その日の放課後、部活連本部には鷹山聖火だけが残っていた。
偶然なのか。
あるいは、誰かがそうなるように調整したのか。
そのあたりは分からない。
少なくとも、普段なら数人は残っているはずの部屋には、今は聖火一人しかいなかった。
机の上には、使い終わった書類が数枚。
片づけられた湯飲み。
そして、聖火が開いたままにしている古い資料の写し。
部活連本部というより、どこか資料室のような空気になっていた。
聖火は椅子に座り、端末と紙の資料を交互に見比べていた。
紙の方には、手書きの文字が並んでいる。
現代の日本語ではない。
崩れた筆記体。
古い言い回し。
英語とも日本語ともつかない注釈。
普通の高校生なら、見ただけで読む気をなくすだろう。
聖火はそれを、特に苦もなく読み進めていた。
「……やっぱり、似てるな」
小さく呟く。
西城レオンハルトが襲われた。
ただの暴行ではない。
ただの魔法犯罪でもない。
生命力を直接削られていた。
幹比古の見立ては正しい。
そして昨夜、聖火自身もそれを確認した。
レオの体は、外側よりも内側の損傷がひどかった。
精気。
生命エネルギー。
そう呼ぶしかないものが、かなり持っていかれていた。
問題は、なぜそんな真似をしたのか、だ。
接触で奪えるなら、血を吸う必要はない。
だが、巷で噂になっている事件は吸血鬼と呼ばれている。
人を襲い、血を吸うような行為をしている。
そこには何か意味がある。
聖火が資料の一ページに目を落とした時だった。
部屋の扉が開いた。
「鷹山」
低い声。
十文字克人だった。
その隣には、七草真由美もいる。
生徒会長と部活連会頭。
第一高校の生徒側組織における、実質的な二枚看板。
その二人が揃って部活連本部に現れた。
聖火は資料から顔を上げる。
「お疲れさまです、十文字先輩、七草先輩」
「少し時間をもらう」
十文字は端的に言った。
聖火は二人を見て、すぐに頷いた。
「どうぞ。座ってください」
「話が早いわね」
七草が微笑む。
「お二人が揃って来た時点で、軽い雑談ではないでしょうから」
聖火は立ち上がり、棚の方へ向かった。
「紅茶でいいですか?」
七草が少し意外そうに目を瞬かせる。
「淹れてくれるの?」
「はい。話が長くなりそうなので」
「まだ何も言っていないのだけど」
「十文字先輩の顔が、長くなる話の顔をしています」
十文字は眉を動かした。
「どんな顔だ」
「真面目な顔です」
「普段の俺は真面目ではないのか」
「いえ、普段から真面目です。今日はさらに真面目です」
七草が小さく笑った。
「聖火くん、十文字くん相手でも本当に遠慮しないわね」
「尊敬はしていますよ」
「遠慮は?」
「必要な時にします」
「今は?」
「紅茶を淹れるので、平和な時間です」
聖火はさらりと答え、手早く紅茶の準備を始めた。
湯を注ぐ音。
茶葉が開く香り。
部屋の空気が、少しだけ柔らかくなる。
さらに聖火は、小皿にクッキーを並べて二人の前に置いた。
「どうぞ」
「準備がいいな」
十文字が言った。
「こうなるとは思っていましたから」
その一言で、空気が少しだけ変わった。
七草がカップに手を伸ばしながら、表情を引き締める。
「なら、話も早そうね」
聖火は自分の分の紅茶を置き、二人の向かいに腰を下ろした。
十文字が口を開く。
「西城の件だ」
「はい」
「巷で話題になっている吸血鬼事件と関係があると見ている」
「でしょうね」
聖火の返事は短かった。
七草が目を細める。
「否定しないのね」
「否定できる材料がありません」
聖火はカップを手に取った。
「レオくんは精気をかなり吸われていました。普通の打撃や魔法攻撃とは違います。あれは肉体の外側ではなく、内側を持っていく類のものです」
十文字の表情が険しくなる。
「やはり、普通の魔法犯罪ではないか」
「普通ではありません」
聖火ははっきり言った。
「それで、俺に何を?」
十文字は真正面から聖火を見た。
「協力を要請する」
聖火は少しだけ目を細めた。
七草が言葉を継ぐ。
「学校側としても、吸血鬼事件を完全に無視するわけにはいかないわ。しかも、今回は第一高校の生徒が襲われている」
「レオくんですね」
「ええ」
十文字は低く言った。
「西城が襲われた以上、お前が黙っているとは思えん」
聖火は紅茶を一口飲んだ。
それから、静かに笑う。
「買いかぶりですよ」
「違うな」
十文字は即答した。
「お前は動く。放置できる性格ではない」
「それは、褒めています?」
「危ういと言っている」
「手厳しいですね」
聖火は肩をすくめた。
七草が柔らかく言う。
「だから、勝手に動かれる前に、こちらから話を通した方がいいと判断したの」
「なるほど」
聖火はカップを置いた。
その表情から、軽さが少し消える。
「では、こちらからも確認させてください」
二人の視線が聖火へ向く。
聖火は机の上に置いていた古い資料へ手を伸ばした。
「古式魔法の界隈では、パラサイトという存在が一部で共有されています。お二人は、どこまでご存じですか?」
「パラサイト」
七草がその単語を繰り返す。
「寄生体、という意味ね」
「はい」
十文字は腕を組んだ。
「名前だけは聞いたことがある。だが、実在を前提に語られるものではない。古い伝承や妖魔譚の一種として扱われることが多いはずだ」
「その認識で間違っていません」
聖火は頷いた。
「妖魔。魔物。悪霊。吸血鬼。そういった名前で記録されてきたものの中に、パラサイトと思われる存在が混ざっています」
「つまり、今回の吸血鬼事件もその一種だと?」
七草の問いに、聖火は少しだけ間を置いた。
「可能性は高いです」
そう言って、聖火は一冊の薄い冊子を十文字へ差し出した。
写本だった。
印刷ではない。
古い文献を写し取ったものを、さらに製本し直したような資料だ。
十文字はそれを受け取る。
「準備がいいのだな」
「こうなるとは思っていましたから」
聖火は先ほどと同じ答えを返した。
七草が目を細める。
「いつから?」
「レオくんが襲われた時点で」
「それは、ずいぶん早いわね」
「吸血鬼という噂。精気の吸収。人間らしくない気配。条件が揃いすぎています」
聖火は端末を操作した。
すぐに、十文字と七草の端末へ資料が送信される。
「今、お二人の端末に現代日本語へ翻訳したものを送りました」
十文字が端末を確認する。
七草も同じように画面へ視線を落とした。
「後で達也君にも送ろうと思っていたものです。多分、達也君にも要請するのでしょう?」
七草が小さく笑う。
「そこまで読まれているのね」
「達也君を外して話が進むとは思えませんから」
十文字は端末の画面を見ながら尋ねた。
「これは?」
「十九世紀後半に、ある実業家が残した手記です」
「実業家?」
「はい。表向きは事業家として知られていた人物ですが、裏では異能者たちとの戦いに関わっていたようです」
七草の眉がわずかに動く。
「異能者たちとの戦い?」
「その記録です。魔法師という言葉が一般化する以前の、異能者、怪人、妖魔と呼ばれた者たちとの接触記録。その中に、パラサイトと思われる存在もいたのです」
十文字は冊子を開く。
古い文章が並んでいた。
翻訳前の写本は、かなり読みづらい。
七草は端末の翻訳文を追っている。
聖火は静かに言った。
「二十二ページ目です」
二人の視線が、同時に端末へ移った。
そこには、変異した人間が特定の人間を襲い、吸血行為のようなものを行ったという記録があった。
血を吸われた者は、単に衰弱するだけではなかった。
精神状態に変化が生じる。
嗜好が変わる。
人格の一部が変質する。
そして最終的には、襲った者と似た思考を持つようになった、と記されている。
七草の表情から笑みが消えた。
「これは……」
十文字も端末を見つめたまま黙っている。
聖火は二人を見て、静かに問いかけた。
「吸血鬼に噛まれると、どうなると思いますか?」
七草が答える。
「一般的な伝承なら、死ぬ。あるいはアンデッドになる」
「そういう説もあります」
聖火は頷いた。
「ですが、この文書を読む限りでは少し違います」
「どう違う」
十文字が問う。
聖火は指先で資料の一文を示した。
「同じ思考を持った吸血鬼になる。正確には、同じ意思に引っ張られる、と言った方が近いかもしれません」
七草が息を呑む。
「つまり、吸血鬼は仲間を増やそうとしている?」
「可能性として、です」
聖火は断定を避けた。
「まだ確証はありません。ただ、パラサイトが接触だけで精気を吸えるなら、血を吸う行為そのものには別の意味があるはずです」
「寄生を広げるためか」
十文字が言う。
「あるいは、器を増やすため」
聖火は答えた。
「肉体を持たない存在が、人間を器として利用する。もしそうなら、吸血行為は栄養補給ではなく、侵食や同調のための手段かもしれません」
七草は端末の文章をもう一度読み返した。
「同じ思考を持つ、というのは危険ね」
「はい」
聖火の声は低かった。
「単に襲われるだけなら、被害者で済みます。でも、襲われた人間が次の加害者になるなら、話が変わる」
十文字の目が鋭くなる。
「感染に近いな」
「そう見た方が安全です」
聖火は言った。
「ただし、病原体の感染ではありません。精神、精気、情報、魔法的な接続。そういったものを介した寄生と考えるべきです」
「対処法は?」
十文字が問う。
聖火は少しだけ沈黙した。
それから、紅茶を一口飲む。
「器を止めるだけなら、魔法師でもできます」
「本体は?」
「そこが問題です」
聖火は資料を閉じた。
「本体が肉体の中にいる何かなのか。肉体に張り付いた情報体なのか。あるいは、宿主の精神に根を下ろすものなのか。それによって対処が変わります」
七草が静かに言った。
「聖火くんなら、対処できるの?」
「できます」
即答だった。
十文字と七草の目が聖火へ向く。
聖火は軽く笑った。
「ただし、条件が整えば、です。無条件に何でもできるわけではありません」
「その条件とは?」
「相手の状態を把握すること。宿主がまだ戻れる状態であること。そして、周囲に余計な被害を出さないこと」
聖火は指を一本ずつ折る。
「最後が一番難しいですね」
十文字はしばらく黙っていた。
そして、低く言う。
「鷹山」
「はい」
「協力要請と言ったが、これは同時に警告でもある」
聖火は表情を変えなかった。
「無断で動くな、ですか?」
「そうだ」
十文字は真正面から言った。
「西城が襲われた。お前が怒っていることも分かる。だが、相手がパラサイトと呼ばれる存在なら、単独行動は危険だ」
「心配してくれているんですね」
「管理していると言った方が正確だ」
「十文字先輩らしい言い方です」
七草がため息をつく。
「聖火くん、茶化さないの」
「すみません」
聖火は素直に謝った。
だが、その声は軽かった。
七草は少しだけ目を細める。
「あなた、本気で危険だと思っているわね」
聖火は笑みを消した。
「はい」
短い返答だった。
部屋の空気が、一段重くなる。
「正直に言えば、レオくんが生きていたのは運が良かった。もちろん、パンツァーと呼吸法のおかげでもあります。でも、相手がもう少し慣れていたら、持っていかれていたかもしれない」
「持っていかれる、とは?」
十文字が問う。
聖火は少しだけ視線を落とした。
「命、あるいは中身です」
七草が息を詰める。
「……つまり、死ぬだけでは済まない可能性がある?」
「あります」
聖火は否定しなかった。
「だからこそ、情報が必要です。相手が何を目的にしているのか。吸血行為が何のためなのか。誰を狙っているのか。どこまで増えているのか」
十文字は端末の資料をもう一度見た。
「この手記の情報は、他にもあるのか」
「あります。ただ、使えるものと使えないものが混ざっています。十九世紀の記録ですから、誤認や迷信も多い」
「それでも、手がかりにはなる」
「はい」
聖火は頷いた。
「だから、お二人に渡しました」
七草が問う。
「達也くんにも送るのね?」
「はい。達也君は、俺とは別の角度で読むでしょうから」
「別の角度?」
「俺は古式魔法や妖魔譚として読みます。達也君は、もっと構造的に読むと思います。情報体、精神干渉、魔法式との関係。そのあたりを見てくれるはずです」
十文字は納得したように頷いた。
「適任だな」
「でしょう?」
聖火は少しだけ笑った。
その笑顔を見て、七草は小さく息を吐く。
「聖火くん」
「はい」
「あなた、もう動くつもりでしょう」
「協力要請を受けましたから」
「そういう意味ではなくて」
七草の声が少しだけ厳しくなる。
「一人で、という意味よ」
聖火は黙った。
その沈黙が、答えだった。
十文字の声が低く響く。
「駄目だ」
「まだ何も言ってません」
「言う前から分かる」
「信頼されていますね」
「信用していない」
「ひどい」
「お前の能力ではなく、行動を信用していない」
聖火は苦笑した。
「そこまで言われると、反論しづらいですね」
七草も表情を緩めない。
「西城くんが襲われたことで、あなたが動きたくなるのは分かるわ。でも、今回の相手は普通ではない。あなた一人で抱えるべきではない」
聖火はクッキーへ手を伸ばした。
一枚取って、口に運ぶ。
「美味しいですね、これ」
「聖火くん」
「分かっています」
聖火はクッキーを飲み込んでから、二人を見た。
「一人で抱えるつもりはありません」
十文字が目を細める。
「本当だな」
「少なくとも、今回は」
「今回は、という言い方が信用ならん」
「十文字先輩、厳しいですね」
「お前が言わせている」
七草が少しだけ笑った。
だが、すぐに表情を戻す。
聖火は机の上の資料を整えた。
「では、協力要請は受けます。ただし、条件があります」
「何だ」
十文字が問う。
「レオくんを無理に遠ざけないでください」
七草が眉をひそめる。
「被害者を巻き込むつもり?」
「逆です」
聖火は首を横に振った。
「レオくんはもう接触しています。吸われる感覚も、反撃した感覚も覚えている。本人を蚊帳の外に置けば、勝手に動きます」
十文字も七草も、否定しなかった。
レオならやる。
その認識は三人とも一致していた。
「だから、管理下に置くべきです。無茶をさせるのではなく、無茶をしないように見える場所へ置く」
「こちらで監視しろ、ということか」
「十文字先輩がそう言ってくれると助かります」
十文字は聖火をじっと見た。
「最初からそれを狙っていたな」
「半分くらいは」
「残り半分は?」
「レオくんが心配だからです」
その答えは、軽くなかった。
十文字はしばらく黙る。
やがて、短く頷いた。
「検討する」
「ありがとうございます」
七草が端末の資料を閉じた。
「吸血鬼事件、パラサイト、十九世紀の手記、レオくんの状態……整理することが多いわね」
「長くなると言ったでしょう?」
聖火は微笑んだ。
七草はカップを持ち上げる。
「だから紅茶とクッキーだったのね」
「はい。重い話には糖分が必要です」
十文字がクッキーを一枚取った。
「悪くない」
「でしょう?」
聖火は少し得意げに言った。
部活連本部に、わずかな静けさが戻る。
だが、それは穏やかなだけの静けさではなかった。
吸血鬼。
パラサイト。
精気を奪われた後輩。
吸血行為による仲間の増殖。
どれも、軽く扱える話ではない。
それでも聖火は、紅茶を淹れ、クッキーを出し、軽口を挟みながら話を進めていた。
七草はその姿を見て、ふと理解する。
この少年は、場を軽くしているのではない。
重さに押し潰されないよう、わざと軽く振る舞っているのだ。
十文字も、おそらく同じことに気づいている。
だから、それ以上は咎めなかった。
聖火はカップを置き、机の上の写本に指を添えた。
「さて」
その声は、先ほどまでより少しだけ低かった。
「問題は、次に誰が噛まれるかです」
十文字と七草の表情が引き締まる。
放課後の部活連本部。
紅茶の香りが残る静かな部屋で、来訪者たちが運び込んだ異変は、確かに輪郭を持ち始めていた。
先に言っておくとレオの復帰が原作より早くなります。
十文字兄貴頼りになるぜ
聖火はあえて黙ってましたが、七草の関係者が被害を受けていることを感ず居ています。