翌日になっても、事故の影は完全には消えなかった。
だが、九校戦は止まらない。
選手は競技に出る。
エンジニアはCADを調整する。
スタッフは予定を確認し、控室を整え、次の競技へ人を送り出す。
止まらないものを支えるために、聖火も朝から動いていた。
昨日の事故については、達也が技術面から確認を進めていると聞いている。
幹比古と美月にも、別の角度から協力を頼んだらしい。
聖火はそれ以上、深く聞かなかった。
十文字に言われた通り、踏み込みすぎるつもりはない。
少なくとも、今は。
今の聖火の仕事は、事故の裏を探ることではない。
目の前の選手が、余計な不安を抱えず競技に向かえるようにすることだった。
その目の前の選手が、北山雫だった。
新人戦、女子スピード・シューティング。
雫にとって、九校戦で自分の力を示す最初の大きな舞台の一つだった。
控室の一角で、雫は静かに座っていた。
少し離れた場所では、達也がCADの最終確認をしている。
無駄な動きはない。
必要な作業だけを、淡々と積み重ねている。
その様子を見ているだけで、達也が雫の競技に向けて、すでに必要な準備を終えつつあることは分かった。
少なくとも、雫は達也の調整を疑っていない。
ならば、聖火が技術面で口を挟む必要はなかった。
必要なのは、競技までのわずかな時間を、余計な重さから切り離すこと。
それくらいだった。
控室の空気は張っている。
だが、張り詰めすぎてはいない。
雫自身が、静かに整っているからだろう。
ただ、その静けさが、緊張ではないとは限らない。
聖火は盆を持って近づいた。
「水でいい?」
雫は顔を上げる。
「うん」
「紅茶じゃなくて?」
「競技前は、水」
「合理的だ」
「達也さんみたいなこと言う」
「今のは少し傷ついたな」
「褒めた」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんか」
雫は小さく水を受け取った。
表情はほとんど変わらない。
けれど、ほんの少しだけ肩の力が抜けたように見えた。
聖火は雫の前に小さな包みを置いた。
「これは競技後用」
雫が包みを見る。
「何?」
「小さな焼き菓子。今食べると口が乾くから、終わってから」
「気が早い」
「終わった後の楽しみがあると、戻ってくる理由になる」
雫は少しだけ首を傾げた。
「戻ってくる理由?」
「勝っても負けても、競技が終わったらここに戻ってくる。だから、その時に食べるものがあるといいかなって」
「負けても?」
「うん。勝っても負けても」
聖火は軽く笑った。
「競技が終わった後に戻る場所があるのは、悪いことじゃないと思うよ」
雫は包みを見た。
それから、ほんの少しだけ頷く。
「悪くない」
「それはよかった」
短い沈黙が落ちる。
気まずいものではなかった。
雫は水を一口飲み、聖火は近くの椅子に腰を下ろす。
遠くから、別の競技の歓声が聞こえた。
昨日の事故以来、その歓声は少しだけ遠く感じる。
だが、雫の視線は揺れていなかった。
「怖くない?」
聖火は、何気ない調子で聞いた。
雫は少しだけ考えた。
「怖くない」
「そっか」
「でも」
「うん」
「失敗は、したくない」
「それは普通」
雫は聖火を見る。
「普通?」
「うん。怖くないことと、失敗したくないことは別だから」
雫は、少しだけ目を伏せた。
その言葉を、頭の中で確かめているようだった。
「聖火くんは、緊張しない?」
「するよ」
「そう見えない」
「見えないようにしてる」
「ずるい」
「褒め言葉として受け取っておく」
「たぶん、違う」
「たぶんが多いなあ」
雫の口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑った、というには小さい。
だが、確かにさっきよりは空気が軽くなっていた。
聖火はそれ以上、競技の話を広げなかった。
勝てるか。
調子はどうか。
不安はないか。
そういう問いは、今の雫には必要ない。
雫はもう、自分の中で答えを持っている。
なら、周りが余計に揺らすべきではなかった。
その時、達也がCADを持って戻ってきた。
「雫」
「うん」
雫は立ち上がる。
達也はCADを差し出した。
「調整は終わっている」
「ありがとう、達也さん」
雫は短く礼を言い、CADを受け取った。
その動きに迷いはなかった。
聖火はそれを見て、軽く肩をすくめる。
「達也くん、邪魔しない程度に雫ちゃんを借りてたよ」
「問題ない」
「本当に?」
「調整は終わっていた」
「相変わらず説明が短いね」
「必要な説明はした」
「そういうところだよ」
達也は表情を変えなかった。
だが、否定もしなかった。
競技開始を知らせる案内が入った。
新人戦、女子スピード・シューティング。
雫はCADを確認し、静かに息を吸う。
その目は、もう控室ではなく、競技場の先を見ていた。
聖火は軽く手を上げた。
「いってらっしゃい。戻ってきたら焼き菓子ね」
雫は少しだけ振り返った。
「フルーツのパウンドケーキがいい」
「要求が具体的になった」
「だめ?」
「勝利報酬にしては控えめだから、考えておく」
「じゃあ、勝つ」
雫はそう言って、競技場へ向かった。
その背中は静かだった。
だが、迷いはなかった。
聖火はその背中を見送った。
雫は、必要以上に気負っていない。
達也の調整を疑ってもいない。
自分のやるべきことも分かっている。
なら、後は競技場で撃つだけだ。
聖火は盆を持ち直し、小さく息を吐いた。
「さて」
次に必要なのは、雫が戻ってきた時の焼き菓子。
それと、できればフルーツのパウンドケーキ。
約束を増やしてしまったことに気づき、聖火は少しだけ苦笑した。
女子新人戦、スピード・シューティング。
その結果は、一高にとって申し分のないものだった。
一位、二位、三位。
大型ディスプレイに掲示された順位表には、一高の名前が並んでいる。
戻ってきた選手たちの表情には、疲労と安堵、そして隠しきれない喜びが浮かんでいた。
九校戦では、勝利もまた仕事を増やす。
成績確認。
次競技への影響。
報告。
調整。
称賛。
そして、時には説明。
七草真由美は、選手たち一人ひとりへ声をかけていた。
「お疲れさま。とても良い内容だったわ」
その声は柔らかい。
だが、ただの労いではない。
生徒会長として、選手の成果を正しく受け止めている声だった。
「一位から三位まで独占。新人戦としては、これ以上ない結果ね」
明智英美が、まだ興奮の残る顔で笑った。
滝川和実も、疲れを滲ませながらも、どこか誇らしそうに頷いている。
その中心にいる雫は、いつも通り静かだった。
だが、目元にはわずかな達成感がある。
派手に喜ぶわけではない。
けれど、結果を軽く見ているわけでもない。
北山雫らしい勝利の受け止め方だった。
「それにしても」
市原鈴音が、手元の記録に視線を落としながら言った。
「今回使用された魔法は、かなり注目されるでしょうね」
その言葉に、空気が少し変わった。
勝利の余韻とは違う。
技術者としての成果。
魔法師としての評価。
それが、今、達也の前に差し出されようとしている。
七草が市原へ視線を向ける。
「新種魔法として扱われる可能性がある、ということ?」
「可能性はあります」
市原は静かに頷いた。
「既存の分類に収めることもできなくはありませんが、運用方法と効果の出方を考えると、問い合わせが来ても不思議ではありません」
七草は達也を見た。
「だそうよ、達也くん」
「その場合は」
達也は淡々と言った。
「問い合わせがあった時は、北山さんの名前で回答してください」
雫の目が、はっきりと動いた。
「だめ」
短い声だった。
だが、強かった。
達也が雫を見る。
「雫が実戦で使用した魔法だ」
「でも、作ったのは達也さん」
「実用性を証明したのは北山さんだ」
達也はそう言ってから、少しだけ言葉を改めるように雫を見た。
「雫が使ったから、意味がある」
「それでも、達也さんのオリジナル」
雫の声は大きくない。
怒鳴ってもいない。
だが、珍しく引く気配がなかった。
七草は二人を見比べ、少しだけ困ったように笑う。
「二人とも、少し落ち着きましょうか」
「私は落ち着いてます」
「俺もです」
「そういうところが、落ち着いていないと言っているのだけど」
七草の言葉にも、二人の表情は変わらない。
雫は達也をまっすぐ見ていた。
「私の名前で登録されたら、私が作ったことになる」
「不都合はない」
「ある」
「何が」
「私が嫌」
それは、雫にしてはかなりはっきりした言葉だった。
市原は眼鏡の奥で目を細めた。
七草がもう一度口を開きかけた時、近づく滑車の音とともに、軽い声がした。
「お取り込み中のところすみません。勝利報酬をお持ちしました」
全員の視線がそちらを向く。
聖火が配膳用ワゴンを押して立っていた。
ワゴンの上には、人数分のアイスティー。
それから、丁寧に切り分けられたパウンドケーキが並んでいる。
生地の中には、色とりどりのドライフルーツが見えた。
「約束の、フルーツのパウンドケーキです」
雫が聖火を見る。
「約束」
「うん。勝ったからね」
「一位」
「それはすごい。じゃあ、雫ちゃんは少し大きめの一切れにしよう」
「当然」
「当然なんだ」
聖火は小さく笑い、パウンドケーキの皿を雫の前に置いた。
それから、明智英美と滝川和実にも皿を差し出す。
「明智さん、滝川さんもどうぞ。一高独占記念ということで」
「わあ、ありがとうございます」
明智が明るく受け取る。
「こういう差し入れ、嬉しいですね」
滝川も少し表情を緩めて皿を受け取った。
「ありがとう。競技の後だと、甘いものがありがたいわ」
「アイスティーもあります。冷たいので、ゆっくり飲んでください」
聖火は二人にアイスティーを渡してから、七草、市原、達也にも順に配った。
「七草先輩もどうぞ。市原先輩も。達也くんも」
「ありがとう、鷹山くん」
「いただくわ」
「聖火、これは何だ」
「場を柔らかくするための糖分」
「説明になっていない」
「だいたい合ってるよ」
明智がパウンドケーキを見ながら、小さく笑った。
「でも、確かに少し柔らかくなった気がします」
「甘いものは偉大です」
聖火はそう言って、少しだけ周囲を見た。
雫はまだ納得していない顔をしている。
達也はいつも通り。
七草は、聖火がどう入ってくるかを見ている。
市原は記録を閉じずに、静かに状況を観察していた。
聖火は深く踏み込むかどうかを、一瞬だけ考えた。
そして、踏み込みすぎない方を選んだ。
「達也くんが名前を欲しがらないのは、分かるよ」
雫が聖火を見る。
聖火は続けた。
「でも、雫ちゃんが納得しないのも分かる」
達也は何も言わなかった。
七草も黙っている。
「功績って、本人がいらないと言っても、周りが勝手に重さを感じるものだからね」
「重さ?」
雫が短く聞く。
「うん。誰が作ったのか。誰が使ったのか。誰が証明したのか。そういうのは、案外きれいに一人分にはならない」
市原が少しだけ頷いた。
「その見方は、技術登録の観点からも間違いではありませんね」
「ですよね」
聖火は小さく笑った。
「だから、今すぐ決めなくてもいいんじゃないかな。少なくとも、パウンドケーキを食べる前に決める話ではないと思う」
七草が小さく笑った。
「それは、なかなか強引な仲裁ね」
「糖分不足のまま話すと、だいたい難しくなります」
「経験則?」
「はい」
七草の笑みには、少しだけ呆れが混じっていた。
雫は皿の上のパウンドケーキを見た。
それから、達也を見る。
「あとで話す」
「分かった」
達也は短く答えた。
聖火はほっとしたように、アイスティーを一つ手に取る。
「よし。じゃあ一旦、勝利のお祝いにしよう」
「聖火くん」
雫が言った。
「何?」
「大きめ」
「はいはい。一位の分ね」
聖火は小さく笑いながら、少し大きめの一切れを雫の皿に乗せた。
雫はそれを見て、ほんの少しだけ満足そうに頷いた。
ようやく、勝利後らしい空気が戻り始めた。
明智は滝川と順位表を見ながら、小さく笑っている。
市原は記録を確認しながらも、アイスティーに口をつけた。
七草は選手たちを見渡し、満足そうに目を細める。
一高の一位、二位、三位独占。
それは、文句のつけようのない成果だった。
だが、達也は大型ディスプレイに表示された順位表を、静かに見つめていた。
一高の三名が上位を占める、その下。
四位。
五位。
そこには、三高の名前が並んでいる。
一高が最高の結果を出したことは間違いない。
だが、三高もまた、確実に点を拾っている。
この先の競技を考えれば、楽観できる状況ではなかった。
聖火はアイスティーを手にしたまま、達也の隣へ寄った。
そして、周囲に聞こえない程度の小さな声で言う。
「気になるよね」
達也はすぐには答えなかった。
視線は、まだ大型ディスプレイに向いている。
やがて、独り言とも、聖火への返答とも取れる声で呟いた。
「このまま順当にいけばいいのだが」
その言葉は、勝利の明るさの中に、静かに沈んだ。
聖火は何も返さなかった。
大型ディスプレイには、一高の勝利が映っている。
だが、その下に並ぶ三高の名前が、次の戦いの重さを静かに示していた。
聖火はどこからケーキをもってきたんですかね。
次回も雫回になります。