放課後の第一高校は、九校戦に向けた準備で普段よりも少しだけ騒がしかった。
廊下を行き交う生徒たちの足音。
訓練施設へ向かう者たちの声。
委員会や部活動の打ち合わせに向かう生徒たちの慌ただしい気配。
そのざわめきの中で、柴田美月は少しだけ歩調を緩めていた。
隣を歩いていた千葉エリカが、それに気づく。
「美月、どうしたの?」
「え?」
「さっきから少し考え込んでるみたいだから」
「あ……すみません」
「謝ることじゃないわよ。何か気になることでもあった?」
美月は少し迷った。
気になっていることはある。
だが、それをどう言葉にすればいいのか、自分でもまだ分からなかった。
鷹山聖火が呼吸を整えた時に見えた、あの静けさ。
魔法式が見えたわけではない。
精霊のようなものが見えたわけでもない。
明確な形があったわけでもない。
ただ、空気が静かになったように見えた。
ざわざわと波立っていたものが、すっと落ち着く。
まるで、水面に広がっていた小さな揺らぎが、一瞬だけ凪ぐような感覚。
怖くはなかった。
嫌な感じもしなかった。
けれど、普通とは少し違った。
「……昨日の、鷹山さんのことなんですけど」
「ああ、あの変な呼吸法?」
「エリカちゃん」
美月が少し困ったように言うと、エリカは軽く肩をすくめた。
「分かってるわよ。悪い意味じゃないって。で、あれがどうかした?」
「鷹山さんが呼吸を整えた時、少しだけ空気が静かになったように見えたんです」
「昨日もそう言ってたわね」
「はい。鷹山さんは、たぶん間違っていないと言ってくれました。でも……」
「でも?」
「本当にそうなのか、自分ではよく分からなくて」
美月は視線を落とした。
自分には、他の人には見えないものが見えることがある。
それは便利な時もあるが、同時に不安にもなる。
見えているものが正しいのか。
自分だけが変に感じているのではないか。
余計なことを気にして、相手に失礼なことをしていないか。
そんな考えが、頭の中で何度も行き来していた。
エリカは美月の表情を見て、少しだけ真面目な顔になる。
「じゃあ、深雪に聞いてみる?」
「深雪さんに、ですか?」
「うん。あの子なら、変に茶化さないで聞いてくれるでしょ」
「それは……はい」
美月は小さく頷いた。
深雪なら、きっと丁寧に聞いてくれる。
それは分かっていた。
ただ、同時に少し緊張もした。
司波深雪は優しい。
美月にもいつも穏やかに接してくれる。
けれど、兄である達也に関わることになると、深雪の雰囲気は少し変わる。
美月はそれを怖いと思ったことはない。
ただ、深雪の中には、普段の柔らかさとは別の、凛とした芯があることを知っていた。
その時だった。
「私が、どうかしましたか?」
背後から澄んだ声が聞こえた。
美月とエリカが振り返ると、そこには司波深雪が立っていた。
相変わらず、涼やかな佇まいだった。
九校戦前の慌ただしい空気の中にあっても、深雪の周囲だけは少し温度が違って見える。
慌てて美月が頭を下げる。
「深雪さん」
「こんにちは、美月、エリカ」
「ちょうどいいところに来たわね」
エリカが軽く手を上げる。
「美月が、昨日のことで少し気になってるみたいなのよ」
「昨日のこと、ですか?」
深雪は美月へ視線を向けた。
その目は穏やかだったが、ただ聞き流すだけのものではなかった。
「はい。鷹山さんのことで……」
「聖火くん?」
深雪の表情が、ほんの少しだけ変わった。
大きな変化ではない。
だが、美月には分かった。
深雪は今、きちんと聞く態勢に入ったのだ。
美月は言葉を選びながら話し始めた。
「昨日、エリカちゃんやレオくんと一緒に、鷹山さんの呼吸法の話を聞いていたんです。レオくんが教わったものらしくて……」
「呼吸法、ですか」
「はい。山を歩く時や、戦う時に呼吸を整える、というような話でした」
深雪は静かに頷いた。
「それで、美月は何が気になったのですか?」
美月は少しだけ手を握る。
「鷹山さんが呼吸を整えた時、少しだけ空気が静かになったように見えたんです」
「空気が静かに?」
「はい。上手く言えないんですけど、ざわざわしたものが、すっと落ち着くような感じで……」
深雪はすぐには答えなかった。
美月の言葉を、丁寧に受け止めているようだった。
「怖い感じでしたか?」
「いえ」
美月はすぐに首を振った。
「怖くはありませんでした。嫌な感じでもありません。ただ、普通とは少し違って見えて……」
「なるほど」
深雪は小さく頷いた。
その声は落ち着いていて、美月は少しだけ安心した。
「美月がそう感じたのであれば、何かしらの変化はあったのだと思います」
「そう、でしょうか」
「はい。美月の感覚は、決して軽く扱うものではありません」
美月は少し目を見開いた。
深雪の言葉には、迷いがなかった。
「ただ、それが危険なものかどうかは、別に考えた方が良いと思います」
「危険かどうか……」
「怖くなかった。嫌な感じもしなかった。なら、少なくともその時点で、美月が危険と感じるものではなかったのでしょう」
美月は小さく頷いた。
エリカが横から言う。
「鷹山本人も、怖がらせたなら悪いって言ってたしね」
「聖火くんが?」
深雪がエリカを見る。
「ええ。美月が空気が静かになったみたいって言ったら、否定しなかったわ。むしろ、その感じ方は間違ってないと思うって」
深雪は少し考えるように目を伏せた。
「お兄様も、聖火くんについては特に危険視していないようです」
「達也さんが、ですか?」
美月が尋ねると、深雪は静かに頷いた。
「はい。お兄様は、聖火くんを不用意に信用しているわけではありません。ですが、警戒すべき相手として扱っているわけでもありません」
エリカが苦笑する。
「達也らしいわね。友達でも観察はするって感じ」
深雪は少しだけ微笑んだ。
「お兄様は、そういう方ですから」
その言い方には、深い信頼があった。
美月はそれを聞いて、胸の奥にあった不安が少しだけ薄れるのを感じた。
「それなら……少し安心しました」
「ただ、美月が気になるのであれば、直接聞いてみても良いと思います」
「直接、ですか?」
「はい。聖火くんは、美月の感じたことを否定しなかったのでしょう?」
「はい」
「なら、聞けば答えてくださるのではありませんか?」
美月は迷った。
確かに、鷹山聖火は昨日、美月の言葉を笑わなかった。
気のせいだとも言わなかった。
むしろ、怖かったかと聞いてくれた。
それは、美月にとってありがたいことだった。
だが、直接聞くとなると、やはり少し緊張する。
エリカが美月の肩を軽く叩いた。
「大丈夫よ。私も一緒に聞いてあげるから」
「エリカちゃん……」
「それに、あいつが変なこと言ったら私が突っ込むし」
「それは少し安心……なのでしょうか」
「安心しなさい」
エリカは自信満々に言った。
深雪も柔らかく微笑む。
「私もご一緒してもよろしければ」
「深雪さんも、ですか?」
「はい。私も、少し気になりますから」
その時、通路の向こうから、話題の人物が歩いてくるのが見えた。
鷹山聖火だった。
手には小さな紙袋を持っている。
おそらく部活連か、誰かへの差し入れか何かだろう。
聖火は三人に気づくと、少し足を止めた。
「こんにちは。三人で何か相談?」
エリカがにやりと笑う。
「ちょうどあんたの話をしてたところよ」
「それは、良い話? 悪い話?」
「怪しい話」
「悪化してるね」
聖火は困ったように笑った。
美月は少し緊張しながらも、一歩前に出た。
「あの、鷹山さん」
「はい」
聖火は美月に向き直る。
昨日と同じように、声は穏やかだった。
「昨日のことで、少し聞いてもいいですか?」
「もちろん。俺が答えられることなら」
美月は深雪とエリカを一度見た。
二人とも、静かに頷いてくれた。
それに背中を押されるように、美月は口を開く。
「昨日、鷹山さんが呼吸を整えた時、空気が静かになったように見えました」
「うん」
「鷹山さんは、その感じ方は間違っていないと思うと言ってくれました。でも、それが何なのか、自分ではよく分からなくて……」
聖火は少しだけ考えるように視線を落とした。
すぐに答えず、言葉を選んでいるようだった。
「俺自身には、美月さんと同じものが見えているわけじゃないんだ」
「そうなんですか?」
「うん。俺は、どちらかと言えば身体の感覚として捉えている。呼吸を整える。力みを抜く。重心を落ち着かせる。そうすると、自分の中の余計な揺れが少し減る」
聖火は自分の胸元に軽く手を当てる。
「たぶん、美月さんには、その揺れが減った瞬間が見えたんだと思う」
「揺れが減る……」
「昨日、美月さんは、ざわざわしたものが静かになったように見えたと言っていたよね」
「はい」
「それはたぶん、俺が外に出していた余計な気配みたいなものが、少し収まったんじゃないかな」
深雪が静かに尋ねる。
「それは、古式魔法に関係するものですか?」
聖火は深雪を見る。
その視線に、深雪の静かな注意を感じた。
敵意ではない。
だが、美月を守るために必要なら踏み込む、という意思はある。
聖火はその気配を感じ取り、少しだけ背筋を正した。
「関係はあると思う。でも、魔法式そのものではないよ」
「魔法式ではない?」
「うん。父さんが持ってきた古式魔法の周辺資料にあったんだけど、呼吸や重心、歩き方、身体の力の抜き方に関する記述だった。仙道や導引、山岳修験に近いものだと思う」
エリカが横から口を挟む。
「要するに、変な呼吸法ね」
「エリカさん、そこに戻る?」
「だって分かりやすいじゃない」
「分かりやすさと正確さは別だと思う」
「細かいわね」
そのやり取りに、美月の緊張が少しだけ和らいだ。
深雪も、ほんの少し表情を柔らかくする。
聖火は話を戻した。
「現代魔法みたいに、起動式を展開して事象を書き換えるものじゃない。どちらかと言えば、術者自身の状態を整えるための基礎訓練に近い」
「状態を整える……」
深雪が静かに繰り返す。
「はい。呼吸が乱れると、身体も乱れる。身体が乱れると、意識も乱れる。古式魔法は、そういう術者自身の状態に影響されやすいものも多いと思う」
聖火は美月へ視線を戻した。
「だから、美月さんが見たものは、たぶん気のせいじゃない。ただ、危ないものでもないと思う」
美月はその言葉に、胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
「危なくない……」
「少なくとも、昨日のあれはね。もちろん、見えるもの全部が安全とは言えないけど」
「はい」
「でも、見えること自体は悪いことじゃないよ」
美月は顔を上げた。
聖火は、ゆっくりと言葉を続ける。
「見えるものが多いと、不安になることもあると思う。自分だけが変なものを見ているんじゃないかって、怖くなることもあると思う」
美月は息を呑んだ。
聖火の声は、強くはなかった。
けれど、妙にまっすぐ届いた。
「でも、見えるからこそ気づけることもある。危ないものを危ないと分かるなら、それはちゃんと身を守る力になる」
「身を守る力……」
「うん。だから、美月さんの目は、悪いものじゃないと思う」
美月はしばらく何も言えなかった。
その言葉が、すぐに全部信じられるわけではない。
自分の見えるものへの不安が、たった一言で消えるわけでもない。
それでも、否定されなかった。
気のせいだと言われなかった。
怖がるなと雑に片づけられなかった。
それだけで、美月には十分すぎるほどだった。
「ありがとうございます」
美月は小さく頭を下げた。
聖火は少し慌てたように手を振る。
「いや、そんな大したことは言ってないよ」
「そんなことありません」
深雪が静かに言った。
聖火は深雪を見る。
「美月にとっては、大切なことだったと思います」
深雪の声は穏やかだった。
けれど、その中には美月への深い気遣いがあった。
聖火は少しだけ表情を引き締めた。
「それなら、言えて良かった」
深雪は聖火を見つめる。
その視線は、先ほどよりも少しだけ柔らかい。
「聖火くん」
「はい」
「お兄様があなたを警戒すべき相手として扱っていない理由が、少し分かった気がします」
聖火は一瞬、返事に困った。
「それは……褒められてるのかな」
「はい」
深雪は迷いなく頷いた。
「褒めています」
「それは光栄です」
聖火が少し照れたように言うと、エリカが横でにやりと笑った。
「あら、深雪に褒められて緊張してる?」
「緊張くらいするよ」
「昨日は私に結構平気そうだったじゃない」
「エリカさんは、緊張する前に斬り込んでくるから」
「人を辻斬りみたいに言わないで」
「似たような勢いだったと思う」
「言うじゃない」
エリカが楽しげに笑う。
美月も、つられて小さく笑った。
深雪はそんな三人を見て、少しだけ微笑んでいた。
場の空気が柔らかくなる。
聖火はふと、自分が持っていた紙袋の存在を思い出した。
「あ、そうだ」
「どうしたの?」
美月が尋ねる。
聖火は紙袋を少し持ち上げる。
「部活連に持っていくつもりだったんだけど、お茶菓子を少し買ってきたんだ。よかったら、皆さんもどうかな」
「お茶菓子?」
エリカが反応する。
「何それ」
「今日は小さな焼き菓子。いつも部活連の人たちにお世話になってるから」
「へえ、気が利くじゃない」
「意外と?」
「そうね、意外と」
「エリカさん、評価が厳しい」
美月がくすりと笑う。
深雪は紙袋に視線を向けた。
「ですが、私たちがいただいてしまってよろしいのですか?」
「もちろん。多めに買ってきたから。深雪さんも、よかったら」
聖火はそう言ってから、少しだけ付け加えた。
「甘いものが苦手でなければだけど」
深雪は柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます。いただきます」
エリカはすかさず言う。
「じゃあ、遠慮なく」
「エリカちゃん」
「いいじゃない。本人がいいって言ってるんだし」
「うん。遠慮なくどうぞ」
聖火は紙袋を開け、小さな包みを三人に渡した。
美月がそれを両手で受け取る。
「ありがとうございます、鷹山さん」
「こちらこそ。昨日のこと、ちゃんと聞いてくれてありがとう」
「私の方こそ……聞けてよかったです」
美月はそう言って、少しだけ安心したように微笑んだ。
その表情を見て、聖火も少しだけほっとした。
深雪は焼き菓子の包みを手にしながら、静かに言う。
「聖火くん」
「はい」
「美月がまた何か気になることを感じた時は、相談してもよろしいでしょうか」
「俺で答えられることなら、もちろん」
「ありがとうございます」
深雪は丁寧に頭を下げた。
聖火も自然に頭を下げ返す。
そのやり取りを見て、エリカが小さく笑った。
「何か、妙に礼儀正しいわね」
「深雪さん相手に雑な対応をする勇気はないよ」
「私には雑でもいいってこと?」
「エリカさんは雑にしても、雑に返してくれそうだから」
「だいぶ分かってきたじゃない」
「成長したかな」
「少しね」
エリカが楽しそうに言う。
美月はその会話を聞きながら、もう一度聖火を見た。
昨日感じた静かな気配。
それは今も、ほんの少しだけ残っているように思えた。
けれど、もう怖くはなかった。
分からないものは、まだ分からない。
不安が完全に消えたわけでもない。
それでも、見えたものを否定されなかった。
自分の感覚を大切にしていいと言ってもらえた。
それだけで、美月の中のざわめきは、少しだけ静かになっていた。
まるで、昨日見たあの空気のように。
「美月さん?」
聖火に声をかけられ、美月ははっとした。
「あ、すみません」
「大丈夫?」
「はい。大丈夫です」
美月は小さく笑った。
「少し、安心しました」
聖火はその言葉に、穏やかに頷いた。
「それなら良かった」
深雪も静かに微笑む。
エリカは焼き菓子の包みを手の中で軽く揺らした。
「さて。立ち話も何だし、どこかで食べましょうか」
「部活連に持っていくんじゃなかったの?」
レオがいれば言いそうなことを、なぜか聖火が自分で言った。
エリカは悪びれずに笑う。
「少しだけなら誤差よ」
「誤差の定義が広いね」
「細かい男は嫌われるわよ」
「理不尽だ」
そのやり取りに、美月が笑い、深雪も口元を緩めた。
九校戦前の慌ただしい日々の中で、それは小さな会話にすぎなかった。
けれど、美月にとっては、小さくない時間だった。
見えるもの。
感じるもの。
人に説明しづらいもの。
それらを抱えていても、ひとりで不安にならなくていい。
そう思えただけで、胸の奥が少し軽くなった。
聖火は小さく息を吐いた。
それは昨日と同じ、静かな呼吸だった。
だが、美月にはもう、その静けさが少し違って見えた。
不思議なもの。
分からないもの。
けれど、怖いものではない。
静かに整えられた気配。
それは、誰かを遠ざけるものではなく、誰かを安心させるためのものにもなり得るのだと、美月は思った。
その日、九校戦前の第一高校のざわめきの中で、美月の中の不安は、ほんの少しだけ静かになった。
本当は何が見えたんでしょうね?
次回からは九校戦編になります。