# 横浜騒乱編 二話 残った違和感
横浜の論文コンペ会場を下見してから、第一高校の周囲は少しずつ落ち着きを失っていった。
表向きは、いつも通りだった。
授業は進み、生徒会は論文コンペの準備を続け、部活連は各部の調整と警備関係の確認に追われている。
廊下には生徒たちの声があり、放課後には部活動へ向かう足音が響く。
だが、その裏側では、いくつもの出来事が続いていた。
十月二十日。
平河千秋の件。
それは、ただの生徒間の不満や反発で片づけるには、少し引っかかるものがあった。
怒り。
不満。
恨み。
そういった感情そのものは、珍しいものではない。
第一高校のような場所では、優劣、評価、家柄、能力、立場が常に人の距離を変える。
誰かが誰かを妬む。
誰かが誰かを責める。
誰かが納得できないものを抱える。
それ自体は、よくあることだった。
だが、平河千秋の一件には、どこか不自然な熱があった。
聖火は、その時点ではまだ確信を持っていなかった。
ただ、記録には残していた。
怒り方が少し変だ、と。
十月二十二日。
十文字克人による警備隊訓練が行われた。
論文コンペ本番に向け、各校の学生警備組織をまとめる十文字は、第一高校側の警備体制にも容赦なく手を入れていた。
その内容は、厳しいの一言だった。
特に聖火にとっては、あまり思い出したくない訓練でもある。
訓練中、聖火は木の上に隠れていた。
一応、本人としては本当に怠けていたわけではない。
周囲の動き、警備隊の視線、探索範囲、十文字先輩がどのタイミングで全体を見るか。
それらを確認するために、あえて目立たない場所へ移動した。
そう言い訳することはできる。
ただし、途中で少しだけ目を閉じた。
少しだけ。
本人の主張では、警戒を解いていない休息である。
だが、十文字克人には通じなかった。
「鷹山」
低い声が森の中に響いた瞬間、聖火は心の底から嫌な予感を覚えた。
次の瞬間、十文字のファランクスが木の上を容赦なく撃ち抜いた。
木の枝ごと吹き飛ばされた聖火は、地面に叩きつけられる。
はずだった。
そこに転がったのは、聖火ではなかった。
紙と木片と布で作られた、身代わりの人形である。
十文字は無言だった。
その沈黙が一番怖かった。
本物の聖火は、すでに森の奥へ逃げていた。
「鷹山」
再び声が響く。
低い。
静か。
だが、明らかに怒っている。
「戻れ」
「すみません。戻ると怒られる気がするので、少し考えさせてください」
「戻れば説教で済ませる」
「戻らなかった場合は?」
「追う」
「ですよね」
その後、聖火は森の中を逃げ回ることになった。
訓練なのか、説教なのか、狩りなのか。
途中から本人にも分からなくなった。
最終的に捕まった聖火は、十文字に淡々と説教された。
勝手な行動をするな。
警備中に役割を放棄するな。
身代わりを置いて逃げるな。
どれも正論だった。
ただ、最後に十文字はこうも言った。
「逃げ足だけは評価する」
褒められた気はしなかった。
聖火はその時の記憶を思い出し、額に手を当てた。
「十文字先輩、本当に容赦がない」
しかし、訓練そのものは無駄ではなかった。
警備隊の動き。
指示系統。
緊急時の集合位置。
負傷者が出た場合の退避先。
情報共有の流れ。
それらは、少しずつ形になっていた。
そして、その翌日。
十月二十三日。
関本勲のスパイ事件が発覚した。
これによって、第一高校の警備関係者は一気に神経を尖らせることになった。
論文コンペは、ただの学術発表ではない。
魔法技術の未来に関わる情報が扱われる場である。
そこに外部勢力の影が差しているとなれば、警備側が警戒を強めるのは当然だった。
同じ日、呂剛虎による病院襲撃も発生した。
さらに、十月二十五日。
八王子特殊鑑別所襲撃。
呂剛虎はそこで捕縛された。
事件は一つずつ処理されている。
そう見ようと思えば、そう見えた。
だが、聖火にはそう見えなかった。
平河千秋。
関本勲。
呂剛虎。
病院襲撃。
特殊鑑別所襲撃。
点として見れば、それぞれ別の事件である。
だが、嫌な形で線が見え始めていた。
「……やっぱり、ただでは済まないか」
部活連本部の隅で、聖火は資料を閉じながら小さく呟いた。
準備をしている時ほど、何かが起きる。
そういう嫌な経験を、彼は何度もしていた。
十月二十九日。
病院の廊下は、静かだった。
消毒液の匂い。
白い壁。
柔らかすぎる照明。
規則的に響く足音。
市原鈴音は、入院中の平河千秋を見舞うために病院を訪れていた。
その付き添いとして、服部刑部少丞範蔵。
そして、鷹山聖火も同席していた。
正式な見舞いというより、確認に近い。
少なくとも聖火は、そう捉えていた。
病室の前で、市原は一度だけ立ち止まった。
「鷹山くん」
「はい」
「あなたまで来てもらって、すみません」
「警備メンバーですから」
聖火は軽く答えた。
「それに、俺は話を聞くより、後ろで立っている方が向いています」
服部が横目で見る。
「余計なことは言うな」
「はい」
即答だった。
市原は小さく息を吐き、それから病室の扉をノックした。
中から、かすかな返事がある。
病室に入ると、平河千秋はベッドの上にいた。
顔色は良くない。
体調の問題だけではない。
精神的な消耗が、表情に残っている。
市原は静かに声をかけた。
「平河さん。体調はどうですか」
平河は少しだけ目を伏せた。
「……大丈夫です」
大丈夫。
それは便利な言葉だ。
痛くても使える。
苦しくても使える。
何も話したくなくても使える。
聖火は病室の隅に立ったまま、平河千秋を見ていた。
彼女の声。
呼吸。
視線の揺れ。
肩の力の入り方。
指先の動き。
そして、魔法師としての内側に残る、わずかな歪み。
最初は、疲労のせいかと思った。
精神的な負荷。
罪悪感。
恐怖。
混乱。
そういうものが残っているだけなら、不思議ではない。
だが、違った。
平河千秋の奥に、何かが残っている。
それは魔法式の残滓というには薄い。
暗示というには硬い。
精神干渉というには古い。
聖火は、静かに目を細めた。
大陸の古式魔法。
彼は、それに類するものをいくつか知っている。
呪。
縛り。
導き。
名を用いた干渉。
血縁、土地、方角、音、文字、呼吸、恐怖。
人の心に触れる術は、現代魔法だけのものではない。
むしろ、古式魔法の世界では、心や魂に触れる術は珍しいものではなかった。
だが、平河千秋に残っているものは、そのどれとも少し違った。
もっと古い。
術式として洗練される前のもの。
願い、呪い、命令、恐怖。
それらがまだ分かれていなかった頃の、もっと原始的な干渉。
聖火は、それを見ていた。
市原が平河へ静かに話しかけている。
服部は病室の入口近くに立ち、周囲へ気を配っている。
平河は時折、言葉を詰まらせながらも答えていた。
聖火は何も言わなかった。
今ここで言うべきではない。
この場で、平河千秋に向かって「あなたには何かが残っている」と言えば、彼女の心をさらに乱す。
市原にも、服部にも、すぐに判断できる情報ではない。
何より、聖火自身にも、まだ確信が足りなかった。
ただし。
気のせいで済ませていいものでもなかった。
「鷹山くん?」
市原の声で、聖火は視線を戻した。
「はい」
「何か気になることでも?」
一瞬、病室の空気が止まった。
服部も聖火を見る。
平河千秋も、わずかに顔を上げた。
聖火は、いつものように軽く笑った。
「いえ。病院の空調が少し強いなと思いまして」
「空調、ですか」
「はい。平河さん、寒くありませんか?」
平河は少し戸惑ったように首を横に振った。
「いえ……大丈夫です」
「なら良かったです」
聖火はそれ以上、何も言わなかった。
市原は少し不思議そうにしていたが、追及はしなかった。
見舞いは、それからしばらく続いた。
市原は平河に無理な質問をしなかった。
責めもしなかった。
ただ、必要な言葉を選んでいた。
服部は最後まで黙っていた。
聖火も、同じく黙っていた。
ただし、何も見ていなかったわけではない。
平河千秋の内側に残った、古い干渉の痕。
それだけは、はっきりと記憶に刻んでいた。
病室を出た後、市原は病院の受付へ向かった。
服部はその少し後ろで、病院側との確認を行う。
聖火は一言断って、廊下の端へ向かった。
人の通りが少ない場所。
窓際。
病院の隅。
そこまで歩いてから、端末を取り出した。
連絡先を選ぶ。
十文字克人。
数秒後、通話がつながった。
『鷹山か』
低い声が聞こえる。
聖火は窓の外を見た。
「十文字先輩。少し、報告があります」
『何だ』
「平河千秋さんの件です」
通話の向こうで、空気が変わった気がした。
『病室で何かあったのか』
「何かが起きたわけではありません」
聖火は静かに答えた。
「ただ、残っていました」
『何がだ』
「マインドコントロールの痕跡です」
短い沈黙。
十文字の声は、次に聞こえた時も落ち着いていた。
だが、わずかに重くなっていた。
『確かか』
「完全には断定できません。ですが、ただの精神的動揺ではありません」
聖火は声を落とす。
「しかも、現代魔法の精神干渉とは違います。大陸魔導士が使う古式魔法より、さらに古いものに近い」
『古い?』
「はい」
聖火は窓の外を見る。
病院の敷地を、風が抜けていく。
「術式というより、呪いに近い。命令と恐怖と願望を、本人の感情に縫い込んだようなものです」
『それで俺に連絡したのか』
「はい」
聖火は短く答えた。
「この場で騒ぐには材料が足りません。でも、記録せずに流すには危険すぎます」
通話の向こうで、十文字が小さく息を吐いたような気配があった。
『隠さなくなったな』
その言葉に、聖火は一瞬だけ目を瞬かせた。
それから、少しだけ苦笑する。
十文字は、出会った頃から気づいていたのだろう。
鷹山聖火が、ただ相手の顔色や仕草を見ているだけではないことに。
十師族の肉体に残る負荷。
魔法師としての無理。
呼吸の乱れ。
気の流れ。
精神に残る濁り。
聖火が、そういうものを見ているのだと。
それでも十文字は、無理に問い詰めなかった。
聖火が言わないなら、言わない理由がある。
そう判断していたのかもしれない。
だが今回は違う。
聖火は、自分から話した。
平河千秋に残る、普通の診察では見えない痕跡を。
「今更でしょう」
聖火はそう返した。
『以前のお前なら、報告の前に一人で調べに行っていた』
「否定できませんね」
聖火は窓の外へ視線を向けた。
病院の敷地を、風が静かに抜けていく。
「でも、今回は警備隊の案件です。十文字先輩と服部先輩の指示系統に乗せた方がいい」
『そう判断できるならいい』
「褒められています?」
『まだだ』
「まだ、ですか」
『状況が終わってから判断する』
「厳しいですね」
『お前にはそれくらいでいい』
聖火は小さく笑った。
だが、すぐに表情を戻す。
「それと、すみません」
『何がだ』
「本来なら、警備隊の指揮系統としては服部先輩に先に通すべきでした」
通話の向こうで、十文字は黙っていた。
聖火は続ける。
「ただ、今話している内容は、俺の能力に関わります。これを公にできる人間は限られています。服部先輩に説明するにも、どこまで話していいか判断がつきませんでした」
『だから俺に先に連絡したのか』
「はい」
聖火は小さく息を吐いた。
「指揮系統を飛ばした形になりました。申し訳ありません」
短い沈黙があった。
十文字の声は、低く、しかし怒ってはいなかった。
『判断としては間違っていない』
聖火は目を瞬かせた。
『だが、次に服部へ共有しろ。すべてを話す必要はない。警備上必要な形に落として伝えればいい』
「分かりました」
『お前の能力の詳細は出すな。だが、平河に外部干渉の可能性があること、本人の状態が不安定なこと、同様の手口が他にも使われる可能性があることは伝えろ』
「はい」
「それと、もう一つ」
『何だ』
「仮説ですが、香を使った術の可能性があります」
『香?』
「はい。直接触れて命令を刻むというより、呼吸から入れて、感情の奥に引っかける種類です。匂い、記憶、恐怖、怒りを結びつける。そういう古い手口に近い」
『大陸の古式魔法か』
「それより古いかもしれません」
聖火は声を落とした。
「大陸魔導士が使う古式魔法は、まだ術式として整理されています。でも、平河さんに残っていたものは、もっと原始的です。術というより、呪いに近い。香で意識を緩めて、本人の中にある怒りや劣等感に命令を縫い込んだような痕跡でした」
『本人は覚えているのか』
「おそらく、ほとんど覚えていないでしょう」
聖火は病室の方を一度だけ見た。
「自分が何を考え、何を言い、どこまで自分の意思で動いたのか。その境目が曖昧になっているはずです」
『なら、事情聴取は難しいな』
「はい。しかも厄介なのは、術が解けても感情までは消えないことです」
『どういう意味だ』
「マインドコントロールで誘導された部分は薄れている。でも、元々あった達也くんへの蟠りまでは消えていない」
聖火は言葉を選びながら続けた。
「平河さんの怒りは、全部が作り物ではありません。姉の件で抱いた怒り、達也くんへの反感、一高への不満。そこに本物の感情があったから、術が入り込めたんだと思います」
『感情を利用された、ということか』
「はい」
聖火の声が、少しだけ低くなる。
「本人の傷口を探して、そこに命令を差し込んだ。そういうやり方です」
『悪質だな』
「ええ」
短い返事だった。
だが、その声には明確な嫌悪があった。
「術を解けば全部元通り、という話ではありません。本人は覚えていない。けれど、達也くんへの蟠りや、自分が何かをしたという後味の悪さは残る。だから、精神的にはかなり不安定だと思います」
『本人に伝えるべきではないな』
「今は絶対に言わない方がいいです」
聖火は即答した。
「平河さんに必要なのは、追及ではなく安定です。自分が操られていたかもしれないと知れば、今度は自分自身を疑い始める」
『市原には?』
「伝える内容は選ぶべきです。平河さんの状態が不安定であること、外部から感情を誘導された可能性があること。それくらいまででしょう」
『服部には共有しろ』
「はい。警備上必要な情報ですから」
『ただし、勝手に追うな』
聖火は一瞬、沈黙した。
それから、少しだけ苦笑した。
「十文字先輩、本当に俺の扱いに慣れてきましたね」
『お前が慣れさせた』
「否定できません」
『警備隊の指示系統に乗せろ。服部に共有し、記録に残せ。お前一人で抱えるな』
「了解です」
聖火は端末を握り直した。
「十文字先輩」
『何だ』
「たぶん、今回もただでは済みません」
短い沈黙。
十文字は、静かに答えた。
『だから備える』
「はい」
通話が切れる。
聖火はしばらく端末を見下ろしていた。
平河千秋に残っていたもの。
それは、ただの怒りではなかった。
ただの憎しみでもなかった。
誰かが、彼女の感情を利用した。
本人の中にある傷を探し、その傷口に命令を縫い込んだ。
聖火は奥歯を噛んだ。
そういうやり方を、彼は嫌悪していた。
人の心を道具にする。
人の痛みを燃料にする。
人の怒りを、自分の目的のために曲げる。
それは、戦場で何度も見てきたやり方だった。
「……嫌な術だ」
小さく呟く。
だが、今は怒る時ではない。
怒りで燃やしていい段階ではない。
記録する。
共有する。
備える。
それが今の役割だった。
聖火は端末をしまい、病院の廊下へ戻った。
服部へ報告しなければならない。
まだ事件は、終わっていない。
むしろ、何かが始まろうとしている。
そんな嫌な予感が、胸の奥に残っていた。
今回は駆け足で進んでおります。
というのも、この話下手に聖火を活躍させると、ほかのキャラの活躍を奪ってしまうからです。
一応奪うのは達也の活躍だけにしたいんですよね。
横浜騒乱編まではそれで行こうと思っております。
次回はコンペ当日の話になります。