正解だよ
水曜日の昼過ぎ。
都内の一角にある古い料亭の一室で、鷹山聖火は一人の外国人男性と向かい合っていた。
畳。
低い卓。
静かな庭。
障子越しに差し込む柔らかな光。
卓の上には、精進料理が並んでいる。
胡麻豆腐。
炊き合わせ。
季節の野菜。
香の物。
椀物。
魚も肉もない料理でありながら、一皿一皿に丁寧な手が入っていた。
外国人男性は、その一つ一つを静かに味わっていた。
大柄な男だった。
年齢は五十代ほどに見える。
短く整えられた髪。
無駄のない姿勢。
穏やかな表情。
だが、その身体の奥には、ただの旅行者や料理人とは思えない静けさがあった。
男は椀を置き、感心したように頷いた。
「いい出汁だ」
その日本語は、驚くほど自然だった。
発音にわずかな異国の響きはある。
だが、言葉選びも間も、十分にこなれている。
聖火は小さく笑った。
「相変わらず、日本食にうるさいな」
「料理人だからな」
男は当然のように答えた。
「食べるものを知らずに、作るものを語るのは失礼だ」
「それで精進料理まで語れるんだから、ほんと器用だよ」
「制限がある料理ほど面白い。肉も魚も使わず、どこまで満足させるか。あれは戦場の料理にも似ている」
「そこで戦場が出てくるあたり、やっぱりケイシーだな」
男――ケイシー・ライバックは、少しだけ口元を緩めた。
「お前の父親も似たようなことを言っていた」
「父さんが?」
「ああ。制限があるからこそ、人間の工夫が見える、と」
「言いそう」
聖火は納得したように頷いた。
ケイシーは箸を使い、煮物を一口運ぶ。
箸の扱いも慣れていた。
「治憲は元気か」
「元気だよ。最近は、仕事をしすぎないように周りから見張られてる」
「それはいい」
「いいのか?」
「働きすぎる男には、誰かが鎖をつけた方がいい」
「本人が聞いたら苦笑いするぞ」
「なら、伝えておけ」
「たぶん伝えない」
ケイシーは静かに笑った。
彼はアメリカから日本へ遊びに来ていた。
表向きは、旧友との再会と観光。
そして、日本の食文化と古い史跡を見て回るため。
料理人であり、歴史愛好家でもあるケイシーにとって、それは十分に自然な来日理由だった。
もっとも、聖火にとっては、それだけで終わらせるには惜しい相手でもあった。
二人の間に流れる空気は、年齢差のある友人同士のそれに近かった。
教師と生徒でもない。
保護者と子供でもない。
ただ、少し変わった縁でつながった歴史愛好家同士。
そして、それ以上に。
ケイシーは、聖火の正体を知っている数少ない友人の一人だった。
だからこそ、二人だけの時、聖火は余計な礼儀を挟まない。
挟む必要がなかった。
「それで」
ケイシーは椀を置いた。
「今日は、ノーヘッド・ドラゴンの件の礼だったな」
「うん。助かった」
聖火は素直に頷いた。
「こっちでも調べてはいたけど、海外側の繋がりはどうしても限界がある。ケイシーが調べてくれなかったら、いくつか確認に時間がかかってたと思う」
「連中は雑だが、根は深い。表に出ている頭だけを見て終わったと思うな」
聖火の目が少しだけ細くなる。
「分かってる」
「本当に分かっている顔だな」
「嫌な言い方するなあ」
「昔からだ」
「それもそうか」
ケイシーは茶を一口飲んだ。
「しかし、礼に精進料理とはな」
「不満?」
「まさか」
ケイシーは静かに首を横に振った。
「こういう礼の仕方は、お前らしい」
「俺らしい?」
「血の臭いがする話の後に、肉も魚もない料理を選ぶ」
聖火は一瞬だけ黙った。
それから、苦笑した。
「そういうつもりじゃなかったんだけど」
「無意識なら、なおさらだ」
ケイシーの声は穏やかだった。
だが、聖火の奥まで見ているような響きがあった。
聖火は小さく息を吐いた。
「まあ、今日は本当にお礼のつもりだったよ」
「だった?」
「もう一つ、頼みがある」
「やはりな」
「分かってた?」
「お前が食事だけで私を呼ぶ時は、もっと楽しそうな顔をしている」
「そんなに顔に出る?」
「出る」
「困ったな」
聖火は少しだけ視線を落とした。
それから、静かに話し始めた。
「友人を一人、見てほしい」
「怪我か」
「怪我じゃない。少なくとも、今すぐ治療が必要なものじゃない」
「では、何だ」
「呼吸」
ケイシーの目が、わずかに細くなった。
聖火は続ける。
「九校戦で、強い衝撃を受けた後、自分の呼吸の音が変わったと言ってた。本人はただの恐怖や緊張だと思っていたみたいだけど、俺には少し違って聞こえた」
「どう違った」
「外に出す呼吸じゃなくて、内側を巡らせる呼吸に近い。まだ荒くて、形にもなってない。でも、入口に立っているように見えた」
ケイシーは黙って聖火を見た。
「お前は、その少年を教えたいのか」
「俺には無理」
聖火は即答した。
「基礎の入口を見分けることはできても、ここから先を教えるには足りない。下手に触れば、身体を壊す可能性がある」
「だから私か」
「うん。せっかく日本にいるなら、会ってもらえないかと思って」
ケイシーは少しだけ目を伏せた。
庭の方から、ししおどしの音が聞こえた。
乾いた音が、静かな部屋に落ちる。
「その少年は、強くなりたいのか」
「強くなりたいと思う」
「なぜ」
「負けたから」
「単純だな」
「単純だけど、悪くない理由だと思う」
ケイシーは小さく頷いた。
「悪くない。負けを覚えている者は、まだ伸びる」
「会ってくれる?」
「今日は観光の予定を詰めていない。少し見るくらいなら構わん」
聖火は少しだけ安堵したように笑った。
「ありがとう」
「礼はまだ早い」
ケイシーは箸を置いた。
「見て、駄目なら駄目と言う」
「分かってる」
「私はあまり褒めない」
「それも伝えてある」
「ならいい」
ケイシーは立ち上がる。
「食後に身体を見るなら、少し歩こう。座ったままでは、食事にも身体にも失礼だ」
「自然公園で待ち合わせてる」
「いい場所だ」
「そう思って選んだ」
「なら行こう」
聖火も立ち上がった。
ノーヘッド・ドラゴンの件の礼として用意した精進料理。
その静かな食事は、いつの間にかもう一つの頼みごとへとつながっていた。
二人は料亭を後にし、レオが待つ自然公園へ向かった。
自然公園は、平日の昼過ぎということもあり、人影はまばらだった。
広い芝生。
木々の影。
遠くで聞こえる子供の声。
遊歩道の脇には、夏の濃い緑が広がっている。
聖火とケイシーが待ち合わせ場所へ向かうと、そこにはすでに一人の少年が立っていた。
西城レオンハルト。
レオは、落ち着かない様子で周囲を見ていた。
普段の彼なら、多少のことでは物怖じしない。
だが今日は違う。
聖火が「この分野の第一人者」とまで言った人物に会うのだ。
緊張するなという方が難しかった。
聖火が手を上げる。
「レオくん」
レオが振り向く。
「あ、聖火」
そして、聖火の隣に立つ大柄な外国人男性を見て、少しだけ背筋を伸ばした。
ここからは、他人の目がある。
だから、聖火のケイシーに対する口調も自然に変わった。
「レオくん。この人が、この間話したケイシー・ライバックさん」
聖火はそう紹介してから、ケイシーへ視線を向けた。
「ケイシーさん、こちらが西城レオンハルトくんです」
ケイシーは一歩前に出た。
そして、流暢な日本語で言った。
「初めまして、ケイシー・ライバックという。コックをやってるんだ。聖火とは歴史愛好家仲間さ」
レオは一瞬、固まった。
外国人が流暢な日本語を話したことにも驚いた。
だが、それ以上に、自己紹介の内容が予想外だった。
「……コック?」
「そうだ」
ケイシーは真面目な顔で頷いた。
「料理人だ」
レオは聖火を見る。
「聖火」
「うん」
「第一人者って言ってなかったか?」
「言ったよ」
「コックって言ったぞ」
「コックだよ」
「いや、意味が分かんねえ」
聖火は少し困ったように笑った。
「大丈夫。腕は本物だから」
「料理の?」
「それも本物」
「それも?」
レオの困惑は深まった。
ケイシーはそんなレオを見て、少しだけ楽しそうに目を細めた。
「料理も呼吸も、基本は同じだ」
「同じなんですか?」
「火加減を間違えれば料理は壊れる。呼吸を間違えれば身体が壊れる」
「……急に怖い話になった」
「怖いものほど、丁寧に扱えば役に立つ」
ケイシーはそう言って、レオの前に立った。
視線が、静かにレオの身体を上から下まで通る。
威圧しているわけではない。
だが、見られている。
筋肉のつき方。
重心。
肩の高さ。
首の力み。
呼吸の深さ。
立ち方の癖。
そういったものを、一瞬で見られている気がした。
レオは思わず息を止めかけた。
ケイシーが言う。
「止めるな」
「え?」
「息だ。止めるな」
レオは慌てて息を吐いた。
ケイシーは頷く。
「聖火の言う通りだな」
聖火が少しだけ表情を引き締める。
「どうですか」
「入口にはいる」
ケイシーは短く答えた。
「だが、足元を見ずに扉を開けようとしている。危ない」
レオは眉を寄せた。
「それって、俺が無茶してるってことですか」
「まだ無茶をする前だ」
「前?」
「ああ。今なら止められる。今なら育てられる」
ケイシーは穏やかに言った。
「だから、今日会った意味はある」
レオは聖火を見た。
聖火は小さく頷く。
「よかったな、レオくん」
「いや、よかったのか?」
「よかったと思うよ」
ケイシーも頷いた。
「よかった。壊れてからでは遅い」
「やっぱり怖いな、この人」
レオが小声で言うと、聖火は苦笑した。
「言っただろ。根はやさしい人だって」
「根しか見えねえんだけど」
「今はそれで十分」
ケイシーは二人のやり取りを見て、静かに笑った。
「では、少し歩こう」
「歩くんですか?」
「まずは歩き方を見る」
「呼吸じゃなくて?」
「呼吸は足に出る。足は呼吸に戻る」
その言葉に、レオは一瞬黙った。
以前、聖火に言われた言葉を思い出したからだ。
足より先に乱れるもの。
その続きが、ここにある。
ケイシーは遊歩道の先へ視線を向けた。
「西城レオンハルト」
「はい」
「強くなりたいなら、まず普通に歩け」
「普通に?」
「そうだ」
ケイシーは穏やかに微笑んだ。
「普通を甘く見る者は、最後に普通で壊れる」
レオは、何と返せばいいか分からなかった。
だが、その言葉が軽くないことだけは分かった。
「歩こう」
ケイシーはそう言って、遊歩道を進み始めた。
「どこまでですか?」
レオが尋ねる。
ケイシーは聖火を見た。
「この後は、聖火の家だったな」
「はい」
聖火は頷いた。
「父さんにも会ってもらいたいですし、資料も少し見せたいので」
「なら、そこまで歩く」
「え、歩くんですか?」
レオは思わず聞き返した。
自然公園から鷹山家まで、歩けない距離ではない。
だが、わざわざ歩くには少し長い。
ケイシーは当然のように頷いた。
「歩く」
「それも練習ですか?」
「練習ではない」
ケイシーは静かに言った。
「確認だ」
「確認?」
「お前がどう立ち、どう歩き、どう呼吸し、どこで力むかを見る」
レオは少しだけ背筋を伸ばした。
それを見て、ケイシーはすぐに言った。
「構えるな」
「え?」
「今のそれだ。見られていると思った瞬間に、肩が上がった」
「……そんなに分かるんですか」
「分かる」
ケイシーは短く答えた。
聖火はその横で、鞄から小さなメモ帳を取り出した。
レオがそれに気づく。
「聖火、何してんだ?」
「記録」
「記録?」
「レオくんの歩き方と、ケイシーさんの指摘。後で見返せるように」
「いや、そこまでしなくても」
「した方がいい」
聖火はさらりと言った。
「俺は全部覚えていられるほど器用じゃないし、ケイシーさんの言葉は短いけど、後で効いてくるから」
ケイシーは小さく笑う。
「よく分かっている」
「何回もやられたので」
「昔のお前は、聞いているようで聞いていなかった」
「昔の話を今しないでください」
「今の方が聞く」
「否定できませんね」
二人のやり取りを聞いて、レオは少しだけ目を瞬かせた。
聖火とケイシーの間には、明らかに長い付き合いがある。
それも、ただの知人ではない。
聖火が人前で敬語を使っているせいで分かりにくいが、時折こぼれる言葉の端に、互いをよく知っている距離が見えた。
ケイシーは歩き出した。
聖火が一歩後ろに続く。
レオも慌ててその横についた。
「普通に歩け」
ケイシーが言う。
「普通って、意識すると難しいんですけど」
「なら、難しいことをしている自覚を持て」
「いきなり厳しいな……」
「厳しくはない。事実だ」
ケイシーは前を向いたまま続けた。
「右足」
「右足?」
「出す時に、少し強すぎる」
レオは自分の足元を見た。
「強すぎるって、踏み込みが?」
「そうだ。お前は歩いている時も戦う準備をしている」
「それ、悪いことなんですか?」
「悪くはない。だが、休めない」
その言葉に、レオは少しだけ黙った。
ケイシーはゆっくり歩きながら、さらに言う。
「強い身体は便利だ。だが、強い身体を持つ者は、何でも力で済ませようとする。扉を開ける。荷物を持つ。走る。止まる。倒れる。起きる。全部だ」
レオは苦笑した。
「それ、俺のことですか」
「お前のことだ」
「はっきり言うなあ」
聖火はメモ帳に書き込みながら、小さく笑った。
「ケイシーさんは、見たまま言うから」
「ほんとに褒めないんだな」
「言っただろ」
レオは少しだけ肩をすくめた。
その瞬間、ケイシーの声が飛ぶ。
「肩」
「え?」
「すくめるな。首が詰まる」
「首?」
「呼吸が上に逃げる」
レオは慌てて肩を下ろそうとした。
だが、力を抜こうとした結果、逆に不自然な姿勢になる。
ケイシーは立ち止まらずに言った。
「抜こうとするな」
「ええ?」
「抜こうとするのも力みだ」
「じゃあどうすればいいんですか」
「吐け」
レオは言われた通りに息を吐いた。
短く。
ケイシーはすぐに言う。
「短い」
レオはもう一度吐いた。
今度は少し長く。
「まだ胸だ」
「難しいな……」
「難しい。だから普通にやる」
ケイシーはそこで少しだけ歩調を落とした。
「吸うな」
「え?」
「先に吐く。吐ききる前に、腹の奥を落とせ。落とそうとするな。ただ、重さを下へ戻せ」
レオは眉間に皺を寄せた。
意味は分かるようで分からない。
だが、言われた通りに息を吐く。
胸からではなく、腹の奥へ向けて。
吐くというより、身体の中の余計な圧を下へ落とすように。
数歩。
十数歩。
歩きながら、レオは呼吸を探した。
その様子を、聖火は横から見ている。
そして、メモ帳に短く書き込んだ。
――右足が強い。
――肩が上がる。
――首が詰まる。
――吐く前に構える。
――腹奥へ落とす。
レオはそれを横目で見て、少しだけ苦い顔をした。
「俺、そんなに悪いのか?」
「悪いわけじゃないよ」
聖火はペンを止めずに答える。
「癖が強いだけ」
「それ、悪いってことじゃねえの?」
「伸びしろが分かりやすいってこと」
「物は言いようだな」
ケイシーが短く言う。
「悪い癖ではない。生き残るための癖だ」
レオは顔を上げた。
「生き残るため?」
「ああ。お前は前に出る。受ける。踏ん張る。倒れないようにする。そのための身体をしている」
ケイシーはレオの足元を見た。
「だが、前に出る者ほど、引く呼吸を覚えろ。受ける者ほど、逃がす呼吸を覚えろ。踏ん張る者ほど、沈む呼吸を覚えろ」
レオは黙って聞いていた。
「そうしなければ、強い場所から壊れる」
「強い場所から?」
「そうだ。弱い場所ではない。強い場所が、限界まで働いて壊れる」
聖火のペンが、一瞬止まった。
それから、静かに続きを書き込む。
レオは歩きながら、もう一度息を吐いた。
先ほどよりも長い。
先ほどよりも低い。
胸ではなく、腹の奥へ落ちるような息。
その瞬間、レオは自分の足が少し変わったことに気づいた。
地面を蹴っている感覚が薄い。
けれど、前に進んでいる。
足を持ち上げているというより、身体が自然に運ばれているような感覚だった。
「……あれ?」
レオが呟く。
聖火が顔を上げた。
「どうしたの?」
「いや、なんか」
レオは数歩歩いた。
また数歩。
「身体が軽い」
ケイシーは振り返らなかった。
ただ、静かに言う。
「軽いのではない」
「違うんですか?」
「余計な重さを自分で乗せていただけだ」
レオは足元を見る。
確かに、力を抜いたつもりはない。
むしろ、歩くという動作に集中している。
なのに、さっきより身体が楽だった。
肩が詰まっていない。
首の奥が少し空いている。
息が深く入る。
膝が硬くならない。
足裏が地面を叩くのではなく、受け取っているように感じる。
「何だこれ……」
レオの声には、素直な驚きがあった。
「魔法じゃないよな?」
「魔法ではない」
ケイシーは答える。
「呼吸と姿勢だ」
聖火が横から補足する。
「身体の使い方が変わったんだよ。ほんの少しだけ」
「ほんの少しでこれかよ」
「だから、危ないんだ」
聖火はメモ帳を閉じかけて、また開いた。
「楽になったからって、調子に乗って走らないこと」
レオはぎくりとした。
「何で分かった?」
「顔」
「俺、そんなに顔に出るか?」
「出る」
ケイシーと聖火の声が重なった。
レオは少しだけ不満そうな顔をした。
「二人して言うなよ」
ケイシーは立ち止まり、レオを見る。
「今のお前は、扉の前で鍵穴を見つけた程度だ」
「鍵穴?」
「ああ。まだ鍵も持っていない。扉も開けていない。だが、場所は分かった」
レオは喉を鳴らした。
「それでも、強くなれるんですよね」
「なる」
ケイシーは短く答えた。
「ただし、正しくやればだ」
「間違えたら?」
「壊れる」
「やっぱ怖いな」
「怖いから丁寧にやる」
ケイシーの声は変わらない。
だが、その言葉には奇妙な説得力があった。
レオはゆっくり息を吐いた。
さっきよりも、ほんの少しだけ深く。
聖火はそれを見て、またメモ帳に一行を書き足した。
――軽さを感じる。走らせない。
ケイシーはそれをちらりと見て、満足そうに頷いた。
「良い記録だ」
「ありがとうございます」
聖火は少しだけ背筋を伸ばして答えた。
レオは二人を見比べる。
「なあ、聖火」
「何?」
「お前も、昔こうやって記録取られてたのか?」
聖火は一瞬だけ黙った。
それから、苦笑した。
「取られてたし、取らされた」
「取らされた?」
「自分の癖を自分で書けって」
ケイシーが言う。
「自分の癖を言葉にできない者は、同じ失敗を繰り返す」
「うわ、重い」
「重いから覚える」
レオは少し笑った。
だが、その笑いには先ほどまでとは違う熱があった。
得体の知れないものに巻き込まれている。
それは確かだ。
けれど、怖いだけではない。
面白い。
自分の身体なのに、まだ知らない動きがある。
自分の呼吸なのに、まだ使っていない道がある。
それを知ってしまった。
「……すげえな」
レオは小さく呟いた。
ケイシーは再び歩き出す。
「感心するのは後だ」
「はい」
「次は、十歩だけ意識して歩け。十一歩目で忘れろ」
「忘れるんですか?」
「意識し続けると固まる。十歩で覚え、十一歩目で捨てる」
「難しいな」
「難しい。だから普通にやる」
またそれだ、とレオは思った。
だが今度は、少しだけ分かる気がした。
普通に立つ。
普通に歩く。
普通に息をする。
それが、思っていたよりずっと難しい。
そして、それができた時、身体は少しだけ軽くなる。
三人は公園を抜け、鷹山家へ向かって歩き続けた。
前を歩くケイシー。
その横で呼吸を探すレオ。
少し後ろで、メモ帳に記録を残す聖火。
夏の昼下がり。
何気ない移動の時間は、いつの間にか、レオにとって最初の訓練になっていた。
しばらく歩くうちに、道は河川敷へ出た。
広い空。
ゆっくり流れる川。
草の匂い。
遠くで鳴く鳥の声。
舗装された道の脇には、大小の石がいくつも転がっている。
ケイシーは歩調を落とした。
レオも、それに合わせて足を止める。
「どうしたんですか?」
ケイシーは答えず、足元へ視線を落とした。
そこには、人間の顔ほどの大きさの石があった。
丸みを帯びているが、軽く蹴って動くようなものではない。
ケイシーはその石の前に立つ。
聖火は、何かを察したようにメモ帳を閉じた。
「ケイシーさん?」
レオが問いかける。
ケイシーは静かに言った。
「今から、呼吸法のその先にある力を見せよう」
レオの目が鋭くなる。
「力?」
「そうだ」
ケイシーはレオを見る。
「呼吸が生み出すエネルギーだ」
その言葉に、レオは無意識に息を呑んだ。
呼吸が生み出すエネルギー。
それは、魔法ではない。
少なくとも、レオが知る魔法の言い方ではなかった。
ケイシーは大きな石を見下ろしたまま、静かに語り始める。
「私はもともと、軍にいた」
その声は穏やかだった。
だが、軽い昔話ではなかった。
「魔法の才能がなくてね」
レオは思わずケイシーを見る。
ケイシーは続けた。
「魔法師に負けないようにするには、どうすればいいのか。ずっと考えていた。銃を持てばいい。爆薬を使えばいい。人数を揃えればいい。そう考える者もいた」
ケイシーは少しだけ目を細める。
「だが、それでは個としての答えにはならない」
聖火は黙っていた。
この話を、初めて聞くわけではないのだろう。
それでも、記録するように、静かにケイシーの言葉を聞いていた。
「ある日、英国に滞在していた時、私は一つの古文書を手に入れた」
「古文書……?」
レオが呟く。
「ああ。そこには、仙道使いたちが異能者たちと戦っていた記録が残されていた」
ケイシーはレオへ視線を向ける。
「魔法のような力を持つ者。人ならざる身体を持つ者。そうした相手に、呼吸と肉体だけで対抗しようとした者たちの記録だ」
レオの喉が小さく鳴った。
「私は、これだと思った」
ケイシーの声が少しだけ低くなる。
「古文書を解析し、試し、失敗し、また試した。何度も身体を壊しかけた。何度も、これは人間が扱うものではないと思った」
それでも、とケイシーは続ける。
「諦めなかった」
風が、河川敷を通り抜ける。
「そして、これが私の答えだ」
ケイシーは、静かに息を吐いた。
長く。
細く。
まるで身体の中に残った余分な力を、すべて外へ流すような息だった。
その後、鼻から大きく息を吸う。
その瞬間だった。
レオの耳に、音が聞こえた。
普通の呼吸音ではない。
風が喉を通る音とも違う。
胸の奥で、何かが震えるような音。
低く、深く、しかし澄んだ音。
それは、あの時に似ていた。
九校戦で、一条将輝の攻撃を受けた時。
倒れながら、自分の内側で聞こえた、あの不思議な呼吸の音。
だが、違う。
自分の音は、荒く、乱れ、何かを掴みかけているだけだった。
ケイシーの音は、整っていた。
波のように、規則正しく、身体の奥を巡っている。
「……これが」
レオの声が、かすかに震えた。
「俺の聞いた音……?」
ケイシーは答えなかった。
代わりに、拳をゆっくりと握る。
力任せに振りかぶる動作ではない。
肩は上がっていない。
腕にも、余計な力は見えない。
ただ、呼吸が深く沈み、足元から腰、背中、肩、腕、拳へと、何かが通っていく。
レオには、そう見えた。
ケイシーは拳を静かに振り下ろした。
遅い。
そう思えるほど、ゆっくりだった。
だが、その拳が石に触れた瞬間。
音が変わった。
鈍い打撃音ではない。
硬いものが、内側から裂けるような音。
石の表面に、細い亀裂が走った。
次の瞬間。
人の顔ほどの大きさの石は、内側から弾けるように割れた。
砕けた破片が、ぱらぱらと地面へ散る。
粉のような細かな欠片が、風に乗ってわずかに流れた。
レオは言葉を失った。
力任せに殴り割ったのではない。
拳の速さも、勢いも、派手ではなかった。
それなのに、石は砕けた。
まるで、石の中に力が通り、内部から崩れたようだった。
「……何だよ、それ」
ようやく出た声は、驚きに満ちていた。
ケイシーは拳を下ろす。
息は乱れていない。
汗もかいていない。
まるで、ただ一歩歩いた後のように静かだった。
「呼吸が生み出す力だ」
「魔法じゃ、ないんですよね」
「魔法ではない」
ケイシーは短く答えた。
「少なくとも、魔法式を使ったものではない。私にはその才能がなかった」
レオは砕けた石を見る。
「魔法の才能がなくても、こんなことができるのか……」
「できるようにした」
ケイシーの声は穏やかだった。
だが、その言葉には、途方もない時間と執念が滲んでいた。
聖火が静かに口を開く。
「レオくん」
「……何だ?」
「今のを真似しようとしないで」
レオはぎくりとした。
「いや、まだ何も言ってねえだろ」
「顔に出てた」
「そんなに出るか?」
「出る」
ケイシーも頷いた。
「出ている」
「二人で言うなよ」
聖火は真面目な顔のまま続ける。
「今のは、入口に立った人がやることじゃない。無理に真似したら、石じゃなくてレオくんの腕が壊れる」
レオは思わず自分の拳を見た。
「そんなに危ないのか」
「危ない」
ケイシーが答える。
「今の力は、筋肉で石を割ったのではない。呼吸で生まれた力を、身体を通して、対象の内側へ届かせた」
「内側へ……」
「だが、自分の身体が通り道になっていなければ、その力は途中で詰まる。詰まれば、壊れるのは石ではない。自分だ」
レオは息を呑んだ。
さっきまで軽くなったと思っていた身体が、急に重く感じられた。
それは恐怖ではない。
いや、少しは恐怖もある。
だが、それ以上に、目の前の力が本物だと理解した重さだった。
「だから、まず歩け」
ケイシーは言った。
「立て。吐け。吸え。十歩で覚え、十一歩目で捨てろ」
レオは砕けた石を見た。
そして、ゆっくり頷いた。
「……分かりました」
その返事は、先ほどより少しだけ真剣だった。
ケイシーは満足したように頷く。
「いい返事だ」
レオは少し驚いたように顔を上げる。
「今の、褒めたんですか?」
「少しな」
聖火が小さく笑った。
「珍しいですね」
「必要な時は褒める」
「それ、俺の時にもやってほしかったです」
「お前は褒めると調子に乗った」
「否定できないのが嫌ですね」
レオはそのやり取りを聞きながら、もう一度石の欠片を見た。
呼吸が生み出すエネルギー。
魔法ではない力。
魔法師に届くために、魔法の才能を持たない男が見つけた答え。
それが今、目の前にある。
自分は、その入口に立っている。
まだ鍵も持っていない。
扉も開けていない。
だが、場所は分かった。
レオはゆっくり息を吐いた。
さっきよりも、少しだけ深く。
その耳の奥で、ほんのかすかに、あの不思議な音が鳴った気がした。
それから三人は、再び鷹山家へ向かって歩き出した。
ケイシーは、派手なことをさせなかった。
走らせることもない。
拳を振らせることもない。
石を殴らせることもない。
ただ、歩かせた。
立ち止まらせた。
息を吐かせた。
また歩かせた。
「右足が強い」
「肩を上げるな」
「吐く前に構えるな」
「腹を固めるな。落とせ」
「視線を先に投げるな。足元を捨てるな」
一つ一つの指摘は短い。
だが、逃げ場がなかった。
レオが自分では気づいていなかった癖を、ケイシーは当然のように拾い上げていく。
そのたびに聖火は、少し後ろでメモ帳に記録していた。
右足。
肩。
首。
腹。
視線。
呼吸。
歩幅。
そして、音。
レオは何度も息を吐いた。
そのたびに、ほんの少しだけ身体が軽くなる。
けれど、楽になるわけではない。
むしろ、意識することが増えていく。
普通に立つ。
普通に歩く。
普通に息をする。
それだけのはずなのに、これほど難しいとは思わなかった。
やがて、鷹山家の門が見えてきた頃には、レオの額には薄く汗が滲んでいた。
全力で走ったわけではない。
筋力を使い切ったわけでもない。
それなのに、妙に疲れていた。
身体というより、普段使っていない場所をずっと見つめ続けたような疲れだった。
「……普通に歩くって、こんなに難しかったのか」
レオがぽつりと呟く。
聖火はメモ帳を閉じながら、小さく頷いた。
「たぶん、普通が一番難しいんだと思う」
「お前、よくそんなこと平気で言えるな」
「俺も昔、似たようなことを言われたから」
「ライバックさんに?」
「うん」
ケイシーは門の前で立ち止まり、レオを見る。
「今日のお前は、まだ入口にもたどり着いていない」
「……はい」
「だが、入口の方角は分かった」
レオは顔を上げた。
ケイシーは懐から一枚のカードを取り出す。
そこには、連絡先が記されていた。
「持っておけ」
「え?」
「私の連絡先だ」
レオは驚いたようにカードを受け取った。
「いいんですか?」
「次に日本へ来られるのがいつになるか分からない。私はアメリカに戻れば、また仕事がある」
「仕事って、コックの?」
「そうだ」
ケイシーは真面目な顔で頷いた。
「コックは忙しい」
レオは一瞬だけ反応に困った。
だが、ケイシーはそのまま続ける。
「だから、必要ならオンラインで見てやる」
「オンラインで?」
「ああ。歩き方、立ち方、呼吸。映像でも見られることはある。直接触れなければ分からないこともあるが、最初の段階なら十分だ」
レオはカードを見下ろした。
ただの連絡先。
だが、今のレオにはそれが、扉の場所を示す地図のように見えた。
「本当に、いいんですか」
「続ける気があるならな」
ケイシーは穏やかに言った。
「ただし、近道はない。派手な技も教えない。最初は退屈だ。立つ。歩く。吐く。吸う。それだけを何度もやる」
レオは少しだけ笑った。
「今日だけで、それが退屈じゃないって分かりました」
「なら、見込みはある」
その言葉に、レオは目を見開いた。
褒められた。
ほんの少しだけだが、確かに褒められた。
聖火も横で少し驚いた顔をする。
「珍しい」
「必要な時は褒めると言っただろう」
「それでも珍しいですよ」
「お前は黙っていろ」
「はい」
聖火は素直に黙った。
レオはカードを両手でしっかり持ち、深く頭を下げた。
「ありがとうございます、ライバック先生」
その呼び方に、ケイシーはわずかに眉を上げた。
「先生か」
「駄目ですか?」
「いや」
ケイシーは少しだけ口元を緩めた。
「悪くない」
レオの顔が明るくなる。
「よろしくお願いします!」
「まずは今日の歩き方を忘れろ」
「え、忘れるんですか?」
「全部覚えようとするな。身体が固まる。覚えるのは一つだけでいい」
「一つ?」
「吸う前に吐け」
レオは一瞬黙り、それから頷いた。
「はい」
聖火はそのやり取りを見て、小さく息を吐いた。
どうやら、レオを会わせた判断は間違っていなかったらしい。
少なくとも、今日一日で何かが変わった。
すぐに強くなるわけではない。
石を砕けるようになるわけでもない。
だが、レオは自分の身体の中に、まだ知らない道があることを知った。
それだけでも十分だった。
その時、鷹山家の玄関が開いた。
出てきたのは美沙だった。
「お帰りなさい、聖火」
「ただいま、母さん」
美沙はケイシーを見て、柔らかく微笑む。
「ケイシーさん、お久しぶりです」
「久しぶりです、美沙」
ケイシーは丁寧に頭を下げた。
先ほどまでの厳しい指導者の顔とは違う、穏やかな客人の顔だった。
「今日はお邪魔します」
「ええ。治憲さんも楽しみにしていますよ」
「それはよかった」
美沙は次に、レオへ視線を向ける。
「西城くんも、いらっしゃい」
「お、お邪魔します」
レオは少し緊張したように頭を下げた。
聖火が横から笑う。
「大丈夫だよ。うちは取って食べたりしないから」
「いや、分かってるけどよ」
「ただ、今日は運がいいかも」
「運?」
聖火がケイシーを見る。
ケイシーは肩をすくめた。
「食材を見てからだ」
「え?」
レオが首を傾げる。
聖火は楽しそうに言った。
「ケイシーさんが、最高のフレンチをごちそうしてくれるらしい」
レオの目が輝いた。
「本当か!?」
「本当だ」
ケイシーは静かに頷く。
「ただし、食べるなら手伝え」
「手伝います!」
即答だった。
聖火は笑う。
「早いね」
「今日一番分かりやすい話だからな!」
「呼吸より?」
「飯は分かりやすい」
「否定できない」
ケイシーはレオを見て、少しだけ楽しそうに言った。
「料理も訓練になる」
「え?」
「立ち方、手の使い方、呼吸、火加減。全部だ」
レオの笑顔が、少しだけ固まった。
「……もしかして、飯の前にも修行ですか」
「料理だ」
「言い方を変えただけじゃないですか?」
「料理だ」
ケイシーは真顔で繰り返した。
聖火は肩を震わせて笑いをこらえている。
美沙も、口元に手を当てて微笑んでいた。
レオは一瞬だけ空を見上げ、それから腹をくくったように頷く。
「分かりました。手伝います」
「いい返事だ」
ケイシーはそう言って、鷹山家の中へ入っていく。
聖火も続く。
レオは玄関の前で、もう一度カードを見た。
ライバック先生の連絡先。
そして、これから始まるらしい料理という名の何か。
今日、自分は何に巻き込まれたのだろう。
そう思いながらも、不思議と嫌ではなかった。
普通に歩くこと。
普通に息をすること。
そして、普通に料理を手伝うこと。
その全部が、今までとは少し違って見えている。
レオはカードを大事にしまい、鷹山家の玄関をくぐった。
水曜日の午後。
アメリカから遊びに来た一人のコックは、レオに新しい道を示した。
その道がどこまで続くのかは、まだ誰にも分からない。
けれど、少なくとも最初の一歩は踏み出された。
そしてその一歩は、最高のフレンチの香りと共に、鷹山家の台所へ続いていた。
この名前を聞いて笑ったやつは、私と同じおっちゃんだよ
ある意味、米国版元祖なろう系主人公ですよね
この話はのちの話の伏線であり、のちのギャグ回の伏線です。
そこまで行けるかわかりませんが楽しみですね。