九校戦を前に、第一高校の放課後は少しずつ慌ただしさを増していた。
競技に出る者は調整に入り、補助に回る者は準備に追われる。
出場予定のない生徒たちも、校内に漂う熱にあてられるように、自然と身体を動かす時間が増えていた。
その日、校内の一角にある訓練用スペースでは、西城レオンハルトが何やら妙に真面目な顔で歩いていた。
一歩。
二歩。
吐く。
三歩。
四歩。
吸う。
本人は真剣そのものだったが、その様子を横から見ていた千葉エリカは、しばらく我慢した後、とうとう吹き出した。
「ちょっと、レオ。何してるのよ」
「見りゃ分かるだろ。歩いてんだよ」
「それは分かるわよ。何でそんな修行僧みたいな顔で歩いてるのか聞いてるの」
「修行僧って言うな」
レオは少し不満そうに言い返したが、歩くのはやめなかった。
その隣で、柴田美月が困ったように笑っている。
「でも、いつものレオくんとは少し違いますね」
「美月までそう言うのかよ」
「いえ、悪い意味ではなくて……少し、丁寧に歩いているように見えます」
「お、美月は分かってるな」
レオは少し得意げに胸を張った。
エリカは目を細める。
「で、誰に何を吹き込まれたの?」
「吹き込まれたって言うなよ。聖火に呼吸の仕方を教わったんだよ」
「呼吸?」
エリカの眉がぴくりと動いた。
「そう。苦しくなったらまず吐け、とか、歩幅と呼吸を合わせろ、とか」
「へえ」
エリカは腕を組み、レオの足運びを改めて見る。
先ほどまでは半分からかうつもりだったが、よく見ると、確かに普段より肩の力が抜けている。
動きが劇的に良くなったわけではない。
速くなったわけでもない。
ただ、力で押している感じが少し薄い。
「意外とまともなこと言うじゃない」
「意外とって何だよ」
「だって、あんたが真面目に呼吸の練習してるのよ? 面白いに決まってるじゃない」
「面白がるな」
レオがむっとした顔をした時だった。
ちょうど通路の向こうから、鷹山聖火が歩いてきた。
エリカはそれに気づくと、すぐに声をかけた。
「ちょうどいいところに来たわね」
聖火は足を止めた。
「第一声から、何だか不穏なんだけど」
「レオから聞いたわよ。変な呼吸法を教えたんだって?」
「変な呼吸法という言い方は、少し傷つくかな」
「じゃあ、古臭い呼吸法?」
「悪化してない?」
聖火が困ったように笑うと、レオが横から口を挟んだ。
「いや、変って言ったのは俺じゃねえからな」
「最初に変な呼吸って言ってなかった?」
「細かいこと覚えてんなよ」
レオが顔をしかめる。
美月はそのやり取りを見て、くすりと笑った。
エリカはそんな三人の空気を軽く流しつつ、聖火を上から下まで眺めた。
「ねえ、あんた」
「何?」
「剣術やってる?」
聖火は少しだけ目を瞬かせた。
「本格的にはやってないよ」
「嘘ね」
「即答は少し傷つくな」
「歩き方が普通じゃないもの。足音が薄いし、重心が変に安定してる」
「普通に歩いてるつもりなんだけど」
「普通に見えるように歩いてるんでしょ」
聖火は苦笑した。
エリカの言葉には、ただの勘では片づけられない鋭さがあった。
歩幅。
足裏の置き方。
視線の流れ。
上半身の揺れ。
聖火自身、完全に隠しているつもりはなかったが、ここまで早く見抜かれるとは思っていなかった。
「剣は専門外だよ。エリカさん相手に知ったかぶりする勇気はないかな」
「へえ。分かってるじゃない」
エリカは楽しげに笑った。
「剣術に詳しいかは知らないけど、少なくとも素人の立ち方じゃないからね」
「そこまで見てる時点で、あんたも十分怪しいわよ」
「怪しいはひどくない?」
「じゃあ、変」
「さっきから評価が改善しないね」
聖火が肩をすくめると、レオが横で笑った。
「エリカに目をつけられたら終わりだな」
「レオくん、それは先に言ってほしかった」
「今言った」
「遅いよ」
そんなやり取りの中で、美月は聖火の足元をそっと見ていた。
言われてみれば、確かに聖火の立ち方は少し不思議だった。
力を入れているようには見えない。
けれど、ふらついていない。
その場に自然に立っているだけなのに、風で揺れる草のような頼りなさはない。
静かに、そこにいる。
そんな印象だった。
エリカは聖火に向き直る。
「で、レオに何を教えたの?」
「山歩きにも使える呼吸の入口だよ。歩幅と呼吸を合わせるとか、苦しくなったらまず吐くとか」
「山歩きね」
「レオくんは山岳部だから、取っかかりとしては分かりやすいと思って」
「確かに、レオ向きではあるわね」
エリカは頷いた。
「でも、それだけじゃないでしょ?」
「というと?」
「歩き方が変わるなら、踏み込みにも関係する。踏み込みが変わるなら、間合いにも関係する。違う?」
聖火は少しだけ目を細めた。
「違わないと思う」
「やっぱり」
エリカは満足げに笑った。
「剣でも同じよ。力を入れれば強く振れると思ってる人は多いけど、力みすぎると刃筋が死ぬの」
「刃筋?」
レオが首を傾げる。
エリカはレオを見る。
「簡単に言えば、ちゃんと斬れる角度で刃が通るかどうか。力任せに振るだけだと、速くても重くても駄目な時があるのよ」
「へえ」
「あと、息を止めると一太刀目は強くなることもある。でも、二太刀目が遅れる」
レオは思わず聖火を見た。
「それ、昨日聞いたやつだな」
「うん。動きは違っても、身体の理屈は似てるんだと思う」
聖火はそう言ってから、エリカに視線を戻した。
「ただ、俺は剣の話はできないよ。できるのは、呼吸と重心の話くらい」
「それで十分よ」
エリカは軽く笑う。
「むしろ、剣を知らない人間が剣を語り出したら、その時点で叩くわ」
「怖いな」
「安心しなさい。まだ叩いてないから」
「まだ、なんだ」
聖火は乾いた笑みを浮かべた。
レオが面白そうに二人を見比べる。
「なあ、ちょっとやってみたらどうだ?」
「何を?」
聖火が聞き返す。
「エリカが踏み込んで、聖火が見るとか。昨日俺にやったみたいに」
「昨日は歩いただけだよ」
「でも、何か分かったんだろ?」
エリカも興味を持ったように、軽く足を開いた。
「いいわよ。別に打ち込むわけじゃないし」
「本当に打ち込まない?」
「信用ないわね」
「初対面に近い人に『変』って何度も言われてるからね」
「細かいこと気にするのね」
「気にするよ」
聖火は苦笑しながらも、少し距離を取った。
エリカは木刀を持っていなかった。
だが、構えだけで十分だった。
右足をわずかに引き、上半身を軽く沈める。
手には何もない。
それでも、そこに剣があるように見える。
聖火は、その立ち姿に目を細めた。
綺麗だった。
力を入れているのではない。
いつでも力が入る場所に、身体が置かれている。
「やっぱり慣れてるね」
「今さら?」
「いや、思ったよりずっと」
「褒めても何も出ないわよ」
「褒めたつもりだったんだけど」
「知ってる」
エリカは軽く笑い、次の瞬間、一歩だけ踏み込んだ。
速い。
ただし、それは本気ではない。
相手を斬るための踏み込みではなく、見せるための踏み込みだった。
それでも、レオの時とはまるで違う。
足が出る前に、視線がわずかに動く。
腰が沈む。
肩が遅れてついてくる。
それらがほとんど一つの流れとして繋がっていた。
聖火は動かなかった。
ただ、エリカの踏み込みが止まった後、少しだけ息を吐いた。
「うん。やっぱり速い」
「避けないの?」
「打ち込まないって言ったから」
「素直ね」
「約束は信じる方なんだ」
エリカは少し楽しそうに目を細めた。
「で、何か分かった?」
「踏み込む前の音が少ない」
「音?」
「足音じゃなくて、身体の音。呼吸とか、肩の緊張とか、重心が浮く感じとか。そういう、動く前に出る気配」
エリカは少しだけ表情を変えた。
「へえ」
「ただ、完全に消えてるわけじゃない。踏み込む直前、少しだけ呼吸が細くなる」
「そこまで見る?」
「見えたというより、気になっただけだよ」
「それを見えてるって言うの」
エリカは口ではそう言いながらも、不快そうではなかった。
むしろ、面白がっている。
「じゃあ、あんたもやってみて」
「俺?」
「そう。あんたのその変な歩き方、ちゃんと見たいわ」
「変が固定されたね」
「諦めなさい」
聖火は小さく息を吐いた。
そして、何も構えずに一歩だけ前へ出た。
ただの一歩だった。
速くはない。
大きくもない。
踏み込んだというより、移動しただけに見える。
けれど、エリカの眉がわずかに動いた。
レオは首を傾げる。
「今の、普通に歩いただけじゃねえのか?」
「普通に歩いたよ」
聖火が答える。
しかし、エリカは聖火の足元を見たまま言った。
「違うわね」
「何がだ?」
レオが聞く。
「入りが見えにくい。足が出る前の癖が薄いのよ」
美月も、はっとしたように聖火を見た。
「癖が薄い?」
レオがさらに首を傾げる。
エリカは自分の足で軽く床を叩く。
「普通、人が動く時って、足が出る前に身体のどこかが先に動くの。肩とか、腰とか、視線とか、呼吸とかね。それを見れば、次にどっちへ動くか分かることがある」
「なるほどな」
「でも、今のはそれが少ない。消えてるわけじゃないけど、見えにくい」
エリカは聖火を見る。
「何をしたの?」
「息を整えて、余計な力を抜いただけだよ」
「だけ、ね」
「本当にそれだけ。足で動こうとすると、足の前に身体が教えてしまうから」
聖火は自分の胸元に軽く手を当てた。
「呼吸が乱れると、肩が固まる。肩が固まると、重心が浮く。重心が浮くと、踏み込む前に相手に伝わる」
エリカは頷いた。
「剣でも同じ。斬ろうとしすぎると、斬る前に分かる」
「だと思う。だから、踏み込む前の一歩を消すというより、薄くする」
「完全には消さないの?」
「消そうとすると、今度は不自然になる。隠そうとしていることが見えるから」
エリカはにやりと笑った。
「言うじゃない」
「剣の話じゃなくて、身体の話だからね」
「便利な逃げ方ね」
「逃げ道は大事だよ」
レオは二人の会話を聞きながら、少し感心したように腕を組んだ。
「何か、昨日より難しい話になってねえか?」
「レオはまず歩くところからでしょ」
エリカが即座に言う。
「扱いが雑だな」
「合ってるじゃない」
「否定しづらい」
レオが肩を落とすと、美月が小さく笑った。
その時だった。
美月は、聖火がもう一度息を整えるのを見た。
ほんの一瞬。
聖火の周囲の空気が、静かになったように見えた。
何かが光ったわけではない。
魔法式のようなものが見えたわけでもない。
ただ、ざわついていたものが、すっと落ち着くような感覚。
水面に広がっていた細かな波が、風の止む瞬間にだけ平らになるような。
そんな静けさだった。
「あの……」
美月が小さく声を出す。
三人の視線が美月に向いた。
「どうしたの?」
聖火が柔らかく尋ねる。
美月は少し迷った後、遠慮がちに言った。
「鷹山さんが今、呼吸を整えた時……少しだけ、空気が静かになったように見えました」
エリカの表情が、少しだけ真面目になる。
レオは不思議そうに美月を見る。
「空気?」
「はい。上手く言えないんですけど……ざわざわしたものが、すっと落ち着くみたいに」
聖火は美月の言葉を否定しなかった。
むしろ、少しだけ考えるように目を伏せた。
「その感じ方は、たぶん間違ってないと思う」
美月は驚いたように目を上げる。
「そう、なんですか?」
「俺自身には、そう見えているわけじゃないけどね。でも、呼吸を整えると身体の力みが抜ける。身体の力みが抜けると、出ている気配みたいなものも少し変わるんだと思う」
「気配……」
「美月さんは、そういう変化に気づきやすいんじゃないかな」
美月は戸惑ったように視線を落とした。
その様子を見て、エリカが少しだけ前に出る。
「美月、変なことを言ったわけじゃないわよ」
「はい……」
「むしろ、私にはそこまで見えないから、ちょっと羨ましいくらい」
「エリカちゃん……」
エリカは照れ隠しのように肩をすくめた。
「まあ、変なのはこいつの方でしょ」
「俺、何も悪いことしてないよね?」
聖火が困ったように言うと、レオが笑った。
「変な呼吸法教えてる時点で、ちょっと怪しいだろ」
「レオくんまで」
「でも、役には立つんだろ?」
「立つようにするかは、本人次第かな」
聖火はそう言ってから、美月に視線を戻した。
「怖い感じだった?」
美月はすぐに首を振った。
「いえ。怖くはありませんでした。ただ、少し不思議で……」
「なら良かった。怖がらせたなら、少し申し訳ないと思ったから」
「そんなことはありません」
美月は慌てたように言った。
その様子に、エリカが軽く笑う。
「美月は真面目ね」
「エリカちゃん……」
「でも、気になるなら深雪に聞いてみたら? あの子なら、また違う見方をするかもしれないし」
美月は少し考えた。
「そう、ですね。深雪さんにも、今度聞いてみます」
聖火はその名前を聞いて、ほんの少し表情を柔らかくした。
「深雪さんなら、丁寧に聞いてくれそうだね」
「はい。深雪さんは、とても優しい方ですから」
美月はそう言って、少し安心したように微笑んだ。
場の空気が、そこで少し落ち着いた。
エリカは改めて聖火を見る。
「それで、結局あんたの呼吸法って、剣にも使えるの?」
「使えるかもしれないけど、エリカさんには余計なお世話かもしれない」
「あら、どうして?」
「もう自分の中に、ちゃんとした型があるように見えるから。変に外から混ぜると、かえって邪魔になることもあると思う」
エリカは一瞬だけ目を丸くした。
それから、少しだけ満足そうに笑った。
「ふうん。そこは分かってるのね」
「さっき叩かれるって聞いたから慎重になってる」
「そんなに怖がらなくてもいいわよ」
「その台詞が一番怖いよ」
レオが横で吹き出した。
「聖火、お前けっこうエリカに弱いな」
「強く出る理由がないからね」
「賢い判断ね」
エリカが楽しそうに言った。
聖火は肩をすくめる。
「エリカさんの場合は、何かを足すより、今やっていることを邪魔しない呼吸を探す方がいいと思う」
「邪魔しない呼吸?」
「斬るための呼吸は、もう身体に入ってると思う。だから、それを変えるんじゃなくて、疲れた時や、間合いを測る時に崩れないようにする。たぶん、その方が合う」
エリカは少し黙った。
冗談を返すでもなく、からかうでもなく、聖火の言葉を一度自分の中で転がしているようだった。
やがて、彼女は短く言った。
「覚えておくわ」
その返事に、聖火は小さく頷く。
「それだけで十分だと思う」
「何よ。ずいぶん控えめね」
「剣は専門外だから」
「またそれ?」
「大事な逃げ道だから」
今度は美月も小さく笑った。
レオは大きく伸びをする。
「よし。俺はもう少し歩いてくるわ」
「まだやるの?」
エリカが意外そうに聞く。
「せっかく教わったしな。山でも使えるなら、やっといて損はねえだろ」
「真面目ね」
「達也の友達だからな」
レオが軽く笑って言う。
聖火はその言葉に、少しだけ目を瞬かせた。
それから、ふっと笑った。
「それ、便利な理由だね」
「お前も含めてな」
「……うん。ありがとう」
「だから、そこで礼を言われるとむず痒いんだよ」
レオはそう言って、少し照れたように歩き出した。
一歩。
二歩。
吐く。
三歩。
四歩。
吸う。
まだぎこちない。
まだ遅い。
けれど、昨日より少しだけ自然だった。
エリカはその背中を見ながら、ぽつりと言う。
「本当に地味ね」
「地味だよ」
聖火は頷いた。
「でも、地味なものほど、後で効くことがあるから」
「そういうの、嫌いじゃないわ」
エリカはそう言って、聖火の方を見た。
「次は、木刀ありで見せてもらおうかしら」
「それは俺が?」
「私が」
「それ、俺は見てるだけでいい?」
「さあ?」
エリカが楽しげに笑う。
聖火は少しだけ後ずさった。
「レオくん、助けて」
「自分で何とかしろー」
遠くからレオの声が返ってくる。
美月が困ったように、けれど楽しそうに微笑んだ。
九校戦前の忙しさの中で、それはほんの短いやり取りだった。
けれど、聖火は少しだけ実感していた。
達也の友人。
そのさらに友人。
最初はそういう距離だった相手たちが、少しずつ輪郭を持ちはじめている。
レオは自然に距離を詰める。
エリカは鋭く切り込む。
美月は静かに気づく。
それぞれ違う形で、聖火を見ている。
ならば、自分もまた、彼らをきちんと見なければならない。
聖火は小さく息を吐いた。
呼吸を整える。
力みを抜く。
踏み込む前の一歩を、乱さない。
それは戦いだけの話ではないのかもしれない。
誰かとの距離を縮める時にも、きっと同じことが言える。
急ぎすぎれば、相手に伝わる。
隠しすぎれば、不自然になる。
だから、少しずつ。
踏み込む前の一歩を、間違えないように。
主人公は嘘は言っていません。嘘はね・・・
ということでここまでくると次は美月回になります。