魔法科高校の劣等生 四葉の火の鳥   作:ペンギン豚

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このあたり衛生兵としてあんまに活躍させられないですよね
もう少しで入学編が終わります。そのあと少し医者としての話を混ぜたいかと思っております。


入学編5

放送室が占拠された。

 

その知らせが校内を走った時、第一高校の空気は一瞬で変わった。

 

一科生と二科生。

 

普段は制服の花弁の有無として見えていた線が、その日だけは、もっと生々しいものとして浮かび上がった。

 

不満。

怒り。

被害意識。

正義感。

それに便乗する興奮。

 

放送の内容が校内に広がるにつれて、廊下も、教室も、部活動の集まりも、どこか落ち着きを失っていった。

 

生徒会と風紀委員は対応に追われた。

 

達也くんも、深雪ちゃんも、おそらくそちら側で動いている。

 

一方で、部活連本部にも別の混乱が持ち込まれていた。

 

部活動中止の確認。

部室待機の指示。

部員同士の口論。

二科生部員への不用意な発言。

一科生部員への反発。

 

大きな騒ぎは生徒会と風紀委員が抑える。

 

だが、小さな火種は部活連に流れ込んでくる。

 

聖火は、その火種を一つずつ見ていた。

 

赤。

白。

青。

 

トリコロールのリストバンド。

 

それを身に着けた生徒の姿は、やはりいくつかの現場近くにあった。

 

ただし、それだけならまだ偶然で済む。

 

問題は、そこに別の線が重なったことだった。

 

剣道部。

 

そして、剣道部主将・司甲。

 

放送室ジャックの騒ぎが一段落した後、聖火は部活連本部で端末に向かっていた。

 

すでに外は薄暗い。

 

本部に残っているのは、十文字と数名の上級生だけだった。

 

聖火はまとめ終えた報告書を確認し、静かに息を吐いた。

 

事実と所感を混ぜるな。

 

十文字に言われた言葉を思い出しながら、文面を何度か読み直す。

 

断定はしない。

だが、見落としもしない。

 

その境目を探る作業は、思っていたより難しい。

 

「鷹山」

 

十文字の声がした。

 

「はい」

 

「まとまったか」

 

「はい。報告書です」

 

聖火は端末を十文字へ向けた。

 

十文字は無言で画面を読み始める。

 

その横顔は、いつもと変わらない。

 

だが、目だけは鋭かった。

 

「例のリストバンドの件か」

 

「はい。それと、剣道部主将・司甲先輩の件です」

 

室内の空気が少しだけ重くなる。

 

十文字は続きを読んだ。

 

聖火は黙って待つ。

 

報告書には、数日分の記録をまとめていた。

 

トリコロールのリストバンドを身に着けた二科生の増加。

小規模な揉め事の現場付近での目撃例。

放送室ジャック前後における二科生グループの接触頻度。

剣道部員による特定生徒への声かけ。

その中心に、司甲の名前が複数回現れていること。

 

十文字が読み終えるまで、聖火は一言も発しなかった。

 

やがて、十文字が口を開く。

 

「おまえは、司甲がこの件の中心にいると見ているのか」

 

「中心、という言い方はまだ強いと思います」

 

聖火は答えた。

 

「ただ、接触の起点にいる可能性はあります」

 

「根拠は」

 

「本人が直接声をかけている例は少ないです。ですが、司甲先輩に近い二科生の剣道部員が、複数の生徒に接触しています」

 

「勧誘か」

 

「そう見えます」

 

「何への勧誘だ」

 

「そこまでは確認できていません」

 

聖火は正直に答えた。

 

「ただ、部活動への勧誘ではないと思います。声をかけている相手の所属や学年がばらばらです。剣道経験の有無とも一致しません」

 

十文字は画面を見つめたまま、わずかに目を細めた。

 

「二科生が中心か」

 

「はい。一科生にも接触はありますが、数は少ないです。主な対象は、不満を抱えている二科生に見えます」

 

「不満を抱えている、か」

 

「そこは所感です」

 

「分かっている」

 

十文字は短く言った。

 

「続けろ」

 

聖火は頷いた。

 

「声をかけられた後、トリコロールのリストバンドを身に着ける生徒が増えています。偶然の可能性はあります。ただ、時系列としては少しきれいすぎます」

 

「きれいすぎる?」

 

「はい。誰かが声をかける。数日以内に、その生徒の周囲でリストバンドが増える。その後、小さな揉め事の現場近くに現れる」

 

「揉め事を起こしているのか」

 

「いいえ。そこまでは言えません」

 

聖火は首を横に振った。

 

「直接煽っている場面は見ていません。ただ、揉め事が起きやすい場所に、あらかじめいるように見えます」

 

「監視か」

 

「あるいは、見届けているだけかもしれません」

 

「おまえの見立ては」

 

聖火は一度、言葉を止めた。

 

報告書ではない。

 

これは、十文字に問われた所感だ。

 

「不満を持っている生徒に、居場所と理由を与えているように見えます」

 

十文字は黙っていた。

 

聖火は続ける。

 

「自分が不満を持っているのは正しい。自分たちは虐げられている。だから声を上げるべきだ。そう思える言葉を、誰かが渡している」

 

「それが司甲だと?」

 

「分かりません」

 

聖火は即答した。

 

「司甲先輩自身がそうしているのか。司甲先輩も誰かに動かされているのか。そこまでは見えていません」

 

十文字の視線が、そこで初めて聖火に向いた。

 

「動かされている可能性を見るのか」

 

「はい」

 

「理由は」

 

「司甲先輩の周囲にいる生徒たちの動きは、少し整いすぎています。ですが、司甲先輩本人の動きには、どこか不自然な空白があります」

 

「空白?」

 

「自分の意思で動いている人は、もう少し癖が出ます。迷い方にも、熱の持ち方にも。でも、司甲先輩については、周囲の動きに比べて本人の感情が見えにくい」

 

十文字は黙って聞いている。

 

「もちろん、これは俺の所感です。報告書には断定としては書いていません」

 

「それでいい」

 

十文字は短く言った。

 

「よくまとめた」

 

聖火は少しだけ目を瞬かせた。

 

「今のは、褒められていますか?」

 

「褒めている」

 

「珍しく限定なしですね」

 

「調子に乗るな」

 

「はい」

 

そのやり取りで、少しだけ空気が緩んだ。

 

だが、問題の重さは消えない。

 

十文字は端末を机に置いた。

 

「この報告書は、部活連内部資料として扱う」

 

「生徒会や風紀委員には?」

 

「共有する。ただし、内容は整理する」

 

「司甲先輩の名前は」

 

「出す必要がある。だが、断定はしない」

 

聖火は頷いた。

 

「分かりました」

 

そこで、聖火は少しだけ間を置いた。

 

報告書には書かなかったことがある。

 

事実ではない。

所感とも言い切れない。

 

ただ、十文字の反応を見ていて、引っかかっていた。

 

「十文字先輩」

 

「何だ」

 

「十文字先輩は、このリストバンドに心当たりはありますか」

 

十文字の目が、わずかに細くなった。

 

「なぜそう思う?」

 

「俺がリストバンドの件を調べていても、十文字先輩は何も言いませんでした」

 

「……」

 

「止めるでもなく、深く聞くでもなく、ただ記録を続けさせた。だから、ご存じなのかと思いまして」

 

十文字は答えなかった。

 

沈黙が落ちる。

 

長い沈黙ではない。

 

だが、聖火には十分だった。

 

十文字は、知らないわけではない。

 

少なくとも、完全に初めて聞いた反応ではなかった。

 

「鷹山」

 

「はい」

 

「おまえが今、知る必要はない」

 

その返答は、否定ではなかった。

 

聖火は静かに息を吐いた。

 

「分かりました」

 

「それ以上は聞かないのか」

 

「聞いて答えてもらえるなら、最初からそう言っていると思います」

 

十文字はわずかに目を伏せた。

 

「賢い判断だ」

 

「褒められていますか?」

 

「今回はな」

 

「ありがとうございます」

 

聖火は軽く頭を下げた。

 

ただ、胸の奥に残った違和感は消えなかった。

 

トリコロールのリストバンド。

 

司甲。

 

二科生への勧誘。

 

そして、十文字先輩の沈黙。

 

点は増えている。

 

まだ線と呼ぶには早い。

 

けれど、ばらばらの点ではなくなりつつあった。

 

「それと、鷹山」

 

「はい」

 

「おまえは司甲には近づくな」

 

聖火は一瞬、言葉を失った。

 

「俺が、ですか?」

 

「そうだ」

 

「理由を聞いても?」

 

「おまえは見すぎる。相手に悟られる可能性がある」

 

「気をつけます」

 

「気をつける、では足りない」

 

十文字の声が少し低くなった。

 

「相手がただの生徒なら、それでいい。だが、外部の組織が絡んでいる可能性があるなら話は別だ」

 

聖火は黙った。

 

外部の組織。

 

その言葉が出た時点で、十文字もすでに何かを考えている。

 

「部活連の範囲を超えますか」

 

「超える可能性がある」

 

「なら、俺は記録係ですね」

 

「そうだ」

 

十文字は迷いなく答えた。

 

「今のおまえの仕事は、動くことではない。見ること、記録すること、必要な相手に渡すことだ」

 

「分かりました」

 

「この件は、俺から生徒会と風紀委員に共有する」

 

「達也くんにも、ですか」

 

「必要な範囲でな」

 

「はい」

 

「おまえから余計なことは言うな」

 

「覚えています」

 

「本当にか」

 

「見えたことを全部言わない。必要なことを、必要な順番で」

 

「ならいい」

 

十文字は端末を閉じた。

 

聖火は軽く息を吐く。

 

報告は終わった。

 

だが、これで終わりではない。

 

むしろ、ここから始まる。

 

赤。

白。

青。

 

あのリストバンドの色が、頭の奥に残っていた。

 

綺麗な色だ。

 

けれど今の聖火には、それがただの流行には見えなかった。

 

誰かが、不満をまとめている。

 

誰かが、怒りに形を与えている。

 

そして、その誰かを、十文字先輩は少なくとも警戒している。

 

部活連本部の窓の外では、夕暮れが校舎を赤く染めていた。

 

その赤が、なぜかリストバンドの一色と重なって見えた。

 

まだ動かない。

 

今はまだ、材料を集める段階だ。

 

けれど、次に何かが起きた時。

 

それは、ただの校内騒動では済まないかもしれない。

 

 

 

 

# 公開討論会

 

放送室ジャック事件の後、第一高校の空気は目に見えて変わった。

 

一科生と二科生。

 

もともとそこにあった線が、より濃くなった。

 

廊下の会話。

教室の沈黙。

部活動中の視線。

食堂での席の選び方。

 

そうした小さなものの中に、事件の余波は残っていた。

 

表向きには、学校は落ち着きを取り戻しつつあった。

 

生徒会は公開討論会の準備を進め、風紀委員は警備と生徒の動向確認に追われている。

 

部活連もまた、無関係ではいられなかった。

 

部活動単位で生徒が動けば、その調整は部活連の管轄になる。

 

剣道部。

剣術部。

魔法演武部。

体術部。

その他、多数の部活動。

 

所属部員が討論会へ参加するか。

部活動として見学を認めるか。

騒動になった場合、誰がどこで止めるのか。

 

その確認だけでも、部活連本部には多くの書類が積まれていた。

 

聖火はその中で、すっかり書類整理の手順を覚えてしまっていた。

 

見学。

 

そう言われていたはずだった。

 

だが、今ではもう、その言葉を口にする者はほとんどいない。

 

「鷹山」

 

十文字克人が、机の前から声をかけた。

 

「はい」

 

「公開討論会当日、おまえには会場周辺の警護に回ってもらう」

 

聖火は、手にしていた申請書を止めた。

 

「……俺が、ですか?」

 

「そうだ」

 

「警護、ですか?」

 

「ああ」

 

聖火は少しだけ沈黙した。

 

そして、確認するように言った。

 

「俺、見学だったのでは?」

 

その場にいた部活連の先輩たちが、一斉にこちらを見る。

 

数秒の沈黙。

 

その後、女子の上級生が当然のように言った。

 

「もう部活連の人間だよ、君は」

 

「正式な手続き、まだ途中ですよね?」

 

「気持ちの問題かな」

 

「気持ちで所属が確定するんですか」

 

「鷹山くん、もう申請書の棚の場所も茶葉の場所も覚えてるでしょ」

 

「それは覚えましたけど」

 

「じゃあ、もう逃げられないね」

 

「怖い組織ですね、部活連」

 

「今さら気づいたの?」

 

聖火が困ったように笑うと、十文字が短く言った。

 

「余計な話はそこまでだ」

 

「はい」

 

聖火は姿勢を正した。

 

「警護ということは、会場内ですか?」

 

「会場内は生徒会と風紀委員が中心になる。部活連は会場周辺と、部活動単位で動く生徒の抑えだ」

 

「俺は外側ですね」

 

「そうだ。会場の出入り口付近、廊下、控室周辺。揉め事が起きそうな場所を見ろ」

 

「見つけたら?」

 

「まず報告。必要なら制止」

 

「必要なら、というのは」

 

十文字は一枚の書類を聖火の前に置いた。

 

そこには、限定的な魔法使用許可に関する項目が記されていた。

 

聖火はそれを見て、少しだけ目を細める。

 

「魔法の使用許可まで出るんですか」

 

「状況限定だ」

 

十文字は淡々と言った。

 

「相手が魔法を使用した場合。生徒の安全が脅かされた場合。もしくは、風紀委員や部活連の制止を突破した場合。その範囲に限る」

 

「かなり重いですね」

 

「だから、おまえに渡す」

 

聖火は顔を上げた。

 

「俺に、ですか」

 

「おまえは見える。だが、勝手には動かない」

 

「最近、十文字先輩に止められすぎた成果ですね」

 

「そうだ」

 

「そこは否定してほしかったです」

 

「事実だ」

 

十文字は聖火を見た。

 

「鷹山。今回の討論会は、ただの討論会では済まない可能性がある」

 

「例のリストバンドの件ですか」

 

「それもある」

 

「司甲先輩は?」

 

「こちらで見る。おまえは接触するな」

 

「分かっています」

 

「本当にか」

 

「覚えています」

 

「ならいい」

 

十文字は、そこで少しだけ声を低くした。

 

「警護で最も危険なのは、敵を見つけられないことではない」

 

「では、何ですか」

 

「味方を巻き込むことだ」

 

聖火は黙った。

 

「おまえの古式は、範囲や性質が読みづらい。現代魔法に慣れた生徒ほど、対処を誤る可能性がある」

 

「だから、使うなら最小限」

 

「そうだ。派手なことはするな。人を守るために使え」

 

聖火は静かに頷いた。

 

「分かりました」

 

「本当に分かったか」

 

「今回は、分かったつもりではなく、分かりました」

 

十文字はわずかに目を細めた。

 

「ならいい」

 

聖火は書類を受け取った。

 

その紙は、思っていたよりも重く感じた。

 

見学者。

 

そう言われていた頃は、もう過ぎたらしい。

 

どうやら自分は、いつの間にか部活連の中に組み込まれていた。

 

それを嫌だとは思わない。

 

ただ、責任まで一緒についてくるのは、少し予想より早かった。

 

---

 

公開討論会当日。

 

会場周辺には、いつもとは違う緊張が漂っていた。

 

生徒会役員。

風紀委員。

部活連。

見学に来た生徒たち。

討論会に関心を持つ一科生と二科生。

 

人が集まれば、感情も集まる。

 

それは、聖火がこの数日で嫌というほど見てきたことだった。

 

聖火は会場の外側、廊下の角に立っていた。

 

場所としては目立たない。

 

だが、会場の出入り口と控室へ向かう通路の両方を見られる位置だった。

 

十文字先輩の指示だ。

 

派手に立つな。

ただし、見落とすな。

 

その言葉通り、聖火は目立たない位置で周囲を見ていた。

 

手首。

 

最初に見るのは、そこだった。

 

赤。

白。

青。

 

トリコロールのリストバンド。

 

今日も、何人かが身に着けている。

 

ただし、リストバンドをしているからといって、それだけで疑うわけにはいかない。

 

彼らの中には、本当にただ同調しているだけの生徒もいるだろう。

 

不満を持っているだけの生徒もいる。

居場所がほしいだけの生徒もいる。

誰かに認められたいだけの生徒もいる。

 

問題は、その不満や孤独を利用している者がいるかどうかだ。

 

聖火は視線を流した。

 

廊下の端に立つ二科生の男子。

会場入り口付近で話し込む女子生徒。

控室側へ向かうふりをして、何度か周囲を確認している上級生。

そして、何も持っていないように見えて、妙に手の位置を隠している男。

 

生徒ではない。

 

その違和感に、聖火はすぐ気づいた。

 

制服は着ている。

 

だが、立ち方が違う。

 

生徒の立ち方ではない。

 

部活動の緊張でも、討論会を見に来た生徒の浮つきでもない。

 

周囲を観察する目。

逃げ道を確認する足の向き。

何かを待つような呼吸。

 

聖火は軽く息を吐いた。

 

まだ動かない。

 

ここで急に声をかければ、相手に警戒される。

 

聖火は、袖の中に忍ばせていた小さな紙片に指を触れた。

 

呪符。

 

父が持ってきた資料を元に、自分なりに調整したものだ。

 

本来なら、公開討論会の警護で使うようなものではない。

 

だが、許可は出ている。

 

必要なら、使える。

 

会場の中から、ざわめきが大きくなった。

 

討論会が進んでいる。

 

その声の高まりに合わせるように、廊下の空気も少しだけ揺れた。

 

その時だった。

 

通路の反対側から、見覚えのある二人が歩いてくる。

 

光井ほのか。

北山雫。

 

二人は会場側へ向かっていた。

 

聖火はわずかに眉を動かした。

 

ほのかは少し緊張した様子だったが、雫はいつものように落ち着いている。

 

ただ、その二人の後ろに、先ほどの違和感が動いた。

 

制服を着た男が、距離を詰める。

 

速すぎる。

 

自然な歩幅ではない。

 

聖火の指が、呪符を挟んだ。

 

「ほのかちゃん、雫ちゃん」

 

聖火は普段と変わらない声で呼んだ。

 

二人が振り返る。

 

その瞬間、男が動いた。

 

手元から小型の魔法補助具らしきものが覗く。

 

狙いは、ほのかか。

雫か。

あるいは、混乱そのものか。

 

どちらでもいい。

 

止める。

 

聖火は呪符を指先で弾いた。

 

紙片が空中で小さく翻る。

 

次の瞬間、廊下の床に薄い光の線が走った。

 

現代魔法の起動式とは違う。

 

CADによる明確な演算光もない。

 

ただ、床と壁、空気の流れに沿うように、細い結び目が生まれる。

 

「縛」

 

聖火が短く呟いた。

 

男の足が止まった。

 

いや、止められた。

 

膝が抜けるように崩れ、手にしていた魔法補助具が床へ落ちる。

 

だが、完全に意識を失ったわけではない。

 

男は歯を食いしばり、無理に身体を起こそうとした。

 

聖火は二枚目の呪符を指に挟む。

 

「眠」

 

今度は、男の肩口に見えない重みが落ちたようだった。

 

身体から力が抜ける。

 

男は床に倒れた。

 

意識は落ちている。

 

呼吸はある。

 

外傷もない。

 

聖火はすぐに二人の前へ出た。

 

「二人とも、大丈夫?」

 

ほのかは目を見開いたまま、こくこくと頷いた。

 

「は、はい。今のは……」

 

雫は倒れた男を見て、次に聖火を見た。

 

「古式?」

 

「うん。今のは拘束と睡眠に近いもの」

 

「睡眠」

 

雫は淡々と繰り返した。

 

「便利」

 

「便利だけど、使いどころを間違えると十文字先輩に怒られる」

 

「もう怒られそう」

 

「だろうね」

 

聖火は苦笑した。

 

だが、気を抜くことはしなかった。

 

一人だけとは限らない。

 

廊下の向こうで、別の生徒がこちらを見ている。

 

その手首には、赤、白、青。

 

トリコロールのリストバンド。

 

ただし、その生徒は動かなかった。

 

驚いている。

 

あるいは、迷っている。

 

聖火は目を細めた。

 

そこへ、足音が響いた。

 

風紀委員と部活連の上級生が駆けつけてくる。

 

その先頭には、十文字克人の姿もあった。

 

「鷹山」

 

低い声。

 

怒っているわけではない。

 

だが、状況を一瞬で確認する声だった。

 

「状況を報告しろ」

 

「不審者一名。ほのかちゃんと雫ちゃんに接近。魔法補助具らしきものを所持していたため、許可範囲内と判断して拘束。その後、意識を落としました。呼吸はあります。外傷はありません」

 

十文字は倒れている男を見た。

 

次に、ほのかと雫を見る。

 

「二人とも怪我は」

 

「ありません」

 

雫が答えた。

 

ほのかも慌てて頷く。

 

「だ、大丈夫です」

 

十文字は短く頷いた。

 

「よくやった」

 

聖火は少しだけ目を瞬かせた。

 

「今のは、褒められていますか?」

 

「褒めている」

 

「……本当に珍しいですね」

 

「調子に乗るな」

 

「はい」

 

十文字はすぐに風紀委員へ指示を出した。

 

「所持品を確認しろ。応援を呼べ。会場側の警備を厚くする」

 

「はい!」

 

部活連の上級生たちも動き出す。

 

聖火は、床に落ちた魔法補助具へ視線を向けた。

 

それは、第一高校の生徒が普通に持つものとは少し違って見えた。

 

調整が粗い。

 

けれど、目的ははっきりしている。

 

混乱を起こすための道具。

 

そう見えた。

 

ほのかが、まだ少し震えた声で言った。

 

「聖火くん、ありがとうございました」

 

「間に合ってよかった」

 

「本当に……助かりました」

 

雫も小さく頷く。

 

「ありがとう」

 

「二人とも無事なら、それでいいよ」

 

聖火はそう言ってから、廊下の向こうを見た。

 

先ほどのリストバンドの生徒は、もう姿を消していた。

 

追うべきか。

 

一瞬だけそう思った。

 

だが、十文字の言葉が頭に浮かぶ。

 

おまえは司甲には近づくな。

見えることと、動くことは違う。

必要なことを、必要な順番で。

 

聖火は追わなかった。

 

今、優先すべきは、ほのかと雫の安全確認。

倒れた男の拘束。

周囲の混乱を抑えること。

 

聖火は小さく息を吐いた。

 

点が、線になり始めている。

 

リストバンド。

司甲。

放送室ジャック。

公開討論会。

そして、襲撃。

 

ここから先は、ただの校内騒動では済まない。

 

聖火は、そのことをはっきりと理解した。

 

風紀委員と部活連の応援が、廊下の向こうからさらに駆けつけてくる。

 

倒れた男はすでに拘束され、魔法補助具らしき道具も回収されていた。

 

ほのかと雫に怪我はない。

 

周囲の生徒たちも、上級生たちの誘導で少しずつ距離を取っている。

 

まずは、最悪の事態は避けられた。

 

聖火はそう判断した。

 

だが、これで終わりではない。

 

倒れた男。

 

落ちていた魔法補助具。

 

消えたリストバンドの生徒。

 

そして、この襲撃が公開討論会の混乱に合わせて起きたという事実。

 

点が多すぎる。

 

ここで止まれば、また誰かが次の点を置く。

 

聖火は、倒れている男のそばに膝をついた。

 

「鷹山くん?」

 

ほのかが不安そうに声をかける。

 

「少しだけ確認」

 

聖火はそう答え、男の襟元を軽く押さえた。

 

呼吸は安定している。

 

意識は落ちている。

 

抵抗の気配もない。

 

聖火は男の髪に指を伸ばした。

 

「ごめん」

 

小さく呟いて、髪を数本むしり取る。

 

雫が、それを見て目を細めた。

 

「何をするの?」

 

「追いかける」

 

「誰を?」

 

「この人を動かした誰か」

 

聖火は懐から小さな紙人形を取り出した。

 

人の形に切られた、薄い白紙。

 

形代。

 

そこに、むしり取った髪を絡める。

 

ほのかが息を呑んだ。

 

「それ、古式魔法ですか?」

 

「うん。かなり古い方」

 

「そんなこともできるんですか」

 

「できるけど、あまり褒められた使い方じゃない」

 

聖火は正直に答えた。

 

本来なら、ここで十文字先輩に報告すべきだ。

 

応援も来ている。

 

現場を任せられる人間もいる。

 

だからこそ、今なら動ける。

 

そして、今動かなければ、痕跡は薄れる。

 

聖火は形代を左手に乗せ、右手の指で印を結んだ。

 

小さく息を吸う。

 

廊下の騒ぎが、少し遠くなる。

 

形代に絡めた髪が、かすかに震えた。

 

「名も知らぬ縁を辿り、命じた者の影を追え」

 

紙の人形が、ぴくりと動いた。

 

聖火は声を落とす。

 

「さあ、俺を主のところまで案内してくれ」

 

形代が、ゆっくりと立ち上がった。

 

紙でできているはずの足が、床を踏む。

 

一歩。

 

また一歩。

 

小さな白い人形は、迷うように左右へ揺れた後、廊下の奥へ向かって歩き始めた。

 

雫が無表情のまま、少しだけ目を見開く。

 

「歩いた」

 

「歩くよ」

 

「紙なのに」

 

「そういうものだから」

 

「便利」

 

「便利だけど、絶対に十文字先輩に怒られる」

 

聖火は苦笑した。

 

廊下の向こうから、さらに複数の足音が近づいてくる。

 

風紀委員と部活連の追加応援だ。

 

人数は十分。

 

ほのかと雫の安全も、これで確実に確保できる。

 

聖火は二人へ向き直った。

 

「ほのかちゃん、雫ちゃん」

 

「はい」

 

「俺、少し行ってくる」

 

「え?」

 

ほのかが驚いた声を上げる。

 

「待ってください、聖火くん。十文字先輩に報告を――」

 

「報告はしてもらえると助かる」

 

「それは、怒られるやつ」

 

雫が静かに言った。

 

「うん。たぶん怒られる」

 

「たぶんじゃない」

 

「だよね」

 

聖火は笑った。

 

だが、足は止めなかった。

 

形代はすでに廊下の角へ向かっている。

 

その小さな背中を見失えば、次に繋がる線が切れる。

 

「ごめん。今だけ」

 

聖火は軽く手を振った。

 

「じゃあね」

 

「聖火くん!」

 

ほのかの声を背に、聖火は形代を追って走り出した。

 

廊下の角を曲がる直前、彼は一度だけ振り返った。

 

ほのかと雫のもとには、すでに応援が到着している。

 

大丈夫。

 

あそこは任せられる。

 

なら、自分が追うべきものは別にある。

 

赤。

白。

青。

 

トリコロールのリストバンド。

 

司甲。

 

放送室ジャック。

 

公開討論会への襲撃。

 

ばらばらだった点が、少しずつ線になっていく。

 

その線の先に、誰がいるのか。

 

形代は迷わず進んでいる。

 

聖火はその後を追った。

 

十文字先輩に怒られる。

 

達也くんにも呆れられる。

 

深雪ちゃんには心配される。

 

分かっている。

 

それでも、ここで足を止める気にはなれなかった。

 

今なら、まだ追える。

 

今なら、まだ間に合う。

 

聖火は、白い形代の後を追って、人気の少ない廊下の奥へ消えていった。

 

 




次回で入学編のラストになります。
ここまで十文字会頭に焦点を当てた作品もないかもしれませんね。
入学編が終わりましたら、ほかのキャラにも焦点を当てたいですね。
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