九校戦を控えた第一高校では、放課後の空気にも、どこか落ち着かない熱が混じり始めていた。
競技に出場する者。
運営や補助に回る者。
出場予定はなくとも、周囲の空気に刺激を受けて自主訓練に励む者。
それぞれの立場は違っても、校内全体が少しずつ大きな行事へ向けて動き出していることは、誰の目にも明らかだった。
その日の放課後、鷹山聖火は校舎裏に近い通路で、西城レオンハルトと顔を合わせた。
レオは大きめの荷物を肩にかけていた。
訓練用の道具か、山岳部の装備か。
どちらにせよ、軽い荷物ではなさそうだった。
だが、その足取りは重くない。
肩に荷物をかけているにもかかわらず、歩幅は普段とほとんど変わらない。
腰も沈みすぎていない。
足音も乱れていない。
それを見て、聖火は素直に感心した。
「レオくんって、やっぱり身体の使い方が上手いね」
「ん? 何だよ、急に」
レオが足を止め、怪訝そうに振り返る。
「褒めたつもりだったんだけど」
「お前が言うと、なんか観察されてる気がするんだよな」
「実際、ちょっと見てた」
「やっぱりかよ」
レオは呆れたように笑った。
聖火はレオの荷物に視線を向ける。
「山岳部の帰り?」
「ああ。九校戦前だから顔出す回数は減ってるけどな。体力落とすわけにもいかねえし」
「なるほど。レオくんらしいね」
「そうか?」
「うん。達也くんの友達って、何だかんだ真面目な人が多いから」
「お前も友達だろ?」
聖火は、少しだけ目を瞬かせた。
「……そう言ってくれるんだ」
「何だよ。違うのか?」
「違わない。ありがとう」
「そこで礼を言われると、なんかむず痒いな」
レオは照れくさそうに頭をかいた。
聖火はその様子を見て、少し笑った。
達也を通して知り合った相手。
まだ何度も長く話したわけではない。
それでも、レオはごく自然に、友達だと言った。
その距離の詰め方が、少しだけ眩しく見えた。
「じゃあ、友達ついでに一つ聞いてもいい?」
「何だ?」
「山を歩く時って、登りと下りで足の使い方を変えるよね」
「そりゃ変えるな。下りで登りと同じ使い方したら、膝に来る」
「呼吸も同じだと思う」
「呼吸?」
「場所とか状況が変わったら、呼吸も少し変える。登り、下り、寒さ、緊張、疲れ。全部同じ呼吸で押し通すと、身体が先に乱れるんだ」
レオは少し眉を上げた。
「お前、山もやるのか?」
「本格的にはやらないよ。ただ、父さんが持ってきた資料の中に、山岳修験に近い呼吸法の記述があったんだ」
「親父さん、何持ってきてんだよ」
「本人は古式魔法の周辺資料のつもりだったんだと思う。でも、中には魔法式というより、身体の使い方に近いものも混じってた」
聖火は自分の腹の下あたりを軽く示した。
「呼吸、重心、歩き方、力の抜き方。仙道とか導引に近いかな」
「仙道って、あれか。昔の仙人とかのやつか?」
「大雑把に言えばそう。でも、空を飛んだり霞を食べたりする話じゃないよ」
「そこまでは思ってねえよ」
「この手の話って、けっこう誤解されやすいから」
聖火が真面目な顔で言うので、レオは思わず笑った。
「で、それをお前がやってるわけか?」
「少しだけね。最初は半信半疑だったけど、続けてるとそれなりに変わるよ」
「どう変わる?」
「疲れにくくなる。余計なところに力を入れなくなる。あと、場所に身体を合わせやすくなる」
「場所に身体を合わせる?」
「正確には、場所に合わせて呼吸を変える、かな。呼吸が変わると、身体の力み方も変わる。身体の力みが変わると、動き方も変わる」
レオは少し考え込んだ。
「山で使えそうだな」
「使えると思う。むしろ最初は、戦うためというより、長く動くための技術に近いんじゃないかな」
「へえ」
レオの目が少し真面目になる。
聖火はその反応を見て、言葉を続けた。
「レオくん、体力あるよね」
「まあ、それなりにはな」
「だから多少息が乱れても、力で何とかできちゃうんだと思う」
「悪いことか?」
「悪くないよ。レオくんの長所だと思う」
聖火は一度そこで言葉を切った。
そして、少しだけ言い方を柔らかくする。
「でも、何とかなるのと、ちゃんと楽に動けてるのは別かな」
レオは口を開きかけて、閉じた。
心当たりがあったからだ。
山でも、疲れているのに無理が利いてしまうことはある。
足が動く。
力も残っている。
だから、まだ行けると思う。
だが、そういう時ほど足元の確認が雑になる。
荷物の重さを肩だけで受けてしまう。
下りで膝に負担をかける。
いつもなら気づける小さな違和感を見落とす。
体力があるからこそ、危うさに気づくのが遅れることがある。
「……嫌な言い方だけど、分かる」
「ごめん。嫌な言い方になった?」
「いや、分かるから嫌なんだよ」
「それなら良かった」
「良くねえよ」
レオは苦笑した。
聖火も少し笑ってから、続けた。
「戦う時も、たぶん似たようなことが起きる。呼吸が乱れると、判断も乱れる。判断が乱れると、身体は動くのに間違える」
レオは少し真面目な顔になった。
「じゃあ、どうする?」
「まず、吐いてみようか」
「吸うんじゃなくてか?」
「吸う前に吐く。息が上がった時って、人は吸おうとする。でも、吐けてないと上手く吸えないんだ」
聖火はレオの荷物を指した。
「その荷物を背負って、十歩歩いてみて」
「歩くだけか?」
「歩くだけ。ただし、歩幅と呼吸を合わせる。二歩で吐いて、二歩で吸う。きつかったら、吐く方を長くする」
「本当に歩くだけなんだな」
「最初から難しいことをしても、身体が覚えないから」
レオは肩をすくめたが、素直に荷物を背負い直した。
「分かったよ」
レオはゆっくりと歩き出した。
一歩。
二歩。
吐く。
三歩。
四歩。
吸う。
最初はぎこちなかった。
呼吸を意識するせいで、かえって歩き方が不自然になる。
足の運びも普段より硬い。
荷物の重さも、いつもより肩に引っかかるように感じた。
「なんか、余計に歩きづらいぞ」
「最初はそうなるよ。今まで無意識にやってたことを、急に意識してるから」
「正しいのに歩きづらいのかよ」
「入口としては正しい。でも、自然に使うにはまだ遠いかな」
「地味だな」
「山も地味でしょ?」
「まあな」
レオは苦笑しながらも、歩くのをやめなかった。
十歩。
二十歩。
三十歩。
同じリズムで歩き、同じリズムで呼吸する。
やがて、レオは少しずつ違いに気づき始めた。
荷物が軽くなったわけではない。
足腰の負担が消えたわけでもない。
身体能力が急に上がったわけでもない。
ただ、肩に余計な力が入らない。
息が胸の上で詰まらない。
荷物の重さが、腕や肩だけでなく、身体全体に散っていくような感覚があった。
レオは足を止め、自分の肩を軽く回した。
「……少し楽だな」
「うん。それでいいと思う」
「これだけか?」
「今日は、それで十分」
「十分って言われても、強くなった感じはしねえぞ」
「強くなってないからね」
即答だった。
レオは顔をしかめる。
「そこは少しくらい夢を見せろよ」
「夢で強くなるなら、修行はいらないよ」
「お前、意外と容赦ねえな」
「これは何年もかけて身体に染み込ませるものだから。今日やったのは、入口をちょっと触ったくらい」
「入口か」
「そう。今の感覚を、歩く時、走る時、荷物を持つ時、構える時、攻撃する時にも崩さないようにする。そこまでいって、ようやく使えるって言えるんだと思う」
レオはもう一度荷物を背負い直した。
「登りならどうする?」
「吐く方を長くする。登りは力を入れようとして、呼吸が上に逃げやすいから。腹の奥から吐いて、足に力を落とす感じ」
「下りは?」
「呼吸を浅くしすぎない。楽に見えるから油断するけど、下りは判断が雑になると危ない。息を細く続けて、視野を狭めない」
「寒い時は?」
「強く吸いすぎない。身体が縮むから。細く吐いて、身体の内側を固めすぎないようにする」
「……お前、けっこう細かいな」
「場所が違えば、身体の反応も違うからね。同じ呼吸で全部済ませる方が雑なんだと思う」
「なるほどな」
レオは小さく息を吐いた。
今度は、さっきよりも自然だった。
荷物の重さを肩だけで受けず、足の裏へ落とす。
呼吸を無理に大きくせず、細く続ける。
歩幅を崩さず、力を抜く。
急に楽になったわけではない。
だが、雑に力で押していた時とは違う。
「なあ、聖火」
「何?」
「これ、戦う時にも使えるんだよな?」
「使えると思う。ただ、すぐには無理だよ」
「分かってるよ。何年もかかるんだろ」
「分かってるならいい」
聖火は少しだけ笑った。
「戦う時は、もっと難しい。痛み、怖さ、焦り、相手の動き。山よりも呼吸を乱すものが多いから」
「山も十分きついけどな」
「だから、レオくんに向いてると思った」
「理由は?」
「レオくんは、魔法より先に身体が動くから」
レオは一瞬、返事に迷った。
それは褒め言葉なのか。
それとも、魔法師としての未熟さを指摘されたのか。
だが、聖火の声に侮りはなかった。
「それって、弱点じゃないと思う。ちゃんと使えたら、レオくんの武器になる」
レオは少しだけ目を見開いた。
魔法科高校にいる以上、魔法師としての能力は常に評価される。
数値に出るもの。
試験で測られるもの。
技術として比較されるもの。
そういう基準の中で、身体が先に動くという性質は、時に雑さや未熟さとして見られることもある。
けれど、聖火はそれを弱点だとは言わなかった。
武器になると言った。
レオは照れくさそうに鼻を鳴らした。
「……なら、使えるようにしねえとな」
「毎日やるならね」
「毎日かよ」
「場所に合わせる呼吸は、頭で覚えるものじゃないから。身体に覚えさせるものだと思う」
「分かったよ。山でも使えるなら、覚えといて損はなさそうだしな」
聖火は頷いた。
「山を歩く時も、戦う時も、苦しくなったらまず吐く。吸おうとする前に、吐いてから吸う」
「覚えとく」
「特にレオくんは、身体が先に動くから。呼吸で身体を止めるんじゃなくて、呼吸で身体を支える感じ」
レオはその言葉を、今度は軽く流さなかった。
「呼吸で身体を支える、か」
「うん」
「変な言い方だけど、何となく分かる気がする」
「最初はそれでいいよ」
二人がそんな話をしていると、通路の向こうから見慣れた人影が近づいてきた。
司波達也だった。
達也は二人の様子を見て、わずかに足を止める。
「何をしているんだ?」
「聖火に呼吸の仕方を教わってた」
レオが答えると、達也は一瞬だけ視線を聖火へ向けた。
「呼吸?」
「父さんの資料にあった古い調息法だよ。山岳部のレオくんには向いていると思って」
聖火がそう説明すると、達也はレオの姿勢を観察するように見た。
「確かに、さっきより肩の力は抜けている」
「お、分かるか?」
レオが少し得意げに言う。
達也は淡々と頷いた。
「ただ、呼吸を意識しすぎている。実戦で使うには、まだ遅い」
「お前も容赦ねえな」
「事実だ」
レオは不満そうに顔をしかめたが、どこか楽しそうでもあった。
聖火は苦笑する。
「今日のところは入口だけだよ。いきなり使えたら、それは才能じゃなくて反則だと思う」
「反則扱いかよ」
「地味に積み上げようってこと」
達也はそのやり取りを静かに見ていた。
「だが、悪くない」
「達也がそう言うなら、少しは期待していいか?」
レオがそう言うと、達也は淡々と答えた。
「継続すれば、役に立つ可能性はある」
「可能性かよ」
「断言できるほど、まだ身についていない」
「ほんと容赦ねえな」
それでも、レオの表情は明るかった。
聖火はそんなレオを見て、少しだけ目を細める。
この呼吸法が、すぐにレオを強くするわけではない。
今日覚えた感覚も、明日には薄れているかもしれない。
身につけるには時間がかかる。
何度も繰り返し、何度も忘れ、何度も思い出す必要がある。
けれど、レオくんなら続けられるかもしれない。
身体を動かすことを苦にしない。
地味な訓練を笑いながら続けられる。
何より、自分の身体で掴んだ感覚を信じられる。
そういう人間にとって、この種は無駄にはならない。
「レオくん」
「何だ?」
「苦しくなった時ほど、息を吐く。これだけは覚えておいて」
「さっきも聞いたぞ」
「大事なことは何度でも言うものだから」
「はいはい。覚えたよ」
レオは笑いながら、もう一度息を吐いた。
身体が急に強くなったわけではない。
荷物が軽くなったわけでもない。
魔法の腕が上がったわけでもない。
それでも、ほんの少しだけ歩きやすい。
息が、少しだけ長く続く。
肩の力が、少しだけ抜ける。
今はそれで十分だった。
その小さな感覚が、いつかどこかで、彼の足をもう一歩だけ前へ出させるかもしれない。
レオはまだ、その意味を知らない。
ただ、荷物を背負い直し、軽く笑った。
「よし。とりあえず、帰り道で試してみるか」
「転ばないようにね」
「山岳部員を舐めんな」
「呼吸に気を取られて段差を踏み外す可能性はあると思う」
「縁起でもねえこと言うな!」
達也がわずかに目を細める。
聖火は楽しげに笑った。
九校戦前の慌ただしさの中で、そのやり取りはほんの小さなものだった。
けれど、小さなものほど、後になって効いてくることがある。
呼吸を整える。
歩幅を整える。
力みを抜く。
それは派手な魔法でも、華やかな技でもない。
ただ、苦しくなった時に、もう一度立つための準備だった。
波紋とトリコの呼吸法の合わせ技になります。
これはのちの伏線になりますのでお楽しみに
あと聖火がレオと接触したのには訳があります。その話まで行けるかは不明です。