現代知識“だけ”ある記憶なし無自覚転生者が、訳あり行き倒れを拾う話 作: トウコ
ゲ謎クロスオーバーです。
原作の流れそのものに介入及び改変をしません。
長く生きていると、思いがけない再会がある。
そして時折、その何気ない日が、いつまでも心に残ることがある。
これは、そんな再会から始まった、名もなき日々の話。
新しい職場の上司に引き合わされた、先輩タイピスト。
その顔に見覚えがあった。
「あら」
音をつけるならパチクリ。
こちらを見て目を瞬かせる女性に、同じ視線を返す。
「岩子君、知り合いかね」
「ええ、以前ちょっと…」
その“以前”は元号が二つ変わる前のことだと、上司の男は知る由もない。
「ひさしぶり、変わらないわね」
「ええ、そちらも」
旅先で開かれた妖怪たちの集まりで、幾度か顔を合わせた幽霊族の女性。
言葉を交わしたのは、せいぜい挨拶程度の相手。
会社勤めをしてみたい。
そんな軽い理由で入社した商社で、私は岩子と名乗る彼女と同僚になった。
午前の業務が一段落つくと、丁度正午のサイレンが鳴った。
岩子に昼食に誘われ、街中を連れ立って歩く。
春風に若葉が揺れ、昼休みの街へ一斉に人があふれ出す。足早に食堂へ向かう者もいれば、店先で足を止める者もいる。
岩子は目につく店先を覗きながら楽しげに歩き、私はその背中から一歩離れて歩いた。
彼女が贔屓にしているという洋食屋は、会社からほど近くにあった。
硝子戸を押すと、バターとカレー粉の匂いが鼻をくすぐる。
案内された席で岩子は迷わずライスカレーを頼み、私はオムレツを注文した。
ナフキンを広げていると、岩子は早々にそれを膝へ広げ、少し身を乗り出した。
「ねえ、額月さん。私、あなたと以前から話をしてみたかったの」
「そう。何か気を引くようなこと、あったかしら」
「ええ、たくさん!」
弾むような声でそう言う岩子に、首を傾げる。
「だって、人に紛れて暮らす者はいても、会社勤めをする人なんて滅多にいないもの」
「やったことがなかったから、興味があったの。何事も経験だと思って」
「やっぱり、あなたって面白い」
「そうかしら」
好奇心を隠そうともしない岩子へ問い返す。
「なら、あなたの方はどうして会社勤めを?」
「楽しそうだから。あと、素敵じゃない?タイピスト。モダンガールらしくて」
「なるほど。確かに、特定の文化の一員となるという視点も面白いわ」
自分と違う感性に触れるのも興味深いものだ。
グラスを傾け冷えた水で喉を潤しながら、身振りを交えて話す岩子を眺めた。
注文した料理が来ると、早速食べ始めることにした。
バターの香るオムレツは絶妙な火加減で焼かれ、艶やかな表面を割れば細かい半熟のスクランブルエッグが顔を出した。
それをひとすくいし、ゆっくりと味わう。
「とても美味しい」
「ここのご主人、元は帝國ホテルでフレンチを作っていたんですって」
「そうなの。本場に近い味だわ」
岩子はテーブルに頬杖をつき、興味津々といった様子でこちらを見ている。
「行ったことがあるの?」
「ええ。ほんの数年だったけれど……」
「本当に色んなところを旅してるのね!他にはどんなところに行ったの?ずっと一人で?」
「遠方は一人が多いわ。近場は時々古馴染みと」
旅先での取り留めもない話をしながら、食事をする。
私が話せば岩子はよく笑い、時折質問を挟む。その調子が心地よく、気付けばこちらも口数が増えていた。
しかし彼女はこちらから言質や情報を引き出そうとしているわけではなさそうだ。
話題はテーブルの上を転がるように、変わったり、跳ねたり、戻ったりしていた。
旅をする上で、土地の者への挨拶は欠かせない。
集まりへの参加は、その一環だった。
幽霊族――彼女とその伴侶は、どの集まりでも自然と輪の中心にいた。
流れ者が気軽に話し掛けるような相手ではない。
このように肩を並べて話すようになるのは、予想外のことだった。
本音を言えば、人外との付き合いは少々面倒だ。
何を話して言質を取られ、契約を迫られるか。その線引きは相手次第。
人ならざる者になって久しいが、未だにその文化には馴染めない。しかし――
食後の珈琲に口をつける岩子に目をやると、丁度こちらを見た彼女と目が合う。
湯気の向こうで岩子は穏やかに目を細めた。
――少しくらいなら、付き合ってもいいだろう。
仕事に慣れ生活も落ち着き、桃弓木を訪ねて抽斗通りへとやってきた昼下がり。
「――それから、いつもその“岩子ちゃん”と飯食ってるのか」
「そうだね。同じ部署で席が隣だから、昼はそのまま」
断ろうと思えば断れる。無理強いはされてない。
岩子はこちらを支配しようとしない。そうなると距離を置く理由もない。
ただの一個人として接し、そう扱われる気安さは心地よい。
彼女と過ごす時間は、不思議と長く感じない。こういう縁は得難いものだと、しみじみと思う。
働き出す前は、こんな風に昼食が楽しみになるとは思わなかった。
「そうか、幽霊族……」
桃弓木は下を向きながら、呟く。内職の紙箱を組み立てる手が止まっていた。
私は一声かけて立ち上がり、台所へ行く。
薬缶を火にかけ、持参した茶葉の封を切りながら、思い返した。
岩子から聞いた昔話は、静かで穏やかな口調とは裏腹に重いものだった。
神話の時代、天敵であった疫病神が討たれ人類は爆発的に数を増やした。
その人類に住処を追われ、狩られ、数を減らした幽霊族。
今や彼女とその伴侶が最後の二人だと言う。
人類が栄えた要因は、きっと一つではない。
ましてや、その人類の非道な行いの責任は、最早誰も取れない。
そんなことは、きっと桃弓木もわかっている。
それでも――口を拭って無かった事にできない人だから、彼は今ここにいる。
お茶を入れて戻ると、桃弓木は先程と同じ姿勢で俯いている。
紙箱は最後まで折られないまま、卓に置かれていた。
「一息ついたら」
茶托に湯飲みを乗せ、卓の上に置く。
桃弓木はのろのろと顔を上げた。
「……ああ。いい匂いだな」
「岩子のおすすめ。このお店のお茶、旦那さんも好きなんですって」
桃弓木の指先が、湯飲みに触れたまま止まる。
「二人は小さい家を借りて、静かに暮らしているの。子猫が時々庭に遊びに来るのが楽しみで……旦那さんは縁側でいつも待ってるらしいわ」
桃弓木は口を噤み、茶托に置かれた湯飲みを見ている。
「休みの日は賑やかな場所にも行くんですって。先週は二人で百貨店の屋上でクリームソーダを喫したとか」
「そう、か……そうなのか……」
岩子とその伴侶が恨みつらみを募らせているような存在だったなら、私は早々に距離を置いていただろう。桃弓木に話すこともなかった。
特に引き合わせるつもりはない。
けれど、岩子との付き合いを続けると決めた以上、桃弓木があの夫婦と顔を合わせる可能性はある。
その時、何も知らないままその場に立たせるつもりはなかった。
お茶を一口飲んで息をつくと、豊かな香りが広がり、思わず顔がほころぶ。
「私ね、岩子とは気が合いそう。良い縁に恵まれたわ」
「……ああ、そうだな」
そう言って、桃弓木も湯飲みを手に取り――ゆっくりと口をつけた。
「うん」
桃弓木は目を伏せ、小さく口元を緩める。
「……美味いよ」
その目は眩いものを見たように眇められた。
音をつけるならギョロリ。
上背のある男は見定めるように、白髪の隙間から大きな目でこちらを見ている。
商社勤めを始めて季節が一巡りした春の夕暮れ。
招かれた家の玄関で、私は岩子の伴侶と向かい合っていた。
「ふむ。京の北方の山を根城にしておった鬼じゃな。滅法強く、誰にも負けたことがないと聞く」
「無駄な争いをしないだけ。荒事は好きではないから」
ひりつくような空気の中、赤い瞳を見つめ返す。
ややあって、
「……そのようじゃ」
大きな目が糸のように細められ、空気が霧散した。
上がるがよい。あっさりそう言うと、男は踵を返して室内へ入って行く。
「おじゃまします」
私は靴を脱いで揃えると、その後に続いた。
室内に入ると、料理を配膳していた岩子の笑顔に出迎えられる。
「いらっしゃい。ここまで迷わなかった?随分入り組んでいるでしょう」
「大丈夫、聞いていた通りだったから。これ、よかったら食後にでも」
紙袋を受け取った岩子が中を見ると、パッと顔を輝かせる。
「サクランボ!うちの人も大好物なの」
「そう。良かった」
白髪の男は縁側に座りながら、紙袋を視線だけで追う。
岩子はその視線に気付くと、小さく笑って紙袋を抱え直した。
岩子の伴侶とも、これまで何度か集まりで顔を合わせている。
挨拶以外の言葉を交わしたことはなく、初めて交わした会話が先ほどのものだ。
「ごめんなさいね。この人、自分が出迎えるって聞かなくて」
「謝るようなことはないわ」
異形を隠す者の正体を言及するのは、ぶしつけな行為とされている。
もっとも、家に上げる相手を自ら見定めるのは家長として当然と言えよう。
配膳が終わり、三人で食卓を囲む。
食卓には湯気をたてる煮物や焼き魚、旬の野菜を使った料理が並んでいた。
岩子の伴侶の方を向き、改めて名乗る。
「私は額月。岩子と仲良くさせて貰っているわ」
「うむ、よう来た。妻の料理はどれも絶品じゃからな。存分に味わっていくがよい」
「ありがとう」
白髪の男は腕を組み鷹揚に頷くと、得意げに胸を逸らす。
岩子はその横でくすぐったそうに笑い、伴侶に身を寄せる。
胸に温かな火が灯るような二人の様子に、私も顔を緩めた。
春の夕餉は穏やかで、笑い声は絶えなかった。
私はその光景を、長く覚えていることになる。
カタカタカタ、カタカタカタ、チン。
キャリッジを左へ戻すと、インクと金属の匂いがふっと立つ。
カタカタッカタ、カタカタッカタ。
隣の岩子の打鍵は軽快だ。
以前、私はその音が彼女の機嫌を表しているようだと言ったことがある。
すると岩子は、私の音は常に一定だと笑った。
もっとも就業中は私語厳禁。
そろそろ正午のサイレンが鳴る。この書類を仕上げたら丁度だろう。
手元は正確に動かしながらも、思考は今日の昼食について巡らせる。
最近はどの店も材料の仕入れが難しいという。そのため私たちの昼も近頃は弁当だ。
食べる場所は……見晴らしの良い屋上がいい。
そこで岩子と弁当を広げる光景を思い浮かべると、少し口角が上がった。
書類を仕上げ、包みを持って席を立つ。隣の岩子の方を見ると、彼女は頷いた。
営業課に書類を回しに行くついでに、場所を確保しよう。
そう思った矢先、書類の依頼者である男性社員がこちらへ歩いてきた。
この書類に緊急性はないはず。
――ああ、またか。
私から書類を受け取った男性社員は、隣の岩子に声をかけた。私は内心、眉をひそめる。
岩子は少し眉を下げて頷き、それについて行った。
その背中を見送ったところで正午のサイレンが鳴り、小さくため息をつく。
今日はこの席で食べよう。
他の同僚と話しながら弁当を食べていると、比較的早く岩子が戻ってきた。
呼び出しの場面を見ていた同僚たちの色めき立った声に、彼女は苦笑しながら席につく。
「いい天気だから、景色の良い場所で食べたかったわね」
「そうね。次はもっと早く仕上げるわ。そうすれば、こちらに来る理由がなくなるもの」
そう宣言すると、岩子はくすくすと口元をおさえた。
「活字が絡まない速さでお願いね」
「もう。それは初日以降してないわ」
拗ねたような声音で私が抗議すると、岩子はころころと声を上げて笑った。
日中戦争が勃発してからというもの、出征前に妻を得ようとする男性社員は多い。
岩子には伴侶がいるが、書類の上では未婚。そのため、たびたび声を掛けられる。
それは私も同じだったが――
毎回、昼休みや終業後に呼び出されて、ゆっくりできない。
前に訪ねた時そう零したら、桃弓木は造作もないという顔で金の棒金を加工し、ものの数十分で指輪を作ってしまった。
『それで寄って来なくなるぜ』
得意げに渡されたそれは、驚くほど効果があった。
どれほど断っても引かなかった者が、左手の薬指にはまる指輪を見ると身を引く。
以来、仕事以外で声を掛けられることはない。
手元で光る金環を見つめると、桃弓木のしたり顔が目に浮かび、少し笑った。
ふと横を見ると、こちらを覗き込む岩子と目が合う。
その目には好奇の色が滲んでいた。
「指輪、素敵ね」
「ええ、とても気に入っているわ」
私は澄まして卵焼きを口に運んだ。
家でならゆっくりできるからと、お呼ばれされた週末。
私は縁側でお茶を飲んでいた。
横には遊び飽きて寝てしまった猫と、目を細め、顎に手をやる岩子の伴侶。
確かにゆっくりはできているが――
岩子は食後に近所の夫人らに呼び出され、席を外している。
彼女はいつも引く手数多だ。
天気の良い空を見上げ、小さくため息をつく。
「額月よ」
「何?」
横からの声に振り向くと、胡乱な目をした岩子の伴侶と目が合った。
「その金環は何じゃ」
その言葉に首を傾げる。
装飾品に詳しくなさそうな彼が、指輪に言及してきたことは少し意外だった。
もしかすると、ずっと気にしていたのかもしれない。
今日玄関で迎えられた時、こちらの手元を見て彼が僅かに顔をしかめたことを思い出した。
「それには凄まじい念がこもっておる」
「そうかしら。古馴染みが目の前で作った、何の来歴もない品だけど」
そう言うと、岩子の伴侶は目を眇めた。
「いいや、わしにはわかる。それをつけておる限り、お主に嫁の貰い手はないぞ」
「今のところ予定はないから、丁度いい」
「そんなことを言うものではない。よいか、額月よ――」
はじまった。
岩子の伴侶が、妻との思い出を交えて愛の尊さを滔々と説く。
こういう時の彼は、話を遮ったり気の無い素振りをすると、なおさら話が長くなる。
居住まいを正して相槌を打ち、神妙な顔をした。
こうするのが一番早く終わる。
「――大体その古馴染みの男とやらは、一体何を考えておる!」
「さあ……それはわからないわ」
顔を見れば大抵のことは察せられる。
けれど、言葉にされていないものへ、勝手に名はつけない。
差し出されていないものを、受け取れはしない。
岩子の伴侶は、何かを言いかけ、ため息をついた。
「……まぁよい。馬に蹴られるのは御免じゃ」
そう言ってそっぽを向く。
ひとしきり語り、冷静さを取り戻したらしい。
或いは、以前に同じことを言って、岩子にたしなめられたことを思い出したのかもしれない。
『――皆それぞれの歩調というものがあるんですよ、あなた』
そう言った時、岩子は笑顔だった。
……その背に仁王を顕現させたような迫力があったが。
話の切れ目を見計らい、話題をそれとなく会社での出来事へと逸らす。
岩子の伴侶は求婚者の下りで半目になり、指輪の意義や有効性について語ると目を瞬かせた。
一見表情がほとんど変わらない彼の反応は、存外わかりやすい。
そして彼は思案するように宙を見た。
「ふーむ、指輪か……」
「わかりやすくて便利だわ」
「………そうじゃのう」
彼は何か思い当たったように頷くと、袂を探り、金属の塊を取り出した。
掌に乗るほどのそれは、陽の光を受け清浄な輝きを放っている。
「これは……白金、かしら?」
「さて。前に山の神が寄越してきたものじゃが……あるべき形を決めるまでは従順で、決まれば山のように動かぬという。なればこれが相応しかろう」
しばらくその塊を眺めた後、彼は私を見る。
「これで妻に指輪を仕立てたい。額月よ、お主が信を置く職人に頼めんか」
その夜。渡された金属塊に、桃弓木は顔を引きつらせる。
「とんでもないもんを持ってきたな……」
「余った材料は手間賃に、だそうよ」
「……いや、そもそも俺に白金は扱えない。炉がねぇんだ。違う職人に――」
「それ、白金ではないよ」
その出所や性質を話すと、桃弓木はますます苦いものを飲み込んだような顔になった。
「無理にとは言わないが、他に職人の当てがないので受けて貰えると助かる。とも言っていた」
「……確かに、事情を知らない者の手に渡ると騒ぎになるよな、これ」
桃弓木はそう言ってわしわしと頭をかき、深くため息をついた。
そして手の中で淡く輝く金属を見つめた後、深く瞑目し、顔を上げる。
「よし! わかった、やれるだけやってみる。お前も手伝ってくれ、額月」
「うん、いいよ。私にできることがあるなら」
「ある。俺は二人を直接知らないからな。好みも似合うものもわからん――」
そこまで言う頃には、さっきまでの渋面はどこへやら。
棚から紙束を引っ張り出し、鉛筆を耳に挟み、定規を探す手がせわしなく動く。
「まずは意匠だ」
桃弓木は紙を机いっぱいに広げる。
「一生ものだからな。妥協はなしだ」
そう言って鉛筆を握る横顔に、迷いはない。
そうして二人で紙をのぞき込みながら、図案を考えて話し合う。
「二人の話を聞かせてくれ。背丈は? 手は細いか? 色白か? 普段どんな色を着る? ああ、喧嘩した時はどっちが折れる?」
「最後は指輪と関係あるの?」
「あるある。夫婦もんはそこが一番大事だ」
私が答えるたびに、紙の上へ新たな線が重ねられていく。
ほどなくこちらが口を挟む暇もないほど次々と案を描き出す様子に、思わず笑う。
――やはり桃弓木は、こういう人だ。
ふと、思いつく。
その案を形にすべく鉛筆を手に取った。
「……あのね、こういうのはどうかしら――」
私が描き上げたものを指差すと、桃弓木は手を止めて顔を上げた。
「これは……組紐か?」
「うん。岩子の旦那さんが、いつも身につけているの。祖先から受け継いだ大切なものなんですって」
「繋がり、絆の象徴か。良いな。――なあ、これ四つ組だよな?」
「ええ、そうよ」
「……そのまま彫ると野暮だな。細くすればあるいは……編み目だけ拾うか……いや、二本が寄り添って一つになる形にするのも……」
桃弓木は顎に手をやり、口の中で呟きながら、再び鉛筆を持つ手を動かした。
そうして納得がいく意匠が決まってからは、早かった。
桃弓木は金属を手に取り、作業台へ向き直る。
「よし、じゃあまずは棒金に――」
そう言いかけ、手の中を見て固まる。
視線の先――
――そこには、白く輝く指輪が形作られていた。
「……なあ、これ職人要らなかったんじゃないか?」
「そんなことはないと思う」
桃弓木がいなければ、きっと指輪はその姿にならなかったろう。
今日は、岩子の最後の勤務日。
終業後、集まった周囲の者と一緒に拍手を送る。
――岩子が仕事を辞めることは、家に呼ばれた日の帰り道で聞いた。
夕焼けの中、二人でゆっくりと歩きながら話をしていた。
モダンガールを満喫したこと。
一緒に昼食を食べた店や、休日に出かけた街のこと。
タイピストという仕事のやりがい。
締切に追われ、一緒に乗り越えた依頼の数々。
岩子のころころとした笑い声。
軽快に響くタイプライターの打鍵。
昼休みを知らせる正午のサイレン。
思い返せば、胸に残っているのはそんな何気ないものばかりだった。
それでも――
時世が変わり、周囲が騒がしくなった。
しばらく伴侶と一緒に人里を離れ、落ち着ける場所を探すのだと言う。
……わかっている。仕方のないことだ。
『そんな顔しないで』
気付けば地面ばかり見ていた私に、眉を下げて笑う岩子。
顔を上げて、旅に出ていても繋がる連絡先を渡した。
そうして、茜に染まった路の上で再会を約束したのだった。
皆の前で岩子の名前が呼ばれ、私は静かに顔を上げる。
岩子が上司から花束を受け取り、左手を添えて頭を下げた。
彼女はふとこちらを見て、小さく笑う。
私も頷き返す。
岩子の薬指で、あの白い指輪が光っていた。