大会六日目。
女子アイス・ピラーズ・ブレイクは、一高にとって再び大きな成果をもたらした。
一位、二位、三位。
大型ディスプレイに並んだ結果は、女子スピード・シューティングに続く、一高の上位独占だった。
だが、勝利の空気は、前回ほど単純ではなかった。
アイス・ピラーズ・ブレイクは、観客から見れば華やかな競技だ。
氷柱を砕き、守り、奪い合う。
水と氷の魔法が飛び交う様は、九校戦の中でも目を引く。
だが、実際に競技する選手の負担は軽くない。
魔法の精度。
集中力。
持久力。
そして、相手の攻撃に対応し続ける神経。
勝ち残るほどに、消耗は蓄積していく。
そのため、七草真由美のもとに関係者が集められた時、そこにあったのは単なる祝勝の空気ではなかった。
北山雫。
司波深雪。
明智英美。
エンジニアの司波達也。
そして、補助スタッフとして動いていた鷹山聖火。
七草は一同を見渡し、静かに口を開いた。
「大会側から打診がありました」
その言葉に、雫がわずかに顔を上げる。
深雪は静かに七草を見ていた。
明智は姿勢を正しているが、顔色には疲労が見える。
「現時点で、一高の一位から三位独占は確定しています。そのため、選手の負担を考慮して、このまま競技を終了してはどうか、という提案です」
その場に、短い沈黙が落ちた。
一高の勝利は決まっている。
ならば、これ以上戦う必要はない。
そう考えるのは、運営として自然だった。
特に、昨日の事故の影がまだ残っている今なら、なおさらだ。
だが、その沈黙を破ったのは、聖火だった。
「七草先輩」
「鷹山くん?」
「先に一点だけ、よろしいですか」
七草は小さく頷いた。
「どうぞ」
聖火は明智へ視線を向けた。
それから、言葉を選ぶようにして続ける。
「明智さんの体調がよろしくありません。これ以上の競技参加は控えるべきです」
明智は一瞬だけ目を伏せた。
それは驚きではなく、見抜かれていたことへの小さな苦笑に近かった。
「……はい」
明智は静かに頷いた。
「悔しいですけど、競技が続くようなら棄権しようと思っていました」
七草の表情が少しだけ柔らかくなる。
「無理をする必要はありません。ここまで十分に戦ってくれました」
「ありがとうございます」
明智は頭を下げた。
その声には悔しさがあった。
だが、同時に納得もあった。
聖火はそれ以上何も言わなかった。
明智が自分で言葉にした以上、ここで重ねる必要はない。
七草は次に、雫と深雪へ視線を向けた。
「北山さん、司波さん。あなたたちはどうしますか?」
雫はすぐには答えなかった。
だが、迷っているようには見えなかった。
短い沈黙の後、雫は静かに言った。
「こんな機会は滅多にありません」
その声は小さい。
けれど、はっきりしていた。
「私は、深雪と戦いたいです」
深雪の目が、ほんの少しだけ細められた。
微笑みというには控えめで、しかし確かに受け止めた表情だった。
七草は深雪を見る。
「司波さんは?」
深雪は優雅に一礼した。
「私も、お断りする理由はございません」
その声は穏やかだった。
けれど、そこには引く気配がない。
雫は戦いたいと言った。
深雪は断る理由はないと言った。
言い方は違う。
だが、二人の答えは同じだった。
七草は二人をしばらく見ていた。
それから、静かに頷く。
「分かりました」
七草は端末を手に取った。
「大会側には、一位決定戦のみ続行すると回答します」
その瞬間、空気が変わった。
勝利の確認ではない。
順位の整理でもない。
北山雫と司波深雪。
一高の一年生二人による、正面からの勝負。
その場にいた誰もが、それを理解した。
一位決定戦が行われることになった後、雫は競技場へ向かう前に、わずかな時間だけ控えの場所に戻っていた。
達也はすでにCADの最終確認へ入っている。
深雪もまた、別の場所で準備を進めているはずだった。
周囲は慌ただしい。
だが、雫だけは静かだった。
その静けさが、落ち着きなのか、緊張なのか。
少なくとも、聖火にはその両方に見えた。
「雫ちゃん」
聖火が声をかけると、雫は顔を上げた。
「何?」
「少しだけ」
雫は頷いた。
聖火は雫の手元にあるCADへ視線を落とした。
達也が調整したもの。
そして、もう一つ。
雫が切り札として使うことになるCAD。
聖火は、その中身を知っている。
達也が組み上げた魔法も、それを雫がどう使うかも。
だからこそ、聖火が言えることは限られていた。
技術の話ではない。
それは達也の領分だ。
聖火が伝えるべきなのは、その先にあるものだった。
「たぶん、一発目はきれいに撃てない」
雫の目が、わずかに動いた。
「どうして?」
「深雪ちゃんが相手だから」
聖火は穏やかに答えた。
「勝ちたいと思うほど、力が入る。届かせたいと思うほど、呼吸が浅くなる。相手が強ければ強いほど、最初の一撃は自分の思った形にならないことがある」
雫は黙って聞いていた。
否定はしない。
ただ、聖火の言葉をそのまま受け止めている。
「一発目で届かなくても、そこで終わりじゃないよ」
「二発目?」
「うん」
聖火は小さく頷いた。
「呼吸を戻して、もう一度撃てばいい」
「呼吸」
「何かをしようとする前に、まず息を戻す。焦ったまま撃つんじゃなくて、ちゃんと自分に戻ってから撃つ」
雫は視線を落とした。
自分の手元にあるCADを見る。
そこにあるのは、達也が用意した切り札。
けれど、それを撃つのは自分だ。
「勝てる?」
雫が短く聞いた。
聖火は少しだけ笑った。
「それは分からない」
雫が聖火を見る。
「分からない?」
「うん。深雪ちゃんは強いから」
それは、ごまかしではなかった。
むしろ、正直な言葉だった。
「でも、勝つためだけじゃなくて、自分の一撃を残すために撃つこともあると思う」
「自分の一撃」
「うん」
聖火は雫をまっすぐ見た。
「大丈夫、雫ちゃんなら、最後まで撃てるよ」
雫はしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷く。
「分かった」
「うん」
「一発目で、だめでも」
「呼吸を戻す」
「二発目を撃つ」
「そう」
雫はもう一度頷いた。
その表情は、いつも通り静かだった。
だが、さっきよりも少しだけ、目が定まっていた。
「聖火くん」
「何?」
「見てて」
聖火は軽く笑った。
「ちゃんと見てるよ」
雫はそれ以上何も言わず、競技場へ向かった。
その背中は小さい。
けれど、迷いはなかった。
観客席は、いつも以上の熱を帯びていた。
一高の一位から三位独占は、すでに確定している。
本来なら、ここで競技を終了しても不思議ではなかった。
だが、北山雫と司波深雪。
一高の一年生二人による一位決定戦が行われると知って、会場の空気は再び高まっていた。
聖火は観客席の一角に腰を下ろし、競技場を見下ろしていた。
隣には達也がいる。
達也の視線は、すでに競技場の深雪へ向いていた。
その横顔はいつも通り静かだったが、聖火には、普段よりほんの少しだけ意識が鋭くなっているように見えた。
「雫に何かアドバイスをしていたな」
達也が、競技場を見たまま言った。
聖火は少しだけ眉を上げる。
「聞いていたのかい?」
「会話内容までは聞こえなかった」
「なら、観察力が良すぎるね」
「雫の表情が変わっていた」
「表情?」
「少しだけだが」
聖火は苦笑した。
「達也くんも、そういうところはよく見てるよね」
「必要なことだ」
「深雪ちゃんだけじゃなく?」
達也は答えなかった。
その沈黙が、答えのようなものだった。
聖火は小さく笑う。
「アドバイスというほど大層なことは言ってないよ」
「では、何を言った」
「一発目で届かなくても、そこで終わりじゃないって話」
達也が、わずかに視線だけを聖火へ向けた。
「それがアドバイスではないのか」
「技術的な話はしてないよ。CADの調整も、魔法の組み立ても、達也くんの領分だからね」
「分かっているならいい」
「信用が薄いなあ」
「前例がある」
「否定しづらい」
聖火は肩をすくめた。
競技場の空気が、さらに張り詰めていく。
雫と深雪が、それぞれの位置についた。
聖火は小さく息を吐く。
「達也くんは、どっちが勝つと思う?」
「勝つ可能性が高いのは深雪だ」
即答だった。
だが、その声に雫を軽く見る響きはなかった。
聖火は少しだけ笑う。
「迷いはないんだね」
「深雪の力は知っている」
「雫ちゃんも、君が調整したCADを使う」
「ああ」
達也は競技場を見たまま頷いた。
「だから、雫にも全力を出してほしいと思っている」
聖火は少しだけ目を細めた。
「公平だね」
「エンジニアとして当然だ」
「でも、達也くんとしては?」
達也は一瞬だけ黙った。
視線の先には、深雪がいる。
「深雪に勝ってほしい」
「うん」
「だが、雫に手を抜いてほしいとは思わない」
聖火は競技場へ視線を戻した。
雫も、深雪も、静かに立っている。
「いいね」
「何がだ」
「二人とも、ちゃんと本気で戦える」
達也は答えなかった。
だが、その沈黙は否定ではなかった。
開始を告げる合図が近づいていた。
北山雫と司波深雪。
二人の一年生による一位決定戦が、始まろうとしていた。
試合開始の合図が響く。
最初に動いたのは、深雪だった。
無駄がない。
魔法の発動は美しく、そして速い。
雫の氷柱が、確実に削られていく。
雫も応じる。
守り、砕き、撃ち返す。
けれど、深雪は崩れない。
一手ごとの精度。
場を支配する冷静さ。
氷柱を守る力。
相手の選択肢を削る判断。
そのすべてが、雫より一段上にあった。
観客席の聖火は、息を詰めるように試合を見ていた。
深雪が優勢。
それは、誰の目にも明らかだった。
雫も弱くはない。
むしろ、十分以上に強い。
だが、深雪はその上を行く。
達也は隣で、静かに競技場を見つめていた。
表情は変わらない。
しかし、その視線は深雪だけではなく、雫の動きも確かに追っていた。
やがて、雫が動いた。
二つ目のCAD。
それを取り出した瞬間、会場がどよめいた。
通常なら、一つのCADだけでも精密な操作が求められる。
それを二つ。
しかも、競技の最中に切り替えるだけではない。
重ねるように扱う。
深雪の目が、わずかに見開かれた。
驚きはあった。
だが、それは一瞬だった。
雫は迷わず、二つ目のCADを起動する。
フォノンメーザー。
不可視に近い振動の刃が、深雪の氷柱へ向かって走った。
会場が沸いた。
誰もが、その一撃に目を奪われた。
だが、深雪は崩れない。
一撃は確かに通った。
けれど、届き切らなかった。
雫は、ほんの一瞬だけ唇を結んだ。
分かっていたはずだった。
一発目は、きれいに撃てないかもしれない。
それでも、実際に届かない現実は重い。
その隙を、深雪は逃さなかった。
インフェルノ。
熱が走る。
雫の氷柱が削られ、守るべき列が崩されていく。
次いで、深雪の魔法が切り替わった。
ニブルヘイム。
冷気が、場を支配した。
それは、ただ温度を下げる魔法ではなかった。
雫の感覚から、次の一手を奪うような冷たさだった。
呼吸が浅くなる。
指先が強張る。
一瞬、雫は自分が止まりかけていることに気づいた。
その時、競技前の声がよみがえる。
『たぶん、一発目はきれいに撃てない』
聖火の声だった。
『深雪ちゃんが相手だから』
『一発目で届かなくても、そこで終わりじゃないよ』
『呼吸を戻して、もう一度撃てばいい』
『勝つためだけじゃなくて、自分の一撃を残すために』
そして、最後の言葉。
『大丈夫、雫ちゃんなら、最後まで撃てるよ』
雫は、はっと現実に引き戻された。
冷気は消えていない。
深雪の圧も消えていない。
それでも、自分の呼吸が浅くなっていたことには気づけた。
雫は息を吸う。
冷たい空気が肺に入った。
一度。
もう一度。
指先の強張りが、わずかにほどける。
まだ終わっていない。
雫は二つ目のCADを握り直した。
再び、深雪の魔法が熱へ変わる。
インフェルノ。
畳みかけるような追撃。
会場の歓声が遠くなる。
だが、雫の視線はもう逃げていなかった。
フォノンメーザー。
二射目が、放たれた。
今度の一撃は、一射目よりも澄んでいた。
音にならない衝撃が、深雪の氷柱へ走る。
二本。
一列。
深雪の氷柱が、音を立てて砕けた。
会場がさらに大きく沸いた。
深雪の目が、わずかに見開かれる。
二射目。
しかも、一射目よりも整った一撃。
砕けた氷柱を見て、深雪はほんのわずかに表情を和らげた。
だが、勝敗は揺るがない。
深雪は最後まで姿勢を崩さなかった。
残された氷柱の数は、深雪が上。
試合終了を告げる合図が響いた。
勝者、司波深雪。
歓声が、会場を包む。
雫は、静かに息を吐いた。
負けた。
それは動かない事実だった。
けれど、最後の一撃は届いた。
その事実だけは、確かに残っていた。
観客席で、聖火は小さく息を吐いた。
勝敗は変わらなかった。
深雪は強かった。
そして雫も、最後まで撃った。
それでよかった。
聖火は、雫に深雪へ勝ってほしかったわけではない。
勝敗だけを見れば、深雪が優勢だと分かっていた。
それでも、雫には最後まで撃ってほしかった。
友人として隣にいるだけではなく。
いつか、深雪が本気で渡り合える相手になるために。
その一撃だけは、残してほしいと思っていた。
隣で達也が、静かに言った。
「あれが結果か」
「そうみたい」
聖火は悪気のない笑みで、達也を見る。
達也はしばらく競技場を見つめていた。
「深雪が一瞬だが、焦っていた」
「なら、上々だね」
聖火はそう答えて、競技場へ視線を戻した。
深雪は勝った。
雫は負けた。
だが、最後の一撃は届いた。
その事実だけは、誰にも消せない。
ここは原作と大きく変えたかったシーンです。
深雪が雫に圧勝するのは、原作でのだいご味であり。
SSは、雫が最後の抵抗を見せることがだいご味だと思っております。