九校戦が終わって、数日が経った。
夏休みに入っても、第一高校の関係者たちは完全に休めるわけではなかった。
九校戦の興奮。
優勝の余韻。
妨害事件の後始末。
それらが完全に消えたわけではない。
生徒会には生徒会の確認作業があり、部活連には部活連の後始末があり、選手たちはようやくそれぞれの休みに戻ろうとしていた。
もちろん、戻り方には個人差があった。
少なくとも、鷹山聖火はすぐには休めなかった。
九校戦中に溜まった報告書。
選手やスタッフの体調確認。
部活連への顔出し。
十文字からの短い説教。
七草からの軽い頼みごと。
気づけば、九校戦が終わった後も、聖火はいつも通り誰かのために動いていた。
本人にその自覚は薄い。
だが、周囲は気づいていた。
鷹山聖火は、休むのが下手だった。
そんなある日の夜。
鷹山家では、ささやかな祝いの席が設けられていた。
第一高校の九校戦優勝を祝うためである。
大げさなものではない。
美沙が料理を作り、治憲が少し良い茶葉を用意し、聖火がいつものように皿を並べている。
そこへ、達也と深雪も招かれていた。
「優勝おめでとう、二人とも」
治憲がそう言うと、深雪は丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます、叔父様」
達也も静かに礼をする。
「ありがとうございます、叔父さん」
聖火は横から軽く手を上げた。
「父さん、俺も九校戦スタッフとして結構働いたんだけど」
「もちろん、聖火もお疲れさま」
「ついで感がある」
「日頃の行いだな」
達也が淡々と言う。
「達也くん、そこは慰めてほしかった」
「事実を述べただけだ」
「そういうところだよ」
深雪が小さく笑った。
鷹山家の居間には、穏やかな空気が流れていた。
九校戦中の緊張を思えば、こうして食卓を囲めるだけでも十分だった。
食事が一段落した頃、深雪がふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、聖火くん」
「うん?」
「今度の金曜日から日曜日まで、雫の別荘へ行くことになっています」
「雫ちゃんの別荘?」
「はい。小笠原にあるそうです」
聖火は箸を止めた。
「小笠原」
「二泊三日の予定です」
達也が補足する。
「金曜の朝に出発する予定だ」
「なかなか本格的だね」
「雫の家なら、準備に不安はない」
「それはそうか」
深雪は少しだけ微笑んだ。
「それで、聖火くんもよろしければご一緒しませんか」
聖火は一瞬だけ固まった。
「俺も?」
「はい」
「いや、俺が行ってもいいのかな。雫ちゃんたちの別荘でしょ」
「雫からも、聖火くんを誘ってほしいと言われています」
「雫ちゃんが?」
「はい」
深雪は穏やかに言った。
「九校戦の間、聖火くんはずっと動いていらっしゃいましたから。少し休んだ方がいい、と」
聖火は少しだけ困ったように笑った。
「俺、そんなに疲れて見える?」
達也が即答する。
「見える」
「即答」
美沙も静かに頷いた。
「行ってきなさい、聖火」
「母さんまで」
「あなたは、休むのが下手だから」
治憲も続ける。
「たまには友人たちと遊んでくるといい」
「父さんまで」
聖火は最後に深雪を見た。
深雪は、少し心配そうに微笑んでいる。
それを見てしまえば、断る理由はほとんどなくなった。
「……分かった。雫ちゃんに、俺も行かせてもらうって伝えておいて」
「はい」
深雪の表情が明るくなる。
「きっと、雫も喜びます」
達也は静かに茶を飲みながら言った。
「これで参加者は九人か」
「九人?」
「俺、深雪、北山、光井、千葉、西城、柴田、吉田、お前だ」
「幹比古くんも来るんだ」
「エリカが誘った」
「なるほど。逃げられなかったんだね」
「おそらくな」
聖火は少しだけ同情した。
その場にいない吉田幹比古へ。
そして、金曜日の朝。
話は一気に小笠原へ飛ぶ。
移動の細かな手配は、北山家がほとんど済ませていた。
そのため、聖火が何かを手伝おうとする余地はほとんどなかった。
それでも、道中で荷物の数を確認したり、誰かの体調を気にしたり、飲み物の残りを見たりしていたため、雫に短く言われた。
「休みに来た」
「分かってるよ」
「分かってない」
「厳しい」
雫は淡々とした顔で、聖火の手から荷物を一つ取り上げた。
「座って」
「はい」
その様子を見て、ほのかが小さく笑い、エリカが面白そうに肩を揺らした。
レオはすでに現地の海に期待しているらしく、落ち着きがない。
美月は窓の外の景色に目を輝かせていた。
幹比古は、突然巻き込まれた割には諦めたような顔をしている。
達也はいつも通り周囲を確認し、深雪はその隣で静かに微笑んでいた。
そうして一行は、小笠原に到着した。
北山家の別荘は、想像以上に立派だった。
海を望む高台に建ち、敷地の奥にはプライベートビーチが広がっている。
白い砂浜。
青い海。
潮風。
遠くで揺れる波の音。
そこは、九校戦の競技場とも、第一高校の校舎ともまったく違う場所だった。
到着後、荷物を置き、部屋割りを確認し、簡単な説明を受けた一行は、さっそく海へ出ることになった。
そして現在。
プライベートビーチには、九人の姿があった。
全員、水着姿である。
レオはすでに海へ飛び込む気満々だった。
「よっしゃ、海だ!」
「少しは落ち着きなさいよ」
エリカが呆れたように言う。
だが、そのエリカ自身もかなり楽しそうだった。
美月は、潮風に髪を揺らしながら、少し恥ずかしそうに周囲を見ている。
幹比古はそんな美月を見ないようにしつつ、しかし完全には視線を外せず、微妙に困った顔をしていた。
ほのかは深雪の隣で、何度か深呼吸をしている。
雫はいつも通り淡々としていたが、その表情はどこか満足げだった。
深雪は、白い砂浜と青い海を前に、いつもより少し柔らかい表情をしている。
達也は海を楽しむというより、周囲の安全確認をしていた。
そして聖火は。
「ええと、日焼け止めは全員塗った? 水分はそこに置いてあるから、遊ぶ前に一口飲んで。あと、泳ぐ前に準備運動を――」
「聖火」
雫が短く呼んだ。
「何?」
「休みに来た」
「うん」
「働かない」
「いや、これは最低限の安全確認で」
「働かない」
「はい」
聖火は素直に黙った。
そのやり取りに、エリカが吹き出す。
「あんた、本当に休むの下手ね」
「よく言われる」
「もっと言われた方がいいと思うわ」
「厳しいなあ」
レオが笑いながら肩を回した。
「まあ、準備運動はした方がいいだろ」
「ほら、レオくんもこう言ってる」
「でも聖火は座ってて」
雫が即座に言った。
「俺だけ?」
「そう」
「不公平では?」
「休ませるために呼んだ」
聖火は言葉に詰まった。
ほのかが小さく頷く。
「私も、雫に賛成です」
深雪も微笑んだ。
「聖火くんは、今日は少しゆっくりなさってください」
達也まで静かに言う。
「諦めろ」
「達也くんまで」
「多数決だ」
「合理的に追い詰めてくるね」
聖火は観念したように、砂浜に置かれたパラソルの下へ向かった。
雫が短く頷く。
「そこ」
「指定席?」
「休憩席」
「なるほど」
聖火は腰を下ろした。
目の前では、レオが海へ向かって駆け出し、エリカがその後を追う。
美月はほのかに手を引かれ、少しずつ波打ち際へ近づいていく。
幹比古はその様子を見守りながら、結局ついていくことになった。
深雪は達也の横に立ち、海風に髪を揺らしている。
雫は聖火の隣に立ったまま、彼を見下ろしていた。
「雫ちゃん?」
「確認」
「何の?」
「ちゃんと座っているか」
「信用がない」
「ない」
「即答」
雫は少しだけ目を細めた。
「聖火は、目を離すと働く」
「俺は野良猫か何か?」
「近い」
「近いんだ」
聖火は小さく笑った。
潮風が通り過ぎる。
波の音が、ゆっくりと耳に届く。
九校戦の喧騒とは違う。
資料の山も、報告書も、緊張した選手の呼吸も、ここにはない。
ただ、海がある。
友人たちがいる。
誰かのために動かなくてもいい時間がある。
聖火は、少しだけ肩の力を抜いた。
「……悪くないね」
雫は短く頷いた。
「でしょ」
その言い方があまりにも雫らしくて、聖火はまた少し笑った。
潮風が心地よかった。
波の音も、遠くで聞こえる友人たちの声も、どこか現実味が薄い。
パラソルの下に座らされた聖火は、最初こそ不満そうにしていた。
だが、雫が用意してくれた冷たい飲み物を飲み、海を眺めているうちに、少しずつ瞼が重くなっていった。
九校戦が終わってから、休んでいなかった。
自覚はあまりなかった。
けれど、身体は正直だった。
「少しだけ……」
そう呟いたのを最後に、聖火の意識はゆっくりと波音の中へ沈んでいった。
どれくらい眠っていたのかは分からない。
目を開けると、空の色が少しだけ変わっていた。
聖火は数回瞬きをして、ゆっくり身体を起こす。
「……寝てた?」
自分で言ってから、少し驚いた。
本当に寝ていたらしい。
それも、かなり深く。
聖火は周囲を見渡した。
レオとエリカの声が遠くから聞こえる。
美月と幹比古の姿も、少し離れた場所に見える。
雫は浜辺で静かに座っていた。
そこまではいい。
問題は、海の方だった。
遠くに、ボートが見えた。
その上で、達也が静かにオールを漕いでいる。
そして、ボートの近くには、日傘を持ったほのかの姿があった。
聖火はしばらく黙ってそれを見た。
「……なんで?」
首を傾げる。
寝る前には、そんな状況ではなかったはずだ。
少なくとも、達也が南国の海でボートを漕ぎ、ほのかが日傘を持っている絵面は存在していなかった。
聖火は立ち上がり、砂を払った。
「俺が寝てる間に、何があったの」
誰に聞くでもなく呟く。
答えは返ってこなかった。
ただ、浜辺の空気が少しだけ妙だった。
楽しそうな声はある。
だが、その一部に、妙な緊張が混じっている。
聖火は眉を寄せた。
「……嫌な予感がする」
そう言って、別荘の方へ歩き出した。
別荘のバルコニーへ向かうと、そこには深雪がいた。
笑っていた。
いつも通り、美しく、上品に、静かに微笑んでいた。
ただし、その笑顔が少し怖かった。
そして、テーブルの上には凍ったフルーツが並んでいた。
南国の陽射しの下にあるはずの果物が、見事なまでに冷やされている。
透明な氷をまとった果実たちは、皿の上で小さな宝石のように光っていた。
聖火はそれを見た。
次に、遠くのボートを見た。
再び、凍ったフルーツを見た。
そして、深雪を見た。
「あっちは南国なのに、こっちは氷河期を迎えたみたいだね」
その瞬間、近くにいたエリカ、レオ、幹比古の三人が同時に固まった。
「ちょっ」
「おまっ」
「鷹山くん……!」
三人の声が、ほぼ同時に重なる。
明らかに、肝を冷やしている顔だった。
言ってはいけないことを言った。
少なくとも、三人にはそう見えた。
だが、聖火は特に怯えた様子もなく、テーブルの上の皿へ視線を落とした。
そして、何食わぬ顔でスプーンを手に取る。
凍ったフルーツを一口すくい、そのまま口へ運んだ。
「食べた!?」
エリカが思わず声を上げた。
レオも目を丸くする。
「お前、今の空気でよく食えるな」
幹比古は深雪の様子を窺いながら、慎重に一歩下がっている。
聖火は、口の中で冷たい果実を味わいながら、少しだけ頷いた。
「うん。普通に美味しい」
「感想そこ!?」
「凍ってるから、シャーベットみたいになってる」
聖火はもう一口、スプーンを伸ばした。
「南国で食べるにはちょうどいいね」
「ちょうどいいで済ませるの!?」
エリカの声が裏返る。
レオは半分感心したような顔で言った。
「聖火、お前すげえな」
「何が?」
「肝が据わってるっていうか、何というか」
「フルーツ食べただけだよ」
「そのフルーツが問題なんだよ」
幹比古が小さく頷いた。
「少なくとも、普通は今食べないと思う」
「そう?」
聖火は首を傾げた。
「美味しいのに」
そう言って、また一口食べる。
その様子に、深雪はしばらく黙っていた。
怒るでもなく、さらに冷気を強めるでもなく、ただ聖火を見ていた。
そして、小さく息を吐いた。
「……そうですね」
その声は、静かだった。
怒っている声ではない。
むしろ、自分の中の熱を冷ますような声だった。
深雪は凍ったフルーツへ視線を落とす。
それから、海の方を見た。
遠くで、達也がボートを漕いでいる。
ほのかが日傘を持っている。
その光景を見て、深雪はもう一度、深く息を吐いた。
「さすがに、大人げなかったですね」
エリカが目を瞬かせる。
レオも、口を開けたまま固まった。
幹比古は、ほっとしたように息を吐く。
深雪は雫へ向き直った。
「雫、ごめんなさい。私、部屋で少し休んでいます」
雫は深雪を見た。
責めるでもなく、驚くでもなく、いつもの淡々とした表情だった。
けれど、その目は少しだけ柔らかい。
「うん」
短い返事だった。
深雪は静かに一礼し、そのまま別荘の中へ戻っていった。
その後ろ姿を見送りながら、聖火はスプーンを持ったまま小さく呟く。
「……俺、何かまずいこと言った?」
エリカ、レオ、幹比古が一斉に聖火を見る。
「言ったわよ」
「言ったな」
「言ったと思う」
三人の返答は、見事に揃っていた。
聖火は少しだけ考え込む。
「でも、深雪ちゃん落ち着いたよね」
エリカは言葉に詰まった。
レオも、否定できないという顔をする。
幹比古は苦笑した。
「結果だけ見れば、そうかもしれないけど」
「なら、よかった」
「よくないわよ。あんた、たぶん普通なら凍ってたわよ」
「俺が?」
「そう」
聖火は自分の手元のスプーンを見た。
それから、皿の上の凍ったフルーツを見る。
「先にフルーツが凍ってたから大丈夫だったのかな」
「そういう問題じゃない!」
エリカが呆れたように声を上げる。
その一方で、雫は黙って聖火を見ていた。
「聖火」
「何?」
「それ、美味しい?」
「うん」
「なら、よかった」
そう言って、雫もスプーンを手に取った。
「食べるんだ」
「もったいない」
「雫ちゃんらしいね」
聖火は少し笑った。
海の向こうでは、まだ達也の乗るボートがゆっくりと進んでいる。
南国の陽射し。
凍ったフルーツ。
不穏な笑顔。
そして、何も知らずに目覚めた聖火。
小笠原の休日は、どうやら思っていたよりも賑やかなものになりそうだった。
その後、小笠原の一日は、思っていたよりも賑やかに過ぎていった。
達也とほのかがボートから戻った後、状況を聞いた聖火は、しばらく黙っていた。
そして、深く考えることを放棄した。
「なるほど。俺が寝ている間に、だいたい面倒なことが起きてたんだね」
「まとめ方が雑ね」
エリカが呆れたように言う。
「寝起きだから許して」
「寝起きで氷河期発言する人間を、あたしは初めて見たわ」
「それは貴重な経験をしたね」
「前向きに受け取るんじゃないわよ」
そんなやり取りをしながらも、空気は少しずつ元に戻っていった。
深雪も部屋でしばらく休んだ後、夕食の頃には戻ってきた。
いつもの落ち着いた表情だった。
ただ、達也の隣に座る時だけは、ほんの少しだけ視線が柔らかかった。
ほのかはほのかで、どこか疲れたような、けれど少し満足したような顔をしている。
雫は何も言わなかった。
ただ、凍っていたフルーツをきちんと溶かし、食後のデザートとして全員に出した。
聖火はそれを見て、小さく頷いた。
「やっぱり美味しい」
「でしょ」
雫は短く答えた。
その日の夕食は、穏やかだった。
昼間の妙な緊張が嘘のように、会話は弾み、レオはよく食べ、エリカはよく笑い、美月はほのかと小声で話し、幹比古は時折その会話に巻き込まれて困った顔をしていた。
だが、夕食後。
女性陣の空間は、少しずつ男子たちには入りづらいものになっていった。
水着の話。
髪の手入れ。
日焼け止め。
誰が誰を見ていたか。
誰が誰を見ていなかったか。
そこに、ほのかのボートの話まで混ざった。
聖火は、静かに湯呑みを置いた。
隣で、レオも同じように箸を置く。
二人は一瞬だけ視線を交わした。
言葉は必要なかった。
ここは、逃げる場面だ。
聖火はそっと立ち上がった。
「少し外の空気を吸ってくるよ」
レオも続く。
「俺も行くわ」
エリカがじろりとこちらを見る。
「何よ、逃げる気?」
「散歩だよ」
聖火は平然と答えた。
「言い方を変えただけじゃない」
「散歩は健康にいい」
「便利な言葉ね」
「よく言われる」
レオはすでに玄関の方へ向かっていた。
聖火もその後を追う。
その途中で、聖火はちらりと居間を振り返った。
達也はいつも通りの顔で座っている。
幹比古は、女子たちの会話に巻き込まれかけて、微妙に助けを求めるような顔をしていた。
聖火は少しだけ申し訳なさそうに手を合わせた。
「達也くん、幹比古くん。すまない」
声には出さなかった。
だが、達也は気づいたらしい。
ちらりとこちらを見た。
その目は、何か言っているようだった。
おそらく。
逃げたな。
聖火は目を逸らした。
外へ出ると、夜の空気は思ったよりも涼しかった。
昼間の熱気が、海風に洗われている。
波の音が、暗い海の方からゆっくり届いていた。
レオが大きく伸びをする。
「いやー、危なかったな」
「何が?」
「空気が」
「分かる」
聖火は素直に頷いた。
「達也くんと幹比古くんを置いてきたのは、少し良心が痛むけど」
「達也は大丈夫だろ」
「そうかな」
「あいつ、だいたい何でも大丈夫そうな顔してるし」
「それは大丈夫なんじゃなくて、大丈夫に見せてるだけだと思う」
「そういうもんか?」
「たぶんね」
聖火は夜道の先を見た。
別荘の敷地内には、簡単な案内板が立っている。
雫から渡された敷地図も、端末に入っていた。
「せっかくだし、散歩がてら釣り場でも探さない?」
「釣り場?」
「うん。明日の朝、少し釣りでもできたら面白いかなって」
「いいな、それ!」
レオの顔が一気に明るくなる。
「海釣りか。釣れたら朝飯にできるかな」
「それは雫ちゃんの家の人に確認してからだね」
「現実的だな」
「食中毒は避けたいからね」
「そこまで考えるか?」
「考える」
聖火は端末の地図を開いた。
「ええと、こっちに岩場があるみたいだね。足場が悪くなければ、釣り場になりそう」
「よし、行こうぜ」
二人は別荘の灯りから少し離れ、海沿いの道を歩き始めた。
夜の小笠原は静かだった。
虫の声。
波の音。
足元の砂利が鳴る音。
遠くで、海面が月明かりを受けて鈍く光っている。
昼間の賑やかさとは違う。
ここでは、声を張る必要がなかった。
しばらく歩いたところで、レオがぽつりと言った。
「なあ、聖火」
「うん?」
「九校戦の時さ」
その言い方で、聖火は少しだけ歩調を緩めた。
「一条さんにやられた時のことか」
レオは苦笑した。
「分かるのかよ」
「たぶん、そういう顔してた」
「俺、顔に出てたか?」
「少しだけ」
「そっか」
レオは夜の海へ視線を向けた。
いつものような明るさはある。
だが、少しだけ声が低かった。
「あの時さ、倒れた瞬間に、自分の呼吸の音が変わったんだ」
聖火は黙って聞いた。
レオは続ける。
「普段の呼吸じゃないんだよ。走った後の息切れとも違う。痛いとか、苦しいとか、そういうのとも少し違ってさ」
彼は自分の胸に軽く手を当てた。
「喉の奥で、変な音がするんだ。吸ってるのに吸えてないみたいな。吐いてるのに、どこか詰まってるみたいな」
聖火は足を止めた。
レオも、少し遅れて足を止める。
「聖火?」
「……え?」
聖火は、少しだけ目を瞬かせた。
「もう、その段階なの?」
「なんだよ、その段階って」
レオは怪訝そうに眉を寄せる。
聖火はレオの胸元を見た。
正確には、胸そのものではない。
呼吸の流れ。
肩の上がり方。
息を吸う前に、どこへ力が入るのか。
吐く時に、どこで詰まるのか。
レオは無意識だった。
だが、その無意識の中に、明らかに変化がある。
ただの恐怖反応ではない。
ただの過呼吸でもない。
身体が、次の呼吸を探している。
力を外から出すのではなく、内側で巡らせる呼吸へ移ろうとしている。
聖火は小さく息を吐いた。
「多分それ、呼吸法が次の段階に進んでいるよ」
「呼吸法?」
「うん」
「俺、そんなのやってたか?」
「やってた。たぶん、無意識に」
レオはさらに眉を寄せた。
「無意識に呼吸法ってできるもんなのか?」
「普通はできない」
「じゃあ駄目じゃねえか」
「だから驚いてる」
聖火は本気で困ったように笑った。
「普通なら数年かかるんだけどなー」
「まじ?」
「まじ」
レオは自分の胸に手を当てたまま、ぽかんとした。
「いや、待て。俺、ただ一条にぶっ飛ばされただけだぞ」
「普通は、それで終わる」
「終わってるだろ」
「終わってないから、その音がしたんだと思う」
レオは少し黙った。
夜の海から、波の音が聞こえてくる。
「どういうことだよ」
「前に話したでしょう。足より先に乱れるもの」
その言葉に、レオは少しだけ目を細めた。
「ああ……呼吸の話か」
「そう。あれの続き」
聖火はレオを見た。
「レオくんは、身体が強い。筋力もあるし、骨格もいい。だから今までは、外側の力で押せた」
「外側の力?」
「筋力、反射、勢い、踏み込み。そういう分かりやすい力」
「まあ、それはそうだな」
「でも一条さんの攻撃を受けた時、それだけじゃ足りないって身体が判断したんだと思う」
レオの表情が少し変わった。
「身体が?」
「うん。頭で考えるより先に、身体が次の呼吸を探した」
聖火は、自分の胸に手を当てる。
「吸って、吐くだけじゃない。力を逃がす呼吸。衝撃を受けて、折れないための呼吸。次に動くために、内側を整える呼吸」
「それが、次の段階?」
「たぶんね」
「たぶんかよ」
「断定すると、師匠っぽくなるから」
「誰の師匠だよ」
「レオくんの?」
「勝手になるな」
聖火は小さく笑った。
レオも、少しだけ笑った。
だが、すぐに真面目な顔へ戻る。
「それって、強くなれるってことか?」
「なると思う」
聖火はあっさり答えた。
レオは目を見開いた。
「そんなあっさり言うのかよ」
「だって、なると思うから」
「まじか」
「まじ」
聖火は少しだけ視線を海へ向けた。
「ただし、変に急ぐと身体を壊す」
「怖いこと言うなよ」
「怖いから言ってる」
その声は、先ほどまでより少しだけ真面目だった。
「呼吸は便利だけど、雑に扱うと危ない。力の出し方が変わるってことは、負担のかかり方も変わる。今まで筋肉で受けていたものを、関節や内臓側に逃がすようになると、間違えた時の反動が大きい」
レオは少しだけ顔を引き締めた。
「つまり、ちゃんとやれってことか」
「うん。ちゃんとやった方がいい」
「誰に習えばいいんだ?」
聖火は一瞬、黙った。
それから、少し困ったように笑う。
「俺が基礎だけなら見られる」
「お前が?」
「うん」
「さらっと言うな」
「さらっと言わないと、面倒な話になる」
「もう十分面倒な話になってるぞ」
「確かに」
二人は少しだけ笑った。
聖火はレオの呼吸をもう一度見る。
「まずは、怖かったことをなかったことにしない。それから、吸う前に吐く。吐いた後に、腹の奥が少しだけ沈む感じを覚える」
「腹の奥?」
「そう。胸じゃなくて腹。肩じゃなくて腰。喉じゃなくて背中」
「一気に難しくなったぞ」
「だから、普通は数年かかるんだって」
「俺、できんのか?」
「入口には立ってる」
レオは夜の海を見た。
そして、ゆっくり息を吐いた。
さっきよりも、少し長く。
聖火はそれを聞いた。
呼吸の音が、ほんのわずかに変わる。
まだ荒い。
まだ雑だ。
だが、確かに違う。
これは、ただの呼吸ではない。
力を外へ叩きつけるための呼吸ではなく、身体の内側へ通すための呼吸。
波のように巡り、筋肉だけでは届かない場所へ力を伝える呼吸。
まだ形にはなっていない。
だが、入口には立っている。
それも、本人が自覚しないまま。
聖火は思わず苦笑した。
「……やっぱり早いな」
「何が?」
「こっちの話」
「教えろよ」
「そのうち」
「今じゃないのかよ」
「夜の散歩で始める話じゃない」
「それはそうか」
レオは笑った。
今度は、いつもの笑いに近かった。
聖火はしばらく考え込んだ。
そして、少しだけ真面目な顔になる。
「これ以上は、俺じゃ教えられないしな……」
「え?」
レオが聖火を見る。
「何だよ、それ」
「いや、基礎の入口くらいなら俺でも見られるけど、ここから先はちゃんとした人に見てもらった方がいい」
「ちゃんとした人?」
「うん」
聖火は夜の海へ視線を向けたまま言った。
「レオくん、今度の水曜日、空いてる?」
「水曜?」
「うん」
「空いてるけど、何だ?」
「実は、海外から僕と父さんの友人が来日するんだけど」
「海外から?」
「そう。その人が、俺の知っている中ではこの分野の第一人者なんだ」
レオは少しだけ目を丸くした。
「第一人者って、そんなすごい人なのか」
「すごいよ」
聖火はあっさり答えた。
「ただ、性格は少し癖がある」
「それは大丈夫なやつか?」
「大丈夫。根はやさしい人だから。怒ると怖いけど」
「怖いのかよ」
「怖いよ」
聖火は当然のように頷いた。
「でも、腕は本物」
聖火はレオへ視線を戻した。
「会ってみない?」
レオはすぐには答えなかった。
驚きと興味が、顔に出ている。
「いいのか?」
「お昼過ぎからなら大丈夫じゃないかな。詳しい時間は確認しておくけど」
「いや、俺みたいなのが会ってもいいのかって話だよ」
「レオくんだから会わせたいんだよ」
「俺だから?」
「うん」
聖火は頷いた。
「ここまで来たら、ちゃんと教えられる人に見てもらった方がいいと思う。俺が中途半端に触るより、その方がいい」
レオは自分の胸に手を当てた。
昼間までなら、こんな話をされても実感が湧かなかったかもしれない。
だが今は違う。
一条に倒された時の呼吸。
夜の海で吐いた息。
聖火が言った、次の段階。
その言葉が、胸の奥に残っていた。
「……強くなれるのか?」
「なると思う」
「まじ?」
「まじ」
レオは少しだけ黙った。
そして、にっと笑った。
「なら、会う」
「即答だね」
「強くなれるなら、会わない理由がねえだろ」
「レオくんらしい」
聖火は小さく笑った。
「じゃあ、戻ったら連絡しておくよ」
「ああ。頼む」
「ただし、変な期待はしすぎないでね」
「何でだよ」
「その人、あんまり褒める人じゃないから」
「それ、厳しいってことか?」
「厳しいというより、見たまま言う人」
「それ一番きついやつじゃねえか」
「だから、根はやさしいって」
「根しかやさしくないみたいに聞こえるぞ」
二人は笑いながら、夜道を歩き出した。
その横で、波の音が静かに響いていた。
レオの足取りは、来た時より少しだけ軽い。
敗北の悔しさは消えていない。
恐怖の感覚も、完全になくなったわけではない。
けれど、それがただの傷ではなく、次へ進むための入口かもしれないと知った。
それだけで、少し違った。
そして何より、聖火がその先へ進ませるための相手を示した。
水曜日。
海外から来る、父の友人。
そして、自分の友人でもある人物。
その人物にレオを会わせること。
それが、今回の小笠原の夜で聖火が決めたことだった。
夜の海は静かだった。
波の音に混じって、レオの呼吸が聞こえる。
さっきより少しだけ深い音だった。
この話は海外の友人とレオを繋ぐ話になります。
レオ強化計画は順調に進行しています。
ここの話、本来は深雪のゆがんでしまった愛と、達也が抱えている精神の問題が絡む話なんですが、これ読んでる皆さんは知っていると判断して飛ばしました。