空港は再開していた。
だが、平常に戻ったわけではない。
ロビーには兵の姿があり、窓の外には軍用車両が並んでいる。
人々の声は低い。
誰もが沖合に残る黒煙を見ないふりをしていた。
沖縄はまだ、戦場の匂いを完全には拭い切れていない。
ラウンジの一角に、四葉深夜は座っていた。
窓際の席。
人の流れから少し離れた場所。
手元には、湯気の薄れた紅茶が置かれている。
だが、彼女はそれに一度も口をつけていなかった。
背筋は伸びている。
表情も崩れていない。
だが、顔色は悪い。
休んでいる、というより、倒れないために座っているように見えた。
少し離れた売店の方では、深雪が陳列棚を見上げていた。
その隣には達也がいる。
そして、もう一人。
桜井穂波が、二人に付き添うように立っていた。
まだ万全ではない。
歩き方にも、ほんのわずかにぎこちなさが残っている。
それでも彼女は、深雪のそばにいた。
当然のように。
守るべきものの隣に立つことが、自分の居場所だと言うように。
深夜はその姿を見て、何も言わなかった。
穂波が生きている。
歩いている。
深雪の隣にいる。
それだけで、十分だった。
少なくとも今は。
「相席、いいか」
声がした。
深夜は顔を上げた。
いつの間にか、対面の席に黒い外套の少年が立っていた。
鷹山聖火。
深夜は数秒だけ彼を見た。
そして、静かに言った。
「許可した覚えはありません」
「断るのか」
「断れば、立ち去るのですか」
「いや」
「なら聞く意味がありませんね」
「一応の礼儀だ」
「あなたに礼儀を名乗られると、礼儀の方が気の毒です」
聖火は特に気にした様子もなく、対面の椅子を引いた。
深夜が止める前に、彼はそこへ座る。
「顔色が悪いな」
「あなたの顔を見たからでしょう」
「俺の顔は便利だな。覚醒剤にもなり、悪化要因にもなる」
「医療倫理に反します」
「君に言われると重いな」
深夜の視線が、わずかに冷えた。
聖火は構わず、テーブルの上の紅茶を見る。
「飲まないのか」
「余計なお世話です」
「冷めている」
「あなたと違って、温度くらい弁えています」
「それだけ言えれば、今すぐ倒れることはないな」
「診察しないでください」
「見れば分かる」
「本当に、不愉快な方」
「よく言われる」
しばらく沈黙が落ちた。
ラウンジの外では、人々が小さな声で話している。
出発案内の音声が流れ、どこかで子供が泣いていた。
その声だけが、妙にはっきりと聞こえた。
深夜は視線だけを売店の方へ向ける。
深雪が何かを手に取り、穂波に見せている。
穂波は少し困ったように微笑み、それから達也へ視線を送った。
達也は表情を変えない。
だが、深雪の手元を見て、短く何かを答えていた。
それは、戦場ではなかった。
少なくとも、その一角だけは。
「穂波を」
深夜が静かに言った。
聖火は何も言わずに待った。
「よく、あそこまで戻しましたね」
「戻したというほど綺麗な処置じゃない」
「ですが、歩いています」
「歩けるようにしただけだ。しばらく無理はできない」
「それでも、あの子は深雪の隣に立つでしょう」
「だろうな」
聖火は売店の方を見た。
「仕える相手を守って倒れる奴は、だいたいそういう顔をしている」
「経験談ですか」
「嫌になるほどな」
深夜は何も言わなかった。
穂波が生きていること。
歩いていること。
深雪の隣に立っていること。
それは、深夜にとって喜ばしいことのはずだった。
だが、素直に安堵するには、あまりにも多くのものが絡みすぎていた。
穂波は、深雪を守った。
達也を守った。
そして、死ぬはずだった。
あるいは、死ぬつもりだった。
それを、目の前の少年が拾った。
真夜を拾った時と同じように。
深夜は紅茶のカップへ視線を落とした。
湯気はもう消えている。
飲む気はなかった。
ただ、視線の置き場所としてそこにあるだけだった。
「あなたは、私を責めないのですね」
聖火は答えなかった。
深夜は続ける。
「真夜にしたことを、です」
聖火は数秒だけ深夜を見た。
「責めてほしいのか」
「そういうわけではありません」
「なら、ちょうどいい」
「理由を聞いているのです」
「君が真夜にしたことを責めるつもりはない」
深夜の指が、わずかに動いた。
「責めないのですか」
「ああ」
「なぜ」
「状況を知らないからだ」
聖火は短く答えた。
「俺が見たのは結果だけだ。真夜は壊れていた。だが、立っていた。君の処置が何を救い、何を壊したのか、俺はすべてを知っているわけじゃない」
深夜は薄く笑った。
そこには、自嘲が混じっていた。
「それでも、あなたは分かるのでしょう」
「何が」
「私が、真夜を変えてしまったことくらい」
「変えたな」
聖火は認めた。
深夜は目を伏せた。
「……随分とはっきり言うのですね」
「嘘を言う理由がない」
「では、私の治療は間違いだったと?」
聖火はすぐには答えなかった。
深夜はその沈黙を見た。
胸の奥が、少しだけ冷える。
やはり、そうなのだろう。
この男は、真夜を壊さずに救った。
自分は、真夜を生かすために壊した。
そこには、どうしても越えられない差がある。
深夜はその差を、ずっと見ないふりをしてきた。
いや、違う。
見ないふりなど、できなかった。
だからこそ、この男の治療を拒んだ。
彼に治されれば、自分の間違いを認めることになると思った。
彼に救われれば、真夜を救えなかった自分だけが取り残されるように思えた。
「綺麗な治療ではなかった」
聖火が言った。
深夜は静かに目を伏せる。
「知っています」
「正しかったとも言わない」
「……でしょうね」
「だが、間違いではない」
深夜の呼吸が、止まった。
空港の喧騒が、少し遠のいたように感じた。
聖火は続ける。
「治療は、いつも綺麗なものじゃない。切れば傷が残る。薬を使えば副作用が出る。骨を繋いでも、元通りに動くとは限らない」
聖火は淡々と言った。
「命を拾う処置は、奇跡じゃない。損傷と代償の交換だ」
深夜は何も言えなかった。
「君は真夜を元通りにはできなかった」
その言葉は、静かに深夜へ届いた。
深夜は目を閉じる。
知っている。
そんなことは、誰よりも自分が知っている。
「だから、生きられる形にした」
深夜の睫毛が、わずかに震えた。
「私は、あの子の心を壊しました」
「壊れた心を、そのまま放置すれば死ぬこともある」
聖火の声は静かだった。
「戦場ではよくある」
「ここは戦場ではありません」
「それでも、君は戦場医療をやった」
深夜の目が揺れた。
「道具も足りない。時間も足りない。正解も分からない。支えてくれる者もいない。その中で、妹を死なせなかった」
「私は……」
「正しかったとは言わない」
聖火は繰り返した。
「だが、間違いでもない」
深夜はしばらく何も言わなかった。
ラウンジの外では、人の流れが続いている。
出発を待つ者。
帰る者。
怪我人を見舞う者。
兵に付き添われて歩く者。
それぞれが、それぞれの場所へ戻っていく。
けれど深夜だけは、そこから動けないでいた。
ようやく、口を開く。
「では、私は赦されるのでしょうか」
「それは俺が決めることじゃない」
即答だった。
深夜は薄く笑った。
「でしょうね」
「真夜が決めれば済む話でもない」
深夜は聖火を見る。
「では、誰が?」
「誰か一人が決めて終わる話じゃない」
聖火は言った。
「君と真夜の間に残るものだ」
「残るのですね」
「ああ」
聖火は頷く。
「残る。残っていい」
深夜の目が、わずかに揺れた。
「蟠りが?」
「蟠りも、痛みも、後悔もだ」
「……」
「それが残っているから、全部が間違いだったということにはならない」
深夜は何も言わなかった。
聖火は続けた。
「処置の痕は残る。傷痕も残る。時々痛む。それでも、その処置が命を繋いだなら、間違いとは言わない」
深夜の横顔から、力が少しだけ抜けた。
救われた、というほどではない。
安心した、というにも遠い。
ただ、長い間握りしめていたものを、ほんの少しだけ緩めたような顔だった。
「あなたは」
深夜は言った。
「本当に、不愉快なことを言いますね」
「よく言われる」
「慰める気がない」
「ない」
「赦す気もない」
「俺にそんな権利はない」
「責める気もない」
「責めてほしいのか」
深夜は少しだけ沈黙した。
「いいえ」
「なら、ちょうどいい」
深夜は小さく笑った。
疲れた笑みだった。
だが、病室で見せた笑みよりは、少しだけ柔らかかった。
売店の方で、深雪がこちらを振り返った。
聖火と目が合う。
深雪は少し迷ったあと、小さく会釈した。
聖火も軽く顎を引く。
それだけだった。
深雪はすぐに達也と穂波の方へ戻っていった。
深夜はその様子を見ていた。
「深雪は、あなたを怖がっていないようですね」
「怖がらせた覚えはない」
「あなたは、そのつもりがなくても人を怖がらせます」
「それは困ったな」
「困っているようには見えません」
「慣れている」
深夜は小さく息を吐いた。
「真夜も、あなたを忘れないでしょうね」
「忘れてくれた方が楽だがな」
「無理です」
深夜は即答した。
「あなたは、真夜の過去を燃やしたのではありません」
聖火は深夜を見た。
深夜は静かに続ける。
「真夜の中に、燃え残りを残したのです」
聖火はしばらく黙った。
そして、小さく息を吐いた。
「嫌な言い方だな」
「あなたほどではありません」
「それはどうも」
また沈黙が落ちる。
今度の沈黙は、先ほどより少しだけ穏やかだった。
深夜は紅茶のカップに手を伸ばした。
もう冷めている。
それでも、一口だけ口をつけた。
「冷めていますね」
「言っただろう」
「ええ。不愉快なほど正確でした」
「飲めるなら良好だ」
「診察しないでください」
「癖だ」
深夜はカップを置いた。
その手は、まだ少しだけ震えていた。
だが、先ほどよりも力は入っている。
「穂波を」
聖火は何も言わずに待った。
深夜は一度だけ目を伏せる。
「穂波を生かしたことだけは、礼を言います」
「“だけ”か」
「それ以上を望まないでください」
「十分だ」
深夜は椅子から立ち上がろうとはしなかった。
まだ、そこまで回復していない。
それを認めるのは不快だったが、今は立つ必要もなかった。
聖火は先に席を立つ。
「もう少し座っていろ」
「指図ですか」
「診断だ」
「なおさら不愉快です」
「よく言われる」
聖火は歩き出す。
その背中へ、深夜の声が届いた。
「鷹山聖火」
聖火は足を止めた。
「何だ」
「真夜に近づきすぎないでください」
「それは君の願いか、四葉の命令か」
「どちらでもあります」
「なら、どちらも聞く義理はないな」
深夜は薄く笑った。
「でしょうね」
「だが」
聖火は少しだけ振り返る。
「真夜が呼ばない限り、こちらから踏み込む気はない」
深夜の表情が、わずかに変わった。
「約束ですか」
「方針だ」
「信用できませんね」
「なら、見張っていろ」
「言われずとも」
「やっぱり、四葉の女は面倒だな」
深夜は静かに言った。
「聞こえています」
「聞こえるように言った」
「本当に不愉快です」
「良好だ」
「何がですか」
「悪態のキレが戻ってきた」
深夜は何も返さなかった。
ただ、ほんの少しだけ肩が揺れた。
笑ったのか、呆れたのか。
聖火には分からなかった。
それでいいと思った。
空港の窓の外で、沖縄の空は少しずつ青さを取り戻していた。
だが、戦場の臭いはまだ残っている。
傷は消えない。
蟠りも消えない。
それでも、生きている者は進むしかない。
聖火は、白いロビーの中を一人歩いていった。
真夜は小さな箱を開いた。
中には、赤い羽根が一枚だけ収められている。
炎のように赤く、血のように深く、それでいて不思議なほど温かい羽根。
あの夜、炎の中で渡されたもの。
今では、何度も使ってきた。
四葉がクローバーへ直接連絡を取る時。
表に出せない依頼を渡す時。
あるいは、通常の通信網を通せない話をする時。
真夜はこの羽根を、専用端末に触れさせる。
ただ、それだけでいい。
赤い羽根は通信機ではない。
聖火へ繋がるための鍵だ。
真夜はいつものように、羽根を端末の上へかざした。
画面が一瞬だけ乱れる。
通常回線の表示が消え、赤い紋様が浮かび上がった。
火の鳥の羽ばたきにも、燃え残った火種にも見える紋様だった。
数秒後、端末から声がした。
『真夜か』
「ええ」
真夜は静かに答えた。
「お忙しいところ、失礼します」
『その言い方をする時は、だいたい面倒事だな』
「否定はしません」
『今回はもう十分面倒だったと思うが』
「だから確認しているのです」
端末の向こうで、聖火が小さく息を吐いた気配がした。
映像はない。
声だけだった。
真夜は、それで十分だった。
「沖縄の件、報告は受けています」
『なら、俺から言うことは少ないな』
「私が聞きたいのは、報告書に書かれないことです」
少しだけ沈黙があった。
やがて聖火が答える。
『全員、生きている』
真夜の指が、羽根の縁に触れた。
「そうですか」
『深夜は悪態をつける。穂波は歩ける。深雪ちゃんは泣かなかった。達也は撃った』
「簡潔ですね」
『必要な情報だけだ』
「あなたらしい」
真夜は目を伏せた。
深夜が生きている。
穂波が生きている。
深雪が無事でいる。
達也が役目を果たした。
報告としては、それだけで十分だった。
だが、それだけで終わる話ではないことも、真夜には分かっていた。
「達也さんには、何か言いましたか」
『少しだけ』
「何を?」
『命を奪うことに迷わないなら、命を救うことにも迷うな、と』
真夜は、わずかに目を細めた。
「厳しいことを言いますね」
『俺に言えることは、それくらいだ』
「達也さんは、どう受け取りましたか」
『黙っていた』
「なら、届いています」
『そうか』
「ええ。あの子は、届かない言葉には反応しません」
聖火はしばらく黙っていた。
真夜も急かさなかった。
赤い羽根は、端末の上で微かに熱を持っている。
それは通信の熱なのか、記憶の熱なのか。
真夜には、今でも時々分からなくなる。
「それで」
真夜は言った。
「あなたはこれから、どうするのですか」
『クローバーの活動は、しばらく休む』
「理由を聞いても?」
『潮時だ』
「便利な言葉ですこと」
『便利だから使った』
真夜は小さく笑った。
『今回の件で、俺の名前を聞いた者が増えた。軍も、四葉も、外の連中も、クローバーを探し始める』
「こちらで情報は抑えられます」
『君ならできるだろうな』
「では、なぜ」
『抑えられることと、火種が残らないことは違う』
真夜は答えなかった。
その言葉は、少しだけ別のものにも聞こえた。
火種。
燃え残り。
赤い羽根。
あの夜から、真夜の中に残り続けているもの。
『それに』
聖火の声が、少しだけ低くなる。
『一度、実家に帰る』
「実家」
真夜はその言葉をゆっくりと繰り返した。
「あなたにも、帰る場所があるのですね」
『今はな』
「今は?」
『帰る場所は、放っておくと帰れなくなる』
真夜は黙った。
その言葉には、聖火自身に向けた響きがあった。
二十年以上、クローバーとして動いてきた男。
四葉の依頼だけではない。
国の影に関わる仕事。
民間では処理できない事件。
誰が依頼したのかも残らない案件。
聖火は、その多くを拾ってきた。
そして、そのたびに少しずつ、帰る場所から遠ざかっていたのかもしれない。
「いつ戻りますか」
『分からない』
「四葉としては、困りますね」
『君個人としては?』
真夜はすぐには答えなかった。
赤い羽根を見つめる。
炎の夜。
抱えられた腕。
燃えていく施設。
自分を人間として扱った、化け物の声。
あれから年月が経っても、羽根はまだ温かい。
「私個人としても」
真夜は静かに言った。
「少し困ります」
端末の向こうで、聖火が黙った。
真夜は続ける。
「あなたは、勝手に現れて、勝手に人を拾って、勝手に去っていく」
『悪い癖だな』
「ええ。不愉快です」
『深夜にも似たようなことを言われた』
「姉さんは正直ですから」
『君も十分正直だ』
「そう見えますか」
『少なくとも、今は』
真夜は小さく息を吐いた。
笑ったのか、自分でも分からなかった。
「連絡は取れるのですか」
『その羽根があれば、呼びかけは届く』
「呼びかけは?」
『応じるかは別だ』
「不便ですね」
『便利すぎるものは危ない』
「あなたがそれを言いますか」
『だから言う』
真夜は赤い羽根を指先で撫でた。
「では、必要な時は使います」
『使いすぎるなよ』
「二十年以上使ってきて、今さらですか」
『二十年以上使ってきたから言っている』
「説得力はありますね」
『珍しく素直だな』
「気のせいです」
聖火は小さく笑ったようだった。
真夜は少しだけ声を落とす。
「あなたが帰る場所を失わないことは、祈っておきます」
聖火は答えなかった。
沈黙が流れる。
端末の赤い紋様が、わずかに揺れた。
『祈りは専門外だ』
「知っています」
『だが、受け取っておく』
「ええ」
真夜は羽根を見つめた。
「では、聖火さん」
『何だ』
「また会えますか」
あの夜と同じ問いだった。
炎の中で、ストレッチャーに乗せられながら問うた言葉。
二十年以上前から、真夜の中に残っている問い。
答えは、あの時と同じだった。
『ああ』
聖火は迷わず答えた。
『また会える』
真夜は目を閉じた。
「では、その時まで」
『ああ』
通信が切れる。
端末の赤い紋様が消えた。
羽根の熱も、少しずつ引いていく。
真夜は赤い羽根を小さな箱へ戻した。
蓋を閉じる前に、ほんの一瞬だけ指を止める。
クローバーはしばらく消える。
鷹山聖火は実家へ帰る。
それでも、赤い羽根はここに残る。
炎の夜の燃え残りとして。
そして、いつかまた繋がるための目印として。
真夜は静かに箱の蓋を閉じた。
追憶編は以上で終了となります。
お気に入り登録していただいた方々、まことにありがとうございます。
次回からは入学編と言いたいところですが、少し数話ほどオリジナル話を入れていきたいと思います。
具体的には聖火が本当の意味で子供に戻った後の話になります。
そして司波家(父親は除く)との交流(という名の嫌がらせ)がメインになります。
鷹山家の話も少しするかもしれません。
今後ことよろしくお願いします