夏休みのある日。
司波達也と司波深雪は、鷹山家の食卓にいた。
きっかけは、数日前に美沙から届いた短い誘いだった。
夏休み中なのだから、たまにはお昼を食べにいらっしゃい。
その一言に、深雪は嬉しそうに頷き、達也も特に断る理由を見つけなかった。
鷹山家と司波家の付き合いは、今さら改まって説明するようなものではない。
司波兄妹にとって、鷹山家は親戚の家に近かった。
いや、深雪に限って言えば、親戚という言葉より、もっと近いかもしれない。
美沙は深雪を実の娘のように可愛がり、深雪もまた美沙を小母様と呼んで慕っている。
達也も、治憲と美沙を小父さん、小母さんと呼ぶことに、今ではほとんど違和感を覚えていなかった。
そのため、今日も特別な用事があったわけではない。
ただ昼食に呼ばれ、来ただけだった。
「お兄様、この煮物、とても美味しいですね」
「ああ」
達也は静かに頷く。
「味がよく染みている」
美沙は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、深雪ちゃん。達也くんも、たくさん食べてね」
「ありがとうございます、小母さん」
「ありがとうございます、小母様」
聖火は横から箸を持ったまま言う。
「母さん、俺には?」
「聖火はいつも食べているでしょう」
「扱いが違う」
「日頃の行いだな」
達也が淡々と告げる。
「達也くん、うちに馴染みすぎてない?」
「事実を述べただけだ」
深雪がくすりと笑った。
鷹山家の昼食は、いつも通り穏やかだった。
だが、食事が一段落した頃、玄関の呼び鈴が鳴った。
聖火が立ち上がる。
「あ、来たかな」
深雪が首を傾げた。
「どなたかいらっしゃるのですか?」
「うん。幹比古くんたち。小笠原で少し話した資料を見に来ることになっていて」
「吉田くんが?」
達也がわずかに反応する。
「古式魔法の資料か」
「そう。父さんの資料も混ざってるから、少し癖はあるけどね」
治憲は、すでにどこか楽しそうな顔をしていた。
「癖があるとは失礼だな。貴重な資料と言いなさい」
「貴重だけど、癖もあるでしょ」
「否定はしない」
達也は少しだけ考えるように目を伏せた。
深雪はその横顔を見て、微笑む。
おそらく、兄は興味を持ったのだろう。
そして、聖火はそれを見逃さなかった。
「達也くんも見る?」
「いいのか」
「もちろん。むしろ父さんが喜ぶと思う」
治憲は即座に頷いた。
「達也くんなら歓迎だよ。現代魔法側からの視点も欲しい」
「では、少し見せてもらいます」
「少しで済むかな」
聖火が小さく呟く。
達也は聞こえていたのか、いなかったのか、特に反応しなかった。
聖火は玄関へ向かった。
扉を開けると、そこには吉田幹比古、千葉エリカ、柴田美月の三人が立っていた。
「いらっしゃい、幹比古くん」
「お邪魔します、鷹山くん」
幹比古は少し緊張した様子で頭を下げる。
その横で、エリカが気軽に手を上げた。
「お邪魔するわ」
美月も丁寧に頭を下げる。
「お邪魔します」
聖火は三人を中へ招き入れた。
「エリカさんと美月さんも来るとは思わなかったけど」
「面白そうだったから」
エリカは悪びれもなく言う。
幹比古が小さくため息をついた。
「僕が鷹山くんの家に行くって話をしたら、いつの間にかこうなっていた」
「人聞きが悪いわね。付き添いよ、付き添い」
「付き添いという名の興味本位だろう」
「半分くらいはね」
「半分もあるんだ」
美月が慌てて言う。
「あ、あの、私はエリカちゃんに誘われて……でも、吉田くんが楽しみにしているなら、少し見てみたいなって」
幹比古は少しだけ表情を和らげた。
「柴田さんは悪くないよ」
「ちょっと、あたしは悪いみたいに言わないでよ」
そんなやり取りをしながら三人がリビングへ入ると、そこにはすでに達也と深雪がいた。
エリカが目を瞬かせる。
「あれ、達也くんたちもいたんだ」
深雪が上品に微笑む。
「はい。今日は小母様にお昼へ誘っていただいて」
美沙がにこりと笑った。
「せっかくの夏休みですもの。たまには顔を見せてもらわないと寂しいでしょう?」
エリカはその言葉を聞いて、にやりと笑う。
「本当に親戚の家みたいね」
聖火は肩をすくめた。
「まあ、だいたいそんな感じかな」
深雪は少しだけ嬉しそうに目を伏せた。
達也は特に否定しなかった。
それが、この家における二人の距離感をよく表していた。
美沙は女性陣へ視線を向ける。
「それじゃあ、男の子たちは資料室かしら。深雪ちゃん、エリカちゃん、美月ちゃんは、こちらでお茶にしませんか?」
エリカは資料室の方を一度見た。
それから、聖火、達也、幹比古、治憲の顔を見る。
治憲はすでに何冊もの資料を抱えていた。
聖火は楽しそうにしている。
幹比古は緊張しながらも、目が資料に向いている。
達也は静かに興味を示している。
エリカは数秒沈黙した。
そして、納得したように頷いた。
「……あ、これ長くなるやつね」
美月が小さく笑った。
深雪も、達也の横顔を見て、少しだけ微笑んだ。
「お兄様、楽しんでいらしてください」
「ああ」
美沙は楽しそうに言った。
「男の子たちは資料に埋もれさせておきましょう。こちらはゆっくりお茶にしましょうね」
こうして、鷹山家の午後は、資料室とリビングの二手に分かれて始まった。
昼食を終えた後、鷹山家の午後は自然と二つに分かれた。
リビングには、美沙、深雪、エリカ、美月。
そして廊下の奥へ向かうのは、治憲、聖火、達也、幹比古の四人だった。
「それで、資料はどちらに?」
幹比古が尋ねると、治憲は楽しそうに笑った。
「私の書斎だよ。まあ、家族には資料室と呼ばれているがね」
「資料室、ですか」
「うん。書斎と呼ぶには、少し紙が多すぎるらしい」
聖火が横から小さく言った。
「少し?」
治憲は聞こえなかったふりをした。
廊下の奥。
他の部屋より少し重そうな扉の前で、治憲が足を止める。
「先に言っておくが、見た目ほど散らかってはいない」
聖火が即座に言った。
「本人の中ではね」
「聖火」
「はい」
「客人の前で父を貶めるものではない」
「貶めてないよ。正確に説明してるだけ」
達也が静かに言った。
「本人の中で秩序があるなら、資料室としては成立している」
聖火は達也を見た。
「達也くん、入る前から父さんの味方?」
「事実を述べただけだ」
「そういうところ、父さんと相性よさそうで怖いな」
治憲は満足そうに頷いた。
「達也くんは分かっているね」
「父さん、まだ中を見せてないよ」
「見せればもっと分かる」
「その自信が怖い」
幹比古はそのやり取りに少し笑った。
緊張が、ほんの少しだけ薄れる。
治憲が扉を開けた。
その瞬間、幹比古は思わず息を止めた。
そこは、部屋というより、紙に満たされた空間だった。
壁一面の本棚には、古い和綴じ本、分厚い民俗資料、複写された古文書、地域ごとに分類されたファイルが隙間なく並んでいる。
棚の一角には、巻物を収めた細長い箱がいくつも積まれていた。
別の棚には、古い神社の由緒書き、山岳信仰の記録、水神信仰に関する写し、地方の祭文、陰陽道系の資料、そして現代魔法理論と比較したらしい研究ノートが並ぶ。
机の上には、A4用紙の束がいくつも積み上げられていた。
古文書の翻刻。
現代語訳。
術式との対応表。
年代別の比較表。
手書きのメモ。
付箋だらけの論文コピー。
赤と青のペンでびっしり書き込まれた資料。
紙の山。
紙の束。
紙の壁。
それでも、不思議と不潔な印象はなかった。
雑然としている。
だが、乱雑ではない。
積まれた紙の山には、それぞれ意味があるように見える。
幹比古には分からない。
けれど、この部屋の主には、きっと分かっている。
そんな空間だった。
「……すごい」
幹比古は思わず呟いた。
治憲は少し得意げに笑う。
「ありがとう。褒め言葉として受け取っておこう」
「褒め言葉です。これは……本当に、すごいです」
幹比古の声には、素直な驚きがあった。
古式魔法の家に生まれた彼も、古い資料に触れたことがないわけではない。
むしろ、一般の学生よりはずっと多い。
だが、ここにあるものは少し違った。
家に伝わる秘伝書ではない。
一つの流派に閉じた伝書でもない。
土地、信仰、民俗、儀礼、古い魔法観、現代魔法との比較。
それらが、ひとつの部屋に押し込められている。
まるで、誰かが日本中から古い祈りの欠片を拾い集めてきたようだった。
達也は部屋を見回し、静かに言った。
「見た目ほど無秩序ではありませんね」
治憲の目が少し輝いた。
「ほう」
「地域別、時代別、系統別で大まかに分かれている。机の上の紙束は、おそらく現在比較中の資料です。棚の右側が水と山、左側が風と方位。奥の箱は未整理ではなく、保留分でしょう」
聖火が半歩後ろへ下がった。
「怖い怖い怖い」
達也は聖火を見る。
「何がだ」
「初見でそこまで見るのが怖いんだよ」
治憲は満足げに笑った。
「素晴らしい。達也くん、君は本当に見る目がある」
「ありがとうございます」
「父さん、すごく嬉しそうだね」
「嬉しいに決まっているだろう。資料の山を見て、ただ散らかっていると言わない若者は貴重だ」
「母さんに聞かせたい」
「美沙には言わなくていい」
聖火は肩をすくめた。
幹比古は、もう一度部屋を見回す。
紙の匂いがした。
古い本の乾いた匂い。
少しだけ墨のような匂い。
新しいコピー用紙と、古い和紙の匂いが混ざっている。
窓から入った光の中に、細かな埃が浮かんでいた。
だが、それすらこの部屋では、資料の時間が舞っているように見えた。
「父さん、本業の資料は端末でまとめてるんだけどね」
聖火が何気なく言った。
幹比古が振り向く。
「本業の資料?」
「会社の仕事。そっちは端末で効率よくやってる。紙でやったら量が洒落にならないから」
治憲は頷いた。
「仕事は効率が大事だからね」
「でも、こっちは紙なんですね」
幹比古が尋ねると、治憲は当然のように答えた。
「こちらは本来の本業だからね」
幹比古は一瞬、言葉を失った。
「本来の……本業?」
聖火が説明する。
「本人はそう言ってる。会社の仕事が表の本業で、こっちが魂の本業なんだって」
「言い方が少し軽いな、聖火」
「違った?」
「大筋では合っている」
「合ってるんだ」
治憲は机の上に手を置いた。
その手つきは、紙束をただの資料として扱うものではなかった。
古い友人に触れるような、静かな親しみがあった。
「端末が嫌いなわけではないよ。むしろ便利だ。検索も保存も共有も早い。会社の仕事では、端末なしではとても回らない」
そこで治憲は、少しだけ楽しそうに笑う。
「だが、こういう資料は紙がいい」
「どうしてですか?」
幹比古は自然に尋ねていた。
治憲は待っていたように頷く。
「紙は、並べられる。重ねられる。余白に書き込める。古い文献の写しと、現代の論文と、自分の仮説を同じ机の上に広げて、同時に眺めることができる」
治憲は一枚の紙を持ち上げた。
そこには古い祭文の一節と、現代語訳、さらに赤字でいくつもの注釈が書き込まれていた。
「端末の画面では、資料は整いすぎる。綺麗に並びすぎる。だが、紙は少し不便だ。その不便さが、考える時間をくれる」
幹比古は黙って聞いていた。
治憲は続ける。
「紙をめくる。戻る。別の資料と並べる。線を引く。余白に疑問を書く。数日後、その疑問に別の資料で出会う。そういう遠回りが楽しいんだ」
「……楽しい」
幹比古はその言葉を小さく繰り返した。
治憲は穏やかに頷いた。
「そう。楽しい」
その言い方は、あまりにも自然だった。
古式魔法を語る大人の口から出る言葉として、幹比古には少し意外だった。
古式魔法は、家に伝わるもの。
守るべきもの。
継ぐべきもの。
失えば恥となるもの。
幹比古は、いつの間にかそう思うようになっていた。
けれど目の前の治憲は、紙の山に囲まれながら、まるで好きな玩具を見せる子供のように言った。
楽しい、と。
聖火は幹比古の表情を横目で見ていたが、何も言わなかった。
代わりに、机の端に置かれた紙束を指差す。
「父さん、今日見せるのはどれ?」
「まずはこれだ」
治憲は迷いなく、机の左奥にある紙束の下から一冊のファイルを抜き出した。
あまりにも自然な動作だった。
幹比古が思わず尋ねる。
「どこに何があるか、全部覚えているんですか?」
「全部ではないよ」
治憲は笑った。
「だいたいだ」
聖火が小声で言う。
「父さんの“だいたい”は信用しない方がいいよ。前に、右の棚の三段目、青いファイルの下から二番目って言って本当に出てきたから」
達也が静かに言った。
「記憶というより、配置そのものを索引として使っているのでしょう」
治憲は嬉しそうに達也を見る。
「その通り」
聖火は少しだけ眉を寄せた。
「達也くん、父さんを喜ばせるの上手いね」
「事実を述べただけだ」
「その事実が父さんに刺さってるんだよ」
幹比古は少し笑った。
この部屋に入る前の緊張は、かなり薄れていた。
もちろん、まだ圧倒されている。
資料の量にも、治憲の知識にも、達也の観察力にも。
それでも、不思議と息苦しくはなかった。
むしろ、気になった。
この紙束の中に、何が書かれているのか。
この巻物には、どんな術の痕跡があるのか。
この古い祭文は、何を祈っていたのか。
知りたい。
そう思った。
治憲はファイルを机の中央に置く。
「今日は、吉田くんにぜひ見てもらいたいものがある」
「僕に、ですか」
「ああ。吉田家の術と直接同じではない。ただ、考え方の根が近いかもしれない」
幹比古の目が変わった。
「見せてください」
その返事は、思っていたより早かった。
聖火はその横顔を見て、少しだけ笑う。
達也も無言で机の前に立った。
治憲は満足そうに椅子を引く。
「では、始めようか」
その声は、講義の始まりというより、遊びの始まりを告げるものに近かった。
資料室の子供たちは、その瞬間から紙の山の中へ沈んでいった。
治憲が最初に開いたのは、少し古びた写しの束だった。
原本ではない。
だが、丁寧に複写され、現代語訳と注釈が付けられている。
紙の端には、治憲の手書きらしい小さな文字がいくつも並んでいた。
幹比古は、最初の一枚を見て目を細める。
「これは……祭文ですか?」
「うん。とある地方の水神信仰に関する祭文の写しだよ」
治憲は椅子に腰掛けながら答えた。
「水神信仰」
聖火が横から補足する。
「ただ、水だけじゃないんだ。風の記述も混ざってる」
達也が資料を覗き込む。
「水と風?」
「そう」
治憲は楽しそうに頷いた。
「面白いだろう? 現代的な分類なら、水系統と風系統は分けて考えたくなる。だが、この祭文では水と風が一つの流れとして扱われている」
幹比古は資料の文字を追った。
古い言い回し。
土地の名。
山の名。
川の名。
風を呼ぶ言葉。
水を鎮める言葉。
雨を乞う文句。
それらが一続きになっている。
「雨を呼ぶ儀礼……ですか?」
「表面的にはね」
治憲は答えた。
「だが、私が気になったのは、雨そのものよりも前の段階だ」
「前の段階?」
「うん。ここを見てほしい」
治憲は紙の一節を指差した。
そこには、山の風を迎え、水の道を開き、土地の気を鎮める、といった意味の文が並んでいた。
幹比古は、その一文を何度か読み返す。
達也が先に口を開いた。
「現代魔法として見るなら、記述が曖昧すぎますね」
「達也くんらしい第一声だね」
聖火が苦笑する。
達也は気にせず続けた。
「対象も、作用も、発動条件も明確ではない。雨を降らせる魔法として再現するには、情報が足りない」
治憲は嬉しそうに頷いた。
「そう。現代魔法としては、そこが問題になる」
「問題になる、というより、魔法式に落とし込むには不安定すぎます」
達也は資料を見ながら言った。
「水を移動させるのか、大気中の水分を凝結させるのか、雲を形成するのか、気圧を変えるのか。結果だけを見れば雨だとしても、過程が不明瞭です」
「うん。現代魔法の視点ならそうなる」
治憲は少し身を乗り出す。
「では、吉田くん。古式魔法の側から見るとどうかな?」
急に水を向けられて、幹比古は少しだけ姿勢を正した。
だが、資料から目を離さない。
「これは……たぶん、雨を直接降らせる術ではないと思います」
「ほう」
治憲の目が輝く。
幹比古は慎重に言葉を選んだ。
「少なくとも、現代魔法のように目的の現象を定義して、そこへ干渉する形ではないと思います。これは先に場を整えている」
「場を整える」
達也が静かに繰り返した。
幹比古は頷く。
「はい。山、川、風、水。そういうものを別々の対象として扱うのではなく、関係性として結んでいるように見えます」
聖火が少し嬉しそうに口元を緩めた。
だが、何も言わない。
幹比古は資料の一節を指で追った。
「ここで風を迎えるとあります。でも、風を起こすとは書いていません。迎える、という表現になっている。水も同じです。水を動かすのではなく、水の道を開く。命令ではなく、通すという感じです」
治憲は深く頷いた。
「いいね」
幹比古は少しだけ驚いたように治憲を見た。
「え?」
「とてもいい読み方だ」
治憲は素直に言った。
「この資料を現代魔法側だけで見ると、どうしても不完全な術式に見える。だが、古式の儀礼として見ると、これは結果を強制するものではなく、条件を整えるものとして読める」
聖火がそこで口を開く。
「結果じゃなくて、関係性を整える術、だね」
「関係性……」
幹比古が小さく繰り返す。
聖火は机の上に置かれた別の紙を引き寄せた。
「たぶん昔の人にとって、雨は単に水が落ちる現象じゃなかったんだと思う。山があって、風があって、川があって、土地があって、その関係の中で雨が来る」
達也が資料から視線を上げる。
「つまり、現象を単独で切り出していない」
「そう。現代魔法は、目的の現象を切り出して定義するのが得意だよね。でも、古式魔法や儀礼は、切り出す前の繋がりを重視することがある」
治憲が満足そうに続けた。
「だから、この祭文は雨を降らせるための命令文ではない。土地と自然の関係を、雨が降ってもおかしくない状態へ整えるための手順書に近い」
「手順書……」
幹比古の目が、少しずつ真剣になっていく。
「それなら、ここで風を先に呼ぶ理由も分かるかもしれません」
幹比古は別の一節を指差した。
「雨を求めるなら、水の神格だけに祈る方が分かりやすい。でも、ここでは先に風を通している。たぶん、水を動かす前に、停滞した気を逃がす意味があるんじゃないでしょうか」
治憲は、嬉しそうに身を乗り出した。
「続けて」
「えっと……」
幹比古は少し戸惑ったが、資料から目を離せなくなっていた。
「雨乞いの儀礼というより、土地の呼吸を戻す儀礼に近いのかもしれません。風が通らなければ、水も動かない。水が動かなければ、土地の気が濁る。だから、風を迎えて、水の道を開く」
聖火が思わず小さく笑った。
「土地の呼吸か。いい表現だね」
幹比古は少しだけ顔を赤らめる。
「今、思いついただけだよ」
「それがいいんだよ」
達也が静かに資料を見つめた。
「現代魔法で再現するなら、単体の術式ではなく、複数の環境条件へ段階的に干渉する必要があるということか」
「達也くん、すぐ実用化しようとするね」
「再現可能性を考えるのは当然だ」
「うん。達也くんらしい」
治憲は楽しそうに笑った。
「だが、そこが面白い。達也くんの言う通り、現代魔法として再現するなら、複数条件への段階的干渉になる。けれど古式の儀礼としては、それを人間側の所作や言葉、場の配置で補っていた可能性がある」
幹比古ははっとしたように顔を上げた。
「配置……」
「そう」
治憲は別の紙を広げた。
そこには簡単な図が描かれている。
川。
祠。
山の方角。
祭具の位置。
人の立ち位置。
風向き。
「この儀礼が行われていたとされる場所の復元図だ。正確ではないが、古い地図や地名からある程度推測した」
幹比古はその図を見た瞬間、目を細めた。
「この配置……」
聖火が尋ねる。
「何か分かる?」
「結界というほど強いものではないけど、場を閉じるというより、流れを作っているように見える」
「流れ?」
「はい。この祠を中心にしているようで、実際には川と山の間に道を作っている。人の立ち位置も、四方を塞ぐ形じゃない。むしろ、風の入り口を空けている」
達也が図を見ながら言った。
「防御結界ではなく、誘導路か」
「たぶん」
幹比古は、もう遠慮するような声ではなかった。
自分の知っている感覚と、目の前の資料を結びつけながら話している。
「吉田家の術にも、場を閉じるものと、流すものがあります。悪いものを封じる時は閉じる。でも、滞ったものを祓う時は、完全に閉じると逆に逃げ場がなくなる」
聖火は頷いた。
「それは分かる気がする。傷もそうだよ。塞ぐだけだと中に悪いものが残ることがある。逃がしてから塞ぐ必要がある」
「治療の話か?」
達也が見る。
「うん。雑に言えばね」
「雑すぎる」
「達也くん、細かく説明すると長くなるよ」
「なら今はいい」
「賢明」
治憲はそのやり取りを聞きながら、今度は棚から別のファイルを取り出した。
「吉田くん、今の話なら、これも見てもらいたい」
「まだあるんですか?」
幹比古の声に、驚きよりも期待が混ざっていた。
治憲はにこりと笑う。
「あるとも」
聖火が小さく呟く。
「父さん、その台詞すごく嬉しそう」
「嬉しいからね」
治憲は否定しなかった。
新しく開かれたファイルには、別の地域の祓いの記録がまとめられていた。
今度は水ではない。
風。
道。
境界。
村の入り口。
旅人。
疫病。
そういった言葉が並んでいる。
幹比古は自然に身を乗り出した。
「これは、道切りですか?」
治憲は目を細めた。
「知っているのかい?」
「名前だけなら。村や集落の境界で、災いが入ってこないようにする儀礼ですよね」
「その通り」
「でも、この記録は少し違う気がします。入ってこないようにするというより、通り過ぎてもらう形に近い」
治憲は満面の笑みを浮かべた。
「素晴らしい」
幹比古は少しだけ照れたように目を伏せる。
「いえ、そんな」
「いや、素晴らしいよ。多くの人は、境界の儀礼を見るとすぐに防御と考える。だが、すべてが止めるためのものではない。時には、止めずに流す方が安全な場合もある」
達也が資料を見ながら呟く。
「迎撃ではなく、誘導」
「現代魔法風に言うなら、そうなるね」
治憲が答える。
聖火は幹比古の横顔を見た。
さっきまでの緊張は、もうほとんど残っていない。
代わりに、目が動いている。
資料の文字を追い、図を見て、頭の中で何かを組み立てている。
その顔は、九校戦で見せた硬さとは違った。
もっと柔らかい。
もっと素直な熱がある。
幹比古は、気づかないうちに次の紙を手に取っていた。
「この注釈の部分ですが……」
「うん」
「ここで使われている風の表現、さっきの水神信仰の資料と少し似ています。でも、目的が違う。あちらは水を通すための風で、こちらは災いを通り過ぎさせるための風。たぶん、風そのものを操るというより、流れの方向を示している」
治憲は小さく手を叩いた。
「いい。実にいい」
幹比古はそこで、ようやく自分がかなり前のめりになっていることに気づいた。
「あ……すみません。勝手に」
「謝る必要はないよ」
治憲は穏やかに言った。
「資料は、読まれるためにある。しかも、君のように読んでくれる人はありがたい」
「僕のように、ですか?」
「ああ。古式魔法を知識としてだけではなく、感覚として知っている人の読み方だ」
その言葉に、幹比古は少しだけ固まった。
古式魔法を感覚として知っている。
その言葉が、胸の奥に静かに触れた。
幹比古はしばらく、資料の上に置いた自分の手を見ていた。
自分は、まだそれを知っているのだろうか。
かつてのように、扱えているのだろうか。
迷いが胸を過ぎる。
だが、その迷いが膨らむ前に、聖火が別の資料を差し出した。
「幹比古くん、これも見てみる?」
「え?」
「さっきの話とつながりそう。風を止めるんじゃなくて、流れを変えるやつ」
幹比古は差し出された資料を見た。
古い筆跡の写し。
横に治憲の注釈。
さらに、聖火のものらしい簡単なメモが書かれている。
そこには、こうあった。
――封じるより、逃がす。
――壊すより、道を作る。
――祓いは排除ではなく、移動の術かもしれない。
幹比古は、その三行を見つめた。
「……面白い」
小さな声だった。
だが、確かにこぼれた。
聖火は聞こえたが、何も言わなかった。
治憲も、達也も、あえて反応しなかった。
幹比古は、資料をめくる。
一枚。
もう一枚。
読めば読むほど、疑問が増えていく。
この表現は何を指しているのか。
この順番に意味はあるのか。
この地方では、なぜ風と境界が結びついているのか。
なぜ、祓うのではなく、通すのか。
知りたい。
確かめたい。
考えたい。
気づけば幹比古は、机の上に広げられた資料へ身を乗り出していた。
「鷹山くん」
「うん?」
「この資料、もう少し詳しく見てもいい?」
聖火は少しだけ笑った。
「もちろん」
治憲が嬉しそうに言う。
「では、関連資料も出そう」
聖火がすぐに止めた。
「父さん、待って」
「なぜだ」
「関連資料って言って、五冊くらい増やす気でしょ」
「五冊では足りないな」
「ほら」
達也が静かに言った。
「必要なら、優先順位をつけた方がいい」
治憲は少し考えた。
「達也くんの言う通りだ。では、まず三冊にしよう」
「減ってない」
「五冊よりは減った」
「そういう問題じゃないんだけど」
幹比古は思わず笑った。
本当に、自然に笑った。
それから、はっとしたように口元を押さえる。
笑うつもりなどなかった。
けれど、笑っていた。
資料を前にして。
古式魔法の話をして。
分からないことが増えて。
知りたいことが増えて。
それが、楽しかった。
治憲はそんな幹比古を見て、静かに言った。
「吉田くん」
「はい」
「君は今、とても良い顔をしているね」
幹比古は言葉を失った。
「え……」
治憲は穏やかに笑う。
「資料を読む時は、そういう顔が一番いい。答えを知っている顔ではなく、問いが増えていく顔だ」
幹比古は、自分の胸の奥にあるものを少しだけ意識した。
楽しい。
本当に、楽しい。
それは強くなるための資料ではないかもしれない。
すぐに術を取り戻すための答えでもないかもしれない。
けれど、それでも。
古式魔法のことを考えている自分は、今、確かに楽しいと思っている。
「……はい」
幹比古は小さく頷いた。
「もう少し、見たいです」
治憲は満足そうに笑った。
「もちろんだ」
聖火はそっと資料の山を整える。
達也は机の端にあった白紙を引き寄せ、いくつかの項目を書き始めた。
聖火がそれを覗き込む。
「達也くん、何を書いてるの?」
「比較項目だ」
「現代魔法への変換?」
「それだけではない。儀礼の構造、場の配置、作用対象、発動条件、再現性の程度を分けておく」
治憲の目が再び輝いた。
「素晴らしい」
聖火は額に手を当てた。
「父さんが完全に達也くんを気に入った」
「以前から気に入っているよ」
「さらにだよ」
達也は資料を見たまま言う。
「分類しなければ比較できない」
幹比古が自然に口を挟んだ。
「でも、分類しすぎると儀礼の意味が抜けるかもしれない」
達也が視線を向ける。
「どういうことだ」
幹比古は一瞬だけ迷った。
だが、すぐに資料を指差した。
「たとえば、ここを風、水、方位、祭具に分けることはできます。でも、古式魔法や儀礼では、それぞれが単独で働くというより、組み合わさった状態に意味がある。だから分けすぎると、元の形で何が起きていたのかが見えにくくなる気がします」
達也は少し黙った。
そして、白紙に新しい項目を書き足した。
「関係性」
幹比古は目を瞬かせる。
達也は続けた。
「分類とは別に、要素間の関係を記録する」
聖火が笑った。
「達也くん、柔軟だね」
「必要な項目を追加しただけだ」
「それを柔軟って言うんだよ」
治憲は実に楽しそうに頷いた。
「いいね。非常にいい。現代魔法の視点、古式魔法の視点、歴史の視点が混ざると、資料は一気に面白くなる」
「父さん、楽しそうだね」
「楽しいとも」
治憲は即答した。
「資料は一人で読んでも楽しい。だが、違う目を持つ人間と読むと、さらに楽しい」
幹比古は、その言葉を静かに聞いていた。
違う目を持つ人間と読む。
それは、幹比古にとって少し新鮮だった。
古式魔法は、家の中で学ぶものだった。
教わり、受け継ぎ、間違えないようにするものだった。
だが、ここでは違う。
治憲は問いを喜ぶ。
聖火は脱線を楽しむ。
達也は分類して切り込む。
そして、自分は古式魔法の感覚で資料を読む。
誰か一人の正解を押しつける場ではない。
一つの資料を囲んで、それぞれの目で見ている。
それが、不思議なほど楽しかった。
「幹比古くん」
聖火が声をかける。
「何?」
「その顔、エリカさんが見たら絶対からかうと思う」
「えっ」
幹比古は思わず顔を上げた。
聖火は笑う。
「すごく楽しそうだから」
幹比古は少しだけ顔を赤らめた。
「そんなに?」
「うん」
達也が淡々と言う。
「先ほどより、表情筋の緊張が明らかに少ない」
「達也、そういう分析はやめてくれないかな」
「事実だ」
「そういうところが達也だよね」
聖火が肩をすくめる。
治憲は楽しそうに笑った。
「いや、良いことだよ。好きなものを前にして顔が動かない方が不健康だ」
幹比古は、少しだけ視線を落とした。
「好きなもの……」
その言葉は、胸の奥で静かに響いた。
古式魔法が好きだった。
昔は、たしかにそうだった。
術ができるようになることが嬉しかった。
分からなかった言葉の意味が分かることが楽しかった。
古い儀礼に込められた考えを知ることが面白かった。
いつの間にか、それを忘れていた。
できないこと。
失ったこと。
取り戻さなければならないこと。
家に恥じないこと。
そういう重さの下で、好きだった気持ちが見えなくなっていた。
けれど、消えてはいなかった。
幹比古は資料へ視線を戻した。
「……この続き、見てもいいですか」
治憲は優しく頷いた。
「もちろんだよ」
聖火は椅子を一つ引いた。
「座って見ようか。立ったままだと本当に資料に沈むよ」
「ありがとう」
幹比古は椅子に座る。
達也も自然に隣へ腰を下ろした。
治憲は棚から資料を追加し、聖火は机の上を少しだけ片づける。
四人の前に、紙が広がっていく。
祭文。
図。
注釈。
現代語訳。
比較表。
白紙のメモ。
そして、幹比古の中に戻り始めた、小さな熱。
資料室の空気は、いつの間にか静かな熱を帯びていた。
男たちは誰も、その熱に気づいていないふりをした。
ただ、それぞれの資料へ手を伸ばした。
まるで新しい遊びを見つけた子供のように。
その頃、リビングでは、美沙、深雪、エリカ、美月の四人が紅茶を囲んでいた。
テーブルの上には、焼き菓子と小さな和菓子が並んでいる。
資料室の熱気とは対照的に、こちらは穏やかな午後の空気だった。
エリカは紅茶のカップを片手に、廊下の奥へ視線を向ける。
「……戻ってこないわね」
美月も、少し心配そうに同じ方向を見る。
「吉田くん、楽しそうでしたね」
「完全に捕まったわね、あれは」
エリカが苦笑する。
「鷹山のお父さんも楽しそうだったし、聖火も止める気なさそうだったし」
深雪は静かに微笑んだ。
「お兄様も、きっと楽しんでいらっしゃると思います」
「深雪は声だけで分かるの?」
「はい」
迷いのない返事に、エリカは小さく笑った。
「さすがね」
その時、資料室の方から声が聞こえた。
「父さん、関連資料って言って五冊以上出すのは禁止!」
聖火の声だった。
続いて、治憲の声が返る。
「五冊では足りないだろう」
さらに、達也の淡々とした声。
「優先順位を付けるべきです」
そして少し遅れて、幹比古の声が聞こえた。
「でも、その三つ目の資料は見たいです」
一瞬、リビングが静かになった。
次の瞬間、エリカが吹き出した。
「駄目だわ。幹比古も完全にあっち側に行ってる」
美月は口元を押さえながら、少し嬉しそうに笑った。
「でも、楽しそうです」
美沙も資料室の方を見て、困ったように、けれどとても柔らかく微笑んだ。
「男って」
美沙は、呆れたように言った。
「本当に、いつまでも子供よね」
その言葉に、深雪がくすりと笑った。
エリカも笑い、美月も少し遅れて笑う。
紅茶の香りと、資料室から聞こえる楽しそうな声。
その二つが、鷹山家の午後を穏やかに満たしていた。
結局、男性陣はその後もしばらく戻ってこなかった。
あまりに話が終わらないため、女性陣は美沙を中心に夕食の支度を始めた。
深雪は慣れた様子で手伝い、美月もその横で器を並べる。
エリカは料理は得意ではないと言いつつも、野菜を切ったり配膳を手伝ったりしていた。
資料室では相変わらず、紙をめくる音と議論する声が続いている。
治憲が新しい資料を出そうとし、聖火がそれを止め、達也が淡々と整理し、幹比古が目を輝かせて次の資料を読む。
夕食の準備が整う頃になっても、誰一人として時間に気づいていないようだった。
美沙は少しだけ肩をすくめると、資料室まで男性陣を呼びに行った。
扉を開けた先では、机いっぱいに広げられた資料を前に、四人がまだ真剣な顔で議論を続けていたという。
「夕食の時間ですよ」
美沙がそう告げると、治憲はようやく顔を上げた。
「もうそんな時間か」
聖火がため息をつく。
「だから言ったでしょ。絶対に時間を忘れるって」
達也は資料から視線を上げ、淡々と言った。
「経過時間を確認していませんでした」
幹比古も、少し申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません。僕も、つい……」
その声には、隠しきれない名残惜しさがあった。
その日の夕食は、予定より少し賑やかなものになった。
達也と深雪。
エリカと美月。
幹比古。
そして鷹山家の三人。
食卓では、資料室の話がまだ少し続いた。
エリカが幹比古をからかい、美月がそれをたしなめ、深雪は達也が楽しそうだったことを嬉しそうに見ていた。
幹比古は少し照れながらも、否定はしなかった。
帰る頃には、日はすっかり傾いていた。
玄関先で幹比古は、治憲と聖火へ深く頭を下げた。
「今日は、ありがとうございました」
その声は、来た時よりも少し軽かった。
治憲は穏やかに笑う。
「こちらこそ楽しかったよ。またいつでも来るといい」
聖火も頷いた。
「資料は逃げないからね。まあ、父さんが増やす可能性はあるけど」
「増えるんだ……」
幹比古が苦笑する。
けれど、その表情は明るかった。
エリカが横からにやりと笑う。
「よかったじゃない、幹比古。次の沼が見つかって」
「沼って言い方はやめてくれ」
「でも楽しそうだったわよ」
「……それは」
幹比古は少し言葉に詰まった。
そして、小さく笑った。
「うん。楽しかった」
その一言に、美月の表情が柔らかくなる。
聖火は何も言わず、ただ少しだけ笑った。
その日の幹比古は、自分でも気づかないうちに、ひとつ思い出していた。
魔法は、重荷である前に。
失ったものを数える前に。
ただ、知ることが楽しいものだったのだと。
男はいつまでも子供なんです。