聖火は、治療室を出た。
背後では、深夜の呼吸がゆっくりと安定している。
今すぐ死ぬことはない。
完全に治すには時間がかかる。
設備も必要だ。
本人の意識も、意思も必要になる。
そして何より、本人がその奥へ触れられることを望まなければならない。
今は、あれでいい。
悪態をつけるなら、まだ生きている。
嫌いだと言えるなら、まだこちら側にいる。
聖火はそう判断し、白い廊下を歩いた。
臨時の医療区画は、戦場から切り離されたように静かだった。
だが、その静けさは平穏ではない。
壁の向こうでは人が走り、通信機の声が飛び交い、遠くではまだ爆発音が響いている。
ここは安全地帯ではない。
ただ、死が少しだけ遠ざけられている場所にすぎなかった。
廊下の角を曲がったところで、聖火は足を止めた。
壁際に、小さな少女が座っていた。
長い黒髪。
白い肌。
まだ幼さの残る顔立ち。
けれど、その姿には奇妙なほど整った美しさがあった。
つい先ほど、黒髪の少年が腕に抱えていた少女。
死の縁から、あの少年が引き戻した少女。
少女もまた、聖火に気づいた。
少し驚いたように目を見開き、それからすぐに立ち上がる。
動きはまだ弱い。
足元も安定していない。
だが、背筋だけは不自然なほど真っ直ぐだった。
「……あの」
少女は小さく声を出した。
聖火は近づきすぎない距離で足を止めた。
子供を怖がらせない距離。
逃げたいなら逃げられる距離。
それは、戦場で怯えた子供に近づく時の距離だった。
「起きていて大丈夫なのか」
少女は一瞬だけ戸惑い、それから丁寧に頭を下げた。
「司波深雪です」
「鷹山聖火だ」
聖火は短く名乗った。
そして、少しだけ言葉を選ぶように間を置く。
「深雪ちゃん、と呼んでもいいか?」
深雪は小さく瞬きをした。
予想していなかった呼ばれ方だったのだろう。
けれど、すぐに控えめに頷いた。
「はい。では、私は聖火さんとお呼びしてもよろしいですか」
「ああ」
「聖火さん」
深雪は、その名を確かめるように呼んだ。
「母と、穂波さんを助けていただき、ありがとうございます」
そう言うと、深雪は深々と頭を下げた。
聖火は少しだけ困ったように目を細めた。
誰から聞いたのやら。
礼を言われるために処置したわけではない。
生きていたから拾った。
ただ、それだけだ。
だが、目の前の少女にとっては、その言葉を口にすることが必要なのだろう。
なら、突き返す理由もない。
「応急処置だ」
聖火は言った。
「助けたと言えるほど、綺麗なことはしていない」
「それでも、助けてくださいました」
深雪の声は小さかった。
けれど、そこには確かな意思があった。
聖火は数秒だけ黙り、それから短く頷いた。
「分かった。受け取っておく」
深雪の表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
そのわずかな変化を見て、聖火は思った。
この子は、礼の言い方は知っている。
姿勢の正しさも知っている。
我慢の仕方も知っている。
けれど、安心の仕方はまだ知らない。
笑い方も、泣き方も、きっと十分には教わっていない。
聖火はふと周囲を見た。
先ほどまで、彼女を大事そうに抱えていたはずの黒髪の少年の姿がない。
「君を見ていた男の子は、どこへ行った?」
それを聞いた瞬間、深雪の表情が曇った。
困ったように視線を落とす。
答えていいのか迷っているようだった。
小さな指が、服の裾を握る。
やがて、深雪は意を決したように顔を上げた。
「お兄様は……軍の方と一緒に行ってしまいました」
「軍の方?」
「はい」
深雪は小さく頷いた。
「敵の艦隊を止めるためだと、聞きました」
聖火は眉を寄せた。
黒髪の少年。
深雪を抱えていた時の目。
損傷を受ける前の情報を呼び出し、肉体を戻したあの魔法。
あれほどの力を持つ少年が、戦場で何をさせられるのか。
考えるまでもない。
「誰か、一緒に行ったのか」
「はい」
深雪は答えた。
「穂波さんも、一緒に」
聖火の表情が止まった。
「……桜井穂波か」
「はい。私たちを守ってくれる方です」
聖火は思わず天井を見上げた。
そして、深く息を吐く。
「……あのしぶとい子か」
「え?」
「いや」
聖火は首を振った。
深雪は戸惑ったように聖火を見上げている。
「あの、聖火さんは」
「ちょっと行ってくる」
深雪の目が、わずかに見開かれた。
「え?」
「君はここにいろ」
聖火はそれだけ言った。
「で、でも」
「動ける状態じゃない」
「でも、お兄様が」
「分かっている」
聖火は深雪を見た。
短く、けれどまっすぐに。
「だから行く」
深雪は何か言おうとした。
けれど、言葉より先に聖火の背中が遠ざかっていた。
早い。
だが、走ってはいない。
それなのに、気づいた時には遠かった。
次の瞬間、深雪は目を瞬かせた。
廊下の端まで歩いていたはずの聖火が、いなかった。
扉は開いていない。
窓も閉まっている。
足音も聞こえない。
ただ、白い廊下だけが残っていた。
深雪はしばらく、その場所を見ていた。
消えた、という言葉しか浮かばなかった。
まるで最初から、そこには誰もいなかったかのように。
深雪は胸の前で両手を合わせた。
お兄様が帰ってくる。
穂波さんも帰ってくる。
そして、あの人も行ってくれた。
場所を確かめることもなく、ただ「行く」と言っただけで。
それが何を意味するのか、深雪にはまだ分からなかった。
けれど、縋るものが一つ増えた気がした。
白い廊下には、深雪の小さな祈りだけが残った。
海風に、火薬の臭いが混じっていた。
沖合には黒煙が立ち上っている。
燃える艦影。
迎撃に走る兵たちの怒号。
その向こうに、まだ敵艦隊がいた。
聖火は状況を一瞬で把握した。
黒髪の少年が、海を見据えて立っている。
その隣で、一人の少女が両腕を広げていた。
桜井穂波。
降り注ぐ砲撃を受け止めるように、全身で障壁を維持している。
震えていた。
腕ではない。
魔法演算領域そのものが、限界を超えて軋んでいる。
聖火には分かった。
あと数分も持たず、内側から崩れる。
「無茶苦茶だ」
近くにいた軍人が呻いた。
「このままでは彼女が」
だが、穂波は止まらなかった。
止まる気がなかった。
守る。
それだけが、今の穂波に残された役目だった。
主を守る。
深雪を守る。
自分がここにいる意味を、最後まで果たす。
たとえ身体が壊れても、ここで退くことだけはできない。
聖火は迷わなかった。
次の瞬間、彼は穂波の隣に立っていた。
誰も気づかなかった。
黒い外套の少年は、いつの間にかそこにいた。
聖火は穂波の肩に手を置く。
「そこまでだ」
穂波の身体が、わずかに軽くなった。
処理しきれなかった負荷の一部が、外へ引き抜かれていく。
着弾予測。
衝撃方向。
熱量分散。
障壁の維持座標。
穂波一人では抱えきれない情報を、聖火が横から引き受けていた。
本来、成立するはずのない干渉だった。
他人の魔法に外側から触れ、その出力を支える。
そんな芸当は、通常の魔法理論の外にある。
だが聖火には、それができた。
穂波が振り返る。
周囲の者たちも、そこで初めて聖火の存在に気づいた。
誰何の声が上がる前に、聖火はため息をついた。
「さっさと終わらせよう」
達也を見た。
達也は一瞬だけ聖火を見て、それから頷いた。
目を閉じる。
集中する。
手がかざされた。
次の瞬間、光があった。
光というより、消滅だった。
艦隊が、あった場所がなくなっていた。
物質が消え、莫大なエネルギーだけが残り、それもやがて散っていく。
聖火は静かにそれを見た。
見事だ、とは思わなかった。
ただ、規格外だと思った。
隣で、穂波が崩れた。
達也の指が、わずかに動いた。
だが、彼はすぐには動かなかった。
戦場の状況。
深雪の安否。
敵の残存戦力。
穂波の状態。
そのすべてが、彼の中で一瞬にして比較されていた。
聖火は何も言わず、倒れかけた穂波を支えた。
穂波の意識は、ゆっくりと戻った。
最初に感じたのは、温かさだった。
熱ではない。
痛みでもない。
ただ、温かかった。
おかしい。
自分は死を覚悟していた。
障壁を維持しながら、これが最後だと思っていた。
ここで倒れる。
ここで終わる。
主を守って死ぬなら、それでいい。
そう思っていた。
それなのに。
「起きたか」
声がした。
聞いたことのある声だった。
焦点が合う。
砲撃で欠けた岸壁。
遠くに見える黒煙の残滓。
そして、自分を見下ろす少年の顔。
「……なんで」
声が出た。
かすれていた。
聖火は穂波を見た。
患者を診る目だった。
ただし、哀れみはない。
「死にたかったか」
穂波は答えなかった。
答えられなかった。
「死にたいなら止めはしない」
周囲の空気が変わった。
「だが」
聖火は続けた。
「俺が見ていないところでやれ」
穂波の目が、わずかに揺れた。
「俺がいる前で死ぬな。それだけだ」
治療は止まっていなかった。
話しながら、ずっと続いていた。
損傷を確認する。
負荷を逃がす。
壊れかけた演算領域を、丁寧に整える。
穂波の身体が、少しずつ軽くなっていく。
「……ひどい人」
「よく言われる」
穂波の目から、一滴だけ涙が落ちた。
泣くつもりはなかった。
泣く理由が、分からなかった。
死ぬことを許されなかったからか。
生きてしまったからか。
それとも、死ぬ以外の役目を押しつけられたからか。
それでも涙は落ちた。
聖火は気にしなかった。
治療は続く。
増援が来るまでの間、誰も多くを話さなかった。
風間と名乗った軍人は、遠くを見るように立っていた。
達也は穂波の近くに座り、黙っていた。
聖火は処置を続け、穂波はそれを受けていた。
やがて増援が来た。
穂波はストレッチャーで運ばれていく。
到着した軍医が穂波の状態を確認し、言葉を失っていた。
応急処置ではなかった。
ほとんど治療が終わっていた。
それでも精密検査が必要だという判断で、穂波は搬送されていった。
聖火はそれを見送った。
隣に、達也が立っていた。
「……聖火、と言う」
「達也だ」
握手はなかった。
その機会を、どちらも逃していた。
しばらく沈黙が続いた。
聖火が先に口を開いた。
「穂波が倒れた時」
達也が聖火を見る。
「ためらったな」
達也は答えなかった。
「助けることを、ためらった」
「……」
「艦隊を前にして、迷いはあったか」
「なかった」
達也は即答した。
「ならなぜ」
聖火は達也を見た。
真っ直ぐに。
「人を助ける時だけ、迷う」
達也は黙った。
否定はしなかった。
できなかった。
聖火は海を見た。
黒煙はもう、ほとんど消えていた。
「命を奪うことに迷わないなら」
静かな声だった。
「命を救うことにも、迷うな」
達也は答えなかった。
だが、その言葉は確かに届いた。
届いたことが、聖火にも分かった。
風が吹いた。
潮の臭いがした。
二人は並んで、しばらく海を見ていた。
追憶編は次回でラストになります。
少し荒く作ってしましました。
申し訳ございません。
少しづつ改善していきたいと思います。