魔法科高校の劣等生 四葉の火の鳥   作:ペンギン豚

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今回は少し変わったお話をいたします。


横須賀の午後のティータイム

 

 

 

 

横浜騒乱が終わった後も、海の上には緊張が残っていた。

 

 

 

大亜連合との交渉。

 

洋上での待機。

 

軍艦の甲板を吹き抜ける潮風。

 

艦内に満ちる、言葉にならない警戒。

 

 

 

五輪澪は、車椅子に座ったまま、艦内の一室で静かに窓の外を見ていた。

 

 

 

本来なら、彼女がこの場にいること自体が異例だった。

 

 

 

五輪家の令嬢。

 

十師族の一角に連なる者。

 

そして、戦略級魔法師。

 

 

 

軍が彼女に求めるものは、決して軽くない。

 

 

 

だが、それ以上に、澪の身体は強くなかった。

 

 

 

少なくとも、軍艦に乗り、洋上で緊張を保ち続けていい身体ではない。

 

 

 

それを誰よりも理解しているのは、澪自身だった。

 

 

 

それでも、澪はここにいた。

 

 

 

必要だと判断されたから。

 

 

 

そして、五輪家として応じるべき要請だったから。

 

 

 

やがて、交渉後の待機が終わり、艦は帰港の準備に入った。

 

 

 

艦長と司令官が、澪へ帰還先の確認を行う。

 

 

 

「五輪様。四国方面への移送準備も進められますが、いかがいたしましょうか」

 

 

 

澪は少しだけ顔を上げた。

 

 

 

「横須賀へお願いします」

 

 

 

その返答に、艦長と司令官は一瞬だけ視線を交わした。

 

 

 

「横須賀、でございますか」

 

 

 

「はい」

 

 

 

澪は静かに頷く。

 

 

 

「横須賀に、寄りたい場所があります」

 

 

 

軍人たちは疑問を抱いた。

 

 

 

本来なら、五輪澪は五輪家の本拠へ戻るべき立場だ。

 

 

 

四国へ戻るのが自然だった。

 

 

 

だが、艦の母港は横須賀である。

 

 

 

横須賀へ戻ること自体に、不自然な手続きはない。

 

 

 

むしろ、警備と輸送を考えれば、その方が早い。

 

 

 

「承知しました。横須賀へ戻ります」

 

 

 

「ありがとうございます」

 

 

 

澪は小さく頭を下げた。

 

 

 

その顔色は悪くない。

 

 

 

だが、疲労は確実に滲んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

横須賀へ帰港した時、港には五輪勇海が待っていた。

 

 

 

五輪家当主。

 

 

 

そして、澪の父。

 

 

 

軍関係者への挨拶を終えた後、勇海は車椅子の澪の前に立った。

 

 

 

「無理をしたな、澪」

 

 

 

第一声は、責めるものではなかった。

 

 

 

だが、心配を隠してもいなかった。

 

 

 

澪は静かに目を伏せる。

 

 

 

「必要なことでした」

 

 

 

「それは分かっている」

 

 

 

勇海は短く答えた。

 

 

 

「だからこそ、余計に厄介だ」

 

 

 

澪は困ったように微笑んだ。

 

 

 

父が怒っているわけではないことは分かっている。

 

 

 

だが、心配されていることも分かっていた。

 

 

 

「体調は」

 

 

 

「大きな異常はありません」

 

 

 

「大きな、か」

 

 

 

勇海の視線が細くなる。

 

 

 

「小さな異常はあるということだな」

 

 

 

澪は答えなかった。

 

 

 

答えないことが、答えになっていた。

 

 

 

勇海は小さく息を吐く。

 

 

 

「ホテルへ戻る。まず休みなさい」

 

 

 

「はい、父様」

 

 

 

五輪家の車に乗り、澪は宿泊先のホテルへ向かった。

 

 

 

横須賀の街は、まだ落ち着きを取り戻しきっていなかった。

 

 

 

横浜騒乱の余波は大きい。

 

 

 

道路には警備の姿があり、人々の声にも不安が混じっている。

 

 

 

テレビや端末のニュースでは、同じ言葉が繰り返されていた。

 

 

 

灼熱のハロウィン。

 

 

 

横浜で起きた戦火の名。

 

 

 

その言葉を聞くたび、澪の指先がわずかに動いた。

 

 

 

本当なら、彼女は横浜へ来る予定だった。

 

 

 

聖火に会うために。

 

 

 

だが、横浜騒乱によって予定は大きく狂った。

 

 

 

それでも、澪は横須賀へ来ることを選んだ。

 

 

 

聖火に、会うために。

 

 

 

 

 

 

 

ホテルに到着すると、五輪家の警備が先に動いた。

 

 

 

一般客と接触しない動線が確保され、澪は専用のエレベーターで上階へ案内される。

 

 

 

用意されていたのは、最上階のスイートルームだった。

 

 

 

広い応接スペース。

 

横須賀の港を望む大きな窓。

 

寝室と控え室。

 

警備と使用人が待機できる部屋。

 

 

 

五輪澪を泊めるには、それくらいの準備が必要だった。

 

 

 

車椅子のまま部屋に入ると、澪は少しだけ肩の力を抜いた。

 

 

 

外では、車椅子の令嬢。

 

 

 

身体の弱い、五輪家の姫。

 

 

 

それが、周囲が知っている五輪澪だった。

 

 

 

だが、実際には少し違う。

 

 

 

澪はもう、家の中程度であれば、車椅子なしでも動ける。

 

 

 

短い距離なら、自分の足で歩ける。

 

 

 

それを知っている者は、五輪家の中でもごくわずか。

 

 

 

使用人でさえ、一部の者しか知らない。

 

 

 

対外的には、澪は今も車椅子を必要とする令嬢であり続けていた。

 

 

 

その方が安全だった。

 

 

 

その方が、周囲も扱いやすかった。

 

 

 

そして何より、澪の身体にはまだ無理が利かない。

 

 

 

歩けることと、消耗しないことは違う。

 

 

 

回復していることと、洋上に出ていいことも違う。

 

 

 

勇海は澪を休ませた。

 

 

 

着替え、温かい飲み物を取り、しばらく横になるよう命じる。

 

 

 

澪は素直に従った。

 

 

 

それから、数時間が過ぎた。

 

 

 

 

 

 

 

夕方。

 

 

 

ホテルの正面玄関に、一人の少年が姿を見せた。

 

 

 

鷹山聖火だった。

 

 

 

制服ではない。

 

 

 

落ち着いた色の上着に、目立たない鞄。

 

 

 

横浜騒乱の直後という状況を考えれば、外を歩くには少し整いすぎている格好だった。

 

 

 

聖火はロビーへ入ると、真っ直ぐフロントへ向かった。

 

 

 

「失礼いたします」

 

 

 

フロントスタッフが顔を上げる。

 

 

 

「いらっしゃいませ」

 

 

 

「五輪様に呼ばれて参りました。鷹山と申します。お取り次ぎ願えますでしょうか」

 

 

 

その名前に、スタッフの表情がわずかに引き締まった。

 

 

 

五輪家の客人。

 

 

 

しかも、事前に名前を聞かされていた相手だった。

 

 

 

「確認いたします。少々お待ちくださいませ」

 

 

 

「お願いいたします」

 

 

 

聖火は一歩下がり、静かに待った。

 

 

 

急かさない。

 

 

 

周囲を見回しすぎない。

 

 

 

だが、何も見ていないわけではない。

 

 

 

ロビーの出入口。

 

警備員の位置。

 

非常口。

 

人の流れ。

 

フロントスタッフの動き。

 

 

 

それらを一通り確認しながら、聖火はただの来客のように立っていた。

 

 

 

やがて、奥から五輪家の関係者と思われる男性が現れた。

 

 

 

「鷹山聖火様ですね」

 

 

 

「はい」

 

 

 

「確認が取れました。ご案内いたします」

 

 

 

「ありがとうございます」

 

 

 

聖火は丁寧に頭を下げ、その後に続いた。

 

 

 

専用のエレベーターで上階へ向かう。

 

 

 

一般客の気配は遠ざかり、廊下の空気が変わった。

 

 

 

静かで、整っていて、警戒が薄く張られている。

 

 

 

五輪家の者が扉の前で一度足を止めた。

 

 

 

「こちらです」

 

 

 

軽くノックがされる。

 

 

 

中から返事があり、扉が開いた。

 

 

 

広い応接スペース。

 

 

 

横須賀の港を望む大きな窓。

 

 

 

テーブルには、紅茶と軽食が用意されていた。

 

 

 

スコーン。

 

ジャム。

 

クロテッドクリーム。

 

小さなサンドイッチ。

 

季節の菓子。

 

 

 

ラウンジではなく、スイートルームへ運ばれたアフタヌーンティーの一式だった。

 

 

 

そして、奥には車椅子に座った五輪澪と、その側に立つ五輪勇海の姿があった。

 

 

 

「失礼いたします」

 

 

 

聖火は一礼して中へ入る。

 

 

 

澪が、静かに微笑んだ。

 

 

 

「聖火さん」

 

 

 

「澪さん。勇海さん。ご無事で何よりです」

 

 

 

勇海は聖火を見た。

 

 

 

感謝と警戒。

 

 

 

その両方を隠しきらない目だった。

 

 

 

「来てくれて助かる、鷹山君」

 

 

 

「呼ばれましたので」

 

 

 

聖火はそう答え、澪へ視線を向けた。

 

 

 

その目つきが、ほんの少し変わる。

 

 

 

来客の顔から、診る者の顔へ。

 

 

 

「澪さん」

 

 

 

「はい」

 

 

 

「洋上に出る身体ではないでしょう」

 

 

 

第一声は、挨拶ではなかった。

 

 

 

注意だった。

 

 

 

澪は車椅子に座ったまま、少しだけ困ったように微笑む。

 

 

 

「ご心配をおかけしました」

 

 

 

「心配もしますよ」

 

 

 

聖火は迷わず言った。

 

 

 

「家の中を車椅子なしで動けるようになったからといって、軍艦に乗って洋上待機していいとは言っていません」

 

 

 

勇海の目がわずかに細くなった。

 

 

 

この話は、外でするには重すぎる。

 

 

 

だからこそ、この部屋なのだ。

 

 

 

澪が車椅子を必要としない程度まで回復していることを知る者は、五輪家の中でもごく少数。

 

 

 

使用人でさえ、一部の者しか知らない。

 

 

 

五輪家の警備担当者も、その全員が把握しているわけではない。

 

 

 

勇海は、扉の近くに控えていた者へ視線を向ける。

 

 

 

それだけで、控えていた者たちは静かに退室した。

 

 

 

部屋に残ったのは、勇海と澪、そして聖火だけになる。

 

 

 

勇海が口を開いた。

 

 

 

「鷹山君」

 

 

 

「はい」

 

 

 

「その話をできる者は限られている」

 

 

 

「承知しています」

 

 

 

聖火は素直に頷いた。

 

 

 

「だから、ここまで案内していただくまで口にしませんでした」

 

 

 

「ならば、ここでも少しは言葉を選べ」

 

 

 

「選んだ結果です」

 

 

 

「これでか」

 

 

 

「はい。叱る時は、分かりやすく言わないと伝わりません」

 

 

 

勇海は一瞬だけ黙った。

 

 

 

それから、わずかに口元を緩める。

 

 

 

「相変わらずだな、君は」

 

 

 

「澪さんの治療経過を見ている立場ですから」

 

 

 

聖火は澪の前に膝をついた。

 

 

 

「手を」

 

 

 

澪は素直に右手を差し出す。

 

 

 

聖火はその手を、両手で包むように取った。

 

 

 

ただ脈を診るだけではない。

 

 

 

皮膚の温度。

 

指先の力。

 

呼吸の深さ。

 

血の巡り。

 

魔法演算領域に残る疲労。

 

身体の奥に沈んだ発作の気配。

 

 

 

それらを、一つずつ拾っていく。

 

 

 

「澪さん」

 

 

 

「はい」

 

 

 

「目を逸らさないでください」

 

 

 

「分かりました」

 

 

 

澪は静かに聖火を見る。

 

 

 

聖火もまた、澪の瞳を見返した。

 

 

 

見つめ合っている、というより、焦点を合わせている。

 

 

 

澪の身体の奥にある乱れを、聖火が自分の感覚へ引き寄せる。

 

 

 

そのための視線だった。

 

 

 

やがて、二人の周囲に薄い光の粒子が浮かび始めた。

 

 

 

最初は、窓から差し込む夕光が揺れているように見えた。

 

 

 

だが、違う。

 

 

 

光は空中でほどけ、また集まり、澪と聖火を包むようにゆっくりと漂っていく。

 

 

 

澪の肩から、少しずつ力が抜けた。

 

 

 

表情が柔らかくなる。

 

 

 

呼吸が深くなり、指先の強張りがほどけていく。

 

 

 

それは、痛みを伴う治療ではなかった。

 

 

 

むしろ、長く張り詰めていた糸を、一本ずつ緩めていくような時間だった。

 

 

 

「……あたたかいです」

 

 

 

澪が小さく呟く。

 

 

 

「抵抗しないでください。そのまま呼吸を」

 

 

 

「はい」

 

 

 

澪は目を細め、静かに息を吐いた。

 

 

 

一方で、勇海はその光景を黙って見ていた。

 

 

 

美しい、と思った。

 

 

 

神秘的だ、とも思った。

 

 

 

だが、それと同じくらい、恐ろしかった。

 

 

 

澪の身体は、五輪家が長く守り続けてきたものだ。

 

 

 

医師が診て、術者が補助し、使用人が支え、父である自分が管理してきた。

 

 

 

その奥へ、聖火は当然のように触れている。

 

 

 

まるで、鍵のかかった部屋の扉を、鍵穴ごと見抜いて開けるように。

 

 

 

優しく。

 

 

 

丁寧に。

 

 

 

だが、あまりにも自然に。

 

 

 

勇海は改めて思う。

 

 

 

この少年は、恩人だ。

 

 

 

そして、恐ろしい存在だ。

 

 

 

そう思ったのは、これが初めてではない。

 

 

 

だが、今それを口にするつもりはなかった。

 

 

 

澪が穏やかな表情をしている。

 

 

 

ならば、今はそれでいい。

 

 

 

やがて、二人を包んでいた光の粒子が、少しずつ薄れていった。

 

 

 

空気に溶けるように消えていく。

 

 

 

最後の一粒が消える頃、聖火は澪の手をそっと離した。

 

 

 

澪はまだ、少しぼんやりとした表情をしていた。

 

 

 

けれど、それは苦しさではない。

 

 

 

深く眠る前のような、穏やかな緩みだった。

 

 

 

聖火は小さく息を吐く。

 

 

 

「……思っていた通り、弱っていますね」

 

 

 

澪は目を伏せる。

 

 

 

「やはり、ですか」

 

 

 

「はい。発作の前兆はありません。ですが、消耗が深いです。身体の芯に疲労が残っています」

 

 

 

聖火は勇海へ視線を向けた。

 

 

 

「しばらくは休ませてください。今日は歩かないこと。部屋の中でも最低限です。明日までは魔法の使用も控えてください」

 

 

 

「分かった」

 

 

 

勇海は短く答える。

 

 

 

聖火は鞄から小さなメモ帳を取り出した。

 

 

 

そして、すぐに書き始める。

 

 

 

一行、二行ではない。

 

 

 

かなり細かい。

 

 

 

薬の種類。

 

量。

 

飲ませる時間。

 

避けるべき組み合わせ。

 

水分の取り方。

 

身体を冷やさないための注意。

 

発作の兆候が出た時の対応。

 

 

 

びっしりと書き込まれていく文字を見て、勇海の眉がわずかに動いた。

 

 

 

聖火は書き終えると、その紙を破り、勇海へ差し出した。

 

 

 

「主治医さんに渡してください」

 

 

 

勇海はメモを受け取る。

 

 

 

「これは」

 

 

 

「用意できる範囲のもので書きました。ホテルでも五輪家でも揃えやすいものを優先しています」

 

 

 

聖火は淡々と言った。

 

 

 

「ただし、俺は医師免許を持っていません。主治医さんにも必ず確認してもらってください。問題がないと判断されたものだけ使えばいいです」

 

 

 

勇海はメモへ目を落とした。

 

 

 

細かい。

 

 

 

だが、乱雑ではない。

 

 

 

処置の意図が分かるように書かれている。

 

 

 

しかも、主治医が確認しやすい形になっていた。

 

 

 

勇海は小さく息を吐く。

 

 

 

「君は、こういうところだけ妙に常識的だな」

 

 

 

「こういうところを雑にすると、本当にヤブ医者になりますから」

 

 

 

「医者ではないのだろう」

 

 

 

「はい。無資格の衛生兵です」

 

 

 

勇海の目が、わずかに細くなった。

 

 

 

衛生兵。

 

 

 

普通の高校生が、冗談で選ぶ言葉ではない。

 

 

 

だが、聖火はそれ以上説明するつもりがないようだった。

 

 

 

澪が小さく笑った。

 

 

 

「聖火さんは、いつもそう言って逃げます」

 

 

 

「逃げていません。資格がないのは事実です」

 

 

 

「ですが、私をここまで回復させてくださったのも事実です」

 

 

 

その言葉に、聖火は一瞬だけ黙った。

 

 

 

勇海は、手の中のメモを見つめる。

 

 

 

五輪家の主治医がこれを見たら、また困惑するだろう。

 

 

 

それが容易に想像できた。

 

 

 

だが、勇海はメモを折らず、そのまま丁寧に懐へしまった。

 

 

 

「分かった。主治医に確認させる」

 

 

 

「お願いします」

 

 

 

聖火は静かに頭を下げた。

 

 

 

「君には深く感謝している」

 

 

 

勇海の声は落ち着いていた。

 

 

 

「澪がこうして日常を取り戻せたのは、君の尽力によるものだ」

 

 

 

聖火はわずかに視線を落とし、控えめに応じる。

 

 

 

「私は医師免許を持たない、いわば無資格の衛生兵です」

 

 

 

「その無資格の衛生兵が、五輪家の主治医を驚かせるほど澪を回復させた」

 

 

 

勇海の言葉には、感謝だけでは表しきれない感情が含まれていた。

 

 

 

警戒。

 

畏敬。

 

そして、父親としての複雑な安堵。

 

 

 

「主治医も今なお首をかしげている。なぜあの処置で、ここまで回復したのか説明がつかないと」

 

 

 

「理由が明確でなくとも、結果が伴っているのであれば十分ではありませんか」

 

 

 

「普通はそういう言い方はしないものだ」

 

 

 

「私は一般的な医師ではありませんので」

 

 

 

「そもそも医師ですらないだろう」

 

 

 

「ですから、無資格の衛生兵なのです」

 

 

 

澪が小さく微笑んだ。

 

 

 

「聖火さんは、いつもそうやってはぐらかしますね」

 

 

 

「はぐらかしているわけではありません。資格を持っていないのは事実です」

 

 

 

「ですが、私が再び歩けるようになるまで回復させてくださったのも事実です」

 

 

 

その言葉を受け、聖火は一瞬だけ言葉を失った。

 

 

 

 

 

 

 

診察を終えた後、三人は用意された紅茶を囲んだ。

 

 

 

澪の前に置かれた菓子は、他の二人よりも少ない。

 

 

 

聖火がそう指示したからだ。

 

 

 

「澪さん」

 

 

 

「はい」

 

 

 

「今日はスコーン一つまでです」

 

 

 

澪はきょとんとした。

 

 

 

「スコーンが、ですか?」

 

 

 

「はい。消化にも体力を使います。食べすぎは駄目です」

 

 

 

「……聖火さん」

 

 

 

「はい」

 

 

 

「本当に、厳しいですね」

 

 

 

「治療経過を見る立場ですから」

 

 

 

勇海が低く笑う。

 

 

 

澪は少しだけ不満そうにしながらも、素直に頷いた。

 

 

 

横須賀の港を見下ろすスイートルーム。

 

 

 

外では、横浜騒乱の余波がまだ残っている。

 

 

 

テレビでは、灼熱のハロウィンという言葉が繰り返されている。

 

 

 

だが、この部屋には、少しだけ別の時間が流れていた。

 

 

 

父として娘を案じる勇海。

 

 

 

車椅子に座りながらも、確かに回復した身体を持つ澪。

 

 

 

そして、その回復をもたらした少年。

 

 

 

感謝。

 

警戒。

 

信頼。

 

叱責。

 

 

 

それらが、紅茶の香りの中に静かに混ざっていた。

 

 

 

澪はカップを手に取り、小さく息を吐く。

 

 

 

「聖火さん」

 

 

 

「はい」

 

 

 

「来てくださって、ありがとうございます」

 

 

 

聖火は一瞬だけ黙り、それから答えた。

 

 

 

「呼ばれましたから」

 

 

 

澪は少しだけ物足りなさそうに見えた。

 

 

 

だが、それ以上は聞かなかった。

 

 

 

勇海も、その表情を見て何も言わなかった。

 

 

 

聞きたいことはある。

 

 

 

確認したいこともある。

 

 

 

だが、今はそれでいい。

 

 

 

娘が笑っている。

 

 

 

発作の前兆はない。

 

 

 

聖火がそう診た。

 

 

 

ならば、今はそれで十分だった。

 

 

 

聖火は紅茶を一口飲み、静かにカップを置いた。

 

 

 

「ただし、澪さん」

 

 

 

「はい」

 

 

 

「次に洋上に出る時は、事前に連絡してください」

 

 

 

「次がある前提なのですね」

 

 

 

「五輪家ですから、ないとは言い切れません」

 

 

 

勇海が苦笑した。

 

 

 

「否定できないのがつらいところだな」

 

 

 

「その時は、準備します」

 

 

 

聖火は澪を見る。

 

 

 

「倒れてから呼ばれるより、倒れないようにする方がずっといいですから」

 

 

 

澪は静かに頷いた。

 

 

 

「はい。今度は、先に連絡します」

 

 

 

その返事は、今度は嘘ではなかった。

 

 

 

聖火にも、それは分かった。

 

 

 

やがて、聖火は席を立った。

 

 

 

「今日はこのあたりで失礼します」

 

 

 

澪が少しだけ顔を上げる。

 

 

 

「もう、お帰りになるのですか」

 

 

 

「澪さんは休む時間です。俺がいると、話してしまうでしょう」

 

 

 

「それは……否定できません」

 

 

 

「なら、今日はここまでです」

 

 

 

聖火は柔らかく言った。

 

 

 

「薬のことは主治医さんに確認してください。今夜は温かくして、早めに休むこと。明日の朝、顔色が悪ければ、また連絡してください」

 

 

 

「はい」

 

 

 

「返事が素直すぎるので、勇海さん」

 

 

 

「分かっている。見張らせる」

 

 

 

「父様」

 

 

 

澪が少し不満そうに言う。

 

 

 

勇海は淡々と返した。

 

 

 

「信用していないわけではない。無理をする前科があるだけだ」

 

 

 

「……反論できません」

 

 

 

聖火は小さく笑った。

 

 

 

「では、失礼します」

 

 

 

澪は静かに頭を下げた。

 

 

 

「聖火さん。来てくださって、本当にありがとうございました」

 

 

 

「呼ばれましたから」

 

 

 

「それだけですか?」

 

 

 

聖火は一瞬だけ黙った。

 

 

 

それから、少しだけ視線を逸らす。

 

 

 

「……心配だったので」

 

 

 

澪は嬉しそうに微笑んだ。

 

 

 

その笑みを見届けてから、聖火は勇海と共に応接スペースを出た。

 

 

 

廊下は静かだった。

 

 

 

五輪家の警備が、一定の距離を保って控えている。

 

 

 

扉が閉まる。

 

 

 

その音を聞いてから、勇海は口を開いた。

 

 

 

「鷹山君」

 

 

 

「はい」

 

 

 

聖火が振り返る。

 

 

 

勇海は、しばらくその少年を見ていた。

 

 

 

娘を救った恩人。

 

 

 

五輪家の主治医を困惑させた無資格の衛生兵。

 

 

 

そして、過去に五輪家で、自分に忘れられないものを見せた存在。

 

 

 

だが、そのことを今ここで語るつもりはなかった。

 

 

 

勇海は静かに言う。

 

 

 

「君は、怪物だ」

 

 

 

聖火は驚かなかった。

 

 

 

怒りもしなかった。

 

 

 

ただ、少しだけ困ったように笑う。

 

 

 

「否定はしません」

 

 

 

「だろうな」

 

 

 

勇海の声は低い。

 

 

 

「だが、少なくとも澪にとっては、恩人でもある」

 

 

 

聖火は、今度は何も返さなかった。

 

 

 

勇海は続ける。

 

 

 

「だから私は、君に感謝している」

 

 

 

「はい」

 

 

 

「そして、警戒もしている」

 

 

 

「正しい判断だと思います」

 

 

 

「そういう返答ができるから、なおさら厄介なのだ」

 

 

 

勇海は小さく息を吐いた。

 

 

 

だが、その声に敵意はなかった。

 

 

 

あるのは、父親としての感謝と、当主としての警戒。

 

 

 

その両方だった。

 

 

 

「澪のことを、これからも頼む」

 

 

 

聖火は一瞬だけ表情を引き締めた。

 

 

 

「できる範囲で」

 

 

 

「君の『できる範囲』は、普通の人間の範囲ではない」

 

 

 

「それも、よく言われます」

 

 

 

勇海は苦笑した。

 

 

 

「やはり、怪物だな」

 

 

 

聖火は今度は答えず、静かに頭を下げた。

 

 

 

「失礼します」

 

 

 

勇海はそれ以上、引き留めなかった。

 

 

 

聖火は五輪家の者に案内され、静かな廊下を去っていく。

 

 

 

勇海はその背中を見送りながら、もう一度だけ思う。

 

 

 

恩人。

 

 

 

そして、怪物。

 

 

 

その両方であるからこそ、五輪家は彼を無視できない。

 

 

 

横須賀の午後は、静かに暮れていく。

 

 

 

海の向こうには、まだ事件の熱が残っている。

 

 

 

扉の向こう、スイートルームの中では、紅茶の湯気がゆっくりと立ち上っていた。

 




この話はいつ出すか悩んでおりました。
このタイミングが一番いいかと思いそうしました。
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