もしも雲明世代でエイリア編がまた始まったら 作:こころにいつも中二病
転校生は元アイドル
七月になって存在感を増した夏真っ盛りの太陽が、今日も今日とて容赦なく南雲原中学校のグラウンドを照りつけていた。
幸いにも、海から吹き込む潮風が熱気を僅かに和らげるものの、肌を刺すような夏特有の空気はグラウンド全体を重く包み込んでいる。晴天が続いた一週間のせいで土はすっかり乾ききっており、ボールを蹴るたびに薄い砂煙がぱっと舞い上がっては、ゆっくりと朝の光の中に溶けていく。
今年の夏も、相変わらず暑かった。
毎年毎年、この季節になるたびに歴代最高気温だとかヒートアイランド現象だとか騒ぎ立てるが、今年も期待にそぐわず騒ぎ立てるに相応しい高気温を引っ下げて日々を連れてきていた。
ニュースを見れば、もはや夏の風物詩と化した熱中症注意報の文字が相変わらずの様子で踊っている。そんな暑さの中で登る百目階段など、もはや地獄の行進に等しい。
朝早いというのに高く登った太陽に照らされながら、制服を着た男女が汗をこぼしながら、さながらゾンビのように地獄の階段を一段、また一段と上がっていた。
……ただ、そんな炎天下の中でも。
南雲原中学校のサッカーグラウンドだけは、今日も午前七時過ぎたころから、芝生を走る足音が響いていた。
「いくぞ、忍原っ」
「オーケー!」
元気よく返ってきた彼女の返事が合図のように、桜咲は勢いよく走り出した。荒々しくも力強いドリブルに合わせて、忍原が阿吽の呼吸で並走し壁を作る。一方、二人の連携を読んでいた相手チームの柳生が前に塞がるが、その一瞬の隙を見逃さずに木曽路が走り込み、桜咲のパスを受け取る。
「ナイスだ木曽路!」
「へへっ……、っとと!」
しかし、木曽路の前に古道飼が立ち塞がった。自分の何倍もの大きさを誇る巨体を前になんとか突破の道を探ろうとする。
だが、予想に反して木曽路はボールを後方に蹴った。そこには忍原の姿。精度の高いパスは想定通り忍原の元へ辿り着く──と思われた瞬間。
「甘いよっ」
高く飛び上がり、忍原より先に胸でボールを受け取ったのは空宮だった。空宮は前方にいる品乃の姿を確認すると、弾丸のようなスピードで走り出す。そんな彼の走りに、相手側はすぐさま防戦体制へと入った。
二転三転と変わる試合の中でも、両チームとも素早く確実に連携を固める選手たち。
そこに目立った言葉などない。大袈裟なジェスチャーもない。ただ、視線と呼吸、僅かな所作だけで自然と次のプレーが編み上げられ、滑らかに次の陣形に動いていく。
そこには、一朝一夕では身につけることなどできないほどに洗練された流れが、一つの川のように動いている。
それらは紛れもなく、南雲原サッカー部の再建から“あの試合”に至るまで、数ヶ月を経て築き上げていった、確かな“チーム”としてのカタチだった。
──そんな光景を、グラウンドの外から観察するように視界に移していたのは、笹波雲明だった。
手にしたメモ帳に時折ペンを走らせながら、彼の瞳はフィールド全体を冷静に俯瞰している。誰が、どこで、何を考え、どう動こうとしているのか。その全てを把握し、思考の海の中で次なる戦術を組み立てていく。
「……次!」
彼から短く鋭い声が飛んだ。その言葉で、選手たちは自然な流れで次の陣形へと移る。 その仕草に一寸の迷いもない。
そこに、先ほどまでグラウンドを駆けていた空宮がタオルで汗をぬぐいながら駆け寄ってきた。
「雲明!」
「征? なに?」
「あのさ、パスコースの確認なんだけど……」
空宮の言葉に、雲明はボードに視線を落としたまま「うん」と短く応じ、ペンを走らせる。空宮は無鉄砲で猪突猛進に見えて、昔からプレーの一つ一つを俯瞰してよく見ているところがあった。
「……そうなると、そっちの方がいいか?」
「そうだね。次はそっちに当てる形を想定して。 それなら、敵ディフェンスの裏を一瞬で抜けるはずだから」
「了解。それじゃ連携練習、やっといた方がいいかな」
「よろしく、征」
空宮が「オーケー!」と元気に返事をすると、再びグラウンドへと走っていく。
その背中を見送りながら、雲明は小さく息を吐いた。その先には、同じ色のユニフォームを纏った仲間たちが当たり前のように待っている。
ふと、視界に映る今の光景と、“あの決勝試合”のときの光景が重なった。
雲明は目に映った景色に瞬きする。すぐに視界は元の色を取り戻し、いつもの光景がそのまま映し出されていた。だけども彼は、目に映ったものを慈しむように、そっと幸せそうに、柔らかく微笑んだ。
──気がつけば、フットボールフロンティアの終わりから、もう一ヶ月が経とうとしている。
南雲原中サッカー部がフットボールフロンティアの頂点で王者雷門と戦ったときのことは、今も雲明の脳裏に焼き付いて離れない。
舞い散る紙吹雪、健闘を讃える歓声、風にたなびく大旗、喜びを分かち合った仲間の手、敵と仲間の垣根を越えて笑い会う選手たち──。そして、燻っていた雲を掻き分けフィールドに差し込む太陽の光と、負けず嫌いでサッカーが大好きな
何もかもが、瞼を閉じただけで鮮明に思い出すことができる。
……それだけじゃない。
雲明がこの学校に入学してからサッカー部を作りここまでくるまでの全ての記憶が、昨日のことのように思い出せた。
(本当、不思議なものだな)
風が雲明の肩ほどに伸ばした髪を撫でる。それを感じながら、懐古するように、そう思った。
かつて、サッカーなど消えてしまえばいいと呪っていた自分。それが、こうして泥にまみれ、知略を尽くし、この仲間たちと共に勝利を掴み取った。
そしてその果てに、夢の舞台で王者雷門と戦い、円堂ハルと本気でぶつかり合った。
そして今も、長崎の潮風と土埃に吹かれながら、彼らと“サッカー”をしている。
そんな幻のような現実が、かつて見ることもしなかった日々が、自分でも驚くほどしっくりと雲明の胸の奥に収まる。
顔を上げて、フィールドを見渡す。目を閉じて、耳をすます。
たったそれだけで、彼らが蹴るボールの音一つ一つが、雲明の指先まで熱を伝えてくるような感覚がある。
そこには、あの春には思い浮かぶことのできない“現在”が、ここにあった。
そんな
紛れもなく、今の笹波雲明は、あの時とは比べ物にならないほどに満たされていた。
……だけど、それでも。
それで終わりにできるほど、笹波雲明は優等生ではなかったし、強欲であった。
(……ハル)
眩い太陽が差し込んだフィールドの中で、ハルと交わした言葉を思い出す。
『次はさ、タッグを組んで、一緒に海の向こうに攻め込もう』
『世界……だね』
『そう、世界!』
影一つない笑みを浮かべながら。青い空のさらにその向こうを見据えてそう言ったハルの
だって、雲明もきっと、似たような
(……世界。いずれ、ハルと……みんなと……)
それは、約束というにはあまりに朧げで不確かなもの。
それでも、あの言葉は雲明の胸の奥に確かな火を点けていた。
だが。
(……まだ、足りない)
そう、足りない。
南雲原サッカー部は強い。その事実は誰よりも、雲明が保証していた。
だが、世界を相手にするには、今のままではまだ実力不足だ。
戦術のバリエーション、個人の技術力、さまざまな状況への対応力。今の南雲原……いや、日本の少年サッカーが世界に喰らい付くには、あらゆる面でさらなる高みを目指す必要がある。……それは、きっと、雲明自身も。
いまだ遥か遠い道。
それを目指すことは、まるで雲を掴むようなものだ。
そう簡単に行かないことはわかってる。それでも、そう簡単に諦めるほど、雲明は聞き分けの良い子供でもない。
むしろ、自分という人間は、ハルに並ぶぐらいの強情っ張りで、負けず嫌いで、諦めが悪いのだから。
(だから……待っててね、ハル)
雲明はペンを走らせていた手を止め、強い日差しに目を細める。視界には、白く輝く光芒と、雲ひとつない夏空が広がった。
心地のいい風が、再び髪を、服を、木々を、芝生を揺らす。
ボールと砂埃が飛び交う空の下、雲明は一人、次に向けた決意を新たにしていた。
***
朝練が終わると、グラウンドに満ちていた熱と喧騒が、部室という小さな箱の中へ集まっていく。
タオルで汗を拭う音、スパイクを脱ぐ音、誰かが冷えた水筒を床に置く音。そういった生活感のある小さな音が重なり合う。その中で、遠慮のない雑談が更に室内を満たす。
それが、南雲原サッカー部の朝練が終わってから授業が始まるまでのわずかな時間の過ごし方である。
ただ、その日はいつもと少し違うところがあった。
「……忍原?」
「…………」
いつもなら真っ先に場を賑やかにするはずの忍原来夏が、珍しく無言だったのだ。
ロッカーの前のベンチに腰を下ろし、スマートフォンの画面をじっと見つめている。耳にはイヤホン。眉間にわずかな皺。その集中の具合が、動画か何かを見ているというより、何かを確かめようとしているような、そういう顔だった。
「……おい、忍原! 何見てんだ」
スポーツバッグのチャックを乱暴に引き上げた桜咲が長い首を横から伸ばすと、彼女の手元にある小さな画面を堂々と盗み見た。忍原が「あっ」と小さく声を上げるのも気に留めない。
「ちょっと、桜咲! 勝手に見ないでよ!」
「別にいいじゃねえか……あ?」
画面の中で再生されていたのは、目が眩むほどにチカチカと光る極彩色のライトが交錯する、巨大なライブ会場の映像だった。
割れんばかりの歓声と、揺れる無数のサイリウムの波。その熱狂のど真ん中、ステージの中央で、一人の少年がマイクを握りしめ、客席に向かって満面の明るい笑顔を振りまいている。
『みんなーっ! 今日はありがとーっ!』
スマートフォンの小さなスピーカーから漏れ聞こえる、甘く、まっすぐな、よく通る声。彼の唇が動くのに呼応して黄色い歓声が爆発する。その盛り上がりぶりは、画面越しから見ても呑まれそうなほどの熱を持っていた。
「……なんだこりゃ」
桜咲は思わず眉間に皺を寄せる。いくらキラキラしたアイドルだろうが、白熱したライブだろうが、こういったものに疎い桜咲からしたらやかましいことこの上ないものだ。
ただ一つ気になることといえば、その少年の顔にはどこか見覚えがあることだった。
基本的に桜咲は、サッカーに関わらないものでなければポスターやらCMやらじっくり見る機会はない。当然芸能人にも興味はなく、流行りの人物だとしても顔も名前も覚えることはない。そんな桜咲でも、スマートフォンに映る少年の顔は、記憶に引っ掛かるものがあった。
しかし、その出所ははっきりしない。
桜咲が記憶の底を漁っていると、少し離れた場所で「あっ」と声が聞こえた。声を上げたのは、彼らの近くでスパイクの手入れをしていた木曽路だ。
「それ、確かアイドルの吹雪敦士くんですよね。最近うちのクラスの女子も、よく話してましたよ」
──吹雪敦士。
約一年前、芸能界に彗星のごとく現れた少年アイドルの名前だ。
絹のような銀髪が映える、非の打ち所のない端正な顔つき。中学生とは思えない抜群の歌唱力。高い運動神経から繰り出されるパフォーマンス。そして何より目を引くのは、観るもの全てを惹きつける圧倒的なカリスマ性。
瞬く間に世間の熱狂を攫った彼は、十三歳という若さでありながら、ここ最近はテレビ番組や街頭のCMでもしょっちゅう顔を見かける存在になりつつあった。
そこまで言われて、ああ、と桜咲も彼のことをなんとなく思い出す。こういったものの知識が浅い桜咲でも、毎日のように街の広告などを通して彼の姿を見ていれば、さすがに記憶に残っていたようだ。
そういえば、今朝もクラスメイトが見ていた雑誌の表紙が彼だったか。
一方の木曽路は、興味津々といった様子で忍原に身を乗り出した。
「忍原先輩もファンなんですか?」
「えっ? ううん、違うよ」
忍原は木曽路の問いに即座に首を横に振ると、スマホの画面をタップして動画を一時停止させる。画面の中のアイドルは、スポットライトに照らされた笑顔のままピタリと静止した。
「最近友達が推すから、どんなもんかなって思って」
「なーんだ、そういうことですか。でもやっぱカッコいいですよね、彼」
「うーん……」
忍原は首を傾げ、少しだけ声のトーンを落とした。先ほどまでの画面の熱狂とは対照的に、彼女の表情はどこか晴れない。
「正直、あまり、よくわかんないかも」
「え? そうなんですか?」
すぐにフォローするように「確かにダンスや歌はすごいけど」と付け足すが、また黙り込む。どうやら、忍原の中でもその理由ははっきりしないようだ。
「でも、ダンス部だった来夏さんがそこまで言うってことは、本当にすごいんですね!」
そう目を輝かせたのは古道飼だった。それをきっかけに、会話は吹雪敦士の話題へとゆるやかに転がりはじめる。
「この前のMスタ、チラッとみたけどすごかったよな」
「それ、俺も見ました! 演出も凄かったけど、ダンスも凄かったですよね!」
「昼のワイドショーにもレギュラーとして出てなかったっけ」
「あー、じゅんじゅんと一緒のやつ? 最近卒業したっぽいけど……」
「この商品とかも吹雪敦士がCMやってなかったか?」
時間も忘れて和気藹々と盛り上がる一同。そんな中、「そういえば」と口を挟んだのは百道だった。
「彼、先日無期限の休業を発表したらしいですよ」
当然投下された、情報という名の爆弾に部室内がざわついた。
「えっ、マジで!? あんなにめちゃくちゃ人気あったのに!」
「ほんとだよ、なんで?」
目を丸くした木曽路や不思議そうに小首を傾げた忍原の言葉に、百道は「さあ……」と曖昧な言葉を返す。
「公式からは、『本人の心身の休養のため』としか明言されていません。ですが、ネット上では様々な噂が飛び交っているみたいです」
彼女が持つ端末に、真実かも嘘かもわからない情報たちが並べられていく。百道は目に映るそれらを、澱みなく読み上げた。
「モチベーションの低下だとか、事務所との契約トラブルだとか、はたまた人間関係に深刻な問題があったとか……。中には、何か大きなスキャンダルを隠すための口実じゃないかっていう陰謀論まで…,」
そんな冷ややかな解説に、部員たちは顔を見合わせる。
華やかなスポットライトの裏側に潜む、得体の知れない闇。自分たちと同じか、少し年下の少年が抱えているかもしれない重圧を想像し、それぞれが複雑な表情を浮かべる。
「……なんか、芸能界って怖いな……」
皆の声を代弁するように、木曽路がぼそりと呟いた。
桜咲が「まあ、俺たちには関係ねえ世界の話だけどな」と返しつつも否定自体はしない。続くように他の部員たちも「芸能人も大変なんだな」「あの歳で大人の世界にいるわけだしな」と、口々に好き勝手な想像を巡らす。
すると、唐突に冷水を浴びせるような涼やかな声が会話を断ち切った。
「……あまりネットの無責任な意見を鵜呑みにして、人のプライバシーに無遠慮に踏み込まない方がいいんじゃないかな」
声の主は、それまで部屋の隅で午後の練習メニューに関する書類を黙々と確認していた雲明だった。彼は書類から顔を上げず、シャープペンシルの尻でトントンと机を叩きながら、冷静な口調で正論めいた言葉を紡ぐ。
「他人の事情なんて、外野からは見えるものはごく一部でしかない。ましてや知り合ったことすらない人の憶測を事実のように語るのは、あまり褒められた行為とは言えないな」
──その瞬間。ざわめきで溢れていたサッカー部部室から、一切の音が消えた。
吸い寄せられるように、全員の視線が雲明一点に集中する。
「……? どうしたんですか」
周囲の異変に気付いた雲明が辺りを見回す。
見れば、木曽路の口元は微妙に歪み、桜咲の眉がピクリと痙攣し、忍原は顰めっ面を浮かべ、百道ですらタブレットを操作する指を止めていた。他の面々も、大なり小なり似たような面持ちで雲明を見つめている。
重苦しい、いや、呆れ果てたような無言の数秒間。
最初にその沈黙を破り、引き攣ったような苦笑いで口を開いたのは木曽路だった。
「いやあ……雲明。それ……お前が言う?」
木曽路の言葉に、雲明が「はあ……」とキョトンとした顔で首を傾ける。
どうやら自覚がないらしい。そんな彼の生半可な返事ともいえない言葉が、部員たちの導火線に更に火をつけた。
「何かにつけ、他人の裏情報を徹底的に調べて、利用しまくる雲明君が言えることじゃないと思うんだけど……」
「確かにな」
忍原が呆れた眼差しでの入れたツッコミに、桜咲が間髪入れずに同意する。
他の部員たちを見回しても、誰一人として忍原や桜咲の言葉を否定する者はいなかった。むしろ、「よくぞ言ってくれた」とばかりに深く頷くような、無言の肯定が部室を満たしている。
部員たちの冷ややかな非難の視線を一斉に浴びた雲明は、とうとうぴたりと動きを止めた。
「……………………」
部室中に広がる無言の圧力。
それに圧倒された雲明は、しばらくの間黙りこくった。
やがて、スッと明後日の方向へと目を逸らすと、手元の書類をパタンと閉じて立ち上がる。そのまま軽く制服の埃を払うと、極めて事務的な、抑揚のない声で雲明は言い放った。
「……そろそろ、授業が始まる時間だよ。早く行かないと」
「「「逃げた!」」」
見事なまでの話題のすり替え、あるいは逃避であった。
雲明が部室のドアを開けて足早に去っていく後ろ姿を見送りながら、部員たちは大きな溜息をつき、やがて誰からともなくクスクスと笑い声を漏らし始める。
それは、南雲原中サッカー部の平和で騒がしい夏の日常のひとコマ。
様々な出来事があった春が過ぎ、王者雷門と並ぶ強豪となっても変わらないと思っていた、いつも通りの他愛のない風景だった。
***
グラウンドの熱気から逃れるように校舎へ入ると、ひんやりとした冷房の風が二人の火照った身体を撫でた。足早に歩く雲明に、その後ろから、スポーツバッグを肩に引っかけた木曽路が、軽い足取りで追いすがってくる。
「ていうかさ、同じクラスなんだから先行かなくてもよかったじゃん」 「置いて行ったつもりはないよ。ただ、早く教室に行きたかっただけだ」 「本当にー?」
疑わしげに目を細めて追及する木曽路。雲明はあえて返事はせずに、教室の引き戸に手をかけた。
──ガラリ。
小気味良い音を立てて戸を開ける。その瞬間、教室の中を満たしている異様な空気に、思わず足を止めてしまった。
「……?」
朝のホームルーム直前の教室といえば、多少の騒がしさがあるのは当然だ。だが、今日のそれは明らかに質が違った。誰もが自分の席に座りきれず、小さなグループを作っては声をひそめてソワソワと囁き合っている。
常と同じようで明らかに違う教室の様子に、思わず雲明は眉を顰めた。
「んー? なんか……」
木曽路も教室内の雰囲気に気づいたのか、僅かに頭を傾ける。そして、隣の雲明を抜いて教室に足を踏み入れると、自分の席の近くで談笑しているクラスメイトに声をかけた。
「なあなあ、どうしたの? 今日なんかあったっけ」
「知らねえの、木曽路。今日転校生来るんだよ」
「転校生? …………えっ、マジで!?」
ワンテンポ遅れて仰天した木曽路は、勢いよく雲明の方へと振り返り「雲明、知ってた!?」と素っ頓狂な声で尋ねる。
「知ってたけど」
「マジで!?」
「少し前から噂はあったからね。誰が来るかまでは、ちゃんと知らないけど」
「ええーっ、俺だけ知らなかったの?」
頭を抱え「先に知ってたらギャグとか色々考えてたのにー」といらんことをぶつくさと呟く木曽路の声を、雲明は完全にスルーする。自分の席に腰を下ろすと、そのまま鞄から今日の時間割に必要なものを取り出し、机の中に入れた。
隙を見て、ちらりと教室の様子を伺う。誰も彼もが、転校生という未知なる存在に色めきだっている様子だ。
正直浮かれていると言えるが、仕方がないだろう。誰しも、新たな刺激というものには弱い。
例えば、新入生が天下の野球部にサッカーで決闘を申し込んだことだったり。
サッカー部が忌むべきものとして扱われていたこの学校でサッカー部が復活したことだったり。
その復活したばかりのサッカー部があっという間に名だたる名門を打ち破り王者雷門と日本一の座を争うこととなったり。
繰り返される変わらぬ日常に退屈を抱く彼らは、劇的な“非日常”が起これば最も簡単に食いついてしまう。悲しいかな、それはどうしようとも逃れることのできない、哀れな人間のサガというやつだ。
……まあ、雲明個人の興味関心としては、転校生そのものというよりも──。
(なんでこんな夏休み直前の中途半端な時期に、転校生が来るのか……だけど)
キーン、コーン、カーン、コーン──……。
教室中に広がる喧騒を断ち切るように、始業を告げるチャイムが校舎に鳴り響いた。それを合図にソワソワしていた生徒たちがそれぞれの席へと散り、慌てて着席する。
ギリギリで皆が席に着いたのを見計らったように、前方のドアが開く。教室に入ってきたのは噂の転校生──ではなく、担任の香澄崎栄子だった。
「おはようございます……ってあら?」
さすがの香澄崎先生も、今日の教室のどことなくソワソワとした熱気には気づいていた様だ。抱えた出席簿を教壇に置くと、少し困ったような、それでいて苦笑するような顔で生徒たちを見渡した。
「知っている人もいるみたいですが……今日は転校生がいます」
予想通りを通り越して、予定調和の言葉。しかし、教室内のざわめきが再び湧き上がるには十分すぎる火種だった。
──やっぱり。誰だろう。どこからきたのかな。かっこいい子だといいな。可愛い子だといいな。
そんな思いを秘めながら教室のあちこちで視線が交錯し、まだかまだかと期待や好奇心が空気に溶け込んで混じっていく。
そんな中、香澄崎先生が一段階声を大きくして、合図の言葉を告げた。
「それでは、入ってきてください」
その声が響いた途端、教室の中の空気がピンと張り詰めた。全員の視線が、開かれたままの扉へと一斉に注がれる。
教室中の誰もが興味好奇心を胸を抱き、いまかいまかと新たな仲間を待ち侘びた。
……それから数秒、あるいは数十秒経った頃だろうか。
……コツ。
短いようでひどく長く感じる間を挟んで、静かな足音が廊下から響いた。その音と共に、教室に一人の少年が姿を現す。
──その瞬間、雲明は目を見開いた。
現れたのは、まるで物語か何かの別世界から迷い込んできたかのような、現実離れした雰囲気の少年だった。
この学校の制服を一寸の乱れもなくきっちりと着こなしたその少年は、癖のある白銀の髪を低い位置で一つにまとめていた。やや分厚い赤い縁の眼鏡の奥には、吸い込まれそうなほど深い青色の瞳が静かにこちらを見据えている。雪のようなどこか儚げな空気を纏いながらも、その歩みや立ち姿には一切の隙がない。
……そして、何よりも目に入るのは、眼鏡越しでも嫌というほどわかる、息を呑むほどに整った顔立ち。
美少年、という陳腐な言葉すら霞んでしまうほどの圧倒的な完成度を誇る顔面に、クラスの誰もが息を呑み、見惚れ、唖然として、その末に沈黙した。
そしてそれは、笹波雲明ですらも例外ではなかった。周囲の音が遠のき、思わず瞬きを忘れてしまうほどに、その姿に釘付けになっている。
……ただ一つ、雲明の抱いた驚きが、彼らと違う部分があるとすれば。
雲明が驚いたのは、その隙のない佇まいでも、静謐な雰囲気でも、息を呑むほどの顔の良さでもない、ということだった。
(見覚えが、ある……)
無視できない既視感に心臓が高鳴りそうになるのを、雲明は必死に抑え込む。
隣の木曽路も、雲明と同じ心情からなのか、ぽかんと口を開けたまま、信じられないものを見るような目で転校生を見つめている。
(いや、あるどころじゃない。だって……)
雲明の頭の中で、ほんの十数分前まで部室で飛び交っていた会話が鮮明にフラッシュバックされる。
髪型も違うし、その顔は見覚えのない分厚いメガネに隠されている。なにより、浮かべていた表情は動画で見たどの表情にも似ていない。
だが、それでも、たったそれだけのことで雲明の眼を誤魔化せるはずもなかった。
雲明は、今度こそ確信を持って目の前の彼を凝視する。
(間違いない、彼は。……でも、なんで、こんなところに──)
動揺する雲明の内心など知る由もなく、少年は静かに教壇の前に立つと、黒板の方へと向き直り、白のチョークを手に取った。
彼の佇まいと同じように、丁寧で乱れがない美しい字が、黒板に一つ、また一つと並び立てられる。その白く記された名前に、皆が再び息を呑んだ。
やがて、名前を書き終えた少年は、自ら黒板に刻んだそれを一度だけ確認するように眺めると、ゆっくりとクラス全体の方へと向き直った。
──そして、黒板に描かれた文字と、同じ名を口にした。
「……東京三栄学院・芸能科から転校してきました。
薄い唇から紡がれたのは、ひどく抑揚のない静かな声と、どこにでもあるような自己紹介の言葉。
しかし、そんなありふれた、変哲もない自己紹介に、教室の空気が一瞬無音に包まれ──そして、波打った。
「ふぶき、あつし……って」
「同姓同名? だよね?」
「でも、あの顔って……まさか……」
さざ波のように広がる困惑と驚愕の囁き。収まるどころか、どんどんと大きくなるひそめき声。
そんな騒然とする空気の中心にいながら、当の吹雪敦士は身じろぎ一つしなかった。無遠慮に突き刺さる無数の視線にも、ざわめく声にも一切反応を示すこともない。
ただ、目元の赤いフレームに手をかけると、瞳を遮る分厚い眼鏡をゆっくりと外す。
──その瞬間、驚愕に上ずる声が、教室中にいくつも重なった。
「一応……アイドル、やってました」
分厚いメガネ取り払われ、彼のありのままの
そこには確かに、テレビで、雑誌で、あるいは街角のポスターで、誰もが一度は目にしたことがあるトップジュニアアイドルの顔があった。
──その瞬間、水を打ったような、という月並みな表現すら生ぬるいほどの静寂が落ちる。
しかし、それが保ったのはたった数秒で、すぐに無残にも打ち砕かれた。
「えええええええええええっ!?!?」
「本物!? 本当に吹雪敦士くん!?」
「なんで!? なんで南雲原なんかに!?」
「休業したってニュースでやってたのに!」
悲鳴にも似た歓声と、信じられないという驚愕のどよめきが、狭い教室の中を暴風のように駆け巡る。 動揺と興奮に呑み込まれた教室は、もはや完全にコントロールを失い、一種のパニック状態に陥っていた。
……無理もない。
いくらここが九州屈指の進学校であり、サッカー部や野球部が全国レベルの華々しい経歴を打ち立てているとはいえ、結局のところ、南雲原も九州の一介の中学校に過ぎないのだ。
その、ごくありふれたひとクラスに、テレビでもCMでもポスターでも、どこにでも顔を見かけていた──文字通り住む世界が違う少年が、なんの前置きもなく舞い降りたのである。
まだまだ精神的に幼い、普通の中学生の少年少女ならば、このようにパニックに陥り、我を忘れて熱狂するのが当然の反応だろう。
かくいう雲明自身も、表面上は平静を保っていたが、内心では驚きを隠せずにいるのだから。
「あの、静かに! 席に着いてくださーい!」
香澄崎先生が慌てて手をパンパンと叩くが、パニック状態の群衆にはその音さえ届かない。届くわけがない。 彼女は半ば諦めたように肩を落とすと、無理やり話を進めるために敦士へと向き直った。
「ええと、吹雪くんの席は……一番後ろの席です。わかる?」
香澄崎先生が指したのは、窓から二つ目の列の、その最後尾。ちょうど雲明の二つ後ろの席だ。敦士は「はい」と簡潔に答えると、軽く会釈だけをして歩き出す。
クラスメイトたちの突き刺さるような視線の間を縫って、敦士が教室の後方へと進む。
そして、ちょうど雲明の席の横を通り過ぎようとした、その一瞬。
敦士の深海色の瞳がすっと横に滑り、確かに雲明の顔を捉えた。
(……?)
それは、ほんの僅かな時間の交錯。
だが、決して偶然目が合ったという類のものではない。明らかに笹波雲明という個人を認識し、射抜くような、強烈な意志を秘めた視線。
雲明は弾かれたようにその視線を追うが、既に敦士は目を逸らし、何事もなかったかのように通り過ぎていく。そのまま、何事もなかったかのように静かに席に座った。
「……こほん」
敦士が一番後ろの席に鞄を置くのを見届けた香澄崎先生が、わざとらしく咳払いをする。
「ええっと……それでは連絡事項の方に移りますね。皆さん、あと一週間と少しで夏休みですが──」
周囲が静まったのを確認して、先生はなんとか次の話題──連絡事項へと話を移す。
しかし、当然ながらクラスの誰もまともに先生の話など聞いていない。全員の意識は、とっくのとうに完全に教室の最後列に座る“非日常の住人”へと釘付けとなっていた。
それでも何も知らないふりをして、何もなかったふりをして、教室はなんとか元の静けさを取り戻す。
そんな中、この空気を作り上げた張本人だけは周囲の注目など全く意に介していない様子で、ただ一人、香澄崎先生の事務的な話を淡々と聴いていた。
それは、フットボールフロンティアが終わってから一ヶ月も経たない、ぬるい空気が漂う夏真っ只中の朝のこと。
誰もが予想しなかった“はじまり”に興奮と驚きと困惑に包まれる教室を、燃える太陽だけが静かに見下ろしていた。
ちなみに9章の試合結果についてはどっちのチームが勝ってもいいように書いてます。
ただ、執筆当初は南雲原側を想定していたので、うっかり描写にあったり表現がおかしくなっているところがあるかもしれません。見つけ次第直しておきたいと思ってます。
登場してほしいセレクトキャラは?
-
幕下照
-
弁天九郎丸
-
伊勢谷要
-
頂挑夢
-
雨道未理科
-
井馬里陽愛
-
古手打七南
-
判目才人
-
牛島突五郎
-
妖士乃銀郎
-
濱南暁海
-
福良むすび
-
鉄野ケルビン
-
黒原玲文
-
星美哉