次回からは入学編に突入します。
司波家のリビングは、静かだった。
静かすぎるほどに。
整えられた家具。
磨かれたテーブル。
余計なもののない床。
窓から差し込む光さえ、どこか行儀よく見える。
その中央で、三人が向かい合って座っていた。
四葉深夜。
桜井穂波。
そして、鷹山聖火。
聖火の膝の上には、小さなメモ帳が開かれていた。
その手には、黒いペンがある。
彼は時折、深夜を見た。
次に穂波を見る。
そして、短く何かを書き込んでいく。
沈黙の中に、ペン先が紙を擦る音だけが響いた。
深夜はソファに腰かけ、背筋を伸ばしていた。
顔色は悪くない。
少なくとも、表面上は。
唇には薄い笑みさえ浮かんでいる。
だが、聖火はその笑みを見ていなかった。
呼吸。
視線の動き。
指先の緊張。
姿勢を保つために使っている力。
魔法演算領域の奥に残る負荷の歪み。
それらを、ただ記録していた。
穂波は深夜の隣に座っている。
座っている、という事実そのものに、まだ少し慣れていないようだった。
背筋は伸びている。
膝の上に重ねた手も整っている。
だが、聖火から見れば、休んでいる姿勢ではなかった。
待機している姿勢だった。
聖火はメモ帳に一行書き加えた。
「穂波」
「はい」
「力を抜け」
穂波は一瞬だけ戸惑った。
「力を、ですか」
「そうだ」
「ですが、私は」
「休めと言っている」
聖火はペンを止めずに言った。
「命令ではない。診断だ」
穂波は言葉を失った。
深夜が薄く笑う。
「相変わらず、不愉快な診察ですね」
「久しぶりだな、深夜」
「ええ。できれば、もう少し間を空けたかったのですが」
「俺もだ」
「では、今日はお帰りに?」
「帰らない」
「でしょうね」
深夜はそれだけ言うと、静かに目を伏せた。
聖火はメモ帳を閉じず、次のページを開いた。
「先に結論を言う」
その声に、穂波の表情が引き締まる。
深夜は動かなかった。
分かっていたような顔だった。
「深夜」
「はい」
「君は、長年、身体を痛めつけた状態で魔法を行使し続けている」
深夜の目が、わずかに細くなる。
「随分な言い方ですね」
「事実だ」
「否定はしません」
「精神側の損傷が、身体に影響を出している。逆もある。身体が耐えるために精神側を締めつけ、精神側が崩れないように身体を犠牲にしている」
穂波が息を呑んだ。
深夜は静かに聞いていた。
「治療には時間がかかる」
聖火は短く言った。
「数年単位で見ろ」
穂波の表情が変わった。
「数年……ですか」
「そうだ」
「それほどまでに」
「それほどまでに、だ」
聖火は穂波を見た。
「今すぐ死ぬ状態ではない。だが、短期で治る状態でもない」
深夜は薄く笑った。
「あなたの腕でも?」
「俺の腕だから、数年で済む」
穂波は思わず聖火を見た。
傲慢にも聞こえる言葉だった。
だが、聖火の声に誇りはなかった。
ただ、診断結果を述べているだけだった。
深夜は少しだけ肩を揺らした。
笑ったのか、呆れたのか。
「そこまで言い切りますか」
「言い切る」
「相変わらずですね」
「よく言われる」
聖火はメモ帳に数行を書いた。
それから、ペン先で紙を軽く叩く。
「今後は、定期的に経過を見る。名目は、俺が司波家へ遊びに来る。それでいい」
深夜は目を上げる。
「遊びに、ですか」
「そうだ」
「診察ではなく?」
「診察でもある」
聖火は短く答えた。
「周囲に余計な違和感を持たせないための名目だ。深雪ちゃんと達也君の家に、同じ学校の知人が遊びに来る。それなら不自然じゃない」
「実際には?」
「経過観察だ」
深夜は薄く笑った。
「便利な名目ですこと」
「便利だから使う」
「あなたらしい」
聖火はそれ以上、この話を広げなかった。
名目は名目だ。
必要以上に言葉を重ねるものではない。
「治療は、一度で終わらない。段階的な解析と調整の繰り返しになる。触っていい場所、触れば悪化する場所、本人の意思がなければ触るべきではない場所。それを分ける」
聖火は深夜を見る。
「間違えれば壊す」
深夜の指先が、ほんのわずかに動いた。
その言葉に、聞き覚えがあったからだ。
意識のない人間の心を勝手に弄る趣味はない。
かつて、聖火はそう言った。
あの時も、この男は精神の奥へ踏み込まなかった。
深夜が望まない限り、触れようとはしなかった。
「私の奥には、まだ触れない方がいい場所があると?」
「ある」
聖火は即答した。
「断言しますね」
「初期所見だ」
「初期所見でそこまで言いますか」
「言う」
「本当に、不愉快な方」
「よく言われる」
聖火はそこで、穂波へ視線を移した。
穂波は無意識に姿勢を正した。
聖火の目が、それを捉える。
「穂波」
「はい」
「君も同時に治療する」
「私も、ですか」
「そうだ」
穂波は一瞬、言葉を失った。
その反応は、深夜とは違っていた。
深夜は聖火の腕を知っている。
沖縄で、そしてその後の空港で、彼が何を見抜き、どこまで戻したかを知っている。
だから、驚きは小さい。
不快感はある。
警戒もある。
だが、能力そのものへの疑いは薄い。
一方で、穂波は違った。
聖火に救われた記憶はある。
だが、自分の根本まで診られるとは思っていなかった。
「穂波は」
聖火は、あえて少しだけ言葉を整えた。
「身体の設計段階に由来する問題がある」
穂波の表情が、完全に止まった。
深夜の目が、わずかに動く。
「……そこまで分かるのですか」
穂波の声は、かすかに震えていた。
「分かる」
「私は、何も」
「言っていないな」
「はい」
「だが、見れば分かる」
穂波は唇を引き結んだ。
調整体。
人為的に設計され、調整され、役目を与えられた身体。
自分がそういう存在であることを、穂波は知っている。
知らされている。
受け入れているつもりでもあった。
だが、目の前の少年は、その情報を何の前置きもなく言い当てた。
しかも、ただ言い当てただけではない。
治療する、と言った。
「治療、できるのですか」
穂波は静かに尋ねた。
声は落ち着いていた。
だが、指先はわずかに震えている。
聖火は頷いた。
「できる部分はある」
「完全に、ですか」
「条件が揃えば」
「条件」
「時間。継続観察。負荷の管理。身体側の調整。魔法演算領域の過緊張を下げること。それと、君が自分を壊す前提で動かないこと」
穂波は何も言えなかった。
最後の一つが、一番難しい。
そう顔に出ていた。
聖火はメモ帳に書き込みながら続ける。
「一年以内に完治すれば良好」
穂波が目を見開く。
「一年……」
「三年以内に完治できれば、いいところだろうな」
「三年」
穂波はその言葉を繰り返した。
深夜は驚かなかった。
ただ、静かに聖火を見ている。
「長いと見るべきでしょうか」
「短い」
聖火は即答した。
「調整体としての問題を根本から弄るなら、本来はもっとかかる。下手をすれば一生付き合う」
穂波の喉が、小さく動いた。
「それを、三年で?」
「うまくいけば、だ」
「失敗すれば?」
「悪化する」
聖火は隠さなかった。
「だから一度でやらない。段階的に見る。反応を確認する。負荷を測る。調整する。戻す。進める。その繰り返しだ」
穂波は静かに目を伏せた。
驚き。
恐れ。
そして、ほんのわずかな希望。
それらが、彼女の中で混ざっているのが分かった。
深夜が口を開いた。
「穂波」
「はい」
「この男は不愉快ですが、腕は確かです」
「深夜様」
「ただし、信用しすぎないように」
聖火はペンを止めた。
「目の前で言うことか」
「聞こえるように言いました」
「本当に、四葉の女は面倒だな」
「聞こえています」
「聞こえるように言った」
深夜は薄く笑った。
「相変わらずですね」
「君もな」
穂波はそのやり取りを見て、少しだけ力を抜いた。
ほんの少しだけ。
聖火はそれを見逃さず、メモ帳に一行加えた。
穂波の眉が動く。
「今、何を?」
「記録だ」
「何を記録されたのですか」
「今、少し力が抜けた」
穂波は目を瞬かせた。
深夜が小さく笑う。
「油断も隙もありませんね」
「診察中だ」
その時、リビングの扉が開いた。
「失礼します」
深雪の声だった。
聖火は顔を上げた。
深雪と達也が、盆を手にしてリビングへ入ってくる。
深雪の盆には、切り分けられたチーズケーキが乗っていた。
達也の盆には、紅茶の入ったカップが並んでいる。
兄妹で準備していたのだろう。
深雪の手つきは少し緊張している。
達也はその横で、盆の傾きや歩幅を自然に合わせていた。
手を貸しすぎない。
だが、必要ならすぐに支えられる距離。
聖火はその様子を見て、メモ帳へ視線を落とした。
そして、何も書かなかった。
今は診察の続きではない。
そういう顔をする場面ではない。
「お待たせいたしました」
深雪は少し緊張した声で言った。
「チーズケーキを切り分けてまいりました」
「ありがとう、深雪ちゃん」
聖火の口調が、少しだけ戻った。
先ほどまでの硬い声ではない。
鷹山家にいる時の、年相応の少年の声だった。
深雪はその変化に、少しだけ安心したようだった。
「母が作ったものだから、口に合うか分からないけど」
「とても良い香りです」
「それ、母さんが聞いたら喜ぶよ」
達也が盆を卓上に置く。
「紅茶だ」
「達也君が淹れたの?」
「深雪が淹れた。俺は運んだだけだ」
「なるほど」
聖火はカップを見る。
「じゃあ、ありがたくいただくよ」
深雪と達也も席についた。
これで五人。
深夜。
穂波。
深雪。
達也。
聖火。
卓上にはチーズケーキと紅茶が並んでいる。
さっきまで診察の場だったリビングが、少しだけ客を迎える部屋に戻った。
聖火はフォークを手に取る。
一口食べる。
甘さは控えめで、少しだけ酸味がある。
派手ではない。
だが、落ち着く味だった。
「うん」
聖火は頷いた。
「母さんの本気だ」
深雪は嬉しそうに微笑んだ。
「とても美味しいです」
「よかった。母さんに言っておく」
「ぜひ」
穂波も一口食べ、静かに目を細めた。
「本当に、美味しいですね」
「穂波さんがそう言うと、母さん喜びそう」
「そうでしょうか」
「うん。かなり」
深夜もチーズケーキを口に運ぶ。
それから紅茶を一口飲んだ。
聖火はその様子をちらりと見た。
「飲めるなら良好だ」
「診察は終わったのでは?」
深夜が静かに言う。
「癖」
「不愉快な癖ですね」
「よく言われる」
深雪が小さく笑った。
空気が、少しだけ柔らかくなる。
聖火はフォークを置き、深雪と達也を見た。
「そういえば、学校」
深雪が顔を上げる。
「はい」
「あれには驚いた」
「何がでしょうか」
「美男美女の兄妹が転校してきたって、かなり騒ぎになってた」
深雪は目を瞬かせた。
「騒ぎ、ですか」
「うん。かなり」
聖火は少しだけ肩をすくめる。
「深雪ちゃんは目立つし、達也君も別の意味で目立つし」
達也が静かに言う。
「別の意味とは?」
「雰囲気」
「雰囲気」
「近寄りがたい感じ」
深雪が少し困ったように兄を見る。
「お兄様は、お優しいです」
「深雪ちゃん、それは分かってる」
聖火は苦笑した。
「でも、初対面の人間には伝わりにくいんだよ」
達也は少しだけ考えた。
「そうか」
「そう」
「改善の必要があるか」
「いや、無理に変えなくていいと思う。ただ、深雪ちゃんの近くにいる時だけ少し柔らかいから、余計に差が目立つ」
深雪の頬が、ほんの少しだけ赤くなる。
「そう、でしょうか」
「そうだよ」
聖火は紅茶を飲みながら言った。
「教室でも、二人が並ぶと空気が変わるんだよね。なんというか、絵になる」
深雪はますます困った顔をする。
「そのようなことは」
「ある」
聖火は即答した。
達也は深雪を見る。
「深雪が目立つのは当然だ」
「お兄様」
「事実だ」
深雪は視線を伏せた。
けれど、表情は嬉しそうだった。
聖火はそれを見て、少しだけ笑った。
こういう時の達也は、本当に迷いがない。
深夜が静かに言う。
「学校で問題は?」
「今のところ、大きな問題はないと思う」
聖火は口調を軽くしたまま答えた。
ただし、目は少しだけ観察する色を帯びていた。
「注目はされてる。けど、それは仕方ない。むしろ、変に孤立させない方がいい」
「具体的には?」
深夜が尋ねる。
聖火はチーズケーキの皿を見ながら答えた。
「昼休みとか、移動教室とか。そういう時に、完全に二人だけで固まりすぎないようにする。かといって、無理に誰かと混ぜる必要もない」
「中間、ですか」
「そう。中間」
聖火は深雪を見る。
「深雪ちゃんが疲れない程度に、少しずつでいい」
「はい」
「達也君は、深雪ちゃんが疲れてないかを見る」
「分かった」
「でも、見すぎない」
達也が黙った。
聖火は苦笑する。
「そこが難しいんだけどね」
深雪が小さく笑った。
穂波も、少しだけ表情を緩める。
深夜はその様子を静かに見ていた。
診察は、先ほど終わったわけではない。
むしろ、今も続いている。
聖火が子供の口調に戻っても、彼の目は時折、深夜と穂波の反応を拾っていた。
深夜がどの言葉に反応するか。
穂波がいつ立とうとするか。
深雪がどこで安心するか。
達也がどこで手を出そうとするか。
それらはすべて、今後の調整材料になる。
ただ、それを深雪と達也の前で露骨に出すつもりはなかった。
二人の前では、聖火はできるだけ同年代の子供でいる。
少なくとも、そう決めていた。
深雪にとって、今日が診察だけの日にならないように。
達也にとって、聖火がただの監視者にならないように。
チーズケーキが半分ほどなくなった頃、聖火はカップを置いた。
「今日はここまでだな」
深夜が聖火を見る。
「もう?」
「初回としては十分」
「あなたにしては、控えめですね」
「焦ると壊す」
深夜は黙った。
その言葉を否定しなかった。
聖火は立ち上がる。
穂波も反射的に立ち上がろうとした。
聖火は見ずに言う。
「穂波さん」
その呼び方は、先ほどより少し柔らかかった。
「座ってていいよ」
穂波は動きを止めた。
「ですが、お見送りを」
「今日は座ってるのも治療」
穂波は少しだけ迷った。
深雪が穂波を見る。
「穂波、今日は私がお見送りします」
「深雪様」
「お願いします」
穂波は静かに頭を下げた。
「……承知いたしました」
聖火はそれを確認して、メモ帳を閉じた。
深夜に向き直る。
「次も、同じ形で来る」
「遊びに?」
「遊びに」
「診察に?」
「診察に」
深夜は薄く笑った。
「便利な言葉ですね」
「便利だから使う」
「ええ。あなたらしい」
聖火はチーズケーキの皿を見た。
「母さんに、美味しかったって伝えておく」
深雪が嬉しそうに頷く。
「はい。ぜひ」
達也も立ち上がる。
「玄関まで送る」
「ありがとう」
聖火は鞄を持った。
リビングを出る前に、一度だけ振り返る。
深夜はソファに座ったまま、静かにこちらを見ていた。
穂波も、立たずに座っている。
それだけで、今日の診察としては十分だった。
玄関まで、深雪と達也が並んで歩いた。
深雪は少し名残惜しそうに言う。
「聖火さん、また来てくださいますか」
「うん」
聖火は笑った。
「また来るよ」
「学校でも、お会いできますね」
「そうだね。学校ではあまり騒ぎを大きくしないようにしよう」
「騒ぎ……」
深雪は困ったように兄を見る。
達也は静かに言った。
「必要なら、対応する」
「達也君、それが騒ぎを大きくする方向なんだよ」
「そうなのか」
「そう」
深雪が小さく笑った。
聖火は靴を履き、玄関の扉に手をかける。
「じゃあ、また明日。学校で」
「はい」
「また明日、聖火さん」
達也も短く頷く。
「また明日」
聖火は外へ出た。
扉が閉まる。
司波家の空気が、背中から遠ざかる。
聖火は一度だけ息を吐いた。
今日分かったことは多い。
深夜の損傷は深い。
穂波の問題も軽くない。
深雪と達也も、まだ慎重に見なければならない。
だが、焦る必要はない。
焦れば壊す。
治療は、一度で終わらない。
段階的な解析と調整の繰り返しだ。
聖火は鞄の中のメモ帳に軽く触れた。
そして、いつもの子供の顔に戻って歩き出した。
帰ったら、母に伝えることがある。
チーズケーキは好評だった、と。
それだけは、裏も表もない本当の報告だった。
本当はもう1話か2話くらいやる予定でしたが、取りやめました。理由については入学編でお話させていただきます。
少し名前が出ましたがあるキャラとかかわっていく形になります。