──うーん、まいった……酒寄さん強くない?
試合開始からまだ三十秒も経っていない。
それなのに対戦相手の酒寄さんに冷や汗をかかされっぱなしなのである。
SETSUNAの戦場は夜だった。
月光に照らされた石畳が白く輝き、その上を薄い霧が流れている。
遠くには灯籠が並び、静かな水路へ淡い光を落としていた。幻想的な景色だと思う。実際綺麗だとも思う。
ただ、今の私には景色を楽しむ余裕が全く無かった。
甲高い金属音が夜の戦場へ響き渡る。
私の大剣と、酒寄さんの双剣。
互いの刃が噛み合った瞬間に火花が散り、両者のアバターを照らす。
SETSUNAの決闘舞台。
二つの人影が目にも止まらない速度で駆け抜ける。
剣戟の最中、私は一歩引く。
引いたはずだった。
なのに次の瞬間には、もう目の前へ狐面があった。
白銀の軌跡が視界を横断する。
それは酒寄さんの鍵盤付きブレードの双刃だ。
迫る刃を手に持つ大剣にて、受ける、弾く、流す。
その度に甲高い衝突音が連続し、火花がステージの中へ散っていく。
以前までならあった筈のプレイングの隙が無く、酒寄さんの戦い方には、以前よりもずっと自然な流れがあった。
力みがない。
こちらの動きを見てから反応しているようでいて、気付けば次の行動まで見越した位置へ立っている。
梟の嘴を模した大剣を振るう。
酒寄さんが半歩だけ後ろへ滑る。
回避行動ですらない本当に僅かな距離。
けれど、その僅かな距離だけで私の攻撃判定は空を切り、代わりに白銀の刃が脇腹へ走った。
赤いエフェクトが散る。
ダメージ自体は大したことがない、だが問題はそこじゃない。
──嫌な位置だ。
こちらの攻撃が終わる場所。
次の行動へ移るための硬直。
それらを全て理解した上で立っている位置だった。
灯籠の光が石畳へ長い影を落とし、その中を狐面の少女が静かに駆ける。
その姿を追いながら、私は妙な納得を覚えていた。
──やっぱりこの人、成長速度がおかしい。
世の中には成長曲線というものがある。
物事を修めようとした際、最初は分からないから触って覚える、失敗して覚える。
出来なかったことが少しずつ出来るようになり、やがて伸び幅が鈍くなって停滞期へ入る。
停滞期で一旦成長曲線は止まるが、その期間に試行錯誤と試行回数を重ねることで人の成長は更に一段階上昇するというものだ。
スポーツでも。
勉強でも。
ゲームでも。
大抵の人間はそうだ。
最初に伸びて。
壁へぶつかって。
そこから先は地道な積み重ねになる。
だから上位勢ほど成長が難しい。
一つ伸ばすために何十時間も掛かる。
百時間掛けても成果が見えないことだって珍しくない。
それが普通だ。
けれど酒寄さんは違う。
おそらく酒寄彩葉という人間は、成長曲線における停滞期が恐ろしく短いのだろう。
以前の酒寄さんでも十分プレイングは上位勢の域だった。
大会優勝者なのだから当然だ。
しかし、今の酒寄さんは、その時より隔絶したプレイングの巧みさがある。
──だからと言って源義経の八艘飛び並みで停滞期を無視しないでほしい、びっくりする!
酒寄家の人間、三日会わざれば刮目して見よ、とでもいうのだろうか。
いや違うな。
三日もいらない。
ちょっと目を離した隙に強くなっている。
本当になんなんだろうか、この人。
学校内では才色兼備にして文武両道の完璧超人と名高く、アルバイトにて学費と生活費を稼ぐ鉄人振り。
本人は周りの有名インフルエンサーに囲まれて凡人だと嘯いているがとんでもない。
生活時間の幾分かの比率をKASSENに増やした結果がこれなのである。
断言する。
酒寄彩葉、綾紬芦花、諌山真実の仲良し三人組での外れ値は間違いなく酒寄さんだ。
そんな失礼な感想を抱いた瞬間。
狐面の少女が一歩踏み込んだ。
双剣の片刃が月光を反射する、私は反射的に大剣を構え直した。
考え事をしている余裕など無い。
──ええぃ、酒寄家の長女は化け物か!
脳内で盛大にツッコミを入れながら、私は肺の奥に溜まっていた息をゆっくり吐き出した。
次の瞬間には余計な思考を切り捨てる。
灯籠の光も、流れる霧も、酒寄さんの異常な成長率も今はどうでもいい。
私もまた、ライバー『ヨミ』として積み上げてきた全力をぶつけるため、大剣から三又の刃を展開したトライエッジを低く構え直した。
◆
夜の戦場へ、再び金属音が響き渡る。
だが、それは先ほどまでのものとはどこか違っていた。
ヨミが構えた武器は、もはや梟の嘴を模した大剣ではない。
三又の刃を展開した二振りのトライエッジ。
片手剣の手数と、そして斧の破壊力を兼ね備えた異形の武装が月光を受けて鈍く輝いていた。
彩葉はそれを見た瞬間に理解する。
来る。
今までのヨミではない、猛禽類の如く細められた瞳に産毛が逆立つ。
本気だ。
狐面の奥で瞳が細まる。
同時に、ヨミのアバターもまた重心を沈めていた。
互いに言葉はない、だが十分だった。
次の瞬間、二人は同時に石畳を蹴る。
轟音。
先ほどまでの戦いが速さなら、今は暴力だった。
トライエッジが唸る。
振るわれた刃は空気そのものを切り裂き、通過した軌跡へ遅れて衝撃波が走る。
彩葉はそれを双剣で受けない。
半歩、いや四半歩。
本当に紙一重の位置へ身体を滑らせながら、刃の外側を駆け抜ける。
白銀の双刃が閃く。
ヨミが柄を返す。
トライエッジの中央刃が盾のように立ち上がる。
鍵盤付きブレードの双刃とトライエッジの双刃の奏でる雷鳴のような金属音。
霧が吹き飛び、月光に照らされた石畳へ無数の光が散った。
そのまま二人の距離は離れない。
いや、離れられないと言った方が正しかった。
石畳を蹴り、水路脇を駆け抜け、灯籠の影を飛び越えながらも、ヨミと彩葉は互いの吐息が届きそうなほどの超至近距離を維持し続ける。
離れれば斬られる。間合いを譲れば主導権を奪われる。
だからこそ両者は刃を交わしながら駆け、駆けながら斬り結び、まるで夜の戦場そのものを舞台にした剣舞を演じていた。
白銀の双刃が閃けばトライエッジがそれを迎え撃ち、トライエッジが唸れば双剣がその死角へ潜り込む。
互いの武器が触れ合う度に雷鳴めいた金属音が響き、衝突の瞬間に生じた火花が夜空へ散っては流星のように消えていく。
月光の下を縦横無尽に駆ける二人の軌跡は、もはや一本の線ではなかった。
幾重にも重なった斬撃の応酬が残光となり、灯籠の明かりに照らされた戦場へ無数の光の軌跡を刻んでいく。
そして二人が駆け抜けた後には、数え切れないほどの剣戟の遣り取りによって生まれた火花だけが遅れて舞い上がり、まるで夜空へ咲く花火の残滓のように石畳の上へ降り注いでいた。
その均衡を破ったのは彩葉だった。
灯籠の光が揺れる。
石畳へ淡い光の五線譜が描かれ、その上へ白銀の粒子が舞い上がる。
SETSUNAにおける双剣系統の超必殺技。
視聴者の何人かが息を呑む。
『来た』
『超必殺』
『ヨミどうする!?』
『うおおおおおお!!』
コメント欄が加速し、かぐやも思わず身を乗り出していた。
先程まで実況に夢中だった少女が、今は声すら出せず画面へ釘付けになっている。
次の瞬間。
白銀の閃光が爆ぜた。
夜の戦場そのものを切り刻むような高速連撃が放たれる。
刃が消える。
否。
速すぎて見えない。
残されたのは無数の光跡だけだった。
だが。
その初撃を迎え撃ったのはヨミだった。
トライエッジの三又の刃が正確に噛み合う。
ジャストガード── 完璧な入力だった。
ヨミの体力ゲージはガードによる削りも無く初撃を相殺する。
『は?』
『今の取った?』
『マジ?』
コメント欄がざわめく。
続く二撃目。
三撃目。
四撃目。
連続する光の斬撃が暴風雨のように襲い掛かる。
しかし、その全てへヨミの刃が吸い寄せられるように重なる。
まるで未来の軌道を知っているかのようだった。
彩葉の斬撃が夜を裂く度に火花が舞い上がり、その火花へさらに次の斬撃が重なり、戦場の中央では白銀と黄金の光が絶え間なく弾け続ける。
ジャストガード。
それも一度ではない。
二度でもない。
連続して。
何度も。
何度も。
彩葉の超必殺技が本来持つ圧倒的な制圧力を、ヨミはただ一人、正面から受け止め続けていた。
かぐやは息を呑む。
実況することすら忘れていた。
金色の瞳が大きく見開かれ、その視線は戦場の中央から一瞬たりとも離れない。
コメント欄も似たような状態だった。
先ほどまで好き勝手に流れていた文字列が目に見えて減っている。
騒ぐことより見ることを優先してしまう。
そんな空気が画面全体を支配していた。
そして十五回目。
彩葉の斬撃が放たれ、ヨミのトライエッジがそれを受け止める。
完璧なジャストガードだった。
大会で彩葉が見せた神業。
その再現。
『15!?!?!?』
『化け物しかいねぇ』
『大会の意趣返しだこれ!』
『ヨミやば』
『人間辞めてる』
だが。
そこで終わらなかった。
彩葉の双剣は止まらない、双剣の超必殺技の連撃数はゲーム内随一。
15連撃が終点ではなく双剣がさらに加速する。
今まで一定だったリズムへ、ほんの僅かな揺らぎが混ざる。
呼吸一つ、拍子一つ。
それだけの変化。
しかし極限まで研ぎ澄まされた攻防において、その僅かな変化は致命的だった。
ヨミのトライエッジが動く。
今までと同じように完璧なタイミングで。
だが、その瞬間だけ。
本当に紙一枚分だけ。
反応が遅れた。
甲高い防御音ではなく、アバターを切り裂く斬撃音が響く。
白銀の刃が防御をすり抜け、赤い花弁のダメージエフェクトが夜空へ散った。
その光景にコメント欄が息を呑む。
かぐやもまた目を見開いたまま声を失っていた。
そして、その一撃を起点として残る連撃が一気に解き放たれる。
それは暴風であり嵐だった。
十五連続ジャストガードを突破した先でなお襲い掛かる彩葉の剣舞は、まるで夜空そのものを切り刻むかのような激しさでヨミへ降り注ぎ、火花と衝撃波が石畳を覆い尽くしていく。
だが、それでもなお。
ヨミは倒れなかった。
大きく削られた体力ゲージを残したまま、月光の下で再びトライエッジを構え直す。
彩葉もまた双剣を下ろさない。
夜の戦場の中央。
薄霧の向こうで向かい合う二つの影は、まるで今からもう一度試合を始めるかのように静かだった。
◆
だが、その均衡は永遠には続かなかった。
十五連続のジャストガードによって超必殺技の大半を捌き切ったとはいえ、最後の連撃を受けた代償は決して軽くない。
ヨミの体力ゲージは大きく削られ、一方の彩葉も超必殺技へ全てを注ぎ込んだ反動を抱えていた。
もっとも、ここへ至るまでの流れだけを見れば優勢だったのはヨミの方である。
読み合いの一つ一つ、差し合いの一手一手、その全てで僅かに上回り続け、目立たない傷を積み重ねるように彩葉の体力を削ってきた。
だからこそ彩葉は超必殺技を切った。
そして、その判断は正しかった。
十五連続のジャストガードという離れ業を見せられながらも、最後の一拍を通したことで失っていた差は一気に埋まり、試合は再び振り出しへ戻される。
体力バーを見れば、ほんの僅かに彩葉が前へ出ているようにも見えた。
しかし、それは誤差と呼んでも差し支えないほどの僅差であり、次の読み合い一つで簡単にひっくり返る程度の優位でしかない。
だからこそだった。
ここから先は技術の勝負でありながら、同時に意地の勝負でもあった。
石畳の上を流れていた薄霧が二人の足元で巻き上がり、月光を浴びて白く揺れる。その向こう側で、狐面の少女と猛禽の青年が再び同時に地を蹴った。
先ほどまでの攻防が嵐ならば、今は違う。
暴風はより鋭く、暴雨はより激しくなり、二人の双刃が届く範囲は致命的な領域と化していた。
彩葉の双剣が月光を引き裂くように閃き、その軌道へ吸い寄せられるようにヨミのトライエッジが滑り込む。
甲高い金属音が鳴り響き、火花が散る。
その火花が地面へ落ち切る前に二人の姿は既にそこになく、次の瞬間には数メートル先で再び刃がぶつかり合っていた。
灯籠の明かりが流れる。
水路の水面が揺れる。
そして、その全てを置き去りにする速度で二人は戦場を駆け続ける。
コメント欄は既に静かだった。
いや、正確には書き込むことを忘れていた。
騒ぐことも、茶化すことも、実況することさえ出来ない。
ただ見ている。
それしか出来なかった。
かぐやも同じだった。
ほんの少し前までなら「すごーい!」だの「かっこいい!」だのと元気よく騒いでいたはずなのに、今は膝の上で握り拳を作りながら画面を見つめている。
まばたきすら惜しい。
そんな空気が配信全体を包み込んでいた。
そして、その均衡を先に崩したのは彩葉だった。
ヨミの右肩が僅かに動く。
それは次の攻撃への予備動作。
本来なら見えても反応できない程度の僅かな変化だったが、彩葉はそこへ踏み込んだ。
白銀の双刃が交差する。
夜空へ赤い花弁のエフェクトが舞い上がった。
歓声が上がるよりも早く、ヨミの体力ゲージが大きく削られる。
誰もが決まったと思った。
コメント欄が息を呑む。
かぐやが思わず立ち上がりかける。
だが。
その瞬間だった。
倒れるはずだったヨミのアバターが前へ出る。
後退ではない。
回避でもない。
真正面からの踏み込みだった。
残った体力も、防御も、全てを捨てるような加速。
トライエッジが唸る。
彩葉が反応する。
双剣が閃く。
どちらも最善だった。
どちらも最速だった。
だからこそ結果は単純だった。
白銀の刃がヨミを捉える。
同時に、トライエッジの三又の刃が彩葉の身体を切り裂く。
夜空へ二つの赤い光が咲いた。
それはまるで月下に咲く彼岸花のようでもあり、一瞬だけ夜を照らす花火のようでもあった。
そして、その光が消えた時には。
二人の体力ゲージは、ほとんど示し合わせたかのように同時に零へ到達していた。
戦場へ静寂が落ちる。
月光だけが石畳を照らしている。
薄霧だけが流れている。
誰も言葉を発しない。
誰も動かない。
そうして数秒遅れて表示された文字列を見て、ようやく全員の時間が動き出した。
DRAW──引き分け。
その四文字が浮かび上がった瞬間、堰を切ったようにコメント欄が爆発し、かぐやの絶叫が配信空間いっぱいに響き渡った──
◆
夏だった。
頭上をモノレールが通過する。
車輪がレールを擦る重たい金属音が高架を伝い、コンクリートの柱を震わせながら地上へ降ってくる。
私は高架下のベンチへ腰掛けたまま、ペットボトルの麦茶を一口飲んだ。
冷たさはもうほとんど残っていない。
それでも乾いた喉には十分だった。
視線の先には歩道が続いている。
その向こうには不動産会社の立て看板があり、分譲マンションの間取り図が大きく貼り出されていた。
以前見た光景。
そして、これから見る光景。
アンサートーカーが見せた未来と寸分違わぬ景色だった。
夏の日差しは容赦がない。
高架下だから多少はマシとはいえ、アスファルトから立ち上る熱気は肌へまとわりつき、遠くの景色を陽炎で揺らしている。
額に浮いた汗を拭いながら、帽子を目深に被り直し、私はゆっくりと背もたれへ体重を預けた。
待ち合わせではない。
暇潰しでもない。
少し先に起きる出来事へ居合わせるために、こうしてここへ居る。
もっとも。
居合わせる必要があるかと言われれば微妙なところだった。
結果だけなら既に知っている。
アンサートーカーが見せた未来では、酒寄さんは体調を崩し、この場所で座り込む。
それをかぐやさんが介抱する際に以前、私が渡した日傘も役に立つ。
だから未来は成立する。
問題ない。
本来なら私は何もしなくていい。
何もしなくても未来は進む──進むのだが、やはりクラスメイト程度の顔見知りと言えば顔見知り。
心配だからと言うほど大袈裟ではないが無視するには小さくない気懸かりでこの場に私は居た。
私はもう一度麦茶を飲んだ。
中途半端な私の心情を現したかのように喉を通る麦茶はぬるかった。
視線は自然と空へ向く。
青空の下をモノレールが走っていく。
その車体を見送りながら、脳裏には数日前の戦いが浮かんでいた。
SETSUNA。
ライバー『ヨミ』とライバー『イロ』。
結果は引き分け。
体力バーは本当に僅差だった。
最後の最後まで勝敗が分からない試合だったと思う。
そして。
純粋に楽しかった。
思い返せば思い返すほど、酒寄さんの成長速度がおかしい。
大会優勝者なのだから元々強い、それは知っていた。
しかし、あそこまで短期間で変わるとは思わなかった。
読み合い。
差し合い。
間合い管理。
反応速度。
どれも以前より洗練されていた。
特に嫌だったのは立ち位置だ。
こちらが攻撃を終える場所。
こちらが動きたくなる場所。
そこへ自然に立っている。
まるで何手も先を読んでいるような動きだった。
成長曲線というものが本当に存在するなら、酒寄さんはそのグラフの描き方を何か間違えている気がする。
普通の人間が階段を一段ずつ上るなら。
あの人は二段飛ばしどころではない。
かの有名な源義経の八艘飛びである。
いや本当に。
何なんだろうかあの人。
学校でも完璧超人。
配信者としても成功していて。
その上ゲームまで強くなる。
少しは世の平均値というものを考えてほしい。
そんな失礼な感想を思い返していると、自然と笑いが漏れた。
同時に。
視線が歩道の向こう側を捉える。
二人組の少女が歩いてくる。
金髪。
そして黒髪。
制服姿。
見間違えるはずもない。
酒寄さんとかぐやさんだった。
私は無意識に背筋を伸ばした。
来た──アンサートーカーが描いた未来が動き出す。
◆
歩道の向こう側からやって来た二人の少女は、夏の日差しの中でもよく目立っていた。
金色の髪を揺らしながら歩くかぐやさんと、その隣を並んで歩く酒寄さん。
制服姿の一人と私服姿の一人は何か楽しそうに話しながら歩いている。
ここ何日か前に二人はライブハウスを貸し切って初のソロライブを敢行し、更にファン数を伸ばしヤチヨカップの注目株筆頭である。
声までは聞こえない。
けれど、かぐやさんが身振り手振りを交えながら話し、酒寄さんが少し困ったように微笑んでいる様子は遠目にも分かった。
私はベンチへ腰掛けたまま二人を眺める。
未来を知っている人間の視線というのは、きっとこういうものなのだろう。
目の前で起きている平穏な光景の先に、これから起きる出来事を知っている。
だからと言って焦る訳でもない。
ただ、どこか落ち着かない。
喉の奥へ小さな魚の骨でも引っ掛かったような違和感だけが残る。
二人はやがてマンション広告の前で立ち止まった。
かぐやさんが看板へ身を乗り出し、何かを指差している。
おそらく間取り図だろう。
以前アンサートーカーが見せた映像でも、確か同じ場所で立ち止まっていた。
記憶と現実が重なる。
見覚えのある場面を実際に目の当たりにする感覚は妙なものだった。
映画の再放送を見ているようでいて、しかし登場人物達は紛れもなく現実に存在している。
普通ならここで声は聞こえない。
距離がある上、高架上を走るモノレールの騒音もある。
けれど私にはアンサートーカーがあった。
唇の動き、表情、視線、仕草。
それらを補完し合い、まるで目の前で会話を聞いているかのように意味へ変換していく。
『ねえねえ、こことかどう?』
かぐやさんが看板へ身を乗り出しながら人差し指を伸ばす。
指し示しているのは、不動産屋がこれでもかと主張する目玉物件だった。
極上空間を味わうデザイナーズタワーマンション。
3LDK。
驚くことなかれ、なんと家賃三十五万円也。
一般的な金銭感覚を持ち合わせている私は眩暈がした。
案の定、酒寄さんも同じ反応だった。
『え、不動産屋?』
その表情には軽く引いている色が混じっている。
だが、かぐやさんはお構いなしだった。
『いいじゃーん。かぐやが出すからさー。見て見て、マンションなのに二階あるんだよ? 二階がかぐやの配信部屋兼寝室ね、一階は彩葉が自由にしていいから』
かぐやさんは看板の前で両手を広げながら力説する。
その熱量は真夏の日差しにも負けていなかった。
『ねえ、いいでしょー。吹き抜けで、システムキッチンで、パントリーにバルコニーだよ! しかも最上階!』
かぐやさんの勢いに対して、酒寄さんは大きく息を吐いた。
それは呆れた時のため息というより、身体の奥から勝手に漏れ出たような重たい呼気だった。
レンズが曇ったみたいに、視線の動きへ微かな鈍さが混じっていた。
『もう酔いそう。保証人もいないし、こんな小娘どもに貸してくれるわけ――』
酒寄さんは言いながら看板から視線を外すと、かぐやさんの顔を見ることもなく、そのまま歩き出そうとする。
そして次の一歩が踏み出せずにへたり込んでしまった。
私は小さく息を呑む。
未来で見た光景。
知っていたはずの場面。
それなのに実際に目の前で起きると胸の奥が嫌な感じでざわついた。
酒寄さんは片膝をつくようにしゃがみ込み、そのまま俯く。
黒髪が肩から滑り落ちる。
額には汗が滲み、肩は僅かに上下していた。
一方で、かぐやさんはまだ状況を理解していないらしい。
不思議そうに首を傾げながら酒寄さんの傍へ近付く。
『ほぇ? なんかみつけたのー?』
しゃがみ込んだ理由を、道端で何かを見つけた程度に考えているらしい。
酒寄さんは俯いたまま肩で呼吸を繰り返している。
そこでようやく、かぐやさんも異変に気付いた。
『あれ? 彩葉……?』
金色の髪を揺らしながら隣へしゃがみ込む。
そして酒寄さんの身体へ手を伸ばした。
『大丈夫? 彩葉、身体アツアツだよ?』
何が起きているのか分からない。
けれど、大切な人に良くないことが起きているのだけは分かる。
酒寄さんの肩へ触れたまま、かぐやさんの瞳が不安げに揺れた。
それは悪戯好きの少女の顔ではなく、今にも大事な宝物を失ってしまいそうな幼子の顔だった。
酒寄さんの肩へ触れたまま、かぐやさんは何かを言い掛ける。
けれど言葉は最後まで形にならず、唇だけが所在なさげに動いた。
呼び掛けても返事は弱く、伏せられた睫毛の向こうから覗く表情にも普段の色はない。
その光景は、以前アンサートーカーが見せた未来と寸分違わず重なっていた。
体温の異常も、顔色の悪さも、見れば誰にでも分かる。
問題は、その異常を前にして何をすればいいのかが分からないことだった。
かぐやさんの視線は酒寄さんと周囲を落ち着きなく行き来きする。
その仕草はまるで、手の中から零れ落ちそうな宝物を前にして、どう守ればいいのか分からず立ち尽くしている子供のようだった。
助けて──どうしたらいいの。
そんな叫びにも似た戸惑いが、言葉にならないまま瞳と共に揺れていた。
瞬間
未来を知っているとか。
知っていないとか
そんな理屈はもう関係なかった。
目の前で誰かが助けを求めている。
身体が勝手に動く理由なんて──ただそれだけで十分だった。
◆
かぐやの頭の中は真っ白だった。
目の前では酒寄彩葉が苦しそうに俯いている。
つい数分前までなら、呆れたような顔でため息を吐きながらマンションの話へ付き合ってくれていたのに。
今は肩を落としたまま呼吸を繰り返し、その横顔からはいつもの落ち着きも余裕も消えていた。
何が起きているのか分からない。
かぐやは彩葉の肩へ手を添えたまま、小さく唇を震わせる。
「彩葉……?」
呼び掛ける声は、自分でも驚くほど弱かった。
返ってきたのは曖昧な反応だけだった。
触れた掌から伝わる体温は異様に熱く、けれどそれは夏の日差しに晒されたからという単純な熱ではないように思えた。
じりじりと肌を焼く陽射しとは別の、身体の奥で何かが悲鳴を上げているような、そんな嫌な熱だった。
どうしたらいいのだろう。
病院。
救急車。
水。
頭の中へ言葉だけは浮かぶのに、それらは形になる前にほどけて消えてしまう。
焦りばかりが膨らみ、胸の奥がぎゅうと掴まれるように苦しくなる。
かぐやは人の体調不良に詳しくない。
だからこそ余計に分からなかった。
目の前で大切な人が苦しそうにしている。
その事実だけが鮮明で、それ以外の全てが霧の向こうへ隠れてしまったみたいに曖昧だった。
助けたい。
苦しそうな顔をやめてほしい。
元気になってほしい。
ただそれだけなのに、そのために何をすればいいのかが分からない。
大事な宝物が手の中から零れ落ちそうになっているのに、どう支えればいいのか分からず、かぐやはただ酒寄彩葉の顔を見つめることしか出来なかった。
その時だった。
視界の端へ、不意に人影が入り込んだ。
かぐやは反射的に顔を上げる。
いつ近付いてきたのか分からなかった。
気付けばそこにいた、としか言いようがない。
夏用の薄手のシャツに身を包んだ男子生徒が、酒寄彩葉の前へ静かに膝を折っている。
目深に被った帽子の影に目元は隠れていたが、その仕草には不思議な落ち着きがあった。
慌てている様子はない。
騒ぐ様子もない。
まるで、荒れた水面へ静かに錨を下ろすような穏やかさがそこにはあった。
「大丈夫?」
低く落ち着いた声だった。
その一言だけで、張り詰めていた空気がほんの少し緩んだ気がした。
かぐやは思わず肩を震わせる。
助かった。
そう思ったのかもしれない。
けれど同時に警戒も浮かぶ。
知らない男の子だった。
学校の制服を着ているから学生なのだろうとは分かる。けれど、どうして急に現れたのか分からない。
そんな戸惑いを察したのか、男子生徒は酒寄彩葉の様子を確認しながら短く言った。
「驚かせたならごめん。君、この前校門のところで酒寄さんを待っていた子だよね」
かぐやはぱちぱちと瞬きを繰り返す。
覚えている。
以前、日傘を貸してくれた男の子だ。
「日傘のひとだっ」
「覚えてたんだ」
少しだけ笑った気配がした。
その一言で、かぐやの警戒がほんの少しだけ緩む。
男子生徒は酒寄彩葉へ視線を戻した。
「酒寄さんの知り合い?」
「う、うん」
「じゃあ手伝って」
男子生徒は酒寄彩葉の顔色を確認し、額へ浮いた汗や呼吸の様子へ視線を走らせると、迷いなく口を開く。
「まず日陰を作ろう」
その声音は教師のようでも医者のようでもない。
けれど、人を安心させる不思議な響きがあった。
「君の日傘、まだ持ってる?」
「う、うん!」
「ありがとう。じゃあそれを使って酒寄さんへ陰を掛けてあげて。顔と上半身が隠れるくらいでいい」
かぐやは慌てて日傘を開く。
手が少し震えていた。
それでも言われた通り彩葉の上へ影を落とす。
真夏の太陽は容赦なく照り付けていたが、日傘が作る小さな日陰だけは別世界みたいに穏やかだった。
「そうそう、そのままで」
男子生徒は頷いた。
褒められた訳ではない。
けれど、その一言だけで少しだけ肩の力が抜ける。
「今、一番酒寄さんの近くにいるのは君だから」
帽子の奥から覗く口元が僅かに和らいだ。
「だから君の役目は酒寄さんを守ること。難しいことはこっちで考えるから、君はそのまま傍にいてあげて」
まるで幼い子へ言い聞かせるような優しい言葉だった。
けれど同時に、それは子供扱いでもなかった。
君が必要なんだ──君だから出来ることがあるんだ。
そう言われた気がした。
胸の中で暴れていた不安が少しだけ形を変える。
何をしたらいいのか分からなかった。
けれど今は違う、やるべきことがある。
酒寄彩葉の傍にいる。
その役目を与えられただけで、かぐやの世界は少しだけ落ち着きを取り戻していた。
◆
気が付けば、三人はアパートへ戻っていた。
モノレールの高架下からタクシーを拾い、朦朧とする彩葉を支えながら帰ってきた道のりは、かぐやにとってほとんど記憶が曖昧だった。
ただ一つだけ覚えている。
帽子を深く被った男子生徒が終始落ち着いていたことだ。
最初、彼は病院も視野に入れていた。
かぐやにも分かるくらい彩葉の様子は悪かったし、実際に男子生徒も意識や脈を確認しながら状況を見極めていた。
けれどタクシーを待つ間、彩葉は苦しそうに呼吸を繰り返しながら、それでもその一点だけは繰り返していた。
『……びょういん、は……』
掠れた声だった。
意識があるのかどうかも怪しいほど弱々しい声だったのに、その言葉だけは強く耳へ残る。
『だめ……』
熱に浮かされたうわ言のようでいて、そこには確かな拒絶があった。
『お願い……』
何を理由にしているのかは分からない。
病院が苦手なのかもしれないし、お金のことかもしれない。
ただ、男子生徒はその言葉を無視しなかった。
呼吸。
脈拍。
意識の状態。
水分摂取の可否。
短い時間で必要な確認を終えた彼は、少し考えるように視線を伏せたあと、静かに結論を出した。
「……分かった。とりあえず家へ帰ろう。安静にしなくちゃ治るものも治らないからね」
その声に迷いはなかった。
そして今、三人は彩葉とかぐやが暮らすアパートの一室へ辿り着いている。
階段を上り、玄関を開けた瞬間、昼の熱を抱え込んだ室内の空気がむっと身体へまとわりついた。
決して広い部屋ではない。
けれど生活の跡だけは驚くほど濃かった。
机の上にはノートパソコンや配信用の機材が並び、本棚には参考書や専門書が詰め込まれている。
その一方で、床や壁際には巨大な恐竜のぬいぐるみや熊のクッション、見たこともないマスコット人形が所狭しと置かれ、
まるで真面目な学生の部屋へ宇宙人が好き勝手に侵略したような有様になっていた。
おそらく前者が彩葉で、後者がかぐやなのだろう。
生活感と混沌が奇妙な具合に同居している。
男子生徒はそんな部屋の様子に一瞬だけ目を留めたものの、すぐに視線を切り替えた。
まずはエアコン。
次に換気。
それから布団。
迷いなく優先順位を組み立てながら動いていく。
「寝かせるよ」
短く断りを入れると、彼は彩葉をゆっくり横たえた。
額に張り付いた黒髪を避けるように指先で整え、呼吸の様子を確認し、水分を少しずつ飲ませていく。
その手付きは一介の学生にしてはやけに手馴れていて迷いがなかった。
医者ではない、看護師でもない、一介の学生。
けれど、何を優先するべきか迷いなく行動に移す。
それが今のかぐやにはひどく頼もしく見えた。
部屋の中にはエアコンの低い駆動音が流れ、羽根の向きを変えた風がゆっくりと室内を循環していた。
窓際の薄いカーテンが微かに揺れ、夕方へ向かい始めた陽射しが柔らかく床へ伸びている。
冷房の風が部屋へ回り始める頃には、彩葉の呼吸も幾分落ち着いていた。
表情からも険しさが薄れている。
男子生徒はそこでようやく小さく息を吐き、かぐやへ向き直る。
「今すぐ命に関わる状態じゃないと思う。でも今日は絶対に安静。熱が上がるようなら病院も考えよう」
かぐやは何度も頷く。
言葉を聞き逃すまいとする子供みたいに真剣だった。
「食事は消化のいいもの。水分もこまめに。無理に食べさせなくていいけど、食べられるならおじやとかスープ系がいいかな」
そこで男子生徒は少し首を傾げる。
「料理は出来る?」
その問いに、かぐやは胸を張った。
今までの不安が嘘みたいに。
任せてと言わんばかりに。
「できるよ!」
即答だった。
「超できる!」
さらに一歩踏み込む。
「彩葉の胃袋なら何度でも掴んでるから任しといて!」
男子生徒が少しだけ目を丸くした。
帽子の影で表情は見えないが、口元だけが僅かに緩んだ気がした。
「それなら安心だ」
その一言だけで、かぐやの背筋がぴんと伸びる。
自分にも出来ることがある。
いや、自分だから出来ることがある。
そう思えた。
男子生徒は部屋をもう一度見回す。
散らかっているようで、きちんと生活の匂いがある部屋だった。
本棚には参考書や専門書が並び、机の上にはノートパソコンと配信用の機材が置かれている。
壁際には段ボールと収納箱。
床にはぬいぐるみ。
そして布団の上には酒寄彩葉。
誰かが必死に生きている部屋だった。
だからこそ。
ここまで送り届ければ、後は大丈夫だろうと思えた。
かぐやがいる。
この部屋には、彩葉を心配してくれる人がちゃんといる。
男子生徒はそう判断したようだった。
「じゃあ私は帰るよ」
その言葉に、かぐやは反射的に顔を上げた。
今になってようやく思う。
もし彼がいなかったら。
高架下で彩葉が座り込んだ時、自分は何をしていただろう。
きっと泣きそうな顔で右往左往するだけだった。
そんな自分をここまで連れてきてくれたのが目の前の男子生徒だった。
だから。
言わなければならないと思った。
「日傘のひと! ありがとうね!」
心から。
精一杯。
かぐやはそう言った。
そして布団の上からも、弱々しい声が続く。
「宵宮(よいみや)くん……ありがと」
掠れた声だった。
けれど確かに届いた。
男子生徒は少しだけ足を止める。
帽子の影に隠れた表情は見えない。
「──うん、お大事に、酒寄さん」
ただそれだけを残して、男子生徒は静かに部屋を後にした。
扉が閉まる直前、夕暮れの光が差し込み、その背中を一瞬だけ照らす。
今のかぐやには、その背中が絵本や物語に出てくるヒーローみたいに見えた。
けれど、次の瞬間にはかぐやは小さく頭を振る。
今は見送っている場合じゃない。
彩葉がいる。
布団の上で眠る大切な人がいる。
男子生徒から託された役目もある。
かぐやはぱちんと自分の両頬を軽く叩くと、「よしっ」と小さく気合を入れた。
ヒーローは帰った。
なら、ここから先は自分の番だ。
水分、安静、消化のいい食事。
やることはちゃんと教わった。
なら後は動くだけだ。
冷蔵庫を開け、冷えた麦茶が残っていることを確認し、次いで棚から体温計を探し始める。
途中で何故か配信機材の横から恐竜のぬいぐるみが転がり落ちてきて、「今はちがうよー」と小声で文句を言いながら脇へ退かした。
それでも手は止まらない。
かぐやは体温計を見つけると布団の傍へ戻り、眠る彩葉へ向かって小さく拳を握る。
「任せて、彩葉」
その声は先ほどまでの不安に揺れるものではなく、どこか頼もしい響きを帯びていた。
「ちゃんと元気にしてあげるからね」
◆
アパートの扉が背後で閉まる。
古びた蝶番が小さく鳴り、部屋の中にあった冷房の低い駆動音と、かぐやさんの気合いを入れる声が扉一枚を隔てて遠ざかっていった。
私は階段の踊り場で一度だけ足を止める。
夕方の光はまだ熱を持っていた。
西へ傾き始めた太陽が住宅街の屋根を斜めに照らし、アパートの外階段には長い影が落ちている。手すりに触れると昼間の熱がまだ残っていて、指先へじんわりと移った。
ひどく疲れた、というほどではない。
けれど、胸のどこかが静かに波立っていた。
──日傘のひと! ありがとうね!
──宵宮くん……ありがと。
かぐやさんの真っ直ぐな声と、酒寄さんの掠れた声が、まだ耳の奥に残っている。
私は階段を一段下りる。
金属製の段が足裏で小さく鳴った。
感謝される。
たったそれだけのことだった。
誰かを助けたのだから、ありがとうと言われるのは自然なことなのかもしれない。
けれど私にとって、それはどこか遠い出来事だった。
胸の内側に落ちた言葉は、思っていたよりずっと温かかった。
そしてその温度が、ずいぶん昔の記憶を引っ張り上げる。
小さな部屋。
薄いカーテン。
夕方になっても灯りの点かない台所。
背を丸めた母の姿。
前世の母は、弱い人だった。
弱いという言い方が正しいのかは、今でも分からない。
ただ、自分一人で立つにはあまりにも傷付きすぎていて、誰かに寄りかからなければ息をすることすら難しい人だったのだと思う。
とある政治家の妾として私を産み、最低限の金銭的な支援だけを受けながら、けれどその男からは見事なほど放置されていた。
正妻からの嫌がらせは執拗だった。
言葉。
手紙。
親類を通した圧力。
それらは細い針みたいに母の生活へ入り込み、毎日少しずつ自尊心を削っていった。
母はそれらに対して怒りを露わにする気概は無く、悲嘆に慟哭するような人ではなかった。
ただ静かにすり減っていく人だった。
私は子供だった。
それでも、母が壊れかけていることくらいは分かった。
だから出来ることをした。
外出の際は買い物袋を持った。
散らかった部屋を片付けた。
母が忘れた支払いを代わりに覚え、具合が悪そうな日は食べられそうなものを用意した。
小さな手で出来ることなどたかが知れている。
それでも、何もしないよりはいいと思っていた。
けれど返ってくる言葉は、いつも同じだった。
『ごめんね』
母はそう言った。
何かを手伝っても。
困っていることを先に片付けても。
母はありがとうではなく、申し訳なさそうに背中を小さくして謝った。
『ごめんね、こんなお母さんで』
『ごめんね、あなたにこんなことさせて』
『ごめんね』
その言葉を聞くたびに、幼い私は居心地が悪くなった。
助けたいだけだった。
母に楽になってほしかっただけだった。
なのに自分が何かをするほど、母はもっと背中を小さくした。
感謝ではなく謝罪が返ってくる。
それがいつしか怖くなった。
だから私は、気付かれないように助けることを覚えた。
先回りして片付ける。
名前を残さない。
誰がやったのか分からない形にする。
ありがとうも、ごめんねも、どちらも受け取らずに済む距離から手を伸ばす。
そうすれば母は謝らない。
私は居心地の悪さを感じずに済む。
そのやり方は、たぶん前世からずっと身体に染み付いている。
誰かを助ける時、当人に悟られない方が楽だった。
善意なんてものは、表に出すと厄介だ。
礼を言われるのも、申し訳なさそうにされるのも、どちらも苦手だった。
けれど。
今日の「ありがとう」は違った。
かぐやさんの声は、純粋な真っ直ぐさがあった。
酒寄さんの声は弱かったけれど、そこには確かに意思があった。
二つの感謝の言葉は──ただ、受け取っていい温度として胸の中へ落ちてきた。
私は階段を下り切り、アパートの外へ出る。
夕暮れの住宅街には、昼間とは違う柔らかな熱が残っていた。遠くで自転車のベルが鳴り、どこかの家から夕飯の匂いが漂ってくる。
ふと見上げると、電線の向こうに薄い茜色の空が広がっていた。
この二人には、出来れば健やかでいてほしい。
ふいにそんなことを思った。
大層なことではない。
未来を背負う英雄になるつもりもない。
ただ、今日もらった温かさへの返礼くらいはしてもいいだろう。
感謝されることが、こんなにも心を温めるものだと思い出させてくれた二人へ。
酒寄さんが一人で抱え込みすぎないように。
かぐやさんが大切な人を失いそうな顔をしなくて済むように。
その未来がほんの少しでも明るい方へ転がるように。
誰にも気付かれない場所から、少しだけ手を貸そう。
私は帽子を被り直し、夕暮れの街へ歩き出した。
背中の向こう、アパートの一室では、きっとかぐやさんが慌ただしく看病を始めている。
その姿を想像すると、胸の奥に残った温度が、また少しだけ穏やかに広がった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ここではなき何処かの昔のことなり。
月より来たりしものあり。
また、幾千年の時を越え、人の世を渡り歩きし娘あり。
その頃、文の道に名高き人々あまたありけるが、才と人格とは必ずしも並び立たぬものなりけり。
されば、ある秋の日のこと。
かぐやといふもの、君の膝の上にてのどかに過ごし居たりしが、後には触角を逆立て、
『文豪ども、いとあさまし』
と憤ることになりける。
その次第を語らむ。
◆
秋の陽射しが縁側へ斜めに差し込んでいた。
山から吹き下ろしてくる風はもう夏の名残をほとんど失っていて、庭先の薄や柿の葉を静かに揺らしている。
遠くでは鳥の声が聞こえ、どこかの別荘から流れてきたピアノの音が風に溶けていた。
穏やかな午後だった。
縁側には三人分の茶が用意されている。
一人は文壇で名の知られた作家。
病弱な印象こそ残っているが、既に幾つもの作品を世へ送り出し、その名は若い文学青年たちの憧れになっていた。
もう一人は矢絣の着物に袴を合わせた女だった。
黒髪は肩口で柔らかくまとめられ、白いリボンが秋風に揺れている。
華やかというより端正な美しさだった。
大正浪漫という言葉をそのまま人の形へ移したような姿だったが、すっと伸びた背筋と、湯呑みを置く指先の静けさには、どこか時代から少しだけ外れたような気配があった。
そして最後の一人。
いや、一匹。
その女の膝の上には白いウミウシが鎮座していた。
かぐやである。
本人は完全にくつろいでいた。
膝の上は自分の定位置だと思っているらしい。
ふにゃりと身体を預けながら、新聞を読んでいる作家へ視線を向ける。
文机の前では、作家が咳を一つ噛み殺しながら新聞を読んでいた。
「……また派手にやったみたいだね」
青年は新聞の文壇欄を眺めながら、困ったように笑った。
声は柔らかいが、その奥には肺の深いところを庇うような細さがある。
机の上へ広げられた新聞の文壇欄には、新刊の書評や作家の講演予定に混じって、誰それがまた借金を作っただの、誰それが女性問題を起こしただのという話まで並んでいた。
作品と私生活の境界が今よりずっと曖昧だった時代であり、文豪たちの奇行や醜聞もまた読者の楽しみの一つとして消費されていたのである。
かぐやが袴姿の女の膝からぬるりと新聞の方へ這い寄る。
「なになに? また誰かやらかしたの?」
「君は本当にそういう話だけ食いつきがいいね」
「だって傍から見ている分には面白いんだもん。文章を書く人はもっとこう、静かで、紙と筆と向き合って、心の奥の綺麗なものを言葉にする生き物だと思ってたのに」
かぐやは膝の上で身体を伸ばし、新聞の黒々とした活字を覗き込んだ。白い身体が袴の紺地の上で妙に目立ち、まるで硯のそばに落ちた白玉のようである。
「実際は借金したり、お酒で失敗したり、女の人で揉めたり、締切から逃げたりしてるじゃん。文豪って、文が豪(えら)いって書くけど、生活も豪(えら)くしなくてもよくない?」
豪(えら)いという言葉には「並外れている」、「程度が甚だしい」という意味合いを持つ。
借金や酒での失敗、女性関係のだらしなさなどの破天荒さは確かに生活が豪(えら)いと表現できるだろう。
袴姿の女は湯呑みを手にしたまま、ちらりと紙面へ視線を落とす。
その眼差しは穏やかだが、どこか遠い時代の歌合せを眺めるような、諦めに似た含みがあった。
「文章の才と生活能力は別物ですからね」
「君が言うと重みがあるなあ」
作家にはかぐやの素性と袴姿の女の来歴をつまびらかに話している。
つまるところ作家には袴姿の女の幾つか前の前世が平安の世の歌人であることが分かっているのだ。
そして、その歌人の名は明治の文士の間では少なくない人数に知れ渡っている名でもある。
すると膝の上のかぐやが、すぐに触角をぴこんと立てた。
「ほんとだよ」
妙に実感の籠もった声だった。
「平安の頃なんて特にそう。本人は普通に返歌してるつもりなのに、相手だけ勝手に重症化するんだもん。どんだけの人の脳を焼いたのさ」
「あの時代の娯楽なんてそれほどあったわけでもないから、その分耽溺する人が多かっただけだよ」
「つまり、君がオタク沼に嵌らせたってわけだね」
「言い方」
「だって本当でしょ?」
かぐやは白い身体を反らせながら続けた。
「かぐや見たんだよ。君が乗っている牛車が通り過ぎた十字路の陰から君の追っかけが穴が開くほど君を見ていたのを。平安の世でストーカー誕生させないでよ」
「話を盛っていますので話半分で」
「盛ってないもん!」
即座に白いウミウシから反論が飛ぶ。
「というか本人だけだよ、自分がどれだけ厄介だったか分かってないの」
作家は思わず吹き出した。
「それは少し分かる気がするな。私も文士の端くれ。歴史の名を残している歌人からの返歌なんて貰えた日には興奮で寝付けなくなってしまうよ」
「ほら、こういう人がいる」
かぐやは作家の言葉を聞くや否や、膝の上でむにゅりと身体を反らせ、袴姿の女の腹のあたりへ寄り掛かるようにして抗議した。
声には怒りというより、長年積み重ねてきた実感が滲んでいる。
平安の世で幾度も見た、文を受け取った相手が勝手に胸を焦がし、返歌の一字一句を都合よく読み替え、しまいには「これは脈がある」とでも言いたげな顔になる。
あの厄介な騒動の匂いを、かぐやは新聞の活字の中にまで嗅ぎ取っていた。
袴姿の女は、膝の上の白い小さな抗議者を片手で受け止めながら、どこか諦めたように息を吐いた。
「当時の歌は社交でもあります。返歌をしない方が角が立つ場合もありましたし、別に誰かを惑わせるつもりで詠んでいたわけではありません」
「そういうところだよ。ちゃんと礼儀として返しただけ、挨拶として詠んだだけ、場を丸く収めただけって顔をするけど、受け取る側は勝手に一生ものの宝物みたいに抱え込むんだよ。
かぐやは見たもん。紙を開く前から顔が赤くなってる人もいたし、歌を読み終わった後に魂が抜けたみたいになってる人もいたし、次の日から急に月を見て溜息をつき始める人もいたもん」
「それは私のせいではなくて、受け取り側の問題でしょう」
「でも原因!」
あまりにも力強い断言だった。
作家はとうとう耐えきれずに肩を揺らした。
笑いを咳に変えないよう懐紙を口元へ当てるが、目元の柔らかな皺だけは隠しきれない。
文壇で既に名を得た男が、まるで若い文学青年のように面白がっているのを見て、袴姿の女は少しだけ目を細めた。
「先生まで面白がらないでください」
「いや、失礼。ただね、分かる気がするんだ。優れた言葉というものは、時に書いた本人の意図を離れてしまう。
まして返歌となれば、受け取る側はそこへ自分の願望を織り込む。君にそのつもりがなかったとしても、相手が勝手に燃えることはあるだろうね」
「燃えるどころか焼け野原になってたよ」
膝の上からかぐやがぼそりと付け足した。
縁側の空気がふっと緩む。秋の陽射しは穏やかで、庭の薄は風に撫でられるたび銀色の穂を揺らしている。
茶の湯気は細く立ち上り、新聞紙の端が乾いた音を立てて震えた。そうした静けさの中で、かぐやだけが小さく不満を燻らせている。
作家は畳んだ新聞を膝へ置き、ふと思い出したように袴姿の女へ視線を向けた。
「そういえば、その意味では、今の文壇にも似たようなことが起きているね」
「嫌な予感しかしません」
女は即座に返した。
かぐやの触角がぴこんと立つ。
「なに? なにが起きてるの?」
「この記事の男だよ」
作家は新聞の文壇欄を指先で軽く叩いた。その動作は穏やかだったが、そこに含まれた情報は、かぐやにとってまったく穏やかではなかった。
「この人、君にも手紙を送っていたね」
数秒、時間が止まった。
遠くから聞こえていたピアノの音が、急に遠ざかったように感じられる。
庭の葉擦れも、茶碗の中で揺れる水面も、縁側へ差し込む秋の日までもが、かぐやの反応を待つように静まり返った。
かぐやはゆっくりと、袴姿の女を見上げた。
「手紙?」
「ええ」
「誰から?」
「紙面の方から」
「どんな?」
「……まあ、文学的な挨拶状です」
女は言葉を選んだ。
選んだ時点で、ほとんど白状したようなものだった。
作家が困ったように笑う。
「僕の見るところ、あれは恋文の範疇に入ると思うよ」
その瞬間、膝の上の白いウミウシが硬直した。
続いて、触角が天を衝く。
「フシャーーーーッ!!」
縁側へ、猫でも蛇でもない謎の威嚇音が響き渡った。
作家は思わず新聞を押さえ、袴姿の女は反射的に膝の上のかぐやを両手で支える。
ウミウシの身体は柔らかいはずなのに、今だけは怒りでびんと張り詰めているように見えた。
「なんで!? なんで君に恋文送るの!? この人、記事によると借金してるんだよね!? 女の人で揉めてるんだよね!? しかも奥さんか恋人か、とにかくややこしい人いるんだよね!?
そんな状態でなんで新しく君に粉をかける余力があるの!? まず己の人生を片付けなよ!」
「言っていることは概ね正しいね」
作家が真面目に、かつ大仰に頷く。
しかし、作家自身も袴姿の女に文士が恋文を送る気持ちは分からないものでは無かった。
ただ美しいだけではない。
平安の世で歌人として名を残したほどの言葉の冴えを持ち、江戸の花街では禿の身でありながら人の欲や視線の機微を見抜く術を覚え、今生では大正浪漫の絵から抜け出したような端麗な姿で縁側に座っている。
矢絣の袴姿で茶を啜る横顔は清楚でありながら、ふとした眼差しには幾つもの時代を渡った者だけが持つ深い陰影があった。
文士から見れば、彼女は美貌と教養と物語性が一人の女の形を取って現れたような存在であり、恋文の一つも書きたくなる危うさを備えていた。
「正しいなら止めてよ! 社会的地位あるんでしょ!? かぐやの君が粉掛けられてるんだよ!?」
「地位で止まるなら、そもそも彼らはやらかしていないと思うよ」
「ぐうの音も出ない正論やめて!」
かぐやは膝の上でじたばたと暴れた。
袴の女が落とさないように掌で囲うと、その手の中でなお全身を震わせる。
白い身体が矢絣の上でぷるぷると跳ねる様子は滑稽で、しかし怒りの中身はまったく笑いごとではなかった。
「ちゃんと断りましたよ」
袴姿の女が静かに言う。
「それは偉い! かぐやを撫でる権利をあげるよ!」
「はいはい、お姫さま。撫で加減はよろしゅうございますか?」
「うむ、よきにはからえ!」
かぐやは即座に褒め、かつ己の欲求から出た要望を口にした。
袴姿の女は苦笑に頬を緩めつつ、ウミウシ姿の月の姫様に世話をする。
「君は昔からそうだけど、妙な人を引き寄せるんだよ。平安の貴族も、江戸の客も、今度は文豪? 時代が変わっても人間の欲望だけ全然進歩してないじゃん!」
「でもほら、かぐやが好きな感じの──みんな自由に生きてるよ」
「キラキラじゃなくてギラギラしてるじゃん! 違うからねっ、一緒くたにされるのは誠に遺憾だよっ! くぅ~、綺麗な便箋に包めば何でも許されると思うなよ文壇!」
作家はまた笑いそうになったが、今度は堪えた。
かぐやの怒りが、単なる嫉妬や独占欲だけではないことを察したのだろう。
そこには確かに、長い時間を共に生きてきた相手を雑に扱われたくないという、幼くも真っ直ぐな祈りがあった。
袴姿の女もそれを分かっているから、叱ることはしなかった。
ただ膝の上で怒る小さなものへ指先を添え、落ち着かせるようにそっと撫でる。
「私は大丈夫だよ。文の美しさと差出人の誠実さを取り違えるほど、もう若くありません」
「それはそれで寂しいこと言う!」
「面倒ですね」
「面倒でいいの! 君にはもう少し危機感を持ってほしいの!」
かぐやはぐいと身体を起こし、作家の方へ向き直った。
「先生も先生だよ。文士の世界、もう少しどうにかならないの?」
「それは大きな問いだね」
「大きくないよ。借金しない、浮気しない、締切守る。これだけじゃん」
「その三つが守れたら、文壇の半分くらいはかなり静かになるだろうね」
「半分も!? 同期の文壇クズ過ぎない!?」
かぐやが戦慄する。
文壇界隈やべーよ、と高確率で人格破綻者が居る界隈の闇を見せつけられて流せない筈の冷や汗を流す。
縁側の茶が冷めていく。けれど三人の会話だけは、秋の日だまりの中で妙に熱を帯びていた。
新聞の文壇欄には相変わらず活字が並び、誰かの醜聞を大真面目な顔で紙面へ刻んでいる。
その黒い文字列を眺めながら、作家はふと声を落とした。
「ただ、かぐやさん。困ったことにね、人間として褒められない人が、時々どうしようもなく良い文章を書くんだよ」
かぐやの動きが止まる。
作家の声には、先ほどまでの笑いが少しだけ薄くなっていた。
代わりに、長く文壇に身を置いてきた者だけが知る疲れと愛着が、静かに混じっている。
「借金をする。人を困らせる。酒に逃げる。愛情を履き違える。そういうことは、もちろん良いことではない。迷惑を受ける人がいるなら怒られて当然だし、君が怒るのも正しい。
けれどね、そういう弱くて情けない人間が、原稿用紙の上では自分の弱さだけは誤魔化せないことがある。普段は逃げてばかりのくせに、文章の中でだけは逃げずに傷口を見せる。
読んだ人は腹を立てながら、それでも救われてしまうことがある。だから厄介なんだ。人と作品を完全に切り離せるほど、人間は器用ではないし、かといって人の醜さだけで作品の光まで消せるほど、言葉も弱くはない」
縁側に静けさが戻った。
かぐやは膝の上で丸くなり、少しだけ黙り込む。納得したわけではない。
おそらく、半分も納得していない。
ただ、目の前の作家が文豪たちのやらかしを面白がるだけではなく、その奥にある弱さや愚かさまで見ているのだということは分かった。
袴姿の女は、冷めかけた茶を一口含む。
「弱さが美しいわけではありません。でも、弱さを隠さない言葉が誰かへ届くことはありますね」
「君もそう思う?」
「歌も同じです。整った技巧だけでは人の胸には残りません。けれど、だからといって不誠実が許されるわけでもない。そこを混同するから、文人も歌人も厄介になるのでしょう」
「まったくその通りだ」
作家は静かに微笑んだ。
かぐやは二人を見比べる。難しい話をしている、と正直思った。
人間はどうしてこう、悪いものを悪いと言い切るだけでは済ませられないのだろう。長く生きれば生きるほど、白と黒の間に薄い灰色が増えていく。
かぐやはその灰色が時々嫌いでもあり、同時に好きでもあった。
ただはっきりと分かることもある。
膝の上の君が静かに茶を飲み、作家が新聞を畳むこの午後は、かぐやにとって心地良い時間だった。
「でも」
かぐやは小さく言う。
「君に恋文送るのはだめ」
「そこへ戻るんだね」
「戻るよ。そこは戻る。文章がすごいとか、人間が弱いとか、そういう話は分かった。でも君に雑に近付くのはだめ。かぐやはそこだけは絶対怒るから」
袴姿の女は困ったように笑った。
作家もまた、穏やかに肩を揺らす。
「それは良いと思うよ」
「いいの?」
「うん。誰かが怒ってくれるというのは、案外ありがたいことだからね」
「じゃあ、君宛の手紙をかぐや検閲しても良い?」
「うーん、プライバシーが無い」
秋風が吹いた。
庭の柿の葉が一枚、くるりと回りながら落ちていく。
文壇欄の新聞紙がまたかさりと鳴り、かぐやはそれへ向かってふんと鼻を鳴らした。
「かぐや、決めた。文豪は信用しすぎない。でも文章は読む」
「それはとても健全な距離だね」
「あと君に恋文送る人は信用しない」
「それは偏見では?」
「偏見でいいの!」
膝の上でふんぞり返る白いウミウシを見て、袴姿の女は今度こそ声を漏らして笑った。
作家もまた、咳にならない程度に笑いながら茶を啜る。
穏やかな秋の午後だった。
醜聞の並ぶ新聞を前に、病を抱えた作家が笑い、時代を渡るかぐやの君が呆れ、月より来た白いものが膝の上で文壇へ威嚇する。
それは取るに足らない茶飲み話に過ぎなかった。
けれどかぐやは後に、この日のことを何度も思い出すことになる。
人は愚かで、弱くて、時にどうしようもなく身勝手で、それでも言葉だけは誰かの未来へ届いてしまうことがあるのだと、秋の陽だまりの中で教えられた日のことを。
・配信を見ていた帝鬼ぃちゃん
帝「うーむ…まずいのォ…あいつワシより強くねー?」
・文豪界隈のやらかしエピソード
「明治 文豪 クズ エピソード」などで検索かけると割と人間のクズエピソードが出てきます。
「文豪 こじらせ」でも著名作家の面白エピソードが出てくると思います。
・主人公の名前
今回の話で主人公の名字が初めて出ました。
本名「宵宮(よいみや) 巡(メグル)」。
宵=夜、月、境界などの表現。
宮=月の宮などのかぐや姫由来の表現。
巡=巡る、転生、旅、循環などの表現。