論文コンペは、予定通りに始まった。
少なくとも、表向きは。
会場内には、発表者たちの緊張と、観客たちの期待が混じった空気が流れていた。
壇上では、各校の発表が順に進められていく。
発表用の投影設備は問題なく作動している。
音響も安定していた。
通信回線にも目立った乱れはない。
中条あずさは、会場後方の設備確認席で端末を握りしめていた。
新生徒会長として、できることをする。
その意識が強すぎて、朝から何度も確認表を見直していたが、今はどうにか落ち着いている。
それでも、指先には少しだけ力が入っていた。
「中条先輩」
隣を通りかかった聖火が、小さく声をかける。
「はい」
「端末、握り潰さないでくださいね」
「そ、そんなに力は入っていません」
「少しだけです」
「少しなら言わなくてもいいのでは……」
「壊れてからでは遅いので」
あずさは小さく息を吐いた。
呆れたような、少し安心したような顔だった。
「鷹山くんは、警備本部にいなくていいんですか?」
「見ていい範囲内です」
聖火は会場後方から警備本部の方へ視線を戻す。
「十文字先輩に指定された範囲からは出ていません」
「まるで、行動範囲を決められた危険人物みたいですね」
「中条先輩まで」
聖火は少しだけ肩を落とした。
あずさは慌てて口元を押さえる。
「あっ、すみません」
「いえ。だいたい合っています」
「合っているんですか」
「否定しきれないのがつらいところです」
そんな短いやり取りの後、聖火は再び警備本部の方へ戻った。
その背中を見送りながら、あずさは端末を持ち直す。
大丈夫。
設備は確認した。
避難経路も確認した。
地下シェルターの通信も、予備電源も、備蓄も確認した。
使われないことが一番いい。
だが、もし使われることになっても、何も知らないわけではない。
そう思えば、少しだけ呼吸がしやすくなった。
警備本部では、十文字克人が端末に表示された会場図を見ていた。
服部刑部少丞範蔵は、各所からの報告を整理している。
聖火は十文字の斜め後ろに立ち、会場内と端末上の情報を交互に見ていた。
大きな異常はない。
だが、小さなズレはあった。
正面入口前に、しばらく留まっている数人の外国人らしき人物。
搬入口側の確認報告が、予定よりわずかに遅れている。
一部の通信に、ほんの短い間が混じる。
どれも、単独では問題にならない。
ただし、消すには惜しい違和感だった。
「服部先輩」
聖火が低く呼ぶ。
「何だ」
「搬入口側の確認、少し遅れています」
「今、担当から返信が来た。異常なしだ」
「文面は?」
服部は端末を見る。
「定型文だ」
「なら、本人が打っているとは限りませんね」
服部の目がわずかに鋭くなった。
「鷹山」
「断定はしていません。確認だけお願いします」
十文字が短く言う。
「服部、搬入口に別系統で確認を入れろ」
「了解しました」
服部がすぐに指示を出す。
聖火は会場図から目を離さない。
点は、まだ点のまま。
だが、少しずつ近づいている。
そんな嫌な感じがした。
最初の異常は、音だった。
低く、重い音。
会場の外から、建物の壁を震わせるように伝わってきた。
直後、警備本部の端末に複数の報告が一斉に入る。
正面入口付近で混乱。
搬入口側で不審者確認。
外部警備員との通信に遅延。
会場周辺に複数の敵性反応。
会場内のざわめきが、一気に膨れ上がった。
「何だ?」
「爆発音?」
「外で何かあったのか?」
椅子が軋む音。
誰かが立ち上がる音。
不安が伝染する音。
聖火は反射的に会場の方を見た。
人の流れが乱れる。
まだ誰も走ってはいない。
だが、全員が一斉に出口を意識し始めている。
危ない。
そう思った瞬間、中条あずさが動いた。
彼女は端末を握りしめ、会場全体へ向けて魔法を発動した。
それは、誰かの意思を塗りつぶすようなものではなかった。
命令ではない。
支配でもない。
恐怖で波立つ感情の表面を、薄くならしていくような魔法だった。
大きく揺れた水面に、そっと手を置くように。
広がりかけた混乱が、わずかに遅れる。
立ち上がりかけた人間が、隣の人間を押す前に止まる。
悲鳴になりかけた声が、息を吸う音に変わる。
完全に落ち着いたわけではない。
だが、最悪の一歩目は止まった。
「……上手いですね」
聖火が小さく呟いた。
服部が横を見る。
「分かるのか」
「命令じゃありません。揺れを抑えているだけです。だから反発が少ない」
「お前は、そういうことまで見るのか」
「なんとなくです」
「その返答は信用できないな」
「よく言われます」
聖火はそう返しながらも、視線は会場から外さなかった。
中条は顔色を少し悪くしながらも、端末を離していない。
新生徒会長として。
そして、会場設備を一番把握している者として。
彼女は逃げていなかった。
その直後、七草真由美が前へ出た。
会場のざわめきが収まりきる前に、彼女の声が響く。
大きすぎる声ではない。
だが、不思議と通る声だった。
「皆さん、落ち着いてください」
その一言で、視線が集まる。
真由美は状況を簡潔に説明した。
外部で異常が発生したこと。
会場内にいる者は、係員と学生スタッフの指示に従って避難すること。
走らないこと。
前の人を押さないこと。
荷物を取りに戻らないこと。
そして、避難経路を示した。
発表会場から控室側の通路を通り、地下避難経路へ。
その先にあるシェルターへ移動する。
中条が整えた空気の上に、七草真由美の言葉が道を作る。
混乱は、ようやく人の流れに変わり始めた。
「避難誘導を開始します」
中条の声が、端末を通して警備本部へ届いた。
震えている。
だが、通る声だった。
「発表会場前方から順に、控室側通路へ誘導します。係員は前方通路の詰まりに注意してください。走らせないでください」
聖火は、ほんの少しだけ笑った。
「中条先輩、ちゃんと見てますね」
服部が端末を見る。
「前方通路の詰まり。下見でお前が言っていた場所か」
「はい」
「なら、報告しておいて正解だったな」
「記録したのは中条先輩です」
服部は答えなかった。
だが、その表情は少しだけ変わっていた。
中条あずさを見る目が、ただの新生徒会長を見るものではなくなっていた。
避難が開始された。
発表会場の人間は、誘導に従って動き始める。
ゆっくりと。
それでも確実に。
聖火は端末上の会場図を見つめた。
正面入口。
搬入口。
発表会場。
控室。
地下避難経路。
シェルター。
人の流れが地下へ向かう。
その流れを狙うなら、どこを塞ぐか。
敵が混乱を広げたいなら、どこに入るか。
避難者を人質に取りたいなら、どこで待つか。
答えは、嫌なほど見えやすかった。
「十文字先輩」
「何だ」
「地下通路で遭遇戦になる可能性があります」
服部が振り向いた。
「根拠は」
「正面入口と搬入口が乱れています。地上階に人を流せば詰まる。だから地下経路を使うのは正しいです」
聖火は会場図の地下通路を指した。
「ですが、敵が避難者を狙うなら、地下の方が効率がいい。人は狭い通路で止まると、後ろから詰まります」
「なら危険ではないか」
「危険です」
聖火は即答した。
「ですが、あそこは通路幅が狭い。敵が前からしか来ないなら、逆に制圧しやすいです」
服部の目が細くなる。
「お前を先行させろ、ということか」
「はい」
聖火は足元のアタッシュケースへ視線を落とす。
「地下通路に敵が入る前に、こちらが前を押さえます」
「独断で動くなと言われたばかりだろう」
「だから進言しています」
服部は言葉を止めた。
確かに、その通りだった。
聖火は勝手に動いていない。
十文字の許可を待っている。
十文字は一瞬だけ聖火を見た。
その目に迷いはなかった。
「服部、沢木、鷹山」
服部が姿勢を正す。
近くにいた沢木も、即座に反応した。
「はい」
「避難経路の安全確保に回れ」
「了解しました」
十文字は続けた。
「避難誘導は中条の指示に従え。会場設備と地下導線を最も把握しているのは中条だ。お前たちは、その経路を守れ」
通信越しに、中条の息を呑む気配があった。
「私の、指示ですか」
「そうだ」
十文字の返答は短い。
だが、揺るがなかった。
聖火が静かに続ける。
「中条先輩。確認表、持っていますよね」
「……はい」
「なら大丈夫です。あれは今日のための地図です」
沈黙が一つ。
それから、中条の声が戻った。
「分かりました。地下避難経路を使用します。第一高校関係者を優先して、発表会場前方から順に誘導します。服部くん、沢木くん、鷹山くんは前方経路の安全確認をお願いします」
「了解した」
服部が答える。
沢木も短く応じた。
聖火は、十文字を見た。
十文字もまた、聖火を見ていた。
「鷹山」
「はい」
「武器使用を許可する」
その一言で、聖火の表情から軽さが消えた。
それまでの警備本部の一年生ではない。
中条をからかい、服部に叱られ、十文字に管理されていた少年の顔ではない。
「確認します。制限は」
「避難民を守れ」
十文字の声は低かった。
「遠慮はいらん。避難経路を脅かす敵は、すべて殲滅しろ」
聖火は一瞬だけ目を伏せた。
次に顔を上げた時、その目はもう変わっていた。
静かで、冷たい。
だが、その奥にあるものは怒りではない。
守るための覚悟だった。
「はい」
短い返事だった。
服部は、その声を聞いて初めて理解した。
十文字が、なぜ鷹山聖火を手元に置いていたのかを。
中条は通信越しに、その変化を感じ取っていた。
先ほどまで自分を支えてくれていた後輩が、今度は自分の避難経路を守るために前へ出ようとしている。
「鷹山くん」
中条の声が聞こえた。
聖火はアタッシュケースの留め具に手をかけながら、短く答える。
「はい」
「お願いします」
その一言に、聖火はほんの少しだけ表情を緩めた。
「任されました」
次の瞬間、留め具が外れる音が、警備本部に小さく響いた。
使われないために確認したもの。
使われないことを願っていた経路。
そして、使わないために持ち込んだ武器。
そのすべてが、今、使われるために動き始めていた。
服部、沢木、聖火は、数名の警備隊員を引き連れて警備本部を出た。
向かう先は、地下避難経路。
発表会場から控室側通路を抜け、非常階段を経由して地下へ降りる。
その先に、シェルターへ続く通路がある。
下見の時に、中条あずさと確認した経路だった。
使われないことを願っていた場所。
だが今は、使わなければならない場所だった。
「鷹山」
前方警戒を担当していた沢木碧が、ちらりと聖火を見る。
「お前、よく十文字先輩にあんなことを進言できたな」
「あんなこと、ですか?」
「地下通路で遭遇戦になる。自分を先行させろ。普通、一年があの場で言うことじゃない」
沢木の声には、呆れと感心が半分ずつ混じっていた。
聖火はアタッシュケースを片手に持ち直す。
「思いついたことを言っただけです」
「それが普通じゃないと言っている」
服部が低く言った。
聖火は少しだけ肩をすくめる。
「でも、間違ってはいなかったでしょう」
服部はすぐには答えなかった。
それが、答えでもあった。
聖火の言い方は危うい。
判断も早すぎる。
何より、地下通路で敵とぶつかる可能性を当然のように口にした時点で、普通の高校生ではない。
だが、進言の内容そのものは合理的だった。
正面入口と搬入口が乱れた以上、地上階に避難者を流すのは危険。
地下通路は狭く、混乱すれば詰まる。
しかし、狭いからこそ、敵が前方から来るなら迎撃しやすい。
敵が多数でも、同時に前へ出られる人数は限られる。
それは戦術としては正しい。
正しいからこそ、服部は何も言えなかった。
「……納得できるのが腹立たしいな」
服部が呟く。
「俺、何か怒られることしましたか?」
「堂々と危険な提案をした」
「許可は取りました」
「そこが余計に厄介だ」
沢木が小さく笑った。
「服部、お前がそんな顔をするのは珍しいな」
「笑い事ではない」
服部は前方を見たまま答える。
「鷹山は、判断が早い。その早さは有用だが、同時に危険だ」
「本人の前で分析しますか」
聖火が言う。
「必要な確認だ」
「今日は俺、ずっと危険物扱いですね」
「実際、手に危険物を持っているだろう」
「見た目は機材ケースです」
「中身の話だ」
聖火は、片手に提げたアタッシュケースへ一瞬だけ視線を落とした。
沢木はそのやり取りを聞きながら、聖火の持つアタッシュケースを見る。
「中身は何なんだ?」
「開けてからのお楽しみです」
「それは味方に言う台詞じゃない」
服部が即座に指摘した。
「では、必要な時に説明します」
「今説明しろ」
「今は時間が惜しいです」
それは軽口のようでいて、間違ってはいなかった。
だから服部は、また黙るしかなかった。
聖火は歩きながら、通路の壁、非常灯、分岐、扉の向きを確認していた。
下見の時にも見た場所だ。
だが、今は違う。
人が動いている。
音が響いている。
遠くで避難誘導の声が聞こえる。
地上の混乱が、建物全体へ薄く伝わっている。
「服部先輩」
「何だ」
「後続は、まだ発表会場前ですね」
「中条からの報告ではそうだ」
「なら、この先の曲がり角を越えたところで一度止めた方がいいです」
「理由は」
「ここから先は通路幅が少し狭くなります。前方で何かあった時、後続が流れ込むと退避できません」
服部は端末で会場図を確認する。
聖火の言う通りだった。
地下へ向かう手前の通路は、途中でわずかに幅が狭くなる。
通常時には気にならない差だが、避難者が集中すれば大きな違いになる。
「中条へ伝える」
服部はすぐに通信を入れた。
「中条。地下経路手前の第二曲がり角で、後続を一時停止させてくれ。前方確認後に再開する」
『分かりました、服部くん。第二曲がり角で一時停止。後続へ伝えます』
中条の声は、まだ少し硬い。
だが、確かだった。
聖火は短く息を吐く。
「中条先輩、ちゃんと動けていますね」
「お前が言った通りだな」
服部が言う。
「確認表は、今日のための地図だったか」
「はい」
「なら、お前もその地図から外れるな」
「努力します」
「努力ではなく、命令だ」
「了解しました」
沢木が横から言った。
「お前たち、ずっとそんな調子なのか」
「最近はだいたいこうです」
聖火が答える。
「慣れたくはないがな」
服部はそう言って、前方へ視線を戻した。
地下へ向かう通路は、空気が変わり始めていた。
人の熱が少ない。
その代わり、冷えた空気が奥から流れてくる。
非常灯の明かりが、白い壁を薄く照らしている。
聖火は足を止めた。
それに合わせて、服部と沢木も止まる。
後ろの警備隊員たちも、すぐに動きを止めた。
「どうした」
服部が低く尋ねる。
聖火は答えず、前方の通路を見た。
曲がり角の向こう。
見えない先。
そこから、ほんのわずかに音がした。
足音。
一人ではない。
規則正しすぎる。
避難者の足音ではない。
警備隊の動きでもない。
聖火はアタッシュケースを床に置いた。
留め具に指をかける。
「服部先輩」
「何だ」
「中条先輩に、後続停止を継続するよう伝えてください」
服部の目が鋭くなる。
「敵か」
「まだ見えていません」
聖火は静かに答えた。
「でも、味方の歩き方ではありません」
沢木が一歩前に出る。
「数は」
「三……いえ、四。少なくとも四人」
「そこまで分かるのか」
「音と間隔です」
聖火は留め具を外した。
小さな金属音が、地下通路に響く。
「あと、嫌な呼吸をしています」
「呼吸?」
「避難者や警備員のものじゃありません。抑えすぎている。襲う前の呼吸です」
服部は一瞬だけ聖火を見る。
今の言葉は、普通の警備判断ではなかった。
だが、問いただす時間はない。
服部は通信を入れる。
「中条。後続停止を継続。前方確認中だ。避難者を第二曲がり角より先へ進ませないでくれ」
『了解しました、服部くん。後続停止を継続します』
その声の向こうで、避難者を抑える中条の指示が聞こえた。
聖火はアタッシュケースを開く。
蓋の角度で、中身は周囲からは見えない。
ただ、聖火の空気が変わったことだけは分かった。
軽口を叩いていた一年生の気配が、すっと消えていく。
代わりに現れたのは、戦場で敵を待つ者の目だった。
曲がり角の向こうで、足音が止まった。
一拍。
静寂。
そして、壁の向こうから、金属が擦れるような音がした。
聖火は静かに言った。
「来ます」
次の瞬間、地下通路の向こう側から、敵影が現れた。
今回は中条と服部の回になりそうです。
聖火の能力と危うさを知ってもらいましょう。