達也が追加資料を取りに部屋を出てから、作業部屋は急に静かになった。
先ほどまで端末に表示されていたシミュレーターの画面。
机の上に積まれた資料。
聖火の前に置かれたメモ。
そして、まだ湯気の残る茶器。
それらを見て、聖火は椅子の背に体を預けた。
「深雪ちゃん」
「はい」
「達也くんの授業、分かりやすいけど逃げ場がないね」
深雪は、くすりと笑った。
「お兄様ですから」
「それ、理由になってるようで、なってないんだよな」
「ですが、お兄様の説明はとても的確です」
「うん。的確だから困る。理解できるから逃げられない」
聖火はそう言って、机の上の資料を見た。
現代魔法工学。
CAD調整。
九校戦競技別の補助項目。
どれも決してつまらなくはない。
むしろ、構造が分かると面白い。
それを認めた時点で、達也の計画に片足を突っ込んでいる。
「完全にやられたな」
「やられた、ですか?」
「うん。達也くんの作業量削減計画に、見事に組み込まれた」
深雪は少しだけ楽しそうに目を細めた。
「聖火くんがいてくだされば、お兄様も助かります」
「深雪ちゃんにそう言われると、断るのが難しくなる」
「では、断らないでください」
「今日は深雪ちゃんも強いね」
「そうでしょうか」
「うん。笑顔で逃げ道を塞いでくる」
「そのようなつもりはありません」
「ある人はだいたいそう言うんだよ」
深雪は小さく笑いながら、新しいお茶を淹れた。
達也が用意していた茶葉ではない。
深雪が、聖火の疲れ具合を見て選び直したものだった。
香りは柔らかく、少し甘い。
聖火は差し出された茶器を受け取る。
「ありがとう」
「熱いですから、少しお気をつけください」
「深雪ちゃんもね」
「え?」
深雪は一瞬、意外そうな顔をした。
聖火は茶器を見ながら、何気ない調子で続けた。
「さっきから、深雪ちゃんもずっと立ってたり、気を配ったりしてたでしょ。座ったら?」
「私は大丈夫です」
「大丈夫なのは分かるけど、座ってもいいと思うよ」
深雪は、すぐには返事をしなかった。
言われて初めて、自分がずっと立ったままだったことに気づいたようだった。
客人に茶を出す。
兄の作業を邪魔しない。
場を整える。
それは深雪にとって、当然のことだった。
だから、そこに疲労があるかどうかなど、考えていなかった。
「……ありがとうございます」
深雪は静かに腰を下ろした。
聖火はそれを見て、少しだけ頷く。
「うん。その方がいい」
「そのように見えますか?」
「ずっと綺麗に立ってたけど、楽そうには見えなかった」
深雪は思わず目を伏せた。
綺麗に立っている。
それは、深雪にとって褒め言葉のはずだった。
だが、聖火はその先を見ていた。
綺麗かどうかではなく。
疲れていないかどうかを見ていた。
「聖火くんは、不思議なことを言いますね」
「そうかな」
「ええ。私が楽かどうかを、先に気にされました」
「普通じゃない?」
「普通、でしょうか」
「少なくとも、俺にとっては普通だよ」
聖火は、少し冷めた茶を一口飲んだ。
「倒れる前に座る。熱いものは冷まして飲む。疲れてるなら休む。無理する必要がないなら、無理しない」
深雪は、その言葉を静かに聞いていた。
どれも、難しいことではない。
むしろ、当たり前のことだった。
けれど深雪は、その当たり前を自分に向けられることに慣れていなかった。
「私は、無理をしているように見えますか?」
「今は少しだけ」
「少しだけ」
「うん。少しだけ。だから、今休めばいい」
聖火は軽く言った。
責めるでもなく、心配しすぎるでもなく。
ただ、当たり前のように。
深雪は、両手で茶器を包む。
温かかった。
熱すぎず、冷たすぎず。
ちょうどよい温度だった。
「お兄様の前では」
深雪は、ぽつりと言った。
「きちんとしていたいのです」
「うん」
聖火はすぐに頷いた。
「それは分かる」
「お兄様に恥ずかしい思いをさせたくありません」
「うん」
「お兄様の妹として、相応しくありたいのです」
「それも分かる」
聖火は、否定しなかった。
そのことに、深雪は少し驚いた。
休めと言うのなら、そうした考えを否定されるのかと思った。
けれど聖火は、ただ受け止めただけだった。
「その気持ちは悪いものじゃないと思うよ」
聖火は言った。
「誰かのために綺麗でいようとするのは、悪いことじゃない」
「……はい」
「でも、それだけだと疲れる」
深雪は顔を上げた。
聖火は、湯気の薄くなった茶器を見ている。
「達也くんの妹でいる時間があってもいい。優秀な魔法師でいる時間があってもいい。きちんとしたお嬢様でいる時間があってもいい」
そこで、聖火は深雪を見た。
「でも、ただの深雪ちゃんでいる時間も、あっていいと思うよ」
深雪は、言葉を失った。
ただの深雪ちゃん。
その呼び方は、幼く聞こえるはずだった。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、胸の奥のどこかが、少しだけ緩むような感覚があった。
「ただの、私」
「うん」
「それは、どういう私でしょうか」
「難しく考えなくていいよ」
聖火は少し笑った。
「お茶が熱かったら冷ます。疲れたら座る。甘いものが欲しかったら食べる。眠かったら眠いって思う。そういう深雪ちゃん」
「ずいぶん普通ですね」
「普通でいいんだよ」
深雪は、茶器に視線を落とした。
普通。
その言葉は、自分から遠いもののように感じていた。
司波深雪として。
司波達也の妹として。
四葉に連なる者として。
優秀で、美しく、礼儀正しく、恥ずかしくない自分であること。
それは深雪にとって当たり前だった。
だが、聖火はその当たり前の外側から、何気なく言う。
普通でいい、と。
深雪は、それをどう受け取ればいいのか分からなかった。
ただ。
嫌ではなかった。
「聖火くんといると」
深雪は静かに言った。
「少し、不思議な気持ちになります」
聖火は茶器を置いた。
「悪い不思議?」
深雪はゆっくりと首を横に振った。
「いいえ。悪いものではありません」
「ならよかった」
「ただ、少し戸惑います」
「戸惑うくらいなら、たぶん大丈夫」
「そういうものですか?」
「たぶんね」
聖火は軽く笑った。
「俺も、自分のこと全部分かってるわけじゃないし」
深雪は、その言葉に少しだけ目を瞬かせた。
聖火が、自分のことを分かっていない。
それは意外なようで、少し納得できる言葉でもあった。
聖火は、いろいろなことを知っている。
人の体調も。
場の空気も。
相手の癖も。
けれど、時々、自分自身の扱いだけがひどく雑に見える。
深雪は、それを言葉にはしなかった。
ただ、静かにお茶を飲んだ。
香りが、先ほどよりも柔らかく感じられた。
深雪は、茶器を両手で包んだまま、しばらく黙っていた。
部屋の中は静かだった。
先ほどまで達也の説明が響いていた空間とは思えないほど、今は落ち着いている。
端末の画面は暗くなり、机の上には資料だけが残っている。
それでも、そこには達也の気配が残っていた。
整然と並べられた資料。
無駄のないメモ。
必要なものだけが置かれた机。
どれも、達也らしい。
深雪はそれを見て、ほんの少しだけ微笑んだ。
「お兄様は、本当にすごい方です」
「うん。すごいね」
聖火は素直に頷いた。
「説明も分かりやすいし、見ている場所も細かい。来年の九校戦のことまで考えて、今から人材育成を始めるあたりも達也くんらしい」
「はい」
深雪は嬉しそうに頷く。
だが、聖火はそこで少しだけ苦笑した。
「ただ、巻き込まれる側としては大変だけどね」
「それは……申し訳ありません」
「いや、深雪ちゃんが謝ることじゃないよ」
聖火は軽く手を振った。
「達也くんに呼ばれて、軽い相談だと思って来た俺が悪い」
「お兄様が相談とおっしゃったなら、それは相談なのでは?」
「深雪ちゃん」
「はい」
「相談って、普通は相手に選択肢があるものなんだよ」
深雪は少し考えた。
「教材の順番は選べると、お兄様はおっしゃっていました」
「そこを選択肢に数えるのは、かなり達也くん寄りだね」
「そうでしょうか」
「うん。かなり」
深雪は、少しだけ口元を緩めた。
聖火も笑う。
その空気は穏やかだった。
だが、深雪はその穏やかさに、少し戸惑っていた。
司波家の中で、達也以外の相手と二人きりになって、ここまで肩の力が抜けることはあまりない。
相手が同級生であっても、深雪はどこかで姿勢を正す。
礼儀。
距離感。
相手にどう見られるか。
兄に恥をかかせないか。
そういったものを、無意識に考える。
けれど、今は少し違った。
聖火は、自分に何かを求めているようには見えない。
優秀な魔法師としての答えも。
司波達也の妹としての振る舞いも。
お嬢様らしい完璧な姿勢も。
それらを期待しているというより、ただ、目の前の深雪が無理をしていないかを見ている。
それが、不思議だった。
「聖火くん」
「何?」
「聖火くんは、なぜそのように人を見るのですか」
聖火は、少しだけ首を傾げた。
「そのように?」
「体調や、疲れているかどうかや、無理をしていないかどうかを、先に見ています」
「癖だと思う」
「癖、ですか」
「うん。人は急に倒れるわけじゃないから」
深雪は黙った。
聖火の声は軽かった。
だが、その言葉の中には、軽さだけではないものがあった。
「倒れる前に、だいたい何か出る。息の仕方、目の動き、手の温度、姿勢、声の張り。本人が大丈夫って言っていても、大丈夫じゃない時はある」
「それを、見逃さないようにしているのですか」
「見逃すと、後で面倒だからね」
「面倒」
「うん。倒れてから運ぶより、倒れる前に座らせた方が楽だ」
深雪は、少しだけ目を伏せた。
その言い方は、まるで効率を語っているようだった。
けれど、その奥にあるものは、ただの効率ではない。
聖火は、人を壊れる前に見ている。
それが自然になってしまうほど、そういう場にいたのだろう。
深雪は、それを言葉にしなかった。
たぶん、聞いてはいけないこともある。
少なくとも、今この場で聞くことではない。
「では、私も倒れる前に座らされたのですね」
「深雪ちゃんの場合は、倒れるほどじゃないよ」
聖火は少し笑った。
「ただ、休める時に休んだ方がいい。そういう話」
「お兄様も、そう思われるでしょうか」
「思うと思うよ」
深雪は、少し意外そうに聖火を見た。
「お兄様が?」
「うん」
「お兄様は、私がきちんとしている方が安心されるのではないでしょうか」
「深雪ちゃんが無理してきちんとしているなら、たぶん安心しない」
聖火は静かに言った。
「達也くんは、深雪ちゃんが思っているより、深雪ちゃんをよく見てる」
「……それは、もちろんです」
深雪の声に、誇らしさが滲んだ。
「お兄様は、いつも私を見てくださっています」
「うん。だから、無理してるのも見えると思う」
深雪は、言葉を失った。
聖火は続ける。
「深雪ちゃんが綺麗に立ってることも、完璧に振る舞ってることも、達也くんは分かってる。でも、それで疲れてるなら、そっちも分かると思う」
「……」
「だから、深雪ちゃんが少し休んだくらいで、達也くんが失望することはないんじゃないかな」
深雪は、茶器に視線を落とした。
温かい。
その温かさが、手のひらからゆっくりと広がっていく。
「私は」
深雪は小さく言った。
「お兄様の隣に立つにふさわしい自分でいたいのです」
「うん」
「それは、私にとってとても大切なことです」
「分かるよ」
聖火は否定しなかった。
「大事な人の隣に立つなら、胸を張れる自分でいたい。それは普通だと思う」
「普通、ですか」
「うん。普通」
聖火はお茶を一口飲んだ。
「ただ、胸を張るのと、肩に力を入れっぱなしなのは違う」
深雪は、目を瞬かせた。
「肩に力を」
「力を抜いても、深雪ちゃんは深雪ちゃんでしょ」
「……」
「綺麗に座っていても、少し背もたれに預けても、深雪ちゃんが変わるわけじゃない」
深雪は、ゆっくりと息を吐いた。
自分では気づかないくらい、浅くなっていた呼吸。
それが、少しだけ深くなる。
聖火はそれに気づいていたが、何も言わなかった。
言えば、深雪がまた姿勢を正してしまうと思ったからだ。
代わりに、机の上の資料を一枚持ち上げる。
「それにしても、達也くんは本気だな」
「お兄様は、いつでも真剣です」
「知ってる。だから怖い」
「怖い、ですか?」
「うん。達也くんは、必要だと思ったら本当にやるから」
「それは、お兄様の素晴らしいところです」
「深雪ちゃんの中で、達也くんは全肯定なんだね」
「当然です」
即答だった。
聖火は笑った。
その迷いのなさが、少し羨ましくもあった。
「でも、達也くんも大変だね」
「お兄様が、ですか?」
「うん。深雪ちゃんにそんな目で見られてるんだから」
深雪は首を傾げた。
「どういう意味でしょう」
「期待される側も、けっこう大変ってこと」
深雪は、少しだけ考え込んだ。
聖火は続ける。
「深雪ちゃんがお兄様にふさわしくありたいと思うのと同じで、達也くんも深雪ちゃんを守れる自分でいようとしてるんじゃないかな」
深雪の表情が、わずかに変わった。
「お兄様は、いつも私を守ってくださいます」
「うん」
「ですが、それを当然と思ってはいません」
「それなら大丈夫」
「大丈夫、ですか」
「うん。ちゃんと大事に思ってるなら、大丈夫」
聖火は軽く言った。
「ただ、たまには深雪ちゃんも休んでいい。そうした方が、達也くんもたぶん安心する」
深雪は、すぐには返事をしなかった。
けれど、その言葉は胸の奥に静かに残った。
自分が完璧でいることが、達也のためになると思っていた。
それは間違いではない。
でも、無理をしすぎないことも、達也のためになるのかもしれない。
その考えは、深雪にとって少し新しかった。
「聖火くんは」
深雪は静かに言った。
「時々、年上の方のようなことを言いますね」
聖火は少しだけ苦笑した。
「そう?」
「はい」
「老けてるってことかな」
「そうではありません」
深雪は慌てて否定した。
「その……落ち着いている、という意味です」
「落ち着いているかな」
「少なくとも、私にはそう見えます」
聖火は何かを言いかけて、やめた。
代わりに、少し冷めたお茶を飲む。
「まあ、落ち着いて見えるなら、それでいいよ」
「本当は違うのですか?」
深雪の問いは静かだった。
好奇心ではない。
心配でもない。
ただ、目の前の相手を少し知りたいという、穏やかな問いだった。
聖火は少し考えた。
「落ち着いてる時もあるし、そうじゃない時もある」
「聖火くんでも?」
「俺でも」
「意外です」
「意外かな」
「はい。聖火くんは、いつも周りを見ているように思えます」
「周りを見てるのと、自分が落ち着いてるかは別だよ」
深雪は、その言葉に少しだけ納得した。
確かに、聖火は周囲をよく見ている。
けれど、自分自身の扱いは雑に見える時がある。
それは、先ほど達也のスパルタレッスンを受けていた時にも思った。
逃げたいと言いながら、興味を持つ。
巻き込まれたと言いながら、真剣に考える。
疲れているように見えるのに、他人の疲れを先に見る。
不思議な人だ。
深雪は、そう思った。
雫やほのかに話した時のように、聖火への印象を言葉にするなら、いくつかの言葉は浮かぶ。
頼れる。
優しい。
少し変わっている。
だが、それだけでは足りない。
今この場で感じているものは、もう少し静かで、説明しづらかった。
「聖火くん」
「何?」
「私は今、少しだけ楽にしていますか?」
聖火は深雪を見た。
深雪は、いつもより少しだけ肩の力が抜けていた。
背筋は伸びている。
所作も美しい。
だが、先ほどまでのような張り詰めた感じは薄れていた。
聖火は小さく頷いた。
「うん。少しだけ」
「そうですか」
深雪は、ほんのわずかに微笑んだ。
「では、少しだけなら、このままでもよいでしょうか」
「いいと思うよ」
「お兄様が戻られるまで」
「戻ってきても、そのままでいいと思うけどね」
深雪は、少し困ったように笑った。
「それは、まだ少し難しいです」
「じゃあ、今だけでも」
「はい」
深雪は静かに頷いた。
「今だけ、少しだけ」
その言葉は小さかった。
だが、深雪にとっては十分だった。
今だけ。
少しだけ。
完璧なお嬢様ではなく。
達也の隣に立つにふさわしい妹でもなく。
優秀な魔法師でもなく。
ただ、温かいお茶を両手で包んでいる少女として。
その場にいる。
そういう時間が、少しだけあってもいい。
深雪はそう思った。
その時、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
達也の足音だった。
深雪は自然と姿勢を正しかける。
だが、その前に聖火が小さく言った。
「そのままでいいよ」
深雪の動きが止まった。
ほんの一瞬だけ、迷う。
それから、深雪は背筋を正しすぎることなく、茶器を手にしたまま達也を待った。
扉が開く。
達也が資料を手に戻ってきた。
「待たせた」
「お帰りなさいませ、お兄様」
深雪の声はいつも通りだった。
けれど、達也はわずかに目を細めた。
深雪の表情が、少しだけ柔らかい。
疲れているわけではない。
緊張が解けすぎているわけでもない。
ただ、普段より少しだけ楽に呼吸している。
達也は一瞬、聖火を見た。
聖火は何も言わず、お茶を飲んでいた。
机の上には資料の山。
深雪の手元には温かい茶器。
それだけだった。
「何かあったのか」
達也が短く問う。
聖火は肩をすくめた。
「休憩してただけだよ」
「そうか」
達也は深雪を見る。
「深雪」
「はい、お兄様」
「疲れていないか」
深雪は、少しだけ目を見開いた。
それから、穏やかに微笑んだ。
「はい。大丈夫です」
いつもの返答。
けれど、今日は少しだけ違った。
無理をして大丈夫と言っているのではない。
本当に、今は大丈夫だと思えた。
達也はその違いを感じ取ったのか、それ以上は何も言わなかった。
「ならいい」
そう言って、資料を机に置く。
聖火はその厚みを見て、現実に引き戻された。
「達也くん」
「なんだ」
「今、いい話で終わりそうだった空気を感じなかった?」
「感じていない」
「だよね」
深雪が、くすりと笑う。
聖火はその笑顔を見て、少しだけ安心した。
達也は資料を整えながら、淡々と言った。
「休憩が終わったなら、次の確認に入る」
「達也くん、休憩という言葉の意味を知ってる?」
「知っている」
「なら、もう少し長くてもいいと思う」
「資料を渡すだけだ」
「その言葉も信用できなくなってきた」
深雪は穏やかに笑っていた。
ほんの少し前まで、彼女は完璧に整った微笑みを浮かべていた。
今も美しいことに変わりはない。
だが、そこにはわずかに年相応の柔らかさがあった。
達也はそれを見て、何も言わなかった。
警戒を解いたわけではない。
聖火という存在を、完全に信用したわけでもない。
だが、深雪が彼の前でほんの少し楽に呼吸できるのなら。
少なくとも今この場では、それを否定する理由はなかった。
聖火は、机の上に置かれた追加資料を見てため息をつく。
「深雪ちゃん」
「はい」
「さっきの休憩、もう少し味わっておけばよかった」
「では、あとでまたお茶を淹れます」
「本当に?」
「はい」
「それを希望にして頑張るよ」
達也が端末を開く。
「始めるぞ」
「はいはい」
「返事は一回でいい」
「はい」
深雪は二人のやり取りを見ながら、静かに微笑んだ。
ただの深雪でいられる時間は、長くはない。
けれど、少しだけなら。
温かいお茶が冷めるまでの間くらいなら。
そういう時間があってもいいのかもしれない。
深雪はそう思いながら、もう一度、茶器を両手で包んだ。
引き続き、深雪の話でした。
次回からは本編に戻りたいと思います。