車列がホテルへ到着した時、第一高校の一行を包む空気は、出発時とは明らかに違っていた。
九校戦へ向かう高揚は残っている。
だが、それよりも先に、先ほどの襲撃が残した緊張があった。
観光バスから降りる選手たちは、表面上は落ち着いている。
けれど、声は少し小さい。
荷物を持つ手にも、どこか硬さが残っている。
技術スタッフ側の車両から降りた聖火は、周囲を一度だけ見回した。
ホテルの入口。
出迎えの関係者。
到着した生徒たち。
荷物を下ろすスタッフ。
観光バスから降りる選手たち。
そして、少し遅れて駆け寄ってくるメディカルスタッフらしき数名。
騒ぎが完全に収まったわけではない。
むしろ、ここからが見落としの出やすい時間だった。
聖火は鞄から名簿を取り出した。
全体名簿。
車両別名簿。
体調メモ。
それを片手に、すぐに声を上げる。
「第一高校、到着後確認をします。名前を呼ばれた人は返事をしてください。怪我、気分不良、吐き気、しびれがある人は隠さないでください」
その声に、周囲の数人が振り返った。
聖火の声は大きすぎない。
だが、不思議と通る。
命令ではない。
しかし、従うべきだと思わせる響きがあった。
真由美がわずかに目を瞬かせる。
摩利も一瞬、聖火の方を見た。
だが、二人とも止めなかった。
聖火はすでに動いていた。
怪我人がいるかもしれない時、許可を待つ癖は聖火にはなかった。
誰の担当か。
どこまでが自分の役割か。
そんな線引きは、後でいい。
まず、倒れている者がいないか。
痛みを隠している者がいないか。
恐怖で息を詰まらせている者がいないか。
それを確認する方が先だった。
「技術スタッフ車両から確認します」
聖火は車両別名簿を開く。
「あずさ先輩」
「は、はい」
「肩の痛みは強くなっていませんか?」
「少し痛いですけど、大丈夫です」
「大丈夫かどうかは後で確認します。肩を上げないでください」
「あ、はい」
聖火は名簿に印をつける。
肩部打撲。
意識清明。
歩行可能。
要確認。
次に、右手首を打ったスタッフへ向かう。
「右手首、しびれは?」
「ありません」
「握れますか。軽くでいいです」
相手が指を動かす。
「動きます」
「無理に使わないでください。腫れが出るかもしれません。後でメディカルスタッフに確認してもらいます」
「はい」
右手首打撲疑い。
しびれなし。
歩行可能。
経過観察。
次に、過呼吸気味だった生徒を見る。
「呼吸は?」
「落ち着きました」
「吐き気は?」
「少しだけ……」
「分かりました。立っているのがつらくなったら、すぐ座ってください。無理に荷物を持たないで」
気分不良。
過換気後。
軽い嘔気あり。
座位で経過観察。
あずさがその様子を、少し驚いたように見ていた。
聖火の口調が、いつもと違う。
普段の聖火は、どこか柔らかい。
軽口を挟み、相手を緊張させないようにする。
だが今は違った。
短い。
速い。
迷いがない。
必要なことだけを聞き、必要なことだけを記録している。
「選手側、確認します」
聖火は全体名簿を開き、観光バス側へ向かった。
選手たちは、真由美や摩利の指示で大きく乱れることなく降車していた。
十文字克人が近くに立ち、周囲の安全を確認している。
聖火はまず、摩利の方へ向かった。
「摩利先輩。報告にあった軽い打撲二名、気分不良一名はどなたですか」
摩利は一瞬だけ眉を上げた。
「早いな」
「時間が経つと、申告が変わることがあります」
「分かった。こっちだ」
摩利はすぐに案内した。
聖火は名簿に目を走らせながら、一人ずつ確認していく。
「痛い場所は?」
「左肘です」
「しびれは?」
「ないです」
「動かせますか。無理はしないで」
「はい」
左肘打撲疑い。
しびれなし。
歩行可能。
次の選手は右膝を軽くぶつけていた。
「歩いた時に痛みは?」
「少しあります」
「階段は避けた方がいいですね。今は荷物を持たないでください」
「え、でも……」
「荷物は後です。痛みを増やす方が問題です」
右膝打撲疑い。
歩行可。
階段注意。
荷物運搬不可。
気分不良を訴えていた選手は、顔色が少し悪かった。
聖火は正面からではなく、少し斜めの位置に立つ。
「吐き気は?」
「少し……でも、大丈夫です」
「大丈夫かどうかは後で判断します。朝食は?」
「少しだけ」
「車内で気分が悪くなったのは、揺れの直後ですか? それとも降りてから?」
「揺れた後です」
「分かりました。座れる場所に移動しましょう。温かいものより、まず水を少し。無理に飲みすぎないで」
気分不良。
軽い嘔気。
朝食少なめ。
揺れ後発症。
座位で経過観察。
真由美がその様子を少し離れた場所から見ていた。
「鷹山くん」
「はい」
聖火は名簿から顔を上げずに返事をした。
「あなた、本当に補助スタッフなのよね?」
「はい」
「今の動き、補助スタッフの範囲を少し越えていなかったかしら」
聖火は一瞬だけ考えた。
「怪我人が出た場合は、範囲外でも確認します」
真由美はわずかに目を細める。
「……そう」
その声には、いつもの軽いからかいとは違う響きがあった。
摩利も、聖火の手元の名簿を見ていた。
「鷹山」
「はい」
「助かった。報告が早い。こちらの確認も楽になる」
「怪我人は時間が経つと申告が変わることがあります。後で再確認した方がいいです」
「分かった。手配する」
摩利はそこで、少しだけ眉を上げた。
「……慣れているな」
「少しだけです」
「少し、ではないな」
聖火は返事をしなかった。
その時、ホテル側からメディカルスタッフが駆け寄ってきた。
白衣ではなく、動きやすい制服に近い服装。
胸元には救護担当であることを示す表示がある。
「負傷者は?」
先頭の男性スタッフが尋ねた。
聖火は名簿を開いたまま答える。
「重傷者なし。歩行不能者なし。意識は全員確認済みです」
その場にいた数人が、聖火の方を見た。
聖火は気づかない。
あるいは、気づいていても気にしなかった。
「軽度打撲疑いが五名。技術スタッフ側で右手首一名、肩部一名。選手側で左肘一名、右膝一名、他に軽い接触打撲が一名。しびれの訴えは今のところありません」
メディカルスタッフの男性が、一瞬だけ目を瞬かせた。
聖火は続ける。
「気分不良が二名。うち一名は車内で過換気気味でしたが、現在は落ち着いています。ただし軽い嘔気あり。もう一名は揺れの後に吐き気を訴えています。朝食少なめ、待機疲労あり。どちらも座位で経過観察が必要だと思います」
「……確認済みですか?」
「応急確認だけです。診断はしていません」
「君は医療担当?」
「第一高校の補助スタッフです」
「補助スタッフ?」
「はい」
メディカルスタッフは、ほんの少しだけ言葉に詰まった。
だが、すぐに表情を切り替える。
「分かりました。助かります。名簿を見せてもらえますか」
「こちらです。赤が打撲、青が気分不良、黄色が経過観察です。右膝の選手は階段注意。手首を打ったスタッフは荷物を持たせないでください」
「了解。先に気分不良者から見ます」
「お願いします。過換気気味だった方は、今は落ち着いていますが、外の騒ぎを見せない方がいいと思います」
「そこまで見ているんですね」
「必要そうなところだけです」
メディカルスタッフは、今度こそはっきりと聖火を見た。
「普通、必要なことが何か分からないものですよ」
聖火は一瞬だけ黙った。
それから、視線を名簿へ戻す。
「昔、少しだけ似たようなことをしていたので」
「似たようなこと?」
「人が倒れた時に、誰に何を伝えるかを覚えただけです」
メディカルスタッフはそれ以上聞かなかった。
「分かりました。引き継ぎます。あなたは?」
「自分は全体の再確認を続けます。必要なら呼んでください」
「了解しました」
そのやり取りを見ていたあずさは、ぽつりと呟いた。
「補助スタッフ……」
その声に、聖火が振り向く。
「中条先輩、肩は動かさないでくださいね」
「は、はい」
あずさは反射的に頷いた。
けれど、表情にはまだ驚きが残っている。
「あの、鷹山くん……」
「はい?」
「今の、普通にできることなんですか?」
「負傷者確認ですか?」
「いえ、その、言い方というか、報告の仕方というか……」
「必要なことを伝えただけですよ」
「それが普通にできないと思います……」
聖火は少し困ったように笑った。
「慣れない方がいいことです」
あずさは、その言葉に何も返せなかった。
そこへ、達也が近づいてきた。
「鷹山」
「何?」
「報告が早かった」
「急ぐところだからね」
「普段より口調が違った」
聖火は一瞬だけ黙った。
「そう?」
「ああ」
「……昔の癖かな」
達也はそれ以上追及しなかった。
ただ、短く言う。
「助かった」
「それなら良かった」
それだけで会話は終わった。
だが、聖火にとっては十分だった。
その直後、選手側から深雪が歩いてくる。
「聖火くん」
「深雪ちゃん。怪我はない?」
「はい。私は大丈夫です」
「よかった」
聖火は名簿の該当欄に、小さく印をつけた。
深雪は少しだけ聖火を見つめる。
「聖火くんの方こそ、大丈夫ですか?」
「俺?」
「はい。先ほど、少し雰囲気が違って見えました」
聖火は一瞬だけ言葉を止めた。
「……医療関係になると、少し切り替わるみたいだね」
「無理はなさらないでください」
「ありがとう」
深雪は静かに頷いた。
「それと、お兄様を助けてくださって、ありがとうございます」
「俺は車内を見てただけだよ。外は達也くんたちが止めた」
「それでも、必要なことだったと思います」
深雪の声は穏やかだった。
けれど、その言葉には確かな重みがあった。
聖火は少しだけ照れたように笑う。
「深雪ちゃんにそう言われると、休みにくくなるね」
「休んでください」
「そこは休ませるんだ」
「はい」
深雪は迷いなく答えた。
少し離れたところで、真由美がそれを見て微笑んでいた。
「鷹山くん」
「はい」
「あなた、本当に便利ね」
「七草先輩、それは褒めていますか?」
「もちろん」
「半分くらい警戒が混じっている気がします」
「正直ね」
真由美は楽しそうに笑ったが、その目には先ほどまでと少し違う評価があった。
単なる補助スタッフではない。
そう判断されたのだろう。
摩利も近くに立っていた。
「聖火」
「はい」
「後で、確認記録をこちらにも回してくれ。報告書に使う」
「分かりました。症状別にまとめておきます」
「本当に便利だな」
「最近よく言われます」
聖火が苦笑すると、摩利はわずかに口元を緩めた。
その時だった。
「おい、聖火!」
聞き慣れた声に、聖火は振り向いた。
レオがこちらへ駆け寄ってくる。
その後ろには、エリカと美月もいた。
聖火は一瞬、名簿から顔を上げたまま固まった。
「……なんで三人がいるの?」
レオが少し不満そうに眉を上げる。
「第一声がそれかよ」
「いや、普通に疑問なんだけど。三人とも、九校戦の選手でもスタッフでもないよね?」
エリカが肩をすくめる。
「応援よ、応援。あたしたちだって観戦くらいするわよ」
「観戦って、そんな軽い感じで現地入りできるものなの?」
「手続きはしてあるわよ。そこまで適当じゃないって」
美月が控えめに補足する。
「一般の観戦枠というか、学校関係者として同行ではなく、現地で合流する形です。私たちは正式なスタッフではありません」
「ああ、だから出発の時はいなかったんだ」
聖火は納得したように頷いた。
レオが腕を組む。
「お前、俺たちが勝手に忍び込んだと思ったのか?」
「レオくんなら勢いで来そうだなって」
「来ねえよ!」
エリカが横から笑う。
「否定が遅いわよ、レオ」
「エリカまで乗るな」
美月が小さく笑った。
そのやり取りで、張りつめていた空気がほんの少しだけ緩んだ。
「で、何かあったって聞いたぞ」
レオの表情には、いつもの明るさよりも心配が勝っていた。
聖火は名簿を閉じる。
「移動中に少しね」
「少しって顔じゃないだろ」
エリカが横から言う。
「到着早々、物騒ね」
「俺もそう思う」
「で、あんたは何してるの?」
「点呼と症状確認」
「完全に裏方の顔じゃない」
「巻き込まれた結果だよ」
美月は少し心配そうに聖火を見る。
「鷹山さん、大丈夫ですか?」
「俺は大丈夫。怪我人も重い人はいない」
「そうですか……よかったです」
美月はほっとしたように胸元へ手を当てた。
だが、すぐに少しだけ首を傾げる。
「でも、鷹山さん……少し、空気が違います」
聖火は一瞬だけ美月を見る。
美月の目は、嘘をついているようには見えなかった。
「そう?」
「はい。怖い感じではありません。ただ、いつもより少し……張りつめているような」
エリカが美月を見る。
「美月、それって大丈夫なやつ?」
「はい。嫌な感じではありません」
聖火は少し苦笑した。
「さっきまで怪我人確認してたからかな。少し切り替わってたのかも」
レオが眉を寄せる。
「怪我人確認って、お前が?」
「重い人はいなかったよ」
「そういう問題か?」
エリカが呆れたように言う。
「ほんと、便利そうな顔してるわね」
「エリカさん、それは褒めてない」
「半分くらいは褒めてるわよ」
「残り半分が怖いね」
そのやり取りに、美月が小さく笑った。
ようやく、空気が少しだけ緩んだ。
聖火は名簿を鞄にしまいかけて、すぐに思い直す。
まだ終わっていない。
メディカルスタッフへの引き継ぎは済んだ。
重傷者がいないことも確認した。
だが、時間を置いて痛みを訴える者もいる。
緊張が解けた瞬間に気分を崩す者もいる。
再確認は必要だった。
それを見た達也が、静かに言う。
「鷹山」
「何?」
「休め」
聖火は少し驚いたように達也を見た。
「達也くんからそれを言われるとは思わなかった」
「お前が倒れると仕事が増える」
「理由が達也くんらしいね」
「事実だ」
聖火は小さく笑った。
「分かった。少し休むよ」
そこで、レオがすかさず言う。
「少しって言うやつは休まないんだよな」
「レオくん、鋭い」
「お前、今さら褒めても駄目だからな」
エリカが腕を組む。
「温かいお茶でも出して、自分も飲みなさいよ」
「その予定だったけど」
「自分の分も、よ」
「はいはい」
美月が柔らかく微笑む。
「私も、少し手伝います」
「ありがとう、美月さん」
深雪も静かに言う。
「聖火くん、私もお手伝いします」
「深雪ちゃんまで?」
「はい」
聖火は達也を見た。
「達也くん、止めなくていいの?」
「深雪がそうしたいなら、俺が止める理由はない」
「相変わらず深雪ちゃんに甘いね」
「当然だ」
その即答に、聖火は笑うしかなかった。
襲撃は終わった。
だが、九校戦はまだ始まってもいない。
到着早々、第一高校の一行は、すでに見えない敵意にさらされた。
それでも、ここで足を止めるわけにはいかない。
選手には競技がある。
エンジニアには調整がある。
生徒会には運営がある。
そして聖火には、今できることがある。
怪我人を見落とさないこと。
不安を抱えた者を放っておかないこと。
必要な情報を、必要な人間へ渡すこと。
それが補助スタッフの範囲を越えているのかどうかは、今はどうでもよかった。
聖火は鞄から茶葉の包みを取り出し、小さく息を吐いた。
「じゃあ、まずは温かいのを入れようか」
その言葉に、周囲の空気が少しだけ和らいだ。
九校戦は、まだ始まっていない。
だが、第一高校の一日は、すでに大きく動き始めていた。