# 後半 熱の場所
数日後。
部活連本部で申請書の確認をしていた聖火は、報告書の束の中に見慣れた名前を見つけた。
桐原武明。
剣術部の主力。
剣道部との間で起きた騒動に関する報告だった。
最初は、施設使用を巡る小さな衝突だったらしい。
だが、そこに実技と面子と、魔法師としての誇りが絡んだことで、話は一気に大きくなった。
報告書を見た十文字の表情が硬くなる。
「桐原か」
その名を聞いて、室内の空気が少し変わった。
聖火は書類を整理していた手を止めた。
「桐原先輩、ですか?」
「剣術部の主力だ」
十文字は短く答えた。
「事情を聞く必要がある」
「部活連でですか?」
「風紀委員も関わる。だが、部活動間の問題でもある。こちらも確認する」
聖火は頷いた。
剣道部と剣術部。
名前だけ聞けば似ている。
だが、その中身も、立場も、抱えている誇りも違うのだろう。
似ているものほど、ぶつかる時は厄介だ。
「鷹山」
「はい」
「おまえも同席しろ」
「俺もですか?」
「記録係だ。余計なことは言うな」
「必要なことは?」
「俺が聞いたら言え」
「分かりました」
「本当に分かったか?」
「……覚えます」
「それでいい」
聖火は筆記用具を手に取り、十文字の後に続いた。
向かう先は、事情聴取のために用意された一室。
そこで、桐原武明から話を聞くことになる。
まだ顔も見ていない相手だ。
だが、報告書に残る言葉の端々から、聖火には少しだけ嫌な予感がしていた。
これは、ただの部活動同士の喧嘩ではない。
誇り。
劣等感。
焦り。
侮り。
そして、魔法師としての自負。
それらが絡まっている。
病気になる前に診る。
そう言ったばかりだった。
だが、今回はもう少し進んでいるのかもしれない。
聖火は小さく息を吐いた。
「鷹山」
前を歩く十文字が、振り返らずに言う。
「はい」
「顔に出ている」
「すみません」
「見るのはいい。だが、相手に悟らせるな」
「難しいですね」
「だから覚えろ」
「はい」
聖火は頷き、表情を整えた。
部活連としての初めての本格的な仕事。
そして、第一高校の歪みを、少し近い距離から見ることになる場面だった。
事情聴取に使われたのは、部活連本部から少し離れた小会議室だった。
広くはない。
机が一つ。
椅子が数脚。
壁際には、予備の折り畳み椅子と簡易端末。
必要最低限のものだけが置かれた、簡素な部屋だった。
聖火は十文字の指示に従い、机の端に座った。
記録係。
そう言われている以上、余計なことはしない。
必要なことを、必要な順番で。
十文字に何度も言われた言葉を、聖火は頭の中で繰り返した。
しばらくして、扉が開く。
入ってきたのは、一人の男子生徒だった。
鋭い目つき。
整った姿勢。
鍛えられた身体つき。
だが、その雰囲気にはどこか刺々しさがあった。
張り詰めている。
怒りというより、苛立ち。
苛立ちというより、焦り。
その奥に、薄い劣等感のようなものが混じっている。
聖火は視線を落とし、端末に名前を入力した。
桐原武明。
報告書に記されていた名前と一致する。
「座れ」
十文字が短く言った。
桐原は一礼し、椅子に座った。
「失礼します」
声は硬い。
だが、十文字に対する礼儀は崩していない。
少なくとも、相手を見誤るほど愚かではないらしい。
十文字は机の上に置かれた報告書に視線を落とした。
「剣道部との騒動について確認する」
「はい」
「報告によれば、施設使用を巡る口論から始まり、実技を交えた挑発に発展した。その後、風紀委員が介入している」
「その通りです」
「魔法の使用はあったか」
桐原の表情が、わずかに硬くなった。
「……ありました」
「誰が使った」
「自分です」
十文字は表情を変えなかった。
「許可は」
「ありません」
「理由は」
桐原は一瞬だけ口を閉じた。
その沈黙に、言い訳を探している気配はない。
むしろ、どう言えば自分の中にあるものを形にできるのか、迷っているように見えた。
「剣術部を侮辱されたと感じました」
「具体的には」
「剣道部側から、剣術部の実戦性を疑うような発言がありました。魔法を使う剣術は剣ではない、と」
聖火は記録しながら、心の中で小さく息を吐いた。
似たもの同士の衝突。
そう思った予感は、どうやら外れていなかった。
剣道部と剣術部。
どちらも剣を扱う。
どちらも技術と鍛錬を重んじる。
だからこそ、相手の存在が近すぎる。
近すぎるものは、時に遠いものよりも許せなくなる。
十文字は静かに問いを続けた。
「それで魔法を使ったのか」
「はい」
「相手に向けてか」
「直接ではありません」
「直接ではない、か」
十文字の声が少し低くなる。
「はい。床面に対してです。威嚇のつもりでした」
「威嚇なら問題ないと考えたか」
「……いえ」
桐原は、そこで初めて視線を落とした。
「今思えば、軽率でした」
「今思えば、か」
「はい」
十文字は報告書を閉じた。
「桐原。おまえは剣術部の主力だ。新入生も見ている。おまえの行動は、個人の問題では済まない」
「分かっています」
「本当に分かっているなら、威嚇に魔法を使うな」
桐原は奥歯を噛みしめた。
言い返したい。
だが、言い返せない。
そんな表情だった。
聖火は、その横顔を見ていた。
桐原武明は、悪人ではない。
少なくとも、ただ暴れたいだけの人間ではない。
むしろ、自分の部に誇りを持っている。
剣術に誇りを持っている。
魔法を含む戦闘技術に、自分なりの信念がある。
だからこそ、侮辱されたと感じた時に、引けなかった。
問題は、その誇りが少し硬すぎることだ。
硬いものは、強い。
だが、しなりを失えば折れる。
「鷹山」
不意に、十文字が名前を呼んだ。
聖火は顔を上げる。
「はい」
「記録は」
「取っています」
「なら、そのまま聞いていろ」
「はい」
今は喋るな、という意味だ。
聖火は素直に頷いた。
十文字は再び桐原へ向き直る。
「風紀委員が介入した時、抵抗したか」
「抵抗というほどではありません」
「報告書には、制止に対して一度反応が遅れたとある」
「……はい」
「理由は」
桐原は少しだけ眉を寄せた。
「相手が二科生だったからです」
部屋の空気が、わずかに変わった。
聖火の指が、端末の上で一瞬だけ止まる。
十文字は表情を変えない。
「続けろ」
「最初は、二科生が割って入る場面ではないと思いました」
「今は」
「……相手が二科生か一科生かは、関係なかったと思っています」
「なぜそう思う」
桐原は、少しだけ目を伏せた。
「止められたからです」
「誰に」
「司波達也に」
その名前が出た瞬間、聖火は静かに息を整えた。
ここで反応を見せるべきではない。
自分は記録係だ。
それでも、胸の奥で少しだけ苦笑した。
達也くんらしい。
表に出る気はなくても、必要なら止める。
そして止めた相手に、こうして何かを残す。
桐原の声は、先ほどより少しだけ低くなっていた。
「実力で止められました。だから、認めるしかありません」
「認めるしかない、か」
十文字は静かに繰り返した。
「納得はしていないのか」
桐原はすぐには答えなかった。
「……分かりません」
「分からない?」
「負けたことは事実です。止められたことも事実です。自分が軽率だったことも、今は理解しています」
「だが」
「それでも、簡単に納得はできません」
桐原の声には、苦さがあった。
聖火は記録しながら、その苦さを見ていた。
これは、ただの敗北ではない。
自分が見下していた枠の相手に止められた。
自分が誇りを持っていた場所に、別の角度から踏み込まれた。
それは、桐原にとってかなり重い経験だったはずだ。
十文字はその沈黙を急かさなかった。
少しの間、部屋には端末の入力音だけが残る。
やがて、十文字が口を開いた。
「納得できないなら、それでいい」
桐原が顔を上げる。
「ただし、納得できないことを理由に、同じことを繰り返すな」
「……はい」
「負けた相手を認める必要はある。だが、すぐに受け入れろとは言わん」
十文字の声は低く、重い。
「おまえがすべきことは、次に同じ状況になった時、何を選ぶかを考えることだ」
桐原は、しばらく十文字を見ていた。
そして、ゆっくりと頭を下げる。
「分かりました」
十文字は頷いた。
「処分については、風紀委員と確認した上で通知する。剣術部としての活動にも、一時的な制限がかかる可能性がある」
「承知しました」
「今日は以上だ」
「失礼します」
桐原は立ち上がり、もう一度頭を下げて部屋を出ていった。
扉が閉まる。
部屋に静けさが戻った。
聖火は端末の入力を終え、記録を保存した。
十文字はしばらく扉を見ていた。
やがて、視線を聖火へ向ける。
「どう見た」
来ると思っていた。
聖火は端末から手を離し、少しだけ考えた。
「言っていい範囲で、ですか?」
「そうだ」
「悪い人ではないと思います」
「それだけか」
「誇りが硬い人です」
十文字は黙って聞いている。
聖火は続けた。
「剣術部を馬鹿にされたと感じて、引けなくなった。けれど、本当は相手を傷つけたいわけではない。ただ、自分の価値と部の価値を否定されたように感じたのだと思います」
「劣等感か」
「近いと思います。ただ、劣っていると思っているというより、認められないことへの焦りに見えました」
十文字は静かに目を細める。
「おまえは、本当にそういうものを見るな」
「見えてしまうだけです」
「それを全部口にするなと言ったはずだ」
「今は十文字先輩に聞かれました」
「俺のせいにするな」
「すみません」
十文字は短く息を吐いた。
「他には」
「達也くんに止められたことは、たぶん桐原先輩にとって良くも悪くも残ります」
「良くも悪くも、か」
「はい。うまくいけば、見る目が変わる。悪く出れば、二科生に止められたという事実だけが棘になる」
「その棘が、また騒ぎになる可能性があると?」
「あります」
聖火は少しだけ視線を落とした。
「ただ、十文字先輩の言葉は効いていたと思います」
「なぜそう思う」
「桐原先輩は、叱られたことより、認められたことに反応していました」
「認めたつもりはない」
「十文字先輩は、納得できないならそれでいい、と言いました」
十文字は黙った。
聖火は続ける。
「否定しきらなかった。感情を持つこと自体は許した。その上で、次に何を選ぶかを考えろと言った。たぶん、あれは桐原先輩にとって救いになっています」
「救い、か」
「大げさですか?」
「いや」
十文字は短く否定した。
「だが、救うために言ったわけではない」
「分かっています」
「分かっているのか」
「はい。十文字先輩は、問題を収めるために言った。けれど、結果として少し救いになった。そう見えました」
十文字は聖火を見た。
その視線には、またあの見極めるような重さがあった。
だが、昨日ほど硬くはない。
「鷹山」
「はい」
「記録係としては、余計な観察だ」
「はい」
「だが、部活連としては必要な観察でもある」
聖火は少しだけ目を瞬かせた。
「それは、褒められていますか?」
「少しはな」
「最近、少しずつ増えていますね」
「調子に乗るな」
「はい」
十文字は椅子から立ち上がった。
「桐原の件は、これで終わりではない」
「はい」
「剣道部と剣術部の対立も残っている。風紀委員との連携も必要だ」
「達也くんたちと、ですね」
「ああ」
十文字はそこで、少しだけ間を置いた。
「おまえは司波達也と親しい。だからこそ、必要以上に肩入れするな」
「分かっています」
「本当にか」
「……努力します」
「覚えろと言ったはずだ」
「覚えます」
「それでいい」
聖火は苦笑した。
最近、このやり取りにも慣れてきた気がする。
それが良いことなのかどうかは、まだ分からない。
十文字は資料をまとめながら言った。
「行くぞ」
「どちらへ?」
「部活連本部に戻る。報告書をまとめる」
「はい」
聖火は端末を持って立ち上がった。
小会議室を出る前に、彼は一度だけ椅子を振り返った。
桐原武明が座っていた席。
そこに、まだ少しだけ熱が残っているような気がした。
誇り。
焦り。
敗北。
納得できなさ。
それらは、簡単には消えない。
病気になる前に診る。
そう言った自分の言葉を、聖火は思い出した。
今回のこれは、すでに少し熱を持っている。
なら、これ以上悪化させないようにするのが部活連の仕事なのだろう。
聖火は静かに息を吐き、十文字の後を追った。
小会議室を出た後、聖火は十文字と共に部活連本部へ戻った。
廊下には、放課後特有のざわめきが残っている。
部活動へ向かう生徒たちの足音。
新入生を案内する上級生の声。
どこか浮ついた空気と、その裏にある小さな緊張。
第一高校は、今日も変わらず動いている。
その中で起きた剣道部と剣術部の騒動は、まだ学校全体を揺らすほどのものではない。
けれど、放っておけば熱を持つ。
聖火には、そう見えた。
「鷹山」
前を歩く十文字が、振り返らずに声をかけた。
「はい」
「今考えていることを、そのまま報告書に書くな」
聖火は一瞬だけ足を止めかけた。
「顔に出ていましたか?」
「出ていた」
「気をつけます」
「報告書に必要なのは、事実だ。おまえの見立ては別にまとめろ」
「別、ですか」
「そうだ。事実と所感を混ぜるな」
十文字の言葉は短い。
だが、分かりやすかった。
聖火は頷いた。
「事実は事実として。見えたことは所感として、分ける」
「そうだ」
「医者のカルテみたいですね」
「またその例えか」
「すみません」
「だが、間違ってはいない」
聖火は少しだけ笑った。
「今日は評価が甘いですね」
「調子に乗るな」
「はい」
そう答えながら、聖火は少しだけ気が楽になった。
十文字は厳しい。
だが、ただ否定するだけではない。
危ない言い方をすれば止める。
足りないところがあれば補う。
必要なことは、きちんと教える。
頼れる先輩。
その評価は、やはり間違っていないらしい。
部活連本部に戻ると、先輩たちはまだ作業を続けていた。
申請書の確認。
施設使用表の修正。
各部への連絡。
見学という言葉は、もうほとんど意味を失っている。
聖火は十文字の指示で、端末の前に座った。
「桐原先輩の事情聴取記録を整理します」
「ああ。まずは時系列だ」
「はい」
聖火は端末に向かい、事情聴取の内容を整理していく。
剣道部との口論。
施設使用を巡る対立。
剣術部への侮辱と受け取った発言。
桐原先輩による無許可の魔法使用。
風紀委員の介入。
司波達也による制止。
文字にすると、出来事は驚くほど冷たくなる。
そこにあった熱も、焦りも、苦さも、報告書の上では淡々とした事実になる。
それは必要なことだ。
だが、それだけでは足りない。
聖火は、別欄に所感を書き始めた。
桐原武明は、剣術部への強い帰属意識と誇りを持っている。
剣道部側の発言を、自身および所属部への否定と受け取った可能性が高い。
無許可の魔法使用は軽率だが、加害目的よりも威嚇、反発の性格が強い。
司波達也に制止された事実は、本人の中に強く残っている様子。
今後、二科生に対する感情が悪化する可能性に留意する必要がある。
そこまで打ち込んで、聖火は手を止めた。
少し書きすぎたかもしれない。
「十文字先輩」
「何だ」
「所感、少し踏み込みすぎていますか?」
十文字は聖火の端末を覗き込んだ。
しばらく無言で読み、短く答える。
「公開用の報告書には書くな」
「はい」
「だが、部活連内部の注意事項としては残していい」
「いいんですか?」
「必要な情報だ」
十文字は淡々と言った。
「ただし、断定するな。可能性として書け」
「分かりました」
聖火は文面を修正した。
断定を避ける。
可能性として残す。
わずかな違いだ。
だが、そのわずかな違いが、相手を決めつけるかどうかの境目になる。
聖火は、それを少しだけ理解した。
「鷹山」
「はい」
「おまえは見えるものが多い」
「そうでしょうか」
「少なくとも、他人より余計なものまで見る」
「それは褒められていますか?」
「半分はな」
「もう半分は?」
「危うい」
聖火は苦笑した。
「でしょうね」
「見えるからといって、正しいとは限らない。正しくても、言い方を間違えれば問題になる」
「必要なことを、必要な順番で、ですね」
「そうだ」
十文字は頷いた。
「覚えろ」
「はい」
今度は素直に返事をした。
努力する、ではなく。
善処する、でもなく。
覚える。
それが、今の聖火に必要なことだった。
作業が一段落する頃には、外は少しずつ夕方の色を帯び始めていた。
先輩たちの一人が大きく伸びをする。
「今日はこのあたりですかね」
「残りは明日でいいだろう」
十文字がそう言うと、部屋の空気が少し緩んだ。
聖火は片付けを手伝い、茶器を洗い、残ったお茶請けを小皿に戻した。
「鷹山くん、本当に手際がいいね」
女子生徒が感心したように言う。
「家で少しやっていただけです」
「コーヒーは苦手なのに?」
「紅茶なら」
「じゃあ、今度から紅茶係だね」
「見学者の仕事が増えていくんですが」
「もう見学者って感じでもないよ」
そう言われて、聖火は少しだけ困ったように笑った。
確かに、自分でもそう思う。
最初は見学のはずだった。
だが、申請書を分け、事情聴取に同席し、報告書を書き、紅茶を淹れている。
部活連に入れ、と言われた時点で、ある程度こうなることは決まっていたのかもしれない。
十文字は、それを見越していたのだろう。
「鷹山」
「はい」
「今日はもういい。帰れ」
「分かりました」
「寄り道はするな」
「俺は小学生ですか」
「余計なことを言うな」
「はい」
聖火は軽く頭を下げ、部活連本部を出た。
廊下に出ると、放課後のざわめきはだいぶ落ち着いていた。
部活へ向かった生徒たちの声が、遠くから聞こえる。
第一高校は、広い。
生徒会。
風紀委員。
部活連。
それぞれが違う場所で、同じ学校を見ている。
聖火はそのことを、少しずつ実感し始めていた。
校舎の出口へ向かう途中、見覚えのある姿が目に入った。
達也と深雪だった。
二人も、ちょうど帰るところらしい。
深雪が先に聖火に気づいた。
「聖火くん」
「深雪ちゃん。達也くんも」
「部活連は終わったのか」
達也が尋ねる。
「うん。見学のはずだったけど、普通に手伝ってきた」
「だろうな」
「予想してた?」
「おまえが十文字先輩の近くに置かれて、何もさせられないとは思えない」
「達也くんの中の十文字先輩像、なかなか正確だね」
「有名だからな」
深雪が少し心配そうに聖火を見た。
「お疲れではありませんか?」
「少し疲れたけど、大丈夫。紅茶を淹れる時間もあったし」
「紅茶、ですか?」
「うん。先輩方に。下級生らしくね」
「聖火くんらしいですね」
深雪が柔らかく微笑む。
達也はそれを横目に見ながら、少しだけ目を細めた。
「おまえはコーヒーが苦手だったな」
「うん。父の影響でね。紅茶の方が落ち着く」
「そうか」
達也はそれ以上、踏み込まなかった。
ありがたい。
父の話は、今では昔よりずっと軽くなった。
けれど、何でも簡単に話せるほど軽いわけではない。
深雪も、それを察したのか話題を変えた。
「今日は、部活連でもお忙しかったのですね」
「うん。剣道部と剣術部の件で少し」
達也の目がわずかに細くなる。
「桐原先輩の件か」
「うん。事情聴取の記録係として同席した」
「十文字先輩が?」
「主に十文字先輩が聞いていた。俺はほとんど記録だけ」
「ほとんど、か」
達也が静かに言う。
聖火は苦笑した。
「少しだけ、見立てを聞かれた」
「だろうな」
「達也くん、最近俺の扱いが雑じゃない?」
「実績だ」
「便利な言葉だね」
深雪は二人を見比べてから、少し表情を引き締めた。
「桐原先輩は、どのような様子でしたか?」
聖火は少しだけ間を置いた。
話せることと、話せないことがある。
ここで話せるのは、部活連としての内部記録ではない。
自分が見た、表に出しても問題のない範囲だけだ。
「悪い人ではないと思う。ただ、誇りが硬い。曲がりにくいし、折れやすい」
「硬い誇り、か」
達也が静かに繰り返した。
「うん。達也くんに止められたことは、たぶん残ってる」
「恨みか?」
「それだけじゃない。認めざるを得ない相手を、まだどう扱えばいいか分かっていない感じ」
達也はしばらく黙っていた。
深雪も、表情を引き締めている。
「お兄様は、正しいことをなさいました」
「うん。それは間違いない」
聖火は頷いた。
「ただ、正しいことをされた側が、すぐに正しく受け取れるとは限らない」
深雪は何かを言いかけて、口を閉じた。
達也は静かに聖火を見る。
「十文字先輩に似たようなことを言われたか」
「うん。必要以上に肩入れするな、って」
「正しい忠告だ」
「達也くんまで」
「俺からも言っておく。おまえは見えすぎる分、余計なところまで背負おうとする」
聖火は少しだけ目を瞬かせた。
達也の声は、いつも通り平坦だった。
だが、言葉の奥には確かに心配があった。
深雪も頷く。
「聖火くんは、無理をなさることがあります」
「二人に言われると、説得力があるようなないような」
「どういう意味だ」
達也が聞く。
「二人とも、わりと無理をする側だから」
「俺は必要なことをしているだけだ」
「私も、お兄様のためなら当然のことをしているだけです」
「ほら」
聖火がそう言うと、二人は同時に黙った。
その沈黙が少しおかしくて、聖火は笑った。
「分かった。俺も気をつけるよ」
「本当ですか?」
深雪が念を押す。
「本当。十文字先輩にも、達也くんにも、深雪ちゃんにも言われたからね。さすがに覚える」
「覚えるだけではなく、実行してください」
「はい」
三人は並んで校舎を出た。
夕方の光が、校門の方から差し込んでいる。
入学して、まだ数日しか経っていない。
それなのに、もうずいぶん多くのことが起きたような気がする。
生徒会。
風紀委員。
部活連。
それぞれの場所で、第一高校の歪みを見ている。
見える景色は違う。
けれど、問題の根はつながっている。
聖火は、そのことを少しずつ理解し始めていた。
それから数日、聖火は部活連本部に顔を出すようになった。
正式な所属手続きはまだ途中だったが、実際にはもう見学者というより、半分ほど手伝い要員になっている。
申請書を分ける。
施設使用の希望時間を確認する。
先輩たちに紅茶を淹れる。
時々、十文字先輩に余計なことを言って注意される。
そんな日々の中で、聖火は少しずつ第一高校の空気に慣れていった。
一科生。
二科生。
生徒会。
風紀委員。
部活連。
それぞれの場所に、それぞれの理屈がある。
そして、それぞれの場所に、歪みがある。
最初に気づいたのは、廊下だった。
二科生の男子生徒が、手首に細いリストバンドを巻いていた。
赤。
白。
青。
三色が並ぶ、トリコロールのリストバンド。
それ自体は、別に珍しいものではない。
流行りの小物かもしれない。
友人同士の目印かもしれない。
何かのブランドかもしれない。
だから、聖火はその時は気にしなかった。
だが、翌日にも見た。
その次の日にも。
別の二科生が、同じ色のリストバンドを身に着けていた。
しかも、一人ではない。
廊下で。
食堂で。
部活動の掲示板の前で。
二科生の集まりの中で。
少しずつ、数が増えている。
聖火は、それを頭の片隅に置いた。
断定はしない。
リストバンドを身に着けているだけで、何かを疑うのは早すぎる。
だが、気になる。
気になるものは、記録しておく。
それが最近、十文字先輩から叩き込まれつつあるやり方だった。
その違和感が、ただの偶然ではないかもしれないと思ったのは、部活連本部に持ち込まれる相談が増えてからだった。
一科生と二科生の口論。
部室使用を巡る小競り合い。
二科生側の不満を煽るような発言。
一科生側の無自覚な見下し。
どれも、単体で見れば小さな問題だった。
第一高校なら、珍しくもない。
だが、聖火は気づいた。
問題が起きた場所の近くに、必ず一人はいる。
赤、白、青。
トリコロールのリストバンドを身に着けた生徒が。
もちろん、偶然かもしれない。
二科生の中で流行っているだけなら、現場付近にいてもおかしくはない。
けれど、数が合わない。
流行にしては、増え方が早い。
集団にしては、まとまり方が薄い。
思想にしては、言葉がまだ表に出ていない。
それなのに、感情だけが同じ方向へ流れ始めている。
不満。
被害意識。
反発。
そして、正当化。
誰かが、不満に名前を与えようとしている。
聖火は、そう感じた。
部活連本部で申請書を整理していた時、彼は手を止めた。
「鷹山」
十文字がすぐに気づく。
「はい」
「何を見ている」
「まだ、見ているだけです」
聖火はそう答えた。
十文字の目が細くなる。
「報告できる段階か」
「いいえ。まだ違和感です」
「言え」
「断定はできません」
「断定しろとは言っていない」
聖火は少しだけ考え、言葉を選んだ。
「この数日、トリコロールのリストバンドをしている二科生が増えています」
「リストバンド?」
「はい。赤、白、青の三色です」
十文字は黙って聞いている。
聖火は続けた。
「それだけなら、ただの流行かもしれません。ですが、小さな揉め事が起きた現場の近くに、そのリストバンドをした生徒がいることが多いです」
「多い、か」
「はい。必ず、と言い切るには記録が足りません。ただ、俺が見た範囲では、ほぼ毎回一人はいました」
部活連本部の空気が少しだけ変わった。
十文字はすぐには答えなかった。
「そいつらが直接何かをしていたのか」
「そこまでは確認できていません」
「なら、まだ動くな」
「はい」
聖火は素直に頷いた。
十文字の言うことは正しい。
リストバンドをしている。
現場近くにいる。
それだけで疑うには弱すぎる。
下手に動けば、二科生への不当な監視になる。
それは、かえって火種を増やす。
「今は記録だけにします」
「それでいい」
十文字は短く言った。
「見た場所、時間、人数、関係した部活動。分かる範囲でまとめろ」
「はい」
「ただし、個人名は慎重に扱え」
「分かっています」
「本当にか」
「覚えています。見えたことを全部言わない。必要なことを、必要な順番で」
「ならいい」
聖火は端末を開いた。
トリコロールのリストバンド。
まだ、それが何なのかは分からない。
流行か。
目印か。
あるいは、誰かが意図して広げているものか。
ただ、感情の流れだけは見える。
第一高校の中にある不満が、少しずつ同じ方向を向き始めている。
それはまだ、炎ではない。
煙ですらない。
けれど、乾いた木片の奥に残る、小さな熱のようなものだった。
聖火は記録を始めた。
日付。
場所。
揉め事の内容。
近くにいた生徒。
身に着けていたリストバンドの有無。
十文字はそれを横目で見ていたが、何も言わなかった。
止めもしない。
急かしもしない。
ただ、見ている。
それが今は、ありがたかった。
聖火は記録を残しながら、心の中で静かに呟いた。
まだ動かない。
今はただ、熱の場所を確かめることしかしない。
そろそろ主人公の表の魔法をつかわせたいですね。
入学編で主人公が古式魔法を存分に使いますからお楽しみに。