夏休みも終わりに近づいたある日。
鷹山聖火は、北山雫の家の前に立っていた。
手には、丁寧に包まれた箱がある。
中身は、フルーツのパウンドケーキ。
九校戦のダンスの時に、雫から要求された約束の品だった。
ただのパウンドケーキではない。
アメリカから遊びに来ていた友人、ケイシー・ライバックから教わったレシピをもとに、聖火が自分で焼いたものだ。
ドライフルーツは前日から香りを移し、生地は重くなりすぎないように調整した。
焼き上がってから少し寝かせ、味が落ち着くのを待った。
美沙には、
「これは、なかなか本気ね」
と言われた。
聖火としても、否定はしなかった。
約束した以上、半端なものを持っていくわけにはいかない。
それに、相手は北山雫である。
ごまかしが通じる相手ではない。
聖火は目の前の邸宅を見上げた。
広い敷地。
整えられた門構え。
無駄なく手入れされた庭。
建物そのものも大きいが、派手に見せびらかすような成金趣味ではない。
静かに、しかし確かに格がある。
「……さすが」
思わず、そう呟いた。
門の前で名前を告げると、ほどなくしてメイドが現れた。
「鷹山聖火様でいらっしゃいますね」
「はい。本日はお招きありがとうございます」
聖火は丁寧に頭を下げた。
メイドは礼儀正しく一礼し、屋敷の中へ案内する。
廊下を歩きながら、聖火は改めて感心した。
隅々まで整っている。
だが、冷たくはない。
人が住む家としての温度がある。
雫らしい家だ、と聖火は思った。
案内された先は、落ち着いた雰囲気の応接室だった。
そこにはすでに、三人の少女が席についていた。
北山雫。
光井ほのか。
司波深雪。
雫はいつも通り静かな表情でこちらを見る。
ほのかは嬉しそうに顔を明るくした。
深雪は柔らかな微笑みを浮かべている。
「こんにちは。お待たせ」
聖火は軽く頭を下げた。
「約束の品を持ってきたよ」
雫の目が、ほんの少しだけ動いた。
「待ってた」
「うん。そう言うと思った」
ほのかがくすりと笑う。
「雫、今日ずっと楽しみにしてたんだよ」
「してた」
雫は否定しなかった。
深雪が箱へ視線を向ける。
「聖火くんが自分で焼いたの?」
「一応ね。レシピは知り合いの料理人から教えてもらったものだけど」
「料理人の方?」
「うん。少し変わった人だけど、腕は本物」
雫が静かに言う。
「期待してる、聖火」
「名前を添えられると、圧が少し増すね」
「圧はかけてない」
「雫さんの期待は、無言でも圧になるんだよ」
ほのかが困ったように笑い、深雪も口元を押さえた。
聖火は箱を軽く持ち上げた。
「切り分けと、あと紅茶を淹れたいんだけど、厨房を少し借りてもいいかな? ケーキに合う茶葉も持ってきたから」
雫はすぐに頷いた。
「いい。お願い」
控えていたメイドが静かに一礼する。
「それでは、こちらへご案内いたします」
「ありがとうございます」
聖火は三人に軽く会釈した。
「少し待ってて。せっかくだから、ちゃんと出すよ」
「うん」
「楽しみにしてるね、聖火くん」
「待っているわ、聖火くん」
聖火はメイドに案内され、応接室を出ていった。
扉が静かに閉まる。
少しの間、三人の間に穏やかな沈黙が流れた。
最初に口を開いたのは、ほのかだった。
「聖火くんって、本当に何でも自然にやるよね」
雫が小さく頷く。
「気配りが細かい」
「ただケーキを持ってくるだけじゃなくて、紅茶まで用意してくるところが聖火くんらしいよね」
ほのかの言葉に、深雪は柔らかく微笑んだ。
「ええ。聖火くんらしいと思うわ」
その言い方があまりに自然だったので、ほのかと雫は同時に深雪を見た。
深雪が少し不思議そうに首を傾げる。
「どうかした?」
ほのかは少し迷った後、遠慮がちに尋ねた。
「あの、深雪。深雪は、聖火くんのことをどう思っているの?」
「聖火くんのこと?」
「うん。なんというか……すごく親しそうだから」
雫も静かに言う。
「深雪、聖火の前だと少し雰囲気が違う」
「そうかしら?」
「違う」
雫は短く断言した。
深雪は少しだけ目を伏せた。
聖火くんのことをどう思っているのか。
そう問われると、少し困る。
嫌いではない。
もちろん、苦手でもない。
むしろ、深雪にとって聖火くんは、とても大切な人の一人だった。
けれど、それは兄である達也への想いとは違う。
達也は、深雪にとって唯一無二の存在だ。
比べること自体ができない。
聖火への感情は、それとは別の場所にある。
「自分でも、不思議なの」
深雪は静かに言った。
「聖火くんと一緒にいると、時々、自分が普通の子供に戻ったような気持ちになるの」
ほのかが瞬きをする。
「普通の子供?」
「ええ」
深雪はゆっくり頷いた。
「私は、父というものをよく知らないわ。だから、これが正しい表現なのかは分からないけれど」
そこで一度、言葉を探すように間を置く。
「聖火くんが私を見る時、時々、ただの深雪として見てくださっているように感じるの」
「ただの深雪……」
ほのかが小さく繰り返す。
深雪は微笑んだ。
「優秀な魔法師としてでも、お兄様の妹としてでもなく。ただ、深雪ちゃんとして見てくださっているように感じるのよ」
雫は黙って聞いていた。
深雪の声は、いつもより少し柔らかかった。
「聖火くんは、私を子供扱いなさることがあるの」
「子供扱い?」
ほのかが少し驚いたように言う。
「ええ。失礼な意味ではないわ。むしろ、とても自然に」
深雪は少しだけ困ったように笑った。
「最初は戸惑ったわ。でも、今はそれが少し安心するの」
「安心……」
「ええ。何かを期待されているわけではない。評価されているわけでもない。ただ、そこにいていいと言われているような気がして」
そこで、深雪は小さく首を傾げた。
「……ただ、どうしてそう感じるのかは、私にもよく分からないの」
ほのかは、その言葉に少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じた。
深雪にとって聖火は、恋の相手ではない。
達也の代わりでもない。
けれど、確かに特別な場所にいる。
そのことだけは分かった。
雫はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。
「聖火、変な人」
深雪は少し驚いたように雫を見る。
雫は続ける。
「でも、悪い変さじゃない」
ほのかが笑う。
「うん。それは分かるかも」
深雪も、つられるように小さく笑った。
「ええ。聖火くんは、少し不思議な方ね」
そこで、ほのかは少し考えるように視線を落とした。
「私は、聖火くんのこと、友達としてすごく頼りにしてるかな」
深雪と雫が、ほのかを見る。
ほのかは少し照れたように笑った。
「もちろん、変わってるなって思うところもあるけど。でも、困った時に自然に手を貸してくれるし、こっちが言葉にする前に気づいてくれることもあるから」
ほのかは、九校戦でのことを少し思い出していた。
怖かった時。
迷った時。
気づけば、聖火は必要な場所にいた。
派手に助けるわけではない。
でも、そっと支えてくれる。
「だから、頼れる友達……かな」
ほのかはそう言って、少しだけ笑った。
その答えは、今のほのからしかった。
ついこの前、達也へ自分の気持ちを伝えたばかりのほのかにとって、聖火への感情は迷うものではない。
大切な友人。
頼りになる人。
それで十分だった。
雫は、しばらくカップの中を見つめていた。
ほのかが少し首を傾げる。
「雫は?」
「私?」
「うん。雫は、聖火くんのことどう思ってるの?」
雫はすぐには答えなかった。
深雪も静かに雫を見る。
雫は少しだけ目を伏せる。
「分からない」
「分からない?」
ほのかが聞き返す。
雫は頷いた。
「恋愛対象として見ているかは、分からない」
ほのかは少しだけ目を丸くした。
深雪も、わずかに表情を動かす。
雫は淡々と続けた。
「でも、気になる」
「気になる……」
「うん」
雫は窓の外へ視線を向ける。
「聖火は、見ているところが少し違う。人の好みとか、空気とか、言葉にしないものに気づく。なのに、自分のことはあまり話さない」
ほのかは頷いた。
「それは、分かるかも」
「だから、気になる」
雫は短く言った。
「それが恋愛かは、まだ分からない」
その言い方は、雫らしく率直だった。
好きだと断言するわけではない。
違うと否定するわけでもない。
ただ、自分の中にある曖昧な興味を、そのまま言葉にしている。
深雪は穏やかに微笑んだ。
「雫らしいわね」
「そう?」
「ええ」
ほのかも小さく笑う。
「でも、雫がそういうふうに言うの、少し珍しいかも」
雫はカップを置いた。
「聖火が変だから」
「それ、理由になるの?」
「なる」
雫は真顔で答えた。
ほのかが思わず笑い、深雪も口元を押さえた。
三人の間に、柔らかな空気が流れる。
聖火が戻ってくるまでの短い時間。
それぞれの中で、鷹山聖火という少年の位置が、少しだけ言葉になった。
深雪にとっては、理由の分からない安心感。
ほのかにとっては、頼れる友人。
雫にとっては、まだ名前の付かない興味。
同じ少年を見ていても、見えているものは少しずつ違っていた。
その時、扉の向こうから足音が近づいてきた。
メイドの気配。
そして、もう一つ。
聖火の声が聞こえた。
「すみません、茶器はこちらで合っていますか?」
メイドの穏やかな返答が続く。
どうやら、紅茶の準備に少し手間取っているらしい。
ほのかが小さく笑う。
「噂をすれば、だね」
雫は静かに頷いた。
「ケーキ、楽しみ」
深雪は扉の方を見た。
その表情は、穏やかで、少しだけ嬉しそうだった。
まもなく扉が開いた。
先にメイドが入り、続いて聖火がワゴンを押して応接室へ戻ってくる。
ワゴンの上には、きれいに切り分けられたフルーツのパウンドケーキと、温められた茶器。
それから、香りの立つ紅茶のポットが載せられていた。
「お待たせ」
聖火は少しだけ肩の力を抜いたように笑った。
「厨房をお借りしました。ありがとうございます」
メイドへ丁寧に頭を下げると、メイドは静かに一礼した。
「とんでもございません。見事な手際でございました」
「いえ、さすがにこちらの厨房は少し緊張しました」
「聖火でも緊張するんだ」
雫が言う。
「するよ。ここ、雫さんの家だよ?」
「普通」
「雫さんにとってはね」
聖火はそう言いながら、まず雫の前に皿を置いた。
薄く切り分けられたパウンドケーキは、しっとりとした生地の中に、赤や橙、淡い黄色の果実が散っている。
表面には控えめな艶があり、甘い香りの奥に、柑橘と茶葉に似た爽やかな匂いが混ざっていた。
「これが、約束のフルーツパウンドケーキ」
聖火は少しだけ真面目な顔で言った。
「知り合いの料理人から教わったレシピを、俺なりに少し調整したものだよ。果物の香りが強いから、紅茶は渋みが出すぎないものにした」
ほのかの目が輝く。
「すごい……お店みたい」
深雪も静かに皿へ視線を落とした。
「とても綺麗ね」
雫はしばらくケーキを見つめていた。
そして、短く言う。
「合格」
「まだ食べてないよね?」
「見た目」
「第一審査ってことかな」
「うん」
聖火は苦笑した。
「では、第二審査をどうぞ」
雫はフォークを手に取り、パウンドケーキを一口分だけ切った。
動作は静かだが、視線は真剣だった。
ほのかと深雪も、どこか見守るように雫を見る。
雫はケーキを口に運ぶ。
ゆっくりと味わう。
聖火は黙って待った。
雫は表情をほとんど変えない。
だが、数秒後、ほんの少しだけ目を細めた。
「おいしい」
その一言に、聖火は目に見えて安堵した。
「よかった」
「思ったより軽い」
「雫さんならそう言うと思った。重すぎると途中で飽きるかなと思って」
「果物の香りが強い。でも甘すぎない」
「そこはかなり気をつけた。紅茶と合わせる前提だったから」
雫はすぐに紅茶へ手を伸ばした。
一口飲む。
そして、また短く頷く。
「合う」
ほのかが嬉しそうに笑った。
「雫、かなり気に入ってるね」
「気に入った」
雫は否定しなかった。
聖火は小さく息を吐いた。
「約束を果たせて何よりです」
「まだ」
「まだ?」
雫は真顔で言った。
「もう一回分、要求するかもしれない」
「約束が増えた」
「おいしかったから」
「それを言われると断りづらいな」
ほのかが笑いながら、ケーキを口に運んだ。
「本当だ。すごくおいしい。果物の味がちゃんとするのに、重くない」
「ありがとう。ほのかさんは、もう少し甘めでもよかった?」
「ううん。これくらいが好きかも。紅茶と一緒だとちょうどいい」
「よかった」
深雪も静かにフォークを入れる。
一口食べた後、少しだけ目を和らげた。
「とても優しい味ね」
「優しい味?」
聖火が首を傾げる。
深雪は紅茶を一口飲んでから、微笑んだ。
「ええ。果物の甘さも、生地の香りも、どちらかが強すぎることなく、きちんと調和しているわ。紅茶も、ケーキの香りを邪魔していない」
「深雪ちゃんにそう言ってもらえると、頑張った甲斐があるな」
その呼び方に、ほのかと雫が一瞬だけ深雪を見る。
深雪はいつものように微笑んでいたが、その表情は少しだけ柔らかかった。
ほのかは、先ほどの会話を思い出す。
ただの深雪として見てくれる。
深雪ちゃんとして見てくれる。
その意味が、少し分かった気がした。
聖火はその視線に気づいたのか、気づいていないのか、平然と紅茶を注ぎ足す。
「雫さん、紅茶はもう少し濃い方がいい?」
「今のままでいい」
「了解」
「聖火」
「ん?」
「これ、さっき言ってた料理人の人のレシピ?」
「うん。元はね。ただ、その人のレシピそのままだと少し大人向けだったから、果物の種類と香りの出し方を変えた」
「大人向け?」
「かなり香りが強い。たぶん、ウイスキーとかブランデーに合わせる前提」
「それは駄目」
「だから変えた」
「正解」
雫は淡々と頷いた。
ほのかが感心したように言う。
「そこまで考えて作ったんだね」
「せっかくの約束だったからね」
聖火は軽く笑った。
「それに、九校戦で頑張ったご褒美でもあるし」
雫はフォークを止めた。
少しだけ目を伏せる。
「聖火も頑張った」
「俺は裏方だから」
「裏方も大事」
雫は短く言った。
「それに、ダンスの約束を覚えてた」
「雫さん、あれは忘れたら怒るでしょ」
「怒る」
「ほら」
雫はもう一口、ケーキを食べる。
その表情は相変わらず静かだったが、どこか満足そうだった。
ほのかはそんな雫を見て、嬉しそうに笑った。
「よかったね、雫」
「うん」
深雪も紅茶のカップを手に、穏やかに微笑んでいる。
聖火は四人分の紅茶を確認しながら、ふと息をついた。
「それにしても、雫さんの家はすごいね。さすが、って言葉が自然に出たよ」
「普通」
「普通ではないと思うよ」
「私には普通」
「それはそう」
ほのかがくすりと笑う。
「聖火くんでも、そういうこと言うんだね」
「言うよ。豪邸を見て豪邸だと思わないほど、感覚は麻痺してないから」
「鷹山家も十分すごいと思うけど」
「うちは変な家だから」
深雪が小さく笑う。
「聖火くん、それは治憲叔父様と美沙叔母様に失礼では?」
「でも否定できないでしょ?」
深雪は少しだけ考えるように目を伏せた。
「……温かい家だと思うわ」
「深雪ちゃんは優しいね」
「本当のことよ」
その言葉に、聖火は少しだけ照れたように視線を外した。
雫はそれを見て、ぽつりと言う。
「照れてる」
「照れてない」
「照れてる」
「雫さん、そこは追及しないでくれると助かる」
「分かった」
言葉とは裏腹に、雫は少しだけ満足そうだった。
ほのかがまた笑う。
深雪も静かに微笑んだ。
応接室には、紅茶の香りと、果物の甘い香りが満ちていた。
九校戦で交わされた小さな約束。
ダンスの後、雫が当然のように要求したパウンドケーキ。
それは少し遅れて、夏の終わりの午後に果たされた。
そして、その約束の席で、三人の少女たちは、それぞれ少しだけ、自分の中にある聖火への距離を知った。
頼れる友人。
気になる相手。
理由の分からない安心感。
名前は違っても、そこにある空気は穏やかだった。
雫は最後の一口を食べ終えると、紅茶を飲み、静かに言った。
「聖火」
「はい」
「次は、別のケーキも食べたい」
「要求が増えた」
「増えた」
聖火は少し困ったように笑った。
「分かった。次は、また考えておくよ」
雫は満足そうに頷いた。
「期待してる」
「だから、その期待は圧なんだよ」
ほのかが笑い、深雪もくすりと笑う。
雫は変わらない表情で、しかしどこか楽しそうに言った。
「圧はかけてない」
その言葉に、応接室の空気がまた柔らかくほどけた。
果たしてこの伏線の話までたどりつけるのでしょうか?
実は聖火のヒロインってまだ決まっていないんですよね。
いろいろと候補があるのですが、真夜は殿堂入りしており、別枠になります。
その理由もあるのですが、そこまで話が続くかは不明です。
ただ、そのまま真夜がヒロインになる可能性も捨てきれませんので、聖火の恋愛話はしばらく、はぐらかすと思います。