは小さく丸まっていた。

 もっとも、今の姿は人ではない。

 海の底をのんびり這い回っていそうな白いウミウシである。

 本人としては慣れたものだが、初見の人間なら十中八九二度見するだろう。

 

 そんなウミウシの隣へ、一人の女が腰を下ろした。

 かぐやの友人の遊女──薄紅(うすべに)。

 薄紅が煙管を口元へ運び、吐き出された紫煙が夜風へ溶ける。

 遊女とウミウシ。

 奇妙な組み合わせの二人が格子越しの窓から覗く月を見上げていた。

 

 夜桜の花弁が散る最中、薄紅の口端は機嫌よさげに上に弧を引いている。

 

「ねぇ、どうして薄紅(うすべに)はいつもそんなに笑ってられるの?」

 

 その横顔を見上げながら、かぐやはぽつりと尋ねた。

 吉原の夜は美しい。

 格子窓から零れる灯火は黄金色に揺れ、遠くから聞こえる三味線の音は春の夜風へ溶けていく。

 初めて訪れた者は誰もが見惚れる。

 夢の国のようだと、極楽のようだと。

 だが、それは外から見た景色だった。

 この街で生きる女達にとって、花街とは戦場である。

 朝から晩まで続く芸事の稽古。

 舞、三味線、琴、茶、香、礼儀作法。

 少しでも出来が悪ければ叱責される。

 少しでも失敗すれば陰口を叩かれる。

 誰かが上がれば誰かが落ちる。

 花街とはそういう生き馬の目を抜く場所だった。

 

 美しい着物の下には競争があり。

 艶やかな化粧の下には疲労があり。

 優雅な笑顔の裏には涙がある。

 それを知っているからこそ。

 かぐやには不思議だった。

 縁側へ腰掛ける薄紅の横顔が。

 どうしてそんなにも明るく見えるのか。

 

 薄紅の手が止まる。

 少しだけ驚いたような顔。

 それから。

 ふっ、と笑った。

 

「どうしてだと思う?」

「分かんないから聞いているの。此処って楽しいことより大変なことの方が多いじゃん」

「だろうね。楼主(ろうしゅ)のおっさんは阿漕に上前撥ねていくわ、番新の鬼婆共の稽古はきついわ、たまに居る変態客のケツは蹴り飛ばしてやらにゃならんわ。まあ大変だわね」

 

 くつくつと喉で笑う。

 その笑い方は軽やかで、まるで辛いことなど何もないみたいに。

 しかし、違うのだとかぐやは思った。

 辛いもの全てをひっくるめて受け入れても薄紅は何時もみたいに笑っているのだと。

 

「でもね」

 

 その瞬間。

 薄紅の表情(かお)と思い人の表情(かお)が重なった。

 

「ムカつくからさ、辛くても笑うんだよ」

 

 ──受け入れて覚悟するしか、ない

 

 薄紅は笑い、彩葉は真剣な表情で全然違う。

 しかし、かぐやの中で二人は確かに重なっていた。

 郷愁に、憧憬に、かぐやの胸が少しだけ傷んだ。

 

「……」

 

 胸中に沸いた思いが瞳から溢れそうになった。

 その時──

 不意にウミウシの白く真ん丸な身体が浮いた。

 

「わっ」

 

 背後から抱き上げられる。

 乱暴ではなく、落とさないように、傷つけないように。

 まるで壊れ物を扱うような手つきだった。

 

 ふわり、と浮いた身体を支える腕は細い。

 けれど不思議と頼もしく、長い時間をかけて何度も覚えた感触だった。

 かぐやは両の掌の上で振り返る。

 

 そして。

 止まった。

 夜風が吹く。

 桜が舞う。

 三味線の音が遠くで鳴る。

 それなのに、その瞬間だけ周囲の音が少し遠くなった気がした。

 

「──あ」

 

 目の前にいたのは少女だった。

 年の頃は十にも満たないだろう。

 禿(かむろ)らしく髪は綺麗に結い上げられ、小柄な身体には華やかな紅色の小袖を纏っている。

 まだ幼さの残る顔立ち。

 けれど、その瞳だけ幼さに似つかわしくない深い年輪のような静けさがあった。

 

「や、淀殿の十回忌ぶりくらいかな。今生も会えたね、かぐや」

 

 いつからだろうか。

 おそらく平安の時代にかぐやが看破してからだろう。

 この数千年来の旅路の同伴者は、初めてなのに初めてではない初見の逢瀬で自ら素性を明かすようになっていた。

 

「うん、前世ぶりだね。また君に会えてかぐや嬉しい」

 

 かぐやの胸の奥で何かがふわりとほどけた。

 会えた。

 また会えた。

 大坂城の炎の中でも、戦国の終わりでも、その遥か前の時代でも、別れては再会し、再会してはまた別れることを繰り返してきた旅路だったが、それでもこうして顔を見れば安心してしまう。

 目の前の少女は、前世と比べれば姿も名前も違う。

 けれど、瞳だけは変わらない。

 かぐやは嬉しそうに身体を揺らした。

 

「今回は何時もより期間が開いてて遅かったから、かぐやから探そうかなって思ってたんだよ?」

 

 少女は小さく笑う。

 何千年も変わらない表情筋の動かし方で、かぐやはその表情(かお)で安心感に満たされる。

 

「探さなくても見つけるよ。昔からそうしてきたし、これからもそうするつもりだから」

 

 その何気ない言葉に、かぐやはますます嬉しそうに身体をよじる。

 

「んふふ~ありがとね! 今はねっ、薄紅と一緒に二人三脚で太夫を目指そうって目標を立ててるの!」

「それはなんとも高い目標設定だね」

 

 禿の少女とウミウシ。

 旧知の仲のように話し始めた二人に、薄紅は胡乱な目を向ける。

 

「なんだいなんだい、あんたら知り合いだったのかい?」

「はい、前世からの仲。といった間柄です、薄紅姐さん」

「前世どころじゃないよ! 前々前世でも足りないし前々々前世でもまだまだ足りない間柄だよ!」

 

 二人の返しに、薄紅は全くわからんと困惑顔である。

 元々神仏の信仰心が薄い薄紅にとって前世云々など眉唾物だ。

 

 そもそもこの少女は見世の中でも妙な立場だった。

 表向きは禿。

 けれど誰も普通の禿として扱っていない。

 遣り手婆は怒鳴らないし、先輩遊女達は妙に甘い、楼主に至っては半ば放し飼いである。

 稽古を抜け出しても怒られず、いつの間にか居なくなっても誰も騒がない。

 そのくせ、楼主が呼べば必ず顔を出す。

 まるで主人とご意見番のような距離感だった。

 

 理由は誰も知らない。

 ただ。

 何かある。

 それだけは薄紅も感じていた。

 そんな少女が今はかぐやによじ登られて困ったように笑っている。

 すると少女は思い出したように口を開いた。

 

「ああ、そうだった」

 

 視線が薄紅へ向く。

 

「薄紅姐さん、楼主さんが呼んでいます」

「私を?」

「はい。今すぐ来てほしいそうです。先日にお相手した大棚の旦那様が薄紅姐さんに執心で楼主さんに無茶を言っているらしくて」

 

 薄紅は訝しげな顔をしながらも、楼主が碌な話を持ってこないと肩を竦め、煙管を指先で弄びながら立ち上がった。

 去り際に一度だけ振り返り、禿の少女とかぐやを見比べる。

 

「帰ってきた時に縁側が吹き飛んでたりしないだろうね」

「しませんよ」

「しないよ!」

 

 なにせ得体の知れない宇宙人ウミウシと、得体の知れない禿の少女の組み合わせである。

 どのような化学変化が起こるか分からない。

 二人の返事に薄紅はますます怪訝そうな顔になったが、それ以上は何も言わず、提灯の灯りが続く廊下の向こうへ消えていく。

 足音が遠ざかる。

 

「気風の良い人でしょ、薄紅姐さん。かぐやが気に入るんだろうな、とは思ってた」

「…………」

 

 二人きりになった。

 少女は相変わらずかぐやを掌へ乗せたまま、何でもない顔をしている。

 しかし。

 かぐやの方は違った。

 じぃぃぃぃぃっと。

 穴が開きそうなほど少女を見つめている。

 

「……?」

「……」

「かぐや?」

「……」

 

 ウミウシからの返事がない。

 ただ頭の先から足の先まで穴が開くくらいに見ている。

 

 禿(かむろ)。

 その単語がかぐやの脳内で今更ながら反響していた。

 禿(かむろ)とは花街で遊女の見習いを指す。

 上位の遊女に付き従い、礼儀作法や芸事を学びながら成長していく立場。

 華やかな着物を纏い、愛らしい姿で客人の前へ出ることもある。

 そして。

 齢が十五歳前後になると、禿は振袖新造(ふりそでしんぞう)の遊女としての立場を得る。

 そして妓楼の信頼のおける客と初体験──水揚げを行うのだ。

 

「……き、君って──」

「うん?」

「今は禿(かむろ)なんだよね?」

「そうだけど」

 

 自然体の答えにかぐやの触覚が震える。

 否。

 触覚どころ白い海洋生物の身体全体が痙攣していた。

 びくんびくん、びっくん! びっくん!と。

 

「かぐや?」

「待って待って待って待ってっ!」

 

 思考が追いつかない。

 脳内で情報が暴走している。

 何千年もの知識が嫌な方向へ繋がっていく。

 少女は不思議そうに見下ろしている。

 

 そんな少女があと数年でむくつけき男と褥を共にする。

 何千年もの旅路を同伴した半身とも言える存在がだ。

 そして。

 叫んだ。

 

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!」

 

 夜の島原へ響く絶叫だった。

 近くの木から鳥が飛び立つ。

 三味線の音が一瞬止まった気さえした。

 

「やだあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!」

「うわ」

 

 主人公が素で引いた。

 しかし止まらない。

 かぐやは掌の上を転げ回りながら大騒ぎしていた。

 

「だめだよ! だめだって! 君、男女がくんずほぐれつな場所にいるじゃん! 絶対だめ! 絶対だめだからね!?

 男の人とそういう事になるのかぐや認めないからね!? だからと言って女の人ともだめなんだからね!?」

「いやそんな初心なねんねじゃあるまいし、何千歳児ですか、かぐやさん」

「やだ! やだ! やだーい!」

 

 じたばた。

 ごろごろ。

 大暴れである。

 数千年生きてきたくせに、精神年齢だけ突然十歳くらいになっていた。

 

「君はかぐやのなんだから!」

「それは暴論だと思いますけど、独占欲深怪獣かぐや」

「違わない!」

 

 即答だった。

 あまりにも即答であり、同時に独占欲の発露でもあった。

 ウミウシが触覚を振り回し、顔からあらゆる体液を漏らしながら続ける。

 

「何千年も一緒だったんだよ!? 戦国も平安もその前も! かぐやが探して、君が見つけて、また探してをずっと繰り返してきたんだよ!?

 なのに今さらかぐや以外の人とハッピーエンド(隠語)するなんて絶対やだ! やだーい!」

 

 その叫びを聞きながら、少女はしばらく黙っていた。

 

 掌の上で転げ回る白いウミウシは、見る者が見れば滑稽以外の何物でもなかっただろう。

 触角を振り回し、泣いているのか怒っているのか分からない声を上げ、見世の奥まで響きそうな勢いで「やだ」を繰り返している。

 けれど少女の胸に最初に浮かんだのは、呆れではなかった。

 

 嬉しかったのだ。

 八千年という時間は、人の心を少しずつ摩耗させる。

 最初は泣いていた別れに慣れ、怒っていた理不尽に疲れ、やがて感情の起伏そのものが浅くなっていく。

 かぐやも例外ではなかった。長く生きるほど、笑い方も泣き方もどこか上手になりすぎて、心の奥で本当に揺れているものを見せなくなっていった。

 

 だからこそ。

 こうして本気で怒り、本気で駄々をこね、本気で自分を失いたくないと喚いている姿が、たまらなく眩しかった。

 もちろん、内容はひどい。

 だいぶひどい。

 本当にひどい。

 それでも少女は、掌の上で暴れるかぐやを落とさないようそっと支えながら、小さく息を吐いた。

 

「かぐや、落ち着いて。君がそこまで大騒ぎしてくれるのは、まあ、嬉しくないと言えば嘘になるけどね。

 でもその想像はだいぶ飛躍しているし、少なくとも今生の私は君が思っているような立場ではないよ」

 

 静かな声だった。

 春の夜風に紛れてしまいそうなほど穏やかで、それでいて不思議と耳に残る声だった。

 かぐやはまだ震えていたが、その言葉だけは聞き逃さなかったらしい。じたばたしていた身体の動きが少し鈍くなり、潤んだ目が少女を見上げる。

 

「……ほんと? ほんとにほんと? かぐや、ちゃんと知ってるんだよ。この場所のことも、禿って立場のことも、ここで女の子たちがどういうふうに育てられていくのかも。

 勿論此処の女の人たちが誇りをもってこの仕事をしてるのは知ってる……でも君はかぐやのだもん」

 

 言葉の後半は震えていた。

 滑稽な怒りの奥に、たしかに怯えがあった。

 少女はそれを見て、掌の中の小さな身体を親指の腹でそっと撫でる。

 ウミウシの身体は柔らかく、触れればすぐに潰れてしまいそうだったが、それでも中身は気の遠くなるほど長い時間を歩いてきた姫なのだと思うと、何とも言えない可笑しさと愛しさが込み上げてくる。

 

「大丈夫。私は表向きこそ禿だけど、実際には楼主さんと少し別の約束をしている。ここでは言いにくいけれど、病に効く薬を作って渡しているんだ。

 だから楼主さんは私を売り物として扱わないし、見世の中でも結構自由にさせてもらっているから」

 

 かぐやの触角がぴたりと止まった。

 

「薬……?」

「うん。梅毒や熱病、傷の膿みに効くものを少しずつね。作り方は面倒だし、表に出すと色々と騒がしくなるから、知っているのは楼主さんくらい」

 

 少女はそう言って肩を竦めた。

 その仕草は幼い身体にまったく似合っていない。けれど、かぐやにとってはあまりにも見慣れたものだった。

 人を助けるくせに、人から礼を言われると逃げる。

 誰かのために動くくせに、それを功績として扱われるのを嫌う。

 何千年経っても変わらない、偏屈で面倒で、どうしようもなく優しいこの人の癖だった。

 

「じゃあ……お客、取らない?」

「取らない」

「誰かに売られたりしない?」

「されない」

「綺麗なお姉さんに甘やかされて、ふらふらっと誰かのものになったりしない?」

「それは君の想像がだいぶ混ざっているね」

「でも!」

「でも、ないよ」

 

 少女は少しだけ笑った。

 

「今も昔も君が一番だよ、かぐや姫さま。だから安心してほしいかな。少なくとも、君が今想像しているようなことにはならないよ」

 

 その最後の一言で、かぐやの身体から力が抜けた。

 ぐにゃり、と掌の上に溶けるように伏せる。先ほどまで嵐のように暴れていたのが嘘みたいだった。

 夜風が吹き、桜の花弁が一枚、かぐやの背に落ちる。かぐやはそれを払いもしないまま、しばらく黙っていた。

 やがて、小さな声で言う。

 

「……よかった」

 

 その声は、怒りでも嫉妬でもなく、ただ安堵だった。

 少女はもう一度かぐやを撫でる。

 掌の中の小さな身体はまだ少し震えていたが、その震えは先ほどの錯乱とは違っていた。

 遅れて来た安心の震えだった。

 

「でもね」

 

 かぐやはむくりと身体を起こした。

 その目にはまだ、完全には消えない独占欲の火が残っている。

 

「それはそれとして、しばらくは見張るから。君は放っておくとすぐ自分を雑に扱うし、困ってる人がいたらすぐ助けるし、感謝されたくないとか言いながら結局みんなの中心にいるし。

 だから、かぐやがちゃんと見てるの。君はかぐやの大事な人なんだから」

 

 最後の言葉は、さっきよりずっと静かだった。

 叫びではない。

 駄々でもない。

 けれど、そこには先ほどよりも強い本音があった。

 少女はしばらくその言葉を受け止めてから、困ったように笑う。

 

「はいはい。じゃあ見張り役、よろしおねがいします」

「軽いよ!」

「重く返すと君がまた大騒ぎするから」

「するけど」

「するんだ」

 

 夜の縁側に、ようやく少しだけ笑いが戻る。

 遠くで止まっていた三味線の音が、思い出したようにまた流れ始めた。




・冒頭のかぐや&いろPのやりとり
 ウェルカムアナウンス第二弾。

・がんばれ♡がんばれ♡
 伊藤ライフ先生の功罪、なお著作権フリーな模様。

・江戸時代のかぐや
 キラキラのかぐや姫は、もうユニコーン(処女厨)です。
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