魔法科高校の劣等生 四葉の火の鳥   作:ペンギン豚

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美月とレオが大活躍する話です。
なんと聖火が一切出てこないという異常事態です。


来訪者編7 覚醒の時

 

 

本郷未亜。

 

マクシミリアン・デバイス日本支社のセールスエンジニア。

 

そう名乗った若い女性が第一高校に現れたことで、事件は再び動き始めた。

 

最初に異変に気づいたのは、レオだった。

 

廊下ですれ違った瞬間、胸の奥が冷えた。

 

それは痛みではない。

 

恐怖とも違う。

 

だが、あの夜に感じたものとよく似ていた。

 

虫の羽音。

 

耳の奥で鳴る、不快な音。

 

人間の姿をしているのに、人間ではない何かが近くにいる時の感覚。

 

レオは、それを忘れていなかった。

 

そして、もう一人。

 

柴田美月も、同じものを別の形で見ていた。

 

「……今の人」

 

美月が小さく呟いた。

 

隣を歩いていた幹比古が、すぐに反応する。

 

「柴田さん?」

 

「何か、見えました」

 

美月は未亜が去っていった廊下の奥を見つめていた。

 

「普通の人の光じゃないです。外側は人間みたいなのに、中の方に、薄い膜みたいなものが重なっていて……」

 

美月は言葉を探す。

 

彼女の目に見えるものは、いつも説明しづらい。

 

霊子放射光。

 

魔法師の身体から漏れる情報の光。

 

それとは違う、もっと薄く、もっと不快な揺らぎ。

 

「さっき、その膜が少し剥がれたように見えました」

 

「剥がれた?」

 

エリカが眉をひそめる。

 

幹比古の表情が変わる。

 

「学校の結界かもしれない」

 

「結界?」

 

レオが聞き返す。

 

幹比古は頷いた。

 

「第一高校には、外部からの侵入や異常な魔法的干渉を監視するための結界が張られている。もちろん、完全な防壁じゃないけど、異質なものが入れば多少は反応する」

 

「つまり、あの女が学校に入ったせいで、偽装が剥がれたってこと?」

 

エリカの声が低くなる。

 

「可能性はある」

 

幹比古は慎重に言った。

 

「結界そのものが正体を暴いたわけじゃない。でも、偽装に負荷をかけた。だから、プシオン波が漏れたんだと思う」

 

レオは拳を握った。

 

「じゃあ、あいつが……」

 

「まだ断定はできない」

 

幹比古が止める。

 

「でも、追う価値はある」

 

その時、美月が一歩前に出た。

 

「私も行きます」

 

三人の視線が、美月へ向く。

 

エリカが少し驚いた顔をした。

 

「美月?」

 

「私、見えます」

 

美月の声は震えていた。

 

だが、その目は逃げていなかった。

 

「怖くないわけじゃありません。でも、見えるなら、役に立てるかもしれません」

 

「柴田さん」

 

幹比古が言葉を失う。

 

美月は静かに続けた。

 

「いつも、皆さんに守ってもらってばかりです。でも、今回は……私も、皆さんを支えたいです」

 

その言葉に、レオは少しだけ目を見開いた。

 

美月は普段、控えめだ。

 

自分から危険へ踏み込むような性格ではない。

 

だからこそ、その一言には重みがあった。

 

エリカはしばらく美月を見つめ、それから小さく笑った。

 

「分かった。でも、無茶はしないこと」

 

「はい」

 

「幹比古、美月のサポートお願い」

 

「分かった」

 

幹比古は頷く。

 

「柴田さんが見たものを、僕の精霊で補足する。気配を拾えれば追えるかもしれない」

 

「俺は?」

 

レオが尋ねる。

 

エリカは即答した。

 

「あんたはまず無茶しない」

 

「そればっかりだな」

 

「それだけ心配されてるってことよ」

 

レオは少しだけ口を尖らせたが、反論はしなかった。

 

胸の奥に、まだ冷えは残っている。

 

だが、今度は逃げるための冷えではなかった。

 

進むための警戒だった。

 

すぐに連絡が回された。

 

発信機の信号。

 

学校の結界によって発生したと思われるプシオン波。

 

外部業者として入った本郷未亜。

 

それらの情報が重なり、動くべき対象は絞られた。

 

エリカとレオは、すぐにCADを取りに向かった。

 

だが、そこで当然のように揉めた。

 

「許可のないCADの持ち出しは認められません」

 

保管室の職員は、はっきりとそう告げた。

 

「緊急なんです」

 

エリカが食い下がる。

 

「緊急であっても、規則は規則です。正式な申請がなければ――」

 

「その正式な申請を待っていたら、間に合わないかもしれないんですけど」

 

エリカの声が低くなる。

 

職員は困ったように眉を寄せた。

 

相手が千葉家の令嬢であっても、学校の管理規則を破るわけにはいかない。

 

職員の判断は正しい。

 

正しいが、今は正しさだけでは間に合わない。

 

レオは横で拳を握っていた。

 

焦りが胸の奥を叩く。

 

あの女。

 

本郷未亜。

 

彼女の中にいた、虫の羽音のような気配。

 

今動かなければ、また誰かが襲われるかもしれない。

 

「頼む。俺のCADだけでも――」

 

「駄目です」

 

職員の返答は変わらなかった。

 

その時、背後から低い声が響いた。

 

「責任は俺が取る」

 

全員が振り返る。

 

十文字克人が、そこに立っていた。

 

職員の顔色が変わる。

 

「十文字君……」

 

「非常事態だ。部活連会頭として、CADの一時持ち出しを要請する」

 

「しかし、規則上――」

 

「正式な報告書は後で提出する」

 

十文字は一歩前へ出た。

 

大声ではない。

 

威圧的に怒鳴ったわけでもない。

 

だが、その声には逆らいがたい重さがあった。

 

「この場で許可を出さなかった場合、発生する被害について、あなたが責任を負えるのか」

 

職員は言葉を失った。

 

それは脅しではなかった。

 

責任の所在を明確にしただけだ。

 

だが、十文字克人が言うと、その言葉は重い。

 

第一高校の部活連会頭。

 

十師族、十文字家の次期当主。

 

そして、今まさに事件の対処に動いている中心人物。

 

職員はしばらく迷い、やがて深く息を吐いた。

 

「……一時持ち出しです。使用後、即座に返却してください」

 

「感謝する」

 

十文字は短く頷いた。

 

エリカはすぐに自分のCADを受け取る。

 

レオも自分のCADを手にした。

 

手に馴染む重さ。

 

それだけで、少しだけ呼吸が整う。

 

エリカが小声で言った。

 

「十文字先輩、助かりました」

 

「礼は後でいい」

 

十文字はすでに視線を現場の方へ向けている。

 

「急ぐぞ」

 

「はい」

 

レオはCADを握りしめた。

 

今度は、ただ襲われるだけでは終わらない。

 

そう自分に言い聞かせながら、エリカ、十文字とともに現場へ向かった。

 

第一高校の敷地内。

 

実習棟へ続く搬入口では、マクシミリアン・デバイス日本支社のスタッフが測定器の搬入準備を進めていた。

 

大きなケース。

 

専用台車。

 

職員との確認。

 

業者としての動きに不自然な点はない。

 

その中に、本郷未亜はいた。

 

彼女は端末を手に、搬入予定を確認している。

 

表情は穏やかだった。

 

外から見れば、ただの技術者。

 

だが、美月の目には違って見えた。

 

「……います」

 

美月が小さく言った。

 

「やっぱり、あの人です」

 

エリカたちは、搬入口から少し離れた物陰に身を潜めていた。

 

正面から問い詰めるには、まだ証拠が弱い。

 

だが、ただ見逃すには違和感が強すぎる。

 

幹比古は美月の視線を頼りに、未亜の位置を確認する。

 

「間違いない?」

 

「はい」

 

美月は小さく頷いた。

 

顔色は少し悪い。

 

それでも、目を逸らしていない。

 

「人の形に見えます。でも、中に重なっているものが……普通じゃありません」

 

「分かった」

 

幹比古は指先を動かした。

 

目には見えない小さな精霊たちが、風に紛れるように未亜の周囲へ広がっていく。

 

普通の人間には分からない。

 

虫よりも小さく、風よりも薄い気配。

 

幹比古の精霊が、未亜の周りを取り囲む。

 

その時だった。

 

別の方向から、リーナが現れた。

 

彼女は足早に搬入口へ向かっていた。

 

普段の明るい笑みはない。

 

表情には緊張がある。

 

一高の中で、異常なプシオン波を感じた。

 

その反応を追ってここまで来たのだ。

 

マーキュリーから、マクシミリアン・デバイス日本支社のスタッフが測定器搬入で一高に来ることは聞いていた。

 

その中にミアがいることも知っている。

 

だからこそ、リーナは嫌な予感を覚えた。

 

何かが起きたのではないか。

 

ミアが巻き込まれたのではないか。

 

そう思って駆けつけた。

 

そして、未亜の姿を見つけた瞬間、リーナの表情が変わった。

 

「ミア!」

 

未亜が顔を上げる。

 

「リーナ……?」

 

二人の視線が交わる。

 

リーナの表情に浮かんだのは、敵意ではなかった。

 

安堵。

 

心配していた相手が無事だったことへの、素直な安堵だった。

 

「よかった。無事だったのね」

 

「ええ。どうしたの、リーナ?」

 

「この辺りで、異常なプシオン波を感じたの」

 

リーナは周囲を見回す。

 

「あなたたちの搬入予定は聞いていたから、何かあったのかと思って」

 

「私は大丈夫よ」

 

未亜は穏やかに微笑んだ。

 

「ただの搬入作業。予定通りよ」

 

「そう……」

 

リーナは小さく息を吐いた。

 

だが、その安心は長く続かなかった。

 

物陰から二人を見ていたエリカの目が鋭くなる。

 

「……何よ、あれ」

 

レオも眉を寄せた。

 

「知り合いみたいだな」

 

「知り合いどころじゃないでしょ。名前で呼び合ってるし、あの感じ、かなり親しいわよ」

 

エリカの声には、明らかな警戒が混ざっていた。

 

幹比古も表情を硬くする。

 

「リーナが事情を知っているかどうかは、まだ分からない」

 

「でも、あの女と親しげに話してる」

 

エリカは低く言った。

 

「それだけで十分怪しいわ」

 

美月は二人を見ていた。

 

いや、正確には未亜を見ていた。

 

ミアと呼ばれた女性は、リーナと自然に会話している。

 

表情も、声も、人間らしい。

 

だが、その内側にあるものが違う。

 

美月の目の奥が痛んだ。

 

こめかみが締めつけられる。

 

見続けるほどに、気分が悪くなる。

 

それでも、美月は目を逸らさなかった。

 

「……リーナさんは、たぶん知らないと思います」

 

「美月?」

 

エリカが振り返る。

 

美月は苦しそうに息を吸った。

 

「リーナさんの光は、安心しています。ミアさんを心配していたみたいです。でも、あの人の中にあるものを知っているようには見えません」

 

「見えるの?」

 

「はっきりとは……でも、そう感じます」

 

エリカは一瞬だけ黙った。

 

だが、すぐに未亜へ視線を戻す。

 

「でも、今は止めるしかないわね」

 

その瞬間、未亜が何気ない仕草で肩のあたりを払った。

 

まるで、目に見えない虫を追い払うような動作だった。

 

それだけだった。

 

だが、幹比古の表情が変わる。

 

「確定だ」

 

「今ので?」

 

エリカが問う。

 

「あの精霊は、普通の人間には分からない。魔法師でも、よほど敏感でなければ気づかない。でも、彼女は反応した」

 

幹比古は未亜を見据えた。

 

「ミアという人は、普通じゃない」

 

十文字は短く言った。

 

「やるぞ」

 

その一言で、全員の空気が変わった。

 

エリカが刀へ手をかける。

 

レオがCADを握り直す。

 

美月は未亜を見続ける。

 

幹比古は印を結んだ。

 

「閉じる!」

 

古式魔法が発動する。

 

未亜とリーナを中心に、目に見えない結界が展開された。

 

視覚遮断。

 

音声遮断。

 

外からは、そこに何も起きていないように見える。

 

内側の声は外へ漏れない。

 

外側の人間には、彼女たちの姿も騒ぎも認識しづらくなる。

 

リーナは突然変化した空気に目を見開いた。

 

「えっ?」

 

未亜も周囲を見回す。

 

その瞬間、エリカが飛び出した。

 

奇襲。

 

迷いのない踏み込み。

 

「行くわよ!」

 

抜刀と同時に、エリカの刃が未亜へ向かった。

 

リーナが叫ぶ。

 

「待って!」

 

だが、エリカは止まらない。

 

リーナから見れば、それは突然の襲撃だった。

 

自分が安否を確認していた相手へ、エリカがいきなり斬りかかったようにしか見えない。

 

「エリカ、何を――!」

 

しかし、未亜は避けなかった。

 

素手を上げた。

 

そして、エリカの刀を受け止めた。

 

金属音が響く。

 

「なっ……!」

 

エリカの目が見開かれる。

 

刃を、素手で。

 

あり得ない。

 

だが、未亜の手は確かに刀を掴んでいた。

 

皮膚が裂ける。

 

血が滲む。

 

それでも、彼女は痛みに反応しない。

 

リーナの顔から血の気が引いた。

 

「ミア……?」

 

今の動きは、彼女の知っているミアのものではない。

 

未亜の表情は変わらない。

 

痛みも恐怖もない。

 

ただ、器の奥で別の何かが動いている。

 

エリカは歯を食いしばる。

 

「だったら、これはどう!」

 

彼女は刀を引き抜き、角度を変えて突きを放った。

 

狙いは胸。

 

一瞬の隙を突いた、迷いのない一撃。

 

刃が未亜の胸を貫いた。

 

リーナが息を呑む。

 

「ミア!」

 

美月も身を強張らせる。

 

レオも目を見開いた。

 

普通なら、その場で倒れてもおかしくない。

 

だが、未亜は倒れなかった。

 

胸に開いた傷が、泡立つように塞がっていく。

 

肉が戻る。

 

血が引く。

 

裂けた服の奥で、肉体だけが異常な速度で修復されていく。

 

リーナは言葉を失った。

 

「そんな……」

 

それは驚きだった。

 

恐怖でもあった。

 

そして、何よりもショックだった。

 

自分が知っているミアが、そんなことをできるはずがない。

 

胸を貫かれて、何事もなかったように傷を塞ぐなど、人間の身体ではない。

 

「ミア……本当に……?」

 

リーナは、その場から動けなかった。

 

エリカは横目でリーナを見る。

 

その表情に、さっきまでの疑念とは別の色が混ざった。

 

リーナは知っていたのではない。

 

知らなかったのだ。

 

今、目の前で思い知らされた。

 

その顔だった。

 

エリカは小さく舌打ちする。

 

「……そういうこと」

 

誤解が完全に解けたわけではない。

 

だが、少なくともリーナがこの異常を知っていて平然としていたわけではない。

 

それだけは分かった。

 

美月は未亜を見続けていた。

 

目の奥が痛い。

 

こめかみが締めつけられる。

 

胃のあたりが冷たくなる。

 

本能が、見るなと告げている。

 

あれは、人の目で見続けていいものではない。

 

だが、美月は目を逸らさなかった。

 

逸らせば、分からなくなる。

 

分からなくなれば、皆に伝えられない。

 

皆が戦っている。

 

エリカが斬り込んだ。

 

レオが拳を構えている。

 

幹比古が結界を張っている。

 

十文字が場を支えている。

 

なら、自分も逃げるわけにはいかない。

 

「見ます」

 

美月は小さく、しかしはっきりと言った。

 

「私が、見続けます」

 

幹比古が隣で息を呑む。

 

「柴田さん」

 

「大丈夫です」

 

声は震えていた。

 

だが、美月の視線は未亜から外れない。

 

「私が見ていないと、見失います」

 

幹比古は一瞬だけ迷い、それから頷いた。

 

「分かった。なら、僕が守る」

 

その言葉に、美月はほんの少しだけ頷いた。

 

怖い。

 

痛い。

 

気持ち悪い。

 

それでも、美月は未亜の中の異物を見続けた。

 

レオの胸の奥で、何かが鳴った。

 

虫の羽音ではない。

 

それとは違う。

 

もっと深く。

 

もっと熱い。

 

呼吸が変わる。

 

吸う前に吐け。

 

教わった言葉が、脳裏に蘇った。

 

レオは息を吐いた。

 

深く。

 

長く。

 

体の内側に残っていた冷えを、外へ押し出すように。

 

それから吸う。

 

空気が肺に入る。

 

胸を通る。

 

腹へ沈む。

 

そして、拳へ向かう。

 

レオ自身も気づいた。

 

音が違う。

 

ただの呼吸音ではない。

 

水面に波紋が広がるような、低く澄んだ振動。

 

体の内側を、何かが流れている。

 

エリカが振り返った。

 

「レオ……?」

 

その音は、結界の中にいる者たちにも聞こえていた。

 

「この音は何?」

 

エリカが思わず問いかける。

 

幹比古も目を見開く。

 

「これは……精気?」

 

「違う」

 

レオは低く言った。

 

自分でも、完全には分かっていない。

 

だが、分かることもある。

 

これは、奪われるものではない。

 

自分の中に通すものだ。

 

パンツァーで外側を固める。

 

呼吸で内側を整える。

 

そして、拳に生命の波を通す。

 

あの夜、無意識にやったこと。

 

今度は、自分の意思でやる。

 

未亜が、いや、その中のパラサイトが反応した。

 

本能か。

 

危機感か。

 

それとも、自分たちを傷つける波を感じ取ったのか。

 

未亜の顔が歪む。

 

彼女は一歩下がった。

 

逃げようとしている。

 

レオは、それを見た。

 

「逃がすかよ」

 

次の瞬間、レオの姿が消えた。

 

いや、消えたように見えた。

 

それまでのレオからは考えられない速度だった。

 

パンツァーが発動する。

 

外側を固める魔法。

 

だが、今のそれは以前とは違う。

 

硬いだけではない。

 

内側を通る呼吸が、魔法の硬さに命の流れを重ねている。

 

レオの拳が、未亜の胸へ向かう。

 

心臓。

 

狙ったのか。

 

本能か。

 

それとも、あの夜に奪われかけた命が、相手の急所を覚えていたのか。

 

レオ自身にも分からなかった。

 

ただ、そこしかないと思った。

 

「パンツァー――」

 

拳に、黄金の波動が宿る。

 

それは光ではない。

 

魔法の光でもない。

 

だが、確かに見えた。

 

美月には、はっきりと見えた。

 

レオの拳から、水面に広がる輪のような金色の揺らぎが放たれている。

 

「ファウスト!」

 

レオの拳が、未亜の胸を打ち抜いた。

 

鈍い衝撃音。

 

未亜の身体が大きく仰け反る。

 

同時に、その奥にいた何かが悲鳴を上げた。

 

声ではない。

 

音でもない。

 

だが、全員の神経を逆撫でするような、不快な震えだった。

 

パラサイトが怯んだ。

 

初めて、明確に。

 

エリカが目を見開く。

 

「効いた……?」

 

幹比古も驚きに息を呑む。

 

「精気を奪う側が、生命の波に打たれた……?」

 

レオの拳は確かに届いた。

 

黄金の波動は、未亜の肉体ではなく、その奥に潜む何かを打った。

 

虫の羽音のような不快な気配が、一瞬だけ乱れる。

 

未亜の身体が大きく仰け反った。

 

だが、倒れない。

 

彼女はゆっくりと顔を上げた。

 

その瞳が、レオを見た。

 

人間の目ではなかった。

 

痛みに怒る目ではない。

 

恐怖に怯える目でもない。

 

自分を傷つけた異物を観察する、底の見えない目。

 

「くそ、まだ動けるのかよ」

 

レオは息を荒げながら拳を構え直した。

 

胸の奥が熱い。

 

だが、同時に重い。

 

今の一撃で、体の内側を流れていた波が大きく乱れている。

 

もう一度同じ拳を放てるかと問われれば、すぐには無理だった。

 

未亜が動く。

 

ゆっくりと。

 

だが、確実に。

 

彼女の身体が、こちらへ向かって一歩を踏み出そうとした。

 

その時だった。

 

「だったら、これならどうかしら?」

 

澄んだ声が、結界の内側へ響いた。

 

次の瞬間、未亜の周囲に冷気が押し寄せた。

 

空気が白く凍る。

 

地面が霜に覆われる。

 

未亜の足元から氷が一気に伸び上がり、その身体を絡め取った。

 

腕。

 

胸。

 

肩。

 

首。

 

そして頭部。

 

瞬きする間もなく、未亜の肉体は透明な氷の中に閉じ込められた。

 

圧倒的な冷気。

 

精密で、容赦のない凍結魔法。

 

結界の内側へ、司波深雪が姿を現した。

 

その隣には、司波達也もいる。

 

達也は周囲を一瞥し、状況を確認した。

 

深雪は凍りついた未亜を見つめ、静かに息を吐く。

 

「間に合いましたね」

 

エリカが目を丸くした。

 

「深雪……達也くんも」

 

幹比古も驚きながら、結界を維持する手を止めない。

 

「どうやって中に……」

 

「結界の構造は見えていた」

 

達也は短く答えた。

 

それだけで説明は十分だった。

 

リーナは氷の中の未亜を見つめていた。

 

その顔は、普段の明るさを完全に失っている。

 

達也はリーナへ視線を向けた。

 

「リーナ。知り合いのようだが、こちらで預からせてもらうぞ」

 

リーナはすぐには答えなかった。

 

唇を噛み、凍りついた未亜を見る。

 

ミア。

 

日本に来ていることは知っていた。

 

一高へ来ることも知っていた。

 

だが、こんな姿になっているとは知らなかった。

 

本来なら、自分が守るべきだったのかもしれない。

 

あるいは、自分がもっと早く気づくべきだったのかもしれない。

 

だが、もうこの場を自分だけで制御することはできない。

 

リーナは小さく息を吸った。

 

「……分かったわ」

 

その言葉が終わるか終わらないかの瞬間だった。

 

氷の奥で、未亜の目が光った。

 

「!」

 

達也が反応する。

 

同時に、空間が裂けた。

 

未亜の周囲に、黒い亀裂のようなものが走る。

 

それは物理的な裂け目ではない。

 

空間そのものに傷が入ったような、異様な裂け目だった。

 

そこから、稲妻のような光が放たれる。

 

雷撃。

 

一本は十文字へ。

 

もう一本は深雪へ向かった。

 

十文字は即座に前へ出た。

 

「ぬん!」

 

彼の前面に展開された防壁が、雷撃を受け止める。

 

空気が震え、衝撃が結界の内側に響いた。

 

深雪へ向かった雷撃は、達也が処理した。

 

彼は深雪の前へ半歩出る。

 

右手がわずかに動く。

 

次の瞬間、雷撃は空中で霧散した。

 

分解。

 

魔法式ごと、跡形もなく消し飛ばされた。

 

だが、それで終わりではなかった。

 

凍りついた未亜の内部から、不快な音が響き始めた。

 

虫の羽音。

 

低く、高く、耳の奥を削るような音。

 

氷の中で、未亜の肉体が小刻みに震える。

 

いや、震えているのは肉体だけではない。

 

その奥にいた何かが、器を捨てようとしている。

 

美月の目に、黒く薄い影のようなものが見えた。

 

それは未亜の胸の奥から、ゆっくりと剥がれ始めている。

 

皮膚でもない。

 

血でもない。

 

肉体でもない。

 

もっと奥に貼りついていたものが、器から離れようとしていた。

 

「見えます……!」

 

美月の声が震えた。

 

視界が滲む。

 

目の奥が焼けるように痛い。

 

こめかみが脈打つ。

 

それでも、美月は瞬きすら惜しむように見続けた。

 

「パラサイトが……肉体を捨てています!」

 

その言葉と同時に、未亜の身体が内側から光を放った。

 

「まずい!」

 

達也の声が飛ぶ。

 

次の瞬間、氷ごと未亜の肉体が爆ぜた。

 

爆発音は、幹比古の結界によって外へは漏れなかった。

 

だが、結界の内側では、白い閃光と衝撃が走る。

 

凍りついていた肉体。

 

氷の檻。

 

未亜という器。

 

それらは一瞬で砕け、跡形もなく消えた。

 

残されたのは、肉体の残骸ですらなかった。

 

氷の破片すら、細かな霧のように散っていく。

 

リーナは言葉を失った。

 

「ミア……」

 

声は、ほとんど音にならなかった。

 

目の前にいたはずの知人が、消えた。

 

捕らえられたのではない。

 

倒されたのでもない。

 

自らの肉体を捨てるように、消滅した。

 

だが、その瞬間。

 

美月だけが、爆ぜた肉体の奥から抜け出すものを見ていた。

 

薄い影。

 

黒く、形の定まらないもの。

 

音もなく、しかし虫の羽音のような不快な振動だけを撒き散らしながら、パラサイト本体が飛び出した。

 

「パラサイトが……来ます!」

 

美月が叫んだ。

 

それは逃げるのではなく、突っ込んできた。

 

狙いは、美月。

 

自分を見た者。

 

自分の姿を捉えた者。

 

それを排除しようとするかのように、黒い影が美月へ向かって一直線に飛ぶ。

 

幹比古が即座に前へ出た。

 

「柴田さん!」

 

彼は美月を背に庇い、両手で印を結ぶ。

 

古式魔法の防壁が展開された。

 

見えない壁。

 

だが、霊的なものを拒むための壁。

 

パラサイトがそこへぶつかった。

 

甲高い音が響く。

 

金属音でも、ガラスの割れる音でもない。

 

魂の表面を擦るような、不快な音。

 

幹比古の顔が苦痛に歪む。

 

「ぐっ……!」

 

防壁が軋む。

 

パラサイトはなおも突き進もうとする。

 

美月は息を呑む。

 

自分を守るように立つ幹比古の背中が、少し震えている。

 

だが、彼は退かなかった。

 

「これ以上、近づけさせない!」

 

幹比古は防壁でパラサイトを弾き返した。

 

黒い影が一瞬だけ宙に押し戻される。

 

「右上です!」

 

美月が叫ぶ。

 

幹比古は即座に反応した。

 

美月の視線が追っている。

 

なら、そこにいる。

 

幹比古は迷わず術式を組み替えた。

 

剣を模したサイオンの塊が、彼の前に形成される。

 

それは実体を持つ刃ではない。

 

肉体を斬るための剣でもない。

 

情報体に干渉するための、古式魔法による霊的な刃。

 

「はあっ!」

 

幹比古がそれを放つ。

 

サイオンの剣が、美月の示した方向へ飛ぶ。

 

黒い影が大きく歪んだ。

 

虫の羽音が、悲鳴のように跳ねる。

 

効いている。

 

だが、浅い。

 

パラサイトは完全には止まらなかった。

 

サイオンの剣を振り払うように身を捩り、結界の端へ向かう。

 

美月は痛みをこらえながら、その動きを追った。

 

「結界の端へ……逃げます!」

 

幹比古がさらに術を重ねようとする。

 

だが、間に合わない。

 

「くそっ!」

 

パラサイトは結界の裂け目へ滑り込むように逃げた。

 

その気配が、急速に遠ざかっていく。

 

虫の羽音も、少しずつ薄れていった。

 

美月はその瞬間まで、視線を逸らさなかった。

 

完全に見えなくなったところで、ようやく膝から力が抜ける。

 

「柴田さん!」

 

幹比古が慌てて支える。

 

美月は荒い息を吐きながら、小さく言った。

 

「……逃げられました」

 

悔しさの混じった声だった。

 

ただ怯えた声ではない。

 

最後まで見届けた者の声だった。

 

幹比古は悔しそうに唇を噛む。

 

「ごめん。止めきれなかった」

 

「違う」

 

十文字が低く言った。

 

「お前が防いだ。柴田を守った。それで十分だ」

 

幹比古は何も言えなかった。

 

美月は、彼の背中を見つめる。

 

怖かった。

 

今もまだ、足が震えている。

 

だが、自分が見たから分かった。

 

パラサイトが肉体を捨てた瞬間。

 

逃げる方向。

 

狙われた理由。

 

自分は、ただ守られていただけではなかった。

 

友達を助けるために、見た。

 

その事実が、美月の胸に残っていた。

 

レオは、自分の拳を見下ろしていた。

 

パンツァーファウスト。

 

今はまだ、完全な技ではない。

 

一撃で倒すには足りなかった。

 

それでも、パラサイトは確かに怯んだ。

 

あの黄金の波は、届いた。

 

レオは小さく息を吐く。

 

「次は、もっと深く打ち込む」

 

エリカが横目で見る。

 

「その前に、ちゃんと回復しなさい」

 

「分かってるって」

 

「その返事が信用できないのよ」

 

いつものやり取りだった。

 

だが、そこに少しだけ安堵が混ざっていた。

 

深雪は、未亜が消えた場所を見つめていた。

 

達也は周囲の魔法的痕跡を確認している。

 

リーナは、何も言わない。

 

ただ、先ほどまで未亜がいた場所を見ていた。

 

知り合い。

 

同じ国から来た者。

 

一高へ来ることも、搬入作業に関わることも知っていた者。

 

だが、今はもうそこにはいない。

 

肉体すら残さず、自爆によって消えた。

 

その事実が、彼女の表情から言葉を奪っていた。

 

第一高校の結界内で起きた短い戦闘は、完全な勝利では終わらなかった。

 

ミアの肉体は失われた。

 

そして、パラサイト本体も逃した。

 

それでも、得たものはあった。

 

美月は自分の意思で友達を支えた。

 

幹比古はその美月を守った。

 

レオの拳は、パラサイトに届いた。

 

そして、逃げた敵の正体は、もう誰の目にも明らかだった。

 

虫の羽音は、まだ遠くに残っている。

 

だが、その音に対抗できる力もまた、確かに芽生え始めていた。

 




レオを強くしたら絶対にやりたかった場面です。

美月も今回でガンギマリし始めます。

次回は聖火が何をしていたかから始まります。
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