まずは手始めに深夜と穂波の状況についての説明回です。
九校戦が終わり、第一高校の空気が少しずつ日常へ戻り始めた頃。
司波家には、達也と深雪の二人だけが住んでいた。
母である司波深夜はいない。
司波家に仕え、深雪の傍らにいることが当然だった桜井穂波の姿もない。
外から見れば、奇妙な家だった。
高校生の兄妹が二人だけで暮らしている。
それも、ただの兄妹ではない。
司波達也と、司波深雪。
四葉に連なる二人である。
本来なら、大人の目が届かない場所に置かれるはずのない二人だった。
では、なぜそうなったのか。
話は、二人の第一高校への入学が決まった頃までさかのぼる。
その日、鷹山家では小さな祝いの席が設けられていた。
司波達也と司波深雪の第一高校入学。
そして、鷹山聖火の第一高校入学。
その三人を祝うための、身内だけの食事会だった。
鷹山家の居間には、いつもより少しだけ華やいだ空気が流れている。
テーブルには、美沙が用意した料理が並び、治憲が飲み物を注いでいた。
聖火は台所と居間を行き来しながら、追加の皿や取り箸を運んでいる。
そして、その隣では深雪が自然な手つきで皿を並べていた。
「深雪さん、そのお皿はそちらにお願いできる?」
「はい、叔母様」
深雪は丁寧に返事をして、言われた場所へ皿を置いた。
その動きは、ぎこちなさがない。
以前の深雪を知る者なら、少し驚くほど自然だった。
聖火は横目でそれを見て、軽く笑う。
「深雪ちゃん、もう完全にうちの台所に慣れたね」
「そうでしょうか」
「うん。俺より場所を把握している可能性がある」
「それはないと思います」
「いや、母さんに鍛えられた人は強いよ」
美沙が穏やかに言った。
「聖火」
「はい」
「それは褒めているの?」
「もちろんです」
「なら、手を動かしなさい」
「はい」
即答だった。
その様子を見て、深雪が小さく笑う。
達也は居間の方から、そのやり取りを静かに見ていた。
妹が鷹山家の台所に立っている。
その光景は、少し前の彼なら奇妙に感じたかもしれない。
だが、今ではそれほど不自然ではなくなっていた。
鷹山家と司波家は、ただの近所付き合いというには、すでに距離が近すぎた。
最初は挨拶だった。
次に、茶会になった。
それから、夕食に招かれるようになり、休日には買い物に出るようになった。
深夜、穂波、深雪、美沙。
そこに治憲が加わることもあれば、加わらないこともある。
しまいには、達也と聖火を置いて、深夜、穂波、深雪、美沙、治憲の五人で買い物に出かけることすらあった。
その時の聖火は、玄関で見送った後、達也と二人でしばらく沈黙していた。
「達也くん」
「何だ」
「俺たち、置いていかれたね」
「そうだな」
「寂しくない?」
「買い物なら必要な物を買えばいい」
「そういう話じゃないんだよ」
「では、どういう話だ」
「家族内の序列の話かな」
「なるほど」
「納得するんだ」
そんな会話をしたこともある。
そのくらいには、二つの家は近くなっていた。
司波家と鷹山家。
正確には、司波家の父親を除いた司波家と、鷹山家。
二つの家は、いつの間にか一つの大きな家族のような距離になっていた。
その中で、深雪は美沙から料理を教わり、洗濯を教わり、掃除を教わり、買い物の仕方を教わった。
最初は修行のようなものだった。
だが、深雪にとってそれは、なんだかんだ息抜きにもなっていた。
四葉や司波家の事情から少し離れ、普通の家庭の台所に立つ。
美沙に注意され、聖火にからかわれ、穂波に見守られ、治憲に褒められる。
それは深雪にとって、普通を学ぶ時間でもあった。
そして、その理由を、男性陣はまだ知らなかった。
食事が始まると、居間の空気はさらに和やかになった。
治憲は三人の入学を祝い、美沙は料理を取り分け、穂波は深雪の様子を見守っている。
深夜はいつものように、穏やかで少し読みにくい笑みを浮かべていた。
「三人とも第一高校か」
治憲が感慨深げに言う。
「本当に、おめでとう」
「ありがとうございます、叔父様」
深雪が丁寧に頭を下げる。
達也も静かに礼をした。
「ありがとうございます、叔父さん」
聖火は少し照れくさそうに肩をすくめる。
「父さん、そんな改まって言われると反応に困る」
「祝われる時くらい、素直に受け取りなさい」
美沙に言われ、聖火はすぐに姿勢を正した。
「ありがとうございます」
「よろしい」
達也がそれを見て、わずかに視線を動かした。
聖火は目ざとく気づく。
「達也くん、今ちょっと面白がった?」
「いや」
「その間は面白がった時の間だよ」
「判断材料が不足している」
「それは便利な言葉だね」
深雪が小さく笑った。
穂波も、口元を押さえてわずかに肩を揺らしている。
そんな中、深夜が湯呑みを置いた。
あまりにも自然な動作だった。
本当に、天気の話でもするような調子だった。
「そういえば」
その一言に、全員の視線が深夜へ向いた。
深夜は微笑んだまま言った。
「私、明日から家を出ます」
一瞬、居間の空気が止まった。
治憲が固まる。
聖火が箸を止める。
達也の目が、わずかに深夜へ向く。
そして、男性陣三人の声が重なった。
「はい?」
美沙は苦笑した。
穂波も静かに目を伏せる。
深雪は、少しだけ困ったように微笑んでいた。
完全に初耳という顔ではない。
聖火はゆっくりと周囲を見た。
美沙は知っていた顔をしている。
穂波も知っていた顔をしている。
深雪も、明らかに知っていた顔をしている。
つまり。
「待ってください」
聖火は片手を上げた。
「これ、知らなかったのは男性陣だけですか?」
美沙が困ったように笑う。
「そうなるわね」
「母さんまで完全に向こう側だった」
「向こう側って何かしら」
「情報を持っている側です」
深夜は楽しげに目を細めた。
「聖火さんは、相変わらず言い方が大げさですね」
「深夜さんの発言の方が大げさです。明日から家を出ます、は食事中に出す話題じゃありません」
「そうでしょうか」
「そうです」
達也が静かに口を開いた。
「奥様」
その呼び方に、居間の空気がほんの少しだけ改まる。
母と息子の会話ではない。
少なくとも、普通の家庭にある呼び方ではなかった。
だが、達也にとってはそれが自然だった。
「家を出る、というのは転居という意味ですか」
「ええ」
「一時的なものではなく?」
「当面は」
「理由を伺っても?」
深夜は小さく頷いた。
「もちろんです。そのために今、話しています」
聖火が思わず口を挟む。
「今?」
「今です」
「一年前とかではなく?」
「一年前から話はありました」
沈黙。
聖火はゆっくりと達也を見た。
達也も、珍しくほんの少しだけ間を置いた。
「一年前から、ですか」
「ええ」
深夜は悪びれずに頷いた。
「海外で新しい職に就かないかというお誘いがありまして」
治憲が驚いたように聞き返す。
「海外、ですか」
「はい。詳しい内容はお話しできませんが、私の能力を必要としている職場です」
その言葉で、居間の空気が少し変わった。
深夜の能力。
それが何を意味するのか、ここにいる者たちはある程度理解している。
表に出せる話ではない。
だが、軽い仕事ではないことだけは分かった。
「一年前にお話をいただいたのですが、すぐに受けるわけにはいきませんでした」
深夜は深雪を見る。
「深雪さんを、何も準備しないまま残していくわけにはいきませんから」
深雪は小さく目を伏せた。
「ですから、待っていただいていたのです。深雪さんが家事全般を一通りできるようになるまで」
聖火はそこで、美沙を見た。
「母さん」
「はい」
「もしかして、深雪ちゃんがうちで料理とか掃除とか洗濯とか覚えてたのって」
美沙は穏やかに頷いた。
「そのためよ」
聖火は天井を仰いだ。
「完全に知らなかった」
「聖火にも言う必要はなかったもの」
「俺、同じ家に住んでるんだけど」
「深雪さんの努力を見守る係ではなかったでしょう?」
「言い方は正しいけど、妙に寂しい」
深雪が少し慌てたように言った。
「すみません、聖火くん。黙っていたわけでは」
「いや、深雪ちゃんが謝ることじゃないよ。むしろ、すごいと思う」
聖火は深雪へ向き直った。
「料理も掃除も洗濯も、ちゃんと覚えたんだ?」
深雪は少し照れたように頷いた。
「叔母様に、かなり教えていただきました」
美沙は微笑む。
「深雪さんは、とても覚えが早かったわ。最初は少し丁寧すぎるところもありましたけれど、今なら十分に一通りできます」
「丁寧すぎる?」
聖火が聞くと、美沙は少し笑った。
「野菜を切るのに、芸術品を作るような集中をしていたの」
深雪の頬がわずかに赤くなる。
「叔母様」
「悪い意味ではないわ」
聖火は笑いをこらえた。
「深雪ちゃんらしいね」
「笑わないでください」
「笑ってない」
達也が静かに言った。
「聖火、笑っている」
「達也くん、ここで裏切る?」
「事実だ」
「そういうところだよ」
居間に小さな笑いが起きた。
だが、達也の視線はすぐに深夜へ戻る。
「つまり、深雪が家事を覚えるまで、海外赴任を待ってもらっていたということですか」
「ええ」
「俺には知らされていませんでした」
「そうですね」
深夜は平然と答えた。
達也は無表情だった。
だが、聖火には分かった。
少しだけ、引っかかっている。
「理由を聞いても?」
「達也さんは、忙しそうでしたので」
聖火が吹き出しかけた。
「深夜さん、その理由で一年放置ですか」
「放置ではありません」
深夜は涼しい顔で言った。
「達也さんは、放っておいても必要なことは自分でなさいます」
「それを放置と言うんですよ」
「信頼と言ってください」
「便利な言い換えですね」
達也は少しだけ沈黙した後、淡々と言った。
「合理的ではあります」
聖火は達也を見た。
「達也くん、そこは少し怒っていいと思う」
「怒る理由はない」
「一年前から家族の海外赴任が決まってて、今日初めて聞かされたんだよ?」
「今聞いた」
「そういう問題かな」
深雪が少し不安そうに達也を見る。
「お兄様……」
達也は深雪へ視線を向けると、わずかに声を和らげた。
「深雪が困らないよう準備していたのなら、問題はない」
「ですが」
「それに、深雪が努力していたことは分かっている」
その一言で、深雪の表情が柔らかくなった。
「お兄様……」
聖火は小さく息を吐いた。
「達也くん、ずるいね」
「何がだ」
「今ので全部許されるところ」
「許される必要があったのか」
「深夜さん側にね」
深夜は楽しげに笑っていた。
「達也さんは、本当に達也さんですね」
「褒めてます?」
聖火が聞くと、深夜は微笑んだ。
「もちろんです」
「信用できない笑顔だなあ」
治憲が軽く咳払いをした。
「司波さん。穂波さんも、一緒に行かれるのですか?」
「はい」
答えたのは穂波だった。
彼女は深夜へ一度視線を向け、それから静かに言った。
「私は深夜様にお仕えする身です。主が海外へ赴任されるのであれば、同行しないという選択肢はございません」
その言葉は穏やかだった。
しかし、迷いはなかった。
「それに、正直に申し上げますと、深夜様がお一人で海外に赴任されるのは心配です」
深夜が少しだけ目を細めた。
「穂波」
「事実です」
穂波は静かに言った。
「深夜様は、ご自分のことになると少々雑でいらっしゃいます」
「雑とは心外ですね」
「では、無頓着でいらっしゃいます」
「言い直しても、あまり柔らかくなっていませんね」
穂波は穏やかに微笑んだ。
「使用人として、主の身の回りを整えるのは当然の務めです」
深雪の手が、膝の上でわずかに握られた。
「穂波も……行ってしまうのですね」
「はい」
穂波は深雪へ向き直り、深く頭を下げた。
「深雪様のおそばを離れることは、私にとっても寂しいことです」
「穂波」
「ですが、私の主は深夜様です。深夜様が新しい場所へ赴かれるのであれば、私はお供いたします」
その言葉に、深雪は何も言えなかった。
穂波が自分を軽んじているわけではない。
それは分かる。
むしろ、穂波は穂波の在り方に従っている。
だからこそ、簡単に引き止めることはできなかった。
「……寂しいです」
深雪は小さく言った。
穂波の瞳が揺れた。
「深雪様」
「ですが、穂波がそう決めたのなら、私も頑張ります」
その言葉に、穂波はもう一度、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
深夜はその二人を静かに見ていた。
そして、達也へ視線を戻す。
「達也さん」
「はい」
「深雪さんをお願いします」
「言われるまでもありません」
即答だった。
深夜は少しだけ目を細める。
「でしょうね」
それから深夜は、治憲と美沙へ向き直った。
先ほどまでの軽さが、少しだけ消える。
「治憲さん。美沙さん」
「はい」
治憲が姿勢を正す。
美沙も、静かに深夜を見た。
深夜はゆっくりと頭を下げた。
「子供たちのこと、よろしくお願いします」
その一言に、居間の空気が変わった。
それは、社交辞令ではなかった。
深夜が、達也と深雪を鷹山家に託している。
そう分かる言葉だった。
治憲は一瞬だけ驚いた顔をした。
だが、すぐに真剣な表情で頷く。
「任せてください」
その声には迷いがなかった。
「もう二人は、我が家の子供同然です」
深雪が目を瞬かせた。
達也も、わずかに治憲を見る。
美沙は静かに微笑んでいた。
聖火は、そこで軽く手を上げた。
「あ、うん、そうだね」
全員の視線が聖火へ向く。
聖火は少しだけ肩をすくめた。
「なんだったら深雪ちゃんに関しては、本当に実の息子より可愛がっている節があるよね」
「聖火」
美沙の声が飛ぶ。
「はい」
「余計なことを言わない」
「でも事実では?」
「事実でも、言い方というものがあります」
「はい」
即答だった。
治憲は少しだけ困ったように笑った。
「いや、否定はしない」
「父さん、そこは否定して」
「深雪さんは礼儀正しくて、素直で、努力家だからな」
「ほら、否定しない」
深雪は頬を赤らめた。
「叔父様、その……ありがとうございます」
「いや、本当のことだよ」
聖火は達也を見る。
「達也くん、今の聞いた?」
「聞いた」
「俺、実子なのに危うい立場だよ」
「日頃の行いではないか」
「達也くんまで刺してくる」
深雪が小さく笑った。
その笑いに、穂波も少しだけ表情を和らげる。
深夜は、治憲と美沙を見て、静かに微笑んだ。
「ありがとうございます」
美沙は首を横に振った。
「こちらこそ。深雪さんには、私もたくさん楽しませていただきました」
「楽しませて、ですか」
深雪が不思議そうに聞く。
美沙は優しく頷いた。
「ええ。料理を教えるのも、買い物に行くのも、とても楽しかったわ」
「私もです」
深雪は小さく言った。
「鷹山家で家事を教えていただく時間は、少し緊張もしましたが……楽しかったです」
「緊張してたんだ」
聖火が言うと、深雪は少しだけ視線を逸らした。
「最初は、失敗してはいけないと思っていました」
「うちの台所でそこまで気負わなくても」
「ですが、叔母様に教えていただく以上、中途半端にはできません」
「真面目だなあ」
達也が静かに言う。
「深雪らしい」
その一言で、深雪はすぐに表情を柔らかくした。
「ありがとうございます、お兄様」
聖火は小さく呟いた。
「やっぱり達也くん、ずるい」
「何がだ」
「今の一言で全部持っていくところ」
「事実を言っただけだ」
「そういうところだよ」
居間に、また小さな笑いが起きた。
深夜はその光景を見ていた。
達也。
深雪。
聖火。
治憲。
美沙。
穂波。
血のつながりだけで言えば、ここにいる者たちは一つの家族ではない。
けれど、今この場にあるものは、家族に近かった。
少なくとも、深夜にはそう見えた。
だからこそ、託せる。
そう思った。
「では、改めて」
深夜は静かに言った。
「達也さん、深雪さん。私と穂波は明日から海外へ赴任します」
達也は頷いた。
深雪も、少し寂しそうにしながらも頷いた。
「司波家は、あなたたち二人に任せます」
「はい」
達也が答えた。
「承知しました」
深雪も続く。
「私も、頑張ります」
深夜は微笑んだ。
「ええ。深雪さんなら大丈夫です」
祝いの席は、その後もしばらく続いた。
最初こそ突然の発表に男性陣は揃って固まっていたが、事情を聞けば納得せざるを得なかった。
一年前からの準備。
深雪の家事修行。
美沙の協力。
穂波の同行。
そして、達也と深雪を鷹山家に託すという深夜の判断。
すべてが、今日突然思いついた話ではなかった。
ただ、男性陣だけが知らなかった。
そこだけが、少しばかり問題だった。
「少しばかり、で済ませていいのかな」
聖火がぼやくと、美沙がにこやかに言った。
「済ませなさい」
「はい」
即答だった。
やがて食事会は終わり、司波家の一行は帰ることになった。
深夜、穂波、達也、深雪。
その四人を、聖火は司波家まで送ることになった。
鷹山家から司波家までは、歩いて数分の距離である。
送るというほどの距離ではない。
だが、こういう時に誰かが玄関先まで付き合うのが、いつの間にか二つの家の習慣になっていた。
夜道を歩きながら、深雪は少しだけ静かだった。
隣を歩く達也が、それに気づかないはずもない。
「深雪」
「はい、お兄様」
「不安か」
深雪は少しだけ迷った。
そして、小さく頷いた。
「少しだけ」
「そうか」
「ですが、お兄様がいらっしゃいますから」
「俺もいる」
その短い言葉に、深雪は柔らかく微笑んだ。
「はい」
聖火はその少し後ろを歩きながら、小さく息を吐いた。
「達也くん、やっぱりずるいね」
「何がだ」
「今の一言でだいたい解決するところ」
「解決しているなら問題ない」
「そういうところだよ」
深夜はそのやり取りを聞きながら、静かに笑っていた。
穂波は何も言わず、深夜の斜め後ろを歩いている。
いつもの位置だった。
主のすぐ近く。
必要があれば、すぐに手を伸ばせる距離。
司波家に着くと、深雪が振り返った。
「聖火くん」
「うん?」
「よろしければ、お茶を召し上がっていかれませんか」
「え?」
聖火は一瞬だけ固まった。
深雪は少しだけ悪戯っぽく微笑む。
「叔母様に、コーヒーの淹れ方も教えていただきました」
「コーヒー」
聖火の声が、わずかに沈んだ。
達也が静かに言う。
「苦手だったな」
「達也くん、そこは黙っていてほしかった」
「事実だ」
「そういうところだよ」
深雪は少し慌てたように言った。
「あ、もちろん無理にとは申しません。紅茶もあります」
聖火は、ほんの少しだけ眉を寄せた。
コーヒーは得意ではない。
父の影響もあり、どちらかといえば苦手な飲み物だった。
苦い。
香りが強い。
飲めないわけではないが、自分から選ぶことはほとんどない。
だから、いつもなら紅茶と答える。
それで終わる。
だが、今日は少し違った。
深雪が淹れるコーヒー。
鷹山家で美沙に教わり、失敗しながら覚え、ようやく誰かに出せるようになったもの。
それを断るのは、何か違う気がした。
聖火は小さく息を吐いてから、答えた。
「深雪ちゃんのコーヒーで」
深雪の気配が、わずかに弾んだ。
「はい」
短い返事だった。
けれど、嬉しそうだった。
達也が一拍置いて言う。
「珍しいな」
「達也くん、そこは黙っていてほしかった」
「事実だ。お前はコーヒーを好まない」
「分かってるよ」
「なら、なぜコーヒーにした」
聖火は少しだけ黙った。
深夜は、その横で楽しげにこちらを見ている。
聖火は諦めたように肩をすくめた。
「深雪ちゃんが淹れてくれるからだよ」
達也は一拍置いた。
「そうか」
それ以上、達也は何も言わなかった。
深雪も、少しだけ頬を赤くして目を伏せる。
聖火が深雪に抱いている感情は、恋ではなかった。
そういうものではない。
だが、特別ではあった。
鷹山家の台所で、真剣に包丁を握っていた少女。
美沙に注意されて、素直に頷いていた少女。
穂波に見守られながら、それでも自分でやろうとしていた少女。
いつか達也と二人で暮らすために、一年前から少しずつ準備していた少女。
その努力を、聖火は知っている。
なら、その成果を受け取るくらいはしてやりたかった。
たとえ、それが少し苦手なコーヒーだったとしても。
そうして聖火は、司波家へ上がることになった。
深雪は台所へ向かい、達也もそれを手伝うように奥へ入った。
穂波は荷物の整理があると言って、別室へ下がった。
気がつけば、居間には聖火と深夜の二人だけが残っていた。
偶然そうなったのか。
あるいは、そう誘導されたのかもしれない。
聖火はしばらく黙っていた。
だが、深雪たちの気配が少し遠ざかったのを確認すると、先ほどまでの軽い表情を消した。
「……あの話、受けるなんて聞いていないぞ」
口調が変わった。
鷹山家で見せていた、息子としての軽口ではない。
もっと古い、深夜との間にだけ残っている距離感だった。
深夜は、まるでその問いを予想していたように微笑んだ。
「はい。今、話しましたから」
「そういう意味じゃない」
「存じています」
「なら、なぜ今まで黙っていた」
「必要がなかったからです」
聖火は深く息を吐いた。
「深夜」
その呼び方に、深夜の目がほんの少しだけ細くなる。
鷹山家では、彼は深夜を「深夜さん」と呼んでいた。
達也と深雪の前でも、基本的にはそうだ。
だが、二人きりの時だけは少し違う。
長年の付き合いがある者同士の、遠慮の少ない呼び方だった。
「俺があの話を持ってきたのは、選択肢としてだ」
「ええ。承知しています」
「今すぐ受けろとは言っていない」
「ですから、一年待ちました」
「そういう問題じゃない」
深夜は湯呑みに触れながら、静かに言った。
「先方からも、いかがですか、と改めて確認がありましたので」
「いつ」
「先月です」
「聞いてないぞ」
「はい。今話しましたから」
「お前な」
聖火は額に手を当てた。
何を隠そう、一年前に海外赴任の仕事があるからやらないかと深夜に話を持ち込んだのは、聖火だった。
正確には、聖火の知る海外の関係者から、深夜の能力を必要としているという相談があった。
聖火はそれを深夜に伝えた。
ただし、それはあくまで情報提供だった。
受けるかどうかは深夜次第。
四葉家の都合もある。
司波家の事情もある。
達也と深雪のこともある。
だから聖火は、その場で決断を求めなかった。
むしろ、断る可能性の方が高いと思っていた。
だが、深夜は一年待った。
深雪が家事を覚えるまで。
達也と深雪が第一高校へ入学するまで。
鷹山家と司波家の関係が、十分に深まるまで。
そして、時期が来たと判断した。
「高校入学を見届けたらお受けします、と先方へお伝えしたところ、ご了承をいただきました」
「聞いてないぞ」
「ですから、今話しました」
「二回言えば正当化されると思うな」
「三回必要でしたか?」
「そういう話でもない」
深夜は楽しげに笑っていた。
聖火は、少しだけ目を細める。
「……ということは、真夜の許可ももらっているな」
「はい」
深夜はあっさり頷いた。
「四葉家の代表として、内々に承諾をいただいています」
聖火は黙った。
数秒。
それから、長く息を吐く。
「根回しが完璧すぎる」
「必要なことですから」
「真夜は何と言っていた」
「面白そうですね、と」
「だろうな」
聖火は苦い顔をした。
「それだけで済む女じゃない」
「もちろんです」
深夜は平然と言った。
「条件もいくつか出されました」
「だろうな」
「ですが、達也さんと深雪さんの生活に直接支障が出ない範囲です」
「そこまで話が進んでいるなら、俺が口を挟む余地はないな」
「はい」
「少しは否定しろ」
「事実ですので」
聖火は椅子の背にもたれた。
鷹山家での祝いの席では、深夜の発表に驚かされた。
だが、本当に驚くべきはそこではなかった。
彼女は一年かけて、すべてを整えていた。
深雪に家事を覚えさせる。
美沙に協力を頼む。
穂波の同行を決める。
鷹山家へ達也と深雪を託せる関係を作る。
先方の了承を取る。
そして、真夜の内諾まで得る。
その上で、何食わぬ顔で「明日から家を出ます」と言ったのだ。
「相変わらず、とんでもないな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「褒めてない」
「知っています」
深夜は楽しげだった。
聖火は少しだけ声を落とした。
「本当に行くのか」
その問いだけは、先ほどまでと違った。
責める声ではない。
確認する声だった。
深夜も、それを分かっていた。
「はい」
静かな返事だった。
「行きます」
「戻る気は」
「ありません」
聖火は、そこで言葉を止めた。
深夜の答えは短かった。
けれど、軽いものではなかった。
戻る気がない。
それは、深夜が司波家を捨てるという意味ではない。
達也と深雪を見限るという意味でもない。
ただ、その赴任先が、一度行けば簡単には戻ってこられない場所であるというだけだった。
聖火は、それを知っていた。
危険な場所ではない。
命を奪い合うような仕事でもない。
深夜が傷つけられるような場所でもない。
むしろ、彼女の能力を必要とし、彼女を正当に扱おうとしている場所だ。
だからこそ、聖火は止められなかった。
「危険な場所ではありません」
深夜が静かに言った。
「知っている」
「危険な仕事でもありません」
「それも知っている」
「ですが、一度行けば、簡単には戻れないでしょう」
「……だろうな」
聖火は短く答えた。
深夜は少しだけ視線を伏せた。
「もちろん、子供たちには折を見て連絡します」
「達也くんと深雪ちゃんにか」
「はい」
「穂波さんも?」
「ええ。穂波も、深雪さんには連絡を入れるでしょう」
聖火は何も言わなかった。
言うべきことは、もうほとんど残っていなかった。
危険ではない。
本人の意思は固い。
真夜の許可もある。
深雪の準備も終わっている。
達也と深雪への連絡も考えている。
そして、鷹山家に託す段取りまで整えている。
ここまで揃っているなら、聖火が止める理由はない。
止める権利もない。
「……そうか」
ようやく出た言葉は、それだけだった。
深夜は、静かに微笑んだ。
「はい」
その時、台所の方から深雪の声が聞こえた。
「聖火くん、お待たせしました」
深雪が戻ってきた。
盆の上には、コーヒーの入ったカップと、深夜用の紅茶が乗っている。
達也もその後ろから、菓子皿を持って戻ってきた。
「ありがとうございます」
聖火はカップを受け取った。
香りは強い。
やはり、少し苦手な匂いだった。
だが、不思議と嫌ではなかった。
聖火は一口飲んだ。
深雪が、ほんのわずかに身を乗り出す。
「いかがでしょうか」
聖火はカップを置き、少しだけ考えるふりをした。
深雪の表情に緊張が走る。
達也の視線が、静かに聖火へ向いた。
聖火は小さく笑った。
「うん。美味しい」
深雪の顔が、ぱっと明るくなった。
「本当ですか?」
「本当。苦いけど」
「苦い、ですか」
「コーヒーだからね」
「それは、そうですね」
深雪は少し困ったように笑った。
聖火も笑う。
「でも、美味しいよ。ちゃんと、深雪ちゃんの味がする」
「私の味、ですか?」
「丁寧で、真面目で、少し緊張してる味」
深雪は頬を赤らめた。
「聖火くん」
「褒めてる」
「分かりづらいです」
「よく言われる」
達也が静かに言った。
「分かりづらいが、褒めているのは事実だ」
「お兄様」
深雪は嬉しそうに微笑んだ。
聖火は達也を見た。
「達也くん、そこは助かった」
「事実を言っただけだ」
「今日はその事実に救われたよ」
深夜はそのやり取りを見ながら、静かに紅茶を飲んでいた。
その顔は穏やかだった。
まるで、この光景を目に焼きつけているようでもあった。
やがて夜も更け、聖火は司波家を後にした。
玄関先で、深雪は丁寧に頭を下げる。
「本日はありがとうございました」
「こちらこそ。コーヒー、ごちそうさま」
「また淹れますね」
「ああ」
聖火は少しだけ笑った。
「その時は、また飲むよ」
深雪の表情が柔らかくなる。
達也はその横で静かに言った。
「無理をする必要はない」
「達也くん、本当にそういうところだよ」
「事実だ」
「でも、今回は無理じゃない」
聖火はそう言って、司波家を出た。
背後で扉が閉まる。
春の夜気が、少しだけ冷たかった。
翌朝。
達也と深雪が目を覚ました時、司波家に深夜と穂波の姿はなかった。
深雪は最初、深夜の部屋を確認した。
次に、穂波の部屋を確認した。
荷物は、必要なものだけが綺麗になくなっていた。
乱れはない。
慌ただしさもない。
まるで、最初からそうなると決まっていたかのような部屋だった。
居間のテーブルの上には、一枚の書き置きが置かれていた。
達也がそれを手に取る。
深雪が隣から覗き込む。
そこには、短くこう書かれていた。
『行ってきます。探さないでください』
数秒。
二人は黙った。
そして、深雪が小さく吹き出した。
「……お兄様」
「何だ」
「これは、何の冗談でしょうか」
達也は書き置きを見下ろしたまま答えた。
「奥様なりの冗談だろう」
「お母様の冗談は、少し分かりづらいです」
「同感だ」
深雪は、もう一度書き置きを見た。
行ってきます。
探さないでください。
まるで家出のような書き方だった。
けれど、二人は知っている。
これは家出ではない。
深夜は一年前から準備していた。
穂波も、自分の意思で同行した。
二人は逃げたわけではない。
きちんと行ったのだ。
だから、笑えた。
少し寂しい。
けれど、笑えた。
深雪は書き置きをそっと畳んだ。
「行ってらっしゃいませ、お母様。穂波」
小さな声だった。
達也も、静かに頷いた。
その日のうちに、二人は鷹山家へ報告へ向かった。
治憲と美沙は驚き、聖火は額に手を当てた。
だが、誰も行き先は知らなかった。
達也も、深雪も。
治憲も、美沙も。
司波家の母と使用人は、二人に家を残し、静かに姿を消した。
そうして、達也と深雪の二人暮らしは始まった。
一方、その頃。
都内某所。
高級ホテルのラウンジで、深夜と穂波は向かい合って座っていた。
窓の外には、朝の光を受けた街が広がっている。
テーブルの上には、紅茶のカップが二つ。
深夜は優雅にカップを持ち上げ、香りを楽しむように目を細めた。
穂波はその向かいに座りながらも、姿勢を崩していない。
旅立ちの朝だというのに、二人の様子は落ち着いていた。
「深夜様」
「何ですか、穂波」
「書き置きの文面ですが」
「何か問題がありましたか?」
「問題というほどではございませんが、少々、家出のように見えました」
深夜は小さく笑った。
「その方が、あの子たちも肩の力が抜けるでしょう」
「そうでしょうか」
「ええ。深刻な別れにする必要はありません」
穂波は少しだけ目を伏せた。
「深雪様は、寂しがられると思います」
「そうですね」
深夜は紅茶を一口飲んだ。
「ですが、泣かせるより、笑わせた方が良いでしょう?」
穂波は、その言葉に少しだけ表情を和らげた。
「深夜様らしいです」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「今回は褒めています」
「あら」
深夜は楽しげに微笑んだ。
その時だった。
ラウンジの入口から、二人の男女がゆっくりと近づいてきた。
男性は落ち着いた足取りで歩いている。
女性はその半歩後ろを、静かに、しかし迷いなくついてきていた。
二人とも、日本の一般的な客とはどこか空気が違った。
旅行者でも、ただのビジネスマンでもない。
穏やかだが、隙がない。
穂波の視線が、わずかに鋭くなる。
深夜はカップを置いた。
やがて、二人組は深夜たちの席の前で足を止めた。
男性は、穏やかに微笑んだ。
「直接お会いするのは初めてですね」
深夜もまた、静かに微笑み返す。
「ええ。ですが、お話は伺っています」
男性は胸に手を当て、丁寧に頭を下げた。
「改めまして、私どもの依頼をお受けいただき、ありがとうございます。司波深夜様」
その呼び方に、穂波の目がわずかに細くなる。
深夜は紅茶のカップを静かに置いた。
「こちらこそ。ですが、その名で呼ばれるのも、今日までかもしれませんね」
男性は、微笑みを深めた。
「では、続きは現地で」
その一言を最後に、ラウンジの空気が、ほんの少しだけ変わった。
異常になります。
AIに謎を残した状態にさせたらかなりいい感じで追われました。
深夜と穂波は何処へ行ったのか、迎えに来た二人は何者なのか?
次回は感想で希望があった・・・でいいんですよね? その話になります。