現代知識“だけ”ある記憶なし無自覚転生者が、訳あり行き倒れを拾う話 作:萩原トウコ
夏の盛り。山は緑を濃くして、日差しは葉の間でちらちらと揺れていた。
前回訪れた道を思い出しながら歩く。
あの時は草が膝にかかるほど伸びていた細道も、今は額月が手を入れたのか、石や木の根が目立たないように整えられていた。
踏みしめるたび、苔や落ち葉の感触の違いで過ぎた年月を思う。
前に訪れてから三年、いや四年ぶりだったか。
小さな手入れの痕跡を確認しながら庵への道を行く。
「額月、いるか?」
「うん、こっち」
戸を開けて覗き込むと、簡素な頭巾と小袖に身を包んだ年若い娘――額月が厨から顔を出した。
背が伸びたが、幼さの残る顔立ち。その目の静かさは、前に見たそれと同じ。
額月は桶と手拭いを指差して引っ込む。
室内は甘い匂いが立ち込めていた。これは……甘葛を煮詰めているのか。
手足を洗って上がり込む。
荷を下ろし、蓑と傘を外していると、額月が盆に何か――甘味を乗せて室内に入ってきた。
にんまりとした笑顔。渾身の甘味を完成させた時の顔だ。
「丁度これを準備している時に来るなんて。あなたはついているよ、桃弓木」
その言葉に、盆の上の器を覗き込む。
「お、どれどれ……これ、氷か……?」
「うん。削り氷に、桃の蜜漬けと豆の甘葛煮を乗せたの」
額月は嬉しくてたまらないといった風情で、いそいそと配膳した。
「食道楽を極めているな……帝よりいいもん食ってんじゃないか?」
「そうかもね」
昨今は朝廷の威光に陰りがあるようだし。
額月は事も無げにそう言うと、幸せそうに桃を口に運ぶ。
時世に疎いわけではないが、関心がまるでない。
「そんなことより、溶けてしまう前に食べなよ」
「そうだな。いただきます!……うっっっま!!あ~~甘さが沁みる……火照りが消える……」
「相変わらず振る舞い甲斐がある」
氷の音が鳴り、甘さが舌に残る。
夏はまだ、たっぷりとここにあった。
山は、色を深めていた。
夏の名残を抱えた緑の間に、黄と赤が混じり始め、風が通るたび葉擦れの音が変わる。
湿り気は抜け、土の匂いが立つ。
歩くたび、足裏に伝わる感触が軽い。
道の脇の草は刈られすぎず、放置もされていない。
石は踏みやすい位置に収まり、根は躓かぬよう土を被せられている。
相変わらずの庵への道。
しかし、年月を重ね少しずつ姿を変えていた。
「額月、いるか」
「うん」
戸を開けて声をかけると、返事は近くからする。
次いで干した草の匂いと、わずかに甘い香りが混じって流れ出た。
錫杖を入口に立てかけると、桶に入った秋口の冷えた水で手足を清めて中に上がり込む。
囲炉裏端で手を動かしている若い女――額月は此方を一瞥して、再び手元に視線を落とす。
横顔は見違えるほど大人びているのに、振る舞いは変わらない。
――前にも、同じことを思った。
刻んだ木の実、干した根、塩をまぶした葉。
保存食の仕込みだ。
冬を見据えた手つきで、無駄がない。
「いい匂いだな」
「乾きがいいから、今のうちにね」
そう言って、作業の手を止めない。
傘を外して荷を下ろし、腰を落ち着ける。
囲炉裏の火は弱く、ただ気配としてそこにある。
「秋は気が楽でいい」
ぽつりとそう言うと、額月の手が一瞬だけ止まった。
「みな生きる営みで忙しいものね」
「おう。上も下もきな臭い話より、目の前の稲刈りだ」
「山の裾にも田が増えたよ。実り豊かな稲穂が揺れる様は美しいね」
風が通り、外に干された草がかすかに鳴る。
額月の手元だけが、静かに動き続けていた。
峠を越えるたびに雪の深さが増す。
足を取られながら進む細道は、夏の緑も秋の紅葉もない白一色の世界だ。
踏みしめる雪がきゅっ、ざく、と静かに音を立てる。
木々の枝には雪が厚く積もり、遠くの山並みは霞の向こうに溶ける。
途中で見える山里は、以前に比べて開墾が進んでいた。
かつて藪や荒地だった斜面には小さな畑が整い、木の根や石は人の手で取り除かれている。
冬枯れの枝の間に、来年の田畑の準備がちらほらと見える。
自然と人の営みが、静かな雪景色に織り込まれていた。
「額月、いるか」
「こっちだよ」
庵の戸を開けると、甘い煮物の匂いと薪の煙の香りが出迎えた。
土間に回り込むと、額月は厨の端で手を動かしている。
冬の寒さで赤みを帯びた頬、長く伸びた髪、すっきりとした顔立ちは、妙齢の落ち着きを感じさせる。
その均整はいつからか形を定めて、動かない。
白い手が雪をかき分けるように、樽から塩漬けにした食材を取り出した。
「よし」
大根の漬かり具合を確かめ満足げに微笑む額月を尻目に、俺は沸かしてあった湯を桶に溜めると手足を浸ける。
「はぁ~~~……生き返る……」
痺れていた感覚が、痛みを伴って戻ってくる。
それを確かめるように指を動かす。
冬は厳しい。
それでも、こうして幾度も越えてきた。
湯の中で、指をもう一度握った。
戸の外では、風が雪をさらっている。
乾いた音が、庵の壁を薄く叩いていた。
峠を越えてきた桃弓木の肩に残る冷えを囲炉裏の火がほどくまでには、少し時間が要りそうだ。
囲炉裏端に腰を下ろすと、桃弓木の土産を広げる。
江戸で流行っている黄表紙、江戸の名所絵本、読本などの色鮮やかな娯楽本。
俺が挿絵を描いたやつを持ってきた。と少し得意げに渡されたそれを手に取って、頁をめくる。
紙の厚み、刷りの重なり、指に残るわずかな墨の匂いを確かめるように。
「……いい時代だわ」
昔は、絵巻を一巻読むために人の縁をいくつも頼った。
紙は貴重で、書籍というものは“預かるもの”だった。
それが今は少しの銭と好奇心で手に入るという。
「あなたが描いた絵が、誰か一人の蔵に納まるのではなく“誰のものでもないまま、誰の手にも渡る”のね」
「まぁそれだけで食っていけないから、小間物作ったりして糊口をしのいでるんだけどな」
「そう。きっと喜ばれる。桃弓木は真面目な仕事をするし、良い品を作るもの」
「だと良いんだがなぁ……」
桃弓木は頭をわしわしと掻いて宙を仰ぐ。そして、今気づいたようにこちらを見た。
「なあ、荷物少なくなってないか?前は梁にもっと薬草や保存食が掛かってただろう」
他にも整理個所を次々挙げていく、その目敏さに感心した。
特に隠すことではなく、元々伝える気だったことを告げる。
「うん、この冬を越したら庵を畳むから」
近頃は、人の気配が山の奥まで届くようになった。
既に拠点や畑をいくつか手放している。
この庵もそうなっただけ。
そう言うと、桃弓木は目を見開いて絶句した。
その様子を見て、こちらが驚いてしまった。
思っていた反応ではなかった。
「大丈夫?」
「あ、ああ……何故、いや、そうか……。次はどこに行くんだ」
「頂上付近の北側に拠点があったでしょう。そこを作り変えて、移ろうかと」
「あー、あそこな……確かにあそこなら道は険しいし、人は滅多に来ないだろうが……」
桃弓木は驚いている自分に驚いていると言った様子から、次第に落ち着きを取り戻す。そして今度は心配げな表情になった。
感情がせわしない。
「これまで程実り豊かな環境ではないけど、工夫すればどうとでもなるわ」
最近は狩猟を主にし、かつて桃弓木に教わった弓を活用している。
それに今は女一人で出歩いても、以前ほど目立たない。
足りない物は場所を変えて人里で調達できる。
そう話すと、
「そうか……なら、いいんだが」
桃弓木は複雑そうに表情を緩めた。
風がひときわ強く吹き、雪が庵の軒を鳴らす。
雪解けはまだ遠い。
数日後、山が未だに雪深い中、江戸に戻ると言う桃弓木に目を丸くした。
冬に来ると、雪解けまでいることがほとんどだったのに。
「火急の用事でも?」
黙々と支度をする背中に声をかけると、彼は顔を上げてこちらに向き直った。
目が合うと、桃弓木は頭をわしわしと掻き、視線を彷徨わせる。
「……なぁ、江戸に来ないか」
その言に目を瞬かせた。
桃弓木は言葉を重ねるように続ける。
「江戸はいいところだ。人も多いし、紛れて暮らしやすい。店も多くて便利だ」
明るい口調で、早口に語る。
「娯楽も多いぞ。退屈はしない」
――どれも本当なのだろう。
けれど、そのどれもが理由ではないことも分かる。
当の彼が、その言葉に乗り切れていない顔をしている。
桃弓木の情緒の揺らぎを察しつつ、言われたことに考えを巡らせた。
確かに外の世、特に江戸の文化や風俗には心惹かれるものはある。
だが……見て周ることに興味はあれど、住むのはきっと性分に合わない。
好きに振舞ったら目立つし、落ち着かない暮らしになる。かと言って窮屈な暮らしはしたくない。
目を伏せ、腕を組む。
「――まあ、考えておくよ」
雪に紛れていく背が見えなくなるまで、戸口に立っていた。
次で最終話です。