ただそれなりに伝えたいことはかけていると判断して投稿させていただきます。
三年前の夏。
その夜、四葉真夜は珍しい来客を迎えていた。
時刻は、すでに夜も深い。
屋敷の中は静まり返り、廊下を歩く使用人の足音さえほとんど聞こえない。
そんな時間に、鷹山聖火は四葉の屋敷を訪ねてきた。
連絡はあった。
だが、用件は告げられていない。
ただ一言。
今から少し、顔を出してもいいか。
それだけだった。
真夜は、その短い連絡を受けた時点で、何かがあるのだろうと察していた。
聖火は、意味もなく夜に訪ねてくるような少年ではない。
まして、四葉真夜のもとへ。
気まぐれや暇つぶしで来るほど、彼は鈍くも無神経でもなかった。
応接室の扉が静かに開く。
葉山が一礼し、その後ろから聖火が入ってきた。
「夜分にごめん、真夜」
いつものように、軽い調子だった。
だが、真夜はすぐに違和感を覚えた。
姿が、あの時のままだった。
初めて出会った頃の、あの聖火のまま。
年齢の変化も、時間の重なりも、そこには見えない。
それは懐かしいというより、奇妙だった。
時間から切り離されたものが、そのまま目の前に立っているような感覚。
葉山もまた、ほんのわずかに目を細めていた。
彼には、おそらく聖火の姿が明確には見えていない。
輪郭はある。
声も聞こえる。
そこにいることは分かる。
だが、年齢も、姿形も、どこか曖昧に揺らいでいる。
それでも葉山は、完璧な執事として一切の動揺を表に出さなかった。
「珍しいですね」
真夜は静かに言った。
「聖火さんが、この時間に訪ねてくるなんて」
聖火は肩をすくめる。
「珍しいこともあるよ」
「そうですね。聖火さんは、珍しいことをする時ほど、何かを隠している」
「手厳しいな」
「事実でしょう?」
「否定はしない」
聖火はそう言って、真夜の向かいに腰を下ろした。
葉山が静かに近づく。
「聖火様。何かお飲み物をご用意いたしましょうか」
いつもなら、紅茶。
あるいは水。
少し疲れている時でも、温かい茶を選ぶ。
葉山は当然のようにそう思っていた。
だが、聖火は少しだけ天井を見上げてから、珍しく迷わず答えた。
「コニャックをストレートで」
葉山の動きが、ほんの一拍だけ止まった。
真夜の目も、わずかに細くなる。
聖火は続けた。
「できれば、ボトルごともらいたい」
応接室の空気が、静かに変わった。
葉山はすぐに表情を戻したが、その一拍の沈黙は消えなかった。
「……コニャックを、ボトルごとでございますか」
「うん」
聖火は軽く笑った。
「今夜は、上品に一杯だけって気分じゃないんだ」
葉山は真夜へ視線を向けた。
真夜は聖火を見ていた。
咎めるでもなく、驚くでもなく。
ただ、観察するように。
「未成年に強い酒を出す趣味はありませんけれど」
「知ってる」
「そして、聖火さんがそれを分かった上で頼んでいることも、分かっています」
「うん」
真夜はしばらく黙った。
それから、静かに言った。
「せっかくです。私にも一杯、用意してください」
葉山はわずかに目を伏せる。
「真夜様にも、同じものを?」
「いいえ。水割りで結構です。薄めに」
「かしこまりました」
葉山は深く一礼し、静かに応接室を出ていった。
扉が閉まる。
部屋には、真夜と聖火だけが残された。
聖火は何も言わない。
真夜も、すぐには問いたださなかった。
窓の外には、夏の夜が広がっている。
虫の声も聞こえないほど、静かな夜だった。
やがて、葉山が戻ってきた。
銀の盆の上には、一本のコニャックのボトル。
それから、ブランデーグラスが一つ。
さらに、真夜のためのグラスが一つ。
聖火の前には、ブランデーグラスとボトルが置かれた。
琥珀色の液体が、部屋の灯りを受けて鈍く光っている。
真夜の前には、コニャックを二、水を八の割合で割った水割りが静かに置かれた。
葉山の所作は完璧だった。
まるで、この奇妙な注文も最初から予定されていたかのように、乱れがない。
「ありがとう、葉山さん」
「恐れ入ります」
葉山は静かに一礼し、真夜の後ろへ控えた。
聖火はグラスに注がれたコニャックを見つめた。
甘く、重く、少し刺すような香りが立つ。
本来なら、ゆっくりと香りを楽しみ、少しずつ口に含むものだ。
だが、聖火はそのグラスを持ち上げると、まるで何かを煽るように、一息で空にした。
真夜の目が、はっきりと細くなった。
葉山も、わずかに視線を落とす。
本当に珍しい。
聖火が酒を求めること自体、珍しい。
まして、コニャックをストレートで。
しかも、香りを味わうこともせず、グラスを空にする。
それは酔いたいというより、何かを確かめるための動作に見えた。
聖火は空になったグラスをテーブルに置く。
喉が焼けたはずなのに、顔色はほとんど変わらなかった。
ただ、息だけが少し深い。
その指先が、グラスの縁を軽く叩いた。
澄んだ音が、一度だけ部屋に落ちる。
次の瞬間、応接室の空気が変わった。
外の音が遠のく。
廊下の気配が薄れる。
部屋全体に、透明な膜が一枚張られたようだった。
葉山の目が、わずかに細くなる。
真夜もまた、それに気づいていた。
聖火が、この場を二人だけのものにしたがっている。
「葉山さん」
真夜が静かに言った。
「はい」
「少し下がってくださる?」
葉山は、一瞬だけ聖火を見る。
だが、何も問わなかった。
「かしこまりました」
葉山は深く一礼し、静かに応接室を出ていった。
扉が閉まる。
その音さえ、どこか遠くに感じられた。
部屋には、真夜と聖火だけが残された。
聖火は何も言わない。
真夜も、すぐには問いたださなかった。
沈黙が続く。
真夜は水割りのグラスへ手を伸ばし、薄く割られたコニャックを一口だけ含んだ。
香りは控えめだった。
だが、今はそれでも十分だった。
聖火は二杯目を注ぐでもなく、空のグラスを眺めている。
その姿は、浮かれているようにも、沈んでいるようにも見えた。
やがて、真夜が静かに口を開いた。
「荒れているのですか?」
聖火は少しだけ笑った。
「違う」
「では、何です?」
聖火は空のグラスを見つめたまま答えた。
「浮かれている」
真夜は、すぐには理解できなかった。
「……何に?」
聖火は顔を上げる。
その目は、笑っていなかった。
「今日は俺が誘拐される日だ」
応接室の空気が止まった。
真夜は、しばらく言葉を失った。
誘拐される日。
その言葉だけなら、意味が分からない。
これから誘拐されると分かっているなら、避ければいい。
逃げればいい。
守ればいい。
少なくとも、四葉真夜の前で酒を煽る理由にはならない。
だが、聖火は軽く笑った。
「正確には、今日の二十四時」
「……二十四時?」
「うん。その瞬間、俺はこの世界から消える」
真夜の目が、わずかに細くなった。
聖火は淡々と続ける。
「誰かに腕を掴まれて、車に押し込まれるわけじゃない。薬を嗅がされるわけでもない。そういう普通の誘拐じゃない」
聖火は空になったグラスを見つめた。
「忽然と消えるんだ。あたかも、最初からこの世界にいなかったみたいに」
真夜は何も言わない。
聖火の言葉を、ただ聞いていた。
「たぶん、記録も揺らぐ。記憶も曖昧になる。俺という存在が、世界から抜き取られる」
「それを、誘拐と呼ぶのですか」
「他にいい言葉がない」
聖火は小さく笑った。
「失踪よりは近い。消滅よりはまし。だから、誘拐」
真夜の脳裏に、ある映像が蘇った。
出会った頃の聖火。
まだ今よりも幼く見えるのに、ひどく遠い目をしていた少年。
未来から来たのだと、当然のように告げた声。
時間の渡航者。
あり得ないはずの言葉。
それでも、彼の存在そのものが、その異常を証明していた。
真夜は、目の前の聖火を見る。
葉山には曖昧にしか見えず、真夜には異様なほど鮮明に見える姿。
あの当時のままの姿。
時間に触れられていないような姿。
「……そういうことですか」
真夜は、ようやく理解した。
今日の二十四時。
聖火はこの世界から消える。
それは、単なる事件ではない。
世界の処理そのものに関わる現象。
そして、恐ろしいことに。
その現象を、この世界の一部の上層部は知っている。
真夜は、静かに問いかけた。
「どこまで知られているのです?」
聖火は二杯目を注ぎながら答えた。
「全部ではないと思う」
「誰が知っているのですか」
「それは、俺の口からは言えない」
「言えない?」
「言ったら、たぶん色々と壊れる」
真夜は沈黙した。
聖火はグラスを持ち上げる。
今度は飲まなかった。
ただ、琥珀色の液体を見ている。
「でも、少なくとも上の方は知ってる。俺が消えることも、消えた後に何かが始まることも」
「聖火さんを守ろうとはしないのですね」
「守るものじゃないんだと思う」
「なぜです」
「これは、避ける事件じゃない。通過する現象だから」
真夜の声が、少し冷えた。
「聖火さんは、自分が世界から消えることを、ただ受け入れるつもりですか」
「受け入れるしかない」
「なぜ?」
聖火はようやく真夜を見た。
その目には、恐怖も、高揚も、諦めもあった。
「ここを通らないと、俺の時間が始まらないから」
真夜は、しばらく聖火を見つめていた。
やがて、おもむろに問いかける。
「助けに行かないのですか」
聖火は、すぐには反応しなかった。
視線だけが、わずかに真夜へ向く。
真夜は続ける。
「聖火さんは、今日の二十四時に何者かによって誘拐される。そう言いましたね」
「うん」
「ならば、助けに行けばいい」
真夜の声は静かだった。
だが、そこにはわずかな鋭さがあった。
「助けに行けば、聖火さんはつらい思いをしなくて済みます」
聖火はしばらく黙っていた。
そして、少しだけ不思議そうに呟いた。
「……考えたこともなかったな」
真夜の眉が、わずかに動く。
「なぜ?」
聖火は空のグラスを指先で回した。
琥珀色の香りだけが、底に残っている。
「この段階の自分を助けたら、君を助けられなくなるだろう」
その一言で、部屋の空気が凍った。
真夜は言葉を失った。
聖火は、あまりにも自然にそう言った。
まるで、それ以外の選択肢など最初から存在しなかったかのように。
真夜は、ゆっくりと聖火を見る。
「……私を?」
「うん」
「私を助けるために、聖火さんは自分が誘拐されることを受け入れるのですか」
「順番が逆だよ」
聖火は静かに言った。
「誘拐された俺がいたから、君を助けに行けた」
真夜は何も言えなかった。
その言葉の意味を、理解したくなかった。
けれど、理解できてしまった。
聖火は続ける。
「今日、俺が消えなかったら。今日、俺が誘拐されなかったら。俺は、君のところまで辿り着けない」
「それは……」
「たぶんね」
聖火は軽く笑った。
「絶対とは言わない。時間なんて、信用できるようで信用できないし。でも、俺が知っている俺は、ここで消えた俺だ」
真夜の手が、グラスの縁で止まった。
「だから、助けない」
「自分を?」
「うん」
「私のために?」
聖火は真夜を見た。
その目は、笑っていなかった。
「君を助けられない未来の方が、俺には耐えられない」
真夜は、何も言えなかった。
水割りの中の氷が、かすかに音を立てた。
その小さな音だけが、静まり返った応接室に響いた。
聖火はしばらく黙っていた。
真夜も、言葉を急がなかった。
応接室を包む沈黙は重かったが、不思議と息苦しくはない。
ただ、そこには逃げ場のない本音だけが残っていた。
やがて聖火は、空になったグラスを見つめたまま、ぽつりと言った。
「つらいことしかなかった」
真夜は何も言わなかった。
聖火は続ける。
「失ったものばかりだった。助けられない命ばかりだった。自分が殺めたものたちの数も、顔も、もう思い出せないくらい殺めた」
その声は静かだった。
懺悔でもない。
言い訳でもない。
ただ、事実を並べているだけのような声だった。
「……でも、それでも」
聖火は、そこで一度言葉を切った。
「戦友たちの顔が、今でも頭から離れない。ともに乗り越えてきた仲間たちの思い出を、捨てきれないんだ」
「……」
真夜は、何も返せなかった。
返すべき言葉が見つからなかった。
慰めるには、あまりにも重い。
叱るには、あまりにも深い。
聖火が語っているのは、ただの過去ではない。
彼が今日、消えることを受け入れてでも守ろうとしている、自分自身の根だった。
「だから」
聖火は小さく笑った。
「この段階の俺を助けるっていう選択肢は、俺にはないんだと思う」
「……聖火さんは」
真夜はようやく口を開いた。
「本当に、厄介な人ですね」
「よく言われる」
「褒めていません」
「知ってる」
いつもの軽いやり取り。
だが、今夜だけは、その軽さが少しだけ痛かった。
真夜が何か言おうとした、その時だった。
聖火が不意に立ち上がった。
真夜が視線を上げる。
「聖火さん?」
「悪い、真夜」
「何を――」
問い終えるより早く、聖火は真夜のすぐそばに来ていた。
次の瞬間、真夜の身体がふわりと浮く。
「聖火!」
聖火は、真夜をお姫様抱っこで抱え上げていた。
あまりにも自然に。
あまりにも唐突に。
四葉真夜は、ほんの一瞬、完全に反応が遅れた。
声は落ち着いていたつもりだった。
だが、自分でも分かるほど、頬に熱が集まっていた。
それが酒のせいなのか。
それとも、突然の行動への動揺なのか。
あるいは、それ以外の何かなのか。
真夜自身にも、すぐには判断できなかった。
聖火は、そんな真夜の反応に気づいているのかいないのか、いつもの調子で言った。
「今日は付き合ってもらう」
「付き合う?」
「うん」
聖火は少しだけ笑った。
「星でも見に行こうか」
「何を言って――」
その瞬間、周囲の景色が暗転した。
音が消える。
光が沈む。
足元の感覚が、応接室の床から切り離される。
真夜は反射的に聖火の服を掴んだ。
次の瞬間。
視界が戻った。
冷たい夜風が頬を撫でる。
真夜は目を見開いた。
そこは、屋敷の中ではなかった。
四葉家の屋敷の上空。
聖火に抱えられたまま、真夜は夜空の下にいた。
眼下には、闇に沈む屋敷の屋根。
遠くには、山の稜線。
見上げれば、黒い空に星が散っている。
結界の内側に守られているはずの四葉の屋敷を、聖火は何事もないように抜けていた。
真夜は、しばらく言葉を失った。
風が、髪を揺らす。
聖火の腕は安定していた。
落ちる不安はない。
だが、状況そのものがあまりに非常識だった。
「……聖火さんは」
真夜は、ようやく声を出した。
「本当に、時々とんでもないことをしますね」
「時々?」
「訂正します。かなり頻繁に」
「それは心外だな」
「心外なのはこちらです」
真夜は聖火を見上げた。
「淑女を突然抱え上げ、屋敷の上空へ連れ出すなど、普通は誘拐と言います」
聖火は少しだけ目を瞬かせた。
それから、苦笑する。
「今日、誘拐される俺が言われると、なかなか味わい深いね」
「笑い事ではありません」
「分かってる」
その声は軽かった。
だが、腕の中の真夜を支える力は、決して乱れていなかった。
真夜は小さく息を吐く。
怒るべき場面だった。
本来なら、即座に地上へ戻るよう命じるべきだった。
けれど、目の前の夜空があまりにも静かで。
そして、聖火が今夜だけはどこか壊れそうに見えたから。
真夜は、すぐには命じなかった。
聖火は夜空を見上げた。
「昔さ」
「ええ」
「星を見ても、何も感じなかったんだ」
真夜は、聖火の横顔を見る。
「何も?」
「うん」
聖火は静かに頷いた。
「ただ光っているだけだし、近くで見ると面白味を感じないから」
真夜は、すぐには返事をしなかった。
その言葉は、あまりにも自然に出てきた。
自然すぎて、逆に異様だった。
近くで見ると。
星を、近くで見たことがあるような言い方。
夜空に散る光を、遠い憧れではなく、ただの対象として知っている者の言い方だった。
「……近くで、ですか」
真夜が静かに問う。
聖火は少しだけ笑った。
「言葉の綾だよ」
「聖火さんがそう言う時は、大抵、言葉の綾ではありません」
「手厳しいな」
「事実です」
聖火は答えなかった。
真夜は夜空を見上げる。
星は美しかった。
人の手が届かないもの。
古くから祈りや畏れの対象になってきたもの。
だが、聖火にとっては違うのかもしれない。
見上げるものではなく。
見下ろしたことのあるもの。
あるいは、近すぎて美しさを失ったもの。
「聖火さんを連れ去るものは」
真夜は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「人ではないのですね」
聖火は、真夜を見なかった。
ただ、夜空を見ていた。
沈黙。
それが、ほとんど答えだった。
「真夜」
「何ですか」
「世の中には、知らない方が幸せなことがある」
「あなたがそれを言いますか」
「俺だから言うんだよ」
聖火は少しだけ肩をすくめた。
「知ったところで、助けられるとは限らない。知らなければ許されたことも、知った瞬間に許されなくなる」
「では、この世界の一部の者たちは、すでに許されない場所にいるということですか」
聖火の目が、わずかに動いた。
真夜はそれを見逃さなかった。
「一部の上層部は、聖火さんが今日消えることを知っている」
「……」
「そして、それを止めない」
聖火は否定しなかった。
真夜の声が少し冷える。
「見返りがあるのですね」
夜風が、二人の間を抜けた。
聖火はしばらく黙っていた。
やがて、小さく言った。
「世界は、ただで奇跡を手に入れたりしない」
その一言で、真夜は十分だった。
この世界を支えている、あまりにも都合よく発展した技術体系。
その根に、何かがある。
人類だけでは届かなかったはずのもの。
誰かが差し出し、誰かが受け取ったもの。
そして、その代償として、今夜、目の前の少年が消える。
真夜は静かに目を伏せた。
「聖火さんは、代価なのですか」
「そういう言い方は嫌いだな」
「では、何と呼べばいいのです」
聖火は少しだけ考えた。
「通行料、かな」
「ふざけないでください」
真夜の声が、鋭くなった。
聖火は苦笑する。
「怒ると思った」
「怒らせるようなことを言ったのです」
「うん」
聖火は夜空を見上げたまま、静かに言った。
「でも、俺ひとりで済むなら、安いと思った人間はたくさんいたんだろうね」
真夜は何も言わなかった。
言えなかった。
聖火は続ける。
「それを責めるつもりはないよ。そういう選択をする立場の人間がいることも分かってる」
「私は責めます」
真夜は即座に言った。
聖火は、少しだけ驚いたように真夜を見る。
真夜は夜空ではなく、聖火を見ていた。
「たとえそれが国のためであれ、世界のためであれ、未来のためであれ。あなた一人を差し出してよい理由にはなりません」
聖火はしばらく真夜を見ていた。
そして、少し困ったように笑った。
「だから、君に来たんだと思う」
「何をです」
「そう言ってくれる人の顔を、覚えておきたかった」
真夜は、言葉を失った。
聖火は再び星を見る。
「昔は、星を見ても何も感じなかった。近くで見たら、ただの光で、ただの距離で、ただの物質だった」
そこで、聖火はほんの少しだけ笑った。
「でも、誰かと一緒に見る星は、少しだけ違った」
「戦友たちと、ですか」
「うん」
聖火の声は、夜風に溶けるほど静かだった。
「誰かが隣でくだらないことを言って、誰かが笑って、誰かが怒って。そういう時だけ、星が綺麗に見えた」
真夜は、聖火の横顔を見つめた。
「だから、私を連れ出したのですか」
「うん」
聖火は素直に頷いた。
「今日、消える前に、誰かと星を見ておきたかった」
「迷惑ですね」
「分かってる」
「分かっていてやるのだから、なお悪いですね」
「そうだね」
真夜は、小さく息を吐いた。
そして夜空を見上げる。
星は、確かに美しかった。
だが今夜だけは、その美しさの裏側に、何か巨大な影があるように思えた。
人間が見上げる星。
人間に見下ろされる地上。
その間にある、知らされていない取引。
聖火はそれを知っている。
そして、今日の二十四時に、その取引の中へ消えていく。
真夜は静かに言った。
「聖火さん」
「何?」
「私は、あなたを代価とは認めません」
聖火は目を瞬かせる。
真夜は続けた。
「通行料でも、必要な犠牲でもありません。あなたは、あなたです」
聖火は、何も言わなかった。
真夜は夜空を見上げたまま言う。
「ですから、必ず戻りなさい」
聖火はしばらく黙っていた。
やがて、小さく笑う。
「命令?」
「ええ」
真夜は迷いなく答えた。
「私個人としての命令です」
聖火は少しだけ困ったように笑った。
「それは、逆らいづらいな」
「逆らうことは許しません」
「了解」
聖火は静かに頷いた。
「戻ってくるよ」
どれほどの時間、そうしていたのか。
実際には、長くはなかったのだろう。
だが、真夜には不思議と長い時間に感じられた。
四葉家の屋敷の上空。
夜風。
星。
そして、自分を抱えたまま夜空を見上げる聖火。
その光景は、あまりにも現実離れしていた。
やがて聖火が、静かに言った。
「戻るよ」
確認ではなく、判断だった。
次の瞬間、視界が暗くなる。
夜空も、屋敷の屋根も、遠くの山の稜線も、すべてが一度闇に溶けた。
そして、すぐに光が戻る。
真夜の足元に、床の感触が戻った。
応接室だった。
先ほどまで座っていたソファ。
テーブルの上のコニャック。
真夜のために用意された薄い水割り。
何も変わっていない。
まるで、二人が屋敷の上空へ出ていたことなどなかったかのように。
ただ、真夜の髪だけが、夜風を受けた名残でわずかに乱れていた。
聖火は真夜を静かに下ろす。
「失礼」
「本当に失礼でしたね」
真夜は淡々と言った。
だが、すぐにそれ以上は追及しなかった。
聖火の目が、すでに先ほどとは違っていたからだ。
夜空の下でだけ見せた揺らぎは、消えている。
完全に消えたわけではない。
だが、表へは出していない。
そこにいるのは、今日の二十四時に自分が世界から消えることを知りながら、それでも次の案件を処理しようとする少年だった。
聖火は向かいの席へ戻る。
テーブルの上には、開けられたコニャックのボトル。
一杯目のグラスは空。
真夜の水割りは、まだ半分ほど残っていた。
聖火はボトルへ手を伸ばす。
真夜はそれを止めなかった。
聖火はブランデーグラスへ、琥珀色の液体を少量だけ注いだ。
先ほどのように煽るための量ではない。
香りを確かめるための量。
聖火はグラスを軽く揺らす。
コニャックの甘く重い香りが、静かに立ち上がった。
今度は、急がなかった。
一度香りを確かめ、ゆっくりと口に含む。
舌の上で転がし、喉へ落とす。
最初の一杯とは違う。
荒くもない。
逃げるためでもない。
聖火は、今度は確かに酒を味わっていた。
真夜はその様子を見て、静かに口を開いた。
「先ほどとは、飲み方が違いますね」
「少し落ち着いた」
「星のおかげですか」
「半分はね」
「残り半分は?」
聖火はグラスの中の琥珀色を見た。
「真夜が見ていたから」
真夜は一瞬だけ沈黙した。
だが、すぐにいつもの調子を取り戻す。
「それは、責任重大ですね」
「そうでもない。見届け人がいるだけで、だいぶ違う」
「聖火さんは本当に、面倒な役を私に押しつけますね」
「適任だから」
「褒められている気がしません」
「褒めてるよ」
真夜は水割りのグラスを手に取り、ゆっくりと口をつけた。
薄く割られたコニャックの香りが、静かに広がる。
しばらく沈黙が続いた。
先ほどとは違う沈黙だった。
互いに、次に話すべきことがあると分かっている沈黙だった。
やがて、真夜がグラスを置いた。
「聖火さん」
「何?」
「ひとつ、仕事を頼んでもいいかしら」
聖火の視線が、真夜へ戻った。
「内容による」
「深夜の治療です」
応接室の空気が、少し変わった。
聖火はすぐには答えなかった。
だが、驚きはなかった。
むしろ、ようやくその話が出たか、という沈黙だった。
「時期を決めたんだ」
「ええ。そろそろ、お願いしてもいいでしょう?」
聖火はグラスをテーブルへ置いた。
音はほとんどしなかった。
「受ける」
返答は早かった。
真夜は、わずかに目を細める。
「随分と早いのですね」
「元々、準備はしていた。深夜さん本人が拒否していたことと、真夜が止めていたこと。その二つがあったから保留にしていただけだよ」
「では、私が何も言わなければ?」
「近いうちに、こっちから確認していた」
「確認?」
「場合によっては、介入」
真夜は静かに聖火を見た。
「勝手に治療するつもりだった、ということですか」
「生命に関わるならね。普通の拒否なら尊重する。でも、拒否が自己破壊に近いなら話は別だ」
「相変わらずですね」
「褒めてる?」
「いいえ」
「だろうね」
真夜は薄く息を吐いた。
「聖火さんは、深夜がそこまで悪いと見ていますか」
「肉体だけなら、まだ時間はある。ただ、精神面と魔法領域の負荷は別だ。深夜さんは、傷を罰として持っている可能性が高い」
「罰」
「うん」
「深夜が、自分自身へ与えているものだと?」
「推測だよ。ただ、外れてはいないと思う」
真夜は何も言わなかった。
聖火は続ける。
「治療を救済だと捉えれば、拒む。自分だけが楽になることを許せないなら、なおさらだ」
「……」
「だから、いきなり治すのは悪手だ。まずは診る。どこまで触れていいかを見極める」
「拒まれたら?」
「理由を見る。恐怖か、罪悪感か、諦めか、罰意識か。それで変える」
「それでも拒むなら?」
「基本は保留。ただし、壊れそうなら部分的に介入する」
真夜は、聖火を見ていた。
その声は淡々としている。
けれど、冷たいわけではない。
感情を混ぜないようにしているだけだ。
「深夜が、あなたを拒絶した場合は?」
「想定内」
「傷つきませんか」
「傷つくかどうかは後で考える」
真夜は少しだけ目を伏せた。
「あなたは本当に、そういうところが変わりませんね」
「変えると困る場面が多かったからね」
「それは、医者の言葉ですか」
「衛生兵の言葉だ」
短い答えだった。
真夜は、それ以上は聞かなかった。
「では、正式に依頼します。受けてくださいますか」
「受ける。ただし条件がある」
「聞きましょう」
「真夜が逃げないこと」
真夜の眉が、わずかに動いた。
「私が逃げると?」
「責任の話じゃない。深夜さんが拒絶した時、怒った時、逃げようとした時。それでも治療の場から退かないことだ」
「……」
「本人には逃げ道が必要になる。でも、支える側が先に退いたら終わる。深夜さんが一番見ているのは、真夜の覚悟だと思う」
「私の言葉を、深夜が素直に受け取るとは思えませんが」
「素直に受け取る必要はない。真夜が頼んだ。その事実が必要なんだ」
真夜はしばらく聖火を見つめていた。
やがて、静かに頷いた。
「分かりました。私も逃げません」
「それでいい」
聖火は淡々と答えた。
ただ、その声にはわずかに安堵があった。
「実施時期は?」
「聖火さんが戻ってからです」
真夜は迷いなく言った。
聖火はグラスを見た。
ほんの少しだけ残った琥珀色を、今度も急がずに口へ運ぶ。
香りを確かめるように飲み込んでから、答えた。
「戻ることが前提か」
「当然でしょう」
真夜の声は静かだった。
「あなたには、戻ってから果たす仕事があります」
聖火は真夜を見た。
その表情には、先ほど夜空の下で見せた少年の顔はない。
だが、ほんのわずかに目が柔らかくなった。
「分かった。戻った後の予定に組み込む」
「軽く受けないでくださいね」
「軽くは受けていない」
聖火は背筋を正したまま言った。
「正式な依頼として受ける。戻ったら動く」
「仕事が早いですね」
「戻った時に、すぐ動けるようにしておく」
「戻った時、ではありません」
真夜は静かに訂正した。
「戻ってから、です」
聖火は少しだけ目を伏せた。
「……そうだね。戻ってからだ」
「それから」
「何?」
「今日は、これ以上は飲みすぎない方がいいでしょう」
聖火はテーブルの上のコニャックを見る。
「その判断には同意する」
「素直ですね」
「治療者が判断を鈍らせている場合じゃない」
真夜は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「その調子で結構です」
聖火は頷いた。
その時、真夜の視線がふと壁の時計へ向いた。
針は、すでに零時を過ぎていた。
真夜は一瞬、言葉を失った。
今日の二十四時。
聖火はそう言っていた。
その瞬間、自分は世界から消えるのだと。
だが、目の前には聖火がいる。
コニャックを味わうように飲み、深夜の治療について淡々と条件を整理し、戻った後の仕事を組み立てている。
何も起きていない。
そう見える。
だが、真夜はそうは思わなかった。
何かは、もう起きたのかもしれない。
あるいは、今まさに起きているのかもしれない。
ただ、この部屋の中だけが、聖火の張った魔法と、真夜の記憶によって、かろうじて切り離されているだけなのかもしれなかった。
「聖火さん」
「何?」
「零時を過ぎています」
聖火は時計を見た。
わずかに目を細める。
しかし、驚きはなかった。
「そうだね」
「何か、変化は?」
「ある」
真夜の背筋に、冷たいものが走った。
「どのような?」
聖火は少しだけ考えた後、静かに言った。
「世界から、俺への接続が薄くなっている」
その言葉は、あまりにも淡々としていた。
「この部屋にいる間は、まだ保てる。真夜が俺を見ていて、俺も自分を定義できているから」
「外へ出れば?」
「分からない」
「分からないことを、よく平然と言えますね」
「平然とはしていないよ」
聖火はグラスを置いた。
「ただ、慌てても意味がない」
真夜は何も言わなかった。
応接室の外では、夜が深まっている。
零時は、すでに過ぎた。
だが、今の聖火は、先ほどよりも明確にこの場へ戻っていた。
星空の下で揺らいでいた少年ではない。
依頼を受け、条件を整理し、戻った後の仕事を組み立てる者。
ただ、最初の一杯を煽った少年でも、完全に消えてはいない。
その証拠に、聖火はグラスの底に残った香りを、ほんの少しだけ惜しむように見ていた。
真夜はその姿を見て、静かに思った。
仕事を与えた。
戻る理由を作った。
彼がそれを理由に必ず戻る保証など、どこにもない。
それでも、何もないよりはいい。
「聖火さん」
「何?」
「必ず戻りなさい」
「分かってる」
「命令です」
「受けたよ」
真夜は、そこで少しだけ目を細めた。
「……そこは、もう少し可愛げのある返事でもよかったのですが」
聖火は一瞬だけ沈黙した。
それから、ほんのわずかに笑った。
「努力する」
「期待しないでおきます」
「賢明だね」
二人の間に、わずかな静けさが戻る。
先ほどより、少しだけ穏やかな沈黙だった。
テーブルの上には、開けられたコニャックのボトル。
勢いよく空にされた一杯目のグラス。
ゆっくり味わわれた二杯目の余韻。
そして、薄く割られた真夜の水割り。
その夜、聖火は世界から消える前に、ひとつの仕事を受けた。
深夜を治療すること。
それは、彼が戻ってこなければ果たせない依頼だった。
そして、零時を過ぎた今。
鷹山聖火という存在は、すでにこの世界から少しずつ薄れ始めていた。
それでも真夜は、覚えていた。
聖火がそこにいたことを。
星空の下で、戻ってくると告げたことを。
そして、深夜を治すという仕事を受けたことを。
その夜を境に、聖火のような子供は現れなくなった。
夜空の向こうから届いていたはずの声は、途絶えた。
誰かが待っていた返答は返らず、誰かが結ぼうとしていた線は、音もなく切れた。
それを知る者たちは、沈黙した。
沈黙するしかなかった。
ただ真夜だけが、覚えていた。
あの夜、聖火が確かにそこにいたことを。
星空の下で、戻ってくると告げたことを。
そして、深夜を治すという仕事を受けたことを。
今回の話は聖火の過去を触れた話になります。
聖火がなぜこうなってしまったのかを少し触れた形になります。