放課後。
授業を終えた教室には、まだ少しだけざわめきが残っていた。
帰り支度をする生徒。
友人と予定を話す生徒。
端末を確認しながら席を立つ生徒。
いつもの放課後だった。
聖火も鞄を手に取り、部活連本部へ向かおうとしていた。
正式加入した以上、顔を出さないわけにはいかない。
いや、正式加入する前から普通に使われていた気もするが、そこは考えないことにした。
席を立ったところで、背後から声をかけられる。
「聖火くん」
振り返ると、光井ほのかが立っていた。
その隣には、北山雫もいる。
ほのかの表情は、いつもより少し硬かった。
雫はいつも通り落ち着いているように見える。
ただ、その目はこちらをまっすぐ見ていた。
「少しだけ、お時間をいただけますか」
その声で、聖火は用件を大体察した。
公開討論会の時のことだろう。
教室で話すには、少しだけ周囲の目が多い。
特に、深雪ちゃんと普通に話すだけでも目立つのに、ほのかちゃんと雫ちゃんまで一緒となると、余計な視線が増える。
聖火は軽く頷いた。
「うん。ここだと話しにくい?」
ほのかが小さく頷く。
「はい。できれば、少し静かなところで」
「じゃあ、外に出ようか。部活連に行く前なら大丈夫」
「ありがとうございます」
聖火が歩き出すと、ほのかと雫も後に続いた。
教室の端から、いくつかの視線がこちらへ向く。
一科生の男子の中には、分かりやすく複雑そうな顔をしている者もいた。
深雪だけでなく、ほのかと雫とも普通に話している。
しかも、三人で教室を出ていく。
周囲から見れば、なかなか目立つ光景なのだろう。
聖火はそれを気にせず、廊下へ出た。
向かったのは、校舎外の中庭だった。
放課後の中庭は、人がまったくいないわけではない。
だが、教室よりはずっと静かだった。
少し離れた場所に、木陰になったベンチがある。
三人はそこまで歩いた。
聖火はベンチの前で立ち止まり、ほのかたちへ視線を向ける。
「ここなら大丈夫かな」
「はい」
ほのかは小さく頷いた。
雫も無言で頷く。
少しの沈黙。
先に口を開いたのは、ほのかだった。
「聖火くん」
「うん」
「公開討論会の時は、本当にありがとうございました」
ほのかは深く頭を下げた。
隣で雫も、静かに頭を下げる。
「ありがとう」
短い言葉だった。
けれど、雫らしく、まっすぐだった。
聖火は少しだけ困ったように笑う。
「二人とも無事でよかったよ」
そう言うと、ほのかはゆっくり顔を上げた。
けれど、その表情はまだ硬い。
「それだけではありません」
「ほのかちゃん?」
「私、あの時、怖くて……何もできませんでした」
ほのかの手が、胸の前で小さく握られる。
「何が起きたのか分からなくて、身体が動かなくて。聖火くんが声をかけてくださらなかったら、たぶん反応もできなかったと思います」
聖火は黙って聞いた。
ほのかの声は震えていない。
だが、その時の怖さを思い出しているのは分かった。
「聖火くんが来てくれて、本当に安心しました。だから、ちゃんとお礼を言いたかったんです」
「そっか」
聖火は少しだけ息を吐いた。
ここで軽く流すべきではない。
そう思った。
「怖かったなら、怖かったでいいと思う」
ほのかが目を瞬かせる。
聖火は続けた。
「あれは普通に怖い場面だったから。何もできなかったことを、恥ずかしいと思う必要はないよ」
「……そうでしょうか」
「うん。いきなり襲われそうになって、すぐ動ける人の方が少ないよ」
聖火は少しだけ笑った。
「俺だって、いつも冷静に動けるわけじゃないし」
雫が、そこでぽつりと言った。
「それは本当」
「雫ちゃん、そこは少し迷ってほしかった」
「迷わない」
「厳しい」
ほのかが、少しだけ笑った。
その笑みを見て、聖火は少し安心した。
けれど、雫の目はまだ聖火を見ている。
何かを聞きたそうな目だった。
「雫ちゃん?」
「あの紙」
「紙?」
「歩いた」
聖火は一瞬だけ目を瞬かせた。
それから、思わず苦笑する。
「そこ?」
「気になった」
「雫ちゃんらしいね」
「髪をつけていた」
「見てたんだ」
「見てた」
雫は淡々と頷いた。
「あれで、誰かを追えるの?」
聖火は少し考えてから答えた。
「正確には、人そのものを追うというより、その人に繋がっている縁を辿る感じかな」
「縁」
「うん。髪とか、血とか、身に着けていたものとか。そういうものは、その人との繋がりが強いんだ」
聖火は、言葉を選びながら説明した。
現代魔法の理屈で説明すると、たぶん少し違う。
けれど、何も説明しないのも不誠実だ。
「形代にそれを結びつけると、その人が向かった先や、その人に命令した相手の気配を辿れることがある」
「命令した相手も?」
「条件が揃えばね。絶対じゃないよ」
「便利」
「便利だけど、あまり人前でやる術じゃない」
「どうして?」
「気味が悪いから」
聖火が正直に言うと、雫は少しだけ首を傾げた。
「私は面白いと思った」
「雫ちゃん、そういうところ強いね」
「そう?」
「うん」
その横で、ほのかが小さく口を開いた。
「私は……少し怖かったです」
聖火はほのかへ視線を向けた。
ほのかは、申し訳なさそうに目を伏せている。
「もちろん、聖火くんのことが怖いという意味ではありません。ただ、あの紙が歩き出した時、本当に不思議で……それに」
「それに?」
「聖火くんが、そのまま一人で行ってしまったことの方が怖かったです」
聖火は言葉に詰まった。
ほのかは続ける。
「助けていただいたのに、こんなことを言うのはおかしいかもしれません。でも、また危ないところへ行ってしまうんじゃないかと思って」
「……うん」
聖火は軽く笑おうとして、やめた。
ほのかの表情が真剣だったからだ。
「ごめん。あれは、俺が悪かった」
ほのかが驚いたように顔を上げる。
「いえ、そんな、謝っていただきたいわけでは」
「でも、心配させたのは事実だから」
聖火は素直に頭を下げた。
「ごめん」
雫が短く言う。
「十文字先輩にも怒られた?」
「怒られた。かなり」
「当然」
「雫ちゃん、容赦ないね」
「心配したから」
聖火は少しだけ黙った。
その短い一言は、思っていたよりも重かった。
ほのかも、雫も、自分を責めているわけではない。
けれど、心配している。
それは、十文字先輩の説教とは違う形で、聖火の胸に残った。
「うん」
聖火は静かに頷いた。
「次からは、もう少しちゃんと考える」
雫が聖火を見た。
「本当?」
「本当」
「十文字先輩にも言った?」
「言った」
「なら、守った方がいい」
「うん。努力じゃなくて、覚える」
「それ、十文字先輩に言われた言い方?」
「よく分かったね」
「聖火の言い方じゃない」
「鋭い」
ほのかが、今度は少し自然に笑った。
その笑顔を見て、聖火も少し肩の力を抜いた。
「それと」
雫が、持っていた紙袋を差し出した。
「これ」
「これは?」
「お礼」
ほのかが少し慌てたように続ける。
「二人で選びました。聖火くんだけでなく、部活連の皆さんにもお世話になりましたので」
聖火は紙袋を受け取った。
中には、個包装された焼き菓子が丁寧に並んでいた。
フィナンシェ。
マドレーヌ。
薄いクッキー。
小さなパウンドケーキ。
どれも紅茶に合いそうなものばかりだった。
「部活連の皆さんで、召し上がってください」
「いいの?」
「はい」
ほのかが頷く。
雫も、少しだけ胸を張るように言った。
「紅茶に合うと思う」
「そこまで考えてくれたんだ」
「聖火は紅茶係だから」
聖火は紙袋を持ったまま、動きを止めた。
「その肩書き、もう外にも漏れてるの?」
「有名」
「嘘でしょ」
「深雪から聞いた」
「深雪ちゃん経由か……」
ほのかが少し慌てて手を振った。
「あ、でも、とても似合っていると思います」
「フォローになってるかな、それ」
「な、なっています」
「ほのかちゃん、無理してない?」
「していません」
雫が横から短く言った。
「似合ってる」
「雫ちゃんまで」
「紅茶係」
「そこまで含めて似合ってるんだね」
聖火は苦笑した。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
紅茶係。
正式役職ではない。
十文字先輩にも、正式役職ではないと言われている。
だが、どうやら周囲にはもうそう見えているらしい。
「ありがとう。部活連の皆さんでいただくよ」
「はい」
ほのかが安心したように微笑んだ。
雫も小さく頷く。
少しの沈黙。
今度の沈黙は、最初よりずっと柔らかかった。
聖火は空を見上げる。
夕方にはまだ少し早い。
けれど、放課後の光は少しずつ傾き始めていた。
「そろそろ行かないと、十文字先輩に怒られる」
「もう怒られている」
雫が言う。
「雫ちゃん、正しいけど厳しい」
「心配したから」
聖火はもう一度、その言葉を聞いた。
今度は、逃げずに受け取る。
「……うん。ありがとう」
ほのかが小さく頭を下げた。
「こちらこそ、本当にありがとうございました」
「ありがとう」
雫も言う。
「うん。また教室で」
聖火は二人に軽く手を振り、紙袋を手に部活連本部へ向かった。
歩きながら、紙袋の中身が少し揺れる。
焼き菓子。
紅茶に合うもの。
部活連の皆さんで食べてください、という言葉。
聖火は少しだけ笑った。
これは、喜ばれるだろう。
そして、たぶん、自分が紅茶を淹れることになる。
予想は、部活連本部に入ってすぐに当たった。
「失礼します」
聖火が扉を開けると、室内の数人がこちらを見た。
女子の上級生が、すぐに聖火の手元へ目を向ける。
「鷹山くん、それ何?」
「ほのかちゃんと雫ちゃんからです。部活連の皆さんでどうぞ、って」
「え、なにそれ。いい子たち」
別の上級生も顔を上げる。
「差し入れ?」
「焼き菓子です。紅茶に合うそうです」
その一言で、部活連本部の空気が少しだけ明るくなった。
「じゃあ、紅茶係さん」
「やっぱりそうなりますよね」
「もちろん」
「逃げ場がない」
聖火は苦笑しながら、紙袋を机に置いた。
中身を取り出すと、部活連の役員たちが少し感心したように覗き込む。
「フィナンシェだ」
「マドレーヌもある」
「これ、けっこう良いやつじゃない?」
「北山さんが選んだのかな」
「光井さんも一緒に選んでくれたそうです」
「二人とも律儀だね」
聖火は湯沸かし器の方へ向かった。
茶葉の場所は分かっている。
カップの数も分かっている。
濃さについては、十文字先輩から注意済みだ。
今日は少し薄めにする。
聖火が茶葉を量っていると、背後から低い声がした。
「鷹山」
「はい」
十文字克人が、書類から視線を上げていた。
「茶は薄めにしろ」
「今まさに気をつけています」
「ならいい」
「正式加入してから、紅茶への要求が細かくなっていませんか?」
「正式加入したからだ」
「やっぱり逃げ場がない」
十文字はそれ以上言わなかった。
ただ、机の上に並べられた焼き菓子へ一度だけ視線を向けた。
「光井と北山からか」
「はい。部活連の皆さんで、とのことです」
「そうか」
十文字は短く答えた。
「礼は伝えておけ」
「はい」
聖火は頷き、紅茶を淹れた。
湯気が立つ。
焼き菓子の甘い匂いが、部活連本部に広がる。
書類の山。
施設使用表。
申請書。
終わらない確認作業。
その中に、少しだけ柔らかい時間が混じる。
聖火はカップを並べながら、ふと思った。
助けたつもりでいた。
だが、心配もかけた。
そのことを、今日はきちんと受け取れた気がする。
「どうぞ」
紅茶と焼き菓子を配ると、部活連本部の空気が少しだけ緩んだ。
「ありがとう」
「助かる」
「鷹山くん、完全に紅茶係が板についてきたね」
「それ、褒め言葉として受け取っていいんですか?」
「もちろん」
「本当かな」
女子の上級生が笑う。
聖火も少しだけ笑った。
部活連本部は、今日も忙しい。
けれど、今日は少しだけ甘い匂いがした。
その日、聖火は改めて思った。
自分が一人で動けば、誰かが心配する。
その当たり前のことを、忘れないようにしようと。
部活連が紅茶狂いになってきている。
次回は少し変な話になると思います。
よろしくお願いいたします。