ハッピーエンドの、道のあと 作:駒井亀丸
『書類、サインして、一応速達で送り返しといたから。明日には確実に着くやろ』
「うん。ありがと――お兄ちゃん」
大学に上がって最初の夏。その夜半。
デザイナーズタワーマンション。3LDK。最上階部屋。家賃三十五万円。
独り暮らしの女子高校が住まうには到底不釣り合いなその部屋の作業部屋で、私は兄と映像付きで通話していた。
VR空間『ツクヨミ』ではない。
あちらにもプライベートを保護するための固有スペースや個別チャット機能はあるものの、それでもそれなりに踏み込んだ、生々しい話をする以上は、素顔を突き合わせて会話した方が何かと都合が良かった。京都弁と標準語が織り交ざるのが、ちょっとばかりぎこちなくて、こそばゆい。
そもそも、あちらでのこのヒトは、私、
自然、その荒くれ鬼じみたアバターと、演じている俺様キャラクターに引っ張られた言動になって、その言動は終始キザったらしくて、なんだかムズムズする。
画面の向こう、暗い部屋の中で、謎にうすぼんやりと光る箸でモソモソと総菜を掻っ込む、顔は良いがそれを打ち消すほど野暮ったい男がそれだとは、まさか誰も思わないだろう。
『来年からはちゃんと母さんに頼めよー』
釘を刺され、ぐぅと言葉を詰まらせる。
……互いの意思と展望をぶつけ合い、母とはある程度折り合いをつけることができた。
それでもまだ時折、微妙にヒリつくことがある。
けどもこれとはまた別問題で、これ――マンションの更新手続きに関しては、完全に忘れていた。また実家に帰った時にでも保証人欄にサインと捺印をしてもらえば良いかと思っていたが、その実家に帰ること自体、無精していた。
そして組み上げた将来設計とカリキュラムに忙殺される毎日を過ごし、気が付けば――更新期限は、あと数日に迫っていた。所詮あぶく銭。いつ転ぶか分からないと、短期の契約だったことも良くなかった。
「こーゆーのってどうして、変にアナログなんだってッ!?」
などと半泣きで毒づこうとも、どうしてもやはり身元保証人のサインと実印が必要になる。
速達で往来させても間に合うかどうかはわからない。実家に帰る時間はない。そもそも、母に頼んだところでどーせ薄笑いを浮かべてネチネチネチネチ、実娘に対して姑のごとく小言を畳みかけてくるのは目に見えている。
それだったら、と同じく上京している兄の情けに縋るよりほかなかった。
……本当に、人間ひとりでは簡単に生きていけないものだ。
『やっぱ、いっそ家買った方が良くね? こういう面倒もついて回るしさぁ』
「それはダメ」
さすがに甘えすぎというかお金がもったいないとかじゃない。
ここは、かぐやの帰る家だから。
ハッピーエンドというパズルのために、欠けてはいけない大きなピースだから。
かぐやの置き土産たる貯金が、日に日に目減りしていくことはなかなかにクるものがあるけど、かぐやが抜けたことで落ち込んだ収入を持ち直し、黒字回復させるまでは、ヤチヨと二人三脚、周りの助けを借りながら踏ん張るしかない。
『……ま、好きにやれば良ぇ。なんかあったら責任の半分ぐらいは、肩代わりしたる』
しみじみとそう言うお兄ちゃんに、私は心の中で頭を下げた。
本当に、迷惑をかけ通しだ。
――Black onyX。
二〇三〇年の九月十二日。かぐやが月に帰った運命の日。
あの戦いの後、彼らは、所謂『プチ炎上』した。
問題になったのは、チートの使用疑惑――いやまぁ、事情は事情でも、使ったのは事実だけれども。
かぐやの正体、迎えに来る宇宙人たち。
説明したところで、まずこちらの正気が疑われかねない頼み事に対して、本気とも
その代償を、負った。
ただ、月の人たちの、あまりに常軌を逸した姿や性能と、運営(もといヤチヨ)が『それも含めて演出の一環だった』と正式に声明を出したことで、どうにか一応の収束を見せた。
代わりにそのことを事前に通達しないままに『引退』をしたかぐやにちょっと飛び火した感じはあったものの
『まぁかぐやちゃんならしょうがない』
『いろP仕事しろー』
というファンたちによる納得とフォローで、そちらはさっさと自己収束してしまったのだ……なんだその謎の信頼感。
「やれやれ、お姫様を助けるつもりが逆に助けられちまった」
例の帝サマの口調と共に肩をそびやかしてみせたが、それでもスポンサーやファンたちからの、彼らが失った信頼を取り戻すのに、どれほどの努力を必要としたか。察するに余りある。
……感謝はしているけれど、せめて一言ぐらい、相談があっても良さそうなものだ。心臓に悪い。
器用に立ち回るくせに、変なところで思い切りが良くて、そしてそのことを実行に移すまでおくびにも態度に出さないところが、今日に至るまでの兄の悪いところだと思う。
ちょっと、その時のことを思い返して、わずかに感謝よりも悔しさが勝った。
なので、
「ていうか、何そのゲーミング箸。ていうかもっと灯りぐらい点けたら?」
ずっと気になっていたことを、意地悪く指摘する。
暗室にて、虹色に光る箸を光源に、海外ドラマでよく見る箱入りのヌードルをたぐっている兄は、「あん?」といった感じでメガネの奥の目を吊り上げたものの、すぐに目元を戻し、深々と溜息を吐いた。
『しゃあないやろ。泊りに来てる相方起こさんよう、これでも気ィ遣てるんやから。アイツも、こっから大切な時期やし』
「……ん? 相方って……え、え?」
声をひそめて言うお兄ちゃんは、私の追及に対して目を伏せるようにした。ひょっとして今、思いがけず帝アキラのとんでもないスキャンダルに踏み込んでしまったのかもしれないのか。
『んー、まぁ、何? 俺自身、混乱しとる。頭が追いついとらん。きちんと整理ついたらあらためて紹介する……彩葉、その時には逆にフォロー頼むわ』
「いやいやいや? 逆にって何? 何を? 誰を?」
京都訛りの質問はことごとく受け流され、『じゃあな』と切られた。
……なんだか、無精と見落としのせいで、とんでもない貸しを押し付けられた気がする。
たとえ八千年の記録を脳内に叩き込まれたとしても、兄は相変わらずすごい人で――かなわん人――だった。
その人が、珍しいことに人に頼みごとをするのだ。兄も、一人で生きていけるわけではないのだ。
今から恐ろしいが、仕方ないから、頼まれてやろう。
そのデカい貸しの余剰分はいつかまた、その強さに甘えるときに返してもらうから。