深夜が最初に感じたのは、静けさだった。
戦場の音が遠い。
銃声も、爆発音も、人の悲鳴も、すべて厚い布の向こう側に押し込められているように聞こえた。
次に感じたのは、身体の軽さだった。
おかしい。
深夜は、自分の身体の状態を理解していた。
魔法演算領域にかかっていた負荷。
精神干渉の反動。
深雪を守るために削った余力。
そして、限界を超えて使った魔法による肉体への反動。
本来なら、目を覚ました瞬間に痛みがあるはずだった。
頭の奥が軋むような痛み。
呼吸をするたびに胸を削られるような重さ。
指先まで鉛になったような倦怠感。
それらが、ない。
完全に消えているわけではない。
だが、遠い。
遠ざけられている。
まるで、痛みだけを薄い膜の向こう側へ押し込められているようだった。
「……」
深夜はゆっくりとまぶたを開いた。
白い天井が見えた。
どこかの治療室か。
軍の施設か。
それとも、四葉が確保した臨時の医療区画か。
すぐには分からなかった。
その直後だった。
「起きたか」
聞き覚えのある声がした。
深夜の呼吸が、一瞬だけ止まる。
見たくない。
そう思った。
だが、見ないわけにはいかなかった。
深夜は声のした方へ視線を向ける。
そこに、少年がいた。
黒い外套。
変わらない顔。
時間に置き去りにされたような姿。
そして、どこまでも乾いた目。
鷹山聖火。
かつて、真夜を炎の中から連れ出した少年。
真夜が赤い羽を大切に持ち続ける原因になった男。
深夜が一度、自分の治療を拒んだ相手。
そして今、よりにもよって自分を救ったらしい男。
深夜は数秒だけ黙った。
そして、静かに言った。
「……最悪の目覚めですね」
聖火は表情を変えなかった。
「意識があるなら良好だ」
「よりによって、あなたの顔を見ることになるとは思いませんでした」
「俺も、よりによって君を拾うことになるとは思っていなかった」
「拾う?」
深夜の声に、わずかに棘が混じる。
「私は荷物ではありません」
「患者だ」
即答だった。
深夜は薄く目を細めた。
「不愉快な訂正ですこと」
「命があれば文句も言える」
「相変わらずですね」
「よく言われる」
「でしょうね」
部屋の空気は静かだった。
だが、穏やかではない。
深夜の中には、いくつもの感情が渦巻いていた。
屈辱。
安堵。
苛立ち。
そして、認めたくない救済感。
自分はこの男に助けられた。
よりにもよって、この男に。
真夜の前に現れ、真夜の身体を救い、真夜が失ったはずの未来を返した男。
真夜の中に、赤い羽という消えない痕跡を残した男。
深夜が、自分の治療を拒んだ相手。
その男に、今度は自分が拾われた。
その事実が、ひどく腹立たしかった。
「深雪は」
「黒髪の少年が戻した」
「……達也ですね」
「名前は知らない」
「聞かなかったのですか」
「患者を抱えている相手の自己紹介を聞く趣味はない」
深夜は、ほんのわずかに笑った。
「あなたらしいですね」
「俺を知っているような言い方だな」
「知らないわけではありません」
深夜はそこで言葉を切った。
沈黙が落ちる。
聖火は深夜を見ていた。
その視線は、女を見るものではない。
四葉を見るものでもない。
過去の因縁を見るものでもない。
患者を見る目だった。
ただし、哀れみはない。
それが深夜には、不愉快であり、同時に少しだけ楽でもあった。
責められれば、反論できた。
哀れまれれば、拒絶できた。
真夜のことを持ち出されれば、怒ることもできた。
だが、聖火はそれをしない。
ただ患者として見る。
壊れた箇所を確認し、必要な処置を施し、生きていることを確認する。
それだけだった。
だから腹が立つ。
この男の前では、自分の罪も、後悔も、言い訳も、すべて診察台の上に並べられているような気がした。
「私に、何をしました」
「応急処置だ」
「身体のことではありません」
深夜の声が低くなる。
「私の精神に触れましたか」
「触れていない」
聖火は即答した。
「乱れていた負荷を逃がした。呼吸と脈を整えた。魔法演算領域の過剰な緊張を緩めた。それだけだ」
「精神の奥には」
「触れていない」
「なぜ」
「本人が起きていないからだ」
聖火は淡々と言った。
「意識のない人間の心を勝手に弄る趣味はない」
深夜の表情が、わずかに動いた。
「……皮肉ですか」
「違う」
「そう聞こえました」
「なら、君がそう聞きたかったんだろう」
深夜は返さなかった。
言葉を返せなかったのではない。
返せば、自分からその場所へ踏み込むことになる。
真夜。
あの夜。
自分が妹に施した処置。
あれを間違いだったとは言えない。
けれど、正しかったとも言えない。
聖火は、そこへ踏み込まなかった。
責めもしない。
赦しもしない。
ただ、患者として見ている。
それが、何より不愉快だった。
「言っておくが、今回は本当に応急処置だけだ」
「あなたにしては控えめですね」
「君相手に踏み込みすぎると、起きた後が面倒だ」
「賢明です」
「だろうな」
「ですが、無性に腹が立ちます」
「俺も君に褒められると落ち着かない」
深夜は小さく息を吐いた。
ため息とも、笑いともつかない息だった。
「本当に、不愉快な方」
「起きてすぐそれだけ言えれば十分だ」
「あなたの顔を見れば、誰でも目が覚めます」
「便利だな。次から覚醒剤代わりに使うか」
「やめなさい。医療倫理に反します」
「君に医療倫理を語られるとは思わなかった」
深夜の視線が冷たくなる。
「喧嘩を売っていますか」
「今は診察中だ」
「なら、ずいぶん不愉快な診察ですね」
「意識がはっきりしていて何よりだ」
深夜はしばらく聖火を見ていた。
そして、口元だけで笑った。
「やはり嫌いです」
「知っている」
「今も嫌いです」
「それも知っている」
「治療されて、さらに嫌いになりました」
「命が助かって何よりだ」
「あなたに助けられたという事実が、一番気に入りません」
「生きていれば、その不満も言える」
「最低ですね」
「よく言われる」
深夜は目を閉じた。
身体はまだ重い。
意識も完全ではない。
深雪の状況も、詳しくは分からない。
それでも、最悪の事態だけは避けられた。
その事実が、腹立たしいほどに確かだった。
よりにもよって、この男のおかげで。
「完全に治すには」
深夜は目を閉じたまま言った。
「時間がかかるのですね」
「かかる」
「私も?」
「君は特に面倒だ」
「失礼な」
「事実だ」
「治せないと?」
「治せる部分はある。触らない方がいい部分もある。時間をかけて分ける必要がある」
深夜は目を開けた。
「触らない方がいい部分、ですか」
「ああ」
「それは、私の身体の話ですか」
「身体だけなら楽だった」
深夜は黙った。
聖火も、それ以上は言わなかった。
治せる部分。
触らない方がいい部分。
それが何を指しているのか、深夜には分かった。
分かってしまった。
「つまり、あなたとまた会わなければならないと」
「残念ながら」
「最悪ですね」
「俺も気が重い」
「では、やめますか」
「患者が逃げるなら、追う」
「本当に最悪です」
「よく言われる」
深夜は、今度こそ少しだけ笑った。
弱く、疲れた笑みだった。
だが、作り物ではなかった。
「真夜には」
「言わない」
聖火は先に答えた。
深夜はわずかに目を見開いた。
「まだ何も言っていません」
「言いそうな顔をしていた」
「顔に出ていましたか」
「出ていた」
「不愉快です」
「便利だぞ」
「あなたに読まれるための顔ではありません」
「俺も読みたくて読んでいるわけじゃない」
深夜は目を閉じた。
「真夜には、言わないでください」
「善処する」
「信用できませんね」
「なら自分で口止めしろ。起きてからな」
「……本当に、不愉快」
「それだけ言えれば、もう少し眠っても死なない」
聖火は立ち上がった。
「寝ろ。文句は回復してからまとめて聞く」
「聞き流すのでしょう」
「よく分かっているじゃないか」
「最低」
「良好だ」
「何がですか」
「悪態のキレが戻ってきた」
深夜は枕に頭を沈めたまま、聖火を睨んだ。
「次に目を覚ました時、あなたの顔がないことを祈ります」
「祈りは専門外だ」
「なら、努力なさい」
「善処する」
「その言葉が一番信用できません」
「寝ろ、深夜」
聖火はそれだけ言った。
命令のようで、処置のようでもあった。
深夜は不満そうに目を細めたが、それ以上は言わなかった。
疲労が戻ってきていた。
痛みも、少しずつ輪郭を持ち始めている。
それは不快だった。
だが、どこか安心もした。
痛みが痛みとして戻る。
苦しさが苦しさとして分かる。
それは、自分がまだ生きている証拠だった。
あの男の処置は、痛みを奪ったのではない。
死に近づきすぎた身体を、生きている場所まで戻しただけだ。
だから、痛む。
だから、苦しい。
だから、まだ生きている。
深夜は眠りに落ちる寸前、小さく呟いた。
「……本当に、嫌な男」
聖火は静かに答えた。
「嫌われ者は慣れている」
深夜は、今度は返事をしなかった。
呼吸がゆっくりと深くなる。
聖火は深夜の脈を取った。
今すぐ死ぬことはない。
完全に治すには時間がかかる。
設備も必要だ。
本人の意識も、意思も必要になる。
そして何より、本人がその奥に触れられることを望まなければならない。
今はこれでいい。
悪態をつけるなら、まだ生きている。
怒れるなら、まだ戻れる。
嫌いだと言えるなら、まだこちら側にいる。
聖火はそれを確認して、治療室を後にした。
AIがうまく表現してくれない