ONE PIECE 〜船大工レイン〜   作:ペンギンって可愛いですよね

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第八十九話「初めての恐怖」

 

森の中は静まり返っていた。

 

レインは崖の上の草むらに身を伏せたまま、目の前の光景から視線を離せずにいた。

 

谷の向こう側。

 

木々を押しのけるように現れた巨大な影。

 

それは紛れもなく熊だった。

 

だが、レインの知る熊ではない。

 

漆黒の毛並みは陽光を受けて鈍く輝き、太い四肢は大木の幹のようだった。

 

一歩踏み出すたびに地面が揺れ、周囲の木々が震える。

 

大きい。

 

そんな言葉では到底表現できない。

 

前世で見たヒグマなど比較にもならなかった。

 

あれが本当に同じ熊という生き物なのかと疑いたくなるほどの巨体だった。

 

「すごい……」

 

思わず声が漏れる。

 

恐怖よりも先に感動が来ていた。

 

島の伝説。

 

森の主。

 

昔話の中だけの存在だと思われていた生き物。

 

それが今、目の前にいる。

 

レインは鞄から小型望遠鏡を取り出した。

 

自作の簡易的なものだが、遠くを見るには十分だった。

 

慎重に覗き込む。

 

毛並み。

 

筋肉の付き方。

 

歩き方。

 

少しでも多くの情報を頭に叩き込もうとする。

 

その時だった。

 

熊の足が止まった。

 

レインは眉をひそめる。

 

何かがおかしい。

 

熊が動かない。

 

まるで何かを探しているようだった。

 

そして、ゆっくりと顔が上がる。

 

金色の瞳。

 

その瞬間だった。

 

レインの全身が硬直した。

 

目が合った。

 

谷を挟んでかなり距離がある。

 

それなのに、確かにこちらを見ていた。

 

「え……?」

 

思わず声が漏れる。

 

あり得ない。

 

この距離だ。

 

見つかるはずがない。

 

だが熊の視線は真っ直ぐだった。

 

レインを捉えている。

 

そうとしか思えなかった。

 

冷たい汗が背中を伝う。

 

心臓が急激に速くなる。

 

嫌な予感がした。

 

熊がゆっくりと立ち上がる。

 

その瞬間、レインの思考は吹き飛んだ。

 

高い。

 

巨大だった。

 

崖の上から見下ろしているにもかかわらず、その大きさが分かる。

 

家より大きい。

 

そんな表現が大袈裟に思えない。

 

圧倒的な存在感だった。

 

今まで感じたことのない種類の恐怖が胸を締め付ける。

 

ガープと初めて会った時とは違う。

 

あの時は強さに驚いた。

 

だが今は違う。

 

本能が警鐘を鳴らしていた。

 

逃げろ。

 

今すぐ逃げろ。

 

頭ではなく、本能が叫んでいる。

 

もしあの腕が振り下ろされたら。

 

もしあの爪が自分を捉えたら......死ぬ。

 

その未来だけがはっきりと想像できた。

 

前世の知識も。

 

技術者としての才能も。

 

工房も。

 

研究も。

 

何の意味もない。

 

ただの子供が怪物の前にいる。

 

それだけだった。

 

ゴォォォォォォォォッ!!

 

咆哮が森を揺らした。

 

空気そのものが震える。

 

木々がざわめき、鳥達が一斉に飛び立つ。

 

レインの体も震えた。

 

腰が抜けた。

 

立てない。

 

足に力が入らない。

 

「やばい……」

 

声が震える。

 

呼吸が浅くなる。

 

手が震える。

 

視線を逸らせない。

 

熊が一歩前へ出る。

 

ズシン。

 

地面が揺れた。

 

また一歩。

 

ズシン。

 

その音だけで心臓が跳ね上がる。

 

レインはようやく我に返った。

 

逃げなければ。

 

今すぐ。

 

そう思った瞬間、無理やり体を動かした。

 

立ち上がる。

 

足がもつれる。

 

転びそうになる。

 

それでも構わない。

 

生き残ることだけを考えた。

 

レインは全力で走り出した。

 

枝が顔を叩く。

 

草が足に絡みつく。

 

木の根に躓いて転ぶ。

 

膝を擦りむく。

 

服が破れる。

 

それでも止まらない。

 

後ろを見る余裕などなかった。

 

見たら終わりな気がした。

 

今にも追いかけて来る気がした。

 

背後から巨大な爪が振り下ろされる気がした。

 

恐怖がレインを走らせる。

 

ひたすら走る。

 

ただひたすらに。

 

森を抜ける頃には息が切れていた。

 

肺が痛い。

 

喉が焼けるようだった。

 

それでも足は止まらない。

 

村が見える。

 

港が見える。

 

人の姿が見える。

 

その瞬間、全身から力が抜けた。

 

レインはその場に膝をついた。

 

肩で息をする。

 

生きている。

 

助かった。

 

その実感が少しずつ湧いてくる。

 

「レイン!」

 

聞き慣れた声がした。

 

父だった。

 

慌てた様子で駆け寄ってくる。

 

「どうした!」

 

服は破れ、体は泥だらけ。

 

顔色も悪い。

 

父が驚くのも無理はなかった。

 

レインは震える手で父を見上げる。

 

喉が渇いて言葉が出ない。

 

何とか口を開く。

 

「……いた」

 

父の表情が変わる。

 

レインは震えながら続けた。

 

「あれ、本当にいた……」

 

森の主。

 

島の伝説。

 

巨大な怪物。

 

それは確かに存在していた。

 

そしてレインは理解した。

 

今の自分では絶対に勝てない。

 

そんな相手が、この島にはいるのだと。

 

恐怖で震える体を抱えながら、レインは改めて思い知らされていた。

 

自分はまだ弱い。

 

想像していた以上に。

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