魔法科高校の劣等生 四葉の火の鳥   作:ペンギン豚

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皆さん、そろそろ忘れているかもしれない、あの方の登場です。


九校戦編4

部屋は静かだった。

 

達也はまだ戻っていない。

 

明日の準備があると言って、五十里のところへ向かったままだ。

 

あの男に休むという発想があるのか、聖火は時々本気で疑わしくなる。

 

もっとも、自分も人のことは言えない。

 

ベッドに腰を下ろしたまま、聖火は天井を見上げていた。

 

照明は落としてある。

 

窓の外には、九校戦の会場施設が沈黙していた。

 

昼間の熱気が嘘のように、夜の廊下も、建物の外も、どこか作り物めいて静かだった。

 

平和な夜。

 

そう言い切れれば、どれほど楽だっただろう。

 

聖火は、右手を額に乗せた。

 

九島烈の余興を壊した。

 

正確には、壊したというより強制停止させた。

 

あれが敵性術式ではなかったことは、止めた直後に分かった。

 

分かったからこそ、始末が悪い。

 

反射だった。

 

いや、違う。

 

聖火は小さく息を吐いた。

 

反射という言葉は便利だ。

 

だが、便利な言葉ほど、たいてい本当の理由を隠す。

 

あの時、聖火は警戒していた。

 

襲撃の後だった。

 

不審な事故も続いていた。

 

九校戦の華やかさの裏側に、血と火薬の匂いが混じり始めていた。

 

だから、九島烈の余興に反応した。

 

そう説明すれば、筋は通る。

 

だが、聖火自身は知っていた。

 

自分が反応したのは、それだけではない。

 

クローバー。

 

その痕跡を見た時から、聖火の中で何かが燃え残っていた。

 

消したはずの火種が、灰の下でまだ赤く光っている。

 

「……面倒だな」

 

誰に聞かせるでもなく呟いた。

 

その時だった。

 

机の上に置いていた通信端末が、唐突に鳴った。

 

通常の着信音ではない。

 

乾いた鈴のような音。

 

炎の中で、金属が冷えていく時のような音。

 

聖火は視線だけを端末へ向けた。

 

画面に番号は表示されていない。

 

代わりに、赤い紋様が浮かんでいた。

 

火の鳥の羽ばたきにも、燃え残った火種にも見える紋様。

 

聖火はしばらくそれを見つめてから、ゆっくりと身を起こした。

 

「……真夜か」

 

応答する前から、相手は分かっていた。

 

この接続を使える人間は限られている。

 

いや、正確には、これは通常の通信ではない。

 

あの赤い羽根を鍵にした、かなり無茶な接続だ。

 

現代魔法の通信技術とは別物。

 

まともな技術者が見れば、頭を抱えるか、なかったことにする類のものだった。

 

聖火は端末を手に取り、応答した。

 

「鷹山だ」

 

数秒の沈黙の後、柔らかな女の声が返ってきた。

 

『こんばんは、聖火さん』

 

丁寧で、静かで、逃げ道を塞ぐ声。

 

聖火は目を細めた。

 

「その声で丁寧に挨拶する時は、だいたい面倒事だ」

 

『否定はしません』

 

「否定しろ」

 

『嘘は好みませんので』

 

聖火は小さく息を吐いた。

 

「今度は何だ、真夜」

 

『九島閣下から、あなたについて問い合わせがありました』

 

「だろうな」

 

即答すると、端末の向こうで真夜がわずかに笑った気配がした。

 

『心当たりがあるようですね』

 

「余興を止めた」

 

『正確には、九島閣下の用意した古式風の式を、敵性術式と誤認して強制停止させた、ですね』

 

「……迷惑をかけた」

 

『珍しく素直ですね』

 

「今回は俺が悪い」

 

失敗だった。

 

九島烈の前で目立ったことも。

 

達也の近くで目立ったことも。

 

あの場で余計な線を結びかけたことも。

 

全部、失敗だった。

 

『そこまで分かっていて、なぜ動いたのですか』

 

「反射だ」

 

『便利な言葉ですこと』

 

「便利だから使った」

 

『ええ。あなたらしい』

 

真夜の声は穏やかだった。

 

だからこそ、聖火は警戒を強めた。

 

真夜が本当に怒っている時は、声を荒らげない。

 

責める時も同じだ。

 

まず逃げ道を整え、こちらが自分で足を踏み入れるのを待つ。

 

昔から変わらない、厄介な女だった。

 

『九島閣下は、あなたが達也さんと一緒にいたことを気にしていました』

 

「それも予想している」

 

『四葉家としては、鷹山聖火という少年は四葉の血縁ではなく、当家の管理下にある魔法師でもない。そう答えました』

 

「正しいな」

 

『ええ。正しいことだけを伝えました』

 

「相変わらずだな」

 

『あなたに言われる筋合いはありません』

 

聖火は苦笑した。

 

嘘は言っていない。

 

だが、すべては言っていない。

 

真夜らしい答えだった。

 

「助かった」

 

『珍しい言葉が続きますね』

 

「明日は雪かもな」

 

『季節外れです』

 

「君なら降らせられるだろう」

 

『必要なら』

 

「冗談で言ったんだが」

 

『私も冗談で返しました』

 

「嘘を吐け」

 

端末の向こうで、真夜が小さく笑った。

 

だが、次の瞬間、その声は少しだけ低くなる。

 

『聖火さん』

 

「何だ」

 

『あなたが目立つこと自体は、今さらです』

 

「ひどい言い草だな」

 

『事実です。ですが、達也さんの隣で目立つのは困ります』

 

聖火は黙った。

 

痛いところを突かれた。

 

『九島、司波達也、そしてクローバー。一本でも厄介な線が、今夜だけで複数繋がりかけました』

 

「……悪かった」

 

『謝罪は受け取ります』

 

そこで終われば、ただの確認だった。

 

しかし、真夜がこの程度で連絡してくるはずがない。

 

聖火は端末を握る指に、少しだけ力を込めた。

 

『本当に、襲撃の余波だけですか』

 

ほら来た。

 

聖火は目を閉じた。

 

数秒、返答が遅れた。

 

その沈黙だけで、真夜には十分だったはずだ。

 

「真夜」

 

『はい』

 

「君は、嫌なところを突く」

 

『二十年以上の付き合いですから』

 

「長く付き合えばいいというものでもない」

 

『少なくとも、あなたの沈黙の意味くらいは分かるようになりました』

 

聖火は答えなかった。

 

赤い紋様が浮かぶ端末の画面を見つめる。

 

火の鳥。

 

火種。

 

燃え残り。

 

どれも、今の自分にはあまり見たくないものだった。

 

『クローバーに、何かありましたか』

 

その名が出た瞬間、聖火の呼吸がわずかに止まった。

 

真夜は、それも聞き逃さなかっただろう。

 

「その名を、軽々しく口にするなよ」

 

『あなたの前だから出しました』

 

「なら、聞くな」

 

『聞かないでほしい時ほど、あなたは何かを抱えています』

 

「……今回は、まだ話せない」

 

『では、話せる時まで待ちます』

 

「君らしくないな」

 

『そうでしょうか』

 

「四葉なら、奪いに来る」

 

『あなたは、奪えば壊れるものを持っているでしょう』

 

聖火は黙った。

 

それは、ずるい言い方だった。

 

責めるでもない。

 

命じるでもない。

 

ただ、こちらが壊れかけている可能性を、静かに置いてくる。

 

真夜はそういう女だった。

 

危険で、聡くて、時々ひどく人間らしい。

 

「真夜」

 

『はい』

 

「君は時々、当主より厄介だな」

 

『私が四葉当主です』

 

「知っている。だから厄介だと言っている」

 

『褒め言葉として受け取っておきます』

 

「警告のつもりだった」

 

『なおさらです』

 

聖火は端末越しに、深く息を吐いた。

 

体を休めるつもりだったのに、余計に疲れた気がする。

 

『聖火さん』

 

「まだあるのか」

 

『あります』

 

「容赦がないな」

 

『必要なことです』

 

その言い方に、聖火は少しだけ表情を消した。

 

真夜がこう言う時は、冗談では終わらない。

 

『達也さんの近くで、不用意に動くのは控えてください』

 

「努力する」

 

『努力ではなく、約束を』

 

昔と同じ言い方だった。

 

炎の夜から変わらない問いのように。

 

聖火はしばらく黙った。

 

約束。

 

その言葉は軽くない。

 

少なくとも、聖火にとっては。

 

「……善処する」

 

『聖火さん』

 

「分かってる。逃げた」

 

『ええ』

 

聖火は小さく息を吐いた。

 

「俺の事情を、あの兄妹の前に置くつもりはない」

 

『それを聞ければ十分です』

 

「君は本当に約束が好きだな」

 

『守らせたい相手には』

 

聖火は、思わず苦笑した。

 

「相変わらず危険な女だ」

 

『哀れではなく?』

 

「ああ」

 

聖火は迷わず答えた。

 

「哀れむには、君は目が生きすぎている」

 

端末の向こうで、真夜が一瞬だけ黙った。

 

その沈黙に、聖火は余計なことを言ったかと思った。

 

だが、すぐに真夜の声が戻る。

 

『では、危険な女として忠告します』

 

「聞くだけ聞こう」

 

『九島閣下は、あなたを忘れません』

 

「だろうな」

 

『達也さんの周囲にいる異物として。そして、こちらと関係がありそうでない存在として、あなたは記憶されました』

 

「面倒だな」

 

『ええ。あなたが作った面倒です』

 

「返す言葉もない」

 

『珍しいですね』

 

「今回はそればかりだな」

 

『それだけ今回の件が珍しいということです』

 

聖火は端末を見つめた。

 

赤い紋様は、まだ消えない。

 

真夜は通信を切ろうとしていない。

 

つまり、もう一つある。

 

そう思った直後、真夜が言った。

 

『クローバーの件、必要なら呼びなさい』

 

「四葉に頼る気はない」

 

『四葉ではありません』

 

聖火は息を止めた。

 

「……真夜」

 

『はい』

 

「君個人としてか」

 

『ええ』

 

聖火はすぐには答えなかった。

 

四葉当主ではなく、四葉真夜個人。

 

その言葉の重さを、聖火は知っている。

 

あの炎の夜から、知っている。

 

「覚えておく」

 

『使わない、とは言わないのですね』

 

「正しいことだけを言った」

 

『相変わらずですこと』

 

「君ほどじゃない」

 

『あなたほどです』

 

「不毛だな」

 

『ええ』

 

聖火は小さく笑った。

 

少しだけ、胸の奥の火種が弱まった気がした。

 

それが錯覚だとしても、今はそれでよかった。

 

『では、聖火さん』

 

「何だ」

 

『また会えますか』

 

あの夜と同じ問いだった。

 

炎の中で聞いた問い。

 

二十年以上経っても、真夜の中に残っている問い。

 

聖火は迷わず答えた。

 

「ああ」

 

約束という言葉は使わない。

 

それでも、これは約束だった。

 

「また会える」

 

『では、その時まで』

 

「ああ」

 

通信が切れた。

 

端末に浮かんでいた赤い紋様が消える。

 

部屋は再び静かになった。

 

聖火は端末を机の上に置き、しばらくその画面を見つめていた。

 

九島。

 

司波達也。

 

クローバー。

 

いくつもの線が、今夜だけで繋がりかけた。

 

真夜の言う通りだった。

 

「……本当に、面倒だ」

 

今度の呟きは、先ほどより少しだけ苦かった。

 

その時、部屋の扉が静かに開いた。

 

聖火は反射的に顔を上げる。

 

入ってきたのは達也だった。

 

片手には、作業用の端末と資料の束。

 

もう片方の手には、どこで手に入れたのか、紙パックの飲み物が二つあった。

 

「まだ起きていたのか」

 

「寝ようとはしていた」

 

「そうか」

 

達也はそれだけ言うと、机の端に資料を置いた。

 

それから、持っていた紙パックの一つを聖火の方へ差し出す。

 

聖火は思わずそれを見た。

 

「……差し入れ?」

 

「ああ」

 

「達也くんが?」

 

「五十里先輩が買ったものだ」

 

「だよね。びっくりした」

 

「俺が買ったら問題があるのか」

 

「問題はないけど、達也くんが『お疲れ、これでも飲めよ』みたいな顔で差し入れを出してきたら、いよいよ俺の疲労が幻覚を見せ始めたのかと思う」

 

「そんな顔はしていない」

 

「うん。してないね。知ってた」

 

聖火は紙パックを受け取った。

 

冷たい。

 

握った指先に、少しだけ現実感が戻る。

 

達也は自分の分の飲み物を机に置き、椅子の背に上着を掛けた。

 

その動きはいつも通り無駄がない。

 

だが、作業中の張り詰めた空気は薄れていた。

 

仕事を終え、同室の相手の前に戻ってきた一人の学生。

 

少なくとも、今の達也はそう見えた。

 

「五十里先輩との作業は終わったの?」

 

「一区切りはついた」

 

「一区切り」

 

「完全に終わったわけではない」

 

「達也くんの『一区切り』って、普通の人間の『まだ半分くらい残ってる』と同じ意味だったりしない?」

 

「場合による」

 

「否定してほしかったな」

 

「嘘になる」

 

「そういうところだよ」

 

聖火は苦笑しながら、紙パックのストローを刺した。

 

少し甘い飲み物だった。

 

喉を通る冷たさに、ようやく自分が思っていた以上に喉を渇かせていたことに気づく。

 

達也は、何気ない様子で室内を見回した。

 

机の上の端末。

 

聖火の手元。

 

ほんの少しだけ残っている、通常回線とは違う熱の気配。

 

普通の人間なら気づかない。

 

だが、達也は普通ではない。

 

「誰かと話していたのか」

 

問い詰める声ではなかった。

 

ただ、気づいたから聞いた。

 

それくらいの調子だった。

 

聖火はストローから口を離し、肩をすくめる。

 

「壁に耳でもついてる?」

 

「この施設なら、可能性はゼロではない」

 

「冗談で言ったんだけど」

 

「冗談でも、確認する価値はある」

 

「やめて。今から壁を調べ始める同室者、普通に怖いから」

 

「必要ならやる」

 

「必要ない方向でお願いしたい」

 

達也は少しだけ聖火を見た。

 

表情は変わらない。

 

だが、視線は机の上の端末から聖火の顔へ移っている。

 

「通常の通信ではなかったように見える」

 

聖火は、紙パックを持つ手を一瞬だけ止めた。

 

「……そこまで分かる?」

 

「端末の表示が通常回線の終了状態ではなかった」

 

「見たの?」

 

「入ってきた時に見えた」

 

「達也くん、そういうところだよ」

 

「何がだ」

 

「普通の高校生は、友達の端末をちらっと見ただけで通信方式を疑わない」

 

「疑っただけだ。断定はしていない」

 

「断定してないからセーフ、みたいな顔をしないでほしい」

 

「そんな顔はしていない」

 

「してないね。そこは知ってる」

 

聖火は小さく息を吐いた。

 

「古い知り合いから連絡が来ただけだよ」

 

「古い知り合い」

 

「ああ。昔ちょっと世話になった……いや、世話を焼かされた相手かな」

 

「どちらだ」

 

「両方」

 

「分かりにくいな」

 

「分かりやすかったら、古い知り合いなんて言い方しないよ」

 

達也は黙った。

 

その返答だけで、これ以上聞いても簡単には答えないと判断したのだろう。

 

聖火は紙パックを軽く振った。

 

「まあ、簡単に言うと、昔のツケの取り立てだね」

 

「借金か」

 

「違う違う。金で済むなら、むしろ楽だった」

 

「なら何のツケだ」

 

「人生?」

 

「範囲が広すぎる」

 

「そういうものだよ、達也くん。人間、長く生きているといろいろあるんだ」

 

「お前は俺と同い年のはずだが」

 

「細かいところを突いてくるなあ」

 

「細かくはない」

 

「まあ、気分の問題だよ」

 

「気分で年齢は変わらない」

 

「達也くん、そういうところ本当に真面目だよね」

 

「事実だ」

 

「うん。知ってた」

 

聖火はそこで、わざとらしく紙パックに口をつけた。

 

答える気はない。

 

そう示すには、それで十分だった。

 

達也も、それ以上すぐには踏み込まなかった。

 

ただ、静かに聖火を見ている。

 

その目は、納得した目ではない。

 

けれど、今ここで無理に聞き出すつもりもない目だった。

 

やがて達也は、自分の紙パックにストローを刺しながら言った。

 

「それで、何を隠している」

 

聖火は思わず達也を見た。

 

「部屋に戻ってきて早々、その切れ味はやめてくれない?」

 

「切れ味?」

 

「質問が鋭いって意味」

 

「そうか」

 

「そこは納得するんだ」

 

「事実だろう」

 

「真面目に返されると、こっちが困るんだけど」

 

「困るのか」

 

「少しね。今のところ、俺は軽口で逃げようとしてるから」

 

「それは分かっている」

 

「分かってて聞くの、性格悪くない?」

 

「確認だ」

 

「ほら、また仕事っぽくなる」

 

「癖だ」

 

「自覚あるんだ」

 

「多少は」

 

「ならよし」

 

「よしなのか」

 

「自覚のある真面目さは、まだ扱いやすい」

 

「お前に扱われる覚えはない」

 

「こっちにも、達也くんに分析される覚えはないよ」

 

「していない」

 

「してるよ。今もたぶん、俺の返答速度とか目線とか見てる」

 

達也は少しだけ黙った。

 

聖火は紙パックを軽く持ち上げる。

 

「ほら、否定が遅い」

 

「……癖だ」

 

「二回目」

 

「何がだ」

 

「癖で済ませたのが」

 

「便利だからな」

 

「出た。便利な言葉」

 

聖火は小さく笑った。

 

達也は、表情を変えないまま紙パックに口をつける。

 

その真面目な顔が、かえっておかしかった。

 

けれど、笑いは長く続かなかった。

 

聖火は紙パックを机に置き、背もたれに身体を預けた。

 

「今は話せない」

 

「そうか」

 

達也はすぐにそう返した。

 

追及はなかった。

 

聖火は逆に少し困った。

 

「そこはもう少し聞くところじゃない?」

 

「聞けば答えるのか」

 

「答えない」

 

「なら聞かない」

 

「合理的すぎて可愛げがない」

 

「必要か?」

 

「少しは」

 

「検討しておく」

 

「絶対しないやつだ」

 

達也は否定しなかった。

 

その沈黙が答えだった。

 

「まあ、話せるようになったら話すよ」

 

「分かった」

 

「疑わないの?」

 

「疑っている」

 

「そこは変わらないんだ」

 

「友人だからな」

 

「友人だと疑うの?」

 

「友人だから、疑った上で待つ」

 

聖火は言葉を失った。

 

達也は、何か特別なことを言ったつもりはないのだろう。

 

ただ事実を述べた。

 

そんな顔をしている。

 

だからこそ、少し効いた。

 

「……本当に君は、たまにずるいね」

 

「心当たりはない」

 

「だろうね」

 

聖火は紙パックをもう一度手に取った。

 

「明日も早いんだろ」

 

「ああ」

 

「じゃあ、寝よう。これ以上起きてると、真面目な人間二人分の説教で胃が重くなる」

 

「胃薬はない」

 

「そこは冗談として受け取って」

 

「そうか」

 

「本当にそういうところだよ」

 

聖火がそう言うと、達也は照明を少し落とした。

 

部屋の明かりが、夜に溶けるように弱くなる。

 

達也はそれ以上、何も聞かなかった。

 

聖火も、それ以上は何も話さなかった。

 

ただ、先ほどより少しだけ、沈黙は軽くなっていた。

 

翌朝。

 

聖火が目を覚ました時、部屋の中はまだ薄暗かった。

 

窓の外では、九校戦会場の施設が静かに朝を迎えようとしている。

 

隣のベッドでは、達也がすでに身を起こしていた。

 

早い。

 

というより、ちゃんと眠ったのか疑わしい。

 

聖火は上体を起こし、軽く首を回した。

 

「達也くん」

 

「何だ」

 

「君、寝た?」

 

「必要な分は」

 

「その返答、寝てない人の言い方だよ」

 

「問題ない」

 

「問題ある人ほどそう言うんだよなあ」

 

達也は特に反論しなかった。

 

代わりに、手元の端末で今日の予定を確認している。

 

完全に朝から通常運転だった。

 

聖火は小さく息を吐き、枕元に置いていた自分の端末を手に取った。

 

画面を点ける。

 

通知が一件。

 

差出人は表示されていない。

 

件名もない。

 

ただ、添付ファイルが一つだけ届いていた。

 

聖火の目が、わずかに細くなる。

 

嫌な予感がした。

 

こういう時の嫌な予感は、だいたい当たる。

 

端末を操作し、メールを開く。

 

本文は短かった。

 

『必要になると思います』

 

それだけだった。

 

差出人の名はない。

 

署名もない。

 

だが、誰から送られてきたものなのか、聖火にはすぐに分かった。

 

聖火は数秒、画面を見つめた。

 

昨夜の電話で、彼女は言った。

 

話せる時まで待つ、と。

 

四葉ではなく、個人としてなら呼びなさい、と。

 

だが、待つとは言っても、何もしないとは言っていない。

 

聖火は額に手を当てた。

 

「……本当に面倒な女だな」

 

思わず、声に出ていた。

 

達也がこちらを見る。

 

「誰のことだ」

 

聖火は端末の画面を伏せた。

 

「古い知り合い」

 

「またか」

 

「うん。また」

 

「今度は何を送ってきた」

 

「親切心」

 

「そうは見えない顔をしている」

 

「親切心って、時々すごく重いんだよ」

 

達也は少しだけ間を置いた。

 

「必要なものなのか」

 

聖火は伏せた端末を見下ろした。

 

中身は、まだ開いていない。

 

だが、必要になる。

 

その確信だけはあった。

 

必要だからこそ、面倒だった。

 

「たぶんね」

 

「なら、確認しておけ」

 

「達也くん、そういうところ本当に容赦ないよね」

 

「必要なら見るべきだ」

 

「うん。正論」

 

聖火は苦笑した。

 

昨夜、いくつもの線が繋がりかけた。

 

九島。

 

司波達也。

 

クローバー。

 

そして今、その線の上に、彼女は何かを置いてきた。

 

待つと言いながら、逃げ道は塞ぐ。

 

助けると言いながら、選択をこちらに渡す。

 

昔から変わらない。

 

危険で、厄介で、そして腹立たしいほど正確な女。

 

聖火は端末をもう一度表に向けた。

 

添付ファイルの名前は、表示されていない。

 

ただ、赤い小さな紋様だけが、画面の端で静かに揺れていた。

 

「本当に、面倒な女だ」

 

今度は、さっきより少しだけ小さく呟いた。

 

それでも、削除するという選択肢はなかった。

 

聖火は画面に指を置く。

 

九校戦の朝は、まだ始まったばかりだった。

 




この二人の関係は「つかず離れず」がまさにそれだと思います。

変に恋愛方向には持っていきたくない、という思いがどこかにあります。
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