四葉真夜は、書斎で書類に目を通していた。
机の上には、いくつもの報告書が重ねられている。
分家からの定期報告。
魔法協会との調整案件。
使用人の配置変更。
研究施設の予算申請。
そして、外部勢力の動向に関する機密資料。
どれも重要ではある。
しかし、真夜の心を動かすほどのものではなかった。
紙面を読み、内容を理解し、必要な判断を下す。
ただそれだけの作業だった。
窓の外では、夜の庭が静かに沈んでいる。
屋敷の周囲には複数の結界が張られ、警備の者たちが一定の間隔で巡回していた。
四葉の屋敷に、無断で侵入できる者などいない。
少なくとも、常識の範囲では。
真夜は一枚の書類に署名を終え、次の紙へ手を伸ばした。
その時だった。
書斎の空気が、わずかに変わった。
音はなかった。
扉が開いた気配もない。
窓が揺れたわけでもない。
結界に反応もない。
それでも、真夜は顔を上げた。
書斎の隅に、少年が立っていた。
年齢は、あの夜と変わっていないように見えた。
炎の中で真夜を抱えて歩いていた時と、同じ姿。
同じ背丈。
同じ顔立ち。
そして、同じ乾いた目。
時間だけが、彼を避けて通ったかのようだった。
黒い外套。
旅装とも軍装ともつかない服。
腰には銃。
袖口には、薄く擦り切れた包帯のような布が巻かれている。
四葉の屋敷に、音もなく現れた侵入者。
それは男ではなかった。
少なくとも、外見だけなら少年だった。
だが、真夜はその姿を見て、子供だとは思わなかった。
静かで、乾いていて、遠い戦場をまだ見続けている者の目。
年齢という尺度では測れない、古い疲労がそこにあった。
真夜は悲鳴を上げなかった。
護衛を呼ぶこともしなかった。
ただ、静かにその少年を見た。
「……ずいぶんと無作法な訪問ですこと」
少年は書斎を見回したあと、真夜に視線を戻した。
「扉から入るべきだったか」
「できたのなら」
「試してはいない」
「そうでしょうね」
真夜は手にしていた万年筆を机の上に置いた。
指先は震えていない。
声も乱れていない。
けれど、胸の奥で古い記憶が微かに熱を持つ。
炎。
煙。
赤い羽。
そして、自分を抱えて歩いていた少年。
目の前にいる少年は、あの夜と何一つ変わっていなかった。
変わっていないことが、何よりも異常だった。
姿も。
声も。
こちらを見る目も。
まるで、真夜だけが年月の中に取り残され、彼だけがあの炎の夜からそのまま抜け出してきたようだった。
人間の形をした、別の何か。
真夜は、引き出しの中にしまってある赤い羽を思い出した。
真夜は、引き出しの中にしまってある赤い羽を思い出した。
「まだ持っているのか」
少年が言った。
真夜は、わずかに目を細めた。
「……見えるのですか」
「見えない。だが、思い出した」
「あなたが渡したものですものね」
「捨てていると思っていた」
「捨てる理由がありませんでした」
真夜は引き出しを開けた。
中には、小さな箱が収められている。
その蓋を開けると、赤い羽が静かに横たわっていた。
何年も前、炎の中で渡されたもの。
あの夜から、真夜が誰にも触れさせなかったもの。
少年はそれを見て、少しだけ目を細めた。
「変わっていないな」
「それは、こちらの台詞です」
真夜は箱の蓋を開いたまま、少年を見た。
「あの夜から、あなたは何一つ変わっていない」
「そう見えるか」
「ええ」
「なら、見た目はそうなんだろう」
「見た目だけではないように思えます」
少年は答えなかった。
真夜は赤い羽から視線を離し、静かに言った。
「約束を覚えていますか」
「名前を教える、だったな」
「ええ」
「鷹山聖火」
少年は短く名乗った。
「たかやま、せいか」
真夜はその名を口の中で確かめるように繰り返した。
「それが、あなたの名前ですか」
「ああ。少なくとも、今はそう名乗っている」
「今は?」
「昔は番号で呼ばれていた」
それ以上、聖火は説明しなかった。
真夜も、すぐには追及しなかった。
名前を得ること。
名前で呼ばれること。
それがどういう意味を持つのか、彼女には少しだけ分かる気がした。
「では、聖火さん」
「呼び方は任せる」
「あなたは、何をしに来たのですか」
「確認だ」
「何の確認を?」
聖火は真夜を見た。
その視線が、一瞬だけ変わった。
炎の夜と同じ、患者を診る目。
だが、そこに哀れみはない。
「体は安定しているな」
真夜は表情を変えなかった。
「おかげさまで」
「壊された機能も戻っている」
真夜の指が、箱の縁に触れた。
ほんの微かな動きだった。
「……そこまで分かるのですか」
「そうじゃなければ衛生兵なんてなのれない」
「ええ。そうでしたね」
真夜は静かに蓋を閉じた。
「最終的には、安定しました。医師たちは説明に困っていましたが」
「困るだろうな。あの時は、かなり雑に繋いだ」
「雑、ですか」
「急いでいた」
聖火は悪びれもせずに言った。
真夜は少しだけ笑った。
「あれを雑と言える方は、そう多くないでしょうね」
「丁寧にやる時間があれば、傷跡ももう少し減らせた」
「十分です」
真夜はそう言ってから、少し間を置いた。
「ただ、表向きには失われたことになっています」
聖火は眉を動かした。
「表向き?」
「ええ」
真夜は机の上の書類へ視線を落とした。
「私は、あの事件で子を成せない身体になった。そういうことになっています」
「情報操作か」
「四葉としては、必要な処置でした」
「また狙われるからか」
「それもあります」
真夜の声は静かだった。
「私の身体が完全に戻ったと知られれば、同じことを考える者が出るかもしれません。四葉の血と、私自身の価値を利用しようとする者が」
聖火は否定しなかった。
戦場で、彼は似たものを見てきた。
血統。
適性。
身体機能。
遺伝情報。
人間を部品として扱う者たちは、どこにでもいた。
「婚約も破棄されました」
真夜は続けた。
「理由としては、十分でしたから」
「君はそれでよかったのか」
「よい、悪いの問題ではありません」
即答だった。
「必要だった。それだけです」
聖火は真夜を見た。
その返答に、痛みはなかった。
怒りもなかった。
悲しみも、ほとんど見えなかった。
ただ、判断だけがあった。
「心を弄られたな」
真夜の視線が止まった。
書斎の空気が、ほんのわずかに冷えた。
「……分かるのですか」
「分かる」
「どのように?」
「感情の出方が不自然だ。反応が途切れている。痛みがないわけじゃない。だが、痛みとして出力されていない」
聖火は淡々と言った。
「外から壊された傷じゃない。近い者が、丁寧に作り替えている」
真夜は黙った。
その沈黙が、答えだった。
「姉です」
やがて、真夜は言った。
「四葉深夜。私の姉が、精神干渉の魔法を使いました」
「そうか」
聖火はそれだけ言った。
怒りもしなかった。
哀れみもしなかった。
深夜を責めることもしなかった。
その反応に、真夜はわずかに眉を動かした。
「驚かないのですね」
「戦場ではよくある」
「姉が妹の心を壊すことが?」
「壊さなければ、立っていられない者もいる」
真夜は聖火を見た。
聖火の声は冷たくなかった。
だが、優しくもなかった。
「それが正しいとは言っていない」
彼は続けた。
「ただ、そういう処置はある」
「処置」
「君を生かすためだったのか。四葉を守るためだったのか。姉自身が耐えるためだったのか。理由は知らない」
聖火は真夜の目を見る。
「だが、結果として君は立っている」
真夜は微笑んだ。
「それは、褒めているのですか」
「状態を言っただけだ」
「あなたらしいですね」
「俺を知っているような言い方をする」
「知らないわけではありません」
真夜は閉じた箱に指を置いた。
「私は、あなたに一度救われています」
「救ったというより、拾った」
「同じことです」
「違う」
聖火は短く否定した。
「あの時の俺は、まともじゃなかった。敵を止めるためではなく、怒りを燃やすために殺した」
「それでも、私は生きています」
「君がそう思うことと、俺があれを正当化することは別だ」
真夜は少しだけ目を細めた。
その言葉には、妙な重みがあった。
力を持つ者が、自分の行為を正当化しない。
それは四葉の中では、あまり見ない姿勢だった。
「では、今のあなたは?」
「今?」
「今は、何をしているのですか」
聖火は書斎の壁に掛けられた時計を見た。
「しばらくは、この時代で仕事をする」
「仕事?」
「どこにも所属しない仕事だ。軍にも、国にも、家にもつかない」
「傭兵ですか」
「近いが、少し違う」
「便利屋?」
「その方が近い」
真夜は小さく笑った。
「ずいぶんと曖昧な立場ですこと」
「曖昧な方が動きやすい」
「四葉に雇われる気は?」
「ない」
即答だった。
「理由を聞いても?」
「飼われるのは、もう十分だ」
その一言で、真夜はそれ以上踏み込むのをやめた。
鷹山聖火という少年の奥にあるもの。
番号で呼ばれていたという過去。
衛生兵だったという戦場。
炎の鳥のような力。
そのすべてを、今ここで聞き出すことはできない。
だが、彼がどこにも属したがらない理由だけは、少し分かった。
「帰る先が、まだないしな」
真夜は目を細めた。
「まだない?」
「ああ」
聖火は窓の外を見た。
夜の庭は静かだった。
四葉の結界の内側にある、管理された静寂。
「俺の本当の時代は、まだ先だ」
真夜はその言葉の意味を理解するまで、数秒を要した。
「未来から来た、と?」
「正確には、帰ろうとしたら座標と時間がずれた。ここは俺にとって過去だ」
「どれほど先の時代ですか」
「君には言わない方がいいな」
「なぜ?」
「未来を知ることは、武器になる」
聖火は真夜を見た。
「君はそれを使える人間だ」
真夜は微笑んだ。
「褒め言葉として受け取っておきます」
「警告のつもりだった」
「なおさらです」
聖火は少しだけ呆れたように息を吐いた。
真夜は椅子から立ち上がった。
「では、聖火さん」
「何だ」
「あなたは、未来に帰るまで、この時代でフリーランスとして活動する。どこの国にも、どこの家にも所属しない。そういう理解でよろしいですか」
「ああ」
「そして、四葉に雇われる気はない」
「ない」
「ですが、依頼を受けないとは言っていませんね」
聖火は真夜を見た。
真夜は微笑んでいた。
それは、あの夜に炎を見ていた少女の笑みではなかった。
四葉の人間として、利用できるものを見定める者の笑みだった。
「商談か?」
「確認です」
「似たようなものだ」
「四葉は、あなたを敵に回すつもりはありません」
「賢明だ」
「ですが、放置するには危険すぎる」
「正直でよろしいい」
「あなたも、四葉を完全に無視するには、この時代に足場が少なすぎるのでは?」
聖火は黙った。
真夜は続けた。
「所属ではなく、契約。主従ではなく、取引。あなたが望むのは、その形ではありませんか」
聖火は真夜を見つめた。
そして、少しだけ笑った。
「君は危険だな」
「哀れではなく?」
「ああ」
聖火は即答した。
「哀れむには、目が生きすぎている」
真夜の笑みが、わずかに深くなった。
その言葉は、同情よりもずっと心地よかった。
「では、危険な女として提案します」
「聞くだけ聞こう」
「四葉はあなたを探さない。縛らない。捕えようともしない」
「条件は?」
「必要な時だけ、私があなたに接触する権利を持つ」
「連絡手段は?」
真夜は箱の中の赤い羽を見た。
「これは、使えますか」
聖火は赤い羽を見つめる。
「使える」
「では、決まりですね」
「まだ何も決めていない」
「あなたは否定していません」
聖火はしばらく黙ったあと、肩をすくめた。
「四葉の人間は、面倒だな」
「よく言われます」
「言われるのか」
「言わせます」
聖火は短く笑った。
その時、書斎の外で足音が止まった。
護衛たちだ。
聖火は扉の方を見た。
「そろそろ見つかったか」
「四葉の屋敷ですもの。むしろ遅いくらいです」
「優秀だな」
「ええ。ですから、次は扉からいらしてください」
「努力する」
「努力ではなく、約束を」
聖火は窓へ視線を向けた。
「約束が好きだな」
「守らせたい相手には」
「そうか」
聖火は少しだけ考えた。
「なら、次は扉から来る」
「名前を聞かせる約束よりは、守りやすそうですね」
「今回は守っただろう」
「数年遅れです」
「時差だ」
「便利な言い訳ですこと」
扉の向こうで、気配が増える。
真夜は赤い羽の箱を閉じた。
「また会えますか」
あの夜と同じ問いだった。
聖火は、あの夜と同じように答えた。
「ああ。また会える」
次の瞬間、書斎の空気が揺らいだ。
炎はなかった。
音もなかった。
ただ、そこにいたはずの少年の姿だけが消えていた。
扉が開く。
「真夜様!」
護衛たちが駆け込んでくる。
真夜は椅子に座ったまま、机の上の書類へ視線を戻した。
「何事もありません」
「しかし、結界に異常が」
「見直しなさい。侵入はされています」
護衛たちの表情が強張る。
「侵入者は」
「帰りました」
「追跡を」
「不要です」
真夜は万年筆を手に取った。
そして、何事もなかったかのように、次の書類へ署名する。
ただ、その指先は、机の引き出しにしまわれた赤い羽の場所を一度だけなぞった。
四葉真夜は、静かに微笑む。
あの炎の夜から変わらない少年。
未来から来たという、どこにも属さない異物。
哀れまず、媚びず、縛られず、けれど約束だけは残していく者。
次こそは、もう少し長く話を聞かせてもらう。
そう思いながら、真夜は書類に目を落とした。
その日から、ひとつの名が裏社会に流れ始めた。
クローバー。
誰が最初にそう呼んだのかは分からない。
本人が名乗ったのか、誰かが勝手につけたのかも分からない。
だが、その名は奇妙なほど早く広がっていった。
ある病院では、治療不可能とされた少女が一夜にして峠を越えた。
ある廃港では、武装テロリストの一団が、たった一人の襲撃者によって壊滅した。
ある政府機関では、日本に迫る危機を事前に知らせた匿名の協力者の存在が囁かれた。
誰も顔を知らない。
誰も所属を知らない。
だが、結果だけは残っている。
残るのは彼が使った銃器の空薬莢だけ
正義のヒーロー。
日本の秘密諜報員。
映画から抜け出してきたような男。
国家が隠している切り札。
あるいは、そもそも実在しない架空の工作員。
噂は好き勝手に膨らんでいった。
その中で、もっとも信じられたのは、四葉家との関係だった。
四葉の縁者。
四葉の隠し玉。
四葉が外に出せない仕事を任せる、名前のない切り札。
そう噂された。
だが四葉家は、その問いに対して淡々と答えた。
「当家の血縁ではありません。ただし、業務上の関係はございます」
否定とも肯定とも取れる言葉。
それが、クローバーという存在をますます曖昧にした。
そして曖昧であることこそが、彼の最大の防壁となっていった。
今後もAIマシマシで行きたいと思います。
やはり自分の作品が文章化されるのは良いですね。