魔法科高校の劣等生 四葉の火の鳥   作:ペンギン豚

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今回は聖火の兵士としての一面をお見せする形になります。



九校戦編12

# クローバー

 

ミラージ・バットの会場は、歓声に包まれていた。

 

司波深雪が空を舞っている。

 

それは、競技という枠を超えた光景だった。

 

飛行魔法。

 

これまで実用段階にはないとされてきた魔法。

 

それを一高の一年生が、九校戦という大舞台で見せている。

 

観客は沸いた。

 

一高の関係者は息を呑み、他校の選手たちは驚愕し、大会関係者ですら言葉を失っていた。

 

その瞬間、九校戦の流れは決定的に一高へ傾いた。

 

一高の優勝が、現実味を帯びる。

 

そして、それを喜ばない者たちがいた。

 

会場の熱気とは別の場所。

 

観客席から離れた管理区域の一角で、ノーヘッド・ドラゴンの関係者は焦りを隠せずにいた。

 

予定が崩れている。

 

事故は起こした。

 

妨害も仕掛けた。

 

電子金蚕も持ち込んだ。

 

それでも、一高は止まらない。

 

このままでは、賭けの損失は膨らむ。

 

取り返しがつかなくなる。

 

だから、最後の手を切ろうとした。

 

会場に待機させていたジェネレーターを起動させる。

 

混乱を起こす。

 

競技を中止に追い込む。

 

観客と選手を巻き込む大量殺戮。

 

それが、彼らに残された選択だった。

 

だが、その手は届かなかった。

 

ジェネレーターが動き出すより早く、影が動いた。

 

観客でも、大会委員でもない。

 

存在を悟らせず、気配を消し、会場の裏側に潜んでいた者たち。

 

独立魔装大隊。

 

その中でも、第一〇一魔法大隊に属する者たちが、誰にも気づかれないまま、ノーヘッド・ドラゴンの実行役を押さえ込んでいた。

 

声は上がらない。

 

騒ぎも起きない。

 

観客席は、深雪の飛行魔法に沸いたままだ。

 

その裏で、会場を襲うはずだった火種は、ひそかに消されていた。

 

その様子を、少し離れた場所から見ている者がいた。

 

鷹山聖火。

 

壁際に身を寄せ、聖火は何も言わずに一連の動きを見届けていた。

 

彼は手を出さなかった。

 

出す必要がなかった。

 

会場の安全は、すでに別の者たちが守っている。

 

ならば、自分がここで動く意味はない。

 

聖火は、取り押さえられた実行役たちへ視線を向ける。

 

末端だ。

 

命令を受け、用意された手順を実行しようとしただけの駒。

 

ここを潰しても、根は残る。

 

聖火は静かに息を吐いた。

 

深雪の飛行魔法に、会場はまだ沸いている。

 

表では、一高の勝利が近づいている。

 

裏では、敵の最後の仕掛けが潰された。

 

ならば、次に潰すべきものは決まっている。

 

聖火は端末を取り出した。

 

画面には、海外の友人から送られてきた地図が表示されている。

 

ノーヘッド・ドラゴン日本支部。

 

横浜市内にある、何の変哲もないビル。

 

表向きは小さな貿易会社。

 

だが、その奥には、九校戦を賭けの盤面にし、生徒を傷つけ、電子金蚕まで持ち込んだ連中がいる。

 

聖火は画面を見下ろし、目を細めた。

 

「会場は任せてよさそうだね」

 

誰に聞かせるでもなく、そう呟く。

 

聖火がその場を離れても、誰も不思議には思わなかった。

 

一高の生徒たちは、深雪の飛行魔法と勝利の行方に意識を奪われている。

 

大会関係者は、競技の進行と会場の熱気に追われている。

 

各校の視線も、空を舞う選手へ向けられていた。

 

だから、鷹山聖火がいつそこから消えたのか、誰も覚えていない。

 

最初からそこにいなかったように。

 

あるいは、いても気に留める必要のない誰かだったように。

 

ただ一人、壁際に残った空気だけが、ほんのわずかに揺れていた。

 

 

 

 

 

 

その夜。

 

横浜の街には、湿った風が吹いていた。

 

昼間の熱気は嘘のように引き、海から流れ込む夜気が、ビルの谷間を静かに抜けていく。

 

街灯が濡れた路面を照らしている。

 

人通りは少ない。

 

表通りの明かりから少し外れた場所に、そのビルはあった。

 

特別高いわけではない。

 

目立つ看板があるわけでもない。

 

昼間なら、誰も気に留めずに通り過ぎるだろう。

 

だが、その上階には、まだ灯りが残っていた。

 

ノーヘッド・ドラゴン日本支部。

 

九校戦の裏で金を動かし、生徒を盤上の駒として扱った者たちの巣。

 

そのビルを、黒い影が見上げていた。

 

黒いスーツ。

 

黒い手袋。

 

夜に溶けるような色。

 

顔を隠しているわけではない。

 

仮面もない。

 

だが、もし誰かがその姿を見たとしても、後から正確に思い出すことはできなかった。

 

男だったのか。

 

女だったのか。

 

大人だったのか。

 

子供だったのか。

 

背が高かったのか。

 

低かったのか。

 

見ていたはずなのに、記憶に輪郭が残らない。

 

分かるのは、ただ一つ。

 

そこに、黒い何かがいた。

 

聖火はビルの入口へ歩き出した。

 

足音はほとんどない。

 

表情は変わらない。

 

怒りはある。

 

だが、燃え上がってはいない。

 

熱を失い、刃の形になっている。

 

鷹山聖火は、人の命を軽んじているわけではない。

 

だからこそ、生徒に手を出した者を許さない。

 

守るべきものを踏みにじった相手を、同じ人間として扱うほど、彼の人生は穏やかではなかった。

 

普段のお茶らけた声。

 

人を気遣う笑み。

 

紅茶を淹れ、菓子を配り、誰かの緊張をほぐす手。

 

それらも、確かに彼の姿だった。

 

だが、これもまた、彼の姿だった。

 

戦になれば、人が変わる。

 

いや、変わるのではない。

 

そうならなければ生き残れなかった時間が、彼の中にある。

 

今夜、ここにいるのは一高の補助スタッフではない。

 

鷹山家の少年でもない。

 

誰かの友人でも、後輩でもない。

 

裏社会が、結果だけで知る名。

 

クローバー。

 

彼は入口の前で一度だけ立ち止まった。

 

端末に表示された地図を閉じる。

 

必要な情報は、もう頭の中にある。

 

聖火は小さく息を吐いた。

 

「生徒に手を出した代金は、高くつくよ」

 

次の瞬間、黒い影はビルの中へ消えた。

 

一階の受付には灯りが落ちている。

 

表向きは、すでに営業を終えた小さな貿易会社。

 

だが、奥には人の気配があった。

 

一人や二人ではない。

 

夜のビルに残るには、多すぎる数だった。

 

最初に気づいた男は、監視室の画面を見ていた。

 

廊下を歩く黒い服の人物。

 

それだけは分かる。

 

だが、顔が分からない。

 

画面が荒れているわけではない。

 

照明も切れていない。

 

映像は鮮明なはずだった。

 

それなのに、輪郭が定まらない。

 

男なのか、女なのか。

 

大人なのか、子供なのか。

 

背が高いのか、低いのか。

 

分からない。

 

黒い服を着ている。

 

それだけしか、認識できなかった。

 

「誰だ」

 

男は無線へ手を伸ばした。

 

その時には、もう監視室の扉が開いていた。

 

黒い影が入ってくる。

 

男は叫ぼうとした。

 

だが、声より先に銃声が鳴った。

 

乾いた音。

 

男の身体が椅子ごと崩れる。

 

床に、空薬莢が一つ転がった。

 

それが始まりだった。

 

廊下の奥で怒号が上がる。

 

「侵入者だ!」

 

銃を持った男たちが飛び出してくる。

 

彼らはためらわなかった。

 

この場所に入り込んだ者が、警察であるはずがない。

 

大会委員会の人間でもない。

 

敵だ。

 

そう判断するには十分だった。

 

銃口が黒い影へ向けられる。

 

火花が散った。

 

壁が削れる。

 

ガラスが割れる。

 

床に弾痕が走る。

 

だが、黒い影には当たらない。

 

敵は撃っていた。

 

確かに撃っていた。

 

狙いも、ひどくはない。

 

場慣れしている者たちの動きだった。

 

だが、当たらない。

 

狙いが外れているのではない。

 

狙うべき輪郭が、最後まで定まらないのだ。

 

そこにいる。

 

そう思った瞬間には、半歩ずれている。

 

遠いと思った時には、すでに近い。

 

近いと思えば、照明の影の中に沈んでいる。

 

撃った場所には、黒い布の残像だけが残る。

 

いや。

 

本当に残像だったのかも分からない。

 

黒い影の手元が跳ねた。

 

銃声。

 

一人が倒れる。

 

もう一度。

 

別の男が倒れる。

 

三人目が撃ち返す。

 

だが、その弾は黒い影の肩口を抜けたはずだった。

 

いや、抜けていない。

 

そもそも、そこに肩があったのかも分からない。

 

男が理解する前に、胸元へ衝撃が走る。

 

床に倒れた時、彼が最後に見たのは、黒い革靴の先だった。

 

黒い影は止まらない。

 

銃声は多くない。

 

一人に一発。

 

必要なら二発。

 

それ以上は使わない。

 

だから、床に残る空薬莢の数は、倒れた人数より少し多いだけだった。

 

階段へ向かう通路で、別の男が扉の陰から飛び出した。

 

散弾銃。

 

狭い通路なら、避けようがない。

 

男はそう考えた。

 

引き金を引く。

 

轟音が通路を満たした。

 

壁紙が裂け、照明が砕け、天井から破片が降る。

 

だが、黒い影は倒れていなかった。

 

男は目を見開く。

 

確かに撃った。

 

確かに、そこにいた。

 

なのに、いない。

 

次の瞬間、黒い影は男の懐にいた。

 

銃声は一つ。

 

男は後ろへ崩れた。

 

黒い影は、倒れた男を見下ろさなかった。

 

確認する必要がない。

 

撃った。

 

倒れた。

 

なら、それで終わりだ。

 

怒りはあった。

 

だが、その怒りは声にならない。

 

熱ではなく、判断になっていた。

 

聖火は、敵に対して容赦しない。

 

人の命を重んじることと、敵を許すことは同じではない。

 

守るべきものに手を出した時点で、彼らは聖火の中で別のものになっていた。

 

排除すべき脅威。

 

それ以上でも、それ以下でもない。

 

踊り場で待ち伏せていた男が、震える手で銃を構えた。

 

銃声が狭い空間に反響する。

 

だが、黒い影は倒れない。

 

壁に弾痕が増えるだけだった。

 

「なんで当たらねえ……!」

 

男が叫ぶ。

 

返事はない。

 

黒い影が一歩近づく。

 

男はようやく気づいた。

 

当たらないのではない。

 

撃つ瞬間、自分は別の場所を撃たされている。

 

見ているはずの相手と、狙っている場所がずれている。

 

目の前にいるのに、目が信じられない。

 

次の瞬間、銃声が一つ。

 

男は階段に崩れ落ちた。

 

黒い影は、その横を通り過ぎる。

 

足音は静かだった。

 

まるで、最初からそこに戦闘などなかったように。

 

三階。

 

そこから先は、空気が変わった。

 

ただの構成員ではない。

 

支部の中枢に近い。

 

廊下には防弾扉。

 

監視カメラ。

 

銃を構えた男たち。

 

だが、黒い影は止まらなかった。

 

扉の陰から撃たれる。

 

横合いから撃たれる。

 

背後からも撃たれる。

 

それでも、弾は届かない。

 

ある弾は壁へ。

 

ある弾は床へ。

 

ある弾は、味方のすぐ横を掠めた。

 

敵たちは焦り始める。

 

見えているのに、当たらない。

 

当たらないのに、相手の弾だけは正確に届く。

 

その事実が、彼らの判断を削っていった。

 

「囲め!」

 

誰かが叫んだ。

 

左右から男たちが動く。

 

挟み撃ち。

 

逃げ場はない。

 

そう思った瞬間、天井の照明が砕けた。

 

暗闇が落ちる。

 

銃声。

 

一つ。

 

二つ。

 

三つ。

 

短い火花が、暗闇の中で瞬いた。

 

次に非常灯が淡く廊下を照らした時、立っているのは黒い影だけだった。

 

足元には、男たちが倒れている。

 

床には、空薬莢が転がっている。

 

血の匂い。

 

硝煙の匂い。

 

割れた照明から落ちる白い粉。

 

それだけが、そこに戦闘があったことを示していた。

 

クローバーは過程を残さない。

 

誰が来たのか。

 

何をしたのか。

 

どこを通ったのか。

 

それを正確に語れる者は残らない。

 

残るのは結果だけ。

 

倒れた構成員。

 

奪われた情報。

 

そして、床に散った空薬莢。

 

奥の扉の前で、黒い影は足を止めた。

 

そこだけ、空気が違っていた。

 

それまでの構成員たちとは違う。

 

殺気が薄い。

 

恐怖も薄い。

 

人間らしいためらいも、ほとんどない。

 

扉の向こうにいるものは、命令を受けて動く兵隊ではない。

 

使い潰されるために置かれた駒だった。

 

黒い影は、扉を開けた。

 

部屋の中には、四つの影が立っていた。

 

人間の形はしている。

 

だが、人間らしい目ではなかった。

 

ジェネレーター。

 

ノーヘッド・ドラゴンが用意していた、戦闘用の道具。

 

その奥に、身なりの良い男がいた。

 

幹部。

 

この支部で命令を出していた男だ。

 

幹部は黒い影を見て、顔を引きつらせた。

 

「やれ」

 

その一言で、四体が動いた。

 

速い。

 

普通の人間なら、反応する前に潰される速度だった。

 

一体目が正面から踏み込んでくる。

 

黒い影は半歩だけ横へずれた。

 

拳が空を切る。

 

同時に、黒い影の膝が相手の腹へ入った。

 

体勢が崩れる。

 

黒い手が相手の首元を掴み、床へ叩きつけた。

 

鈍い音。

 

その動きに感情はなかった。

 

二体目が横から迫る。

 

黒い影は背中側から短く銃器を引き抜いた。

 

ショットガン。

 

銃身は短い。

 

近距離で使うには十分だった。

 

轟音が部屋を震わせる。

 

二体目の身体が後ろへ弾かれる。

 

だが、黒い影は確認しない。

 

倒れた。

 

なら、それで終わりだ。

 

三体目が、倒れた仲間を踏み越えてくる。

 

恐怖がない。

 

痛みを見ても止まらない。

 

だから、処理する。

 

黒い影はショットガンを片手で戻し、踏み込んできた三体目の腕を取った。

 

関節を外す。

 

勢いを殺さず、身体を反転させる。

 

三体目の頭部が壁に叩きつけられた。

 

壁材が割れる。

 

その直後、至近距離で銃声が響く。

 

三体目が崩れ落ちた。

 

四体目は、そこで初めて動きを止めた。

 

命令と現実の間に、わずかな空白が生まれた。

 

その一瞬で十分だった。

 

黒い影は距離を詰める。

 

四体目が腕を振るう。

 

黒い影の顔を狙ったはずだった。

 

だが、そこに顔はない。

 

いや、顔があるはずなのに、狙えない。

 

大人なのか。

 

子供なのか。

 

男なのか。

 

女なのか。

 

目の前にいるはずの相手の輪郭が、最後まで定まらない。

 

四体目の拳は、黒い影の横を通り過ぎた。

 

次の瞬間、黒い影の肘が喉元へ入る。

 

呼吸が止まる。

 

膝が折れる。

 

黒い影はその肩を掴み、床へ倒した。

 

ショットガンの銃口が下を向く。

 

轟音。

 

四体目も動かなくなった。

 

幹部の顔から、完全に血の気が引いた。

 

四体。

 

最後の護衛として置いていたジェネレーター。

 

それが、時間を稼ぐことすらできなかった。

 

黒い影はゆっくりと幹部へ向き直る。

 

ショットガンの銃口から、まだ薄い煙が上がっていた。

 

床には、倒れた四体。

 

部屋には、硝煙の匂い。

 

そして、幹部だけが残っていた。

 

幹部は後ずさった。

 

「来るな……来るな!」

 

彼は銃を抜いた。

 

両手で構え、目の前の黒い影へ向ける。

 

震える指が、引き金を絞った。

 

銃声が部屋に跳ねる。

 

一発目は、黒い影の肩を狙った。

 

二発目は、胸を狙った。

 

三発目は、もはや狙いなどなかった。

 

弾丸は壁を抉り、机の上の書類を散らし、窓ガラスに白い亀裂を走らせる。

 

幹部は弾倉が空になるまで撃ち続けた。

 

やがて、乾いた空撃ちの音だけが残る。

 

それでも、黒い影は止まらない。

 

幹部は、震える手で後ろへ下がる。

 

その目は確かに相手を見ている。

 

だが、理解できない。

 

目の前にいる。

 

なのに、顔が分からない。

 

声も聞こえるはずなのに、年齢が分からない。

 

大人なのか。

 

子供なのか。

 

男なのか。

 

女なのか。

 

何一つ、頭に残らない。

 

黒い影は、幹部の前で止まった。

 

幹部の周囲には、もう動く者はいない。

 

扉の向こうでは、機械の低い音だけが続いていた。

 

幹部は床に尻もちをつき、浅い呼吸を繰り返している。

 

「何が目的だ……」

 

声が震えていた。

 

「金か。情報か。誰に雇われた」

 

黒い影は答えない。

 

幹部は必死に相手の顔を見ようとした。

 

だが、見えない。

 

目の前にいるはずなのに、そこだけ記憶に穴が開いていく。

 

幹部はようやく理解した。

 

自分は、この相手を見てはいけないのだ。

 

見ても、残らない。

 

残せない。

 

「何者なんだ……」

 

その問いに、黒い影はほんのわずかに首を傾けた。

 

答えはなかった。

 

代わりに、黒い手袋をした手が伸びる。

 

幹部は反射的に身を引こうとした。

 

だが、もう逃げ場はない。

 

黒い手が、幹部の額に触れた。

 

「やめ――」

 

言葉は最後まで続かなかった。

 

幹部の身体が、びくりと震える。

 

痛みではなかった。

 

いや、痛みという言葉では足りなかった。

 

何かが、頭の奥へ入ってくる。

 

そう感じた。

 

刃でもない。

 

針でもない。

 

熱でもない。

 

それなのに、自分の内側にあるものが、強引に暴かれていく。

 

記憶。

 

名前。

 

場所。

 

金の流れ。

 

誰から命令を受けたのか。

 

誰へ報告したのか。

 

どの端末を使ったのか。

 

どの口座を経由したのか。

 

どこに電子金蚕を隠したのか。

 

隠していたはずのものが、一つずつ引きずり出されていく。

 

「ぐ、あ……」

 

幹部は呻いた。

 

喉の奥から、潰れたような声が漏れる。

 

逃げようとした。

 

だが、身体が動かない。

 

目の前にいる黒い影は、ただ手を置いているだけだった。

 

それだけ。

 

それだけのはずだった。

 

なのに、幹部は自分の頭の中を、知らない手でかき回されているような感覚に襲われていた。

 

思い出したくない記憶が浮かび上がる。

 

忘れたはずの会話が蘇る。

 

消したはずの記録が、形を取り戻す。

 

脳裏に映像が走る。

 

薄暗い部屋。

 

煙草の匂い。

 

香港からの通信。

 

日本支部の金庫。

 

数字の並んだ帳簿。

 

九校戦のレート表。

 

電子金蚕を受け渡した男の顔。

 

そして、次に動かすはずだった計画。

 

幹部の目が見開かれる。

 

「やめろ……見るな……見るな!」

 

声はかすれていた。

 

黒い影は答えない。

 

問いかける必要がなかった。

 

脅す必要もない。

 

懇願を聞く必要もない。

 

尋問ではない。

 

交渉でもない。

 

必要なものを、ただ取り出しているだけだった。

 

幹部は床に爪を立てた。

 

指先が震え、靴底が床をこする。

 

身体が跳ねる。

 

呼吸が乱れる。

 

意識が何度も途切れかけ、そのたびに無理やり引き戻される。

 

見られている。

 

奪われている。

 

自分の中にあるはずのものが、自分のものではなくなっていく。

 

その恐怖だけが、幹部の意識を支配した。

 

黒い影の声が、ようやく落ちた。

 

「聞く必要はない」

 

静かな声だった。

 

年齢も、性別も分からない。

 

だが、その声だけは冷たかった。

 

「見ればいい」

 

その瞬間、幹部の身体が大きく跳ねた。

 

声にならない叫びが、喉の奥で潰れる。

 

頭の中に、最後の記憶が引きずり出される。

 

隠し口座。

 

通信記録。

 

日本支部の上位連絡先。

 

九校戦会場に送り込んだ人間の名簿。

 

ジェネレーターによる大量殺戮計画。

 

電子金蚕の搬入経路。

 

そして、ノーヘッド・ドラゴンのボスの表の名と、裏の名。

 

それらが、まとめて抜き取られていく。

 

幹部の目から焦点が消えた。

 

黒い手が額から離れる。

 

直後、幹部の身体が糸の切れた人形のように崩れ落ちた。

 

気絶していた。

 

死んではいない。

 

少なくとも、まだ。

 

黒い影は、倒れた幹部を見下ろした。

 

そこに同情はなかった。

 

怒りもなかった。

 

必要なものは得た。

 

ならば、それで終わりだった。

 

床には構成員たちが倒れている。

 

銃器が散らばり、割れた照明が床を白く汚している。

 

焦げた硝煙の匂い。

 

血の匂い。

 

そして、空薬莢。

 

それだけが残っていた。

 

黒い影は、幹部の机へ向かった。

 

引き出しを開ける。

 

隠し端末を取り出す。

 

壁際の金庫へ手を伸ばす。

 

解錠に時間はかからなかった。

 

中にあった記録媒体を回収する。

 

帳簿。

 

通信キー。

 

小型の記録装置。

 

それらを黒い鞄へ収めていく。

 

動きに迷いはない。

 

すでに、どこに何があるか分かっている。

 

先ほど抜き取った記憶が、地図のように頭の中へ広がっていた。

 

部屋の奥で、まだ意識のあった男がわずかに身じろぎした。

 

黒い影は振り向かない。

 

銃声が一つ。

 

男は動かなくなった。

 

そして、また空薬莢が床に落ちる。

 

クローバーは過程を残さない。

 

誰が来たのか。

 

どこから入ったのか。

 

誰を撃ったのか。

 

何を奪ったのか。

 

それを正確に語れる者は残らない。

 

残るのは結果だけ。

 

沈黙した支部。

 

倒れた構成員。

 

奪われた情報。

 

そして、床に散った空薬莢。

 

黒い影は窓際へ歩いた。

 

横浜の夜景が、ガラス越しに広がっている。

 

遠くには、まだ九校戦会場の明かりが見えた。

 

あちらには歓声がある。

 

拍手がある。

 

勝者を称える声がある。

 

こちらには何もない。

 

声もない。

 

拍手もない。

 

ただ、終わった結果だけがある。

 

聖火は窓に映る自分を見た。

 

黒い服。

 

黒い手袋。

 

輪郭の定まらない影。

 

そこに映っているのは、一高の補助スタッフではなかった。

 

紅茶を淹れる後輩でもない。

 

雫にパウンドケーキを約束する少年でもない。

 

戦場で生き残るために作られた、もう一つの顔。

 

その顔を、聖火は否定しなかった。

 

優しさも本物だ。

 

人を守りたいと思う気持ちも本物だ。

 

だが、敵を排除する冷たさもまた、本物だった。

 

それが、彼が歩かされた人生だった。

 

聖火は視線を外し、端末を取り出した。

 

抜き取った情報の一部を暗号化する。

 

送り先は一つではない。

 

必要な者に、必要な分だけ。

 

全てを渡すつもりはない。

 

全てを抱えるつもりもない。

 

情報は刃だ。

 

渡す相手を間違えれば、守るべきものを傷つける。

 

送信を終えると、聖火は端末をしまった。

 

廊下の奥で、非常灯が赤く瞬いている。

 

警報は鳴っていない。

 

鳴らす者が、もういない。

 

黒い影は扉へ向かった。

 

その背後に、ノーヘッド・ドラゴン日本支部だった場所が残る。

 

組織としての機能は、もう失われていた。

 

支部の連絡網。

 

資金管理。

 

逃走経路。

 

九校戦への介入手段。

 

その全ては、今夜ここで断たれた。

 

最後に、聖火は倒れた幹部へ視線だけを向けた。

 

「生徒に手を出した代金だ」

 

声は静かだった。

 

「高くついただろう」

 

返事はない。

 

幹部は床の上で意識を失っている。

 

生きてはいる。

 

だが、目を覚ました時、自分が何を失ったのか理解することになる。

 

記憶。

 

情報。

 

組織。

 

そして、恐怖。

 

クローバーという名が、彼の中に残るかは分からない。

 

おそらく、顔は思い出せない。

 

声も、背丈も、性別も、年齢も。

 

何一つ、正確には残らない。

 

だが、結果だけは残る。

 

それで十分だった。

 

黒い影は部屋を出た。

 

来た時と同じように、足音はほとんどない。

 

廊下を抜ける。

 

階段を降りる。

 

倒れた構成員たちの間を、何もなかったように通り過ぎる。

 

誰も止めない。

 

誰も追わない。

 

追える者は、もう残っていない。

 

ビルの外へ出ると、横浜の夜風が頬を撫でた。

 

聖火は一度だけ空を見上げる。

 

九校戦会場の方角から、遠く歓声の残響が聞こえた気がした。

 

一高は勝った。

 

会場は守られた。

 

そして、裏の根も一つ潰した。

 

それでも、これで終わりではない。

 

ノーヘッド・ドラゴンは、日本支部だけで終わる組織ではない。

 

今夜奪った情報が、次の戦いの始まりになる。

 

聖火は黒い手袋を外し、内ポケットへしまった。

 

次に歩き出した時、その姿はもう、夜の闇に紛れていた。

 

誰かがそのビルの異変に気づくのは、もう少し後のことになる。

 

その時、彼らが見つけるものは決まっていた。

 

倒れた構成員。

 

空になった金庫。

 

消えた記録。

 

そして、床に散った空薬莢。

 

クローバーは、結果しか残さない。

 

 

 

 

 

 

 

同じ頃。

 

司波達也は、地下駐車場へ向かっていた。

 

ノーヘッド・ドラゴン。

 

九校戦を裏から食い物にし、事故を引き起こし、電子金蚕まで持ち込んだ相手。

 

さらに、会場に待機させていたジェネレーターを起動させ、観客と選手を巻き込む大量殺戮すら企てていた組織。

 

放置できる相手ではない。

 

すでに情報は揃いつつある。

 

あとは、動くだけだった。

 

その時、端末が短く震えた。

 

メールの着信。

 

達也は一瞬だけ足を止め、画面を見る。

 

差出人不明。

 

件名なし。

 

だが、添付されたアイコンだけはあった。

 

赤い羽根を背負った、クローバーのマーク。

 

達也の目が、わずかに細くなる。

 

本文は短かった。

 

ノーヘッド・ドラゴン日本支部。

 

その所在地。

 

ノーヘッド・ドラゴンのボスの表の名前。

 

裏で使われていた名前。

 

組織内での肩書き。

 

構成員の配置。

 

資金の流れ。

 

連絡網。

 

ジェネレーターの搬入経路。

 

九校戦会場へ送り込まれた実行役の名簿。

 

電子金蚕の搬入経路。

 

九校戦の賭博に関する帳簿。

 

隠し口座。

 

通信履歴。

 

そして、香港側へ繋がる連絡先。

 

そこには、今の達也たちが必要としている情報が、過不足なく揃っていた。

 

誰を追うべきか。

 

どこを押さえるべきか。

 

何を証拠として使えるか。

 

どの情報が、ノーヘッド・ドラゴンの上層へ繋がるのか。

 

そのすべてが、整理された形で添付されていた。

 

最後に表示されたのは、支部機能がすでに停止していることを示す簡潔な一文だった。

 

達也は無言でそれを読み終えた。

 

誰が送ってきたのか。

 

考えるまでもなかった。

 

だが、それを口にする必要はない。

 

少なくとも、今は。

 

達也は端末の画面を閉じた。

 

その表情は、いつもと変わらない。

 

ただ、予定していた行動の意味が消えたことだけは確かだった。

 

それでも達也は、すぐには足を止めなかった。

 

予定通り、地下駐車場へ向かう。

 

誰かに見られている可能性がある以上、ここで不自然に動きを変える理由はない。

 

地下駐車場は、地上の熱気とは切り離されたように静かだった。

 

照明の白い光が、コンクリートの床を冷たく照らしている。

 

停められた車の列。

 

低く響く空調の音。

 

その中に、藤林響子の姿があった。

 

「準備はできている?」

 

藤林の問いに、達也は端末をしまいながら答えた。

 

「どうやら、中止のようです」

 

「中止?」

 

藤林は一瞬、意味が分からないという顔をした。

 

達也はそれ以上説明しなかった。

 

ちょうどその時、藤林の端末が震えた。

 

彼女は画面を確認する。

 

一秒。

 

二秒。

 

三秒。

 

その表情が、わずかに変わった。

 

本部からの連絡だった。

 

ノーヘッド・ドラゴン日本支部、壊滅。

 

主要構成員の大半が戦闘不能。

 

幹部一名は意識不明。

 

重要記録媒体は消失。

 

ただし、ジェネレーターによる大量殺戮計画、電子金蚕の搬入経路、九校戦賭博の胴元、ノーヘッド・ドラゴンのボスの表と裏の名前、香港側への連絡経路など、必要情報はすでに匿名経路で送付済み。

 

藤林は画面を見つめたまま、しばらく黙っていた。

 

「……あなたがやったの?」

 

「いいえ」

 

達也は即答した。

 

嘘ではない。

 

藤林は達也を見る。

 

達也の表情からは、何も読めない。

 

だが、彼が何かを知っていることだけは分かった。

 

「なら、誰が?」

 

達也は答えなかった。

 

代わりに、ほんのわずかだけ視線を端末へ落とす。

 

藤林はその沈黙の意味を察した。

 

追及しても、今ここで答えは出ない。

 

そして、本部からの連絡が事実なら、すでに事態は終わっている。

 

少なくとも、達也が向かうべき場所はもうない。

 

藤林は小さく息を吐いた。

 

「先を越された、ということかしら」

 

「結果としては」

 

「随分と手際がいいわね」

 

「そういう相手なのでしょう」

 

達也は淡々と答えた。

 

その言い方に、藤林は少しだけ眉を上げる。

 

だが、何も言わなかった。

 

地下駐車場に、短い沈黙が落ちる。

 

ノーヘッド・ドラゴン日本支部は潰れた。

 

達也が動く前に。

 

一〇一大隊が踏み込む前に。

 

誰にも気づかれず、必要な情報だけを残して。

 

しかも、その情報は断片ではなかった。

 

今、達也たちが喉から手が出るほど欲していたもの。

 

ノーヘッド・ドラゴンのボスの名前。

 

表の顔。

 

裏の顔。

 

証拠となる金の流れ。

 

電子金蚕の搬入経路。

 

ジェネレーターを使った大量殺戮計画の痕跡。

 

そして、その先へ繋がる糸。

 

それらが、すでに揃えられていた。

 

藤林はもう一度、端末の報告へ目を落とした。

 

現場に残されていたもの。

 

倒れた構成員。

 

空になった金庫。

 

消えた記録。

 

そして、床に散っていた空薬莢。

 

その報告の最後に、短い一文が添えられていた。

 

――現場に魔法行使の痕跡なし。

 

藤林は、今度こそ小さくため息をついた。

 

「……本当に、何者なのかしらね」

 

達也は答えなかった。

 

ただ一つ、彼の端末には、削除前のメールが残っている。

 

差出人不明。

 

赤い羽根を背負った、クローバーのマーク。

 

それが、答えのすべてだった。

 




今回の話は聖火の本当の力の一端をお見せした形になります。

この場面は、やりたかった場面になります。
と言いますか最初に妄想したシーンでもあります。


昔の映画の主人公って襲撃されてもまったくと言っていいほどあたりませんよね。
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