地上での戦闘が終わった後、シェルターの扉はようやく開かれた。
実際には、扉そのものが開いたわけではない。
崩落した通路を外側から確認し、危険な瓦礫を取り除き、別経路から救助隊が到達したのだ。
地下シェルターにいた避難者たちは、順番に外へ誘導された。
最初に負傷者。
次に体調不良者。
その後、一般の避難者。
中条あずさは、最後まで確認表を手放さなかった。
服部刑部少丞範蔵は警備隊員と共に避難者の誘導を確認し、沢木碧は出入口付近に立って、周囲の安全を見ていた。
安宿先生は、救助隊へ負傷者の状態を引き継いでいる。
聖火はその隣で、簡易処置をした生徒の名前と状態を伝えていた。
「右足首の捻挫。固定済みです。歩かせない方がいいと思います」
「こちらは左腕の切創。出血は止まっていますが、念のため再確認をお願いします」
「この方は過呼吸気味でした。今は落ち着いていますが、外に出た後に再発するかもしれません」
安宿先生が、ちらりと聖火を見た。
「鷹山君」
「はい」
「本当に手際がいいわね」
「安宿先生にそう言っていただけると、自信になります」
「だから、普通の一年生はそこまで引き継ぎが上手くないの」
聖火は視線を逸らした。
「少し、広めに教わりまして」
「その言い方、まだ使うのね」
安宿先生は呆れたように、それでも少し笑った。
やがて、避難者たちは全員、地上側へ移された。
誰も無傷ではなかった。
怪我をした者もいる。
恐怖で泣き出した者もいる。
しばらく立てなかった者もいる。
だが、地下シェルターに避難した者たちは、生きて外へ出た。
それだけは、確かな結果だった。
救助後、聖火たちはそれぞれ事情聴取や確認を受けることになった。
誰がどこで何を見たのか。
敵と接触したのはどの地点か。
避難誘導はどの経路を使ったのか。
地下通路の崩落はいつ発生したのか。
負傷者は何名か。
聞かれることは多かった。
だが、聖火が自分の呪符について詳しく話すことはなかった。
服部も、その場では深く踏み込まなかった。
沢木も、何か言いたげではあったが、今は問い詰める場面ではないと分かっていた。
中条も同じだった。
ただ、三人とも理解していた。
あの地下通路で、鷹山聖火が何をしたのか。
そして、十文字克人が彼に武器使用を許可した意味を。
横浜騒乱は、そこで終わったわけではない。
地上では、さらに大きな戦いがあった。
海では、もっと大きなものが燃えていた。
だが、シェルターにいた聖火たちにできることは、そこまでだった。
自分たちの避難者を守ること。
閉じ込められた人々を落ち着かせること。
怪我人を処置し、救助まで持ちこたえること。
それが、地下にいた者たちの戦いだった。
事件の翌日から、テレビは横浜の映像で埋め尽くされた。
煙を上げる街。
封鎖された道路。
救助活動を行う隊員たち。
専門家の解説。
政府関係者の発表。
海外の反応。
そして、横浜沖で起きた大規模爆発。
それは、何度も繰り返し報道された。
画面の中で、同じ言葉が何度も使われる。
灼熱のハロウィン。
横浜を襲った戦火と、その後に起きた巨大な破壊。
誰が、何をしたのか。
どこまでが公表され、どこからが伏せられているのか。
テレビの中の人間たちは、断定と推測を交互に並べていた。
聖火は鷹山家の居間で、その報道を見ていた。
画面の音は、少し小さめにされている。
美沙がそうしたのだ。
治憲は黙ってニュースを見ていた。
美沙は台所で温かい飲み物を用意している。
聖火は、画面に映る横浜の映像を見ながら、何も言わなかった。
言えることがなかった。
知っていることはある。
分かってしまうこともある。
けれど、それを口にしていいわけではない。
灼熱のハロウィン。
その言葉の奥に、誰がいるのか。
聖火は、完全には知らない。
だが、何も知らないわけでもなかった。
「聖火」
美沙の声がした。
「見すぎない方がいいわ」
「うん」
聖火は素直に頷いた。
けれど、視線はすぐには画面から離れなかった。
その後、第一高校は臨時休校となった。
学校からの連絡では、再開予定は十一月四日。
それまでは安全確認と生徒の心身の状態確認を優先する、という内容だった。
十月三十一日に起きた横浜騒乱の影響は、それほど大きかった。
当然だった。
あれほどの事件の翌日に、何事もなかったように授業を行えるはずがない。
第一高校の生徒たちは、それぞれの家で待機することになった。
達也がしばらく戻れない。
その情報を聞いた時、聖火が最初に向かったのは司波家ではなかった。
鷹山家だった。
夕方。
居間では、テレビが横浜で起きた大規模災害の報道を繰り返していた。
灼熱のハロウィン。
その言葉は、画面の中で何度も使われている。
聖火はテレビの音を背に、治憲と美沙へ事情を伝えた。
「達也くん、しばらく戻れないみたい」
その一言に、美沙の表情が変わった。
「しばらく、というのは?」
「数日になるかもしれない」
治憲も眉を寄せる。
「深雪さんは?」
「たぶん、司波家に一人でいる」
その瞬間、美沙は立ち上がった。
「迎えに行きます」
即答だった。
聖火は一瞬だけ目を瞬かせる。
「母さん?」
「一人でいさせるわけにはいかないわ」
治憲も静かに頷いた。
「そうだな。達也君が戻れないなら、なおさらだ」
「いや、深雪ちゃんはたぶん大丈夫って言うと思うよ」
「言うでしょうね」
美沙は当然のように言った。
「でも、大丈夫と言ったから大丈夫とは限らないでしょう」
聖火は返す言葉を失った。
それはその通りだった。
美沙は上着を手に取る。
「聖火、行くわよ」
「はい」
「あなたが知らせてくれたのだから、あなたも来なさい」
「行くつもりだったけど、母さんの動きが早い」
「早く動くべき時だからよ」
治憲も立ち上がった。
「私も行こう」
こうして、鷹山家の三人は司波家へ向かった。
司波家の玄関を開けた深雪は、三人の姿を見て目を瞬かせた。
「小父様、小母様、聖火くんまで……」
美沙は深雪の顔を見るなり、少しだけ表情を和らげた。
だが、言葉は迷わなかった。
「深雪さん、うちに来ましょう」
深雪は一瞬だけ動きを止めた。
それから、丁寧に首を横へ振る。
「お気遣いありがとうございます。ですが、私は大丈夫です」
「大丈夫ではありません」
美沙は即答した。
深雪が少し驚いたように目を瞬かせる。
「小母様……」
「達也さんが戻られるまで、一人で待つつもりでしょう?」
「はい。お兄様が戻られた時、私がここにいなければ」
「達也さんが戻ってきた時、あなたが一人で不安を抱えていたと知ったら、そちらの方が心配なさるわ」
深雪は言葉に詰まった。
治憲が穏やかに続ける。
「深雪さん。司波家を守りたい気持ちは分かる。だが、君自身も守られるべきだ」
「ですが……」
「達也君が戻ってきたら、私たちから説明する」
治憲の声は静かだった。
「君を一人にしなかった、と」
深雪は俯いた。
その指先が、わずかに震えている。
聖火はそれを見て、小さく息を吐いた。
「深雪ちゃん」
「……はい」
「これはもう、うちの両親が決めたから、俺にも止められない」
「聖火くん?」
「特に母さんは、この顔になると強いよ」
「聖火」
美沙の声が飛ぶ。
「はい」
「余計なことを言わない」
「でも事実では?」
「事実でも言い方というものがあります」
「はい」
即答だった。
深雪が、ほんの少しだけ笑った。
それを見て、美沙は静かに深雪の手を取る。
「深雪さん。数日分の着替えだけ持っていらっしゃい」
「ですが、まだ行くとは……」
「行くのよ」
「小母様」
「足りないものはうちにあるわ。必要なら取りに来ればいいの」
深雪は困ったように美沙を見る。
だが、美沙は引かない。
治憲も、聖火も、引く気配がない。
深雪はしばらく沈黙した。
やがて、小さく息を吐く。
「……分かりました」
声は小さかった。
けれど、確かだった。
「お世話になります」
美沙は柔らかく微笑んだ。
「ええ。いらっしゃい」
聖火は横で小さく呟いた。
「ごり押しが勝った」
「聖火」
「はい」
「荷物を持ってあげなさい」
「了解」
深雪は少しだけ頬を赤くしながら、数日分の荷物をまとめに奥へ向かった。
司波家を出る前、深雪は一度だけ家の中を振り返った。
達也の帰る場所。
自分が守りたかった場所。
だが、今は一人で待つ必要はない。
そう受け入れたのだろう。
深雪は静かに玄関の鍵を閉めた。
その音は、とても小さかった。
けれど、聖火には大きく聞こえた。
その日から数日間、深雪は鷹山家で過ごすことになった。
居候というには、あまりにも自然だった。
深雪は美沙の手伝いをし、食器を並べ、洗濯物を畳み、時々台所に立った。
鷹山家の勝手は、すでに分かっている。
彼女は客ではなかった。
少なくとも、美沙はそう扱わなかった。
治憲も、深雪を特別扱いしすぎなかった。
食事の時には普通に声をかけ、ニュースの音量を少し下げ、必要以上に事件の話をしなかった。
聖火も同じだった。
軽口を言いかけて、何度か飲み込んだ。
深雪は、何度も端末を確認していた。
達也からの連絡を待っているのは、誰の目にも明らかだった。
だが、美沙はそれを咎めなかった。
治憲も何も言わなかった。
聖火も、茶化さなかった。
鷹山家は、深雪を慰めようとしすぎなかった。
ただ、一人にしなかった。
温かい食事を出す。
飲み物を置く。
テレビの音量を少し下げる。
眠れない夜には、居間の明かりを残す。
それだけだった。
だが、それだけで十分な時もある。
深雪は時折、申し訳なさそうに言った。
「ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
そのたびに、美沙は同じように返した。
「迷惑ではないわ」
治憲も笑って言った。
「深雪さんがいてくれると、家の中が丁寧になる」
「丁寧、ですか?」
「聖火だけだと、どうしても雑になるからね」
「父さん、今俺の評価が下がった気がする」
「日頃の行いよ」
美沙がすぐに言う。
「母さんまで」
深雪は、そのやり取りを聞いて小さく笑った。
その笑顔を見るたび、聖火は少しだけ安心した。
深雪は大丈夫ではない。
けれど、崩れてはいない。
それだけで、今は十分だった。
そして、その夜。
玄関のインターホンが鳴った。
深雪の肩が、小さく跳ねる。
聖火は立ち上がった。
「俺が出るよ」
玄関へ向かい、扉を開ける。
そこに立っていたのは、司波達也だった。
「達也くん」
達也はいつもと同じ無表情に見えた。
だが、聖火には分かった。
疲れている。
身体だけではない。
目の奥に、数日分の重さが沈んでいる。
それでも、立っていた。
戻ってきた。
「迎えに来た」
短い言葉だった。
聖火は一拍だけ達也を見る。
聞きたいことは、いくらでもあった。
どこにいたのか。
何をしていたのか。
何を見たのか。
だが、聞かなかった。
「うん」
聖火は少しだけ笑った。
「深雪ちゃん、待ってたよ」
居間から、深雪が駆けるように出てきた。
「お兄様」
声は震えていた。
けれど、崩れてはいなかった。
達也は深雪を見る。
その目だけが、ほんの少し柔らかくなる。
「ただいま、深雪」
「お帰りなさいませ、お兄様」
深雪はそれ以上、何も言わなかった。
言葉にすれば、きっといろいろなものが溢れてしまう。
だから、ただ兄の前に立っていた。
達也もまた、それを受け止めていた。
治憲と美沙も玄関へ出てきた。
二人とも、達也の様子を見て、何かを察した顔をした。
だが、何も聞かなかった。
治憲は静かに言う。
「戻ってきてくれて、よかった」
「ご心配をおかけしました」
達也は丁寧に頭を下げた。
美沙は少しだけ目を細める。
「達也さん、お腹は空いている?」
達也は一瞬だけ間を置いた。
「……少し」
「なら、食べていきなさい」
「ですが」
「深雪さんを迎えに来たのでしょう。でも、迎えに来た人が倒れそうな顔をしていたら、深雪さんが心配するわ」
達也は黙った。
聖火が小さく言う。
「母さん、この顔になると強いよ」
「知っている」
達也の返答に、聖火は思わず笑った。
「達也くんも分かってきたね」
深雪は、少しだけ表情を緩めた。
美沙はそれを見て、満足そうに頷く。
「では、温め直します。深雪さん、手伝ってくださる?」
「はい、小母様」
深雪はすぐに返事をした。
その声は、数日前より明らかに軽かった。
達也は、その後ろ姿を静かに見ていた。
治憲が横に立つ。
「達也君」
「はい」
「話したくなったら、いつでも聞く」
それだけだった。
何があったのかとは聞かない。
どこにいたのかとも聞かない。
何を背負って戻ってきたのかも、今は問わない。
ただ、話す場所はあると伝える。
達也は数秒だけ沈黙した。
そして、静かに頭を下げる。
「ありがとうございます」
聖火は、そのやり取りを少し離れて見ていた。
鷹山夫妻は、たぶん分かっている。
達也がただ用事で遅れたわけではないこと。
深雪がただ兄を待っていたわけではないこと。
横浜で起きたことの裏に、表の報道では語られない何かがあること。
それでも、聞かない。
話してくれるなら聞く。
話せないなら、食事を出す。
それが鷹山家の距離感だった。
達也はその夜、鷹山家で温かい食事を取った。
多くは語らなかった。
深雪も無理に聞かなかった。
ただ、食卓に兄がいる。
それだけで、深雪の呼吸はようやく落ち着いたように見えた。
食事を終えた後、達也は改めて頭を下げた。
「深雪を預かっていただき、ありがとうございました」
治憲は穏やかに首を横に振る。
「礼を言われることではないよ」
美沙も微笑んだ。
「深雪さんは、うちの子同然ですから」
深雪の頬が、わずかに赤くなる。
聖火は小さく手を上げた。
「あの、実子の立場がどんどん危うくなっている気がするんですが」
「日頃の行いだ」
達也が静かに言った。
「達也くん、帰ってきて最初に刺すのそこ?」
「事実だ」
「そういうところだよ」
深雪が、久しぶりに小さく笑った。
その笑いを聞いて、聖火は少しだけ安心した。
やがて、達也と深雪は司波家へ戻ることになった。
玄関先で、深雪は深く頭を下げる。
「小父様、小母様、聖火くん。本当にありがとうございました」
「またいつでも来なさい」
美沙が言った。
「司波家も、鷹山家も、帰る場所でいいのよ」
深雪は一瞬だけ目を伏せ、それから静かに頷いた。
「はい」
達也もまた、短く頭を下げた。
「失礼します」
「うん。気をつけて」
聖火は軽く手を振る。
「達也くん」
「何だ」
「深雪ちゃんに、あまり心配かけすぎないように」
達也は一拍置いた。
「努力する」
「達也くんの努力する、はあまり信用できないな」
「必要なら改善する」
「余計に仕事みたいになった」
深雪がまた少し笑った。
その笑顔を残して、二人は司波家へ戻っていった。
鷹山家の玄関が静かになる。
治憲も美沙も、しばらく何も言わなかった。
聖火も同じだった。
やがて、美沙が小さく息を吐く。
「帰ってきてくれて、よかったわね」
「うん」
聖火は短く答えた。
それ以上は、誰も言わなかった。
十一月四日。
第一高校は授業を再開した。
校門をくぐる生徒たちの表情は、以前とは少し違っていた。
横浜で起きたことを、誰も完全には飲み込めていない。
友人の無事を確認して安堵する者。
報道の内容を小声で話す者。
何も言わずに教室へ向かう者。
学校は戻った。
だが、何もかもが元通りになったわけではない。
それでも、校舎には生徒たちの足音が戻った。
教室には声が戻った。
廊下には、少しぎこちない日常が戻り始めた。
聖火は校門の前で一度立ち止まり、校舎を見上げた。
十月三十一日に止まった日常は、完全には戻らない。
だが、人はそれでも戻る。
戻る場所がある限り。
隣では、深雪が達也と並んで歩いていた。
その表情はまだ少し硬い。
けれど、達也が隣にいる。
それだけで、彼女の歩幅は以前より安定していた。
「聖火くん」
深雪が振り返る。
「はい」
「また、後ほど」
「うん。また後で」
達也も短く視線を向ける。
「行くぞ、深雪」
「はい、お兄様」
二人が校舎へ向かって歩いていく。
聖火はその背中を見送り、少しだけ息を吐いた。
横浜騒乱は終わった。
灼熱のハロウィンという名は、これからもニュースや記録の中で語られるのだろう。
だが、聖火にとって残ったものは、炎の映像だけではなかった。
地下通路で聞いた銃声。
呪符が燃える匂い。
シェルターで震えていた避難者の手。
外を探っていた幹比古くんの精霊。
怪我人の包帯。
中条先輩の震えながらも通る声。
服部先輩の指示。
沢木先輩の背中。
安宿先生の笑み。
そして、鷹山家で達也を待っていた深雪の横顔。
どれも、事件の一部だった。
聖火は校舎へ向かって歩き出す。
終わったことは、終わったことにする。
だが、忘れる必要はない。
覚えたまま、次へ進めばいい。
十一月四日。
第一高校の日常は、再び動き始めた。
鷹山家は無敵です。
次回からは少しおまけ回を挟んで、本編に行きたいと思っております。
少し重要な、というよりは検討している話を出すかもしれません。