九校戦三日目。
女子バトル・ボードの競技中、七校の選手側で事故が発生し、渡辺摩利がそれに巻き込まれた。
その報せが一高の控室に届いた時、室内の空気は一瞬で変わった。
誰かが息を呑む音。
端末を握る指が止まる気配。
試合予定を確認していたエンジニアが、画面から顔を上げる。
選手たちの間に、言葉にならない動揺が広がっていく。
九校戦は、魔法師を志す学生たちの晴れ舞台だ。
勝つ者がいれば、負ける者もいる。
緊張もあれば、悔し涙もある。
だが、事故は違う。
敗北とは別の冷たさが、控室に落ちた。
聖火は、すぐに事故現場へ向かったわけではなかった。
向かえなかった、という方が正しい。
救護班はすでに動いている。
大会運営も確認に入っている。
関係者以外が不用意に現場へ近づけば、かえって邪魔になる。
それに、聖火には聖火の役割があった。
動揺している選手を落ち着かせる。
次の競技予定を確認する。
控室の空気を整える。
エンジニアたちが無理をしていないかを見る。
渡辺先輩の名が出るたびに顔を曇らせる生徒へ、温かい飲み物を渡す。
不安で手が震えている一年生には、予定表を見せながら、次に何をすればいいかを一つずつ伝える。
事故が起きたからといって、九校戦は止まらない。
止まらない以上、崩れそうな場所を支える人間が必要だった。
そして、そういう仕事の方が、聖火には向いていた。
時間は過ぎた。
競技は進み、歓声も戻った。
だが、その歓声は朝のものとは少し違って聞こえた。
どこか、薄い膜を一枚挟んだような響きだった。
夕方になると、競技場は昼間とは別の顔を見せた。
観客席の歓声は消え、スタッフの足音もまばらになっている。
午後に起きた事故の現場は、すでに片付けられていた。
七校の選手と渡辺摩利は、すでに救護班によって運ばれ、関係者の確認も一通り終わっている。
表向きには、事故。
機材不良か。
選手同士の接触か。
魔法制御の乱れか。
正式な判断はまだ出ていない。
だが、聖火はその言葉を、まだ信用していなかった。
「……静かすぎるな」
誰に聞かせるでもなく呟く。
聖火は人のいなくなった競技エリアに立ち、周囲を見回した。
機材の配置。
床の擦れ。
人が倒れたと思われる位置。
スタッフが慌てて走った動線。
すべてが片付けられている。
片付けられすぎている。
事故の後なら、もっと乱れが残る。
人の焦り。
魔法の乱れ。
場のざわつき。
そういうものが、もう少し残っていてもいいはずだった。
だが、ここにはそれが薄い。
薄すぎる。
聖火はゆっくりと息を吐いた。
事故現場というより、最初から何も起きなかった場所のように見える。
それが、気味悪かった。
聖火は袖口から、小さな札を一枚取り出した。
紙片の端に、細く墨が走っている。
現代魔法の測定器ではない。
証拠にもならない。
ただ、場の歪みを見るための道具だった。
聖火は札を床に置く。
札は一度だけ震えた。
それから、静かに回り始めた。
右へ。
左へ。
また右へ。
どこかを指そうとして、指すべき先を失ったような動きだった。
「方向がない」
聖火は眉を寄せた。
何もないのではない。
あったものが、消されている。
いや。
消されている、というより。
「馴染まされている……?」
昼間、幹比古と交わした会話が、ふと脳裏をかすめた。
精霊。
場。
気配。
人が作った術式ではなく、場そのものに寄り添うもの。
聖火は札を拾い上げた。
札の端が、わずかに焦げていた。
「精霊魔法……いや、それに近い何かか」
「何が近いのかしら?」
背後から声がした。
聖火は振り返る。
そこには、十文字克人と七草真由美が立っていた。
「七草先輩。十文字先輩」
聖火は札を指先に挟んだまま、軽く頭を下げた。
七草はいつもの柔らかな笑みを浮かべていた。
だが、目は笑っていなかった。
十文字は腕を組み、現場を一瞥する。
「ここで何をしている」
「確認です」
「公式の確認は終わっているわ」
七草が静かに言った。
「はい。だから来ました」
七草の眉が、わずかに動く。
十文字も、黙って聖火を見た。
「どういう意味かしら」
「人がいる間は、人の動きが残ります。慌てた人、怒っている人、心配している人、責任を避けたい人。そういうものが混じると、場が見にくくなるので」
「人がいなくなった後なら見えるものがある、と?」
「見えるというより、残っていないことが分かる、です」
十文字が低く言った。
「事故ではないと言いたいのか」
「そこまでは言いません」
聖火は即座に首を振った。
「証拠がありません」
「なら、何を見た」
聖火は手元の札を見る。
「方向がありませんでした」
七草が首を傾げる。
「方向?」
「普通なら、札は強い痕跡へ向きます。渡辺先輩側か、七校の選手側か、機材側か、床か、空気か。どこかには寄るはずです」
「今回は?」
「迷いました」
聖火は短く答えた。
「何もないから迷ったのではありません。指すべきものが、場に馴染まされているように見えました」
十文字の目が細くなる。
「馴染まされている?」
「はい。消された、というより、場そのものに溶かされた感じです」
七草の表情が少しだけ硬くなった。
驚いた、というよりは、考えていた可能性の一つを差し出されたような顔だった。
「……古式魔法の可能性があるということ?」
「可能性だけなら」
聖火は慎重に答えた。
「精霊魔法そのものとは言いません。ですが、現代魔法の残り方とは違います。場に残るはずのものを、場そのものへ溶かすような処理に近い」
「つまり、古式寄りの干渉」
「あるいは、それに似せた何かです」
「似せた何か?」
七草の声が少しだけ低くなった。
「本物の古式魔法とは限らない、ということかしら」
「はい。俺には断定できません」
聖火は正直に答えた。
「ただ、普通の事故として片づけるには、現場が綺麗すぎます」
十文字はしばらく沈黙していた。
その沈黙は、聖火の推測を否定するためのものではなかった。
むしろ、すでに胸中にあった疑念と照らし合わせているように見えた。
やがて、十文字は短く言う。
「証拠はない」
「はい」
「推測だな」
「はい」
「だが、無視するには不自然か」
「そう判断しました」
十文字は七草を見る。
七草も、わずかに頷いた。
その頷きは、聖火の言葉を全面的に信じたというより、事故として片づけるには早いという確認に近かった。
「分かった」
十文字は聖火へ視線を戻す。
「この件はこちらでも確認する。お前は勝手に深く踏み込むな」
「努力します」
「努力ではなく、守れ」
聖火は一瞬だけ沈黙した。
大会前、別の相手にも似たようなことを言われた記憶がよぎる。
「……はい」
七草がその間に気づいたのか、少しだけ目を細める。
「何か言いたそうね、鷹山くん」
「いえ、最近、約束を求められることが多いと思いまして」
「普段から逃げ道のある返事をしているからではないか」
十文字が淡々と言った。
聖火は少しだけ苦笑した。
「心外です」
「心外そうには見えん」
七草が小さく笑った。
「でも、そういう返事をする子ほど、本当に危ない時は勝手に動くのよね」
「七草先輩まで」
「経験則よ」
聖火は肩をすくめた。
十文字は表情を崩さないまま、低く言った。
「鷹山」
「はい」
「断定はするな。だが、見落とすな」
聖火は小さく頷いた。
「了解しました」
一高が借りている会議室は、昼間の喧騒から少し離れた場所にあった。
競技予定表。
選手の状態確認表。
CAD調整の進行記録。
事故後に差し替えられた予定。
机の上には、いくつもの端末と紙の資料が並んでいる。
扉が閉まると、外の音は一段遠くなった。
七草真由美は席に着くなり、小さく息を吐いた。
「鷹山くん、思ったより独特な見方をするわね」
十文字克人は向かいの席に座り、腕を組んだ。
「証拠にはならん」
「ええ。分かっているわ」
七草は頷いた。
「札が回ったとか、場に馴染まされているとか。公式の報告書に書ける内容ではないもの」
「なら、扱いには注意が必要だ」
「でも、無視もできない」
七草は机の上の端末へ視線を落とした。
事故に関する暫定報告。
そこには、まだ原因不明の文字が残っている。
「私たちが気にしていた点と、鷹山くんが拾った違和感は別の角度から来ている。でも、行き着く先は近いわ」
「事故として処理するには早い、か」
「ええ」
十文字はしばらく黙った。
その沈黙は、考えていない沈黙ではない。
むしろ、余計な感情を挟まずに情報を並べている沈黙だった。
「七校の選手側で事故が発生し、渡辺がそれに巻き込まれた」
十文字は低く言った。
「表向きにはそうね」
七草は端末の表示を見つめたまま答える。
「競技中の接触。制御の乱れ。機材側の不具合。どれも説明としては成立するわ」
「だが、偶然と言うには出来すぎている」
「ええ」
七草は静かに頷いた。
「七校の選手だけなら、まだ事故として見る余地はあった。けれど、巻き込まれたのが摩利だという点が引っかかる」
「渡辺は実力も判断力もある」
「そう簡単に事故へ巻き込まれる選手ではないわ」
七草の声は穏やかだった。
だが、その奥には、生徒会長としての警戒があった。
「もちろん、競技中の事故に絶対はない。どれだけ優秀な選手でも、巻き込まれる時は巻き込まれる」
「だから断定はできん」
「ええ。けれど、断定できないことと、疑わないことは違う」
十文字は端末に表示された競技映像の停止画面へ目を向けた。
七校の選手。
渡辺摩利。
水面。
競技エリア。
そして、事故の直前に生じたわずかな乱れ。
「鷹山は、残っていないことが分かると言った」
「不思議な言い方ね」
「だが、あいつは無意味なことは言わん」
七草は少しだけ目を細めた。
「ずいぶん評価しているのね」
「評価ではない。観察だ」
「そういうところ、十文字くんも司波くんに少し似ているわ」
「心外だ」
七草は、今度こそ小さく笑った。
けれど、その笑みはすぐに消えた。
「でも、彼の言葉で一つはっきりしたわ」
「何がだ」
「事故現場を見て、違和感を覚えたのは私たちだけではないということ」
七草は端末を操作し、事故報告の画面を閉じた。
「私たちは運営上の不自然さを見ている。達也くんは、おそらく技術的な違和感に気づいている。鷹山くんは、古式寄りの感覚で場の不自然さを拾った」
「三つが同じ方向を向くなら、偶然では済まん」
「問題は、まだ同じ方向を向いていると断定できないことね」
「だから備える」
十文字は短く答えた。
七草は静かに頷いた。
「ええ。騒がずに、でも見落とさずに」
しばらく、会議室に沈黙が落ちた。
外ではまだ九校戦が続いている。
誰かが勝ち、誰かが負け、歓声が上がり、拍手が起こる。
だが、この部屋の中だけは、その熱から切り離されていた。
「今、こちらから事件性を強く主張すれば、大会運営も他校も動揺するわ」
七草は言った。
「下手をすれば、一高が七校に責任を押しつけているようにも見える」
「逆に、何もしなければ次が起きる可能性もある」
「そうね」
七草の声が少しだけ低くなる。
「だから、表では事故として扱う。けれど、内側では警戒を強める」
「選手とエンジニアには、露骨にならない範囲で注意を促す」
「お願い。特にエンジニアには、いつもより一段細かく確認してもらうわ」
「CADと競技機材か」
「ええ。選手には余計な不安を与えたくない。でも、何か違和感があった時に、黙って飲み込まれたら困る」
「異常を感じたら、すぐ報告させる」
「そうね。大げさに騒がず、でも見逃さない。今はそれが一番いいと思う」
七草は一拍置いてから、少しだけ苦笑した。
「本当に、露骨にならない範囲でね」
「必要ならそうする」
「必要になる前に止めたいの」
七草の声は柔らかかった。
だが、その奥には生徒会長としての冷静な判断がある。
十文字はそれ以上反論しなかった。
代わりに、別の名を口にする。
「鷹山はどう扱う」
「難しいわね」
七草は少し考えるように、指先を机に置いた。
「あの子の見立ては証拠にならない。でも、見えているものがあるのは確かよ」
「深入りさせるべきではない」
「同感」
七草は即座に頷いた。
「けれど、止めても見てしまう子でしょうね」
「厄介だな」
「ええ。とても」
七草は困ったように笑った。
「でも、悪い子ではないわ」
「悪いかどうかの問題ではない」
「危ないかどうか?」
「そうだ」
十文字の声は低かった。
「自分の立場を理解した上で、あえて曖昧な返事をする。あれは面倒を引き受ける人間の返事だ」
七草の笑みが少しだけ消えた。
「あなたもそう見るのね」
「お前もだろう」
「ええ」
会議室に、短い沈黙が落ちた。
七草は窓の外へ目を向ける。
夕方の光が、ガラス越しに細く差し込んでいた。
「鷹山くんの言葉を、そのまま信じるわけにはいかない」
七草は静かに言った。
「けれど、彼が見たものを無視するのも危険ね」
「同感だ」
「いま、達也くんたちに確認してもらっているの」
「司波に……技術面か」
「ええ。事故の原因が魔法制御の乱れや機材不良とされるなら、そこを見るのは彼が一番向いているわ」
十文字は短く頷いた。
「ただし、司波も深入りする」
「でしょうね」
七草は苦笑した。
「今年の一年生は、どうしてこうも目を離せない子が多いのかしら」
「偶然だろう」
「本当にそう思っている?」
「思っていない」
十文字は即答した。
七草は、少しだけ呆れたように笑った。
「正直ね」
「嘘をつく理由がない」
その言葉に、七草は肩の力を少し抜いた。
けれど、すぐに表情を戻す。
「まずは選手の動揺を抑えるわ。大会が止まらない以上、こちらが崩れるわけにはいかない」
「エンジニア側の確認は、こちらでも人を回す」
「お願い。選手には必要以上に不安を広げないようにするわ」
七草は端末を閉じた。
「それと、鷹山くんには?」
「勝手に踏み込むなとは言った」
「守ると思う?」
「努力はするだろう」
「守るとは言わないのね」
「言わん」
七草は小さく笑った。
「やっぱり、厄介な子ね」
「だから見ておく必要がある」
十文字は短く言った。
それは警戒でもあり、保護でもあった。
七草はその言葉の両方を理解して、静かに頷いた。
「ええ。見落とさないようにしましょう。事故も、あの子も」
原作を崩さないようにするのが意外と難しいですね。