魔法科高校の劣等生 四葉の火の鳥   作:ペンギン豚

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原作では短編集の扱いだったので、タイトルは使わずにおまけストーリーに組み込みました。


小笠原の休日 前編

 

 

九校戦が終わって、数日が経った。

 

夏休みに入っても、第一高校の関係者たちは完全に休めるわけではなかった。

 

九校戦の興奮。

 

優勝の余韻。

 

妨害事件の後始末。

 

それらが完全に消えたわけではない。

 

生徒会には生徒会の確認作業があり、部活連には部活連の後始末があり、選手たちはようやくそれぞれの休みに戻ろうとしていた。

 

もちろん、戻り方には個人差があった。

 

少なくとも、鷹山聖火はすぐには休めなかった。

 

九校戦中に溜まった報告書。

 

選手やスタッフの体調確認。

 

部活連への顔出し。

 

十文字からの短い説教。

 

七草からの軽い頼みごと。

 

気づけば、九校戦が終わった後も、聖火はいつも通り誰かのために動いていた。

 

本人にその自覚は薄い。

 

だが、周囲は気づいていた。

 

鷹山聖火は、休むのが下手だった。

 

 

 

そんなある日の夜。

 

鷹山家では、ささやかな祝いの席が設けられていた。

 

第一高校の九校戦優勝を祝うためである。

 

大げさなものではない。

 

美沙が料理を作り、治憲が少し良い茶葉を用意し、聖火がいつものように皿を並べている。

 

そこへ、達也と深雪も招かれていた。

 

「優勝おめでとう、二人とも」

 

治憲がそう言うと、深雪は丁寧に頭を下げた。

 

「ありがとうございます、叔父様」

 

達也も静かに礼をする。

 

「ありがとうございます、叔父さん」

 

聖火は横から軽く手を上げた。

 

「父さん、俺も九校戦スタッフとして結構働いたんだけど」

 

「もちろん、聖火もお疲れさま」

 

「ついで感がある」

 

「日頃の行いだな」

 

達也が淡々と言う。

 

「達也くん、そこは慰めてほしかった」

 

「事実を述べただけだ」

 

「そういうところだよ」

 

深雪が小さく笑った。

 

鷹山家の居間には、穏やかな空気が流れていた。

 

九校戦中の緊張を思えば、こうして食卓を囲めるだけでも十分だった。

 

食事が一段落した頃、深雪がふと思い出したように口を開いた。

 

「そういえば、聖火くん」

 

「うん?」

 

「今度の金曜日から日曜日まで、雫の別荘へ行くことになっています」

 

「雫ちゃんの別荘?」

 

「はい。小笠原にあるそうです」

 

聖火は箸を止めた。

 

「小笠原」

 

「二泊三日の予定です」

 

達也が補足する。

 

「金曜の朝に出発する予定だ」

 

「なかなか本格的だね」

 

「雫の家なら、準備に不安はない」

 

「それはそうか」

 

深雪は少しだけ微笑んだ。

 

「それで、聖火くんもよろしければご一緒しませんか」

 

聖火は一瞬だけ固まった。

 

「俺も?」

 

「はい」

 

「いや、俺が行ってもいいのかな。雫ちゃんたちの別荘でしょ」

 

「雫からも、聖火くんを誘ってほしいと言われています」

 

「雫ちゃんが?」

 

「はい」

 

深雪は穏やかに言った。

 

「九校戦の間、聖火くんはずっと動いていらっしゃいましたから。少し休んだ方がいい、と」

 

聖火は少しだけ困ったように笑った。

 

「俺、そんなに疲れて見える?」

 

達也が即答する。

 

「見える」

 

「即答」

 

美沙も静かに頷いた。

 

「行ってきなさい、聖火」

 

「母さんまで」

 

「あなたは、休むのが下手だから」

 

治憲も続ける。

 

「たまには友人たちと遊んでくるといい」

 

「父さんまで」

 

聖火は最後に深雪を見た。

 

深雪は、少し心配そうに微笑んでいる。

 

それを見てしまえば、断る理由はほとんどなくなった。

 

「……分かった。雫ちゃんに、俺も行かせてもらうって伝えておいて」

 

「はい」

 

深雪の表情が明るくなる。

 

「きっと、雫も喜びます」

 

達也は静かに茶を飲みながら言った。

 

「これで参加者は九人か」

 

「九人?」

 

「俺、深雪、北山、光井、千葉、西城、柴田、吉田、お前だ」

 

「幹比古くんも来るんだ」

 

「エリカが誘った」

 

「なるほど。逃げられなかったんだね」

 

「おそらくな」

 

聖火は少しだけ同情した。

 

その場にいない吉田幹比古へ。

 

 

 

 

 

 

 

そして、金曜日の朝。

 

話は一気に小笠原へ飛ぶ。

 

移動の細かな手配は、北山家がほとんど済ませていた。

 

そのため、聖火が何かを手伝おうとする余地はほとんどなかった。

 

それでも、道中で荷物の数を確認したり、誰かの体調を気にしたり、飲み物の残りを見たりしていたため、雫に短く言われた。

 

「休みに来た」

 

「分かってるよ」

 

「分かってない」

 

「厳しい」

 

雫は淡々とした顔で、聖火の手から荷物を一つ取り上げた。

 

「座って」

 

「はい」

 

その様子を見て、ほのかが小さく笑い、エリカが面白そうに肩を揺らした。

 

レオはすでに現地の海に期待しているらしく、落ち着きがない。

 

美月は窓の外の景色に目を輝かせていた。

 

幹比古は、突然巻き込まれた割には諦めたような顔をしている。

 

達也はいつも通り周囲を確認し、深雪はその隣で静かに微笑んでいた。

 

そうして一行は、小笠原に到着した。

 

 

 

 

 

 

 

北山家の別荘は、想像以上に立派だった。

 

海を望む高台に建ち、敷地の奥にはプライベートビーチが広がっている。

 

白い砂浜。

 

青い海。

 

潮風。

 

遠くで揺れる波の音。

 

そこは、九校戦の競技場とも、第一高校の校舎ともまったく違う場所だった。

 

到着後、荷物を置き、部屋割りを確認し、簡単な説明を受けた一行は、さっそく海へ出ることになった。

 

そして現在。

 

プライベートビーチには、九人の姿があった。

 

全員、水着姿である。

 

レオはすでに海へ飛び込む気満々だった。

 

「よっしゃ、海だ!」

 

「少しは落ち着きなさいよ」

 

エリカが呆れたように言う。

 

だが、そのエリカ自身もかなり楽しそうだった。

 

美月は、潮風に髪を揺らしながら、少し恥ずかしそうに周囲を見ている。

 

幹比古はそんな美月を見ないようにしつつ、しかし完全には視線を外せず、微妙に困った顔をしていた。

 

ほのかは深雪の隣で、何度か深呼吸をしている。

 

雫はいつも通り淡々としていたが、その表情はどこか満足げだった。

 

深雪は、白い砂浜と青い海を前に、いつもより少し柔らかい表情をしている。

 

達也は海を楽しむというより、周囲の安全確認をしていた。

 

そして聖火は。

 

「ええと、日焼け止めは全員塗った? 水分はそこに置いてあるから、遊ぶ前に一口飲んで。あと、泳ぐ前に準備運動を――」

 

「聖火」

 

雫が短く呼んだ。

 

「何?」

 

「休みに来た」

 

「うん」

 

「働かない」

 

「いや、これは最低限の安全確認で」

 

「働かない」

 

「はい」

 

聖火は素直に黙った。

 

そのやり取りに、エリカが吹き出す。

 

「あんた、本当に休むの下手ね」

 

「よく言われる」

 

「もっと言われた方がいいと思うわ」

 

「厳しいなあ」

 

レオが笑いながら肩を回した。

 

「まあ、準備運動はした方がいいだろ」

 

「ほら、レオくんもこう言ってる」

 

「でも聖火は座ってて」

 

雫が即座に言った。

 

「俺だけ?」

 

「そう」

 

「不公平では?」

 

「休ませるために呼んだ」

 

聖火は言葉に詰まった。

 

ほのかが小さく頷く。

 

「私も、雫に賛成です」

 

深雪も微笑んだ。

 

「聖火くんは、今日は少しゆっくりなさってください」

 

達也まで静かに言う。

 

「諦めろ」

 

「達也くんまで」

 

「多数決だ」

 

「合理的に追い詰めてくるね」

 

聖火は観念したように、砂浜に置かれたパラソルの下へ向かった。

 

雫が短く頷く。

 

「そこ」

 

「指定席?」

 

「休憩席」

 

「なるほど」

 

聖火は腰を下ろした。

 

目の前では、レオが海へ向かって駆け出し、エリカがその後を追う。

 

美月はほのかに手を引かれ、少しずつ波打ち際へ近づいていく。

 

幹比古はその様子を見守りながら、結局ついていくことになった。

 

深雪は達也の横に立ち、海風に髪を揺らしている。

 

雫は聖火の隣に立ったまま、彼を見下ろしていた。

 

「雫ちゃん?」

 

「確認」

 

「何の?」

 

「ちゃんと座っているか」

 

「信用がない」

 

「ない」

 

「即答」

 

雫は少しだけ目を細めた。

 

「聖火は、目を離すと働く」

 

「俺は野良猫か何か?」

 

「近い」

 

「近いんだ」

 

聖火は小さく笑った。

 

潮風が通り過ぎる。

 

波の音が、ゆっくりと耳に届く。

 

九校戦の喧騒とは違う。

 

資料の山も、報告書も、緊張した選手の呼吸も、ここにはない。

 

ただ、海がある。

 

友人たちがいる。

 

誰かのために動かなくてもいい時間がある。

 

聖火は、少しだけ肩の力を抜いた。

 

「……悪くないね」

 

雫は短く頷いた。

 

「でしょ」

 

その言い方があまりにも雫らしくて、聖火はまた少し笑った。

 

 

 

潮風が心地よかった。

 

波の音も、遠くで聞こえる友人たちの声も、どこか現実味が薄い。

 

パラソルの下に座らされた聖火は、最初こそ不満そうにしていた。

 

だが、雫が用意してくれた冷たい飲み物を飲み、海を眺めているうちに、少しずつ瞼が重くなっていった。

 

九校戦が終わってから、休んでいなかった。

 

自覚はあまりなかった。

 

けれど、身体は正直だった。

 

「少しだけ……」

 

そう呟いたのを最後に、聖火の意識はゆっくりと波音の中へ沈んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

どれくらい眠っていたのかは分からない。

 

目を開けると、空の色が少しだけ変わっていた。

 

聖火は数回瞬きをして、ゆっくり身体を起こす。

 

「……寝てた?」

 

自分で言ってから、少し驚いた。

 

本当に寝ていたらしい。

 

それも、かなり深く。

 

聖火は周囲を見渡した。

 

レオとエリカの声が遠くから聞こえる。

 

美月と幹比古の姿も、少し離れた場所に見える。

 

雫は浜辺で静かに座っていた。

 

そこまではいい。

 

問題は、海の方だった。

 

遠くに、ボートが見えた。

 

その上で、達也が静かにオールを漕いでいる。

 

そして、ボートの近くには、日傘を持ったほのかの姿があった。

 

聖火はしばらく黙ってそれを見た。

 

「……なんで?」

 

首を傾げる。

 

寝る前には、そんな状況ではなかったはずだ。

 

少なくとも、達也が南国の海でボートを漕ぎ、ほのかが日傘を持っている絵面は存在していなかった。

 

聖火は立ち上がり、砂を払った。

 

「俺が寝てる間に、何があったの」

 

誰に聞くでもなく呟く。

 

答えは返ってこなかった。

 

ただ、浜辺の空気が少しだけ妙だった。

 

楽しそうな声はある。

 

だが、その一部に、妙な緊張が混じっている。

 

聖火は眉を寄せた。

 

「……嫌な予感がする」

 

そう言って、別荘の方へ歩き出した。

 

 

 

 

 

別荘のバルコニーへ向かうと、そこには深雪がいた。

 

笑っていた。

 

いつも通り、美しく、上品に、静かに微笑んでいた。

 

ただし、その笑顔が少し怖かった。

 

そして、テーブルの上には凍ったフルーツが並んでいた。

 

南国の陽射しの下にあるはずの果物が、見事なまでに冷やされている。

 

透明な氷をまとった果実たちは、皿の上で小さな宝石のように光っていた。

 

聖火はそれを見た。

 

次に、遠くのボートを見た。

 

再び、凍ったフルーツを見た。

 

そして、深雪を見た。

 

「あっちは南国なのに、こっちは氷河期を迎えたみたいだね」

 

その瞬間、近くにいたエリカ、レオ、幹比古の三人が同時に固まった。

 

「ちょっ」

 

「おまっ」

 

「鷹山くん……!」

 

三人の声が、ほぼ同時に重なる。

 

明らかに、肝を冷やしている顔だった。

 

言ってはいけないことを言った。

 

少なくとも、三人にはそう見えた。

 

だが、聖火は特に怯えた様子もなく、テーブルの上の皿へ視線を落とした。

 

そして、何食わぬ顔でスプーンを手に取る。

 

凍ったフルーツを一口すくい、そのまま口へ運んだ。

 

「食べた!?」

 

エリカが思わず声を上げた。

 

レオも目を丸くする。

 

「お前、今の空気でよく食えるな」

 

幹比古は深雪の様子を窺いながら、慎重に一歩下がっている。

 

聖火は、口の中で冷たい果実を味わいながら、少しだけ頷いた。

 

「うん。普通に美味しい」

 

「感想そこ!?」

 

「凍ってるから、シャーベットみたいになってる」

 

聖火はもう一口、スプーンを伸ばした。

 

「南国で食べるにはちょうどいいね」

 

「ちょうどいいで済ませるの!?」

 

エリカの声が裏返る。

 

レオは半分感心したような顔で言った。

 

「聖火、お前すげえな」

 

「何が?」

 

「肝が据わってるっていうか、何というか」

 

「フルーツ食べただけだよ」

 

「そのフルーツが問題なんだよ」

 

幹比古が小さく頷いた。

 

「少なくとも、普通は今食べないと思う」

 

「そう?」

 

聖火は首を傾げた。

 

「美味しいのに」

 

そう言って、また一口食べる。

 

その様子に、深雪はしばらく黙っていた。

 

怒るでもなく、さらに冷気を強めるでもなく、ただ聖火を見ていた。

 

そして、小さく息を吐いた。

 

「……そうですね」

 

その声は、静かだった。

 

怒っている声ではない。

 

むしろ、自分の中の熱を冷ますような声だった。

 

深雪は凍ったフルーツへ視線を落とす。

 

それから、海の方を見た。

 

遠くで、達也がボートを漕いでいる。

 

ほのかが日傘を持っている。

 

その光景を見て、深雪はもう一度、深く息を吐いた。

 

「さすがに、大人げなかったですね」

 

エリカが目を瞬かせる。

 

レオも、口を開けたまま固まった。

 

幹比古は、ほっとしたように息を吐く。

 

深雪は雫へ向き直った。

 

「雫、ごめんなさい。私、部屋で少し休んでいます」

 

雫は深雪を見た。

 

責めるでもなく、驚くでもなく、いつもの淡々とした表情だった。

 

けれど、その目は少しだけ柔らかい。

 

「うん」

 

短い返事だった。

 

深雪は静かに一礼し、そのまま別荘の中へ戻っていった。

 

その後ろ姿を見送りながら、聖火はスプーンを持ったまま小さく呟く。

 

「……俺、何かまずいこと言った?」

 

エリカ、レオ、幹比古が一斉に聖火を見る。

 

「言ったわよ」

 

「言ったな」

 

「言ったと思う」

 

三人の返答は、見事に揃っていた。

 

聖火は少しだけ考え込む。

 

「でも、深雪ちゃん落ち着いたよね」

 

エリカは言葉に詰まった。

 

レオも、否定できないという顔をする。

 

幹比古は苦笑した。

 

「結果だけ見れば、そうかもしれないけど」

 

「なら、よかった」

 

「よくないわよ。あんた、たぶん普通なら凍ってたわよ」

 

「俺が?」

 

「そう」

 

聖火は自分の手元のスプーンを見た。

 

それから、皿の上の凍ったフルーツを見る。

 

「先にフルーツが凍ってたから大丈夫だったのかな」

 

「そういう問題じゃない!」

 

エリカが呆れたように声を上げる。

 

その一方で、雫は黙って聖火を見ていた。

 

「聖火」

 

「何?」

 

「それ、美味しい?」

 

「うん」

 

「なら、よかった」

 

そう言って、雫もスプーンを手に取った。

 

「食べるんだ」

 

「もったいない」

 

「雫ちゃんらしいね」

 

聖火は少し笑った。

 

海の向こうでは、まだ達也の乗るボートがゆっくりと進んでいる。

 

南国の陽射し。

 

凍ったフルーツ。

 

不穏な笑顔。

 

そして、何も知らずに目覚めた聖火。

 

小笠原の休日は、どうやら思っていたよりも賑やかなものになりそうだった。

 

 

 

その後、小笠原の一日は、思っていたよりも賑やかに過ぎていった。

 

達也とほのかがボートから戻った後、状況を聞いた聖火は、しばらく黙っていた。

 

そして、深く考えることを放棄した。

 

「なるほど。俺が寝ている間に、だいたい面倒なことが起きてたんだね」

 

「まとめ方が雑ね」

 

エリカが呆れたように言う。

 

「寝起きだから許して」

 

「寝起きで氷河期発言する人間を、あたしは初めて見たわ」

 

「それは貴重な経験をしたね」

 

「前向きに受け取るんじゃないわよ」

 

そんなやり取りをしながらも、空気は少しずつ元に戻っていった。

 

深雪も部屋でしばらく休んだ後、夕食の頃には戻ってきた。

 

いつもの落ち着いた表情だった。

 

ただ、達也の隣に座る時だけは、ほんの少しだけ視線が柔らかかった。

 

ほのかはほのかで、どこか疲れたような、けれど少し満足したような顔をしている。

 

雫は何も言わなかった。

 

ただ、凍っていたフルーツをきちんと溶かし、食後のデザートとして全員に出した。

 

聖火はそれを見て、小さく頷いた。

 

「やっぱり美味しい」

 

「でしょ」

 

雫は短く答えた。

 

その日の夕食は、穏やかだった。

 

昼間の妙な緊張が嘘のように、会話は弾み、レオはよく食べ、エリカはよく笑い、美月はほのかと小声で話し、幹比古は時折その会話に巻き込まれて困った顔をしていた。

 

だが、夕食後。

 

女性陣の空間は、少しずつ男子たちには入りづらいものになっていった。

 

水着の話。

 

髪の手入れ。

 

日焼け止め。

 

誰が誰を見ていたか。

 

誰が誰を見ていなかったか。

 

そこに、ほのかのボートの話まで混ざった。

 

聖火は、静かに湯呑みを置いた。

 

隣で、レオも同じように箸を置く。

 

二人は一瞬だけ視線を交わした。

 

言葉は必要なかった。

 

ここは、逃げる場面だ。

 

聖火はそっと立ち上がった。

 

「少し外の空気を吸ってくるよ」

 

レオも続く。

 

「俺も行くわ」

 

エリカがじろりとこちらを見る。

 

「何よ、逃げる気?」

 

「散歩だよ」

 

聖火は平然と答えた。

 

「言い方を変えただけじゃない」

 

「散歩は健康にいい」

 

「便利な言葉ね」

 

「よく言われる」

 

レオはすでに玄関の方へ向かっていた。

 

聖火もその後を追う。

 

その途中で、聖火はちらりと居間を振り返った。

 

達也はいつも通りの顔で座っている。

 

幹比古は、女子たちの会話に巻き込まれかけて、微妙に助けを求めるような顔をしていた。

 

聖火は少しだけ申し訳なさそうに手を合わせた。

 

「達也くん、幹比古くん。すまない」

 

声には出さなかった。

 

だが、達也は気づいたらしい。

 

ちらりとこちらを見た。

 

その目は、何か言っているようだった。

 

おそらく。

 

逃げたな。

 

聖火は目を逸らした。

 

 

 

外へ出ると、夜の空気は思ったよりも涼しかった。

 

昼間の熱気が、海風に洗われている。

 

波の音が、暗い海の方からゆっくり届いていた。

 

レオが大きく伸びをする。

 

「いやー、危なかったな」

 

「何が?」

 

「空気が」

 

「分かる」

 

聖火は素直に頷いた。

 

「達也くんと幹比古くんを置いてきたのは、少し良心が痛むけど」

 

「達也は大丈夫だろ」

 

「そうかな」

 

「あいつ、だいたい何でも大丈夫そうな顔してるし」

 

「それは大丈夫なんじゃなくて、大丈夫に見せてるだけだと思う」

 

「そういうもんか?」

 

「たぶんね」

 

聖火は夜道の先を見た。

 

別荘の敷地内には、簡単な案内板が立っている。

 

雫から渡された敷地図も、端末に入っていた。

 

「せっかくだし、散歩がてら釣り場でも探さない?」

 

「釣り場?」

 

「うん。明日の朝、少し釣りでもできたら面白いかなって」

 

「いいな、それ!」

 

レオの顔が一気に明るくなる。

 

「海釣りか。釣れたら朝飯にできるかな」

 

「それは雫ちゃんの家の人に確認してからだね」

 

「現実的だな」

 

「食中毒は避けたいからね」

 

「そこまで考えるか?」

 

「考える」

 

聖火は端末の地図を開いた。

 

「ええと、こっちに岩場があるみたいだね。足場が悪くなければ、釣り場になりそう」

 

「よし、行こうぜ」

 

二人は別荘の灯りから少し離れ、海沿いの道を歩き始めた。

 

夜の小笠原は静かだった。

 

虫の声。

 

波の音。

 

足元の砂利が鳴る音。

 

遠くで、海面が月明かりを受けて鈍く光っている。

 

昼間の賑やかさとは違う。

 

ここでは、声を張る必要がなかった。

 

しばらく歩いたところで、レオがぽつりと言った。

 

「なあ、聖火」

 

「うん?」

 

「九校戦の時さ」

 

その言い方で、聖火は少しだけ歩調を緩めた。

 

「一条さんにやられた時のことか」

 

レオは苦笑した。

 

「分かるのかよ」

 

「たぶん、そういう顔してた」

 

「俺、顔に出てたか?」

 

「少しだけ」

 

「そっか」

 

レオは夜の海へ視線を向けた。

 

いつものような明るさはある。

 

だが、少しだけ声が低かった。

 

「あの時さ、倒れた瞬間に、自分の呼吸の音が変わったんだ」

 

聖火は黙って聞いた。

 

レオは続ける。

 

「普段の呼吸じゃないんだよ。走った後の息切れとも違う。痛いとか、苦しいとか、そういうのとも少し違ってさ」

 

彼は自分の胸に軽く手を当てた。

 

「喉の奥で、変な音がするんだ。吸ってるのに吸えてないみたいな。吐いてるのに、どこか詰まってるみたいな」

 

聖火は足を止めた。

 

レオも、少し遅れて足を止める。

 

「聖火?」

 

「……え?」

 

聖火は、少しだけ目を瞬かせた。

 

「もう、その段階なの?」

 

「なんだよ、その段階って」

 

レオは怪訝そうに眉を寄せる。

 

聖火はレオの胸元を見た。

 

正確には、胸そのものではない。

 

呼吸の流れ。

 

肩の上がり方。

 

息を吸う前に、どこへ力が入るのか。

 

吐く時に、どこで詰まるのか。

 

レオは無意識だった。

 

だが、その無意識の中に、明らかに変化がある。

 

ただの恐怖反応ではない。

 

ただの過呼吸でもない。

 

身体が、次の呼吸を探している。

 

力を外から出すのではなく、内側で巡らせる呼吸へ移ろうとしている。

 

聖火は小さく息を吐いた。

 

「多分それ、呼吸法が次の段階に進んでいるよ」

 

「呼吸法?」

 

「うん」

 

「俺、そんなのやってたか?」

 

「やってた。たぶん、無意識に」

 

レオはさらに眉を寄せた。

 

「無意識に呼吸法ってできるもんなのか?」

 

「普通はできない」

 

「じゃあ駄目じゃねえか」

 

「だから驚いてる」

 

聖火は本気で困ったように笑った。

 

「普通なら数年かかるんだけどなー」

 

「まじ?」

 

「まじ」

 

レオは自分の胸に手を当てたまま、ぽかんとした。

 

「いや、待て。俺、ただ一条にぶっ飛ばされただけだぞ」

 

「普通は、それで終わる」

 

「終わってるだろ」

 

「終わってないから、その音がしたんだと思う」

 

レオは少し黙った。

 

夜の海から、波の音が聞こえてくる。

 

「どういうことだよ」

 

「前に話したでしょう。足より先に乱れるもの」

 

その言葉に、レオは少しだけ目を細めた。

 

「ああ……呼吸の話か」

 

「そう。あれの続き」

 

聖火はレオを見た。

 

「レオくんは、身体が強い。筋力もあるし、骨格もいい。だから今までは、外側の力で押せた」

 

「外側の力?」

 

「筋力、反射、勢い、踏み込み。そういう分かりやすい力」

 

「まあ、それはそうだな」

 

「でも一条さんの攻撃を受けた時、それだけじゃ足りないって身体が判断したんだと思う」

 

レオの表情が少し変わった。

 

「身体が?」

 

「うん。頭で考えるより先に、身体が次の呼吸を探した」

 

聖火は、自分の胸に手を当てる。

 

「吸って、吐くだけじゃない。力を逃がす呼吸。衝撃を受けて、折れないための呼吸。次に動くために、内側を整える呼吸」

 

「それが、次の段階?」

 

「たぶんね」

 

「たぶんかよ」

 

「断定すると、師匠っぽくなるから」

 

「誰の師匠だよ」

 

「レオくんの?」

 

「勝手になるな」

 

聖火は小さく笑った。

 

レオも、少しだけ笑った。

 

だが、すぐに真面目な顔へ戻る。

 

「それって、強くなれるってことか?」

 

「なると思う」

 

聖火はあっさり答えた。

 

レオは目を見開いた。

 

「そんなあっさり言うのかよ」

 

「だって、なると思うから」

 

「まじか」

 

「まじ」

 

聖火は少しだけ視線を海へ向けた。

 

「ただし、変に急ぐと身体を壊す」

 

「怖いこと言うなよ」

 

「怖いから言ってる」

 

その声は、先ほどまでより少しだけ真面目だった。

 

「呼吸は便利だけど、雑に扱うと危ない。力の出し方が変わるってことは、負担のかかり方も変わる。今まで筋肉で受けていたものを、関節や内臓側に逃がすようになると、間違えた時の反動が大きい」

 

レオは少しだけ顔を引き締めた。

 

「つまり、ちゃんとやれってことか」

 

「うん。ちゃんとやった方がいい」

 

「誰に習えばいいんだ?」

 

聖火は一瞬、黙った。

 

それから、少し困ったように笑う。

 

「俺が基礎だけなら見られる」

 

「お前が?」

 

「うん」

 

「さらっと言うな」

 

「さらっと言わないと、面倒な話になる」

 

「もう十分面倒な話になってるぞ」

 

「確かに」

 

二人は少しだけ笑った。

 

聖火はレオの呼吸をもう一度見る。

 

「まずは、怖かったことをなかったことにしない。それから、吸う前に吐く。吐いた後に、腹の奥が少しだけ沈む感じを覚える」

 

「腹の奥?」

 

「そう。胸じゃなくて腹。肩じゃなくて腰。喉じゃなくて背中」

 

「一気に難しくなったぞ」

 

「だから、普通は数年かかるんだって」

 

「俺、できんのか?」

 

「入口には立ってる」

 

レオは夜の海を見た。

 

そして、ゆっくり息を吐いた。

 

さっきよりも、少し長く。

 

聖火はそれを聞いた。

 

呼吸の音が、ほんのわずかに変わる。

 

まだ荒い。

 

まだ雑だ。

 

だが、確かに違う。

 

これは、ただの呼吸ではない。

 

力を外へ叩きつけるための呼吸ではなく、身体の内側へ通すための呼吸。

 

波のように巡り、筋肉だけでは届かない場所へ力を伝える呼吸。

 

まだ形にはなっていない。

 

だが、入口には立っている。

 

それも、本人が自覚しないまま。

 

聖火は思わず苦笑した。

 

「……やっぱり早いな」

 

「何が?」

 

「こっちの話」

 

「教えろよ」

 

「そのうち」

 

「今じゃないのかよ」

 

「夜の散歩で始める話じゃない」

 

「それはそうか」

 

レオは笑った。

 

今度は、いつもの笑いに近かった。

 

聖火はしばらく考え込んだ。

 

そして、少しだけ真面目な顔になる。

 

「これ以上は、俺じゃ教えられないしな……」

 

「え?」

 

レオが聖火を見る。

 

「何だよ、それ」

 

「いや、基礎の入口くらいなら俺でも見られるけど、ここから先はちゃんとした人に見てもらった方がいい」

 

「ちゃんとした人?」

 

「うん」

 

聖火は夜の海へ視線を向けたまま言った。

 

「レオくん、今度の水曜日、空いてる?」

 

「水曜?」

 

「うん」

 

「空いてるけど、何だ?」

 

「実は、海外から僕と父さんの友人が来日するんだけど」

 

「海外から?」

 

「そう。その人が、俺の知っている中ではこの分野の第一人者なんだ」

 

レオは少しだけ目を丸くした。

 

「第一人者って、そんなすごい人なのか」

 

「すごいよ」

 

聖火はあっさり答えた。

 

「ただ、性格は少し癖がある」

 

「それは大丈夫なやつか?」

 

「大丈夫。根はやさしい人だから。怒ると怖いけど」

 

「怖いのかよ」

 

「怖いよ」

 

聖火は当然のように頷いた。

 

「でも、腕は本物」

 

聖火はレオへ視線を戻した。

 

「会ってみない?」

 

レオはすぐには答えなかった。

 

驚きと興味が、顔に出ている。

 

「いいのか?」

 

「お昼過ぎからなら大丈夫じゃないかな。詳しい時間は確認しておくけど」

 

「いや、俺みたいなのが会ってもいいのかって話だよ」

 

「レオくんだから会わせたいんだよ」

 

「俺だから?」

 

「うん」

 

聖火は頷いた。

 

「ここまで来たら、ちゃんと教えられる人に見てもらった方がいいと思う。俺が中途半端に触るより、その方がいい」

 

レオは自分の胸に手を当てた。

 

昼間までなら、こんな話をされても実感が湧かなかったかもしれない。

 

だが今は違う。

 

一条に倒された時の呼吸。

 

夜の海で吐いた息。

 

聖火が言った、次の段階。

 

その言葉が、胸の奥に残っていた。

 

「……強くなれるのか?」

 

「なると思う」

 

「まじ?」

 

「まじ」

 

レオは少しだけ黙った。

 

そして、にっと笑った。

 

「なら、会う」

 

「即答だね」

 

「強くなれるなら、会わない理由がねえだろ」

 

「レオくんらしい」

 

聖火は小さく笑った。

 

「じゃあ、戻ったら連絡しておくよ」

 

「ああ。頼む」

 

「ただし、変な期待はしすぎないでね」

 

「何でだよ」

 

「その人、あんまり褒める人じゃないから」

 

「それ、厳しいってことか?」

 

「厳しいというより、見たまま言う人」

 

「それ一番きついやつじゃねえか」

 

「だから、根はやさしいって」

 

「根しかやさしくないみたいに聞こえるぞ」

 

二人は笑いながら、夜道を歩き出した。

 

その横で、波の音が静かに響いていた。

 

レオの足取りは、来た時より少しだけ軽い。

 

敗北の悔しさは消えていない。

 

恐怖の感覚も、完全になくなったわけではない。

 

けれど、それがただの傷ではなく、次へ進むための入口かもしれないと知った。

 

それだけで、少し違った。

 

そして何より、聖火がその先へ進ませるための相手を示した。

 

水曜日。

 

海外から来る、父の友人。

 

そして、自分の友人でもある人物。

 

その人物にレオを会わせること。

 

それが、今回の小笠原の夜で聖火が決めたことだった。

 

夜の海は静かだった。

 

波の音に混じって、レオの呼吸が聞こえる。

 

さっきより少しだけ深い音だった。

 




この話は海外の友人とレオを繋ぐ話になります。

レオ強化計画は順調に進行しています。

ここの話、本来は深雪のゆがんでしまった愛と、達也が抱えている精神の問題が絡む話なんですが、これ読んでる皆さんは知っていると判断して飛ばしました。
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