九月のある休日。
鷹山聖火は、司波家を訪れていた。
達也から連絡があったのは、前日の夜だった。
内容は短い。
少し相談したいことがある。
それだけである。
聖火は、最初それを軽く考えていた。
達也が相談と言うからには、何か技術的な話か、九校戦の後始末か、あるいは古式魔法に関する確認でもあるのだろう。
そう思っていた。
だが、司波家に到着し、深雪に案内されて達也の作業部屋に入った瞬間、聖火は自分の認識が甘かったことを理解した。
机の上に、資料が積まれていた。
一冊や二冊ではない。
九校戦の競技記録。
選手別の調整メモ。
CAD関連の基礎資料。
起動式と魔法式に関する解説書。
部品表。
整備記録。
さらには、来年の九校戦を想定したらしい仮の作業表まである。
聖火は、しばらく無言でそれを見た。
そして、達也を見た。
「達也くん」
「なんだ」
「これ、遊びに来た人間に見せる量じゃないよね」
「遊びではない」
「帰っていい?」
「座れ」
即答だった。
聖火は、静かに深雪へ視線を向けた。
深雪はにこやかに微笑んでいる。
「聖火くん、お茶を用意してあります」
「ありがとう、深雪ちゃん。ちなみにそれは、休憩用? それとも覚悟を決めるためのもの?」
「どちらにもなると思います」
「深雪ちゃんまで退路を塞ぎに来てる」
「そのようなつもりはありません」
「絶対ある」
達也は、二人のやり取りを特に気にした様子もなく、机の上の資料を整えた。
「本題に入る」
「もう少し心の準備をさせてほしいんだけど」
「必要ない」
「必要だよ」
「来年の九校戦に向けて、お前を補助エンジニアとして育成する」
聖火は、数秒間黙った。
それから、ゆっくりと口を開く。
「達也くん」
「なんだ」
「今、相談という言葉の意味が崩壊した」
「相談ではある」
「俺の意思が反映される余地は?」
「多少はある」
「多少」
「教材の順番くらいなら調整できる」
「それは意思じゃなくて処刑方法の選択だよ」
深雪が口元を押さえて小さく笑った。
達也は淡々と続ける。
「今年の九校戦で、俺の作業量は想定を超えた」
「それは見てた」
「来年も同じ状況になる可能性が高い」
「達也くんが優秀すぎるからね」
「それを理由に作業が集中するのは非効率だ」
「まあ、うん。それは分かる」
「だから使える人材を増やす」
聖火は、達也の視線を受けて一歩引いた。
「そこで俺を見るのをやめてもらっていい?」
「お前が適任だ」
「初耳なんだけど」
「今言った」
「説明が合理的すぎて逃げ場がない」
達也は、机の上から一枚の紙を取った。
そこには、簡単な表が書かれていた。
項目は、観察力、手順記憶、対人調整、魔法理解、現場対応、資料読解。
その横に、聖火の名前が記されている。
「お前は観察力が高い」
「急に褒めたね」
「選手の癖、好み、緊張状態、体調変化を見ている。九校戦中も、部活連での動きもそうだ」
「それは気配りの範囲じゃない?」
「エンジニアの補助としては十分使える」
「褒められている気がしない」
「褒めている」
「達也くんの褒め方は、時々工具みたいだね」
「どういう意味だ」
「役に立つけど、温度がない」
深雪がまた小さく笑った。
「ですが、聖火くんなら、きっとお兄様のお役に立てると思います」
聖火は深雪を見る。
「深雪ちゃん、それは応援に見せかけた退路封鎖だよ」
「そのようなつもりはありません」
「その笑顔で言われると、余計に逃げられないんだよな」
達也は資料をもう一枚出した。
「それに、お前は古式魔法の資料を読む」
「それは歴史の勉強だよ」
「術式構造の記録としても読める」
「達也くん、それはだいぶ強引じゃない?」
「強引ではない。祭祀手順、媒介、発動条件、失敗例、地域差、伝承の変化。これらを比較できるなら、魔法式の設計補助にも応用できる」
聖火は少しだけ黙った。
「……そう言われると、否定しづらいな」
「なら否定する必要はない」
「追い込み方が上手い」
「事実を並べているだけだ」
「それが一番逃げづらいんだよ」
達也は端末を起動した。
画面に、CADの基本構造と、簡略化された起動式の模式図が表示される。
「まずは確認からだ」
「確認?」
「お前に基礎を一から教える必要はない」
聖火は少しだけ眉を上げた。
「意外と評価が高い」
「三年、俺の作業を見ていただろう」
「見てたね」
「今年の九校戦でも、CAD調整の流れ、選手ごとの癖の見方、起動式の調整方針は見ている」
「横で見ていただけだけどね」
「見て理解できているなら、十分だ」
「達也くんの十分は、だいたい他人の十分じゃないんだよな」
達也は気にせず続ける。
「お前は基礎の考え方を知っている。なら、あとは応用と実務だ」
「今、嫌な言葉が二つ並んだ」
「応用は演習で身につける。実務は実際に触ればいい」
「初心者に優しい要素が見当たらない」
「完全な初心者ではない」
「見るのとやるのは別だよ」
「だから今からやる」
聖火は深雪を見た。
「深雪ちゃん」
「はい」
「これ、助けを求めたら助けてくれる流れ?」
深雪は少し困ったように微笑んだ。
「聖火くんなら、きっと大丈夫です」
「退路封鎖が丁寧になっただけだった」
達也は端末の画面を指した。
「古式魔法が土地や媒介に依存するなら、現代魔法は条件を術式として抽象化する」
聖火の表情が、わずかに変わった。
「……条件を、術式として抽象化する」
「ああ」
「土地の記憶や媒介の意味を、手順と情報構造に置き換える感じか」
「近い」
達也の目が少しだけ鋭くなる。
「理解が早いな」
「三年見てきたからね。あと、構造が分かると少し面白い」
「なら続ける」
聖火は、自分の失言に気づいたように目を伏せた。
「しまった」
「遅い」
達也は淡々と次の資料を開いた。
深雪は、そんな二人を見て微笑んでいた。
それから一時間後。
聖火は、自分がなぜ軽い相談だと思って司波家に来てしまったのかを、深く反省していた。
達也の説明は分かりやすい。
それは間違いない。
無駄がない。
話が飛ばない。
必要な順番で情報が並べられ、疑問が生じる前に次の説明が入る。
説明者としては、非常に優秀だった。
問題は、密度である。
「達也くん」
「なんだ」
「今、何割くらい終わった?」
「導入の確認が終わった」
「導入」
聖火は机の上の資料を見た。
すでに数枚のメモが増えている。
自分の手元にも、起動式の構成要素、CADの補助領域、魔法式の調整方針、競技用CADにおける制限事項などが書かれた紙が並んでいた。
「深雪ちゃん」
「はい」
「達也くんの導入って、普通の人間の中盤くらいあるよね」
「お兄様は、必要なことを順序よく説明されているだけです」
「深雪ちゃんの信頼がまぶしい」
達也は気にせず、端末の画面を切り替えた。
「次は実務だ」
「早い」
「考え方は確認した。次は実際に触る」
「達也くん、俺はまだ心の準備が」
「必要ない」
「今日はそればっかりだね」
画面には、簡略化された競技用CADの設定画面が表示された。
実機ではなく、訓練用のシミュレーターらしい。
起動式の構成も簡略化されているが、聖火にも分かる程度には本物に近い。
達也は説明を続ける。
「これは訓練用だ。実機の調整ではない」
「そこは安心した」
「だが、考え方は同じだ」
「安心が短命だった」
「この条件で、発動速度を落とさずに安定性を上げろ」
聖火は画面を見る。
表示されている条件は単純そうに見えた。
しかし、よく見ると面倒だった。
発動速度を上げれば安定性が落ちる。
安定性を高めれば処理が重くなる。
無駄を削れば、今度は使用者側の癖を吸収しづらくなる。
「これ、答えが一つじゃないやつだね」
「当然だ」
「最初から当然みたいに言う」
「実務に単一の正解はない」
「それは知ってるけど、初回から出す課題かな」
「お前には必要だ」
聖火は小さく息を吐いた。
それから、画面に視線を戻す。
「使用者の情報は?」
達也の目がわずかに動いた。
「見るところは悪くない」
「CADだけ見ても意味ないでしょ。使う人間がいるんだから」
「仮想データを出す」
画面に、選手の簡易プロフィールが表示された。
魔法の発動速度は速いが、演算の癖が強い。
緊張時に処理が走りすぎる。
威力を上げようとすると制御が乱れる。
聖火はそれを見て、少しだけ目を細めた。
「……これ、九校戦で見たタイプに近いね」
「実在の選手データは使っていない」
「そこは分かってる。でも、癖としては見覚えがある」
「どう調整する」
聖火は考えた。
古式魔法なら、術者の呼吸や所作、土地との相性、媒介の意味を合わせる。
現代魔法なら、それをCADと起動式の構成で補う。
考え方は違う。
だが、やろうとしていることは完全に別物ではない。
「発動速度は落としすぎない。けど、暴れる部分に少し余裕を作る」
「具体的には」
「処理の最初じゃなくて、中間で吸収する。最初から重くすると、このタイプはたぶん嫌がる」
「理由は?」
「出だしが鈍くなると、本人が無理に押す。そうすると余計に乱れる」
達也は黙って聞いていた。
聖火は画面を見ながら続ける。
「だから、最初の反応はそのまま残す。本人には速く出たように感じさせる。でも、後続の処理で余分な揺れを拾う」
「悪くない」
「褒めた?」
「褒めている」
「達也くんの褒め方、やっぱり温度が低い」
「温度は不要だ」
「いるよ。人間には」
深雪が小さく笑った。
達也は、聖火の手元を見た。
「操作してみろ」
「来た」
「見るのとやるのは別だと言ったのはお前だ」
「自分の言葉が返ってきた」
聖火は仕方なく端末に手を伸ばした。
操作自体は難しくない。
だが、細かい。
選択肢が多い。
項目の意味はある程度分かる。
しかし、実際にどれをどの程度動かすかとなると話が変わる。
聖火は慎重に数値を動かした。
少し変える。
シミュレーターを走らせる。
結果を見る。
修正する。
また走らせる。
数回繰り返したところで、達也が口を開いた。
「そこは動かしすぎだ」
「やっぱり?」
「理由は分かるか」
「発動後の安定性を見すぎて、初動の感覚が変わってる」
「そうだ」
「なるほど。これは嫌がられる」
「選手が違和感を持つ調整は、数字上の結果が良くても使えない」
「料理と同じだね」
達也が一瞬だけ沈黙した。
「料理?」
「栄養だけ考えても食べてもらえなきゃ意味がない。味だけ良くしても体を壊す。相手がどう受け取るか込みで調整する」
深雪が目を瞬かせた。
「聖火くんらしい例えですね」
「分かりやすいかなと思って」
達也は少し考えるように画面を見た。
「例えとしては悪くない」
「褒めた?」
「褒めている」
「二回目なのに、まだ慣れない」
聖火は再び数値を調整した。
今度は初動を残し、中間処理だけを少し変える。
安定性は上がった。
発動速度はほぼ維持。
違和感の値も許容範囲内。
達也が結果を見る。
「合格点だ」
聖火は目を細めた。
「初回にしては?」
「補助としてなら、初回でも十分使える」
「それは喜んでいいのか、来年の逃げ道が消えたと受け取るべきか」
「両方だ」
「正直だね」
「隠す必要がない」
聖火は深く息を吐いた。
「達也くん」
「なんだ」
「これ、俺が来年、九校戦で本当に逃げられないやつ?」
「今から準備すれば、逃げる理由はなくなる」
「理由を消していくスタイル」
「必要な工程だ」
「その言葉、すごく怖い」
深雪が楽しそうに微笑んだ。
「でも、聖火くんがいてくだされば、お兄様も少し楽になりますね」
聖火は深雪を見た。
「深雪ちゃん、それを言われると断りづらい」
「断るおつもりだったのですか?」
「退路の確認をしていただけです」
「では、確認は終わりましたね」
「深雪ちゃん、今日いつもより強くない?」
「そのようなことはありません」
聖火は達也を見る。
「達也くん、妹さんがかなり優秀な参謀になってる」
「知っている」
「誇らしそうに言うなあ」
達也は机の横に積んでいた資料の一部を持ち上げた。
厚みがあった。
かなりあった。
聖火は嫌な予感しかしなかった。
「これを持って帰れ」
「達也くん」
「なんだ」
「それ、初心者用?」
「初心者が中級者になるためのものだ」
「初心者を殺しに来てる量なんだけど」
「効率は考えてある」
「優しさは?」
「必要か?」
「必要だよ」
達也は少しだけ考えた。
「なら、最初の三分の一だけでいい」
「それでも多い」
「残りは来月でいい」
「逃げ道が月単位で埋められていく」
深雪が、そっとお茶を差し替えた。
「聖火くん、温かいうちにどうぞ」
「ありがとう。深雪ちゃんだけが癒やしだよ」
「それは光栄です」
「ただ、さっきから退路を塞ぐ側にもいるんだよね」
「気のせいです」
「気のせいって便利な言葉だな」
達也は資料をまとめながら言った。
「次回までに、今日の内容を復習しておけ」
「次回」
「必要なら、週一で見る」
「必要の判断は誰が?」
「俺だ」
「だと思った」
聖火は渡された資料を見た。
現代魔法工学の基礎。
CAD調整の実務。
九校戦競技別の補助項目。
競技者観察記録の作り方。
異常時対応。
そして、最後に小さく、達也の字で一文が添えられていた。
補助エンジニア候補用。
聖火はその文字を見て、しばらく黙った。
「達也くん」
「なんだ」
「候補って書いてあるね」
「現時点では候補だ」
「つまり、逃げられる可能性も?」
「成果次第だ」
「成果を出したら?」
「候補ではなくなる」
「逃げ道じゃなくて昇格ルートだった」
達也は否定しなかった。
深雪は口元に手を当てて笑っている。
聖火は、ついに諦めたように肩を落とした。
「分かった。できる範囲でやるよ」
「できる範囲では足りない」
「言うと思った」
「必要な範囲でやれ」
「達也くん、本当に容赦ないな」
「来年の作業量を考えれば、今から育てる方が効率がいい」
「俺、今かなり事務用品みたいな扱いされてる?」
「人材だ」
「言い換えただけで、扱いはあまり変わってない」
達也はそこで端末を閉じた。
「今日はここまでだ」
聖火は、心底ほっとした顔をした。
「終わった」
「初回分はな」
「余韻を壊すのが早い」
達也は資料を整理しながら立ち上がる。
「追加で渡す資料がある。取ってくる」
「まだあるの?」
「基礎確認用だ」
「その言葉、今日だけでだいぶ怖くなった」
達也は聖火の反応を気にすることなく、作業部屋を出ていった。
部屋には、聖火と深雪だけが残された。
急に静かになった。
机の上には、資料の山。
端末の余熱。
飲みかけのお茶。
聖火は椅子の背に体を預ける。
「深雪ちゃん」
「はい」
「達也くんの授業、分かりやすいけど逃げ場がないね」
深雪は、少しだけ楽しそうに微笑んだ。
「お兄様ですから」
「それ、理由になってるようで、なってないんだよな」
聖火は苦笑した。
深雪は新しいお茶を淹れ直すため、静かに立ち上がる。
「少し休憩になさってください、聖火くん」
「うん。そうさせてもらう」
聖火はそう答えながら、机の上の資料を見た。
来年の九校戦。
補助エンジニア。
達也の作業量削減計画。
完全に巻き込まれた。
そう思う一方で、聖火は自分が少しだけ面白がっていることにも気づいていた。
構造を理解すること。
人に合わせて調整すること。
現場で必要な形へ落とし込むこと。
それは、聖火がこれまで見てきたものと、まったく無関係ではなかった。
ただし。
それを認めると、達也の計画に自分から足を踏み入れることになる。
「……しまったな」
小さく呟くと、深雪が振り返った。
「どうかしましたか?」
「いや」
聖火は少しだけ笑った。
「思ったより、面白かった」
深雪は嬉しそうに微笑んだ。
「それなら、きっとお兄様も喜ばれます」
「喜ばれると、次の課題が増えそうなんだよな」
「それも、お兄様らしいですね」
「深雪ちゃんは、本当に達也くんに甘い」
「当然です」
その答えは迷いがなかった。
聖火は思わず笑った。
達也の作業量削減計画。
それは、聖火にとっては災難に近い始まりだった。
だが同時に、来年の九校戦へ向けた新しい役割の始まりでもあった。
次回、深雪回を挟んで本編に戻りたいと思います。