魔法科高校の劣等生 四葉の火の鳥   作:ペンギン豚

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幹比古回になります。強化というよりは交流とかそういった形の話になります。


資料室の子供たち

 

 

夏休みのある日。

 

司波達也と司波深雪は、鷹山家の食卓にいた。

 

きっかけは、数日前に美沙から届いた短い誘いだった。

 

夏休み中なのだから、たまにはお昼を食べにいらっしゃい。

 

その一言に、深雪は嬉しそうに頷き、達也も特に断る理由を見つけなかった。

 

鷹山家と司波家の付き合いは、今さら改まって説明するようなものではない。

 

司波兄妹にとって、鷹山家は親戚の家に近かった。

 

いや、深雪に限って言えば、親戚という言葉より、もっと近いかもしれない。

 

美沙は深雪を実の娘のように可愛がり、深雪もまた美沙を小母様と呼んで慕っている。

 

達也も、治憲と美沙を小父さん、小母さんと呼ぶことに、今ではほとんど違和感を覚えていなかった。

 

そのため、今日も特別な用事があったわけではない。

 

ただ昼食に呼ばれ、来ただけだった。

 

「お兄様、この煮物、とても美味しいですね」

 

「ああ」

 

達也は静かに頷く。

 

「味がよく染みている」

 

美沙は嬉しそうに微笑んだ。

 

「ありがとう、深雪ちゃん。達也くんも、たくさん食べてね」

 

「ありがとうございます、小母さん」

 

「ありがとうございます、小母様」

 

聖火は横から箸を持ったまま言う。

 

「母さん、俺には?」

 

「聖火はいつも食べているでしょう」

 

「扱いが違う」

 

「日頃の行いだな」

 

達也が淡々と告げる。

 

「達也くん、うちに馴染みすぎてない?」

 

「事実を述べただけだ」

 

深雪がくすりと笑った。

 

鷹山家の昼食は、いつも通り穏やかだった。

 

だが、食事が一段落した頃、玄関の呼び鈴が鳴った。

 

聖火が立ち上がる。

 

「あ、来たかな」

 

深雪が首を傾げた。

 

「どなたかいらっしゃるのですか?」

 

「うん。幹比古くんたち。小笠原で少し話した資料を見に来ることになっていて」

 

「吉田くんが?」

 

達也がわずかに反応する。

 

「古式魔法の資料か」

 

「そう。父さんの資料も混ざってるから、少し癖はあるけどね」

 

治憲は、すでにどこか楽しそうな顔をしていた。

 

「癖があるとは失礼だな。貴重な資料と言いなさい」

 

「貴重だけど、癖もあるでしょ」

 

「否定はしない」

 

達也は少しだけ考えるように目を伏せた。

 

深雪はその横顔を見て、微笑む。

 

おそらく、兄は興味を持ったのだろう。

 

そして、聖火はそれを見逃さなかった。

 

「達也くんも見る?」

 

「いいのか」

 

「もちろん。むしろ父さんが喜ぶと思う」

 

治憲は即座に頷いた。

 

「達也くんなら歓迎だよ。現代魔法側からの視点も欲しい」

 

「では、少し見せてもらいます」

 

「少しで済むかな」

 

聖火が小さく呟く。

 

達也は聞こえていたのか、いなかったのか、特に反応しなかった。

 

聖火は玄関へ向かった。

 

扉を開けると、そこには吉田幹比古、千葉エリカ、柴田美月の三人が立っていた。

 

「いらっしゃい、幹比古くん」

 

「お邪魔します、鷹山くん」

 

幹比古は少し緊張した様子で頭を下げる。

 

その横で、エリカが気軽に手を上げた。

 

「お邪魔するわ」

 

美月も丁寧に頭を下げる。

 

「お邪魔します」

 

聖火は三人を中へ招き入れた。

 

「エリカさんと美月さんも来るとは思わなかったけど」

 

「面白そうだったから」

 

エリカは悪びれもなく言う。

 

幹比古が小さくため息をついた。

 

「僕が鷹山くんの家に行くって話をしたら、いつの間にかこうなっていた」

 

「人聞きが悪いわね。付き添いよ、付き添い」

 

「付き添いという名の興味本位だろう」

 

「半分くらいはね」

 

「半分もあるんだ」

 

美月が慌てて言う。

 

「あ、あの、私はエリカちゃんに誘われて……でも、吉田くんが楽しみにしているなら、少し見てみたいなって」

 

幹比古は少しだけ表情を和らげた。

 

「柴田さんは悪くないよ」

 

「ちょっと、あたしは悪いみたいに言わないでよ」

 

そんなやり取りをしながら三人がリビングへ入ると、そこにはすでに達也と深雪がいた。

 

エリカが目を瞬かせる。

 

「あれ、達也くんたちもいたんだ」

 

深雪が上品に微笑む。

 

「はい。今日は小母様にお昼へ誘っていただいて」

 

美沙がにこりと笑った。

 

「せっかくの夏休みですもの。たまには顔を見せてもらわないと寂しいでしょう?」

 

エリカはその言葉を聞いて、にやりと笑う。

 

「本当に親戚の家みたいね」

 

聖火は肩をすくめた。

 

「まあ、だいたいそんな感じかな」

 

深雪は少しだけ嬉しそうに目を伏せた。

 

達也は特に否定しなかった。

 

それが、この家における二人の距離感をよく表していた。

 

美沙は女性陣へ視線を向ける。

 

「それじゃあ、男の子たちは資料室かしら。深雪ちゃん、エリカちゃん、美月ちゃんは、こちらでお茶にしませんか?」

 

エリカは資料室の方を一度見た。

 

それから、聖火、達也、幹比古、治憲の顔を見る。

 

治憲はすでに何冊もの資料を抱えていた。

 

聖火は楽しそうにしている。

 

幹比古は緊張しながらも、目が資料に向いている。

 

達也は静かに興味を示している。

 

エリカは数秒沈黙した。

 

そして、納得したように頷いた。

 

「……あ、これ長くなるやつね」

 

美月が小さく笑った。

 

深雪も、達也の横顔を見て、少しだけ微笑んだ。

 

「お兄様、楽しんでいらしてください」

 

「ああ」

 

美沙は楽しそうに言った。

 

「男の子たちは資料に埋もれさせておきましょう。こちらはゆっくりお茶にしましょうね」

 

こうして、鷹山家の午後は、資料室とリビングの二手に分かれて始まった。

 

 

 

昼食を終えた後、鷹山家の午後は自然と二つに分かれた。

 

リビングには、美沙、深雪、エリカ、美月。

 

そして廊下の奥へ向かうのは、治憲、聖火、達也、幹比古の四人だった。

 

「それで、資料はどちらに?」

 

幹比古が尋ねると、治憲は楽しそうに笑った。

 

「私の書斎だよ。まあ、家族には資料室と呼ばれているがね」

 

「資料室、ですか」

 

「うん。書斎と呼ぶには、少し紙が多すぎるらしい」

 

聖火が横から小さく言った。

 

「少し?」

 

治憲は聞こえなかったふりをした。

 

廊下の奥。

 

他の部屋より少し重そうな扉の前で、治憲が足を止める。

 

「先に言っておくが、見た目ほど散らかってはいない」

 

聖火が即座に言った。

 

「本人の中ではね」

 

「聖火」

 

「はい」

 

「客人の前で父を貶めるものではない」

 

「貶めてないよ。正確に説明してるだけ」

 

達也が静かに言った。

 

「本人の中で秩序があるなら、資料室としては成立している」

 

聖火は達也を見た。

 

「達也くん、入る前から父さんの味方?」

 

「事実を述べただけだ」

 

「そういうところ、父さんと相性よさそうで怖いな」

 

治憲は満足そうに頷いた。

 

「達也くんは分かっているね」

 

「父さん、まだ中を見せてないよ」

 

「見せればもっと分かる」

 

「その自信が怖い」

 

幹比古はそのやり取りに少し笑った。

 

緊張が、ほんの少しだけ薄れる。

 

治憲が扉を開けた。

 

その瞬間、幹比古は思わず息を止めた。

 

そこは、部屋というより、紙に満たされた空間だった。

 

壁一面の本棚には、古い和綴じ本、分厚い民俗資料、複写された古文書、地域ごとに分類されたファイルが隙間なく並んでいる。

 

棚の一角には、巻物を収めた細長い箱がいくつも積まれていた。

 

別の棚には、古い神社の由緒書き、山岳信仰の記録、水神信仰に関する写し、地方の祭文、陰陽道系の資料、そして現代魔法理論と比較したらしい研究ノートが並ぶ。

 

机の上には、A4用紙の束がいくつも積み上げられていた。

 

古文書の翻刻。

 

現代語訳。

 

術式との対応表。

 

年代別の比較表。

 

手書きのメモ。

 

付箋だらけの論文コピー。

 

赤と青のペンでびっしり書き込まれた資料。

 

紙の山。

 

紙の束。

 

紙の壁。

 

それでも、不思議と不潔な印象はなかった。

 

雑然としている。

 

だが、乱雑ではない。

 

積まれた紙の山には、それぞれ意味があるように見える。

 

幹比古には分からない。

 

けれど、この部屋の主には、きっと分かっている。

 

そんな空間だった。

 

「……すごい」

 

幹比古は思わず呟いた。

 

治憲は少し得意げに笑う。

 

「ありがとう。褒め言葉として受け取っておこう」

 

「褒め言葉です。これは……本当に、すごいです」

 

幹比古の声には、素直な驚きがあった。

 

古式魔法の家に生まれた彼も、古い資料に触れたことがないわけではない。

 

むしろ、一般の学生よりはずっと多い。

 

だが、ここにあるものは少し違った。

 

家に伝わる秘伝書ではない。

 

一つの流派に閉じた伝書でもない。

 

土地、信仰、民俗、儀礼、古い魔法観、現代魔法との比較。

 

それらが、ひとつの部屋に押し込められている。

 

まるで、誰かが日本中から古い祈りの欠片を拾い集めてきたようだった。

 

達也は部屋を見回し、静かに言った。

 

「見た目ほど無秩序ではありませんね」

 

治憲の目が少し輝いた。

 

「ほう」

 

「地域別、時代別、系統別で大まかに分かれている。机の上の紙束は、おそらく現在比較中の資料です。棚の右側が水と山、左側が風と方位。奥の箱は未整理ではなく、保留分でしょう」

 

聖火が半歩後ろへ下がった。

 

「怖い怖い怖い」

 

達也は聖火を見る。

 

「何がだ」

 

「初見でそこまで見るのが怖いんだよ」

 

治憲は満足げに笑った。

 

「素晴らしい。達也くん、君は本当に見る目がある」

 

「ありがとうございます」

 

「父さん、すごく嬉しそうだね」

 

「嬉しいに決まっているだろう。資料の山を見て、ただ散らかっていると言わない若者は貴重だ」

 

「母さんに聞かせたい」

 

「美沙には言わなくていい」

 

聖火は肩をすくめた。

 

幹比古は、もう一度部屋を見回す。

 

紙の匂いがした。

 

古い本の乾いた匂い。

 

少しだけ墨のような匂い。

 

新しいコピー用紙と、古い和紙の匂いが混ざっている。

 

窓から入った光の中に、細かな埃が浮かんでいた。

 

だが、それすらこの部屋では、資料の時間が舞っているように見えた。

 

「父さん、本業の資料は端末でまとめてるんだけどね」

 

聖火が何気なく言った。

 

幹比古が振り向く。

 

「本業の資料?」

 

「会社の仕事。そっちは端末で効率よくやってる。紙でやったら量が洒落にならないから」

 

治憲は頷いた。

 

「仕事は効率が大事だからね」

 

「でも、こっちは紙なんですね」

 

幹比古が尋ねると、治憲は当然のように答えた。

 

「こちらは本来の本業だからね」

 

幹比古は一瞬、言葉を失った。

 

「本来の……本業?」

 

聖火が説明する。

 

「本人はそう言ってる。会社の仕事が表の本業で、こっちが魂の本業なんだって」

 

「言い方が少し軽いな、聖火」

 

「違った?」

 

「大筋では合っている」

 

「合ってるんだ」

 

治憲は机の上に手を置いた。

 

その手つきは、紙束をただの資料として扱うものではなかった。

 

古い友人に触れるような、静かな親しみがあった。

 

「端末が嫌いなわけではないよ。むしろ便利だ。検索も保存も共有も早い。会社の仕事では、端末なしではとても回らない」

 

そこで治憲は、少しだけ楽しそうに笑う。

 

「だが、こういう資料は紙がいい」

 

「どうしてですか?」

 

幹比古は自然に尋ねていた。

 

治憲は待っていたように頷く。

 

「紙は、並べられる。重ねられる。余白に書き込める。古い文献の写しと、現代の論文と、自分の仮説を同じ机の上に広げて、同時に眺めることができる」

 

治憲は一枚の紙を持ち上げた。

 

そこには古い祭文の一節と、現代語訳、さらに赤字でいくつもの注釈が書き込まれていた。

 

「端末の画面では、資料は整いすぎる。綺麗に並びすぎる。だが、紙は少し不便だ。その不便さが、考える時間をくれる」

 

幹比古は黙って聞いていた。

 

治憲は続ける。

 

「紙をめくる。戻る。別の資料と並べる。線を引く。余白に疑問を書く。数日後、その疑問に別の資料で出会う。そういう遠回りが楽しいんだ」

 

「……楽しい」

 

幹比古はその言葉を小さく繰り返した。

 

治憲は穏やかに頷いた。

 

「そう。楽しい」

 

その言い方は、あまりにも自然だった。

 

古式魔法を語る大人の口から出る言葉として、幹比古には少し意外だった。

 

古式魔法は、家に伝わるもの。

 

守るべきもの。

 

継ぐべきもの。

 

失えば恥となるもの。

 

幹比古は、いつの間にかそう思うようになっていた。

 

けれど目の前の治憲は、紙の山に囲まれながら、まるで好きな玩具を見せる子供のように言った。

 

楽しい、と。

 

聖火は幹比古の表情を横目で見ていたが、何も言わなかった。

 

代わりに、机の端に置かれた紙束を指差す。

 

「父さん、今日見せるのはどれ?」

 

「まずはこれだ」

 

治憲は迷いなく、机の左奥にある紙束の下から一冊のファイルを抜き出した。

 

あまりにも自然な動作だった。

 

幹比古が思わず尋ねる。

 

「どこに何があるか、全部覚えているんですか?」

 

「全部ではないよ」

 

治憲は笑った。

 

「だいたいだ」

 

聖火が小声で言う。

 

「父さんの“だいたい”は信用しない方がいいよ。前に、右の棚の三段目、青いファイルの下から二番目って言って本当に出てきたから」

 

達也が静かに言った。

 

「記憶というより、配置そのものを索引として使っているのでしょう」

 

治憲は嬉しそうに達也を見る。

 

「その通り」

 

聖火は少しだけ眉を寄せた。

 

「達也くん、父さんを喜ばせるの上手いね」

 

「事実を述べただけだ」

 

「その事実が父さんに刺さってるんだよ」

 

幹比古は少し笑った。

 

この部屋に入る前の緊張は、かなり薄れていた。

 

もちろん、まだ圧倒されている。

 

資料の量にも、治憲の知識にも、達也の観察力にも。

 

それでも、不思議と息苦しくはなかった。

 

むしろ、気になった。

 

この紙束の中に、何が書かれているのか。

 

この巻物には、どんな術の痕跡があるのか。

 

この古い祭文は、何を祈っていたのか。

 

知りたい。

 

そう思った。

 

治憲はファイルを机の中央に置く。

 

「今日は、吉田くんにぜひ見てもらいたいものがある」

 

「僕に、ですか」

 

「ああ。吉田家の術と直接同じではない。ただ、考え方の根が近いかもしれない」

 

幹比古の目が変わった。

 

「見せてください」

 

その返事は、思っていたより早かった。

 

聖火はその横顔を見て、少しだけ笑う。

 

達也も無言で机の前に立った。

 

治憲は満足そうに椅子を引く。

 

「では、始めようか」

 

その声は、講義の始まりというより、遊びの始まりを告げるものに近かった。

 

資料室の子供たちは、その瞬間から紙の山の中へ沈んでいった。

 

 

 

治憲が最初に開いたのは、少し古びた写しの束だった。

 

原本ではない。

 

だが、丁寧に複写され、現代語訳と注釈が付けられている。

 

紙の端には、治憲の手書きらしい小さな文字がいくつも並んでいた。

 

幹比古は、最初の一枚を見て目を細める。

 

「これは……祭文ですか?」

 

「うん。とある地方の水神信仰に関する祭文の写しだよ」

 

治憲は椅子に腰掛けながら答えた。

 

「水神信仰」

 

聖火が横から補足する。

 

「ただ、水だけじゃないんだ。風の記述も混ざってる」

 

達也が資料を覗き込む。

 

「水と風?」

 

「そう」

 

治憲は楽しそうに頷いた。

 

「面白いだろう? 現代的な分類なら、水系統と風系統は分けて考えたくなる。だが、この祭文では水と風が一つの流れとして扱われている」

 

幹比古は資料の文字を追った。

 

古い言い回し。

 

土地の名。

 

山の名。

 

川の名。

 

風を呼ぶ言葉。

 

水を鎮める言葉。

 

雨を乞う文句。

 

それらが一続きになっている。

 

「雨を呼ぶ儀礼……ですか?」

 

「表面的にはね」

 

治憲は答えた。

 

「だが、私が気になったのは、雨そのものよりも前の段階だ」

 

「前の段階?」

 

「うん。ここを見てほしい」

 

治憲は紙の一節を指差した。

 

そこには、山の風を迎え、水の道を開き、土地の気を鎮める、といった意味の文が並んでいた。

 

幹比古は、その一文を何度か読み返す。

 

達也が先に口を開いた。

 

「現代魔法として見るなら、記述が曖昧すぎますね」

 

「達也くんらしい第一声だね」

 

聖火が苦笑する。

 

達也は気にせず続けた。

 

「対象も、作用も、発動条件も明確ではない。雨を降らせる魔法として再現するには、情報が足りない」

 

治憲は嬉しそうに頷いた。

 

「そう。現代魔法としては、そこが問題になる」

 

「問題になる、というより、魔法式に落とし込むには不安定すぎます」

 

達也は資料を見ながら言った。

 

「水を移動させるのか、大気中の水分を凝結させるのか、雲を形成するのか、気圧を変えるのか。結果だけを見れば雨だとしても、過程が不明瞭です」

 

「うん。現代魔法の視点ならそうなる」

 

治憲は少し身を乗り出す。

 

「では、吉田くん。古式魔法の側から見るとどうかな?」

 

急に水を向けられて、幹比古は少しだけ姿勢を正した。

 

だが、資料から目を離さない。

 

「これは……たぶん、雨を直接降らせる術ではないと思います」

 

「ほう」

 

治憲の目が輝く。

 

幹比古は慎重に言葉を選んだ。

 

「少なくとも、現代魔法のように目的の現象を定義して、そこへ干渉する形ではないと思います。これは先に場を整えている」

 

「場を整える」

 

達也が静かに繰り返した。

 

幹比古は頷く。

 

「はい。山、川、風、水。そういうものを別々の対象として扱うのではなく、関係性として結んでいるように見えます」

 

聖火が少し嬉しそうに口元を緩めた。

 

だが、何も言わない。

 

幹比古は資料の一節を指で追った。

 

「ここで風を迎えるとあります。でも、風を起こすとは書いていません。迎える、という表現になっている。水も同じです。水を動かすのではなく、水の道を開く。命令ではなく、通すという感じです」

 

治憲は深く頷いた。

 

「いいね」

 

幹比古は少しだけ驚いたように治憲を見た。

 

「え?」

 

「とてもいい読み方だ」

 

治憲は素直に言った。

 

「この資料を現代魔法側だけで見ると、どうしても不完全な術式に見える。だが、古式の儀礼として見ると、これは結果を強制するものではなく、条件を整えるものとして読める」

 

聖火がそこで口を開く。

 

「結果じゃなくて、関係性を整える術、だね」

 

「関係性……」

 

幹比古が小さく繰り返す。

 

聖火は机の上に置かれた別の紙を引き寄せた。

 

「たぶん昔の人にとって、雨は単に水が落ちる現象じゃなかったんだと思う。山があって、風があって、川があって、土地があって、その関係の中で雨が来る」

 

達也が資料から視線を上げる。

 

「つまり、現象を単独で切り出していない」

 

「そう。現代魔法は、目的の現象を切り出して定義するのが得意だよね。でも、古式魔法や儀礼は、切り出す前の繋がりを重視することがある」

 

治憲が満足そうに続けた。

 

「だから、この祭文は雨を降らせるための命令文ではない。土地と自然の関係を、雨が降ってもおかしくない状態へ整えるための手順書に近い」

 

「手順書……」

 

幹比古の目が、少しずつ真剣になっていく。

 

「それなら、ここで風を先に呼ぶ理由も分かるかもしれません」

 

幹比古は別の一節を指差した。

 

「雨を求めるなら、水の神格だけに祈る方が分かりやすい。でも、ここでは先に風を通している。たぶん、水を動かす前に、停滞した気を逃がす意味があるんじゃないでしょうか」

 

治憲は、嬉しそうに身を乗り出した。

 

「続けて」

 

「えっと……」

 

幹比古は少し戸惑ったが、資料から目を離せなくなっていた。

 

「雨乞いの儀礼というより、土地の呼吸を戻す儀礼に近いのかもしれません。風が通らなければ、水も動かない。水が動かなければ、土地の気が濁る。だから、風を迎えて、水の道を開く」

 

聖火が思わず小さく笑った。

 

「土地の呼吸か。いい表現だね」

 

幹比古は少しだけ顔を赤らめる。

 

「今、思いついただけだよ」

 

「それがいいんだよ」

 

達也が静かに資料を見つめた。

 

「現代魔法で再現するなら、単体の術式ではなく、複数の環境条件へ段階的に干渉する必要があるということか」

 

「達也くん、すぐ実用化しようとするね」

 

「再現可能性を考えるのは当然だ」

 

「うん。達也くんらしい」

 

治憲は楽しそうに笑った。

 

「だが、そこが面白い。達也くんの言う通り、現代魔法として再現するなら、複数条件への段階的干渉になる。けれど古式の儀礼としては、それを人間側の所作や言葉、場の配置で補っていた可能性がある」

 

幹比古ははっとしたように顔を上げた。

 

「配置……」

 

「そう」

 

治憲は別の紙を広げた。

 

そこには簡単な図が描かれている。

 

川。

 

祠。

 

山の方角。

 

祭具の位置。

 

人の立ち位置。

 

風向き。

 

「この儀礼が行われていたとされる場所の復元図だ。正確ではないが、古い地図や地名からある程度推測した」

 

幹比古はその図を見た瞬間、目を細めた。

 

「この配置……」

 

聖火が尋ねる。

 

「何か分かる?」

 

「結界というほど強いものではないけど、場を閉じるというより、流れを作っているように見える」

 

「流れ?」

 

「はい。この祠を中心にしているようで、実際には川と山の間に道を作っている。人の立ち位置も、四方を塞ぐ形じゃない。むしろ、風の入り口を空けている」

 

達也が図を見ながら言った。

 

「防御結界ではなく、誘導路か」

 

「たぶん」

 

幹比古は、もう遠慮するような声ではなかった。

 

自分の知っている感覚と、目の前の資料を結びつけながら話している。

 

「吉田家の術にも、場を閉じるものと、流すものがあります。悪いものを封じる時は閉じる。でも、滞ったものを祓う時は、完全に閉じると逆に逃げ場がなくなる」

 

聖火は頷いた。

 

「それは分かる気がする。傷もそうだよ。塞ぐだけだと中に悪いものが残ることがある。逃がしてから塞ぐ必要がある」

 

「治療の話か?」

 

達也が見る。

 

「うん。雑に言えばね」

 

「雑すぎる」

 

「達也くん、細かく説明すると長くなるよ」

 

「なら今はいい」

 

「賢明」

 

治憲はそのやり取りを聞きながら、今度は棚から別のファイルを取り出した。

 

「吉田くん、今の話なら、これも見てもらいたい」

 

「まだあるんですか?」

 

幹比古の声に、驚きよりも期待が混ざっていた。

 

治憲はにこりと笑う。

 

「あるとも」

 

聖火が小さく呟く。

 

「父さん、その台詞すごく嬉しそう」

 

「嬉しいからね」

 

治憲は否定しなかった。

 

新しく開かれたファイルには、別の地域の祓いの記録がまとめられていた。

 

今度は水ではない。

 

風。

 

道。

 

境界。

 

村の入り口。

 

旅人。

 

疫病。

 

そういった言葉が並んでいる。

 

幹比古は自然に身を乗り出した。

 

「これは、道切りですか?」

 

治憲は目を細めた。

 

「知っているのかい?」

 

「名前だけなら。村や集落の境界で、災いが入ってこないようにする儀礼ですよね」

 

「その通り」

 

「でも、この記録は少し違う気がします。入ってこないようにするというより、通り過ぎてもらう形に近い」

 

治憲は満面の笑みを浮かべた。

 

「素晴らしい」

 

幹比古は少しだけ照れたように目を伏せる。

 

「いえ、そんな」

 

「いや、素晴らしいよ。多くの人は、境界の儀礼を見るとすぐに防御と考える。だが、すべてが止めるためのものではない。時には、止めずに流す方が安全な場合もある」

 

達也が資料を見ながら呟く。

 

「迎撃ではなく、誘導」

 

「現代魔法風に言うなら、そうなるね」

 

治憲が答える。

 

聖火は幹比古の横顔を見た。

 

さっきまでの緊張は、もうほとんど残っていない。

 

代わりに、目が動いている。

 

資料の文字を追い、図を見て、頭の中で何かを組み立てている。

 

その顔は、九校戦で見せた硬さとは違った。

 

もっと柔らかい。

 

もっと素直な熱がある。

 

幹比古は、気づかないうちに次の紙を手に取っていた。

 

「この注釈の部分ですが……」

 

「うん」

 

「ここで使われている風の表現、さっきの水神信仰の資料と少し似ています。でも、目的が違う。あちらは水を通すための風で、こちらは災いを通り過ぎさせるための風。たぶん、風そのものを操るというより、流れの方向を示している」

 

治憲は小さく手を叩いた。

 

「いい。実にいい」

 

幹比古はそこで、ようやく自分がかなり前のめりになっていることに気づいた。

 

「あ……すみません。勝手に」

 

「謝る必要はないよ」

 

治憲は穏やかに言った。

 

「資料は、読まれるためにある。しかも、君のように読んでくれる人はありがたい」

 

「僕のように、ですか?」

 

「ああ。古式魔法を知識としてだけではなく、感覚として知っている人の読み方だ」

 

その言葉に、幹比古は少しだけ固まった。

 

古式魔法を感覚として知っている。

 

その言葉が、胸の奥に静かに触れた。

 

幹比古はしばらく、資料の上に置いた自分の手を見ていた。

 

自分は、まだそれを知っているのだろうか。

 

かつてのように、扱えているのだろうか。

 

迷いが胸を過ぎる。

 

だが、その迷いが膨らむ前に、聖火が別の資料を差し出した。

 

「幹比古くん、これも見てみる?」

 

「え?」

 

「さっきの話とつながりそう。風を止めるんじゃなくて、流れを変えるやつ」

 

幹比古は差し出された資料を見た。

 

古い筆跡の写し。

 

横に治憲の注釈。

 

さらに、聖火のものらしい簡単なメモが書かれている。

 

そこには、こうあった。

 

――封じるより、逃がす。

――壊すより、道を作る。

――祓いは排除ではなく、移動の術かもしれない。

 

幹比古は、その三行を見つめた。

 

「……面白い」

 

小さな声だった。

 

だが、確かにこぼれた。

 

聖火は聞こえたが、何も言わなかった。

 

治憲も、達也も、あえて反応しなかった。

 

幹比古は、資料をめくる。

 

一枚。

 

もう一枚。

 

読めば読むほど、疑問が増えていく。

 

この表現は何を指しているのか。

 

この順番に意味はあるのか。

 

この地方では、なぜ風と境界が結びついているのか。

 

なぜ、祓うのではなく、通すのか。

 

知りたい。

 

確かめたい。

 

考えたい。

 

気づけば幹比古は、机の上に広げられた資料へ身を乗り出していた。

 

「鷹山くん」

 

「うん?」

 

「この資料、もう少し詳しく見てもいい?」

 

聖火は少しだけ笑った。

 

「もちろん」

 

治憲が嬉しそうに言う。

 

「では、関連資料も出そう」

 

聖火がすぐに止めた。

 

「父さん、待って」

 

「なぜだ」

 

「関連資料って言って、五冊くらい増やす気でしょ」

 

「五冊では足りないな」

 

「ほら」

 

達也が静かに言った。

 

「必要なら、優先順位をつけた方がいい」

 

治憲は少し考えた。

 

「達也くんの言う通りだ。では、まず三冊にしよう」

 

「減ってない」

 

「五冊よりは減った」

 

「そういう問題じゃないんだけど」

 

幹比古は思わず笑った。

 

本当に、自然に笑った。

 

それから、はっとしたように口元を押さえる。

 

笑うつもりなどなかった。

 

けれど、笑っていた。

 

資料を前にして。

 

古式魔法の話をして。

 

分からないことが増えて。

 

知りたいことが増えて。

 

それが、楽しかった。

 

治憲はそんな幹比古を見て、静かに言った。

 

「吉田くん」

 

「はい」

 

「君は今、とても良い顔をしているね」

 

幹比古は言葉を失った。

 

「え……」

 

治憲は穏やかに笑う。

 

「資料を読む時は、そういう顔が一番いい。答えを知っている顔ではなく、問いが増えていく顔だ」

 

幹比古は、自分の胸の奥にあるものを少しだけ意識した。

 

楽しい。

 

本当に、楽しい。

 

それは強くなるための資料ではないかもしれない。

 

すぐに術を取り戻すための答えでもないかもしれない。

 

けれど、それでも。

 

古式魔法のことを考えている自分は、今、確かに楽しいと思っている。

 

「……はい」

 

幹比古は小さく頷いた。

 

「もう少し、見たいです」

 

治憲は満足そうに笑った。

 

「もちろんだ」

 

聖火はそっと資料の山を整える。

 

達也は机の端にあった白紙を引き寄せ、いくつかの項目を書き始めた。

 

聖火がそれを覗き込む。

 

「達也くん、何を書いてるの?」

 

「比較項目だ」

 

「現代魔法への変換?」

 

「それだけではない。儀礼の構造、場の配置、作用対象、発動条件、再現性の程度を分けておく」

 

治憲の目が再び輝いた。

 

「素晴らしい」

 

聖火は額に手を当てた。

 

「父さんが完全に達也くんを気に入った」

 

「以前から気に入っているよ」

 

「さらにだよ」

 

達也は資料を見たまま言う。

 

「分類しなければ比較できない」

 

幹比古が自然に口を挟んだ。

 

「でも、分類しすぎると儀礼の意味が抜けるかもしれない」

 

達也が視線を向ける。

 

「どういうことだ」

 

幹比古は一瞬だけ迷った。

 

だが、すぐに資料を指差した。

 

「たとえば、ここを風、水、方位、祭具に分けることはできます。でも、古式魔法や儀礼では、それぞれが単独で働くというより、組み合わさった状態に意味がある。だから分けすぎると、元の形で何が起きていたのかが見えにくくなる気がします」

 

達也は少し黙った。

 

そして、白紙に新しい項目を書き足した。

 

「関係性」

 

幹比古は目を瞬かせる。

 

達也は続けた。

 

「分類とは別に、要素間の関係を記録する」

 

聖火が笑った。

 

「達也くん、柔軟だね」

 

「必要な項目を追加しただけだ」

 

「それを柔軟って言うんだよ」

 

治憲は実に楽しそうに頷いた。

 

「いいね。非常にいい。現代魔法の視点、古式魔法の視点、歴史の視点が混ざると、資料は一気に面白くなる」

 

「父さん、楽しそうだね」

 

「楽しいとも」

 

治憲は即答した。

 

「資料は一人で読んでも楽しい。だが、違う目を持つ人間と読むと、さらに楽しい」

 

幹比古は、その言葉を静かに聞いていた。

 

違う目を持つ人間と読む。

 

それは、幹比古にとって少し新鮮だった。

 

古式魔法は、家の中で学ぶものだった。

 

教わり、受け継ぎ、間違えないようにするものだった。

 

だが、ここでは違う。

 

治憲は問いを喜ぶ。

 

聖火は脱線を楽しむ。

 

達也は分類して切り込む。

 

そして、自分は古式魔法の感覚で資料を読む。

 

誰か一人の正解を押しつける場ではない。

 

一つの資料を囲んで、それぞれの目で見ている。

 

それが、不思議なほど楽しかった。

 

「幹比古くん」

 

聖火が声をかける。

 

「何?」

 

「その顔、エリカさんが見たら絶対からかうと思う」

 

「えっ」

 

幹比古は思わず顔を上げた。

 

聖火は笑う。

 

「すごく楽しそうだから」

 

幹比古は少しだけ顔を赤らめた。

 

「そんなに?」

 

「うん」

 

達也が淡々と言う。

 

「先ほどより、表情筋の緊張が明らかに少ない」

 

「達也、そういう分析はやめてくれないかな」

 

「事実だ」

 

「そういうところが達也だよね」

 

聖火が肩をすくめる。

 

治憲は楽しそうに笑った。

 

「いや、良いことだよ。好きなものを前にして顔が動かない方が不健康だ」

 

幹比古は、少しだけ視線を落とした。

 

「好きなもの……」

 

その言葉は、胸の奥で静かに響いた。

 

古式魔法が好きだった。

 

昔は、たしかにそうだった。

 

術ができるようになることが嬉しかった。

 

分からなかった言葉の意味が分かることが楽しかった。

 

古い儀礼に込められた考えを知ることが面白かった。

 

いつの間にか、それを忘れていた。

 

できないこと。

 

失ったこと。

 

取り戻さなければならないこと。

 

家に恥じないこと。

 

そういう重さの下で、好きだった気持ちが見えなくなっていた。

 

けれど、消えてはいなかった。

 

幹比古は資料へ視線を戻した。

 

「……この続き、見てもいいですか」

 

治憲は優しく頷いた。

 

「もちろんだよ」

 

聖火は椅子を一つ引いた。

 

「座って見ようか。立ったままだと本当に資料に沈むよ」

 

「ありがとう」

 

幹比古は椅子に座る。

 

達也も自然に隣へ腰を下ろした。

 

治憲は棚から資料を追加し、聖火は机の上を少しだけ片づける。

 

四人の前に、紙が広がっていく。

 

祭文。

 

図。

 

注釈。

 

現代語訳。

 

比較表。

 

白紙のメモ。

 

そして、幹比古の中に戻り始めた、小さな熱。

 

資料室の空気は、いつの間にか静かな熱を帯びていた。

 

男たちは誰も、その熱に気づいていないふりをした。

 

ただ、それぞれの資料へ手を伸ばした。

 

まるで新しい遊びを見つけた子供のように。

 

 

 

その頃、リビングでは、美沙、深雪、エリカ、美月の四人が紅茶を囲んでいた。

 

テーブルの上には、焼き菓子と小さな和菓子が並んでいる。

 

資料室の熱気とは対照的に、こちらは穏やかな午後の空気だった。

 

エリカは紅茶のカップを片手に、廊下の奥へ視線を向ける。

 

「……戻ってこないわね」

 

美月も、少し心配そうに同じ方向を見る。

 

「吉田くん、楽しそうでしたね」

 

「完全に捕まったわね、あれは」

 

エリカが苦笑する。

 

「鷹山のお父さんも楽しそうだったし、聖火も止める気なさそうだったし」

 

深雪は静かに微笑んだ。

 

「お兄様も、きっと楽しんでいらっしゃると思います」

 

「深雪は声だけで分かるの?」

 

「はい」

 

迷いのない返事に、エリカは小さく笑った。

 

「さすがね」

 

その時、資料室の方から声が聞こえた。

 

「父さん、関連資料って言って五冊以上出すのは禁止!」

 

聖火の声だった。

 

続いて、治憲の声が返る。

 

「五冊では足りないだろう」

 

さらに、達也の淡々とした声。

 

「優先順位を付けるべきです」

 

そして少し遅れて、幹比古の声が聞こえた。

 

「でも、その三つ目の資料は見たいです」

 

一瞬、リビングが静かになった。

 

次の瞬間、エリカが吹き出した。

 

「駄目だわ。幹比古も完全にあっち側に行ってる」

 

美月は口元を押さえながら、少し嬉しそうに笑った。

 

「でも、楽しそうです」

 

美沙も資料室の方を見て、困ったように、けれどとても柔らかく微笑んだ。

 

「男って」

 

美沙は、呆れたように言った。

 

「本当に、いつまでも子供よね」

 

その言葉に、深雪がくすりと笑った。

 

エリカも笑い、美月も少し遅れて笑う。

 

紅茶の香りと、資料室から聞こえる楽しそうな声。

 

その二つが、鷹山家の午後を穏やかに満たしていた。

 

結局、男性陣はその後もしばらく戻ってこなかった。

 

あまりに話が終わらないため、女性陣は美沙を中心に夕食の支度を始めた。

 

深雪は慣れた様子で手伝い、美月もその横で器を並べる。

 

エリカは料理は得意ではないと言いつつも、野菜を切ったり配膳を手伝ったりしていた。

 

資料室では相変わらず、紙をめくる音と議論する声が続いている。

 

治憲が新しい資料を出そうとし、聖火がそれを止め、達也が淡々と整理し、幹比古が目を輝かせて次の資料を読む。

 

夕食の準備が整う頃になっても、誰一人として時間に気づいていないようだった。

 

美沙は少しだけ肩をすくめると、資料室まで男性陣を呼びに行った。

 

扉を開けた先では、机いっぱいに広げられた資料を前に、四人がまだ真剣な顔で議論を続けていたという。

 

「夕食の時間ですよ」

 

美沙がそう告げると、治憲はようやく顔を上げた。

 

「もうそんな時間か」

 

聖火がため息をつく。

 

「だから言ったでしょ。絶対に時間を忘れるって」

 

達也は資料から視線を上げ、淡々と言った。

 

「経過時間を確認していませんでした」

 

幹比古も、少し申し訳なさそうに頭を下げる。

 

「すみません。僕も、つい……」

 

その声には、隠しきれない名残惜しさがあった。

 

その日の夕食は、予定より少し賑やかなものになった。

 

達也と深雪。

 

エリカと美月。

 

幹比古。

 

そして鷹山家の三人。

 

食卓では、資料室の話がまだ少し続いた。

 

エリカが幹比古をからかい、美月がそれをたしなめ、深雪は達也が楽しそうだったことを嬉しそうに見ていた。

 

幹比古は少し照れながらも、否定はしなかった。

 

帰る頃には、日はすっかり傾いていた。

 

玄関先で幹比古は、治憲と聖火へ深く頭を下げた。

 

「今日は、ありがとうございました」

 

その声は、来た時よりも少し軽かった。

 

治憲は穏やかに笑う。

 

「こちらこそ楽しかったよ。またいつでも来るといい」

 

聖火も頷いた。

 

「資料は逃げないからね。まあ、父さんが増やす可能性はあるけど」

 

「増えるんだ……」

 

幹比古が苦笑する。

 

けれど、その表情は明るかった。

 

エリカが横からにやりと笑う。

 

「よかったじゃない、幹比古。次の沼が見つかって」

 

「沼って言い方はやめてくれ」

 

「でも楽しそうだったわよ」

 

「……それは」

 

幹比古は少し言葉に詰まった。

 

そして、小さく笑った。

 

「うん。楽しかった」

 

その一言に、美月の表情が柔らかくなる。

 

聖火は何も言わず、ただ少しだけ笑った。

 

その日の幹比古は、自分でも気づかないうちに、ひとつ思い出していた。

 

魔法は、重荷である前に。

 

失ったものを数える前に。

 

ただ、知ることが楽しいものだったのだと。

 




男はいつまでも子供なんです。



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