魔法科高校の劣等生 四葉の火の鳥   作:ペンギン豚

39 / 40
本来なら雫のお父さんが出てきますが、蛇足かと思い飛ばしました。
飛ばしてばかりだな


小笠原の休日 後編

 

 

翌朝。

 

まだ日が昇り切っていない時間帯。

 

北山家の別荘から少し離れた岩場に、四人の男子生徒が立っていた。

 

司波達也。

 

鷹山聖火。

 

西城レオンハルト。

 

吉田幹比古。

 

四人は、釣り竿を手にしていた。

 

ただし、ただの早朝散歩ではない。

 

完全装備だった。

 

釣り竿。

 

仕掛け。

 

餌。

 

バケツ。

 

クーラーボックス。

 

滑りにくい靴。

 

タオル。

 

飲み物。

 

簡易救急セット。

 

日差しが強くなった時のための帽子。

 

さらに、聖火の荷物の中には、なぜか虫除け、酔い止め、塩分補給用の飴、予備の手袋、携帯食料まで入っていた。

 

レオがそれを見て、思わず言った。

 

「聖火」

 

「何?」

 

「俺たち、釣りに来たんだよな?」

 

「そうだよ」

 

「遠征じゃねえよな?」

 

「近場の岩場でも油断はよくないからね」

 

「いや、装備が本格的すぎんだろ」

 

聖火は不思議そうに首を傾げた。

 

「そうかな。最低限だと思うけど」

 

幹比古が苦笑する。

 

「鷹山くんの最低限は、普通より少し多い気がする」

 

「そう?」

 

達也は道具を確認しながら淡々と言った。

 

「備えとしては妥当だ」

 

「ほら、達也くんもこう言ってる」

 

「達也の妥当を基準にするなよ」

 

レオが呆れたように言う。

 

聖火は軽く笑った。

 

この釣りは、前夜の散歩中に決まったものだった。

 

聖火とレオが、女子たちの会話から逃げるように外へ出た後、散歩がてら釣り場を探した。

 

その帰り道、聖火はふと思い出した。

 

達也と幹比古を置いてきたことを。

 

正確には、女子たちの会話が盛り上がる居間へ、二人を残してきたことを。

 

戻った時、達也はいつも通りだった。

 

幹比古も、何とか無事だった。

 

ただ、幹比古の目が少しだけ疲れていた。

 

聖火はそこで、静かに手を合わせた。

 

「ごめん」

 

幹比古は何も言わなかった。

 

その沈黙が、逆に重かった。

 

だから、聖火は言った。

 

「明日の朝、釣りに行かない?」

 

すると、レオがすぐに乗った。

 

達也も、少し考えてから頷いた。

 

幹比古は一瞬だけ迷ったが、エリカに見つかる前に早朝から外へ出る口実になると気づいたらしく、最終的には参加を決めた。

 

そうして今、男四人は夜明け前の岩場にいる。

 

海はまだ薄暗い。

 

東の空だけが、少しずつ白み始めていた。

 

波は穏やかだった。

 

風も強くない。

 

聖火は周囲を確認し、岩場の足元を見た。

 

「ここなら大丈夫そうだね。滑りやすいところだけ気をつけて」

 

「はいはい」

 

レオが軽く返事をする。

 

「西城」

 

達也が静かに言った。

 

「返事だけで済ませるな。落ちたら面倒だ」

 

「分かってるって」

 

「分かっている者の返事ではない」

 

「達也まで厳しいな」

 

幹比古が控えめに言う。

 

「でも、岩場は本当に危ないから気をつけた方がいいと思う」

 

「幹比古まで」

 

「レオは少し勢いで動くところがあるから」

 

「お前ら、朝から俺に厳しくないか?」

 

聖火は仕掛けを確認しながら笑った。

 

「愛されてるね、レオくん」

 

「これが愛か?」

 

「たぶん」

 

「その愛、ちょっと痛いぞ」

 

そんなことを言いながら、四人は釣りの準備を始めた。

 

達也は無駄なく仕掛けを組む。

 

聖火は手際よく餌と道具を配る。

 

幹比古は少し慣れない手つきながらも、丁寧に準備を進める。

 

レオは勢いだけで針を結ぼうとして、聖火に止められた。

 

「レオくん、それだとたぶん外れる」

 

「まじか」

 

「まじ」

 

「釣りって難しいな」

 

「まだ釣る前だよ」

 

聖火は苦笑しながら、レオの仕掛けを直した。

 

やがて、四人の釣り糸が朝の海へ落ちる。

 

しばらく、誰も話さなかった。

 

波の音。

 

糸が風に揺れる小さな音。

 

遠くで鳥が鳴く声。

 

まだ日が昇り切らない小笠原の朝は、静かだった。

 

レオが小さく呟く。

 

「いいな、こういうの」

 

聖火は海を見たまま頷いた。

 

「うん。悪くない」

 

達也も、静かに水面を見ている。

 

幹比古は、朝焼けに照らされ始めた海を見ながら、少しだけ表情を緩めていた。

 

前日の騒がしさが嘘のようだった。

 

この時間だけは、誰も急かさない。

 

誰も騒がない。

 

ただ、海と、釣り糸と、静かな朝があるだけだった。

 

 

 

四人が釣り糸を垂らしてから、しばらく経った。

 

最初に釣果を上げたのは、達也だった。

 

竿先がわずかに揺れる。

 

普通なら見逃しそうな小さな変化だった。

 

だが、達也は何の迷いもなく竿を上げ、糸を巻いた。

 

無駄のない動作だった。

 

慌てない。

 

力まない。

 

魚の動きに合わせ、必要な分だけ手を動かす。

 

やがて、朝の海面から小ぶりな魚が姿を見せた。

 

レオが目を丸くする。

 

「早っ」

 

幹比古も驚いたように見る。

 

「今、当たりが分かったの?」

 

「分かった」

 

達也は淡々と答えた。

 

聖火は少しだけ笑う。

 

「達也くん、相変わらず釣りも合理的だね」

 

「無駄に動かないだけだ」

 

「それが難しいんだと思うけど」

 

達也は釣れた魚を確認し、手早く処理した。

 

その動きも妙に慣れている。

 

レオは感心したように言った。

 

「達也、お前、釣りできたのか」

 

「たまにしている」

 

「たまに?」

 

聖火が補足する。

 

「前に釣り堀に行ったことがあってね。それから、たまに種類問わず釣りをするようになったんだよ」

 

「達也が?」

 

「うん。深雪ちゃんと一緒だったり、うちと一緒だったり」

 

レオは少しだけ意外そうな顔をした。

 

「へえ。なんか達也が釣りって、ちょっと意外だな」

 

「そうか」

 

達也はいつも通りの顔で答える。

 

聖火は肩をすくめた。

 

「達也くん、やるならちゃんと調べてやるからね。今では普通にガチだよ」

 

「ガチと言うな」

 

「実際、道具選びも仕掛けも無駄がないじゃない」

 

「必要なものを選んでいるだけだ」

 

「それをガチと言うんだよ」

 

レオは自分の竿を見た。

 

まだ何も釣れていない。

 

「俺も見習うか」

 

「まず針を海に入れたまま余計に動かさない方がいい」

 

達也が淡々と言った。

 

「え、動かしちゃ駄目なのか?」

 

「動かし方による」

 

「難しいな」

 

「釣りだからな」

 

幹比古は苦笑しながら、自分の仕掛けを確認していた。

 

彼も初心者に近い。

 

ただ、レオと違って勢いで動かすことはない。

 

一つ一つの動作は丁寧だった。

 

その分、少し慎重すぎる。

 

聖火は幹比古の横に立ち、軽く声をかけた。

 

「幹比古くん、そこは少し緩めても大丈夫だよ」

 

「あ、うん。ありがとう」

 

「力を入れすぎると、逆に動きが固くなるから」

 

「釣りの話?」

 

「半分は」

 

幹比古は聖火を見た。

 

「半分?」

 

聖火は小さく笑った。

 

「昨日のレオくんの話とも少しつながるかな」

 

幹比古は少しだけ表情を変えた。

 

昨夜、聖火とレオが外へ出ていたことは知っている。

 

詳しい内容までは聞いていない。

 

だが、戻ってきた時のレオの表情が少しだけ軽くなっていたことには気づいていた。

 

「何か話したの?」

 

「少しだけね」

 

聖火はそれ以上は言わなかった。

 

代わりに、足元の岩場へ視線を落とす。

 

潮風が吹く。

 

その風に合わせるように、聖火が指先を小さく動かした。

 

幹比古は、その動きを見逃さなかった。

 

ほんの一瞬。

 

岩場の周囲を流れる空気が、わずかに変わった。

 

強い術ではない。

 

攻撃でも、防御でもない。

 

ただ、足元にまとわりつく湿った風を少しだけ逃がし、虫や小さな飛沫が寄りにくくなるように整えただけの、極めて小さな術。

 

しかし、幹比古には分かった。

 

今のは、ただの現代魔法ではない。

 

「鷹山くん」

 

「うん?」

 

「今の、古式魔法?」

 

聖火は少しだけ目を瞬かせた。

 

それから、苦笑する。

 

「よく気づいたね」

 

「一応、僕の家はそういう家だから」

 

「それもそうか」

 

聖火は軽く指を開いた。

 

「大したものじゃないよ。潮風と虫除けを少し整えただけ」

 

「その“大したものじゃない”が、少し気になるんだけど」

 

幹比古は真面目な顔で言った。

 

「普通、そんなに自然に使うものじゃない」

 

「そうかな」

 

「少なくとも、僕はそう思う」

 

聖火はしばらく海を見た。

 

達也とレオは少し離れた場所で、釣り糸を見ている。

 

こちらの会話に気づいてはいるだろうが、口を挟む気配はない。

 

聖火は少し声を落とした。

 

「俺はさ、古式魔法を勉強しているって感覚が、あんまりないんだ」

 

幹比古は眉を上げた。

 

「勉強していない?」

 

「していないわけじゃないよ。資料は読むし、術の形も試す。ただ、魔法を学んでいるというより、歴史を読んでいる感覚に近い」

 

「歴史?」

 

「うん」

 

聖火は海の方を見た。

 

朝日が、少しずつ水平線の上へ広がっている。

 

「古式魔法って、人が昔、自然とどう付き合っていたかの記録でもあると思うんだ」

 

幹比古は黙って聞いた。

 

「風が怖い。海が怖い。山が怖い。病が怖い。夜が怖い。けれど、怖いだけじゃ生きられない。だから名前をつけて、形を与えて、祈って、なだめて、時には借りた」

 

聖火は自分の手を見る。

 

「それが積み重なって、術になった。そう考えると、古式魔法はただの技術じゃなくて、人が何を恐れて、何を守ろうとしたかの跡に見える」

 

幹比古は、少しだけ息を呑んだ。

 

それは、彼が普段考えている古式魔法とは違う見方だった。

 

幹比古にとって古式魔法は、家に伝わる術であり、失敗した自分と向き合うものでもある。

 

力を取り戻すためのもの。

 

家の名に恥じないためのもの。

 

そういう重さがあった。

 

だが、聖火の言葉は少し違う。

 

もっと遠くから見ている。

 

家ではなく、人。

 

術ではなく、歴史。

 

血筋ではなく、営み。

 

「鷹山くんは、そういう風に見ているんだ」

 

「うん。たぶんね」

 

「たぶん?」

 

「断定すると、また達也くんに突っ込まれそうだから」

 

幹比古は少し笑った。

 

「それは分かる気がする」

 

聖火も笑う。

 

幹比古は、海へ視線を戻した。

 

「今度、その資料の話を聞かせてもらってもいい?」

 

聖火は少し意外そうに目を瞬かせた。

 

それから、柔らかく笑った。

 

「もちろん。父さんの資料も混ざってるから、少し癖はあるけど」

 

「構わないよ」

 

「なら、今度うちに来てみる?」

 

「鷹山くんの家に?」

 

「うん。夏休み中なら時間も取りやすいと思うし、父さんの資料も見せられると思う」

 

幹比古は一瞬、迷った。

 

古式魔法に関する資料。

 

それも、魔法師の家に伝わるものではなく、歴史や民俗の側から集められた資料。

 

興味がないはずがなかった。

 

「迷惑じゃないかな」

 

「全然。父さん、そういう話ができる相手が来たらたぶん喜ぶよ」

 

「そうなの?」

 

「うん。話が長くなる可能性はあるけど」

 

「それは……少し覚悟しておく」

 

聖火は笑った。

 

「あと、母さんがたぶんお茶とお菓子を出す」

 

「そこまで?」

 

「うちは来客をそれなりに歓迎する家だから」

 

「それなり、なんだ」

 

「母さん基準だと、かなり」

 

幹比古は少し笑った。

 

その笑いは、先ほどよりも柔らかかった。

 

「じゃあ、お願いしてもいいかな」

 

「もちろん」

 

聖火は海へ視線を戻した。

 

「古式魔法を、家のものとして見るのも大事だと思う。でも、少し離れた場所から見ると、別の形に見えることもあるから」

 

幹比古は静かに頷いた。

 

「うん。今の話だけでも、少しそう思った」

 

「なら、来る価値はあるかも」

 

「楽しみにしているよ」

 

その時、幹比古の竿先が小さく揺れた。

 

聖火が目を細める。

 

「幹比古くん」

 

「え?」

 

「来てる」

 

「え、これ?」

 

「うん。焦らないで」

 

幹比古は慌てかけたが、聖火の声で踏みとどまった。

 

ゆっくり竿を上げる。

 

達也が横から短く言う。

 

「巻け」

 

「う、うん」

 

ぎこちないながらも、幹比古は糸を巻いた。

 

やがて、小さな魚が海面から姿を見せる。

 

「釣れた……」

 

幹比古が呟く。

 

聖火は笑った。

 

「おめでとう」

 

レオが悔しそうに叫ぶ。

 

「幹比古まで!?」

 

「レオくん、焦らない」

 

「焦るだろ、俺だけまだなんだぞ!」

 

「魚にも都合があるから」

 

「魚の都合って何だよ!」

 

朝の岩場に、レオの声が響いた。

 

達也は三匹目を釣っていた。

 

聖火はほどほどに釣れていた。

 

幹比古は一匹目を大事そうにバケツへ入れている。

 

レオだけが、まだ何も釣れていなかった。

 

小笠原の二日目は、静かな朝から始まるはずだった。

 

だが、どうやらそれは、男四人だけの話でも十分に賑やかなものになりそうだった。

 

 

 

 

 

 

 

朝の釣りを終えた後、魚の処理や朝食のあれこれは、北山家の使用人たちの手も借りて滞りなく済んだ。

 

レオだけが釣果ゼロという事実をしばらく引きずっていたが、朝食を前にすると、その悔しさもある程度は薄れたらしい。

 

少なくとも、食べる速度だけはいつも通りだった。

 

そして、午前。

 

一行は再びプライベートビーチへ出ていた。

 

昨日に続き、全員水着姿である。

 

白い砂浜。

 

澄んだ海。

 

照りつける陽射し。

 

波打ち際では、レオとエリカが早速騒いでいる。

 

「レオ、そっち行ったわよ!」

 

「任せろ!」

 

「任せろって言ったわりに、今の完全に空振りじゃない」

 

「砂浜でボールって意外と難しいんだよ!」

 

美月は少し離れた場所で、その二人を見ながら笑っていた。

 

幹比古は美月の近くに立っているが、やはりどこか落ち着かない。

 

昨日よりは慣れたようだが、水着姿の女子たちがいる砂浜という環境は、彼にとってまだ難易度が高いらしい。

 

聖火はパラソルの下に座り、飲み物の入ったクーラーボックスを確認していた。

 

昨日よりは大人しくしている。

 

少なくとも、雫の視線がある間は。

 

その雫は、隣に座って海を眺めていた。

 

いつも通りの無表情に近い顔だったが、どこか楽しんでいるようにも見える。

 

問題は、少し離れた波打ち際だった。

 

そこには、達也がいた。

 

そして、その左右には深雪とほのかがいた。

 

深雪は当然のように達也の隣に立ち、日差しを気にするようにタオルを持っている。

 

ほのかは少し緊張しながらも、反対側から達也に話しかけていた。

 

「達也さん、あの、次は少し泳ぎませんか?」

 

「泳ぐのか」

 

「はい。せっかく海に来ていますし」

 

「お兄様」

 

深雪が柔らかく微笑む。

 

「お疲れでしたら、無理をなさらなくてもよろしいかと」

 

「いや、問題ない」

 

達也は淡々と答えた。

 

「少し泳ぐくらいなら構わない」

 

ほのかの表情が明るくなる。

 

「本当ですか?」

 

「ああ」

 

深雪の微笑みは崩れない。

 

崩れないが、少しだけ周囲の温度が下がったような気がした。

 

聖火はそれを遠目に見ながら、クーラーボックスを閉じた。

 

雫も同じ方向を見ている。

 

しばらくして、雫がぽつりと言った。

 

「ミステリーが始まりそう」

 

聖火は一瞬だけ沈黙した。

 

それから、達也を挟む深雪とほのかを見た。

 

青い海。

 

白い砂浜。

 

美しい少女二人。

 

その中央に立つ無表情な達也。

 

確かに、構図だけなら何かが起きそうだった。

 

聖火は小さく息を吐く。

 

「それ、殺されるのほのかちゃんか達也くんなんだけど」

 

雫は少しだけ首を傾げた。

 

「深雪は?」

 

「犯人候補筆頭」

 

「なるほど」

 

「納得しないで」

 

その瞬間、背後から声が飛んできた。

 

「ちょっと、あんたたち何の話してるのよ」

 

エリカだった。

 

いつの間にかボールを抱えて近くまで来ている。

 

レオもその後ろから顔を出した。

 

「ミステリーって何だ?」

 

聖火は深雪たちの方を指さした。

 

「ほら、あの構図」

 

エリカとレオがそちらを見る。

 

達也を挟んで、深雪とほのか。

 

片方は完璧な妹。

 

もう片方は一途な少女。

 

そして、当の達也はいつも通り平然としている。

 

エリカは数秒黙った。

 

それから、深く頷いた。

 

「始まるわね」

 

「始まるんだ」

 

聖火が言うと、エリカは真面目な顔で答えた。

 

「あれは始まるわ」

 

レオも腕を組む。

 

「でも、殺人事件って感じじゃなくねえか?」

 

「何事件に見える?」

 

聖火が聞くと、レオは少し考えた。

 

「……達也争奪戦?」

 

「それは事件じゃなくて日常だね」

 

「日常なのかよ」

 

雫が淡々と続ける。

 

「第一被害者、達也」

 

「やっぱり達也くんが被害者なんだ」

 

「精神的に」

 

「それは否定できない」

 

エリカがにやりと笑った。

 

「第二被害者はほのかね」

 

「何でだよ」

 

レオが聞く。

 

「深雪の無言の圧」

 

「あー」

 

レオは納得しかけたが、すぐに慌てて口を閉じた。

 

深雪の方を見たのだ。

 

幸い、深雪はこちらの会話には気づいていないようだった。

 

あるいは、気づいていて聞こえないふりをしているのかもしれない。

 

後者なら、かなり怖い。

 

聖火は少しだけ姿勢を正した。

 

「この話、ここまでにしよう」

 

「急に慎重になったわね」

 

エリカが笑う。

 

「昨日学んだから」

 

「氷河期発言の反省?」

 

「命は大事だから」

 

雫が短く頷いた。

 

「学習してる」

 

「褒められてる?」

 

「たぶん」

 

「たぶんかあ」

 

その時、波打ち際でほのかが少し足を滑らせた。

 

「あっ」

 

達也は自然な動きで、その腕を支えた。

 

本当に自然だった。

 

余計な力はなく、慌てる様子もない。

 

ただ、転びそうになった相手を支えただけ。

 

「大丈夫か」

 

「は、はい……!」

 

ほのかの顔が真っ赤になる。

 

深雪の笑顔は、まだ美しい。

 

だが、海風が少し冷たくなった。

 

聖火は無言で、雫の方を見た。

 

雫も、聖火を見た。

 

「ミステリー」

 

「始まったね」

 

「第一章」

 

「章立てしないで」

 

エリカは笑いをこらえ、レオは状況が分かっているような分かっていないような顔をしていた。

 

幹比古は少し離れた場所で、美月に何か話しかけられていたが、こちらの空気にも気づいているらしく、微妙に困った表情をしている。

 

一方の達也は、ほのかを支えた手を自然に離し、何事もなかったように海へ視線を戻した。

 

それが、さらにほのかを動揺させる。

 

深雪は一歩、達也に近づいた。

 

「お兄様、私もご一緒してよろしいでしょうか」

 

「構わない」

 

「ありがとうございます」

 

ほのかも慌てて言う。

 

「わ、私もご一緒します」

 

「ああ」

 

達也は普通に頷いた。

 

三人はそのまま海へ向かって歩き出した。

 

深雪は達也の右側。

 

ほのかは左側。

 

達也は中央。

 

構図は変わらない。

 

むしろ、より完成度が上がっていた。

 

聖火はしばらく黙って見送った。

 

そして、ぽつりと言った。

 

「探偵役、誰がやるんだろう」

 

雫は即答した。

 

「聖火」

 

「嫌だよ。犯人候補に凍らされる探偵じゃん」

 

エリカが吹き出した。

 

「それ、ちょっと見たい」

 

「見たくないよ」

 

レオが笑いながらボールを投げる。

 

「よし、探偵役は聖火で決まりだな」

 

「だから嫌だって」

 

「じゃあ助手は雫だな」

 

雫は短く頷いた。

 

「分かった」

 

「受けるんだ」

 

聖火が驚くと、雫は淡々と言った。

 

「面白そう」

 

「雫ちゃん、意外とこういうの好きだよね」

 

「嫌いじゃない」

 

聖火は海の方を見た。

 

達也と深雪とほのかは、波打ち際で何やら話している。

 

今のところ事件は起きていない。

 

ただし、火種は十分だった。

 

南国の海。

 

白い砂浜。

 

そして、達也を挟んだ二人の少女。

 

小笠原の休日二日目。

 

どうやら、釣りよりも難しいものが始まろうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

その後の二日目は、穏やかに過ぎていった。

 

海で泳ぎ、砂浜で遊び、昼には休み、夕方には少し散歩をした。

 

レオは結局、釣りの悔しさを何度か蒸し返したが、そのたびにエリカにからかわれていた。

 

幹比古は、朝の釣り場で聖火と話したことを時折思い出しているようだった。

 

美月はそんな幹比古の様子を、少し不思議そうに見ていた。

 

ほのかは達也に話しかけるたびに緊張し、深雪はそれを見て静かに微笑んでいた。

 

その微笑みが昨日ほど冷たくなかったことに、聖火は少しだけ安心した。

 

雫は、いつも通り淡々としていた。

 

ただ、聖火が何かを手伝おうとするたびに、

 

「休む」

 

と短く止めた。

 

そのたびに聖火は、

 

「はい」

 

と素直に座らされた。

 

小笠原の二泊三日は、そうして過ぎていった。

 

 

 

日曜日。

 

一行は北山家の別荘を後にした。

 

雫は最後まで淡々としていたが、別荘の管理をしてくれた人たちへ礼を言う時だけは、少しだけ表情が柔らかかった。

 

達也は荷物の確認を手伝い、深雪はその隣で丁寧に礼を述べる。

 

ほのかは何度も海を振り返り、エリカは「また来たいわね」と笑った。

 

レオは「次は絶対釣る」と宣言し、幹比古は苦笑しながらそれを聞いていた。

 

聖火はその様子を見て、小さく息を吐いた。

 

休暇。

 

たぶん、そう呼んでいい時間だった。

 

少なくとも、九校戦の後始末に追われていた時よりは、ずっと肩の力が抜けていた。

 

 

 

 

 

 

 

港に着いた頃には、旅の終わりらしい空気が流れていた。

 

それぞれが荷物を持ち、帰りの予定を確認する。

 

家へ戻る者。

 

途中まで一緒に帰る者。

 

迎えを待つ者。

 

その流れの中で、聖火は雫に声をかけた。

 

「雫ちゃん」

 

「何?」

 

雫は小さく首を傾げる。

 

聖火は少しだけ考えてから言った。

 

「前に言っていたパウンドケーキのことなんだけど」

 

雫の目が、ほんの少しだけ動いた。

 

「覚えてた?」

 

「もちろん」

 

聖火は苦笑した。

 

「九校戦のダンスの時に、しっかり要求されたからね」

 

「要求した」

 

「うん。要求された」

 

あの時、雫は淡々と告げていた。

 

アイス・ピラーズ・ブレイクの後に、結局ケーキを食べていない。

 

だから、別の形で用意してほしい。

 

そういう意味の要求だった。

 

聖火も、それを忘れていたわけではない。

 

ただ、九校戦の後始末やら何やらで、すぐには用意できなかっただけだ。

 

「フルーツのパウンドケーキなら、夏休みの終わりごろには用意できそうなんだけど」

 

「フルーツ」

 

雫が短く繰り返す。

 

「うん。今回の凍ったフルーツも美味しかったし、果物を使うのもいいかなと思って」

 

「食べたい」

 

即答だった。

 

聖火は少し笑った。

 

「即答だね」

 

「待ってた」

 

「それは責任重大だ」

 

雫は聖火を見上げる。

 

「持ってきてくれる?」

 

「それを聞こうと思ってた。持って行っても大丈夫?」

 

「大丈夫」

 

雫は少し考えた。

 

そして、いつもの淡々とした声で続ける。

 

「どうせなら、うちで食べたい」

 

「雫ちゃんの家で?」

 

「うん」

 

雫は頷いた。

 

「ほのかと深雪も誘う」

 

聖火は少しだけ目を瞬かせた。

 

「三人で?」

 

「四人」

 

「俺も数に入ってる?」

 

「作った人も必要」

 

「なるほど」

 

雫らしい理屈だった。

 

少し離れたところにいたほのかが、二人の会話に気づいて近づいてくる。

 

「雫、何の話?」

 

「パウンドケーキ」

 

「パウンドケーキ?」

 

ほのかが首を傾げる。

 

雫は短く説明した。

 

「夏休みの終わりごろ、聖火が作る」

 

「えっ、聖火くんが?」

 

「うん」

 

聖火は少しだけ手を上げた。

 

「まだ予定だけどね。フルーツのパウンドケーキにしようかと思って」

 

ほのかの表情が明るくなる。

 

「美味しそうです」

 

「ほのかも来る」

 

「え?」

 

雫は当然のように言った。

 

「うちで食べる」

 

「わ、私も?」

 

「うん」

 

ほのかは一瞬驚いた後、嬉しそうに微笑んだ。

 

「うん。行きたい」

 

そこへ深雪も、静かに近づいてきた。

 

「何のお話ですか?」

 

雫は深雪を見る。

 

「パウンドケーキ」

 

「パウンドケーキ、ですか?」

 

「夏休みの終わりごろ、聖火が作る。うちで食べる。深雪も来る」

 

深雪は少し目を瞬かせた。

 

それから、柔らかく微笑む。

 

「よろしいのですか?」

 

「うん」

 

聖火も頷いた。

 

「深雪ちゃんも都合が合えば。九校戦での約束みたいなものだから」

 

「そういうことでしたら、ぜひ」

 

深雪は上品に頷いた。

 

「楽しみにしています」

 

雫は満足そうに小さく頷いた。

 

「決まり」

 

「早いね」

 

聖火が言うと、雫は当然のように答えた。

 

「ケーキは大事」

 

「そこは否定できない」

 

ほのかが楽しそうに笑い、深雪も小さく微笑んだ。

 

三人の間に、穏やかな空気が流れる。

 

九校戦の緊張。

 

小笠原での少し騒がしい出来事。

 

達也を挟んだ、言葉にしづらい空気。

 

そういうものが完全に消えたわけではない。

 

けれど、甘いものを囲む約束くらいは、素直に楽しみにしてもいい。

 

聖火はそう思った。

 

少し離れたところで、エリカが何か言いたげな顔をしていた。

 

レオは荷物を肩に担ぎながら、まだ釣りの話をしている。

 

幹比古はそんなレオに苦笑していた。

 

達也は帰りの経路を確認している。

 

聖火は港の向こうに見える海を一度振り返った。

 

小笠原の海。

 

白い砂浜。

 

朝の釣り。

 

夜の波音。

 

凍ったフルーツ。

 

そして、夏休みの終わりごろの約束。

 

旅行は終わる。

 

けれど、そこで交わした約束までは終わらない。

 

「じゃあ、帰ったら日程を考えておくよ」

 

聖火が言うと、雫は静かに頷いた。

 

「待ってる」

 

こうして、小笠原の休日は終わった。

 

けれど、その休日が残したものは、案外多かった。

 

レオには、水曜日の約束。

 

幹比古には、鷹山家を訪ねる約束。

 

雫とほのかと深雪には、夏休みの終わりのパウンドケーキ。

 

そして聖火には、少しだけ休んだという実感。

 

南国の海で過ごした二泊三日は、それぞれに小さな続きを残して、静かに幕を下ろした。

 




深雪対ほのかの達也争奪戦は一体どちらが勝ってしますのか(結果はわかってます)

そんな感じで終わりです。この話はどちらかというとほかの話のつなぎ的な立ち位置になります。

次回海外の友人がついに来日。何者なんだ!
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。