現代知識“だけ”ある記憶なし無自覚転生者が、訳あり行き倒れを拾う話 作:萩原トウコ
振り返ってみれば、何かが変わる時はいつも春だった。
開き始めた花ではなく、開墾地から上がった火の手が山を覆いはじめるのを眺め、そんなことを思った。
煙と灰が舞い上がり、山の稜線が赤く染まっていた。焼ける匂いが鼻腔をくすぐる。
悪意の気配はない――ただ、時の流れと人の営みが山を変えた。
消火は、可能だ。
しかし、しない。
自分の住処を守るくらいはどうとでもなるが、人目につきすぎる。
瞬時にそう判断すると、深く瞑目した。
「ここまで、か……」
そう独り言つと深く息を吐いて、顔を上げた。
手を掛けたものは大事にするが、手放す選択をしたものは惜しまない。
そう決めていた。
いざと言う時すぐ持ち出せるよう、背負子には宝物の他に当面の荷物を入れてある。
それを背負い最後に住処を振り返ると、文机に置いていた娯楽本が目に映った。
中に踏み入り、色鮮やかな絵が描かれたそれを拾い上げる。
そして荷物に加えると、自然と笑った。
「これでよし」
いい機会だ、旅に出よう。
最初の目的地はもう決まっている。
燃え盛る山と喧騒を背に、私は意気揚々と歩き出した。
山火事の噂を耳にして、仕事も依頼も放り出して江戸から駆け付けた、その先で――
視界に広がるのは黒く焦げた地面、折れた木々、炭の匂いだけ。
火は山を燃やし尽くし、数日前に消えたという。
煙はもうなく、静かで、しかし全てを奪った後の無言の圧力が山を覆っていた。
山道の果てに、かつての庵の影を探す。
「額月……」
声はかすかに、口の中で震えるだけだった。
目の前には、木々の間に残る焦げた柱。かつての生活の跡は灰と土の色に溶けている。
――額月が、いない。
胸の奥が凍るように重い。
呆然と焼け跡を見つめ、やがて肩を落とす。
思考が止まり、体だけが動くように、抱えている仕事や中断した作業のことを考え、ゆっくりと山を下りた。
江戸に戻った後、春の賑わいも、街の色も人の声も、日常のすべてが灰色がかっていた。
灯集めは欠かさずしていた。それだけ。
何をしても、虚ろだった。
筆を握れば線は描けるが、そこに温度はなく、ただ形だけが浮かぶ。
手応えのない日々。
食つなぐための日銭稼ぐだけ。喜びはどこにもなかった。
ふと、蘇る。囲炉裏端で交わした何気ない会話や笑い声。
『――きっと喜ばれる。桃弓木は真面目な仕事をするし、良い品を作るもの』
かつての火の揺らめきに照らされた彼女の姿に、呼吸の奥がひきつる。
作業に没頭することで、わずかな精神の均衡を保つ。
それでも心は鬱々と沈み、春の街の陽気も届かない。
寺の門前市に小間物を並べることにした。
年明けに出店料を既に納めていたので仕方なく。
籠に詰めた品を背負い、重い足を引きずるように道を歩く。
簪や小さな扇子、色とりどりの手拭いが籠に揺れる。
甘い飴の匂いが漂い、人々の笑い声と混ざる。
寺の石段に近づくと、行き交う人々の声や風に乗る香、喧騒が肌に触れる。
ここには、
人通りはある。
鐘は鳴る。
祈りもある。
しかし、響かない。
籠を下ろし、重い荷を石段の前に置く。
布を広げ、持ってきた品を整然と並べた。
幾人かの客が足を止め、扇子や簪に目をやり、声を掛けてくる。
だが、言葉は喉でつっかかり、ろくに返事もできなかった。
手だけは品を差し出すが、笑顔も愛想も出てこない。
眉をひそめて去って行く客の背中を見送った。
――何をしているんだか。
ため息をつき、わしわしと頭を掻いてうなだれた。
そんな頭上に、
「相変わらず良い品を作るね。これをもらおうか」
降ってきたのは、軽やかな声。
息が止まった。
バッと顔を上げ、目を見開いて前を見れば――
旅装束を身に纏った額月が、ごく当たり前のようにそこにいた。
パチリ……と、薪の爆ぜる音が、響いた。
瞬間、世界が急速に色づき、その鮮烈さに眩暈がした。
これまでせき止められていたものが一度に押し寄せ、眉間のしわと口元のわずかな震えに現れる。
口を開き、閉じる。
何も出てこない。
そんな俺を見て、額月は少し目を瞬かせると――可笑しそうに笑った。
「やはり、あなたは感情がせわしない」
完