現代知識“だけ”ある記憶なし無自覚転生者が、訳あり行き倒れを拾う話 作: トウコ
視点が百暗→主人公の順に変わります。
――昭和二十年 晩秋
引上げ船の甲板に立つと、水平線に山並みがぼんやりと浮かぶ。
錆びた手すりには何人もの兵が寄りかかり、誰も言葉を発さない。
船体が波を切る鈍い振動だけが、足元から伝わってくる。
本土だ、と小さな声が誰かからもれ、すぐに消えた。
歓声はない。ただ、誰もが手すりにしがみつき、目を細め、遠い記憶と重ねている。
そんな静かな喧騒からのろのろと離れ、重い足を甲板に投げ出し、項垂れる。
――そうか、帰れるのか。
実感の追いつかないその独白を、ただ自分の胸に落とした。
船が港につけられると、上陸桟橋に整列させられ、点呼を取られる。
「百暗桃弓木!」
「……はい」
腹から声を出そうとしたが、ひび割れたかすれ声しか出なかった。
手がわずかに震え、深く息を吸い込むと胸が押し潰されそうになる。
しかし覚悟した叱責や体罰は、無い。
そうだ、ここは隊じゃないし、相手は上官でもない。
視界の向こう、桟橋の人影がぼんやり揺れる。
終わったのだという実感は未だ追いつかなかった。
検疫に回され、念入りな洗浄と消毒を受けて、復員服を支給される。
各種手続きを終え、復員証明書と僅かな手当を手にしても、目に映る世界はどこか遠い。
「百暗」
声の方へ機械的に振り向くと、戦地で約束を交わした猫附桜史郎が居た。
「届くかわからんが、私は電報を打って来る。お前はどうする」
「俺はいい……」
「そうか。では、倉庫で待て」
その言葉に頷くと、休息・宿泊施設とは名ばかりの倉庫へと向かう。
醤油や味噌の匂いが混ざる港町の空気に、現実味がない。
人で溢れかえった倉庫内に入る気になれず、入り口付近の木箱に腰掛けた。
遠くで揺れる海面をぼんやりと眺めながら、出征後に幾度も思い返したことを反芻する。
『――あなたに向いているとは、とても思えない』
赤紙を見た時の、額月の言葉。
その通りだった。
自分が戦場なんて所に行ったらどうなるか、もっと想像しておくべきだった。
戦地の記憶を呼び起こそうとするだけで、動悸が止まらず、喉の奥がぎゅっと締まる。
この有様を見て、あいつは何と言うだろう。
……何と言われてもいい。ただ声が聞ければ、それで。
海風が頬をかすめていく。
胸のざわつきにそれが混ざり、わずかに遠のいた。
桜史郎と合流すると、港の町を抜けて駅へ向かう。
瓦礫の上に足を置くたびに、靴が粉塵で白く染まった。
南国の湿った風とは違い、本土の空気は乾いていて、鼻の奥がひりつく。
臨時車両に押し込まれ、膝に背嚢を抱えて床に座る。窓の割れた隙間から冷たい風が吹き込んだ。
隣に座る桜史郎は黙ったまま、腕組みして遠くを見ている。
車両がゆっくり動き出すと、車窓には黒焦げの屋根だけが点々と見える。
瓦礫に埋もれた路地、ひび割れた橋、焼け残った電柱。
かつて多くの人々が生活していた街の面影は、残像のように揺れていた。
停車するたび、線路を点検する作業員や復員兵が乗り降りする。
誰も声をかけず、息づかいと重い空気だけが車内に漂っていた。
そんな列車を幾度も乗り継ぎ目的地にたどり着いた時には、下船して一週間経っていた。
桜史郎の妻子の疎開先は、空襲を免れていた。
戦地での約束を果たすと、重い体を引きずりながら帰路に着く。
療養を勧められたが、そんな気にはなれなかった。
「……戻れよ」
当然のようについてくる桜史郎に言った。
「できることは何でもする。人探しなら、人数が多い方がいいだろう」
何を言おうと引かない態度にため息をつき、再び列車に乗り込んだ。
列車が下町に差し掛かると、瓦礫の間を縫うように線路が続く。
桜史郎が静かに呟いた。
「……下町は、壊滅らしい」
「ああ、そうだな……」
破壊された街に、かつての面影は無い。
それでも、このどこかに彼女は居ると確信していた。
「念のため、細君の名前をもう一度聞かせてくれ」
桜史郎の言葉に、車窓から目を逸らさず答える。
「……額月。百暗、額月だ」
――昭和十七年 某月
戸籍を無事取得した桃弓木を訪ねるべく、手紙の住所を頼りに下町の道を歩く。
抽斗通りから引っ越した桃弓木の家に行くのは、これが初めてだ。
便り自体は少し前に受け取っていた。
最近仕事を辞め、ようやく身軽になった為、こうして訪ねることにしたのだ。
給金の良い商社勤務を辞めようと思い立った理由はいくつかある。
人としては、長年勤めていたことによる人間関係の複雑化。
戦争激化の兆し。
外国企業の撤退により、専門としていた外国語を使う仕事が大幅に減ったこと。
その結果の配置転換で、身元確認の厳しい軍関係の施設に回されそうになったこと。
……そして、これも理由の一つだろうか。
視線を落とした先は、手の中の鬼灯の実。手渡されたのは、もう二百年前のことだ。
便利な現地協力者と目されたのか、あれから幾度となく手伝いを依頼されることになろうとは、当時は思いもしなかった。
『――地獄での仕事に興味はありませんか』
先日現世視察に来た、かの御仁に言われた言葉。
これまで何度かあった誘いで、いつものように断った。
この世でまだ行っていない場所も、見聞きしていないものも沢山あるので、と。
いつもなら、そうですか、気が変わったらいつでも。と、話は終わる。
しかしその日、言葉は続いた。
『……天国に住まわれるご両親と暮らすことも不可能ではありません。通勤はいささか不便でしょうが』
息が、止まった。
『気が変わったらいつでも。有能な人材は歓迎します』
そして目を見開いて凝視するこちらの視線をものともせず、かの御仁は淡々とそう言い残し去って行った。
あのお方は、そういうところがおありになる。
ため息をつき、鬼灯の実をしまった。
代わりに手紙を取り出し、さて、この辺りのはずだが……と周囲を見回していると
「額月!!!」
背後から切羽詰まった声に名前を呼ばれた。
「桃弓木……」
振り返り、返事をしようとしたところで、声の主に抱きすくめられ言葉が止まった。
「話を合わせてくれ、頼む……!!」
「わかった」
潜めた声は、追い詰められた者のそれ。厄介ごとの気配がした。
他者を巻き込むことを良しとしない彼がこの様なことを言うのだ。余程のことだ。
尋常ならざることが起きている。
そう思ったのだが……
「彼女は子供の時から知ってる、古い馴染みの仲で。ありがたい話だが、今回の話は遠慮したく……」
周囲の人に神妙な顔で、嘘ではないが事実とは異なる意味合いで受け取られる話をする桃弓木。
私は、なるべくはにかんだように見える表情でそれに頷く。
「彼から手紙を貰って、仕事を辞めて訪ねて来ました」
事実だが、異なる意味合いに聞こえる補足をした。
それを聞いた、中心人物らしき快活な女性は、私たちの顔を交互に見て晴れやかに笑う。
そして桃弓木の背中を強めに叩き、お節介を詫びると、周囲の人を引き連れ去って行った。
家に案内され、玄関の戸を閉め切ったところで、桃弓木は脱力した。
「すまん、助かった……」
「珍しいね。ああいうの、いつも上手く躱すでしょう」
「あー……今回は、ちょっと特殊でな……まあ、上がれよ」
「うん、お邪魔します」
居間に通されお茶を出されると、私の持ってきた茶菓子を早速開きながら桃弓木は雑談を始めた。
こういう時の彼は、雑談をしながら本当に話したいことに考えを巡らせている。
考えがまとまれば話し出すだろうと、取り留めのない話に応じつつ近況を報告した。
「え、本当に仕事辞めてたのか?あのでかい商社」
「うん、潮時だと思って。次の春で十年だしね」
「そうか……次はどうするんだ?この情勢じゃ海外は無理だろう」
「うん、そうなの……」
いつもは仕事を辞めたら海外へ飛び、時間がある程度経過してから再び戸籍を取得している。
しかし今はそれが難しい。
どこか山の奥地で隠れ住むという手も無いわけではないが、昨今の娯楽に慣れ親しんだ身にはつらい。
ため息をつきながら、ポケットから鬼灯の実を取り出した。
変わらぬ朱が、静かに掌に灯る。
「それまだ持ってるのか」
桃弓木は胡乱な目で鬼灯の実を見る。
私とて、後生大事にしているわけではない。勿論粗末にもしていないが。
「実は震災の時、箪笥にしまったまま焼失したと思ったのだけど。何故かある日、手元にあって……」
「怪談じゃねぇか!!」
それについて、かの御仁に聞いてみた時
『それは貴女に差し上げたものなので』
と説明になってない説明をされ、そういうものだと受け止め、理解しようとするのを止めた。
遠い目でそのことを思い返していると、桃弓木がこちらを窺うように言った。
「獄卒になるのか?」
その言葉に、一瞬考えた。
桃弓木は何も言わない。
「ううん、ならない。性分ではないから」
荒事は嫌いだが、不得意ではない。事務処理は得意だ。
獄卒はやれば出来るだろう。
働くことも組織に属することも抵抗はない。
しかしそれは一時的で、いつでも自分の意思で離れられるから良いのだ。
どんな餌をぶら下げられようと、自由の無い生活は御免だ。
「そうか……」
桃弓木は息を吐きだしながら、湯呑みを手で包んで中を見つめている。
私はお茶を啜り、ゆっくりと茶菓子を味わう。
カステラ生地に羊羹を挟んだシベリアとお茶の相性は抜群である。
しっとりした甘みが、渋い茶によく合う。
もう一つ切ろうかと思案していると、桃弓木は顔を上げた。
「実は、頼みたいことがある」
「いいよ」
「最後まで話を聞いてくれ」
「わかった」
二切れ目のシベリアは一旦止めて、桃弓木の話に耳を傾けることにした。
桃弓木は箪笥から紙を取り出すと、卓の上に広げた。
淡い赤色の紙だ。
役所の書式で、見慣れた活字が並んでいる。
「これが来た」
召集令状。
いわゆる赤紙だった。
「……あなたに向いているとは、とても思えない」
「そうだな」
そう答える桃弓木の自嘲的な笑みに、私は眉を寄せた。
やっとのことで戸籍を得た矢先の衝撃。
さんざん苦悩し、逃げるのを諦めたのだと彼は言う。
どうやら逃亡や潜伏の話ではない。
あるいは戸籍の買い替え費用の立て替えかと思ったのだが。
何にせよ、頼まれたからには私に出来ることをするだけだ。
「それで、頼みとは?」
水を向けると、彼はぐっと卓の上で拳を握りこちらを見た。
「籍を入れないか」
「籍を入れる?」
一瞬何を言われているのかわからず復唱し、目を瞬かせる。
次いで閃いた。
「ああ、縁談避け」
「それもあるが、山火事や震災の時みたいに行方知れずで連絡がつかないのは心臓に悪い。籍を入れておけば役所で居場所を照会出来るだろ」
確かに、震災の時は互いの消息がなかなか掴めず苦労した。
「なるほど。わかった、そうしよう」
「……わかっちゃいたが、額月……お前、本当に……」
頭が痛そうな桃弓木を尻目に、私はシベリアを切り分ける。
食べながらお茶のおかわりを催促すると、桃弓木は名状し難い顔で美味しいお茶を淹れた。
お茶を飲んで一息つくと、早速役所へ出向いて入籍の手続きをすることになった。
二人連れで外を歩いていると、先ほどの快活な女性に声を掛けられる。
女性は桃弓木の住む借家の大家の細君だった。
入籍の手続きに行く話をすると、大家夫妻が証人になると申し出てくれたので、ありがたく受けた。
桃弓木は内心とても面倒に思っているはずだが、それをおくびにも出さず愛想よく振る舞っている。
そういうところだ。
「俺だってわかってるよ……!でもな、天涯孤独で身元の不確かな男が不愛想なんて世間に許されねぇんだよ!!」
「確かにそれはそう」
私たちに身寄りがないと知った瞬間、細君は凄まじかった。
ならば自分が親代わりとなり、取り仕切らねばという使命に燃えた。
失礼にならない範囲で異を唱えようにも、遠慮している、奥ゆかしいと変換される。
古今東西、この手の女性を止められる者は居ないと桃弓木は語る。私も同意見だ。
夫人が辣腕を振るい、ものの数日で祝言の段取りが整えられてしまった。
そして、祝言前夜。
寝室の畳の上で、私たちは膝を突き合わせていた。
「おい、どうする、このままじゃ本当に祝言を挙げさせられるぞ……!」
二人きりの部屋で、切迫した声を潜める桃弓木に、私はため息をつき瞑目する。
もうそういう段階はとっくに過ぎていた。
「まあ、これも珍しい経験の一つだと思って挙げたら良いのでは」
「……本当にいいのか」
「いいよ」
第一、どうやってあれを止められる。それこそ戸籍も身分も捨てて逃げなければ無理だ。
桃弓木がそれをしない選択をしたのだから、腹を括るしかない。
避けられないのなら、とことん楽しもう。
衣桁に掛けられた白無垢を外し、羽織ってくるりと回る。思わず笑みがこぼれた。
この時の私は、華やかな衣装や儀式に浮かれていた。
その様子を、桃弓木がどのような目で見ていたか、後に知ることになる。
翌日、私たちは祝言を挙げた。