西城レオンハルトには、少しばかり放浪癖があった。
本人はそう呼ばれることを好まない。
散歩だ。
そう言い張る。
だが、夜中にふらりと外へ出て、目的地も決めずに歩き回る行為を、周囲が散歩と呼んでくれるとは限らない。
少なくとも、千葉エリカなら間違いなくこう言うだろう。
「あんた、それ普通に放浪癖よ」
レオ自身も、半分くらいは否定できない。
最近は、聖火に教わった呼吸法の感覚を確かめるため、夜に歩くことが増えていた。
じっとしているより、歩きながら呼吸を整える方が、レオには分かりやすかった。
冬の夜は冷たい。
吐く息は白く、街灯の下を通るたびに自分の影が長く伸びる。
住宅街は静かだった。
昼間なら子供の声が聞こえる公園も、今は薄暗い輪郭を残すだけで、人の気配はほとんどない。
それでも、レオは歩いていた。
理由は特にない。
家にいたくないというほどではない。
眠れないというほどでもない。
ただ、体を動かしている方が落ち着く時がある。
考え事をする時も、じっと座っているより歩いていた方がいい。
今日も、そういう夜だった。
三学期が始まった。
雫は留学した。
代わりに、USNAから金髪の交換留学生がやって来た。
リーナ。
明るく、よく笑う少女だった。
深雪やほのかとも、すぐに打ち解けていたように見えた。
エリカは面白がっていた。
達也は相変わらずだった。
聖火は――。
「……あいつ、何か見てたな」
昼間の食堂での聖火の顔を思い出す。
軽口を叩いていた。
いつも通り笑っていた。
だが、目は笑いきっていなかった。
聖火は時々、そういう顔をする。
何かを見つけた時。
何かを見逃すまいとしている時。
そして、たいていそういう時は、面倒なことが起きる。
「考えすぎか」
レオは小さく呟き、首を回した。
その時だった。
耳の奥で、音がした。
羽音。
虫の羽ばたきのような、細く、ざらついた音。
レオは足を止めた。
「……何だ?」
周囲を見る。
誰もいない。
冬の夜に虫の羽音など、普通なら聞こえるはずがない。
それでも、音は続いていた。
耳元ではない。
頭の奥。
もっと言えば、体の内側を擦るような場所で鳴っている。
不快だった。
ただうるさいのではない。
神経を爪で引っかかれるような、妙な気持ち悪さがある。
レオは眉をひそめた。
「気のせい……じゃねえな」
呼吸を整える。
聖火に教わった呼吸法。
最初は、正直よく分からなかった。
腹で吸え。
吐く方を先に意識しろ。
体の中を通る流れを感じろ。
言葉だけ聞けば、どこかの健康法か精神論みたいだった。
だが、続けているうちに、少しずつ分かってきた。
息を整えると、体の芯がぶれにくくなる。
力を入れる場所と抜く場所が分かる。
疲れた時ほど、呼吸が乱れる。
逆に言えば、呼吸を戻せば、体も戻りやすくなる。
レオはゆっくり息を吐いた。
羽音は消えない。
むしろ、少し近づいた気がした。
視線を巡らせる。
公園。
街灯。
滑り台。
ベンチ。
植え込み。
そして、地面に倒れている人影。
「おい!」
レオはすぐに走り出した。
公園の中に倒れていたのは、男だった。
年齢はよく分からない。
うつ伏せに近い姿勢で倒れている。
酔っ払いか。
病人か。
それとも、何か事件に巻き込まれたのか。
「大丈夫か!」
レオは男へ駆け寄ろうとした。
その瞬間。
背後に、気配が生まれた。
レオは反射的に横へ跳んだ。
直後、何かが空気を裂いた。
風圧が頬をかすめる。
遅れて、切られた髪が数本舞った。
「っ……!」
レオは着地と同時に振り返る。
そこにいたのは、仮面をつけた人物だった。
性別は分からない。
年齢も分からない。
体格は人間のものだ。
だが、立っている気配が妙だった。
生きている人間のはずなのに、生きている感じが薄い。
冷たい。
いや、冷たいとも違う。
空っぽの器の中で、何か別のものが動いているような違和感。
レオは背筋に嫌な汗が流れるのを感じた。
「……何だ、お前」
返事はない。
仮面の人物は、ただレオを見ていた。
見ている。
そう表現するしかない。
だが、その視線に人間らしい感情はほとんどない。
虫の羽音が強くなる。
耳の奥で鳴る。
頭蓋の内側を震わせる。
レオは歯を食いしばった。
「くそ、気持ち悪い音出しやがって」
仮面の人物が動いた。
速い。
考えるより先に、レオの体が反応した。
「パンツァー!」
叫びと同時に、レオの身体を覆うように魔法が発動した。
皮膚の下で、筋肉と骨格を支える見えない装甲が組み上がる。
それは金属の鎧ではない。
だが、衝撃を受け止め、肉体を支え、拳と骨を壊れにくくするための防御だった。
レオの得意とする防御魔法。
肉体そのものを、戦闘用の鎧に変える魔法。
パンツァー。
仮面の人物の一撃が迫る。
レオは腕を上げて受けた。
重い。
衝撃が腕から肩へ抜ける。
防御魔法がなければ、骨ごと持っていかれていたかもしれない。
「っ、重てえな!」
だが、止められる。
なら、殴れる。
レオは踏み込んだ。
「らあっ!」
拳を繰り出す。
仮面の人物も同時に拳を出した。
拳と拳がぶつかる。
パンツァーが衝撃を受け止める。
骨は砕けない。
皮膚も裂けない。
筋肉も耐える。
だが、次の瞬間。
別の何かが、レオの中へ入り込んできた。
いや、違う。
奪われた。
腕から、肩へ。
肩から胸へ。
胸の奥から、全身へ。
自分の中にある熱が、力が、呼吸が、根こそぎ引きずり出されるような感覚。
「がっ……!」
レオの膝が揺れる。
パンツァーは壊れていない。
魔法は機能している。
それなのに、体の奥から力が抜けていく。
防御魔法で固めたはずの肉体が、内側から空洞になっていく。
これは打撃ではない。
衝撃でもない。
痛みですら、まだ表面の問題だった。
もっと深いところを持っていかれている。
生命力を吸われている。
そんな言葉が、なぜか頭に浮かんだ。
普通なら、そんなものは見えない。
感じるはずもない。
だが、分かった。
これは、体力を奪われているのではない。
生きていることそのものへ手を突っ込まれている。
「ふざ、けんな……!」
レオは歯を食いしばった。
膝をつきそうになる。
視界が揺れる。
耳の奥の羽音がさらに強くなる。
吸われる。
抜かれる。
奪われる。
その時、聖火の声が頭の奥で蘇った。
――吸う前に吐け。
何度も言われた言葉だった。
――力が欲しい時ほど、先に吐け。余計な力を抜け。空にしてから入れろ。
レオは無理やり息を吐いた。
肺の中の空気を絞り出す。
苦しい。
だが、吐く。
全部吐く。
体の奥に残った濁ったものまで、押し出すように。
パンツァーで固めた体の内側に、呼吸を通す。
外側は魔法で支える。
内側は呼吸で整える。
そう意識した瞬間、レオの中で何かが噛み合った。
次に吸った息は、冷たかった。
冬の夜の空気が、肺の奥へ入る。
その瞬間、体の芯に細い線が通った。
足裏から腰へ。
腰から背中へ。
背中から肩へ。
肩から拳へ。
呼吸が通る。
血が巡る。
鼓動が跳ねる。
防御魔法で支えられた肉体の中を、別の力が走った。
魔法式ではない。
だが、ただの筋力でもない。
体の奥で生まれた波。
レオ自身にも、それが何かは分からない。
ただ、分かった。
まだ動ける。
仮面の人物が、さらに力を吸い上げようとする。
レオは拳を引かなかった。
逆に、踏み込んだ。
「持っていくんじゃねえ!」
叫びと同時に、拳へ力を込める。
いや、力ではない。
呼吸。
熱。
鼓動。
体の奥で生まれた波。
そして、その波を逃がさないためのパンツァー。
外側を魔法で固め、内側から生命の流れを叩き込む。
その拳を、レオは押し込んだ。
次の瞬間。
ぱぁん、と。
水面を叩いたような音が、夜の公園に響いた。
それは拳の音ではなかった。
魔法の発動音でもなかった。
何かが流れた音だった。
波紋。
レオの拳から、仮面の人物の腕へ、淡い金色の光が一瞬だけ走った。
仮面の人物が、初めて反応した。
声にならない声を上げ、レオから距離を取る。
その動きは先ほどまでと違い、明らかに乱れていた。
レオは追撃しようとした。
だが、足が動かなかった。
パンツァーが解ける。
体を支えていた見えない装甲が、音もなく崩れていく。
反動が一気に来た。
吸われた生命力。
無理やり通した呼吸。
限界を超えて踏み込んだ一撃。
そして、魔法と波紋を無理やり重ねた負荷。
そのすべてが、体へ戻ってきた。
「……っ」
視界が暗くなる。
膝が落ちる。
仮面の人物が、闇の中へ後退していくのが見えた。
追えない。
声も出ない。
倒れていた男がどうなったのかも、もう分からなかった。
最後に聞こえたのは、虫の羽音だった。
遠ざかっているのか。
近づいているのか。
それすら分からない。
レオは地面に倒れた。
冷たい。
冬の地面が、妙に冷たかった。
そこで意識が途切れた。
次に目を覚ました時、最初に見えたのは白い天井だった。
次に、消毒液の匂い。
それから、自分の右手を包む誰かの温もり。
「……レオ?」
声が聞こえた。
聞き慣れた声だった。
千葉エリカ。
いつもなら強気で、遠慮がなくて、少し乱暴で。
けれど今は、ひどく心配そうな声だった。
レオはゆっくり目を動かした。
ベッドの横に、エリカがいた。
その隣には、レオの姉である花耶もいた。
花耶は泣きそうな顔でこちらを見ていた。
「レオ!」
花耶の声が震える。
「……姉貴」
自分の声は、思ったよりかすれていた。
意識が戻る。
それと同時に、体が自分のものだと認識し始める。
そして、痛みが来た。
「っ……が、あ……!」
全身に、一気に痛みが走る。
腕。
肩。
胸。
背中。
腹。
骨の奥。
筋肉の繊維。
呼吸するだけで、体の中が軋む。
「レオ、動かないで!」
エリカが叫ぶ。
花耶も慌ててレオの肩を押さえようとする。
だが、押さえられるまでもなかった。
体に力が入らない。
動こうとしても、動けない。
「何、だよ……これ……」
レオは荒い息を吐いた。
痛い。
ただ殴られた痛みではない。
体の中身を一度ぐちゃぐちゃにされて、無理やり戻されたような痛み。
何かを奪われた後の空っぽさ。
そして、無理やり何かを流した反動。
エリカが唇を噛む。
「こっちが聞きたいわよ。あんた、何があったの」
「……公園」
レオは途切れ途切れに言う。
「倒れてる、人がいて……仮面の、やつが……」
エリカの目が鋭くなる。
「仮面?」
「虫の、音が……」
「虫?」
「羽音みたいな……頭の中で……」
言葉がまとまらない。
記憶も断片的だった。
倒れていた男。
仮面の人物。
拳が重なった瞬間に奪われた生命力。
パンツァー。
呼吸。
聖火の言葉。
そして、あの音。
水面を叩いたような、波が流れる音。
「……俺、何したんだ」
レオは自分の手を見る。
拳には包帯が巻かれていた。
だが、痛みは拳だけではない。
もっと深いところに残っている。
エリカは何かを言いかけて、やめた。
代わりに、花耶が涙をこらえながら言う。
「今は、話さなくていい。お願いだから、休んで」
「姉貴……」
「生きてるだけで十分よ」
その言葉に、レオは反論できなかった。
生きている。
確かに、自分は生きている。
だが、何かに触れた。
触れてはいけないものに触れた。
そして、自分の中で何かが変わった。
それだけは分かった。
エリカはレオの手を強く握った。
「無茶すんじゃないわよ、馬鹿」
いつものような口調だった。
だが、声は少し震えていた。
レオはうっすら笑おうとして、痛みに顔を歪めた。
「……悪い」
「本当に悪いと思ってるなら、今は寝なさい」
「へいへい……」
そう返したところで、レオの意識は一度、再び沈んだ。
痛みと疲労が、体を眠りの底へ引きずり込んでいく。
次に目を覚ました時には、病室の空気が少し変わっていた。
エリカと花耶だけではない。
達也。
深雪。
ほのか。
幹比古。
美月。
見慣れた顔が、病室にそろっていた。
レオは一瞬だけ目を瞬かせた。
「……何だよ。見舞いにしては大人数じゃねえか」
そう軽口を叩くと、エリカに睨まれた。
「病人は黙ってなさい」
「へいへい」
返事だけは軽い。
だが、実際には声を出すだけで胸の奥が軋んだ。
呼吸するたびに肋骨の奥が痛む。
腕も重い。
肩も動かしづらい。
体全体が、鉛を詰められたようにだるかった。
それでも、レオはできるだけ平気な顔を作った。
倒れた時よりは、意識がはっきりしている。
なら、心配している連中の前で、情けない顔は見せたくなかった。
達也たちは、レオが眠っている間にある程度の情報を集めていたらしい。
レオを襲った相手は、最近巷で噂になっている吸血鬼事件の犯人と同じ類の存在だという。
ただし、本当に血を吸う吸血鬼というわけではない。
敵の正体は、パラサイト。
いわゆる妖魔だとか、魔物だとか、そういう言葉で語られる類の存在らしい。
名前の通り、人間に寄生する。
肉体を持たない何かが、人間の体を器として使っている。
レオには、その説明が完全に理解できたわけではなかった。
だが、あの仮面の人物を思い出せば、納得できる部分もあった。
あれは、人間に見えた。
だが、人間そのものではなかった。
生きているはずなのに、生きている感じが薄い。
空っぽの器の中で、別の何かが動いているような違和感。
そう感じた自分の直感は、どうやら間違っていなかったらしい。
幹比古にも調べてもらった。
正確には、幹比古がレオの状態を見てくれた。
その結果、レオはかなりの量の精気――生命エネルギーを吸われていることが分かった。
肉体的な負傷だけではない。
体の奥。
普段なら意識もしないような場所から、力そのものを削られている。
だから、今もこんなにだるい。
だから、痛みだけではなく、体の芯が空っぽになったように感じる。
それでも、ひとつ疑問が残った。
パラサイトはレオと接触しただけで精気を吸えた。
拳が触れ合っただけで、レオの生命力を奪おうとした。
なら、なぜ吸血行為が必要なのか。
わざわざ人間を襲い、血を吸うような真似をする理由は何なのか。
達也たちの話では、そこがまだはっきりしないらしい。
レオは難しい話を聞いているうちに、何度か意識が遠くなりかけた。
正直、今すぐ眠りたかった。
寝てしまえば、痛みもだるさも少しは遠のく。
そう分かっているのに、寝たくなかった。
みんなが来ている。
自分を心配している。
なら、寝ているだけでは悪い気がした。
だから、レオはやせ我慢をした。
「まあ、死んでねえしな」
そう言うと、エリカが一瞬だけ何か言いかけた。
怒鳴られると思った。
馬鹿、と言われると思った。
だが、エリカはそうしなかった。
代わりに、少しだけ目を伏せてから、レオを見た。
「……よく耐えたわね」
短い言葉だった。
レオは思わず、言葉を失った。
エリカが自分を褒めた。
それも、からかいでも皮肉でもなく、本気で。
「何よ、その顔」
「いや……お前が素直に褒めると、明日雪でも降るのかと思って」
「殴るわよ」
「病人をか?」
「治ったら殴る」
「それはそれで怖えな」
軽口を返すと、エリカは少しだけ安心したように息を吐いた。
その顔を見て、レオもようやく分かった。
自分は、思っていた以上に心配をかけたらしい。
花耶もずっと泣きそうな顔をしていた。
ほのかは心配そうに手を握りしめていた。
美月は言葉少なだったが、何かに怯えるようにレオを見ていた。
幹比古はいつもより表情が硬かった。
深雪は静かに見守っていた。
達也はいつも通り無表情だったが、必要なことを確認し、必要な情報を整理しているようだった。
誰も長居はしなかった。
病人を休ませるべきだという判断だったのだろう。
一人、また一人と病室を出ていき、最後にエリカと花耶も席を立った。
「本当に、今度こそ寝なさい」
エリカが言う。
「分かってるって」
「信用できないわね」
「俺、そんなに信用ないか?」
「こういう時のあんたはない」
「ひでえ」
エリカは軽くため息をつき、それから少しだけ声を落とした。
「……無事でよかった」
レオは何も言えなかった。
エリカはそれ以上言わず、病室を出ていった。
花耶も最後まで心配そうに振り返っていたが、看護師に促される形で退室した。
病室には、静けさが戻った。
白い天井。
消毒液の匂い。
一定の間隔で響く機械音。
窓の外は、すでに夜だった。
レオは天井を見上げる。
全身が重い。
痛みもある。
だが、それ以上に眠気が強かった。
今度こそ逆らえなかった。
レオは目を閉じた。
そのまま、深く沈むように眠った。
次に目を覚ましたのは、真夜中だった。
なぜ目が覚めたのか、最初は分からなかった。
病室は暗い。
窓の外には夜の色が広がっている。
廊下から漏れるわずかな灯りだけが、室内の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。
レオはゆっくり息を吸った。
そこで、違和感に気づく。
体が軽い。
さっきまで全身に詰まっていた鉛のような重さが、少し薄れている。
痛みが消えたわけではない。
腕も肩も胸もまだ痛い。
だが、体の奥にあった空っぽの感じが、わずかに埋められていた。
呼吸がしやすい。
胸の奥まで空気が入る。
「……?」
レオは目だけを動かした。
そして、見た。
ベッドの傍らに、いるはずのない人影が立っていた。
鷹山聖火。
夜の病室に、聖火がいた。
白衣を着ているわけではない。
制服でもない。
いつもの軽い笑みを浮かべているわけでもない。
聖火はレオの胸元へ片手をかざしていた。
その掌から、不思議な光がこぼれている。
赤とも金ともつかない、柔らかな光。
炎のようにも見える。
だが、熱くはなかった。
むしろ、冷えた体の奥へゆっくり染み込んでくるような温かさがあった。
「……聖火?」
声はかすれていた。
聖火は顔を上げる。
その表情は、いつものように軽い。
だが、目だけは少し真剣だった。
「やぁ、レオ君」
聖火は小さく笑った。
「ずいぶん無茶したね。全身ボロボロだよ」
「何で……ここに……」
「お見舞い」
「真夜中にかよ」
「昼間は人が多いからね」
「不法侵入って言わねえか、それ」
「言い方の問題かな」
「いや、だいぶ問題だろ」
レオはそう言ってから、小さく咳き込んだ。
胸が痛む。
だが、先ほどよりは呼吸できる。
聖火はレオの胸元にかざしていた手を少し動かした。
光が、淡く揺れる。
「動かない方がいい。まだ体の中がひどい」
「……やっぱ、やべえのか?」
「うん。かなり」
聖火はあっさり言った。
「骨や筋肉の損傷もあるけど、本当にまずいのはそっちじゃない。精気をかなり持っていかれている」
「幹比古も、そんなこと言ってた」
「幹比古くんが見たなら間違いないね」
聖火はレオの腕へ視線を落とす。
「ただ、面白いことも起きている」
「面白い?」
「普通なら、もっと抜かれていた。下手をすれば、目を覚まさなかったかもしれない」
レオは黙った。
軽く言われたが、内容は重い。
「でも、君は最後に押し返している」
「押し返した?」
「うん」
聖火はレオの拳へ視線を向けた。
「パンツァーで外側を固めた。だから腕や拳は壊れなかった。けど、相手が狙ったのは外側じゃない。もっと内側だ」
聖火の掌からこぼれる光が、少しだけ強くなる。
「体の奥。命の流れ。普通の防御魔法じゃ防げない場所を持っていかれた」
レオは、あの瞬間を思い出す。
拳と拳がぶつかった瞬間。
腕から肩へ。
肩から胸へ。
胸の奥から全身へ。
自分の中にある熱が奪われていく感覚。
「でも君は、最後に呼吸を通した」
聖火が静かに言った。
「パンツァーで固めた体の内側に、呼吸を通して、生命の波を流した」
「生命の……波?」
「まだ名前を付ける段階じゃないけどね」
聖火は少しだけ笑う。
「でも、あれは波紋だよ」
その言葉を聞いて、レオは自分の拳を見る。
包帯に巻かれた手。
あの瞬間、水面を叩いたような音がした。
自分の拳から、何かが流れた。
魔法ではない。
だが、魔法とぶつかったわけでもない。
パンツァーで支えた体の中を、呼吸と一緒に何かが通った。
「あれが……」
「うん。君が出した」
聖火は淡々と言った。
「しかも、普通の出方じゃない。魔法と重ねた」
「俺、そんなつもりなかったぞ」
「だろうね。狙ってやったなら、逆に怖い」
「おい」
聖火は少しだけ肩をすくめる。
「ケイシーとは違う。レオ君は魔法師だ」
その言葉に、レオはゆっくり視線を戻した。
聖火の目は真剣だった。
「だから、ケイシーと同じことをする必要はない。君は君の魔法に、呼吸を重ねればいい」
「魔法に、呼吸を……」
「外側をパンツァーで守る。内側を呼吸で整える。そして、拳に生命の波を通す」
聖火はそこで、少しだけ笑った。
「かなり無茶だけど、君には向いているかもしれない」
「褒めてんのか、それ」
「半分くらい」
「もう半分は?」
「呆れてる」
「ひでえ」
軽口を返しながらも、レオはどこかで理解していた。
自分は、何かの入口に立ったのだ。
聖火に教わった呼吸法。
自分の防御魔法、パンツァー。
そして、あの仮面の人物が嫌がった命の波。
それらが、偶然とはいえ一つに重なった。
「……あいつに、効いたのか?」
レオが尋ねる。
聖火は少しだけ目を細めた。
「効いた。少なくとも、嫌がった」
「なら、次はもっとちゃんと殴れるな」
「今の体で言う台詞じゃないね」
聖火は呆れたように言った。
「今は寝ること。動くことも、鍛えることも、考えることも後回し」
「でもよ」
「でもじゃない」
聖火の声が少しだけ硬くなった。
「君はかなり危ないところまで持っていかれている。強がりでどうにかなる状態じゃない」
レオは言い返そうとして、やめた。
聖火の声に、軽口では流せない重さがあった。
「……分かったよ」
「よろしい」
聖火は再び手をかざした。
柔らかな光が、レオの胸元から全身へゆっくり広がっていく。
痛みは消えない。
だが、呼吸は少しずつ楽になっていった。
冷えきっていた体の奥に、かすかな熱が戻ってくる。
「これ、治してんのか?」
「応急処置だよ。失ったものを全部戻すことはできない。でも、これ以上崩れないように整えることはできる」
「十分すげえよ」
「そう言ってくれるなら、ありがたく受け取っておく」
聖火は少しだけ笑った。
その笑顔は、いつもより少し疲れて見えた。
「聖火」
「何?」
「お前、何でそんなことできるんだ?」
聖火はすぐには答えなかった。
光だけが、静かに揺れている。
「昔、そういう仕事をしていたから」
短い答えだった。
それ以上聞くな、という響きも少しだけあった。
レオは目を閉じかけて、また開いた。
「……ありがとな」
聖火は目を瞬かせた。
それから、小さく笑った。
「どういたしまして」
眠気が戻ってくる。
今度の眠気は、さっきまでとは違った。
体が勝手に落ちていくようなものではない。
少しだけ、安心して眠れる感覚だった。
レオの視界がぼやける。
聖火の姿も、光も、少しずつ滲んでいく。
最後に聞こえたのは、聖火の声だった。
「おやすみ、レオ君。次に起きた時は、もう少し楽になっているよ」
レオは返事をしようとした。
だが、声にはならなかった。
代わりに、小さく息を吐く。
吸う前に吐け。
そう教えられた通りに。
そして、眠りに落ちた。
夜の病室には、虫の羽音はもう聞こえなかった。
聖火は治療については制限をかけませんので。
レオのイメージがこういう人間なので、この文章を採用しました。