もうちっとだけハッピーにするんじゃ   作:加賀美ポチ

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覚悟完了

 ツクヨミ公式ニュースの軽快な電子音声が、真実の家に流れていた。

 そこは現実の住宅ではなく、仮想空間ツクヨミに構えられたグルメインフルエンサー『まみまみ』の家である。

 木目調の床に、洒落た照明、壁際には配信用の飾り棚が並び、川面の上に建てられた家のため縁側から釣りも可能。

 真実らしいと言えば真実らしい、生活感と趣味と配信映えが同居した空間だった。

 大型モニターでは、忠犬オタ公の声がヤチヨカップの上位陣を読み上げている。

 三位、二位と名前が呼ばれ、そして堂々の一位としてブラックオニキスの名が告げられた瞬間、部屋の空気が少しだけ重くなった。

 

「いやー、黒鬼、圧倒的だねぇ〜〜」

 

 一人掛けの籐椅子に腰掛けた真実は、どこか誇らしげにそう言ってリモコンを放り出した。

 帝アキラのファンである彼女にとって、ブラックオニキスの独走は悔しい話ではなく、むしろ推しの強さを確認する愉快な事実らしい。

 対して、三人掛けのソファを長々と占領していた芦花は、白旗でも上げるように天井を仰いでいた。

 

「んー、終盤でこの差はちょっとキツいかなあ」

 

 その言葉は軽い調子だったが、内容はかなり厳しい。

 ヤチヨカップの残り時間を考えれば、ここから順位をひっくり返すのは容易ではない。

 かぐやと彩葉の勢いは確かにある。

 ファン数も伸びており、ライブも話題になった。

 しかし、首位を走るブラックオニキスの背中はまだ遠かった。

 

「むー、どうしたらいいのだー!」

 

 その現実に一番納得していないのが、露天風呂に浸かったかぐやである。

 バスタオル一枚の姿で湯に沈み、金髪をわしゃわしゃ掻き乱しながら悔しそうに唸っている。

 人の家で何をしているのかと言いたくなる光景だが、ここは仮想空間なので一応問題はない。一応、である。

 彩葉はそんなかぐやを横目に見ながら、静かに息を吐いた。

 

「黒鬼、強いね〜〜。まあ、当然か。帝様だもんね」

 

 真実が釣り堀へ糸を垂らしながら、ひどく満足そうに呟いた。

 

「真実の裏切り者お」

 

 湯船からかぐやが恨めしそうな声を飛ばす。

 

「一応、かぐやも二推しで推してるよー」

「やだー、かぐやだけにー!」

「水しぱぱしないで。魚逃げちゃうから」

 

 真実が軽く注意すると、かぐやはなおさらむくれた顔をした。

 湯面がちゃぷちゃぷ揺れ、仮想の湯気がふわりと立ち上る。

 焦りと悔しさと、それでも諦めきれない気持ちが混ざって、彼女の金色の瞳は忙しなく揺れていた。

 

「くそー、帝出てこい! 勝負しろー!」

 

 芦花がソファの上から適当なことを言う。

 

「さっすが芦花、それだ!」

 

 かぐやが湯船の中でばしゃりと立ち上がった。

 

「あ、それいいんじゃない。かぐやVS帝でゲーム対決ってのは?」

 

 真実まで面白がるように乗ってくる。

 彩葉はすぐに首を横へ振った。

 

「無理に決まってるでしょ。受けてくれるわけないじゃん。向こうはトッププロゲーマーだよ? 格が違うって」

 

 それは冷静な判断だった。

 かぐやは確かに人気が伸びているし、話題性もある。

 だが、帝アキラは別格だ。

 ブラックオニキスの中心であり、KASSEN界隈における看板選手でもある。

 こちらから勝負を吹っかけたところで、普通なら相手にされるはずがない。

 

 かぐやは唇を尖らせる。

 

「だってぇ〜! ヤチヨカップ終わっちゃうよ? 迎えが来るかもしれないし〜!」

「来るなら早く来てくれ〜、連れて帰ってくれ〜〜」

「あー、いじわるゆってる!」

 

 月からの迎え、という設定をいつものように口にしたかぐやへ、彩葉はソファーにぼすん、と背を預けて仰向けになり気だるげに返す。

 ぞんざいな扱いに露天風呂から水飛沫を上げて出たかぐやから抗議の声が上がる。

 二人の遣り取りに真実は首を傾げた。

 

「……ん? かぐやちゃん、築地から迎えが来るの?」

「わー、家出ー?」

 

 妙な方向へ話が転がりかけた、その時だった。

 かぐやの目の前に、ぽん、と巻物型のメールアイコンが出現した。

 

「わっ、ビックリした!」

 

 いつもなら宣伝かスパムだと見向きもしないところだが、絶妙なタイミングで出現したその巻物には妙な存在感があった。

 かぐやは湯船の縁へ身を乗り出し、濡れた髪を揺らしながらそれを開く。

 数秒。

 かぐやの表情が止まった。

 次に、金色の瞳がぎらりと光る。

 

「彩葉……」

 

 その呼び方に、彩葉は嫌なものを感じた。

 背筋のあたりを冷たい指でなぞられたような感覚が走る。

 

「いーろーは……」

「何、怖いって」

 

 彩葉はそう返しながらも、少なくない可能性が頭にチラついていた。

 新しもの好きのあの男──帝アキラが、かぐやという異物を見逃すはずがない。

 むしろ、いつか必ず何か仕掛けてくると思っていた。

 だからこそ、ブラックオニキス関連の話題はなるべくかぐやに見せないようにしていたのだ。

 それなのに。

 

「彩葉、言ったよね。プロゲーマー様は格が違うって……」

「だから、何よ?」

「……言ったよね?」

 

 かぐやの口元が、勝利を確信した子供のように吊り上がる。

 彩葉は沈黙した。

 見たくない。

 見なくても分かる。

 だが、かぐやは容赦なく巻物を広げた。

 

『BlackonyX 帝アキラさんからのメッセージ

 初めましてかぐやちゃん!

 俺はブラックオニキスの帝アキラ ファン数、百万人おめでとう!

 ここからは提案なんだけど、KASSENで

 帝VSかぐやの竹取合戦

 ってのはどう?

 かぐやちゃんが負けたら……やっぱ俺と結婚、かな?

 こっちが負けたら、なんでもお願い聞くよ

 俺らでツクヨミ盛り上げようぜ!』

 

 部屋の空気が、変な方向へ弾けた。

 真実は釣り竿を持ったまま固まり、芦花はソファの上で起き上がる。

 彩葉は額へ手を当てた──頭痛が痛い。

 思わずに日本語が変になるほど彩葉にとっては最悪な未来が現実として突きつけられていた。

 終わった。

 その言葉が、顔に出るほどはっきり浮かんでいた。

 

「じゃーあ、断れないよね! 格上のプロゲーマー様からの挑戦は! 大物釣れたあ、よっしゃー!」

 

 かぐやは完全に爆釣だった。バスタオル姿のままもう一度露天風呂へ飛び込む勢いで跳ね、真実が「魚が逃げるから!」と制止する声すら聞いていない。

 湯気と水飛沫と金色の髪が、真実の家の仮想空間でめちゃくちゃに舞った。

 

 彩葉は深く息を吐く。

 自分は強くなった。

 それは間違いない。

 SETSUNAなら、今の彩葉はそう簡単には負けない。以前の自分とは違う。ヨミと引き分けたあの戦いも、ただの偶然ではなかった。

 けれど、これはKASSENだ。

 しかも相手はブラックオニキス。

 個人技だけでは勝てない。かぐやの勢いだけでも勝てない。SENGOKUで勝つには、戦場全体を見る目と、実戦の中で鍛えられた連携がいる。

 そんな彩葉の不安など知るはずもなく、かぐやはまみまみ邸の中で拳を突き上げて叫んだ。

 

「帝勝負だーっ!」

 

 その声は、ツクヨミの夜へ花火みたいに弾けた。

 

 

 ブラックオニキスからの挑戦状が届いた後、ツクヨミの空気は一気に浮ついた。

 

 公式ニュースはすぐに食いつき、まとめサイトは「竹取合戦」の文字で埋まり、かぐやのメールボックスには応援と野次と便乗案件が洪水みたいに押し寄せていた。

 だが当の本人はと言えば、挑戦状を受け取った翌日でも変わらず目をきらきらさせている。

 

「勝ちたい!」

 

 開口一番、それだった。

 彩葉は深く息を吐く。

 あの男が絡む時点で嫌な予感はしていたし、その予感は最悪の形で的中した。

 しかも相手はトッププロゲーマー、帝アキラ率いるブラックオニキス。

 勢いだけでどうにかなる相手ではない。

 

 彩葉自身も、以前と比べれば格段に強くなっている。

 SETSUNAでの経験は確実に身についていた。

 読み合い、差し合い、間合い管理、反応速度。

 ヨミとの死闘を経て、個人戦における彩葉のプレイヤースキルは、もはや最上位層と呼ばれる域へ踏み込んでいる。

 けれど、それはあくまでSETSUNAの話だった。

 

 ブラックオニキスが最も得意とするKASSEN、とりわけ陣取り合戦型のSENGOKUは、個人戦とはまるで違う。

 どれだけ一対一が強くても、戦場全体の流れを読めなければ押し潰される。

 レーン管理、櫓の制圧、味方との連携、相手の動線予測、ミニオン処理、ウルトの吐きどころ。勝敗を決める要素があまりにも多く、剣の腕だけでは天守閣まで届かない。

 

「勝ちたいのは分かるけど、相手が相手だからね。普通に練習したくらいじゃ厳しいよ」

「じゃあ普通じゃない練習しよう!」

 

 かぐやは即答した。

 その無邪気さは時々、理屈を置き去りにして正解へ突っ込んでいく。

 彩葉が返事に詰まった隙に、かぐやは空中へ半透明のウィンドウを開き、フレンド欄を指で辿り始めた。

 

「強い人に練習相手してもらえばいいんだよね? ならヨミに頼もう!」

「いや、急すぎるでしょ」

「だめもとだよ! 送るだけなら無料!」

「言い方」

 

 止める間もなく、かぐやはメッセージを打ち始める。文面は勢いの塊だった。

 ブラックオニキスと戦うことになったこと、絶対に勝ちたいこと、だからKASSENのスパーリング相手になってほしいこと。

 途中で彩葉が何度も表現を直し、ようやく人に送っても失礼ではない文章になった時には、かぐやはもう送信ボタンへ指を置いていた。

 

「いっけー!」

 

 軽い電子音が鳴る。

 送信完了。

 その瞬間、彩葉は胃の辺りがきゅっと縮むような感覚を覚えた。

 相手は対人界隈ティア最上位に位置するライバー『ヨミ』である。

 先日のSETSUNAで引き分けたばかりとはいえ、急に練習相手を頼むにはあまりにも厚かましい。

 しかも相手にも予定があるだろう。

 だが、返信は驚くほど早かった。

 

『いいよ。時間を合わせよう』

 

 かぐやが跳ねた。

 

「やったあああああ!」

「うっそ!? ほんとに!?」

 

 彩葉は思わず画面を二度見した。

 短い返事だったが、けれどそこには面倒がる色も、恩着せがましさもない。

 ただ自然に、困っているなら手を貸すと言っているような文面だった。

 

 

 顔合わせの場所は、ツクヨミの訓練用ラウンジになった。

 夜の水面を思わせる黒い床に、青白い光が薄く走っている。

 天井では小さな発光魚が群れを作り、壁際には武器調整用の端末や試合設定用のウィンドウが静かに浮かんでいた。

 通常の配信ステージほど派手ではないが、その分だけ余計な飾りが少なく、これから本気で練習する場所だという緊張感がある。

 

 そこへヨミが現れた。

 何時もの猛禽モチーフの意匠を纏った装いではなく、白と黒を基調とした広袖の和装に、黒袴を思わせる衣装を纏い、耳元では金細工の翼飾りが静かに輝いている。

 大仰な登場演出はない。ただ一歩ずつ近付くだけなのに、不思議と場の空気が整っていく。

 彩葉は背筋を伸ばし、かぐやはその隣で両手を握り締めていた。

 

「急に呼び出してすみません」

 

 彩葉が先に頭を下げる。声には丁寧さと、少しの申し訳なさが混じっていた。

 

「ブラックオニキス戦の件で、どうしても対人練習が必要になって。こちらから無理を言っているのは分かっています。本当に、受けてくれてありがとうございます」

 

 ヨミは少しだけ首を横に振った。

 

「大丈夫。予定は空けられたから」

 

 淡々とした返答だったが、冷たくはない。

 むしろ余計な気遣いをさせないために、あえて簡潔にしているようにも聞こえた。

 すると、かぐやが一歩前へ出る。

 金色の瞳が真っ直ぐ向けられていた。

 

「ヨミ!」

 

 普段なら、もう少し違ったはずだった。

 冗談を言って笑わせて、それから勢いでお願いを押し切る。

 そういうやり方を好む少女だ。

 けれど今は違う。

 ラウンジを泳ぐ発光魚の群れが青白い光を落とし、その光が揺れるたび、かぐやの横顔にも淡い陰影が生まれる。

 

「かぐや、勝ちたいの」

 

 小さく拳を握る。

 その仕草は幼い子供が願掛けをする時にも似ていた。

 

「最初はね、勢いだったの」

 

 少しだけ照れ臭そうに笑う。

 けれど、その笑みの奥には誤魔化しきれない本音が混じっていた。

 

「彩葉がヤチヨばっかり見てるからさ。かぐやだって負けないもんって思って。だから優勝するって言っちゃった」

 

 あの日の光景が脳裏に浮かぶ。

 歓声の中心に立つヤチヨ。

 眩しいほどに大衆を魅了していた。

 その姿を見つめる彩葉の横顔。

 胸の奥が妙にざわついて、どうしようもなくなって、だから勢いのまま大見栄を切った。

 ヤチヨカップ優勝。

 今思えば無茶苦茶だ。

 けれど、不思議と後悔だけはしていなかった。

 かぐやはゆっくり首を振る。

 そして、その笑顔が少しずつ静かなものへ変わっていく。

 

「でも今は違う」

 

 その声に、彩葉も思わず視線を向けた。

 かぐや自身も、自分が何を言おうとしているのか完全には分かっていない。

 ただ胸の奥にある何かだけが、言葉になりたがっていた。

 

「かぐやね、ヤチヨカップが終わっても彩葉と一緒にいたい」

 

 ラウンジの空気が、ほんの少しだけ静まる。

 発光魚の尾が光を引き、夜の水底みたいな青が三人の間を流れていった。

 かぐやは言葉を探すように視線を揺らす。

 上手く説明できない。

 

 どうして殆ど喋ったこともない『ヨミ』相手に此処まで胸の内を曝け出すのか、かぐやにも分かっていなかった。

 ただ。

 彩葉と『ヨミ』。

 二人が真剣に斬り結んでいた刹那の表情(かお)があまりに綺麗だったから。

 彩葉に感じたものと同じ胸の高まりを齎した人物に不誠実な振る舞いをしたくなかったのだ。

 

「なんでかは上手く言えないんだけど、かぐや姫のお話みたいなの嫌なんだ」

 

 金色の瞳が僅かに伏せられる。

 それは昔話の感想を語る声ではなかった。

 もっとずっと個人的な、胸の奥から零れ落ちた本音だった。

 

「月へ帰って終わりとか」

「大事な人とお別れして終わりとか」

「そういうの嫌」

 

 子供の我儘みたいな言葉だった。

 けれど、その我儘はどこまでも真っ直ぐだった。

 未来を知らないからこそ口にできる願い。

 失うことを知らないからこそ信じられる願い。

 

「だから勝ちたい」

 

 ぎゅっと拳を握る。

 

「優勝したい」

 

 その声にはもう迷いがない。

 

「彩葉と一緒に──ハッピーエンドにしたい」

 

 かぐやは顔を上げる。

 金色の瞳が光を宿す。

 まるで雲の切れ間から射し込む朝日のように。

 眩しくて、真っ直ぐで、だからこそ目を逸らせない光だった。

 そして最後に。

 その太陽みたいな笑顔を浮かべて。

 

「だから助けて、ヨミ」

 

 無邪気で、まっすぐで、身勝手なほど純粋なお願いを口にした。

 

 

 その瞬間だった。

 ヨミの視界が、音もなく白く弾けた。

 アンサートーカーが突然、意志とは関係無く動く。

 それはほんの瞬きの時間だった。

 ツクヨミのラウンジでは、かぐやがまだヨミを見上げており、彩葉は隣で息を呑んでいる。

 発光魚は天井を泳ぎ、床の青い光は変わらず静かに流れている。

 けれどヨミの内側では、時間が裂けた。

 

 砂浜。

 誰もいない海。

 夕暮れとも夜明けともつかない色の空。

 白いウミウシの身体で、かぐやが一人、波打ち際にいた。

 

 次の断片では、彼女の精神が小高い岩の上で両膝を抱えて震えていた。

 次の断片では、見知らぬ時代の街角で笑っていた。

 次の断片では、誰かの死を見送っていた。

 季節が過ぎ、国が変わり、言葉が変わり、人々が生まれては消えていく。

 その全ての中で、かぐやだけが取り残されたように時間の旅路を孤独に歩を進めていた。

 

 八千年──八千代。

 それは単なる数字ではない。

 時間の重さであり、孤独の長さだった。

 出会いと別れを繰り返し、そのたびに心を削りながら、それでも誰かを好きになってしまう生き物の長い旅路だった。

 ヨミはその全てを理解したわけではない。

 何が起きるのか、どうしてそうなるのか、いつ始まり、どこで終わるのかまでは掴めない。

 ただ分かったことが一つだけある。

 

 目の前の少女は、これから途方もない時間を越える。

 そして、その途中で何度も助けを必要とする。

 今の「助けて」は、KASSENの練習相手を求めるだけの言葉だ。

 かぐや自身もそれ以上の意味など知らない。

 ブラックオニキスに勝ちたい、ただそれだけの願いとして差し出された言葉でしかない。

 けれどヨミには、もうそう聞こえなかった。

 砂浜で泣きそうに震える白い影と、目の前で元気いっぱいに拳を握る少女が重なる。

 

 ──ヤチヨ、どっかにいるんでしょ……『助けてよ』。

 

 その声はまだ未来のものだ。今この場には存在しない。けれど、ヨミの胸には確かに届いてしまった。

 だから。

 選ぶ余地など、最初からなかった。

 

「……うん」

 

 ヨミは微笑んだ。

 かぐやから見れば、それはほんの少し考え込んだ後の、穏やかな返事だっただろう。

 彩葉から見ても、急な依頼を受けるかどうか判断しただけに見えたはずだ。

 けれどヨミの中では、その一言がまったく別の意味を持っていた。

 

 KASSENの練習相手になり、正規の竹取合戦──ブラックオニキス戦を一助となる。

 そして、その先にある長い孤独の旅路にも手を伸ばす決意。

 

「──助けるよ」

 

 静かな声だった。

 派手な約束ではない。英雄の宣言でもない。

 けれど、その声の裏側には一度決めたことから逃げない硬さが秘められていた。

 かぐやの顔がぱっと輝く。

 

「ほんと!?」

「うん。事情はよく分からないけど、気持ちはちゃんと伝わったから。やれるだけやろう」

「やったー! ヨミありがとう!」

「調子いいなあ」

 

 彩葉が小さく呆れた声を漏らす。

 けれどその表情は、どこかほっとしていた。強敵との対戦前に、頼れる相手が一人増えた。その事実は大きい。

 かぐやはもう完全に勝つ気でいるらしく、両手をぶんぶん振りながら意気込んでいた。

 

「ブラックオニキス倒すぞー! 帝に、かぐやのすごさを見せつけるぞー!」

「まずは基礎確認からね」

 

 ヨミがそう言うと、かぐやは元気よく頷いた。

 何も知らない。

 自分がいつか海辺で一人になることも、長い時代を渡ることも、幾度も別れを経験することも、まだ何一つ知らない。

 だからこそ、その笑顔はあまりにも眩しかった。

 ヨミはそれを見つめながら、胸の奥で静かに息を吐く。

 未来は見えた。

 砂浜も、孤独も、長すぎる旅路も。

 そして、その途中で流される数え切れない涙も。

 

 見えてしまったからこそ、手を伸ばしたいと思った。

 あの日。

 かぐやと彩葉から向けられた感謝の言葉を思い出す。

 

 ──ありがとうね。

 

 ──宵宮くん……ありがと。

 

 たったそれだけの言葉だった。

 けれど、その温かさは今も胸の奥に残っている。

 誰かを助けること。

 誰かに感謝されること。

 それは決して重荷ではなく、人の心を静かに温めるものだったのだと、二人は思い出させてくれた。

 だから今度は自分の番だと思った。

 大仰な恩返しではない。

 運命を変える英雄になるつもりもない。

 ただ。

 この二人が少しでも多く笑える未来へ。

 少しでも長く隣にいられる未来へ。

 ほんの少しだけ風向きを変えてやれたなら。

 あの日もらった温かさへの返礼としては十分だろう。

 

 そう決めて、ヨミは訓練用の設定ウィンドウを開いた。

 戦場の選択肢が空中に並ぶ。

 SETSUNAモード

 SENGOKUモード。

 KASSENモード。

 今回は対ブラックオニキス想定であるため、ヨミはSENGOKUモードのスタティックモードを選択した。

 青白い光が三人の間に広がり、静かなラウンジが少しずつ戦場の気配を帯びていく。

 かぐやは楽しそうに跳ね、彩葉は真剣な目で設定を確認し、ヨミは二人の少し後ろでその光景を見ていた。

 この時点ではまだ、誰も知らない。

 このスパーリングが、ただのゲーム練習では終わらないことを。

 この夜の「助けて」が、八千年の旅路へ続く最初の声になることを。

 ただ一人、ヨミだけがアンサートーカーという超常を以ってその片鱗を見ていた。

 そしてそれでも、彼は笑って頷いたのだった──

 

 

 訓練用ラウンジの床へ、SENGOKUモードの立体マップが静かに展開されていく。

 黒曜石のような光沢を持つ床面に青白い光が走り、中央には天守閣、その左右へ三本の進軍路が伸びる。

 さらに各レーンの途中には櫓が浮かび上がり、戦場全体が掌の上に載せられた箱庭のように再現されていた。

 彩葉は壁に寄りかかりながらそれを見下ろし、小さく呟く。

 

「……そういえば、真実と芦花も呼んだんだっけ」

「もちろん!」

 

 かぐやが得意満面で胸を張る。

 その様子はどこか秘密兵器を隠し持った子供に似ていた。

 

「今回は対ブラックオニキスだもん! 総力戦なのだ!」

 

 言い終えた直後、ラウンジ入口側に二つの転送エフェクトが発生した。

 夜空へ石を投げ込んだように光の輪が波紋を描き、その中心から二つの人影が現れる。

 

「おまたせー」

「いや急に呼び出されたんだけど」

 

 真実と芦花だった。

 真実はいつもの柔らかな笑みを浮かべ、芦花は肩を回しながら周囲を見渡している。

 そして。

 二人の視線がかぐやと彩葉に映り、そしてヨミへ向いた。

 一瞬。

 空気が止まった。

 

「……え?」

 

 真実が瞬きをする。

 それは芦花も同じだった。

 

「いや待って」

「ん?」

 

 ヨミは首を傾げる。

 だが二人は完全に固まっていた。

 それも当然だった。

 目の前にいるのは対人界隈の頂点近くに君臨するライバー。

 先日のSETSUNAで彩葉と死闘を演じた『ヨミ』その人である。

 配信や試合で見たことはある。

 だが直接会うのは初めてだ。

 

「……なんでヨミいるの?」

 

 真実が率直に問いかけると、隣の芦花も何度か瞬きを繰り返しながら彩葉とヨミを見比べた。

 画面越しなら何度も見たことがある。

 またかぐやのKASSENデビューの際にも対戦相手として戦いもした。

 しかし実際に同じ空間へ立った時の存在感は別物だった。

 

「ふっふっふ」

 

 そこで待ってましたと言わんばかりに、かぐやが一歩前へ出る。

 胸を張り、腰へ手を当て、その表情には隠そうともしない得意げな色が浮かんでいた。

 

「遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ! 彼の者こそはブラックオニキス討伐のため召喚されし最終兵器、さいっきょーの練習相手ヨミである!」

 

 どこで覚えてきたのか分からない武士じみた名乗りを高らかに言い切ると、かぐやはまるで大仕事を成し遂げたかのように胸を張った。

 訓練用ラウンジへ一瞬だけ妙な静寂が落ちる。

 青白い立体マップは変わらず足元で淡く輝き続けているのに、その場の全員が数秒ほど言葉を失っていた。

 真実は半ば呆れ、半ば感心したような顔でかぐやを見つめ、芦花は「まあかぐやちゃんのやることだし」と苦笑いを浮かべる。

 

「いや誰?」

 

 彩葉が真顔で突っ込んだ。

 

「武将かなにか?」

「えへへ」

 

 かぐやは満足そうだった。

 彩葉は額へ手を当てたまま視線を伏せる。

 予想通りと言うべきか、期待を裏切らないと言うべきか。

 かぐやの口から出てくる言葉は時々、本当にどこから仕入れてきたのか分からない方向へ飛んでいく。

 一方でヨミは、そのやり取りを眺めながら小さく笑っていた。

 口元が少しだけ緩み、その場の空気を受け入れるような柔らかな表情を浮かべている。

 

「まぁ、そういうこと」

 

 彩葉が話を戻す。

 その声に促されるように真実と芦花も意識を切り替えた。。

 

「今回の練習、ヨミさんが協力してくれることになったの」

「……いや待って」

 

 真実の表情がようやく現実に追いつく。

 

「協力って、そのヨミ、さんが? 対人最上位勢の? 本当に?」

「本当に。かぐやがDM送ったら、まさかのOKが貰えたの」

「えぇー……」

 

 真実が絶句する。

 芦花もさすがに笑みを引っ込めた。

 冗談では済まない話だった。

 ヤチヨカップの優勝候補筆頭──ブラックオニキス。

 その対策のために、同じく頂点に座るプレイヤーが練習相手になる。

 理屈の上では理にかなっているが、それがどれだけ贅沢なことか。

 実現に漕ぎ着けるかぐやのアグレッシブさ畏るべしである。

 ヨミはそんな反応を見ても特に誇る様子はなく、立体マップへ視線を落とす。

 青白い光で描かれた三本の進軍路が、その瞳へ静かに映り込んだ。

 

「じゃあ本題に入ろうか」

 

 穏やかな声だった。

 けれど、その一言で空気が切り替わる。

 雑談が終わり、対ブラックオニキス戦の作戦会議が始まる。

 全員の意識が自然とマップへ集まり、ラウンジを満たしていた僅かな緩みが、弦を張るように引き締まっていった。

 

 

 ヨミの一言を合図に、その場の全員の視線が立体マップへ集まった。

 

 青白い光で構成された戦場は、静かに脈打つように明滅している。

 中央奥には両陣営の天守閣が向かい合うように浮かび、その間には二つの櫓が配置されていた。

 櫓の周囲には大型甲殻類の中ボスである牛鬼の影が半透明で示され、さらに占拠後に敵天守閣へ打ち込む巨大なだるま落とし、大将落としの発生地点まで細かく描かれている。

 

 SENGOKUは、単に敵を倒せば勝てるモードではない。

 牛鬼を撃破し、櫓の鐘を鳴らし、占拠によって出現する大将落としを敵天守閣へ打ち込む。

 あるいは二つの櫓を同時に制圧し、コールドで勝利を奪う。

 そこに三回制限のリスポーンや、自陣天守閣から占拠櫓へ飛ぶジャンプ台の存在まで絡むため、一瞬の判断遅れがそのまま戦況全体へ波及する。

 

 ヨミはマップへ近付き、片方の櫓を指先で示した。

 

「まず前提として、ブラックオニキスはプロゲーマーのグループですが、同時にエンターテイナーの側面を重視するチームです」

 

 ただ強いだけのグループであるならばファン数1800万人という常識離れした数字にはなっていない。

 彼らがファンに対して夢を魅せる姿勢を重要視しているからこそ1800万、そしてヤチヨカップの最中で更にファン数を伸ばし1900万人というライバーの頂に居るのだろう。

 

「当然、勝ちには来る。でも、ただ勝つだけに終始する塩試合は彼らのグループのスタンスではない。

 牛鬼を処理して、人数差を作って、相手のリスポーンを管理して、櫓二つを押さえてコールドを狙う。そういう戦い方は強いし合理的だけど、観客から見ると地味な展開になる」

 

 青白いマップ上で、二つの櫓が同時に赤く染まる。

 次の瞬間、敵陣側の天守閣へ勝利表示の光が走った。

 ヨミが示したのは、効率だけを求めた場合の詰め筋だった。

 

「ブラックオニキスなら、そういった理詰め戦略もできる。けれど多分、本番では前面に出してこない可能性の方が高い」

「……帝様なら、確かにそうするかも」

 

 真実がぽつりと呟いた。

 それは分析に対する同意であると同時に、重度のブラックオニキスファン、そして帝アキラ推しとしての実感でもあった。

 真実の目はいつもの柔らかさを残しながらも、推しの美学を語る時特有の熱を帯びている。

 

「帝様って、勝てばいいってタイプじゃないんだよね。勝つのは当然で、その上で見てる人に『今の何!?』って言わせるのが好きっていうか。

 派手な場面を作るし、相手の良さも引き出すし、試合後に切り抜きが回るところまで考えてる感じがあるの」

 

 彩葉は黙って頷いた。

 帝アキラ――現実では酒寄朝日。

 その素性を彩葉はここで明かすつもりはない。

 けれど、真実の言葉は兄を知る彩葉の感覚とも噛み合っていた。

 あの人は、退屈な勝利を嫌う。観客が息を呑み、歓声を上げ、最後に笑って語れる試合を好む。そういう人間だ。

 

「私も同意見」

 

 彩葉は静かに頷いた。

 真実の言葉は兄の気質を知る彼女の実感とも重なり、その結論へ迷いなく同意できた。

 

「ブラックオニキスが勝ちに来るのは間違いないです。でも、見ている人が白けるような展開は選ばないと思います。ブラックオニキスのリーダーは、そういう試合をする人間じゃない」

 

 かぐやは少しだけ不思議そうに彩葉を見たが、すぐにマップへ視線を戻した。

 彩葉の言葉が妙に確信めいていたことに気付いたのは、おそらくヨミだけだった。

 ヨミは追及せず、指先で二つの櫓へ別々の光を灯す。

 

「だから予想するなら、最有力はトライデント」

 

 マップ上に三つの光点が浮かぶ。

 帝アキラ。

 駒沢雷。

 駒沢乃依。

 それぞれの名を示すアイコンが、二つの櫓と中央ラインを分け合うように配置される。

 完全な三分割ではない。牛鬼、櫓、鐘、大将落としの発生位置を睨みながら、三人が別々の役割を持って戦場へ刺さる布陣だった。

 

「この形なら三人全員に見せ場があるし、二つの櫓を巡って常に戦闘が起きる」

 

 ヨミの指先がマップ上を滑るたび、戦場の光が細かく変化していく。

 牛鬼が倒れ、櫓の鐘が鳴り、大将落としが敵天守閣へ向けて浮かび上がる。

 別の展開では二つの櫓が同時に染まり、コールドの文字が空中に薄く表示された。

 

 芦花は腕を組みながら目を細めた。

 

「なるほどね。三人が別々に動くけど、完全に孤立してるわけじゃないんだ」

「その通り」

 

 ヨミは小さく頷いた。

 その仕草には確信が滲んでおり、長く対人戦を見続けてきた者ならではの説得力があった。

 

「SENGOKUは3vs3だけど、実際には局所戦の連続になる。牛鬼を挟んだ一対一、櫓前の二対一、鐘を鳴らす瞬間のカバー、大将落としを押し込む時の妨害。

 ブラックオニキスは、その局所戦を全部配信の見所として落とし込んでくると思う」

 

 真実は思わず息を呑んだ。

 推しを追い続けてきた彼女だからこそ、その分析が驚くほど帝アキラ本人の思考に近いと理解できた。

 

「解像度高……」

 

 帝アキラの推し活をしてきた真実だからこそ分かる。

 ヨミの予想は、単に強いチームの動きを読むだけではない。

 帝アキラというプレイヤーの見せ方、ブラックオニキスというチームの売り方、そしてファンが何を期待しているかまで含んでいる。

 

「帝様なら、ほんとにやりそう。勝つだけならもっと詰めるんだろうけど、たぶんこっちの方が映えるし、試合後に絶対盛り上がる」

 

 真実がそう言うと、かぐやはむむっと唇を尖らせた。

 

「つまり、相手は強くて、かっこつけで、見せ場も作ってくるってこと?」

「言い方はあれだけど、そう」

 

 彩葉は小さく苦笑を漏らした。

 結論だけを掴み取って真っ直ぐ突き進むところが、いかにもかぐやらしかった。

 

「じゃあこっちもかっこよく勝つ!」

 

 かぐやは即座に拳を握った。

 その単純さに芦花が笑い、真実も肩の力を抜く。

 だが、笑いが引いた後には、再び真剣な空気が戻ってきた。

 相手がどう見せようと、こちらが負ければ意味がない。

 見せ場を作られる側で終われば、竹取合戦はブラックオニキスのための舞台になってしまう。

 

「だから今回の練習は、チーム全体の動きより局所戦を重視した方がいい」

 

 ヨミは戦場を見渡しながら言葉を続けた。

 複雑だった戦況予測が一本の線へ収束していくような口調だった。

 

「大将落としを押す練習や鐘を鳴らすタイミングも必要だけど、それ以前に、牛鬼前や櫓前で崩されたら何もできない。

 帝アキラ、駒沢雷、駒沢乃依。この三人の誰と当たっても、最低限粘れること。できれば二対一でも逃げ切れること。そこが最初の目標になる」

 

 彩葉はマップ上の光点を見つめた。

 SETSUNAで磨いた読み合いは無駄ではない。

 だがSENGOKUでは、読み合いに勝っただけでは足りない。

 背後では牛鬼が動き、横では櫓の鐘が鳴り、遠くでは大将落としが天守閣へ向かう。

 目の前の敵だけを見ていれば、戦場そのものに飲まれる。

 

 それでも。

 ヨミの言葉は、漠然とした不安を明確な課題へ変えていく。

 勝てるかどうか分からない、ではない。

 何を鍛えれば勝ち筋が生まれるか。

 そこへ話が進んでいる。

 

「じゃあ練習相手はどうするの?」

 

 かぐやは光るマップを眺めながら首を傾げた。

 理解しようとしているからこそ浮かぶ、素朴で本質的な疑問だった。

 

「ブラックオニキスの人たち本人は呼べないよね?」

「呼べたらもう本番だね」

 

 芦花は肩を竦めながら口を開いた。

 もっとも、その内容は冗談ではなく極めて現実的な指摘だった。

 真実は少しだけ残念そうにした。

 

「帝様は呼びたいけど、呼んだら私が練習にならない」

「推し活が勝つんだ」

「勝つね、間違いなく勝つよ」

 

 真実は一切迷わなかった。

 推しを前にした自分がどうなるかなど、本人が一番よく分かっていた。

 そのやり取りに小さな笑いが起きた直後、ヨミがごく自然に口を開いた。

 

「私と雷さんはツクヨミ内でのフレンドで一緒にKASSENをする程度の仲だけど、自陣を袖にして練習相手になってくれとは流石に言えないかな。だから練習相手は──私がやるよ」

 

 空気が止まる。

 ヨミはマップから顔を上げ、特に気負った様子もなく続けた。

 

「帝アキラ役、駒沢雷役、駒沢乃依役。武器と動きを順番に変えれば、ある程度は再現できる」

 

 一拍置いて、かぐやがゆっくりとヨミを見た。

 

「……ある程度?」

「うん」

「三人分?」

「そう」

「武器も動きも全然違うよ?」

「違うね」

「それを?」

「やれなくはないかな」

 

 あまりにも平然としていた。

 だからこそ全員が言葉を失う。

 かぐやは「おおー」と単純に感動し、芦花は半分呆れたように目を細め、真実は推しの再現という単語に期待と恐怖を同時に覚えていた。

 彩葉だけは、以前ヨミと戦った時の感覚を思い出していた。

 あの対応力。

 あの観察眼。

 あの、こちらが一手を選ぶ前に選択肢そのものを狭められていくような圧迫感。

 確かにヨミならできるかもしれない。

 そう思えてしまうこと自体が、すでに少しおかしかった。

 

「対人最上位勢って、そういうことまでできるんだ……」

 

 真実は感心したように呟いた。

 その声には驚きと納得が半分ずつ混じっていた。

 

「普通はできないと思うよ」

 

 芦花が冷静に返す。

 ブラックオニキスの三人の戦闘スタイルはそれぞれが全く異なる。

 それをことなげもなく再現可能という言葉が対人上位勢のおかしさが際立たせていた。

 

「だよね?」

「たぶんね」

 

 ヨミは小さく首を傾げる。

 その様子には誇示も気負いもなく、出来て当然のことを話しているだけだと言わんばかりの自然さがあった。

 

「完全再現とは言わないけど、本番前の経験値としては足りると思う」

 

 その言葉を聞いて、彩葉は深く息を吐いた。

 怖いほど心強い。

 そう思った。

 ブラックオニキスがどう来るか分からないという霧の中に、ヨミの分析と提案が一本の道を引いていく。

 その道が険しいことに変わりはない。けれど少なくとも、どちらへ足を踏み出せばいいのかは見えた。

 

「お願いします」

 

 彩葉は静かに頭を下げた。

 

「私達に、ブラックオニキスの戦い方を教えてください」

 

 その言葉に、かぐやも慌てて背筋を伸ばす。

 

「お願いします!」

 

 真実と芦花もそれぞれ頷いた。

 ヨミは少しだけ目を細める。

 

「うん──任された」

 

 そして、立体マップ上に練習用のチーム分けが表示された。

 彩葉、かぐや、真実。

 対するは、ヨミ、芦花、そしてお助け枠として呼び出されるヤチヨ。

 青白い光の戦場が、静かに彼女達を待っていた。

 

 

 立体マップの青白い光が静かに明滅する中、作戦会議はいったんの区切りを迎えようとしていた。

 誰もがこれから始まる実戦形式の練習へ意識を切り替え始めていたその時、不意にかぐやが「あっ」と声を上げる。

 何かを思いついた子供のように目を輝かせながら、勢いよく手を挙げた。

 

「そうだ!」

 

 全員の視線が集まる。

 かぐやは悪戯を思いついた猫のような顔でヨミを見た。

 

「配信してもいい?」

 

 一瞬の沈黙。

 だがヨミは考える素振りすら見せなかった。

 

「いいよ」

 

 即答だった。

 あまりにも早い返事に、逆にかぐやの方が一拍遅れる。

 

「え?」

「配信でしょ?」

「うん」

「別に構わないよ」

 

 まるで今日の天気を答えるような気軽さだった。

 その言葉を聞いた瞬間、かぐやの顔がぱあっと花開く。

 

「やったあああああ!!」

 

 歓声と共に飛び跳ねる。

 金色の髪がふわりと舞い、尻尾があれば全力で振っていただろうという勢いだった。

 彩葉は思わず苦笑する。

 ヤチヨカップは勝敗だけを競う大会ではない。

 ライバーとしてどれだけ新規ファンを獲得できるか。

 どれだけ多くの人の心へ爪痕を残せるか。

 それもまた重要な評価項目だった。

 つまり今この場は、対ブラックオニキス戦へ向けた練習であると同時に、新規視聴者へ自分達を売り込む絶好の機会でもある。

 そんな餌を目の前へぶら下げられて見逃すほど、かぐやはライバーとして甘くなかった。

 

「配信タイトルどうしようかな! ブラックオニキス対策会議! それとも最強の助っ人襲来!? いや、ヨミ降臨!? うーん!」

「まだ始まってもないのに盛り上がり過ぎでしょ」

 

 彩葉が呆れたように言うと、かぐやはむしろ待っていましたと言わんばかりに胸を張った。

 

「ライバーたるもの、チャンスを見つけたら全力で飛び込むべしなのだ!」

 

 金色の髪を揺らしながら高らかに宣言する姿は、戦場へ赴く武将というより、新しい玩具を見つけた子供に近い。

 

「その前に勝つための練習をしなさい」

 

 彩葉が冷静に釘を刺す。

 

「はーい!」

 

 返事だけは驚くほど素直だった。

 もっとも、その返事を口にした直後には既に空中へ配信設定ウィンドウを展開しているのだから、説得力など欠片もない。

 半透明のパネルが次々と開かれ、タイトル欄へ文字が入力されては消え、入力されては消えていく。

 

『ブラックオニキス討伐会議!』

『最強助っ人襲来!?』

『ヤチヨカップ優勝計画!』

『帝覚悟しろ配信』

 

「最後のは絶対やめなさい」

 

 彩葉が即座に却下した。

 

「えー」

「えーじゃない」

 

 真実が横から覗き込みながら吹き出す。

 

「でも帝様の切り抜き師さん達は喜びそう」

「だから喜ばなくていいの!」

 

 即座に返ってきた彩葉のツッコミに、その場へ小さな笑いが広がった。

 重かった空気が少しだけ軽くなる。

 ブラックオニキス。

 その名前を聞くだけで感じていた巨大な壁の存在が、ほんの少しだけ遠ざかったような気がした。

 もちろん現実は変わらない。

 相手は頂点だ。

 圧倒的な人気と実力を兼ね備えた絶対王者。

 

 それでも、こうして仲間達と肩を並べて笑っていると、不思議と戦える気がしてくる。

 戦う前から負ける理由を数えるより、勝つために出来ることを考える方がずっと楽しい。

 そんな空気が少しずつラウンジを満たしていた。

 

「よし!」

 

 かぐやが勢いよく両手を叩く。

 

「始めるよー!」

 

 軽快な電子音が鳴り響く。

 配信開始。

 その瞬間、ラウンジ上空へ巨大なモニターが展開された。

 コメント欄、視聴者数、エモート、スーパーチャット欄。

 見慣れた配信者用インターフェースが次々と表示される。

 

「かぐやっほー。かぐやだよー」

 

 元気いっぱいの挨拶と同時にコメント欄が爆発した。

 

『来たあああああ!』

『ゲリラ配信たすかる、ラスカル』

『ブラックオニキス対策!?』

『ヨミおるやん!?』

『ガチで本人じゃん』

『面子豪華すぎぃ! 』

『ほういろPに加えてROKAとまみまみですか……たいしたものですね』

 

 文字列の奔流が滝のように流れ続ける。

 視聴者数も目に見えて増加していた。

 数字が跳ね上がるたび、かぐやの機嫌も比例して上昇していく。

 ヤチヨカップは勝敗だけで決まる大会ではない。

 どれだけ新しいファンを獲得できるか。

 どれだけ多くの人へ存在を刻み付けられるか。

 それもまた勝敗を左右する大切な要素だった。

 だからこそ、かぐやはこの機会を逃さない。

 戦いの前ですら、自分を見てくれる人を増やそうとする。

 その貪欲さは、ある意味でトップライバーの資質そのものだった。

 

「ふふふ、集まってる集まってる!」

 

 視聴者数の伸びる数字を見ながら、かぐやは満足そうに何度も頷く。

 その様子に彩葉は苦笑を漏らした。

 つい先程までブラックオニキスという巨大な壁を前に焦りを見せていた少女が、今ではすっかり配信者の顔になっている。

 ある意味では羨ましい切り替えの速さだった。

 

「今日はブラックオニキスを倒すための特訓なのだー! そして協力してくれるのは――」

 

 そこでわざとらしく間を作る。

 コメント欄が期待でざわつく。

 そして。

 

「ヨミ! ダメもとで呼んだら来てくれたよ!」

「呼ばれたので来ました。かぐやいろPチャンネル優勝に微力を尽くします」

 

 名を呼ばれた当人は、相変わらず落ち着いた様子だった。

 だが視聴者側はそうではない。

 

『微力……? よし微力だな! 通ってヨシ!』

『その微力で対人界隈最上位に君臨しているのですがそれは』

『呼んだら来てくれたよー……そうはならんやろ』

『なっとるやろがい!』

 

 コメント欄は完全に祭りだった。

 流れていく文字列はもはや川というより濁流であり、視線を合わせようとした瞬間には次の話題へ押し流されている。

 視聴者数も着実に増え続け、画面端の数字は今この配信がどれだけ注目されているかを雄弁に物語っていた。

 

 そんな熱気に包まれる中、不意に芦花が顎へ指を当てた。

 

「ていうかさ」

 

 彼女は巨大モニターへ流れるコメント群を眺めながら首を傾げる。

 

「これ、公開して大丈夫なの?」

 

 その一言で、少しだけ場が静まった。

 かぐやが「ん?」と首を傾げ、彩葉も視線を向ける。

 

「ほら、ブラックオニキス対策なんでしょ? 練習内容とか作戦とか、配信したら相手に見られる可能性あるじゃん」

 

 もっともな指摘だった。

 今やこの配信には数万人単位の視聴者が集まっている。

 この後さらに数字は伸びるだろう。

 見ようと思えば誰だって見られる。

 それこそ、ブラックオニキス本人たちだって。

 

 彩葉も僅かに眉を寄せた。

 確かに考えなかったわけではない。

 だが、その懸念に答えたのはヨミではなく真実だった。

 

「それは多分、大丈夫だと思う」

 

 柔らかな声だった。

 けれど、そこには推しを長く追い続けてきた者だけが持つ確信が宿っていた。

 

「帝様って、そういうことしないんだよね」

 

 真実は少しだけ笑う。

 好きなものを語る時特有の熱が、その声音へ自然と滲んでいた。

 

「対戦相手の練習配信を見て答え合わせするみたいな勝ち方は、多分好きじゃないと思うんだ」

 

 そこで一度言葉を区切り、少しだけ遠くを見るような目をした。

 

「帝様って、勝つことそのものよりも、『どう勝つか』を大事にする人だから。勝利は前提で、その上で観客を楽しませたいし、相手の全力も引き出したい。

 だからきっと、こういう配信を見つけても覗きには来ないと思うの。去年の8月16日の配信で帝様本人が話してたし」

 

 コメント欄にも同意する声が流れ始める。

 

『それはそう』

『帝なら確かに見ない気がする』

『解像度高い』

『ガチ勢の説得力、なんで配信内容とその日付まで覚えてるんですかね(震え声)』

『まみまみさんまた早口になってる』

 

「なってないもん」

 

 即座に返した真実へ、かぐやが吹き出した。

 そのやり取りに場の空気が少しだけ柔らかくなる。

 だがヨミは、その会話を聞きながら静かに頷いていた。

 

「私も同意見かな」

 

 ヨミは穏やかな声でそう告げ、小さく頷いた。

 

「ブラックオニキスは強い。でも同時に、競技を興行として成立させることにも誇りを持っているチームだ。だから本番前に相手の答えを覗くようなことはしないと思う」

 

 その言葉には、奇妙な説得力があった。

 帝アキラという人物を知っている者だけが辿り着ける確信。

 そして、その人物を知っているからこそ、決して口には出せない距離感。

 彩葉はその横顔を見つめながら、小さく息を飲む。

 ヨミの分析は、まるで本人の思考をそのまま代弁しているかのようだった。

 

 ヨミは立体マップへ視線を戻す。

 青白い光で描かれた三本のレーン。

 トップ、ミドル、ボトム。

 そして中央に鎮座する二つの櫓。

 指先で空中をなぞると、光の戦場がゆっくりと立ち上がる。

 

「じゃあ、始めようか」

 

 静かな一言。

 それだけで空気が変わった。

 雑談は終わり。

 ここからは実戦だ。

 

 

 ヨミは訓練用ウィンドウを操作する。

『Training Field SENGOKU』

 淡い電子音が鳴り響き、ラウンジ全体が光へ呑み込まれていく。

 床が崩れる。

 壁が霧散する。

 天井を泳いでいた発光魚が無数の粒子となって弾け、その粒子が戦国時代の城郭を模した巨大な演習フィールドへ姿を変えていく。

 

 石畳。

 城壁。

 遠くにそびえる天守。

 風が吹き、草が揺れる。

 足元から伝わる硬い地面の感触まで、現実と見紛うほど精巧だった。

 

「わぁ……」

 

 かぐやが思わず声を漏らす。

 その横で彩葉も自然と呼吸を整えていた。

 ここは遊び場ではない。

 本番と寸分違わぬ戦場。

 ブラックオニキスが立つであろう舞台、そのものだった。

 ヨミは一歩前へ出る。

 その瞬間だった。

 

 ――カチリ。

 

 頭の奥で、小さな歯車が噛み合う音がした。

 視界が静止する。

 世界から色が一枚ずつ剥がれ落ちるように、周囲の景色が僅かに遠ざかっていく。

 代わりに膨大な情報が流れ込んだ。

 

 問い。

 

 ――『帝アキラなら、この状況でどう動く?』

 

 瞬間。

 ヨミの瞳から感情が静かに薄れた。

 それは冷たくなったのではない。

 余分なものが削ぎ落とされ、目的だけが残った表情だった。

 アンサートーカー。

 自動回答反映モード。

 導き出された答えを、身体が一切の誤差・遅滞なく実行へ移す状態。

 思考でもない、模倣でもない、自身が回答そのものになるアンサートーカーの使い方だった。

 

 ヨミの周囲へ黒い粒子が集まり始めた。

 肩から漆黒の毛皮が現れ、赤黒い外套が風を孕む。

 乱れた紅い髪。

 額から伸びる二本の黒角。

 鋭く細められた金色の双眸。

 猛禽を思わせたヨミの意匠は、見る間に鬼をモチーフにしたものへ塗り替えられていく。

 

「え……」

 

 真実の声が震えた。

 彩葉も息を止める。

 画面越しの視聴者達もコメントを打つ手を止めていた。

 

『……は?』

『お、帝のコスプレじゃん、てことはヨミが帝役で練習するの?』

『帝じゃん?』

『ネオアームストロングエンペラーアームストロング砲じゃん。完成度たけぇなオイ』

『武器も帝のものだし、ヨミってトライエッジ以外使いこなせるの?』

 

 ヨミは腰へ手を伸ばす。

 そこにはいつの間にか、一振りの異形の武器があった。

 一見すれば無骨な金属製の棍棒。

 無数の鋲が打ち込まれた重量感ある外装。

 しかし、それは棍棒ではない。

 鞘だ。

 

 右手が柄を握る。

 滑るような居合の動作。

 金属同士が擦れる澄んだ音と共に、内部から細身の長剣が引き抜かれた。

 同時に残された棍棒型の鞘が内部機構を展開し、複数の金属板が音を立てながら折り重なっていく。

 銃床。

 照準器。

 銃身。

 まるで精密時計の歯車が噛み合うような美しい変形機構。

 数秒も掛からず、それは一本のライフルへ姿を変えた。

 

「すご……」

 

 芦花が思わず呟く。

 だが驚くべきは武器ではない。

 その構えだった。

 剣の角度、左足の開き、肩の脱力、重心の動かし方。

 動画を何百回見ても再現できない、帝アキラ本人だけが持つ立ち姿。

 

 それが目の前にいた。

 ヨミではない。

 帝アキラ、そのものが。

 そして。

 彼が、いや――帝アキラが口を開く。

 

「ROKA」

 

 低く、艶があり。

 余裕を感じさせる声。

 配信で何度も聞いた、あの声だった。

 芦花がびくりと肩を震わせる。

 

「ミドルレーンを抑えてくれ。中央は一番俯瞰して戦況が把握できる。無理に勝たなくていい、負けないことだけ考えろ。」

 

 芦花の目が見開かれる。

 続いて帝は視線を動かした。

 

「ヤチヨ」

 

 待機していたサポートAI──お助けヤチヨが前へ出る。

 

「ボトムレーン担当。相手を引き付けろ。人数を集めさせるだけでいい。俺がトップを割る。」

「りょー、お助けヤッチョにお任せあれー」

 

 それは説明ではない。

 命令だった。

 迷いのない。

 勝利だけを見据えた指揮。

 コメント欄が完全に悲鳴へ変わる。

 

『声!?!?』

『すっげー本人じゃん、顔はヨミだけどそれ以外の立ち振る舞いとか遠めだと完全に帝じゃん』

『待て待て待て』

『なんで声まで帝なんだよ』

『鳥肌立った』

『誰だこれ』

『ヨミどこ行った』

 

 真実は両手で口元を押さえたまま、その場へ縫い止められたように立ち尽くしていた。

 潤んだ瞳は目の前の人物から一瞬たりとも離れない。

 呼吸は浅く、胸の奥では心臓が早鐘を打ち続け、耳の奥では自分の鼓動だけが異様なほど大きく響いていた。

 

「うそ……」

 

 漏れた声は震え、かすれていた。

 

「……帝様」

 

 それは確認でも疑問でもない。

 長年追い続け、画面越しに何度も見てきた憧れの存在を前にした時、人が思わず零してしまう本能的な呼び掛けだった。

 もちろん、そこに立っているのはヨミだ。

 頭では分かっている。

 分かっているはずなのに、目に映る立ち姿も、纏う空気も、武器を握る指先の力加減も、獲物を前にした猛獣のような眼差しも、あまりにも帝アキラそのものだった。

 

 彩葉も言葉を失っていた。

 SETSUNAで刃を交えたヨミの姿は知っている。

 しかし今、目の前に立つ人物からはヨミという輪郭がほとんど感じられない。

 アンサートーカーが導き出した"答え"を忠実に実行することで、その場には帝アキラという一人のプレイヤーだけが存在しているような錯覚すら覚えてしまう。

 

 かぐやも、芦花も、コメント欄を流れる何万人もの視聴者も、同じ衝撃に息を呑んでいた。

 そんな張り詰めた空気を、良くも悪くも真っ先に打ち破ったのは、やはり真実だった。

 

「み、帝様ぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

 推しを前にしたオタクの理性など、とうの昔に決壊している。

 頬を真っ赤に染め、胸の前で両手を固く握り締めた真実は、今にも泣き出しそうな表情で一歩前へ踏み出した。

 

「ひ、一つだけ……! 本当に一つだけでいいので……!」

 

 息を吸い込み、意を決したように大きく頭を下げる。

 

「ファ、ファンサくださいぃぃぃぃぃっ!!」

 

 戦場に、ほんの一瞬だけ静寂が落ちた。

 次の瞬間、帝アキラ──ヨミは困ったように肩を竦め、小さく笑う。

 それは何百万人ものファンが知る、配信中によく見せる柔らかな笑みだった。

 気障になり過ぎず、それでいて相手を特別な一人だと錯覚させる絶妙な距離感。その表情までもが寸分違わず再現されている。

 

「……まみは、いつも頑張ってるな」

 

 低く甘い声が耳へ届く。

 優しく、それでいて自然体。

 決して芝居がかった台詞ではない。

 ただ目の前の一人へ向けて語り掛けるだけで、人の心を掴んでしまう声だった。

 

 帝アキラは一歩だけ距離を詰める。

 その金色の瞳が真っ直ぐ真実を捉え、不敵な笑みが少しだけ深くなる。

 

「今日は――俺が、お前にとびっきりの夢を魅せてやるぜ」

 

 その一言が放たれた瞬間、真実の思考は完全に停止した。

 視界が白く染まり、耳には今の言葉だけが何度も反響する。

 帝様。

 俺が。

 夢を魅せてやる。

 その短い台詞だけで、これまで配信を追い続け、切り抜きを見返し、イベントへ足を運び、推し活を重ねてきた時間の全てが胸の奥から一気に込み上げてきた。

 

「…………耳が、幸せぇ……」

 

 ふにゃり、と全身から力が抜ける。

 幸せそうな笑顔を浮かべたまま膝が折れ、その身体は糸の切れた人形のように前へ倒れ込んだ。

 

「ま、まみぃぃぃ!?」

 

 かぐやが慌てて駆け寄り、寸前で抱き留める。

 白目を剥いた真実は微動だにしない。それでも口元だけは、この上なく幸福そうに緩み切っていた。

 

「ちょっ、魂抜けてる!」

「ファンサ一発で戦闘不能ってどういうこと!?」

「まだ試合始まってないよ!?」

 

 彩葉も慌てて駆け寄る一方で、コメント欄は完全にお祭り状態だった。

 

『尊死wwwww』

『推しにワンパンされたwww』

『耳が幸せで気絶は新しい』

『まみまみさんHPじゃなくてSAN値削られてる』

『ブラックオニキス対策配信じゃなかったっけ?』

『開幕一人リタイアしてるんですが』

『ヨミの再現度が高過ぎるのが悪いwww』

 

 画面いっぱいに流れるコメントをよそに、帝アキラ──ヨミはただ静かに小さく笑っていた。

 その笑みも、視線の柔らかさも、立ち去る時の僅かな身のこなしまで、まるで長年ブラックオニキスを見続けてきたファンへ向けた一流のファンサービスそのもの。

 そこにヨミ本人の面影を見出せる者は、もはや誰一人としていなかった。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 ここならぬいづこの物語なり。

 

 人の命は、春の花よりも儚きものなり。

 

 散ると知りながら咲き、消ゆると知りながら誰かを愛し、そして残されし者は、その面影を胸に抱きて歩み続くるものなり。

 

 八千年にも及ぶ旅路の果て、月の姫は、いつしか己を人ならざるものと思ふやうになりぬ。

 

 人と笑ひ合ふことも、人を愛することも、いつしか遠き昔の夢のごとく。

 

 されど、それでもなお、その心は人の温もりを忘れ得ず。

 

 これは、空襲にて焼け跡となりし街に、一輪の花を売り続けし少女の物語。

 

 時は昭和、焦土と化せし帝都にて――

 

 

 昭和二十年。

 空を見上げれば、そこにはまだ青があった。

 だが、その青はどこか薄く、どこか頼りなく、いつ崩れ落ちてもおかしくない硝子細工のように見えた。

 人々は誰もが空を気にして生きていた。

 朝起きればまず天気ではなく、サイレンが鳴らないことを祈り、夕暮れになれば今日も家族が揃って食卓を囲めることを願う。

 そんな日々が、いつしか当たり前になっていた。

 

 街には活気が残っている。

 子どもは駆け回り、井戸端では女たちが噂話を交わし、行商人の声も聞こえる。

 けれど、そのどれもがどこか張り詰めていた。

 笑い声は以前より少しだけ小さく、夕餉の匂いは以前より少しだけ質素で、人々の視線は無意識のうちに空を確かめてしまう。

 戦争というものは、砲弾だけではなく、人の心まで少しずつ削っていくものなのだと、かぐやは知っていた。

 その街角の一角、崩れかけた石垣の上では、今日も白いウミウシがのんびりと日向ぼっこをしていた。

 

「かぐやちゃん!」

 

 弾むような声とともに、小さな足音が近付いてくる。

 かぐやはゆっくりと身体を向け、小さく笑った。

 

「おはよう」

 

 少女は、はい、と言いながら一本の花を差し出した。

 道端に咲いていたのであろう、薄桃色の小さな花だった。

 名も知らぬ野花で、花屋へ並ぶような立派なものではない。

 それでも朝露を纏った花弁は光を受けてきらきらと輝き、その小さな命が精一杯春を歌っているようだった。

 

「今日はこれ!」

「ありがとう」

 

 かぐやは大切そうに花を受け取る。

 最初は偶然だった。

 少女が綺麗だからと摘んできた花を何気なく渡しただけ。

 それが翌日も、そのまた翌日も続き、気付けば二人の間では「朝になったら花を一本渡す」という習慣になっていた。

 世間は彼女を"花売り"と呼ぶ。

 

 けれど、それは花を売るという意味ではない。

 春を売る少女。

 そんな、大人だけが知る婉曲な呼び名だった。

 だから、この一輪だけは違う。

 誰かへ売るものではなく、ただ友達へ贈るためだけに摘まれた花だった。

 かぐやは、そのことを誰よりも大切に思っていた。

 

「今日は何のお花?」

「わかんない!」

 

 少女は屈託なく笑う。

 

「でもね、朝日が当たってて一番かわいかったから!」

「ふふっ」

 

 思わず笑みが零れる。

 

「名前は知らなくても、綺麗だと思えたなら十分だよ」

「でしょ?」

 

 少女は得意げに胸を張った。

 歳の頃は十を超えて幾年か。

 艶のある黒髪は耳元で短く切り揃えられ、丸みを帯びた幼い頬には健康的な赤みが差している。

 少し垂れた大きな瞳は、何を見ても楽しそうに輝き、笑えば春の日差しのように柔らかく細められる。

 身に纏うのは白い国民服の上衣に、桃色のもんぺ。

 幾度も繕われた跡が袖口や裾に残り、決して裕福とは言えない暮らしぶりを物語っていたが、それでも彼女はそんなことを気にする様子もなく、裾を揺らしながら笑っている。

 

 その笑顔だけは、このご時世の戦争の影を寄せ付けなかった。

 かぐやは、そんな少女を見つめながら思う。

 

 ――人間は、本当に強い。

 

 明日の保証などどこにもない時代で、それでも今日を笑い、花を綺麗だと言い、誰かへ渡そうと思える。

 月で過ごしていた頃には知らなかった強さが、この星には確かに息づいていた。

 だからこそ、かぐやはこの街へ足を運び続けていた。

 少女と話すため。

 今日という一日が、まだ穏やかであることを確かめるため。

 そして何より、その小さな笑顔を見ていると、遠い未来で必ず再会すると誓った少女――彩葉の面影が、ほんの少しだけ胸の奥で温もりを取り戻してくれるような気がしたからだった。

 

 

 そんな穏やかな日々が、永遠に続くはずもなかった。

 その日も朝はいつもと変わらず始まり、少女は一本の野花を摘んでは「今日は黄色だよ」と笑い、かぐやも「昨日は桃色だったのにね」と他愛もない言葉を返していた。

 笑い合う時間は、決して長くはない。

 少女には少女の生活があり、かぐやにも長い旅がある。それでも、朝のほんの数分だけは二人だけの時間だった。

 だからこそ、その静かな習慣は、かぐやにとって何物にも代え難い宝物になっていた。

 

 その日の昼過ぎだった。

 空が、鳴いた。

 遠雷にも似た重低音が、腹の底を震わせるように響き渡る。

 かぐやはゆっくりと空を見上げた。

 雲ではない。

 鳥でもない。

 黒い点が、幾つも幾つも西の空を埋め尽くしていた。

 点はやがて列となり、列は壁となる。

 空そのものを覆い隠すほどの巨大な編隊が、地平線の向こうから静かに、けれど圧倒的な質量を伴って近付いてくる。

 

「……え」

 

 少女も、その異様な光景に立ち尽くしていた。

 街の誰かが叫ぶ。

 

「敵機だァァァッ!!」

 

 その一声を境に、世界は崩壊した。

 けたたましい空襲警報が街中へ響き渡り、人々は悲鳴を上げながら一斉に走り出す。

 母親が子どもの手を引き、荷車は横転し、自転車は投げ捨てられ、さっきまで笑っていた市場は瞬く間に阿鼻叫喚へ変貌していく。

 誰もが生き延びようと必死だった。

 誰もが誰かを呼び。

 誰もが誰かを探していた。

 そして。

 空から、最初の爆弾が落ちた。

 

 轟音。

 鼓膜を突き破るような爆発音とともに地面が跳ね上がり、石畳は砕け、木造家屋が紙細工のように吹き飛ぶ。

 熱風が頬を殴りつける。

 硝煙と土埃が視界を覆い、燃え上がった炎がまるで生き物のように街路を這い始める。

 その一発は、始まりに過ぎなかった。

 次々と投下される焼夷弾。

 

 赤く染まる空。

 崩れ落ちる家々。

 泣き叫ぶ子ども。

 助けを求める声。

 焼ける木材の爆ぜる音。

 人が、人であることすら許されなくなるような地獄が、一瞬にして街全体を飲み込んでいく。

 

「かぐやちゃん……!」

 

 少女が叫ぶ。

 その小さな身体は恐怖で震え、握っていた花はいつの間にか地面へ落ちていた。

 

「こっち!」

 

 かぐやも必死に叫ぶ。

 白い身体を懸命に動かしながら少女を導こうとする。

 だが、その時だった。

 爆風に煽られた二階建ての家屋が、不気味な軋みを上げる。

 柱が折れた。

 梁が傾く。

 巨大な木材の塊が、少女めがけて崩れ落ちる。

 

 逃げ切れない。

 かぐやは理解した。

 間に合わない。

 どれだけ叫んでも、この距離では届かない。

 

「──ッ!」

 

 その瞬間。

 土煙を切り裂くように、一つの影が飛び込んできた。

 迷いなど、一切なかった。

 少女の身体を抱え込み、そのまま勢いよく地面を転がる。

 次の瞬間、先ほどまで少女が立っていた場所へ、轟音とともに家屋が崩れ落ちた。

 瓦礫が舞い、火の粉が吹き荒れ、土煙が辺り一面を包み込む。

 

 少女は呆然としたまま、自分を庇うように覆い被さっている少年を見上げた。

 年の頃は、自分とそう変わらない。

 日に焼けた肌に、少し癖のある黒髪。

 擦り切れた国民服の上衣を羽織り、膝には幾度も繕われた跡の残る半ズボンを履いている。

 戦時下では珍しくもない質素な身なりだったが、その瞳だけは、この混乱の中にあってなお不思議なほど静かで、どこか大人びた落ち着きを湛えていた。

 少年は少女の肩へそっと手を添え、安堵したように微笑む。

 

「……怪我はない?」

 

 その優しい問い掛けが、爆撃の轟音に呑まれそうになりながらも、少女の耳へ確かに届いた。

 そして、その姿を見たかぐやの身体が、小さく震える。

 初めて会うはずなのに。

 初めて見る顔のはずなのに。

 忘れるはずのない、誰かの気配が胸の奥底で、かぐやに再会の鐘を鳴らしていた。




・今回の話での主人公
 覚 悟 完 了

・アンサートーカーの自動回答反映モード
 今回は帝アキラのトレースに使用しましたが、要は人力TAS状態のこと。

・主人公の姿絵 ※AIになります。胸がある気がするけど鳩胸という事にしとこう、ヨシ!
 ①ツクヨミアバター
【挿絵表示】

 ②ツクヨミアバター(今話)
【挿絵表示】

 ③各時代姿一覧
【挿絵表示】
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